―5― 薄日差す、天界の窓辺。いつものように静まり返った図書館の閲覧室の一角に、似つかわしくない黒い影が蟠っていた。 竜眼細工の扉が開き、赤銅色の天使が中に入って来る。 「……あら、デューク。いらっしゃっていたのは貴方でしたの」 手にあかがねのロッドを構えつつ、シーズィエルは柔らかな声を掛ける。 顔の大半を仮面で隠した背の高い男は、秀麗な笑みを浮べて振り返った。 「また禁呪の書でもお探し?」 悪戯っぽくそう言うと、いや……と近くの棚に近付き、一冊の黒い表紙の本を手に取る。 「下らない人間の御伽噺。だが、明日の万聖節の前に少し調べたいと思ってね……」 低いバァリトンの響きと共に涼やかな目を向けられると、悪魔と言うものをよく知っているシーズィエルでさえもゾクッとした。 そう、彼は堕天使の中でも特に公爵(デューク)の称号を持つ者。 そんな彼が天界でも重要なベリアーに入ることができるのは色々な盟約によるものと言うが……お供一人付けずに窓辺に佇むその 姿は、酷く無防備でいてさり気ない仕草まで優美と言うより他ない。 シーズィエルが思わず溜息を吐くと。 「何か?」 からかうような視線を向けられる。シーズィエルは慌てて、 「そういえば、今日はサーウィンの夜でしたのね」 と呟く。 「そう、悪霊が最も騒ぎ立てる宵……今回はどんな悪戯をしでかすやら」 一方、イェツィラーにある天青石(セレスタイト)の間では、天使たちが明日の祀りの準備に追われていた。 その中で、一際目を引くのは、”天使の篭”と呼ばれる花園から出たばかりの天使、ラーシャエル。 輝く金髪に、美しい褐色の肌を持つ少女は、眩しいほどの笑みを浮べ、初めて与えられた役目に心を躍らせていた。 卵から生まれた天使たちの多くは、”天使の篭”に集められる。 そこで無垢な花を育てることによって自分の能力を見極め、ある程度育ったら天界のそれぞれの役職に就いて行く。 ラーシャエルが慈しんだ花は、誰よりも早く育ち、大輪の花を咲かせた。 「ああ、君はとても大地の力を受けているらしいね」 幼い天使たちの力を調べに”篭”に訪れていた一人の天使が、ひょいと少女を抱き上げて笑った。 「お嬢さん、お名前は?」 「ラーシャエル。皆はラーシャって呼ぶわ。ねぇ、そうしたら、私を使って下さる?」 少女が首をかしげると、細く波打った髪に飾った薄緑の花びらが揺れた。 いずれ、”篭”を出たら、他の天使の元で働くことになることを知っていたラーシャエルは、この人ならいいかな、 などと子供心に思った。 「僕の仕事を知っているかい?」 「いいえ、知らないけど」 う〜む、と天使は眉を上げて、それから青い瞳で優しく微笑んだ。 「じゃあ、こうしよう。君がここを出る時に僕の所に来たかったら、呼んで上げるよ」 あの方は、約束を守ってくれたわ。とラーシャエルは嬉しく思った。 暫くして、篭を出る時期になった時、彼がツァドキエルと呼ばれる大天使(アークエンジェル)であることを知り。 彼女が望めば、彼の仕事を手伝えるよう指名されていることを告げられた。 周囲の若い天使たちは、『とても怖い方だそうよ』と敬遠していたが、彼女は進んで役目に就いた。 「どこが怖い方なのかしら?」 あんなに優しそうに笑うのに。 天青石の柱のあちこちに、決められた数の花を咲かせながら、ラーシャエルは思う。 艶やかな金髪から零れ落ちた光の雫が、水色の床の上にもポツン、と白い花を咲かせた。 「……あら、いけない」 うっかりしてしまったわ、とラーシャエルは溜息を吐く。素早くその花を掬い上げると、自分の髪に挿した。たちまち細い蔓が 絡みつき、小さな髪飾りが出来上がる。 「相変らず見事だね、ラーシャ」 笑いを含んだ声に振り返ると、白い衣を携えたツァドキエルが立っていた。 彼に見られていたことを知ったラーシャエルは思わず真っ赤になる。 「綺麗な花冠(ティアラ)だ。祀りの聖衣にも合う。聖霊たちにも一つづつ作って欲しいね」 そういう彼は、まだ長い髪は纏められ、金の縁取りのある青い礼服も着ていない。本当のところ、聖衣を纏ったツァドキエルは 些か近寄り難いので、ラーシャエルはほっとした。 「それが今回の聖衣なの?」 彼女は幼い少女の仕草で、ツァドキエルが持っている物を覗き込む。 「なんて綺麗……」 ラーシャエルが触れると、キラキラと輝きが布を滑る。編みこまれている虹のような祝詞にしても、淡く瞬く霊光にしても、 まるで全天の星の糸を織り合わせたような見事な出来だわ、とラーシャエルは思った。 「銀の塔の主の作だそうだ」 ツァドキエルの口調には、どこか面白げな調子があったが、何も知らないラーシャエルは、ただただ瞳を見開く。 「”銀の塔”にはこの世界の全てを一枚のタペストリーに織り込んでいる方がいらっしゃるとか」 「うん、そうだよ。僕も直接会ったことはないけどね」 「……ただの人間たちの迷信だと思ってました…」 「地上の伝承にも真実はある。割と、ね」 「人は運命と言う黄金の鳥篭に捕らわれた小鳥。時にそこから逃れようと酷くもがく。 金の影は、悪戯に鍵を開けて鳥たちを逃がすが……果たして、外を自由に飛び回ることが本当に幸せなのか?」 座り心地のいい、ビロードの椅子に腰掛けて、公爵は本のページを捲る。 「……おっしゃる意味がよく解りませんの」 「たいした意味などない、地上の御伽噺だよ」 薄く笑った瞳を、ふいに窓の方にやる。シーズィエルも釣られて窓を見上げるが、そこには美しい天界の空が映っているのみで。 「………。捕まったな」 「小鳥、ですの?」 思わず問い直してしまう。 「ああ。……小さな小さな盲目の小鳥。そのくせ無鉄砲で、天の籠を逃れ、今、黒きボーシャの手に自ら望んで飛び込んだ。 なんとも面白い」 「デュークがそれほど興味を持つなんて、珍しいですのね」 男は答えず、ただ笑った。 突然、ツァドキエルの手から祀りの聖衣が滑り落ちた。煌きながらふんわりと床に広がった衣に目を奪われたラーシャは、 ツァドキエルを見て、思わず叫び声を上げそうになる。 眉は苦しげに顰められ、手は何かを掴むように胸を押さえている。蒼白に染まった肌に、玉のような汗がすぅーっと流れた。 「……あ、あ、ツァドキエル様?」 「水を……」 ツァドキエルは掠れた声を絞り出した。 「聖水を……早く……」 「は、はい!」 ラーシャエルは弾かれたように羽ばたいた。柱の並ぶ回廊を抜けて、星鈴樹(リンゼア)が茂る庭園に辿り付くと、 手に花の蔓をからませ、大きな器を作る。木々たちに手を当てて、 「祈りの時間に出来た、聖なる露を分けて」 とお願いすると、微かな響きを立ててその葉を揺らしてくれた。 ポタポタと零れ落ちた甘い雫が、ラーシャエルの器に吸い込まれ、やがてたっぷりと満たされる。 「ありがとう!」 待ちきれぬように、彼女は礼を言うと、また急いで元の道を引き返した。 天青石の間に入ると、ラーシャエルはドキン、とした。ツァドキエルが柱に凭れかかり座り込んでいたからだ。 周りを見回しても、年若い天使たちばかりで、まだ誰も気付いていない様子に心の中でああ、と叫ぶ。 「お水……持って来ました。お水…」 しゃがみ込むと、ツァドキエルは何事かを呟いていた。 ぐっと体の奥から突き抜けるような痛みが走り、炎のようなものが喉から胸に、胸から腹に滑り落ちて、全身に広がっていく。 激しい苦しみに、ツァドキエルの手から衣が落ちた。 その時、ツァドキエルは理解した。 自分の片割れとも言える、彼が見守り続けてきた少女が今、神の元を永遠に抜け出し、闇の加護の下に入ったと。 眩む目で地上を幻視する。廃墟と化した神殿に黒い影が一つ……帽子を被ったシルエットがエリューシアを腕に抱き抱えている。 その背中に、黒い堕天の翼を感じ取った時、その映像(ビジョン)は掻き消えた。 「……こんな力の強い悪魔が、地上を訪れていたとは…」 走り去るラーシャエルの羽音を片耳で捕らえながら、ツァドキエルは唇を噛む。 エリューシアの内に眠る神の力は、彼女自身にはなんの恩恵も齎さず、罰の苦しみを増やすばかりであったが、 その実、強力な魔除けともなっていた。 いくら彼女の想い人が魔の者でも、早々神の生贄に手を出したりはしまいと高を括っていたのだが…… 神の欠片の力を押さえ付けてしまえるだけの闇の杯を、彼女は受けた。勿論、彼の悪魔が与えたのだろう。己の血を。 上級悪魔(グレーターデーモン)の血。 それは、天使であるツァドキエルには猛毒とも言えるもので。 彼女が地上に存在する人間なのにも関わらず、物質界と神界を繋ぐ巫女の力が、ツァドキエルにも異変を齎した。 「……ちょっと近付きすぎたな…」 ずるずると柱に凭れて座り込みながら、ツァドキエルは苦笑した。羽根が片方しかない彼は、元々抗魔力が弱い。 悪魔の力を間接的にではあるが注ぎ込まれたショックと、エリューシアを奪われた痛みが、体の力を奪う。 「君が知るべき愛は、エロス(性愛)ではなくオガペ(神の愛)だった筈なのに……」 けれど、仕方がない。彼女はもう選んでしまったのだから。引き返すことは出来ない。 「神の屍人形が、恋などして幸せになれると思うのかい?」 呟いてみても、負け惜しみとしか聞こえなくて。 「そう、君はそんなことどうでもいいんだよな。恋すること自体が既に望外の至福なんだから。 僕はむしろ相手に同情するね。ああ、するとも。君は本当に人を大切にするということがどういうことか全く解っていない。 何も知らない子供も同じなんだ。 自分を傷付けることで、相手がどんなに傷付くかとか、そんなことさえもう……何言ってるのかよく解らなくなってきたじゃないか」 ツァドキエルは、右手で自分の髪をぐしゃぐしゃ掻き回した。縺れた銀糸がキラキラと輝く。 ふっとその手が止まり、じっと空を見つめる。僅かに痛みが薄れた体が、何かを捉え始めた。 「なんだ、これは……」 ツァドキエルはバサッと片羽を広げた。いつしか青い水晶のような瞳が、ただじっと一点を見つめている。 同じ力に属しているエリューシアとツァドキエルは、離れていてもどこか繋がっていた。 それは人間と天使という間を越えて、深く……それでいて微かなものだった。 例えるなら、合わせ鏡に映した自分の何重もの映し身の果てに、相手の影が僅かに見える、そんな感覚。 そして今、エリューシアの影は曇り硝子に隔たれたように消えてしまったが、もう一つ小さな姿がちらりと掠めたのだ。 それは幼い子供のようで、澄み切ったケセドの力を湛えた…まるで……… 「……巫女姫?」 まだ罪を知る前の、楽園に導かれる光(エル・エリューシア)そのものじゃないか。とツァドキエルは眉を顰める。 「………キエル様、ツァドキエル様っ!!!」 ザバ、と耳元で水が鳴る。 ツァドキエルは全身ずぶ濡れになってラーシャエルを見上げた。 「………。冷たいなぁ」 「ごめんなさいっ。だって、何かブツブツ言っていらっしゃるし、呼んでもお返事が無いから……」 まだ水の滴る器を持ったまま、ラーシャエルは頭を下げた。 「うん、まぁ、ありがとう。助かったよ」 ツァドキエルはゆっくり立ち上がる。聖なる力を強く帯びた水のお陰で、随分と体が楽になった。 まだ真っ赤になって彼を見つめているラーシャの髪を軽く撫でてやった。 何かの拍子にエリューシアが二つに分かれてしまったのか。あるいは、彼女の罪を魂の半分にだけ課して、 もう半分は清らかな巫女のまま眠らせておいたのか。 それが神の御意志なのか……。 色々確かめなければいけないことが増えたな、とツァドキエルはどこか面白げに考えた。 「堕天するかな…それも面倒だしな……。まぁ、気付かれずに戻ってくれば大丈夫だよな、うん」 何かを隠すのは得意な方だし、と惚けたような笑みを刷く。 「ツァドキエル様、どこかいらっしゃるの? 明日は祀りなのに」 後半だけ耳に止めたラーシャエルが不思議そうに聞く。 「ああ、ちょっとね」 頷くツァドキエルの瞳は、どこか遠くを見ていた。 「さて……そろそろ退散するとしようか」 デュークはパタン、と読んでいた本を閉じ、棚に戻しながらそう言った。 「あら、お帰りですの?」 「地上の夜が明ける前に戻りたいからな」 男がにやり、と笑うと図書館の蛍石の床に、黒い円陣が現われる。禍禍しい瘴気が微かに立上った。 「……そういえば、情報の天使たる君はこの噂を知っているかね?」 「? 何を?」 デュークは仮面の下に表情を隠したまま……どこか楽しそうに囁いた。 「近々、ルシフェルの魂の欠片が、目覚めるやもしれない」 「………なっ」 シーズィエルが言葉に詰まっている間に、男の姿は円陣の中に沈むように消えた。 ※サーウィンの夜 万聖節の前の夜。ハロウィン。 |