ようやく起き出したツァドキエルと別れて、シーズィエルは回廊を歩いていた。
その表情は重く、何かを考え込んでいる様子で、肩に乗せた小鳥が気遣うようにピィ、と一声鳴いた。
「……なんでもないですの。心配しないで」
シーズィエルはそう言って小鳥の顎を撫でてやる。
鳥篭があるテラスまで辿り付くと、シーズィエルは小鳥を指に乗せ、そっと空へと解き放った。
鳥の姿が白い雲のように空に解けて行くのを、どこか羨ましげに見つめると、回廊に引き返す。
先ほどとは違う路を、また迷いなく通り抜けて、廊下の途中にある見逃してしまいそうな小さな扉の 前で立ち止まる。
鍵の束から、水晶の小さな鍵を取り出して鍵穴に差し込むと、カチリと扉が開いた。

そこは、シーズィエルのプライベートスペース。
丁度身長と同じ高さの戸口から中に入ると、ふんわりとした草の感触が足を包む。
壁は四方を淡い蛍石で囲まれ、吹き抜けの天井だけが、薄い水晶で出来ていた。
そこから差し込む柔らかな光が、その中庭のような場所に木々を生い茂らせている。
シーズィエルは、翼を羽ばたかせ舞い上がると、太い木の枝と枝の間にしつらえてある、丸いベットの上に倒れこんだ。
白いシフォンの薄い天幕が、ゆらゆら揺れる。
そのまま、暫くじっとしていた。
シーツに広がった赤茶けた髪が目に入って、ぎゅっと目を瞑る。
いくら梳かしても、ボサボサのままの髪。
美しいこと、綺麗なことが当たり前な天界で、その言葉から自分はあまりに遠い。
変わりに与えられるのは、驚愕や哀れみの眼差し。
もはやそんな言葉を望んですらいない。ただどうしても、誰かに近づくことも、人前で唄うことも出来ないでいた。
誰だって、美しいものが好きだ。
好んで、醜いものを選ぶ者は居はしまい。
そう思ってしまう、自分の醜さ、浅ましさを、シーズィエルは知っているから。
一人で、物言わぬ本に囲まれて、それが自分に相応しいのだと思っていた。

いつも、全てが通り過ぎるのを、ただひっそりと待っている…。

それでも、フェネクスが居た頃は良かった、と思う。
彼は見目も美しく、声は素晴らしく。シーズィエルはそれがとても誇らしかった。
まったく羨ましくなかったと言ったら嘘になるけれど。
自分にないものを持っている者を、妬んでいたらきりがないと解っている。
だから、素直に賞賛した。自分に最も近い天使が皆に認められることは、嬉しかったから。

そんな彼が堕天するなんて、想像も付かないことだった。
シーズィエルから見れば、十分だと思えるほどの才能、そして仲間たちからの賛辞。
それらを捨てて、彼は地獄へと下ってしまった。

その後は、シーズィエルに対しても周りの天使たちの風当たりは冷たくなった。
今では殆ど外にも出ず、この図書館に…唯一の自分の居場所であるアカシック・レコードがある場所に閉じこもっている。

手を伸ばして、前髪を乱暴に掻き分ける。右の額の傷跡が露出する。
隠したいけれど、消すことは出来ない傷が、スティグマのように疼いた。
「天界人が美しく生まれて来るものなら、天使じゃないのは、私の方かもしれないのに…」
指が、そっと傷跡をなぞる。

「………馬鹿。」



「ツァドキエルは来ていないか!!」

いつものように、深い湖のごとく鎮まりかえっていた図書館。その静寂を破る小石のような言葉が投げ入れられた。
「…ガジュエル……」
大またで近付いてくる天使を見て、また大声をだして、とシーズィエルは眉を顰めたが、そのただならぬ様子に心がざわめく。
「あの日以来見かけていませんが…何かありましたの?」
不安を隠して問うと、ガジュエルは立ち止まり眉を顰めた。
「やられた。とうとう天界の監視を振りきって逃走したらしい」
逃走、とシーズィエルは繰り返し、
「どうして、そんなことが…」
思わず、腕から落ちそうになった本を抱えなおしながら呟く。
「……人間だ」
「え」
「…人間の少女が関わっているらしい。詳しくは知らないが」
顰め面のまま、ガジュエルはそう言った。
「人間……では堕天?」
今も昔も、人間の女性の誘惑に負けて、罪を犯す天使は多い。シーズィエルの声が震える。
「解らない。上の方は何かを隠したがっているようだが」
そう言うとガジュエルは、真っ直ぐシーズィエルの瞳を見つめ、足を踏み出した。
「…シーズィエル」
「なんですの」
「アカシック・レコードの使用を要請する」
シーズィエルははっと目を見開いた。
「……それは、警備官の意思ですか?」
「いや、私個人の考えだ」

「それならば」

暫し考えていたシーズィエルが顔を上げる。
「使用を許可しましょう」


無限に広がりし、静かな銀河……。
まだ、光が粒子であるということが知れ渡る前、人の中ではこの宇宙にある物質が満ち満ちている、という考えがあった。
それが、光を伝導させ、遥かな星の輝きを届けるのだと。
色も香も重さもない、その不思議なものを、人は”エーテル”と名付けた。

やがて、光が波でもあり、また粒子でもあるため、エーテルを必要としないと判明し、その名は表の世界から忘れ去られた。
その代わり、霊媒師たちがそっと囁くようになった。
エーテルこそ、人の、そして全ての生き物の”霊魂”を形作るものだと。
宇宙には、やはりこのエーテルが満ちているのだと。

そして、そのエーテルに刻まれたものこそ、全宇宙の完全なる記録……

”アカシック・レコード”


そして、ここは天界でも唯一アカシック・レコードを収める場所。
灯りを持った、シーズィエルは先に立ち、図書館の階段を下へ下へと下って行った。
後に続くガジュエルの規則正しい足音が黒い床に響く。
光さえ吸い込みそうな黒曜石の階段。それは何度も曲がりくねりながら、どこまでも続いていくさまは、まるでブラックホールの中を 降りて行くようで。
どれだけ経ったのか、ガジュエルの時間の感覚が麻痺し始めた頃、彼は大きな鉄の扉の前に立つ、シーズィエルを見出した。
無言のまま、鍵束から金の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。扉は音もなく開いて、大きな空間が二人を飲み込んだ。

「……ここは…」
ガジュエルは、周りを見回した。上に広がっているのは、星が煌く果てしない空。しかし、星は足元にも、そして左右にも 無数に鏤められていた。まるで、宇宙の中心に浮かんでいるような。

「ガジュエルは、初めてでしたのね」
シーズィエルは、上も下も解らない空間を迷いなく歩みを進める。
「この場所こそ、アカシック・レコードの保管場所。そして、記録(レコード)そのものなのです。さぁ、こちらへ」
「待ってくれ、ゆっくり……」
ガジュエルは声を掛けたが、小さな灯りは、少しずつ星の中に紛れていく。目を凝らさなければ、そこにシーズィエルが居ることを 認識できない。
慌ててその後を追うと、ふいに、足元がぐらりと傾いだ。
今まで味わったことがない、光への深い喜びと体の痛み、そして死の悲しみが一気に体を駆け抜ける。
それは、眩暈のように彼を襲い、すぐに跡形もなく消えた。

「今のは……」
思わず胸を押さえたガジュエルの傍に、何時の間にかシーズィエルが立っていた。
「それは、イチジクコバチの一生ですの」
「…これが……?」
「そうですの。ほんの小さな虫の一匹にも、レコードがあるのですよ」
そして、貴方が捜している場所はあそこ…とシーズィエルは一点を指差した。
目を凝らすと、キラキラした無数の星が湧き出し、渦を巻いている。それは、小さな銀河のようだった。
「あの記録の中に身を浸し、自分の思うことを捜し求めれば、おのずと答えは解る筈です。
けれど、この石が燃え尽きるまでにお戻りなさいませ」
シーズィエルは、手にした蛍石の灯りに、火を灯した。ぼんやりとした光が輝きを増し、煌々と辺りを照らす。
「それが過ぎると、天使と言えども情報の海に飲み込まれてしまいますから」
「気をつける」
ガジュエルは、足を踏み出した。
その中心に沸け入ると、次第に星の欠片たちが自分の周りから湧き出しているような錯覚を覚える。
下を見ると、水の波紋のように光が広がり、上を見ればそれが渦を巻いて昇っていく。
シーズィエルの姿が、まるで海面に浮かんでいるように見えたが、それも一瞬のことだった。
何かが耳元で、天使。と囁く。すると、光がすべて白い天使の羽毛になり、視界を遮る。
中にはシーズィエルのような不思議な色をした羽根も混じっていた。
「私が捜しているのは、ツァドキエルだ」
羽毛を払いのけるように、ガジュエルは言った。
ツァドキエル、という言葉が泡のように立上ると、途端に溢れ出す、幾千万もの記録。
木星を司る天使、輝ける者(カザマリム)。死者の靴と衣を用意し、イサクが生贄になるのを止めた、慈悲と慈愛の天使……。
「……いや、そんな人間の書物の記述ではない。ツァドキエルが今何処にいるのか…」
ガジュエルは、必死にその顔を思い出そうとした。懸命になればなるほど、頼りない記憶に焦りを覚える。

ふいに、ガジュエルは空を飛んでいた。


いつもとは、何か勝手が違う。
背中の片側が熱い。炎に焼かれているようだ。
それが、翼が片方しかないからだと気付いた時、体は急落下し目前に大きな森の緑が迫った。
「………!」
墜落するように落ちた体を、ギリギリで立て直し。腕で顔を庇いながら枝を通り抜け、地上に降り立つ。
樹の幹に張り付いていると、何かが、自分を追っているという不安が、ひしひしと感じられる。
「居たか?」
「いや……見失った」
そんな言霊が耳に届いた。急速に、他の御使いたちの気配が引いていく。思わず吐息が零れる。
「あいたたた」
あまり緊迫感のない言葉が耳に入る。それが自分の声だと気付くのに数秒掛かった。
手や足に負った、無数のかすり傷が急に痛み出す。
「とりあえず、撒いたみたいだな。ありがとう、リンデンバウムくん」
僕が降りてくる時に、傷付けてしまったみたいだね、と枝に手を置いた。
温かい光が樹を包み、見る間に樹の傷みは癒されていった。天使特有の美しいアストラル、そして白き魔法。
「これで良し、と。さて…どうするかな」
一筋の風が吹いて、さらりと視界に銀の髪が過った。
自分が楽しそうに笑っていることを、ガジュエルは感じた。


「……もう、時間ですの。ガジュエル!」
体がぐっと浮かんだ。ガジュエルは目を開き、シーズィエルの白い腕が伸ばされ、自分の手を掴んでいるのを見る。
「…私……は…」
「貴方はガジュルですの。早くこちらにいらっしゃいませ」
ガジュエル、とぼんやりと呟く。その名前を中核にして、自分が再構成されるような不思議な気持ちを味わいながら、 彼はシーズィエルに手を引かれるまま、扉の外に出た。
「ここから無事に出たいと思ったら、ご自分の名前だけは手放してはいけません」
珍しく饒舌なシーズィエルを見つめ、ゆっくり頷く。手を上げて薄茶の前髪を掻き分けて額に当て、小さく溜息を吐いた。
「……まいった…な」
「ガジュエル?」
「まったくまいった。これがアカシック・レコードか…」
巨大な情報の海。流されれば、自分なんて簡単に見失ってしまえる程の。
「思い通りの情報など殆ど手に入らなかった。だが、あいつはまだ堕天したわけではないらしい」
「そうですの…」
シーズィエルはホッとした表情になる。
「…ふん。あののほほんとした笑顔ばかり浮かんで…碌な捜査にならない……」
今も、笑っているみたいだった。と呟くガジュエルを、シーズィエルは不思議そうに見つめる。
「笑顔が?」
「そう、笑顔ばっかりだ」
ガジュエルは、くすりと笑って羽根を広げた。
「急いで職務に戻る。仲間の報告も聞きたいからな」
階段を下りてくる時は、闇の底へと沈んで行くようだった。しかし、ここは地獄ではない。見上げれば遥か頭上にぽっかりと 変わらぬ天の輝きが見える。
「感謝する。アカシック・レコードの守護天使(ガーディアン)」
軽い羽音を残し、緑瞳の天使は天へと戻って行った。

”笑顔……”
残されたシーズィエルは、新しい蛍石を灯りに入れながら物思いに沈んだ。
「ガジュエルには、ツァドの笑顔が見えたのですか…」
多分、そうなのだろう。彼は職務には忠実なだけで、悪い天使ではない。
シーズィエルはちらりと扉を見やる。アカシック・レコードの中では、何より見るものの”想い”が力を持つ。
情報の天使たるシーズィエルならば、ツァドキエルの正確な情報を手に入れることが可能な筈だ。
望んでさえいれば。
「……望んで…」
シーズィエルは溜息を吐く。それを知ったところで、警備官に彼の居場所を教えるつもりもない。かと言って、自分も禁を犯し地上に降り 立ち、彼を探し出した所で掛ける言葉もない。笑っていた…それなら、ツァドキエルは不幸ではないのだろう。
自分の意思で、自分の想いに従って行動する相手に、一体何が出来る?
……フェネクスを引き止められなかったように。

ゆっくりと階段を上がり、いつもより眩しく見える図書館の回廊に出た。蛍石は光を失い、ただ天使が触れた燐光だけが床に残る。
ふと、遠くから、優しい音が響いてきた。銀の鐘の音色のような。星々の囁きのような。
天界にある、星鈴樹(リンゼア)が一斉に実を落としたのだ。それは夕方の祈りの時間の合図だった。
「リンゼア……」
シーズィエルは、ふらふらとその音に誘われるように、回廊からテラスへと出て行った。
霧の海の遥か下の方から、天使たちの唄う声が聞こえる。神の座から遠い、まだ若い天使たち(エンジェルス)は時に数百人の合唱団を 作って、神に歌を捧げる。その澄んだ歌声が柔らかな風のようにベリアーにまで響き渡る。
星が一つ、また一つと瞬くように、銀帯の果てや空からも、祈りの歌が聞こえ始めた。空高く高く。
まだ、セラフィムたちの歌声は聞こえない。彼らは神の最も近くで歌うと言う特権があり、その賛美の歌は全天を包む。
シーズィエルは翼を広げて、飛び立った。
朱色の羽根が、鮮やかに煌いた。
高く、どこまでも上を目指して羽ばたき続ける。すでに図書館は見えなくなり、ただ輝く空だけが目前に広がっていった。
自分の翼の限界まで登り、神のおわします天を見つめる。姿は見えないが、周りに天使の気配を感じて息を飲む。
「……笑われてもいいですの…」
歌に乗せて祈りを紡ごうと口を開けば、何を祈ればいいのか解らない自分に気付く。
「神よ、どうか……」
その後が続かない。もどかしい思いに、涙が込み上げてくる。
「どうか、どうか」
甘い声が、美しい調べが勝手に溢れ出した。シーズィエルはそれに任せて天使とも思えぬ祈りの言葉を紡いだ。
「どうか、ツァドキエルをお守り下さい。彼があなたの御心に叛くことがあったとしても」

――私は何があっても、あなただけに祈りを捧げます。我が主よ……。



黄昏の空を見上げ、一人の少女が呟いた。
「……誰かが、歌ってる…」
道の途中で立ち止まった少女に、後を歩いていた街人は危うくぶつかりそうになる。
ごめんなさい、と少女は謝って、横にどくとまたうっとりと耳を澄ます。
周りの人間は、誰も気付かずに、忙しげに帰り道を急いでいる。時々小さな子供が鳥さん、と指差して、母親に急き立てられる。
のどかな街。それなりに広い大通りに、無数の店が並ぶ。人々の表情も穏かで、遠い異国の戦火もここには届かない。
そんな風景に、その歌がとても似つかわしく思って、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「どうしたんだい?」
後から声を掛けられ、にっこり笑って振り返った。その仕草は兄に対するような親しさがあった。
「今、歌を聞いていました。とても透明な声で、うっとりするほど綺麗な歌なんです」
ああ、と相手は微笑んだ。三つ編みにした銀の髪が、ふんわりと風に揺れた。
「あれは、僕の友達だよ」
そうなのですか?と少女は目を丸くする。

やがて、二人の姿は夕暮れの町に消えた。








戻ルノ?