3. また、逃げられましたね、とファニエルは呟いた。 彼は、天界でも珍しい”星渡り”という力を持っている。 時間と空間を越えて、相手に干渉できる力。 しかし、何度試しても、エルスという名の女の”消滅”を止めることは出来ない。 魂を失った彼女の肉体は、やがて新たな”魔王ルシフェルの欠片”の器となり、堕天の女王・ルイ・サイファーを降臨させてしまう。 「いくら未熟とはいえ、魔女と精神界でやりあうのは些か部が悪い」 物憂げにファニエルは執務室の椅子から立ち上がる。彼の”星渡り”は不完全なもので、過去に飛ばせるのは精神だけだ。 また、干渉できる時間や場所も酷く限られていた。 いかに、アクリエルの頼みといえど、一度付いた道筋をそう易々と変えられるものではない。 「現在覚醒したルシフェルの欠片は二つ…。 万が一、二人の魔王が手を結んだら、天界にとっても脅威になりえる…か」 丸い窓から天界を見下ろす。 瑪瑙色の雲海に、透き通った枝が幾重にも伸びて、その上に建つこの”時間律の塔”を支えている。 まるで、枝に咲いた小さな花のようだ。 その脆くも美しい景色に、ファニエルは皮肉な笑みを刻んだ。 「さて、もう一つの”お願い事”ぐらいは、叶えて差し上げますか…」 *** 薔薇園に座った少女は、大人しく青年の帰りを待っていた。 「さぁ、そなたの服だ。それに食べ物もある」 青白い頬をほんの僅か上気させた青年は、淡い薔薇色の美しいドレスを広げた。 果物やパン、葡萄酒といったものも傍に並んでいる。 少女は何の感情も篭らない目でそれを見つめていたが、ふいに小さな手を伸ばして彼の腕に触れた。 そこには、白い包帯が巻かれていた。 「…私は大丈夫…。心配してくれるのか」 青年は恍惚とした声で呟いた。 「そう…あの時もそうだった……」 玉座の間に眠る銀の髪の少女。 そのあまりの美しさに一歩部屋に踏み出せば、腕に絡まる硝子のように透き通った茨。 並みの武器では傷つけることも出来ない熾天使の肌を易々と切り裂き、その傷から流れ込んでくるのは、甘美な地獄の毒。 「うっ…」 膝を突いた彼の頬に、ぴたりと冷たい指が当てられた。 顔を上げると、いつの間にかかの少女が近付いていた。 『に・げ・て』 赫い唇が微かに動く。とっさに、彼は傷付いた腕で少女を引き寄せた。 なんの抵抗も無く、ふわりと胸に落ちてきた少女の羽のような軽さに一瞬違和感を覚えたが、すぐにそれは歪んだ喜びに摩り替えられた。 手に入れた。 もう、コレは私のものだ。 白い手首を握り締め、その場を逃げ出した。少女は感情を浮かべずに黙って引き摺られるように付いてきた。 薄い薔薇色のドレスは、思ったとおり少女の透き通るような肌によく似合った。 白薔薇を幾つか摘んで、髪に飾ってやる。 「さぁ、飲ませてあげよう…」 彼は葡萄酒を口に含むと、そっと少女の唇に自分のそれを近づけた。ポツリと紅い唇が、熟れた木の実のように、青年を誘う。 酒の匂いに混じって、少女の肌から甘い蠱惑的な香りが漂った。 いつしか、軽く当てていただけの指が少女のか細い喉に絡まり、やんわりと締め付けていた。苦しそうなそぶりも見せず、虚ろな目で自分を見返す少女に唇が近付くたびに指に力が篭る。 しかし、二つの唇が触れ合う寸前で、少女が顔を逸らした。 ハッと手の力を緩めれば、気配を追って空に首を巡らせる。 「…なるほど。これでは万魔殿に居ても気付かぬ筈だ。最早そなたは天使とは呼べぬ」 支えるものもなしに、空中に浮遊している仮面の公爵が目を細める。 「地獄の女王に心を奪われたか」 「…これは、私のものだ!」 闇に染まりつつある天使は、葡萄酒を罪のように飲み込んでそう叫ぶ。 「我らが猊下になんと不遜な!」 黒い翼を広げたシャックス候が、鋭い闇の槍を放つ。 しかし、それは天使の体に当たる寸前で消えた。 「駄目だ。この白薔薇自体が強力な結界になっている」 長い金髪を揺らして、セーレンスが呟いた。 「純潔の薔薇…腐っても天使というわけか」 仮面の公爵は、どことなく面白そうに言う。 「さて、どうするか……ボーシャ?」 呼び名で振り返られた伯爵の、柔らかな茶色の髪が風に揺れた。 その唇が開く前に、 今までなんの反応もなかった、銀髪の少女…ルシフェルの器が、ふ、と動いた。 |