2.

『姫君。わたくしの姫君。』
……貴方は、まだ、私をそう呼んでくれますか。



***



君の力の本質は、結局のところ”媒体(ミディアム)”だ、と言われたことがある。
元々相手の中にあるものを、否応無く引きずり出して強めてしまう力。
それ自体は、光も闇もない、受動的なもの。
しかし、怒りなのか、哀しみなのか、よく判らないもので歪められたその男性の顔を見ながら、私は小さく溜息を吐く。
やはり、私は人を歪めることしか出来ないのかもしれない、と。

「もう……唄わせない。お前の歌は…この世に必要ない……」
私を睨み付ける初老の男性は、先ほどまで私が招かれて唄っていた館の客人の一人だった。
銀の髪を綺麗に撫でつけ、手に杖を持った、温厚そうな紳士。
しかし、今その表情には暗い苦悩が浮かんでいる。

良ければ宴の後も残るように、と館の主には言われたが、私は体調不良を理由に先に退出していた。
私たち吟遊詩人が貴族の館に泊まるということは、大抵そこの主人か、客人と夜を共にするということに他ならない。
私は、見知らぬ相手と肌を合わせるのを厭うようになっていた。
糧を得る為とはいえ、その行為になんの嫌悪も…あるいは特別な意味も持っていなかった心が、 素直に「厭」と叫ぶ。身篭ることのない体であることも、もはや関係なかった。

彼の男の前には、二人の剣士がいて、私に向かって刃を向けている。
どうやら、私の歌がよほど気に食わなかったらしい。
”吟遊詩人一人になんて大げさな…”

「殺せ」

彼は、剣士たちに指示を出して後ろに下がる。
目の前を銀色の光が走る。横に動いて一人の刃をなんとかかわし、もう一人の剣はマントを巻いた左の腕で受ける。 厚い布を貫き、肉が裂けて血があふれ出す。 痛み、というものにあまり敏感ではない体にも、明確な熱が鼓動と共に伝わってくる。

ここで私が命を落とせば、この紳士の不安が少しでも減るというのなら、それも意味がないことではないと思う。
だけど……。

「今はまだ、死ねないんです」

ごめんなさいね、と呟く。

「もし死にたくないのなら…」
その言葉を命乞いと取ったらしい。彼は私を睨みながら言った。
「もし、死にたくないのなら、私の館に来て私のためだけに歌え。
そうしたら、命を助けてやらんでもない」
圧倒的に自分が有利な状態でありながら、その言葉にはどこか懇願するような響きがあった。
本当に私の歌を賛美しているのなら、別に命を狙うこともないだろうに。

彼が欲しているのは、けして私の声ではない。
この国に来てから、周囲に素晴らしい歌い手が何人もいて、私は本当に美しい声、大気の霊を震わせ、哀しみを慰撫する歌というものを知っている。
私の歌は……稚拙でつまらない音の塊に過ぎない。
その歌に付加価値を付けるとすれば、その人の心の中に元々あるもの。
失ったもの、忘れてしまったもの、気付かない程の小さな傷と呼ばれるもの。
精神の奥深くに隠されているほど、それは鮮やかに甦る。
彼はきっと、それを葬りたいと思いながら、どこかで取り戻したいと願っているのかもしれない。

だから、今までの私はいつも何かの代わりだったのだと思う。
神の代わり、ここにはいない誰かの代わり、あるいはそれぞれの中にある想いや偶像の代わり……。
今は、それが厭で。誰かの人形(にせもの)にしかなれなかった自分が、酷く、イヤだから。
私は腕を強く引く。傷はすでに治りかけている。

あの方がくれた、ヴァンパイアの力。

流した血が、実体となってふわりと舞い上がる。
何百もの小さな紅い胡蝶。それが、彼らの目を塞ぎ、息を奪う。
ひらひら、ひらひらと舞う赤に惑わされている姿は、まるで夢幻のように美しい。
それに紛れて、身を翻した所を、誰かに捕らえられた。
私の意識は、ほどなく暗い闇に堕ちた。



***



とくん、とどこかで心臓の音を聞いた。
私の意識は、闇へ闇へと落ちていく。

ああ、この身が消える時は、あの方の傍がいいと願っていたのに。
その夢は叶わないのかもしれない。
きっと、あの方はここで私が死んでも、何も変らず笑っていらっしゃるだろう。
少し寂しいけれど、あの方が幸せであることが私の望みだから。

「…それでは、貴女には彼に対する影響力などないと?」
とくん、とくん、と鼓動が響いている。遠くで誰かの声が聞える。

「そうです。私など捕らえてもまったく無駄というものですよ」
人質の価値などありはしない、と呟く。

「本当に?本当にそう思っているのですか?」
どこか嘲るような声が、私の鼓動を塗りつぶす。

「私のことなど。最初からお戯れであったのですから…」
「そう思いたいのは、貴女自身ではありませんか?」
「そんな…ことは…」

とくん、とくん、という音が小さくなっていく。酷く…眠い。

「自分には本気でなかったと考えれば、誰とも争わなくてすむ。
彼が別の誰かに恋をしても、仕方がないのだと思い込めばいい。
でもそれは、彼の想いに向き合うことも、自分から求めることも、最初から逃げてしまっている。非常に卑怯ですね」
「………」
「悪魔が戯れで今まで傍に置いたと思っているんですか?」
「……それは…偶然あの方が…」
「一度だけならただの偶然ということもありましょう。しかし、貴女が命を助けられたのは、一度や二度ではないんでしょう?」
相手は笑っている。楽しそうに。
その声と言葉が酷く皮肉めいているのに、笑いだけは水晶の鈴のように涼しげだった。
「形はどうであれ、貴女に執着があるんですよ。私はそう望んでいます。
でなければ、わざわざ貴女を浚った意味がないですからねぇ」


うっすらと目を開く。ここはどこなのだろう。
周りを見るときらきら輝く硝子のような透明な壁。それが四方を囲み遥か上まで続いている。どこからともなく、淡い光が差し込み周囲を照らしていた。
傍にいるのは、どうやら天使……のようで。
銀のような光沢のある、淡い水色の髪。笑みを浮かべた薄い唇と、冷たい青の眼差し。
それは、どことなく魔のもののような。
けれど、その背中には一対の美しい翼があって、南国の海のような鮮やかな瑠璃色をしていた。

「初めまして。ファニエルと申します」
アイスブルーの瞳をした天使はそう名乗った。

「私を浚って、どうするおつもりですか?」
ようやく、自分の声を直に耳で聞いた。
「さぁ、どうしましょうか。
貴方は天界に還る気はないようですし」
クスクスッとまた笑う。
この天使は、無理に私を天界に引渡す気はないらしい。

「貴女の命と引き換えに、あの悪魔がルシフェルを裏切るように仕向けてみますか。それとも、彼の命を差し出して……」
「止めて、止めて下さい!!」
自分の声が悲鳴のように響いた。
「……ほら、今、思ったでしょう。万が一、と。万が一、自分にそんな影響力があったら。彼を少しでも困らせてしまうような」
「…………」
眉を顰める。単に挑発しているのか…あるいは、時間稼ぎか。
時間稼ぎ?私がいなくなっても、あの方は気にしないだろうに。
小さく笑うと、彼は冷ややかな眼差しで私を見た。

「よく判りませんね。貴女は死にたいの?」

…そうなのだろうか。
生きたい、と願うことは、滅びた故郷の人々への裏切りに他ならない。
それでも、優しい人たちに囲まれて、この暖かな場所で、私は夢を見ることが出来た。
いつか、消える日が来るまで、あの方の傍に居たいと。

本当は、あの方が私などを本気で欲しがるなんて思えない。
それを望むことさえ、この身に過ぎた罪のように感じる。
あの方にもっと相応しい人が現れ、彼がその人を愛し、その人も彼だけを愛してくれたら。
私は忘れられ、二人の幸せを願いながら消えて行くのだろう、と。
…そう思っていたことは、あの方への裏切り……なのかもしれない。

「卑怯ですよ。貴女は卑怯だ」
ファニエルは、感情の篭らない口調で呟いた。
「恋をするならば。命の長さは関係ない。全てを相手に背負わせてしまうことなく、 共に生き、共に笑い、支えあって喧嘩もし。
例えいつか離れてしまっても、その哀しみさえばねにして、自ら幸せに向かおうとするしなやかな力を、人は持っている筈じゃないんですか?」

……知っている。

この想いが歪んでいるのは最初からよく判っている。
けれど、自分でもどうしようもない。
この国で出遭った沢山の特別な人たち。その中でも、私を現世に繋ぎ止める楔には、 彼にしかなれないのだ。

そう。

「…本当はきっと、この世界に私は最初から存在しない……」



    エ

        ル

     ス

           





不意に、とくん、と大きな鼓動が鳴った。
水を浮上するように、急激に体が覚醒していく。

ファニエルが腕を伸ばしたが、ほんの一瞬の差でその指は私を擦り抜けていった。









戻ルノ?