ツァドキエルは夕暮れの街を、ゆっくりと歩いていた。
魔王の欠片が降臨し、それと共に起こった戦いの傷跡も、街の人々の努力で、大分復旧している。
人間というものは、とても逞しい。
塵から作られた儚い体と、悪に染まりやすい脆弱な意志の中に、 どれほどの強さを隠し持っているのだろう、と彼は不思議に思う。

待ち合わせ場所の図書館の中に入ると、いつもながら、人は殆どいない。
一応、人間の姿を作って来たのだが、余計な気遣いだったような気さえする。
一つ一つの本の背表紙に、書いてあることへの思いを馳せながら。
突き当たりの、青い本が並ぶ棚まで歩いていく。彼の来訪に、二人の人物が顔を上げた。
「……こんばんは」
丸い椅子に腰掛けていた女性が、声を掛けた。
以前より艶やかに紫がかった瞳は、彼女が夜の一族であることを表している。
ふんわりとした白いドレスから覗く胸元には、相変らず神に付けられた百合の刻印が見て取れたが。
身に纏う幽玄な空気も、透き通りそうな笑みも、以前にはなかったもの。

「人であることを捨てたのか。君は最後まで、ただ人間でありたいと願っていた筈だ。
それなのに、君は……」
知らず責める口調になったことに気付き、ツァドキエルは溜息を吐く。

あの戦いの夜、彼女は自分の全てを贄に上げて彼らを召還(よん)だ。
その代償のように命が薄れ、神の力も天に戻った。
自己犠牲は罪を拭い、彼女の魂はケセドの巫女として天界に迎え入れられる……筈だった。

まさか、彼(か)の想い人と血の契約を交わし、不死者(ヴァンパイア)として蘇えるとは。

契約は、以前のようにただ魔族の血を貰い受けるだけではない。
自分の血を死ぬ寸算まで捧げ、主から新しい血を授かる、まるで人から生まれ変わるための儀式。
これにより、彼女は彼の悪魔の完全な眷属となった。

「ただ、唇を重ね。抱き締められて。声も優しい吐息もこの耳で聞く。絡めた指が、触れた頬が 体温を感じる。それだけのことが、こんなに嬉しいなんて知らなかったんです。
私は本当に子供で……貴方の言う通り、恋も解らなかったんだなぁ…って。
以前は、あの方に殺して頂けたら一番幸せだと思っていました。 でも、今は……少しでも長くお傍に居たいんです。だから…」

ごめんなさいね、と素直に謝ると、幸せそうに微笑む。
その笑顔に、以前よりももっと儚げなものを感じて、ツァドキエルは眉を顰めた。
「知っているんだろう。君が神を逃がしたせいで、あの夜に…君の生まれた世界が消えたことを」
「……。はい…」
女性は僅かに瞳を伏せる。
例え、生き物を育むことがない不毛の砂漠と、ほんの一握りの民でも、確かに残っていた彼女の存在のよすが。
それは完全に失われてしまった。他ならぬ、神の手によって。

望みもせずに彼女が呼んだ神の力は、ルシフェルの欠片が放った魔力を打ち消したが、それ以上この地に干渉することは無く。
代わりに、彼女の故郷に残っていたもの全てを、青い光の中に飲み込んだ…。
もはや、彼女には帰るべき場所も現世(うつしよ)との縁(えにし)も、何もないということになる。

彼と交わした、血の契り以外は。

「神の力を失った今、あの悪魔の元を離れたら、今度こそ君は消滅するだろう。 それこそ、幻のようにね。
どうしてそれほどまで彼に拘るのか、僕には判らないな」
「あら、恋することに理由はいらないでしょう?」
女性は悪戯っぽい笑顔になる。

”わたくしは、この女を、我らが地獄の為に用意したわけでは御座いません。
これは、わたくしの……”

魔王との戦いの最中に、ツァドキエルは彼の悪魔からそんな言葉を聴いた。
私のなんだというのだ。 まさか、本当に好きになったとでも?高が人間の女、を。
大体、彼女の行いはけして魔王に従順というわけではなかったのに。


「ねぇ、ツァドキエル。この子を守って上げて下さいね」
女性は、足元に立つ青い目の少女を見つめながら囁いた。
「この子は、無くしてしまった幼い頃の私。
分かたれた魂の分身。
けれど、優れた魔術師さまにより、この世界でも不自由なく暮らせるようになった。
私は贄の資格を失ったが、この子は違う。
だから、自分の道を見つけられるまで、どうか守って上げて下さい…」
ツァドキエルは、ゆっくり頷いた。
レースのワンピースとピンク色のリボンに飾られた少女は、透き通った大きな瞳を上げて、彼を真っ直ぐ見た。
「……ツァドキエルさま?」
「様はいらないよ」
少女のサラサラした黒髪を、ゆっくり撫でる。

懐かしい、と思った。

そう、それほど遠くない昔に。
石の上に跪いて一心に祈る少女を思い出す。

「エリューシア」
頷いたのは、女性ではなく小さな少女の方だった。
「お姉さまは、”シア”って呼びます」
「ああ、シアか。じゃあ君は今なんて名乗っているの?」
ツァドキエルが女性の方を見ると、彼女はにっこりとした。

「エルス」

「エルスと、シア」
なるほど。二人合わせてエリューシアなのか。全く今の状態を表している。
しかし、二つに分かたれた魂は、それぞれの道を歩き出した。もう二度と、完全な”エリューシア”に 戻ることはないだろう。

彼はクスリと笑うと、シアの小さな白い手を取った。
「落ち着いたら、どこか、天界に見付からない所に行こう。生き方は、君が決めたらいい」
「……はい」
俯いて睫を揺らした少女は、びっくりする程優しげで柔らかい生き物だった。

「貴方まで、天から追われることになってしまいますね」
エルスが微かに眉を寄せる。
「……大したことではないよ」
そうですか、と微笑んで、ツァドキエルの手を握った。

細い指の冷たさと、その中の温もりが、いつまでも彼の掌に残った。



***



ガジュエルが、いつも通り銀の塔を訪れると、タペストリーの修復は大分終り、アウローラはまた新しい布を織り出している所だった。
ガジュエルの背中から白い羽が一枚、ふわりと織り掛けの布の上に落ちて、アウローラは小さく微笑んだ。
「ガジュエルは本当に天使なんだな…」
「…一体、今までなんだと思っていたんだ」
ガジュエルが憮然として呟く。
「ふふ、ごめんごめん。私は、ここに居るときのガジュエルしか知らないから」
透き通る様な銀色の瞳を細めて、アウローラは微笑んだ。サラリと流れた絹糸のような髪が、その頬にごく淡い影を落とす。
「…あんたをこの塔から連れ出せたらな……」
ふいと思って口に出した言葉を、アウローラは怒りもせずに受け止めた。
「世界がどうなってもいいんだったらな」
「……そういう話になるのか」
「ああ」
「そうか……」
ガジュエルは深く息を吐き、天を仰ぐ。
とても天秤には掛けられないようなことだが、一瞬自分の中の価値観が揺らいだような気がした。
世界が崩壊するまでのごく僅かな時間でも、アウローラの手を取れたら、と思った。
ほんの一瞬だけ。

「まぁ、どんなに私が頑張っても、ガジュエルたち天使が守っても、いずれは壊れることになるんだろうけどな」
「ああ……」
「世界はそういう風に出来ているんだから」
だけど。
「何時か全てがなくなるとは知っていても、自分から諦めることなんて出来ないだろう?」
アウローラはそう言って微笑んだ。いつも通りに。
自分に向けられる、柔らかな銀色。


ガジュエルは、小さく笑った。





                                              <了>



あとがき
戻ルノ?