―8― 地獄の中心、最下層にある万魔殿から一番遠い辺境の地……薄暗い喧騒と廃退の街に小さなバーがある。 チカチカと光る赤い発光虫に照らされた看板は、”柘榴の果実”。 その夜、カラン、と店の扉の鐘が鳴ると、狭い店内でグラスを傾けていた魔族たちが、一応にそちらを振り返るが、関わるのを恐れるように、またぼそぼそした会話に戻っていく。 少し大柄なオーナーママのマダム・モリィーは、いらっしゃい、と誰にでも妖艶な笑みを向けた。 「いつもの」 入ってきた長い外套(マント)の人物はぶっきらぼうにそう呟くと、頭を覆っていたフードを落とす。 中から、キラキラと輝く僅かに赤みがかった金髪が溢れ出した。その髪がサラリと流れて、男のどこか野性的な酷く美しい顔を彩る。 「あら。フェネちゃん、ご機嫌斜めねぇ」 クスクス笑いながら、その指先を飾る真っ赤なマネキュアのような色のカクテルを置くと、マダムはゆっくりカウンターに寄りかかった。広く開いた真紅のドレスの襟から、豊満な胸が覗く。 「やっぱり、魔王様からの呼び出しがあったらからぁ?」 「ふん、お前だって呼ばれているんだろう」 フェネと呼ばれた男は、懐から黒い封筒…魔力の具現化…を出して、ひらひら振って見せた。 「ルーちゃん久々に帰ってきたんだってねぇ」 まるで旧友が遊びに行って戻ってきたような口調でマダムは呟く。 「フェネちゃん、行ってあげなくていいのぉ?」 「誰が地上なんか好き好んで行くか」 男は、ぐっと赤いカクテルを飲み干して、もっと強いの、と注文を付ける。 「ルシフェルが帰ってきたって鬱陶しいだけだ。あっちだって、ベリアルかペイモンあたりが傍にいれば十分だろ」 「まぁ、つれないわねぇ」 マダムは『強欲』や『怠惰』と書かれた酒瓶から液体を混ぜ合わせながら、コロコロ笑った。 「お前だって似たようなもんだろうが。赤毛の女公爵(ダッチェス)がこんな辺境で何やってるんだか」 「あら、お言葉ね、フェネクス。私たち72柱は、それぞれみんながみんな自分の好きなようにするわ。そのために、わざわざ天界を堕ちて来たんでしょう。貴方も?」 フェネクスは顔を歪めて笑った。ぞっとするほど醜く美しい微笑みだった。 「俺は、ただ逃げて来ただけさ…」 「絶対神から?」 男は黙して語らない。マダムはちらりと彼を見たが、それ以上詮索しようとはしなかった。 コトリと二杯目のカクテルが置かれて、暫くは静かな時間が流れる。 「あ」 「……あらぁ」 不意に、二人は同時に声を上げた。 その目に、見たこともない地上の風景(ビジョン)が広がる。 遺跡らしき場所に、黒い帽子を被った悪魔が、すらりと立っている。 周囲に数人の天使の気配。そして、妖魔や人間らしき者も何人かいる。 ひび割れた床には、黒髪の女が倒れている。首から血を流している上に、あちこち焼け焦げて、すでに事切れているように見える。 全ての中心に、二人の男がいた。 一人の男がもう一人の体から何かを掴み出している。激しい魔力と魔力の衝突が、ギシギシと時空を歪ませる。 そのまま引き抜いた手のひらに、何か強い輝きがあった。 堕天使たちが探して止まぬ、魔王<ルシフェル>の魂の欠片。 「………っ!!」 その瞬間、フェネクスが持っていた黒い封筒が蒼い炎に包まれて、燃え尽きた。 *** 「――終わった……のか?」 タペストリーを凝視していたガジュエルは、思わず崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。 「勝った……?」 「いや、痛み分けだ」 まだ、戦いの跡の修復に勤しみながら、冷静な声でアウローラは言った。 「人間側も相当なダメージを受けている。まぁ、今日明日に再戦ということはないだろうが」 「そうか……」 ガジュエルは両手で顔を包んだ。深い吐息が零れる。 アウローラはちょっと目を上げて、不思議そうにガジュエルを見た。 「…泣いてるのか?」 「………」 ガジュエルは何も答えなかったが、僅かに肩が震えていた。 アウローラは微かに眉を寄せ、ぎこちなく指を伸ばして、彼の髪に触れようとした。 *** 「負けた…な」 「そうみたいねぇ」 幻影が消えたことを確認し、フェネクスは、横目で店の片隅でエールを飲み交わしているインキュバスの一団を見た。 まだ、地獄の上層にもニュースは伝わっていないらしい。 「…欠片(ルシファー)は消滅しただろうか?」 「ルーちゃんは強い子だから、きっと大丈夫よ」 マダムの根拠のない言葉に、フェネクスは軽く溜息を吐く。 勝っている間は放置しても良かったが、魔王側が負けらしいとなるとそうも言っていられない。 今のところ動きがない天界が、図に乗って仕掛けてこないとも限らないのだ。 「手間を掛けさせて……」 厄介ごとを押し付けられたような顔で、フェネクスは優美に立ち上がった。 「あら、もう帰るの?」 マダムの暢気な声を無視し、何時の間にか空になったグラスの横に、金貨を置こうとしたフェネクスは、一瞬動きを止めた。モリィーもふっと眉を顰めて、何かを伺う。 地上に、奇妙な力が、満ち始めた。 *** 殆どの人々が魔王たちの対決に気を奪われている時、今にも崩れ去りそうな遺跡の石畳の上で、死体と変らぬ姿の女性が 小さく身動きをした。 切り裂かれた喉がヒューヒューと風のような音を立て、唇にも乾きかけた柘榴のような血がこびり付いている。 その上に更なる鮮血を溢れさせながら彼女は言葉を紡ぐ。 「……い…や………」 閉じた瞳から一筋涙が伝い、彼女は喘いだ。 「や…めて……お願い……」 出てこないで。と呟く。 霞む意識の中、恋人の姿がよぎる。 ……大天使を召還しただけでも、十分彼に対する裏切りなのに。 大切な人たちを、この街を守ることが出来るなら、自分が死ぬことは別に構わない。 だけど。 自分が死んだら……神は。 ――どうか、これ以上誰も傷つけないで。 祈るように思う。故郷を滅ぼした神の、残酷な力にそう願う。 押さえた胸の奥から、小さな破壊音が響く。 血が留めなく溢れ、暗青色の瞳から急激に光が失われる。 最後まで抗おうとした意志は、失血により遠ざかってしまう。 やがてその唇が、勝手に動き出した。 地の底より響いてくるような、静かな声。 その声が、取り返しの付かない言の葉を綴る。 「我は声…… 我は…礎…… 神の名を呼び…祈りを…捧げん…… 我が生贄を持って…… 創造主を降臨させ…賜え…………」 *** ポツリ、とまるで涙の雫のように、タペストリーに青い光が滲んだ。 ガジュエルは思わず顔を上げる。アウローラは、険しい顔で見る間にその輝きに飲まれていくタペストリーを感じた。 「魔王……?いや、これは…」 アウローラは、ガジュエルに聞えないほど小さく呟いた。 「むしろ、”神”………?」 |
―――その夜、街では闇を劈いて煌く一筋の青い光を見ることが出来た。
ある者は、類稀な美しさに心を奪われ立ち尽くし。
ある者は、何かの予兆かと恐れ。
あの者は、気付くことすらなかったという。
「ねぇ、お父さん」
静かな夜の窓辺に立っていた幼い少女は、母親の休む部屋から出てきた父親を見て振り返った。
「さっき、銀色の鳥が飛んでいたの。暫くしたら、青い青い虹がお空に掛かったのよ」
「そうかい。私には見えなかったな…」
「きっと、あの鳥に乗って、あの子は天に昇って行ったんだわ」
少女はその晩、生まれてくるはずだった妹を失った。
魔王降臨の余波…人間には強すぎる闇の魔力の波動…が、こんな形で出ていることは、彼らには判らなかった。
しかし、今の悲しみに耐えて歩き出さなければいけないことは、よく知っていた。
「お父さん、もうあの子は泣いてやしないわね?」
「ああ、きっと…」
父親はしわがれた声で祈りのように呟いた。
「神が、あの子の涙を拭って下さるだろう…」
少女は満足そうに頷くと、再び窓を見上げた。