―6― ――…我が胸にある 思い出のなる樹よ 貴方の笑み 映すその梢 風そよぐ 思い出のなる樹 忘れじの誓いのたび 健やかに育たん… ある国の町外れの小さな酒場で、一人の女性が月を模した銀の竪琴を奏で唄っていた。 殆どの客は、音楽など意識も払わず。 その日の出来事と噂話に花を咲かせていたが。 ただ幾人かの者だけが、楽に耳を澄ませ、微かに目を潤ませる。 我が心に咲く その花と君よ 溢れし想い 露と零れ潤す 風そよぐ 思い出のなる樹 忘れじの誓いのたび 永久に…… 女性は歌い終わると竪琴を抱えなおし、そっと一礼する。 パラパラと疎らな拍手の音が響いた。 投げられた僅かなコインを持って立ち去ろうとすると、客の一人に呼び止められた。 「三流吟遊詩人(バード)お前、最近夜伽の客は取っていないんだってな?」 「……はい」 女性は伏せていた青い目を上げ、静かに頷く。 「なんでも、どこぞの屋敷の主(あるじ)の専属になったそうじゃないか」 含みのある笑みを向けられて、女性は曖昧に微笑む。 「………。だと、宜しいんですけどね」 失礼を、と長いローブを引き寄せ、足早に酒場を後にした。 夜の道、まだ町の灯りはちらほらと燈っている。 僅かの内に、通い慣れた屋敷への帰路を辿るうち、ふと空を見上げた。 宵の明星とも呼ばれる星が、静かに煌いていた。 ゆらゆら浮かぶ青い陽炎を見ていたツァドキエルは、そっと瞳を閉じた。 ここは、天界でも最も深い海の中。 不思議と心が休まる。羊水の記憶を持たない天使でも、そう…生まれる前はこんな世界に いたに違いない。 広げた翼から、伸ばした指から、ゆっくりと毒や傷が浄化されていく。 対流に逆らわず、身を任せてたゆたう内に、時間の感覚や、自分自身のことさえ忘れてしまいそうな 気がする。 しかし、やがて遠くから、クスクス笑いと小さな声が細波のように聞こえ始めた。 「聞いた? あの噂」 「聞いたわ、私も」 「魔王<ルシフェル>の欠片が、蘇えるんでしょう?」 小さな女の子達がじゃれているような楽しげな声が、天界のトップシークレットに属するようなことを 囀りあっていた。 「本当かしら? 今までだって何回も見付かったことはあったじゃない?」 「魔王の欠片に対する、天の管理は凄いのよね。小さな欠片はいくつも潰されているわ」 「最後のラッパが鳴るまでは、彼(魔王)には出番はない、というのが天界の考えよ」 「神様に倒されるために」 「悪魔は食べられちゃうんですって」 「まぁ、怖い」 くすくす、と一斉に笑い声が起きる。天界のことなのに、まるで他人事のようだ。 「悪魔といえば、あの噂はどう?」 「魔界の伯爵様のことよ。何の酔狂か、盲目の女を手元に置いているんですって」 「しかも人間」 「血を交わして瞳や声を癒した上、指輪まで与えて可愛がっていらっしゃるとか」 「もしかして、子供が出来るかしら? 人の血を引く悪魔の子」 「闇の御子」 「……水天使のお嬢さんたち、それはここでする話ではないんじゃないかな?」 ようやく、ツァドキエルは瞳を開いて身を起こした。 周囲に集まっていた色取り取りの光の粒が、きゃあきゃあ笑い声を上げながら四方に散っていく。 「ツァドキエル様のお目覚めだわ!」 それを見送りながら、やれやれ、と溜息を吐く。 水天使と言っても、彼女たちは生粋の天使(エンジェル)ではない。 時々、大天使ジブリールが地上に降りる時、水辺で死んだ迷える魂……人の水子や、故郷の前で殺された鮭や、 悪戯に羽根をもがれた蜻蛉や…そういった子達を連れ帰り、心が癒えるまで自分の海で遊ばせて置くのだった。 けして悪意はないが、善意もない。そんな存在。 「ここも一応天界だと言うのに……」 海には、色々な物が流れ込む。それは例え天界の海だとしても例外ではなく。地上の他愛も無い噂から、しかめつらしく囁かれる 国家機密まで、彼女たちには単なる遊びの種でしかないのは解るのだが……。 「それに、エリューシアが子を身ごもることなどありえない」 ツァドキエルは、先ほどまでより幾分か寂しげに呟いた。 彼女は12の歳まで、神殿で毎日薬を飲まされていた。それは、女としての成熟を止めるもの。 生贄として必要とされたのは、男でも女でもない”無性”な存在であったために。 今は外見こそ大人の女性の姿をしているが、その実子宮はまったく育っていないし、月のしるしさえない。 「彼女は、闇の子を産むことは出来ない。 ……しかし、彼女を闇に染めることは出来る。 神の降臨の器。光の器。それは闇の器に、魔王のための絶好の道具ともなりうる……」 まさか、そういうことなのか? とツァドキエルは顔をしかめた。 他に彼女を手に入れてどんな利点があるのかと。 「愛は……利害で計れるものではないわ」 感情が水に溢れていたのか、返事のように涼やかな声が響く。片手に百合の花を持ったジブリールが、水面からゆっくりと降りてきた。 「体の具合はどう?」 頭に被った薄い布を透かせて、柔らかに微笑む。 「……ああ、すっかりいいようだよ、ありがとう」 ツァドキエルは笑って言葉を返す。 彼女の宮である月宮はこの海の中にあり、天界でも稀に見る浄化の場所となっている。毒の痛手を癒す ため、ツァドキエルはここを訪れたのだ 彼の返事を聞いて、ジブリールは桜色の唇に指を当て、小さく首を傾げた。 「今日は、貴方なのね?」 「……僕は、いつも僕だよ」 ツァドキエルは惚けたように笑う。 「それにね……エリューシアの愛は、まるっきり底なし沼に咲いた小さな花だ。賢い上級悪魔たるものが、そんなもの欲しがる と思うかい?」 「……そんな歌があったわね、地上に」 ジブリールはたおやかに笑む。 「いくら聡くても、割に合わぬと思っても。つい手を伸ばしてしまう、それが恋でしょう?」 「じゃあ、あの悪魔が本気でエリューシアに惚れたとでも?」 閉じた瞳に、僅かな表情が生まれ、そして消えた。 「私にも解らないことはあるわ。でも、戯れであったとしても彼は手を伸ばし、彼女に踏み込んだ……。 それによって彼女は花開いた。それを覆すことは出来ない。そう、神にも」 二人の間に、暫しの沈黙が落ちた。 「……そろそろ行くよ」 「………。気を付けて」 柔らかなペールブロンドに陽炎を映し、ジブリールは祈るように囁いた。 ツァドキエルの片羽の翼が、ふんわりと水に舞い上がる。 「ああ、そうだ。君にお願いしてもいいかな?」 ツァドキエルは振り返り、笑い掛けた。 「なんでも」 「ありがとう。今僕の下にね、ラーシャエルって女の子がいるんだけど、中々優秀な天使なんだよ。 良かったら、君の所に移して貰えないかな?」 「………もう、帰って来ないつもりなの?」 ツァドキエルはゆっくりと首を振り、片手を上げた。 「頼んだよ、ジブリール」 「……。解ったわ」 気を付けて、と繰り返す少女の顔には、母親のような愛しさが溢れていた。 「ジブリールさま?」 俯いてしまった天使の周りを、幾つもの光が取り囲む。散って行った水天使たちが、主の気配に戻ってきたのだ。 「……私の所為だわ」 ジブリールはポツリと呟いた。 ツァドキエルは知らなかったかもしれない。 死者から記憶を奪う冥界の河、レテの雫。 エリューシアの魂が二つに割れてしまったのは、神に命じられて、彼女がその水を彼女に与えたせいだと言うことを。 百合の花を水中に浮べる。まるで何かに手向けるように。葬るように。 「私の罪……」 |