―3― …時は、遥かに遡る。 天界の図書館でシーズィエルと別れたツァドキエルは、すぐさま複雑なベリアー界を繋ぐ径(パス)に入った。 軽く羽根を広げ長い銀髪を纏めていた紐を解く。 キラキラと光の糸が零れ落ち、一瞬にして荘厳な”大天使”を作り出す。 彼が普段の自分と、職務中と使い分けている仮面…。 そのどちらが真実とも言えないのだが。 彼が守護している木星宮の水庭に降り立つと、主の帰宅に共鳴して、庭一面に薄く張られた銀色の水に、僅かな漣が立つ。 それは何度も色を変えて広がり、辺をぐるりと囲む天界の樹…星鈴樹(リンゼア)に届いた。 「あら、ようやく不良天使のお帰りね」 柔らかな澄んだ声が、頭上から降ってくる。近くの木を見上げると、象牙色の髪の少女の姿をした天使が、たおやかに微笑んでいた。 「………君か」 「そんなに嫌な顔をするものではないわ。わたくしたちはほんの数人しかいない大天使ではありませんか」 「別に、嫌な顔などしていない」 そういうツァドキエルの表情は厳しいままで、笑みの一つもなかった。 木の上の天使は、コロコロと優しい笑い声を立て、手や肩ににとまらせていた小鳥を空に放つと、白い薄い衣と、その上に重ねた、 ゆったりとした上着の裾を軽く持ち上げた。 「受け止めて?」 そう囁くと、梳られて長く垂らされていた髪が、金色の滝のように舞い上がった。 翼も広げずに落ちて来た少女を、ツァドキエルの腕が易々と支える。 「目も見えないのだから、無茶をするなジブリール」 「あら、違うわ。見えないのではなくて、見ないの」 その両目を閉ざしたまま、ジブリールと呼ばれた天使は微笑んだ。 水庭に浮かんだリンゼアの花びらが、風に運ばれて不思議な模様を作り出す。その上に、そっとジブリールを下ろすと、 ツァドキエルは小さく溜息を吐いた。 「……何か用事があるのだろう?」 「地上には、桜という花があるそうね。その花が散る様は、本当に美しいものだと言うけれど……この庭もとても綺麗」 小さな花びらを集めた船に乗りながら、ジブリールは独り呟く。 「ジブリール」 「せっかちね、貴方は。いつもはそんなにせっかちではないと思うけれど」 「私は………」 解っているわ、とうように微笑むと、ジブリールは小さな巻物を取り出した。それは、白樺の皮のようにすべすべしていて、 とても柔らかそうなものだった。 「……ラフィーから伝言よ。貴方が一番知りたいだろうと思って」 わざと声を低めてそう言うと、ジブリールは言葉を聞き取ろうと寄ってきたツァドキエルの頬を捕まえた。背伸びをして素早く相手の唇に 唇を合わせ、巻物をツァドキエルの口の中に移し変える。 「すぐ飲み込んでしまって。大切なことだから」 「ジブリール……」 思わず唇を押さえたツァドキエルに、少女はコロコロ笑った。 「あら。役得でしょう?可愛い天使にキスを貰えるなんて」 「地上のおかしな習慣に染まったな」 ツァドキエルは言われた通りに巻物を呑み込みながら呟いた。トロリとした甘味が広がる。 「……君でも、可愛いとか外見を気にするのか?」 あら、そんなこと女性に言ったら失礼よ、と言いながら彼女は微笑んでいた。 「いや、先ほどシーズィエルと話していて……」 「ああ、あの子」 そう言って、ジブリールはいとおしそうな笑みを浮べる。 「あのアカシック・レコードを管理するのは、とても重い役目だわ。それに彼女は縛られているのね」 ジブリールは、迷わずシーズィエルを女性形で呼んだ。 「縛られている?レコードに?」 「……いいえ」 ジブリールは白い手を胸に置いた。 「それは、別なものに」 さよなら。と、唐突に話が終わった。リンゼアの薄藍の花びらが大きく巻き上がり、卵形にジブリールを包み込む。 そういえば水上(ここ)はジブリールの領分(テリトリー)だったな、とツァドキエルが気付く前に、少女の姿は膝までしかない筈の水の中に 吸い込まれて消える。 「お休み……水の大天使」 揺れる波紋に、案外優しげな瞳を映し、それからツァドキエルは木星宮の中へ急いだ。 誰にも悟られないところで、飲み込んだ巻物から情報を読み取るために。 *** 巻物に記されていたのは、天使召還のプログラムと、それに従って地上に呼ばれた者との短い記録だった。 召還主は人間で、その願いは悪魔に殺されたという少年を生き返らせるための魂の再生と守護。。 呼び出されたのがラフィーとミハールという重要な役目を負った大天使であること意外、特にさほど目立つことは無い。 ”代償は術者の歌声と視力……これは正規の聖職者の術ではないな” どちらかと言えば、黒魔術を無理矢理天使に反転させたような、微妙な歪みが感じられる。そんな術に従ってわざわざあの二人が出向いたのか? と眉を顰めると、更に小さな言霊が滑り込んできた。 『術者には、神の生贄たる印が付けられていた。 その印と呪文に練りこまれた”我は汚れた神の羊、生贄を捧ぐものなり”という詞が 決定的に彼らを呼び出すこととなった。』 「まさか、君なのか、エリューシア……」 かつて、自分が守護していた少女の名前を、ツァドキエルは呼んだ。 その声には、酷く無表情な顔には相応しくない強い感情が込められていた。 しかし、それが憎しみなのか愛しさなのか本人にも解っていない、そんな声音だった。 巻物は情報を送り終えると、体内で綺麗に溶けた。 しかし天使召還が行われた場所は天界の記録にも残る筈だから、それが見逃されることはありえなかった。 遥か昔に天界が見失った生贄……小さな巫女姫を捕らえるには絶好の機会だろう。贄に上げた瞳と声を見ればすぐに彼女が誰であるか解ってしまう。 それが上に伝わる前に、こっそりと自分に回してくれた気遣いに感謝しつつ、ツァドキエルは考える。 もし、エリューシアだとしたら、神に抗い、神の創った世界の全てに適当な距離を取ってきた彼女が、 どうして今更、自分自身を贄にしてまで天使を呼び出す気になったのか。 それは酷く興味をそそられた。 ツァドキエルが守護していた人間は、ごく普通の少女だったから。 酷く特異な力を持っているわけでも、稀有なほど美しい容姿をしているわけでもない。 血統、家柄、どれをとっても、特別なものは一つもない。 強いて違いを上げるならば、その国にはない漆黒の髪。 ストロベリーブロンドや、アイボリーの柔らかな髪の中で、その色は確かに浮いていたが。 それも、多少異国の血が混じっているのだろうという程度のもの。 その少女が、神に抗う大罪を犯した。 そのせいで、ツァドキエルは片方の羽を折られることになったのだ。 彼女は神のために育て上げられ、信仰の中にだけ存在意義を持たせられた。 誰よりも神を愛し、神に近い人間であった筈……だった。 しかし、彼女は神を拒否した。 『いな』 と。 …記憶を奪われた少女は、もはや知ることはないだろう。 彼女の本当の罪はなんであるかを。 僅かに、神と混ざり合ったあの瞬間、彼女は神を理解した。 それをまだ、人が知ってはいけない……。 もっとも純粋(ピュア)な、罪のように。 |