恋。
それは神が定めた天上の禁忌。

恋すらも自由に出来ない。
私たちは、神に創られた有翼種。



***



自分の国が滅びた時。
空を見上げた幼子は、こんな気持ちだったのだろうか。
小さな少女は、そんなことを思いながら、天を仰いだ。
「いけない……もう時間がないわ」
不自由な作り物のカラダを引き摺って、少女は古い遺跡に向かった。
この街は、もうすぐ戦場になる。
それを知っている者は、一体何人ぐらいいるだろう。
地上に。しかもこの国に魔王の欠片が舞い落ちてしまったことを知れば、皆その不運を嘆くかもしれないけど。
一人でも多くの人々を助けたいと、少女は神に祈った。



「何故?! なにゆえ地上に魔王<ルシフェル>討伐の軍を差し向けないのか?!」
天界の警備官たちが集う席で、ガジュエルの高い声が響いた。
「今回の件には、天界は関与しない。それが上層部の決定だ」
熾天使の一人が重々しく言うと、いつも魔界との境に配置されている、荒々しい能天使が鼻で笑った。
「関与どころか、魔王の覚醒を許してしまった時点で大きなミスだろう。失態の上塗りをするより、今は天界の守りを固めることが先決。上の考えそうなことだ」
「……大天使たちはなんと言っている?」
ベリアー界を守護する、重要な任務を背負った彼らはまた、常時地上降臨を許されている数少ない天使だった。
大天使の人間たちへの影響力は、天界でも最も大きいと言われている。

「大天使たちは沈黙を守っている。それぞれの宮で職務を真っ当にこなしているようだ」
ガジュエルは眉を顰めた。
無断で地上に出かけていくツァドキエルや慈愛の塊のようなジブリールが、人間を見殺しにするとは思えない。魔王<ルシフェル>と因縁を持つミハだって同様だろうと思われたのだが。

「人間は少々増え過ぎている。この機会に減らすのも良いと考えているのではないか?」
「それなら私も同意見だ」
ふっと哀しげに呟いたのは、細面の智天使。
「創造主が下したこの世界、人間だけのものではあるまいに。最近の驕り高ぶりは目に余る」
「しかし、神罰としての魔王降臨は拙いだろう」

全く進展しそうに無い席に業を煮やし、ガジュエルは一人その場を離れた。
12本の柱の中央に浮いた、空中庭園から舞い降りると、小さな広場に向かう。
すり鉢状に作られた広場の中央に澄んだ水の湧く泉があり、その透明な水面から地上の様子を伺い見ることが出来る。
ガジュエルは暫く泉に手を浸して、その中に見入っていた。
魔王の強い力は、意識しないうちにも自然と周囲に吹き荒れて、木々は悲鳴を上げ、虫や小鳥、人間の赤ん坊など、か弱き命たちから次々に闇の影響を受け始める。
自分が、何のせいで消えるかも判らぬままに。

「我らは天使であるのに……」
苦しげな声が、唇から零れる。
「地の嘆きを。生きとし生けるもの全ての苦しみを。一番感じ取らなくてはいけないのに。何故、耳を塞いでいられるものか……」
ガジュエルは背中の白い大きな翼を開いた。やや青みがかった天使の羽根が、はらはらと、舞う。
「地上が、人間だけのものではないのは判っている。だから、だからこそ。野の百合一つさえ気に掛けて下さる神の御心に、背いているとは思わないのか……!」
泉の守護をしている、双子の天使が、慌てて駆け寄ってきた。
「ガジュエルさま。どうか気持ちをお鎮め下さい」
「この泉から地上に降りるのは禁じられております。門にお回り下さい」
左右ほぼ対称に金の髪を垂らした天使たちの、訴えるような蒼い瞳に見つめられて、ガジュエルは苦笑する。
「地上へは降りない。どうせ門に行っても許可が下りるまい」
ぴっと自分の羽を一枚手に取り、泉の水面にふわりと落とす。
「この間の祭の御礼に行く。銀の塔の主(あるじ)に……ご挨拶を」
「……畏まりました」
双子の天使が礼を取ると、広場に茂る星鈴樹の実がガジュエルの力に反応して、リィィィィン……と音を立てる。
彼らが顔を上げた時には、ガジュエルの姿は泉に溶けて消えていった。





眩いほどの水晶造りの部屋。
その中に、一人の人物が腰掛けていた。
象牙を思わせる肌に刻まれた繊細な顔は、儚げな雰囲気を持ち。肩から腰へ、更に足元へと流れる長い髪は僅かに銀色を帯びた白。
それに合わせたような、銀の縫い取りのある白い衣を幾重にも纏っている。
すんなりした華奢な手には銀の針が握られ、透き通った机の上に大きく広げた複雑な模様の布(タペストリー)を、せっせと繕っていた。

「アウローラ!」

澄んだ声と共に、翼が羽ばたく音がした。
アウローラと呼ばれた人物は、軽く細面の顔を上げた。

「…ガジュエル、か」
アウローラは軽く笑って、神秘的な銀色の瞳をガジュエルに向けた。
その目に見つめられると…ガジュエルは少し不思議な気持ちになる。
そう、アウローラは完全な盲目で、自らの意思で目を閉ざしているジブリールとは違い、生まれ付き視力というものを持たない。
では、その瞳が何のためにあるのかというと…それはまた、その力を表している美しい宝珠だとしか言いようがなかった。
自分を見つめていると思うのもただの思い込みに過ぎず、偶然こちらを向いているだけなのかもしれない。

銀のアウローラ。銀の塔の主。
その名は、金色の影と並んで、古い御伽噺となっている。
世界を一枚のタペストリーに織り込んでいる者がいる、と。
世界が終焉を迎える時、そのタペストリーもまた、壊れてしまうのだと。

「ガジュエル、何かあったのか?」
優しげな容姿に反した、些か乱暴な口調でずばりと聞く。力天使の言葉も、意図せず砕けたものとなる。
「一応、この間の衣のお礼に来たんだが、それどころじゃなさそうだ。魔王<ルシフェル>の欠片が地上に降臨している。上層部は巻き添えを恐れて手出ししないらしい」
あちゃあ、と言いたげな表情で、アウローラはタペストリーに指を走らせた。
「この歪みはそのせいだったのか。どうりで、綻びが酷くなるはずだ…」
そんなことを呟きながら、せっせと銀の針を走らせる。その先に付いている糸も見えないのに、布の綻びは見る間に修復されていく。
しかし、縫っても縫っても自然に布は解けて、新たな穴を作り出してしまう。

……こんなことをずっと行っているのだ。何百年も何千年も。


ガジュエルは、以前からしばしばこの塔を訪れてきた。
万聖祭の聖衣にしても、彼がアウローラに頼み込んだもので、タペストリーを作る重要な役目の傍ら、見事な布を織り上げてくれた。
ガジュエルが礼を言うと、友人の頼みは断れないからね、と笑ったその人が古い伝説であること自体が、どこか奇妙な気すらする。

「…忙しいから、茶は出せないよ」
彼の視線に気づいて、アウローラは笑いながら言った。
「………。地上は大丈夫だろうか…」
ガジュエルは、その向かいに座りながら小さく呟く。
「魔王の降臨で、森は焼け、川は乾き、国は滅び、生き物は並べて疲弊してしまうのではないか……?」
「そうはならない」
アウローラは答える。
「幸いにも、今回は気付くのが早かったようだ。ほら、人間たちが立ち上がっている。力ある魔術師もいる。彼らは、自分の家族を、友人を守るため、必死で戦う」
銀の針が、キラリと光った。
「人間だけじゃない。絆を持ったものは種族を超えて手を取り合う。まだ目覚めたばかりの魔王だ。力は完全じゃあない。…ん、お前のお仲間も召還されたようだ」
「あ、あいつら…っ」
カタン、とガジュエルが席を立った。一瞬、地上から大天使たちの強い波動を捉えたのだ。
「人間に召還されるならば、上層部に反したことにはならないだろう?」
「そうか……」
ガジュエルは、溜息を吐いた。
「人間を、大地の子らを見くびるなよ。彼らは、お前が思っているより、ずっと強い」
アウローラはにこりと笑った。





地上への魔王<ルシフェル>の欠片の降臨。
それに対する、地上の生き物たちの叛乱。
その中で、ツァドキエルは初めてエリューシアに呼ばれることになる。
自分の全てを代償にした召還に、6人の大天使たちは誰一人として抗わなかった。

ジブリールは、柔らかなぺールブロンドの髪を靡かせて、地上へと舞い降りて行った。
「大天使が一度に召還されるなんて…とても人間業とは思えないわね」
呟くと、横を飛ぶツァドキエルが顔を歪める。
「彼女は、何の力もないただの子供なのに……!」
「そうね。でも、逆になんの力もないから…」
あまりに自分の力がなさ過ぎるからこそ、どんな力でも無限に注ぎ込める器となりえる。
だから、彼女は巫女なのだろう。

「そんな詭弁……」
ツァドキエルは一瞬眉を顰め、髪を結んでいた紐を解いた。
「行くぞ」
低い声で呟いて、片羽とは思えぬ速さで、下へと降りて行く。
他の大天使たちが、それに続く。
遺跡には、彼らの他にも天使…魔王と対峙する魔術師の守護天使(ガーディアン)たちが集まりつつあった。
天使たちの瞳には、肉体よりも先にアストラル体やエーテル体を感じ取れる。
彼らの周囲は、魔王の欠片(ルシファー)の強大な魔力や、妖魔の王族ものと思われる凛としたアストラルや、何人かの人間の魂、他の魔族の闇の力など様々な命の火が交じり合って、まるで呪われた宝石箱のように妖しく輝いていた。







戻ルノ?