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「ここは……」 ぼんやりと瞳を開くと、目の前には大きな青空が広がっていた。 太陽に照らされることのない、月影の屋敷から一転、その輝きは目に痛いほど。 耳を擽るのは、チュンチュンと優しい小鳥のさえずり。 体の下には柔らかな草が生えていて、上から落ちたショックを和らげてくれた。 「……やられたわ。外から干渉された…」 隣を見ると、リドル様はすでに立ち上がり、太陽と空を睨んでいた。 「退魔の香が効かないなんて…よほどの術者なの? 私に喧嘩を売るなんて、いい度胸してるじゃない!!」 私はふらふらしながら、ようやく起き上がった。 「命に代えても、お守りする筈でしたのに…申し訳ございません……」 「あら、馬鹿なことを言うもんじゃないわ。貴方は私の一匹しかいない使い魔なのよ? 守ってくれるつもりなら護衛でも雇いなさい。私だけ助かるなんて御免よ」 「リドルさま、ここはどこなのでしょう?一見、天界か地上のようですけれど…」 ようやく辺りを見回す余裕ができて、私は呟いた。 一面に広がる緑。視界を邪魔しない程度にまばらに茂る木々の先は、小さな丘になっているようだ。 あちこちに可愛らしい花が咲き、ブンブンとミツバチの羽音。こんな時でもなければ眠くなってしまうような、穏やかな風景だった。 「ええ、まったく、わざとらしい程爽やかなセットよね。でも……」 リドル様は、ビシッと近くの木の枝を指差した。 「私は騙されないわよ。この草の匂いに隠された瘴気と邪気は、紛れも無く魔界のものだわ。 ねぇ、そうでしょ、そこの覗き屋さん?」 『にゃにゃにゃ、見付かったか。こんにちは、可愛いお嬢さん』 リドル様が指差した枝の上から、にゅ〜っと白い歯が浮び上がった。 私は背中を丸めてフゥーッと唸る。 『この場所を見抜くとは、にゃかにゃか』 「お褒め頂けて、身に余るぐらい光栄だわ」 リドル様は、愛らしくにっこりと笑って見せる。 ……相当怒っていらっしゃるみたい…。 『小さなアリスは何をお探しかニャ?』 ニヤニヤ笑いの口元から、目が覗き耳が生え胴が伸び、最後にぽん、とシッポができる。 どうやら猫らしいその体は、同族だと認めたくないほど滅茶苦茶な出来だったけれど。 「それじゃあ、教えて、チェシャ猫さん。私のお父さまはどこ?」 相手の『なぞらえ』の中にいると解ったリドル様は、そう質問する。 『ふむ、お嬢さんはウサギではなくてお父さまをお探し?』 「ええそうよ。いつも黒い帽子を被っていて、金の時計を持っているの。ご存知かしら?」 『ボーシャに会いたいなら、鏡の国じゃなくて地下の国(アンダーグラウンド)で捜すんだね。 気違いお茶会をしているんじゃあにゃいかい?』 「あら、隠しても無駄よ。お父さまは、ここにいらっしゃるわ。 それとも、この私に対して謎々遊び(リドル)を仕掛けるつもり?」 チャシャ猫の太い尻尾がパタパタ振られた。 『どんな物語にもルールがある。答えが欲しければ遊戯(ゲーム)に勝つことさ』 「……解ったわ。その賭けに乗ろうじゃない。 私の報酬はお父さまよ。いいこと?」 『じゃあ、君が負けたら私はその猫でも貰うとするか』 「……ケティを? どうして…?」 リドル様は一瞬戸惑った表情で、私を見る。 『理由なんてありはしないさ。ただ、可愛いお嬢さんが哀しむ顔が見たいだけ。 いくら私でも、お嬢さん自身には中々手出し出来ない。涙の一滴ぐらい貰わないと割に合わないからねぇ』 「………。解ったわ。でも、もし私が勝ったら…」 リドル様の瞳が冷たく輝く。 「お前の毛を、残らず引っこ抜いてやるから」 『ふにゃにゃにゃにゃ』 チェシャ猫は、笑いとも悲鳴とも取れる声を上げ、頭とシッポを残してクルンと宙返りをする。 雑巾のように捩れたカラダはチカチカ瞬いて消えた。 残ったシッポがひょい、と空に伸びる。 『それじゃあ、ゲームの勝者が決まるまで、これは預かっておくよ』 そう言うと、太陽を絡め取った。…いや、太陽だと思ったのはリドル様の銀の鏡だった。 『じゃ、さよならアリス。楽しいゲームを!』 最後まで白いニヤニヤ笑いを残して、極彩色の猫の顔が消えていく。 ぎゅっと握り締めていた手を開いて、リドル様が静かに息を吐いた。 「……いきましょ、ケティ」 「でも、どちらに行けば宜しいんですの?」 「……とてもナイスな突っ込みだわ」 |
「まったく、ゲームに誘うんだったら道標ぐらいつけなさいよ。 最低限の礼儀じゃないかしら」 リドル様がブツブツ言いながら、両手で長い髪を持ち上げると、背中からバサリ、と黒い翼が生えた。 漆黒の色、黒く広がる闇夜の翼。黒曜石のような羽根が、ひらりと舞い落ちる。 「ちょっと上から見てくるわね」 「……気を付けて下さいまし」 「心配性ね」 クスクス笑う気配を残すと、ゆっくりと舞い上がる。 まだ、とても小さい羽根は、リドル様を支えるのには少し頼りなくて、ヨロヨロと安定性がない。 ――あの羽根が、将来は、本当に天界の上級天使にもに劣らない翼になるのかしら…? 旦那様は、昔、天界でも高い地位にいらっしゃったと聞く。それがどうして、堕天の道を選ばれたのか……。 生まれつき闇の生き物である私には、想像も付かないけれど。 「…リドルさま、何か見えまして?」 「待って、あっちの方に……きゃあ〜〜!」 不意に、リドル様の体が横に流された。 まるで悪意を持っているような強い風に、白いペチコートが捲くれ上がり、縁のレースが風にはためく。 「リドルさま!!」 白い凧のようなその姿が飛んでいった方に走っていくと、草の上にリドル様がペタリと座っているのが見えた。 「も、もう、レディになんてことするのよ。絶対に許さないんだから!!」 頬を赤くして、拳を握る。 「お怪我はありませんの?」 私がにゃ〜と鳴きながら駆け寄ると、リドル様は首を振る。 「もちろん大丈夫よ。でも、髪がぐちゃぐちゃだわ。折角お母さまに、綺麗に巻いて頂いたのに。 それに、私のさっきの格好ときたら……」 誰か、どこかで覗き見していないわよね、と空を見上げるが、相変 らず晴天に白い雲が浮かんでいるのみで。 「とにかく、丘の下の方に何かある様子だったわ。行ってみましょ」 リドル様は、怒った時の癖で手を握り締めると、早足でずんずん歩いて行った。 普段なら、私は追い駆けるのも精一杯…なのだが。 「あの…さっきから全然進んでいる気がしませんわね…?」 控えめに声を掛けてみる。 「物語のように、逆向きに歩いてみたらどうでしょう?」 「ああ、もう! こんなところまで『鏡の国』式なの?」 クルリと後を向いて歩いてみると、今度は上手く行った。 小さな林を抜けると、丘の天辺に出た。リドル様はじっと下を眺めている。 少し遅れて見下ろせば、不思議な景色が広がっていた。 「これは…」 無数の升目に仕切られ、よく手入れされた庭。そこには川があり、森があり、途方もない広さだった。 周辺は、グルリと薔薇の垣根で覆われ、時折動くものは、生き物…なのだろうか。 その庭は地平線まで続き、まったく果てが見えない。 「やっぱり…。完全に術の内にいるということね」 リドル様は、呟くように言った。 「これは、チェスのボードよ。いくら魔界だって、こんなものが自然にあるわけがないわ」 そう言いながら、丘を下り始める。 「ケティ、鏡の国の話、最初から全部覚えている?」 「ええと…あの、少女が鏡の向こう側の国に行って、チェスの駒の一つとしてゲームに参加するお話でしたわね?」 私は記憶を引っ張り出した。 「彼女はどうやって自分の家に帰って来たのかしら」 「……ええと、女王になってゲームに勝ったから…」 「きっと、相手はそれになぞらえているのだわ。つまり、私がこのゲームに勝たなければ、家に帰れない…。 この空間に閉じ込められてしまう」 きゅっと手を握り締めて続ける。 「でも、お父さまがここにいるのも確かだわ。 鏡で、あの扉を開いたのは私だし、確かにお父さまの気配を感じた。相手も、あの屋敷の結界を破るには至らなかったわけね。 きっと、お父さまはどこかで、私に気づいていらっしゃる筈……」 リドル様は、ふっと周りを見回した。唇に淡い笑みが浮かぶ。 「私も誇り高い魔族の娘ですもの。そう簡単にやられたりしないわ?」 その言葉は、自分に言い聞かせているのだろうか。それとも、何処かにいる筈の、旦那様に語りかけているのだろうか? やがて、小さな白薔薇の門の前に出た。 「どうやらここが入り口のようね?」 「はい…確か、ポーンの最初の位置はニマス目。最初は二マス進める筈ですわね」 私がそう言うと、リドル様は驚いたように首を傾げた。 「あら、凄い。お前、チェス出来るの?」 「『鏡の国のアリス』に書いてありましたから…。 あの……リドル様…?」 その言葉に不吉なものを感じて、顔を見上げる。 「ゲーム、お強いんですよ…ね?」 「勿論よ。私を誰だと思っているの?」 リドル様は、自信たっぷりに胸を張る。 「……チェスのルールはご存知ですわね?」 「知らなくたってなんとかなるわ」 「リドルさま……」 私の声があまりに情けなかったのか、リドル様は視線を移して、ふぅ、と溜息を吐く。 「いい?ケティ。ギャンブルは度胸とはったりよ。負けると思ってるから負けるのよ」 「……。そうでしょうか…」 |