―9― ツァドキエルは夕暮れの街を、ゆっくりと歩いていた。 魔王の欠片が降臨し、それと共に起こった戦いの傷跡も、街の人々の努力で、大分復旧している。 人間というものは、とても逞しい。 塵から作られた儚い体と、悪に染まりやすい脆弱な意志の中に、 どれほどの強さを隠し持っているのだろう、と彼は不思議に思う。 待ち合わせ場所の図書館の中に入ると、いつもながら、人は殆どいない。 一応、人間の姿を作って来たのだが、余計な気遣いだったような気さえする。 一つ一つの本の背表紙に、書いてあることへの思いを馳せながら。 突き当たりの、青い本が並ぶ棚まで歩いていく。彼の来訪に、二人の人物が顔を上げた。 「……こんばんは」 丸い椅子に腰掛けていた女性が、声を掛けた。 以前より艶やかに紫がかった瞳は、彼女が夜の一族であることを表している。 ふんわりとした白いドレスから覗く胸元には、相変らず神に付けられた百合の刻印が見て取れたが。 身に纏う幽玄な空気も、透き通りそうな笑みも、以前にはなかったもの。 「人であることを捨てたのか。君は最後まで、ただ人間でありたいと願っていた筈だ。 それなのに、君は……」 知らず責める口調になったことに気付き、ツァドキエルは溜息を吐く。 あの戦いの夜、彼女は自分の全てを贄に上げて彼らを召還(よん)だ。 その代償のように命が薄れ、神の力も天に戻った。 自己犠牲は罪を拭い、彼女の魂はケセドの巫女として天界に迎え入れられる……筈だった。 まさか、彼(か)の想い人と血の契約を交わし、不死者(ヴァンパイア)として蘇えるとは。 契約は、以前のようにただ魔族の血を貰い受けるだけではない。 自分の血を死ぬ寸算まで捧げ、主から新しい血を授かる、まるで人から生まれ変わるための儀式。 これにより、彼女は彼の悪魔の完全な眷属となった。 「ただ、唇を重ね。抱き締められて。声も優しい吐息もこの耳で聞く。絡めた指が、触れた頬が 体温を感じる。それだけのことが、こんなに嬉しいなんて知らなかったんです。 私は本当に子供で……貴方の言う通り、恋も解らなかったんだなぁ…って。 以前は、あの方に殺して頂けたら一番幸せだと思っていました。 でも、今は……少しでも長くお傍に居たいんです。だから…」 ごめんなさいね、と素直に謝ると、幸せそうに微笑む。 その笑顔に、以前よりももっと儚げなものを感じて、ツァドキエルは眉を顰めた。 「知っているんだろう。君が神を逃がしたせいで、あの夜に…君の生まれた世界が消えたことを」 「……。はい…」 女性は僅かに瞳を伏せる。 例え、生き物を育むことがない不毛の砂漠と、ほんの一握りの民でも、確かに残っていた彼女の存在のよすが。 それは完全に失われてしまった。他ならぬ、神の手によって。 望みもせずに彼女が呼んだ神の力は、ルシフェルの欠片が放った魔力を打ち消したが、それ以上この地に干渉することは無く。 代わりに、彼女の故郷に残っていたもの全てを、青い光の中に飲み込んだ…。 もはや、彼女には帰るべき場所も現世(うつしよ)との縁(えにし)も、何もないということになる。 彼と交わした、血の契り以外は。 「神の力を失った今、あの悪魔の元を離れたら、今度こそ君は消滅するだろう。 それこそ、幻のようにね。 どうしてそれほどまで彼に拘るのか、僕には判らないな」 「あら、恋することに理由はいらないでしょう?」 女性は悪戯っぽい笑顔になる。 ”わたくしは、この女を、我らが地獄の為に用意したわけでは御座いません。 これは、わたくしの……” 魔王との戦いの最中に、ツァドキエルは彼の悪魔からそんな言葉を聴いた。 私のなんだというのだ。 まさか、本当に好きになったとでも?高が人間の女、を。 大体、彼女の行いはけして魔王に従順というわけではなかったのに。 「ねぇ、ツァドキエル。この子を守って上げて下さいね」 女性は、足元に立つ青い目の少女を見つめながら囁いた。 「この子は、無くしてしまった幼い頃の私。 分かたれた魂の分身。 けれど、優れた魔術師さまにより、この世界でも不自由なく暮らせるようになった。 私は贄の資格を失ったが、この子は違う。 だから、自分の道を見つけられるまで、どうか守って上げて下さい…」 ツァドキエルは、ゆっくり頷いた。 レースのワンピースとピンク色のリボンに飾られた少女は、透き通った大きな瞳を上げて、彼を真っ直ぐ見た。 「……ツァドキエルさま?」 「様はいらないよ」 少女のサラサラした黒髪を、ゆっくり撫でる。 懐かしい、と思った。 そう、それほど遠くない昔に。 石の上に跪いて一心に祈る少女を思い出す。 「エリューシア」 頷いたのは、女性ではなく小さな少女の方だった。 「お姉さまは、”シア”って呼びます」 「ああ、シアか。じゃあ君は今なんて名乗っているの?」 ツァドキエルが女性の方を見ると、彼女はにっこりとした。 「エルス」 「エルスと、シア」 なるほど。二人合わせてエリューシアなのか。全く今の状態を表している。 しかし、二つに分かたれた魂は、それぞれの道を歩き出した。もう二度と、完全な”エリューシア”に 戻ることはないだろう。 彼はクスリと笑うと、シアの小さな白い手を取った。 「落ち着いたら、どこか、天界に見付からない所に行こう。生き方は、君が決めたらいい」 「……はい」 俯いて睫を揺らした少女は、びっくりする程優しげで柔らかい生き物だった。 「貴方まで、天から追われることになってしまいますね」 エルスが微かに眉を寄せる。 「……大したことではないよ」 そうですか、と微笑んで、ツァドキエルの手を握った。 細い指の冷たさと、その中の温もりが、いつまでも彼の掌に残った。 *** ガジュエルが、いつも通り銀の塔を訪れると、タペストリーの修復は大分終り、アウローラはまた新しい布を織り出している所だった。 ガジュエルの背中から白い羽が一枚、ふわりと織り掛けの布の上に落ちて、アウローラは小さく微笑んだ。 「ガジュエルは本当に天使なんだな…」 「…一体、今までなんだと思っていたんだ」 ガジュエルが憮然として呟く。 「ふふ、ごめんごめん。私は、ここに居るときのガジュエルしか知らないから」 透き通る様な銀色の瞳を細めて、アウローラは微笑んだ。サラリと流れた絹糸のような髪が、その頬にごく淡い影を落とす。 「…あんたをこの塔から連れ出せたらな……」 ふいと思って口に出した言葉を、アウローラは怒りもせずに受け止めた。 「世界がどうなってもいいんだったらな」 「……そういう話になるのか」 「ああ」 「そうか……」 ガジュエルは深く息を吐き、天を仰ぐ。 とても天秤には掛けられないようなことだが、一瞬自分の中の価値観が揺らいだような気がした。 世界が崩壊するまでのごく僅かな時間でも、アウローラの手を取れたら、と思った。 ほんの一瞬だけ。 「まぁ、どんなに私が頑張っても、ガジュエルたち天使が守っても、いずれは壊れることになるんだろうけどな」 「ああ……」 「世界はそういう風に出来ているんだから」 だけど。 「何時か全てがなくなるとは知っていても、自分から諦めることなんて出来ないだろう?」 アウローラはそう言って微笑んだ。いつも通りに。 自分に向けられる、柔らかな銀色。 ガジュエルは、小さく笑った。 |