1. 満月の夜。 その大きな薔薇園には、宝石のような花々が燃えるように咲き誇っていた。 かつて、この辺りを支配していた領主が、金にあかせて集めさせたという美しい薔薇たち。 何故かその色は白と決められている。 甘い濃厚な香りが、空気中に漂い、吐く息も吸う息も、薔薇に犯されているようだ。 村人たちも滅多に踏み込まないその庭に、灰色のフードとマントを身に着けた人影が吸い込まれるように入っていった。 長身な方が、もう一人のやや小さな人影の手をしっかりと握っている。 白…白、白。まるで雪の中を歩いているがごとく。 やや小さな方の人影に、「ここでまっておいで」と片方が話しかけて、後ろを振り返った。 低い声で幾つかの言葉を呟き、指を複雑に動かすと、周囲の薔薇がポォッと光って揺れた。 「…これでいい」 人影は、若い男の声で呟くと、またもう一人を連れて薔薇園の奥へ奥へと進んでいった。 数刻前…。 万魔殿の中核にある玉座の間…その万全の守りが破られた。 一人の天使によって。 彼が、たった一人で、玉座に眠る女王サイファの体を盗み出したのだ。 ただちに緘口令が敷かれ、魔界でもそのことを知るのはほんの僅かな者のみ。 それはあってはいけないことだったからだ。 「美しい……」 長身の方の人物は、小さな相手のフードをとってやると、溜息のように呟いた。 そういう彼の方も、縮れた金色の髪と鼻筋の通った青年らしい優美な顔が露になっている。 ただ、少しやつれているようだった。 そんな彼を見つめ返す相手は、まだ少女のようだった。 肩から零れ落ち、更に長く長く垂らした髪は、月の雫のような銀。 小さな唇はルビーを思わせ、肌は透き通るように白く、内側から仄かに輝いているように思えた。 しかし、その顔から表情は欠落しており、整いすぎた顔と相まって作り物のようにさえ見える。 「地獄の女王よ。そなたはとても美しい…」 男は感極まったように彼女の白い指に口付けたが、少女は身じろぎもせずに相手を見返しているのみで。 「……そなたの魂は…どこにあるのだろう…」 男はその指を離し、少女の頬を撫でながら一人呟いた。 「それに、その瞳の色…」 彼が以前彼女を見たときは、瞳は燃え上がるような深い金色だった筈。 しかし今は、暗青色に染まり、ただ静かに彼の罪を責めているかのようだった。 「私はそなたのせいで罪を犯したのだ。こんなに穢れてしまっては、もう、天界に戻ることは叶わない!」 青年の長身から、灰色のローブが滑り落ちた。 背中から生えた大きな翼。それが徐々に漆黒の闇に覆われようとしている。 「これは、私の罪。そしてそなたの罪…」 男は燃えるような瞳でそう呟くと、彼女の長い髪にそっと口付けた。 *** 悪魔は罪の匂いには敏感だ。 女王が盗み出されて数時が経過しても天界側になんの動きも見られないことから、かの天使が個人的な感情で彼女を連れ出したことに気付いた。 多分……憎悪か恋慕。 地獄に名だたる貴族のうち、一握りの者たちが急遽集められて席が設けられたが、もとより話し合いが進むことでもなかった。 給仕に入ったインプの少女が気まずそうに、黙ったままの面々を見回した。 …仮面の公爵と呼ばれる、いつも顔半分をファントムのような仮面で隠した男は、どこか面白そうに周囲を見ている。 盗みのエキスパート、ということで呼ばれた金髪の少年は、酷く居心地が悪そうだ。目が合うと救いを求めるように見つめられたが、そんな顔されても彼女も困る。 血の伯爵は今日も黒い帽子を被って、いつも通り微笑を絶やさないが少し不機嫌そうにも見える。白い指先が、時々襟元の小さな飾りピンに触れた。 「一体、どんな方法を使えば、天使なんぞが万魔殿に忍び込み、我らが猊下を盗み出せると言うのか。それを説明して欲しいものだ」 コウノトリの頭部に金の洒落た片眼鏡をしたシャックス侯が、じろり、と面々を見渡した。 まるで、この中に犯人がいると言わんばかりに。 「…まぁ、方法はないわけじゃないけど」 金髪の少年…願いの貴公子との二つ名を持つセーレンスは、全員の視線に晒されて一瞬びくっとしたものの、仕方がなさそうに話し始める。 「僕は良く知らないけれど、今、女王サイファの魂は天界との小競り合いで負った傷を癒すために、暫く肉体から離れていたわけでしょ? だから、玉座の間に居たのは猊下の肉体だけ。 あの部屋の結界は侵入者には厳しいけれど、出て行く者を止めることは出来ない。 つまり、なんらかの方法で肉体を外に誘き寄せれば…」 「なんらかの方法、か…」 不満げなシャックスに代わって、今度は仮面の公爵(デューク)が話し始めた。 「魂は、アストラル(星気)、エーテル(生命)、メモリアル(記憶)、マナ(魔力) ……様々なもので成り立つが、特にアストラルは、執着のある場所や物に留まりやすい性質を持つ。 俗にゴーストと呼ばれるものの殆どが、この”残留思念”つまり、魂の残り香のようなもので出来ている」 「初歩の死霊魔術(ネクロマンシー)講義だな」 シャックス侯が、面白くもなさそうに答える。 「魂が抜けた肉体にも、アストラルは残っている可能性が高い。 特に、元々この器の持ち主だった女の思念が少しでもあれば、生前の彼女の行動をなぞる筈。 そうだろう、伯爵?」 血の伯爵は凍えるような灰色の瞳で、デュークを見返した。 「慌てずとも、あの体は必ず戻ってくる。…まぁ、五体無事かどうかはわからんが」 公爵はにやりと笑った。 *** ファニエルは、規則正しく食事を取ることにしている。 天界の時間律の塔に務める監視官の一人として、彼も懐中時計を持っていたから、いつでも自分の所属する時間を見ることが出来た。 今日のメニューは新鮮なマス。ムニエルにした魚から、注意深く骨を取り除き、口に運ぶ。 …咀嚼し、飲み込む。 彼は、料理を手間隙惜しまず作る主義だったから、当然のように、美味しい。 サラリとした水色の髪を揺らして、もう一切れ、切り取る。 「……ファニエル…また『食事』をしているのか…」 同じ監視官の天使が、彼の部屋にノックもせずに入ってきた。 ちらりとテーブルの上に乗ったものを見ると、蔑むような、呆れたような声を出す。 「今日のメニューはマスですよ」 ファニエルがそう言って視線だけで笑って見せると、そんなことは聞きたくないとばかりに首を振った。 「その魚、まさか天界の池で捕ってきたんじゃないだろうな」 気味が悪そうに言われて、クスッと笑う。 「ええ、まさか私だってそこまで不謹慎ではありません」 ファニエルは、ナプキンで口を拭いつつ、彼の方に向き直った。 「ところで、何か御用があるのでしょう?」 「あ〜。 ガーデンのお姫様がお呼びだとよ」 彼は、いささか投げやりな口調で言った。 「……またですか」 微かに眉を顰めたファニエルを一瞥し、こめかみに指を当てる。 「…………。なぁ。 お前、何で人間のマネなんかして、食事をするんだ? 俺たち天使は、基本的に他の生き物を苦しめちゃいけないもんだろ」 「……そうですね」 「それに、魚なんて食べたって、俺たちにゃ全然エネルギーにならないだろうが。 だったら、無駄な殺生はするべきじゃない。 俺たちはそのために、シンファという特別な能力を神から与えられてるんだ」 そう言われても、ファニエルの冷たい横顔は少しも動かず、いくら待っても返ってこない返事にムッとしたのか、相手はさっさと彼の部屋を出て行く。 バタンと閉まった扉を振り返りもせず、ファニエルは水の入ったグラスを持ち上げた。 「確かに、天使”だけ”は穢れることなく、シンファのみで生きていくことが出来る…」 何事も無かったようにゆっくりと食事を再開するファニエルの瞳は、グラスの中の氷と同じ色を浮かべていた。 アツィルトとベリアーを繋ぐ巨大な花園、ガーデン。 そこは、天使の卵が生まれる場所とも言われている。 「参りました」 真っ白な花の中、ファニエルが一言呟く。 呟きは風に乗り、一面に花びらの嵐が巻き起こった。 その中心に舞い降りたのは、光り輝く純白の翼。金色の長い髪が滝のように流れ落ち、ほんのりと紅潮した頬が、桃の実を思わせる。 「ファニエル」 蜂蜜のように甘い声が、嬉しそうに彼を呼ぶ。駆け寄って来るのはまだ幼い少女の姿だった。 その額に嵌められたサークレット以外は何も身に着けてはおらず、まだ殆ど胸も膨らんでいない白い裸体を、そのまま晒している。 彼のほんの数歩手前で竦んだように立ち止まり、おずおずとファニエルを伺い見る。 「また、『食事』をしていたの……?」 幾分か哀しげな常緑樹の色(エヴァーグリーン)の瞳が、彼を映し出す。 「さすが、金色(きんじき)の熾天使アクリエル様は穢れに敏感でいらっしゃる」 抑揚の少ない口調に、アクリエルは眼差しを落とした。 「どうして、ファニエルは進んで自分を穢れに落とそうとするの…?」 「……私は、食事をするのが好きなだけです。お気になさらず。 それよりも、何か御用があったのではありませんか?」 彼の言葉に、アクリエルははっと顔を上げる。 「そう、貴方にお願いがあります。どうか…」 *** 「………あ」 ベリアーにある図書館で、シーズィエルは空を見上げた。 空と言っても天界の澄んだ蒼穹ではなく、無数の星が妖しく輝くアカシック・レコードの中。シーズィエルはツァドキエルが行方不明になってから、この地下室で過ごすことが多くなった。 まるで、何かの面影を探すように。 「誰かが、星渡りをしている…」 シーズィエルは瞳を閉じた。 時空を越える不思議な力に共鳴して、星々が僅かに震えた。 |