天界と地上を隔てているもの……それは物理的な障壁ではなく。
空から舞い降りていくのも、イメージでしかない。
言うなれば、生死の境のようなもの。

天の青貴石から目を凝らせば、いつでも下界を捉えることが出来るが。
そこに降り立つには、自分もその階層に貶めなければならない。
人が生きながらにして魚(うお)に変わるような。
体も火も言葉も捨てて、果てしない海の底へと……。

神に近い階級の者ほど、地上に降り立つことが少ないのは、そのためだ。
そして、天界に比べて、人の世界は遥かに忙しない時を刻む。

そんな夜……煌々と輝く月光の下、古い神殿の跡を、一人の女性が歩いていた。
体が不自由なのか、細工が施されたしなやかな杖を携えている。
いつから廃墟になったのだろう、白い大きな柱は半ば崩れ、床石も所々欠けて皹が入っている。
太古の神々を祀った…名も残らぬ人たちに思いを馳せるように細めた彼女の瞳は、深く暗い深海のような色で。
淡い月に澄んだ藍色が透ける以外は、まるで漆黒の宝玉のようにも見えた。

彼女はつい最近、視力を失った。
それなのに、その足取りが全く迷い無いのは、手にした杖が、魔法の品であるからだ。
親しい魔術師が贈ったその杖は、失明の不安を半減させてくれる、素晴らしい物だったが。
やはり、美しい月が見られないことは残念だな、と彼女は思った。


やがて、崩れた柱の中でも、割と低く平らな物を選び、女性は腰掛ける。
フード付きの大きなローブの中より、月を模した銀の竪琴を取り出して。
まるで、月の女神に捧げるように、静かな曲を奏で出した。

澄み切った、どこか切ない旋律が、蒼い夜を滑らかに流れていく……。

と、女性の耳が、小さな羽音を捉えた。

アメジストに落ちた、一片の雪のように。
白いハトが、その傍らに舞い降りた。


「……貴方ですか」
女性は眉を顰めて呟いた。
「だから、貴方のことは召還(よば)なかったのに。どうして来たんです?」
「ご挨拶だな」
白いハトはツァドキエルの声でそう言った。
「君が天使を召還したと聞いてね」
「何か問題でも?」
彼女はそっけなく応える。
「……無論、それで君の居場所が天界に解ってしまった。
僕は、守護天使(ガーディアン)の力をもってしても、見付からなかったと言ってあるのに。
これからは、御使いたちが君の元に押し寄せるだろう」
「………。疲れてしまったんですよ」
彼女はクスクス笑った。
「記憶も無いのに、大罪を犯したと言われ、大勢の人を殺した業を背負わされ。
ふらふら世界を彷徨うのにも、なにもかも」
「……嘘吐きだな」
「勿論」

彼女の声に潜む、どこか甘やかなものが、ツァドキエルを不安にさせた。
「浮かれてるね」
「ええ、恋をしているんです」
「まさか、君が? 愛など知らないくせに」
ツァドキエルは鼻で笑った。
「……酷いことを言いますね」
「君は神の屍人形。人を愛するすべなど知らない」
きっぱりと言い切られ、女性は顔を逸らした。

「それとも、神を愛するように、そいつを愛するつもりかい? 相手が耐えられればいいけどね」
「……ご心配なく。打ち明けるつもりもありませんから」
あっさりと言って、女性は柱から飛び降りた。
想いを受け止めてもらうことはおろか、伝えることさえ出来ない恋。そう思っていた。
それでも、こんな天使なんかに踏み躙られる謂れはない。まるで自分を知り尽くしているような物言いが、彼女の気に触った。

「大体、十年以上昔の生贄に構うなんて、貴方も暇すぎやしません?」

「彼らが捜しているのは生贄だけじゃない。そこにいる……神だ」
ツァドキエルは天界の上層部の思惑を、まるで他人事のように話した。
「正確には、神の力の一部とも言うべき物…それが君の中に封じられてしまった。彼らは早いうちに 君の罪の汚れと業を落し、純粋(ピュア)な状態の力を取り出したいのさ」

本当はもう一つ理由がある、とツァドキエルは思う。
極めて単純なこと……ごく普通の人間が、自分達の仕える創造主(ああ、ハレルヤ)を飲み込んでしまった、 そのこと自体を消し去りたいのだ。
そんな事実があると思うだけで、彼らは耐えがたいのだろう。


「今更ですけど、私自身のことなんて、どうでもいいんですよねぇ…」
女性が大げさに溜息を吐いて見せた。
ツァドキエルはふと彼女を今すぐ天に連れて行くべきだろうかと思った。
神の意志は、あくまで放浪と言う罰……しかし、それが天界にとって取り返しのつかないことになるのではないかと。

そう、叶う筈のない恋が叶って。
突き放す筈の腕が、抱き締めて。
彼女が幸せを知ってしまったら。
何も変わる筈のなかった運命が狂いだすだろう。
諦めが希望に。
苦痛が喜びに。

……光は闇に。

やがて、深い闇が神殿を覆い尽くす。


「……君が恋した人というのは、天使を召還してまで生き返らせようとした少年ではないのかい?」
騒ぐ胸を押さえて、ツァドキエルが問う。
女性は振り返り、見えない筈の瞳を不思議そうに細めて、天使を視た。
「いいえ?」



”……あの方は、彼を殺したひと。”




声に出さない囁き。ふいに、ツァドキエルの脳裏に、鮮やかな色彩が浮び上がった。

紅玉のような血に彩られた神殿の床。
倒れ伏す、少年の柔らかな躯。
咽返る程甘い、薔薇の香り。

……喉に絡まった、悪魔の冷たく細い、しなやかな指先。

「私のことも殺して下さるのかと思いました……」
首元に己の指を触れさせ、どこか恍惚とした表情を浮べて、彼女は微笑む。

「それも一つの恋の成就…か」
やはり、君が考えていることはよく解らないよ、とツァドキエルは呟く。
「光を拒んだ反動で、闇を愛しているような気になっているんだろう」

君は、恋など出来ない、とツァドキエルは繰り返した。
まるで、自分に言い聞かせているみたいですね、と女性は笑った。
かつてない艶やかな表情にドキリとしながら、大天使は白い翼を広げる。


「忘れるな。君が望まなくても、僕はケセドの天使……君と僕とは、まだ同じ力で繋がっているんだ」



ふんわり微笑んで、彼女は黒いローブを引き寄せた。
何も聞かないふりをして、そのまま、ゆっくりとした足取りで神殿を出て行こうとする。





「……エリューシア」






いつしか月影に浮かんでいた、天使のシルエットが消える。
パタパタと軽い羽音が響き、辺りは夜の闇に沈んだ。







戻ルノ?