―3―


「ここは……」

ぼんやりと瞳を開くと、目の前には大きな青空が広がっていた。
太陽に照らされることのない、月影の屋敷から一転、その輝きは目に痛いほど。
耳を擽るのは、チュンチュンと優しい小鳥のさえずり。
体の下には柔らかな草が生えていて、上から落ちたショックを和らげてくれた。

「……やられたわ。外から干渉された…」

隣を見ると、リドル様はすでに立ち上がり、太陽と空を睨んでいた。

「退魔の香が効かないなんて…よほどの術者なの?
 私に喧嘩を売るなんて、いい度胸してるじゃない!!」

私はふらふらしながら、ようやく起き上がった。
「命に代えても、お守りする筈でしたのに…申し訳ございません……」
「あら、馬鹿なことを言うもんじゃないわ。貴方は私の一匹しかいない使い魔なのよ?
守ってくれるつもりなら護衛でも雇いなさい。私だけ助かるなんて御免よ」

「リドルさま、ここはどこなのでしょう?一見、天界か地上のようですけれど…」
ようやく辺りを見回す余裕ができて、私は呟いた。

一面に広がる緑。視界を邪魔しない程度にまばらに茂る木々の先は、小さな丘になっているようだ。
あちこちに可愛らしい花が咲き、ブンブンとミツバチの羽音。こんな時でもなければ眠くなってしまうような、穏やかな風景だった。

「ええ、まったく、わざとらしい程爽やかなセットよね。でも……」
リドル様は、ビシッと近くの木の枝を指差した。
「私は騙されないわよ。この草の匂いに隠された瘴気と邪気は、紛れも無く魔界のものだわ。
 ねぇ、そうでしょ、そこの覗き屋さん?」

『にゃにゃにゃ、見付かったか。こんにちは、可愛いお嬢さん』

リドル様が指差した枝の上から、にゅ〜っと白い歯が浮び上がった。
私は背中を丸めてフゥーッと唸る。
『この場所を見抜くとは、にゃかにゃか』
「お褒め頂けて、身に余るぐらい光栄だわ」
リドル様は、愛らしくにっこりと笑って見せる。

……相当怒っていらっしゃるみたい…。

『小さなアリスは何をお探しかニャ?』
ニヤニヤ笑いの口元から、目が覗き耳が生え胴が伸び、最後にぽん、とシッポができる。
どうやら猫らしいその体は、同族だと認めたくないほど滅茶苦茶な出来だったけれど。

「それじゃあ、教えて、チェシャ猫さん。私のお父さまはどこ?」
相手の『なぞらえ』の中にいると解ったリドル様は、そう質問する。
『ふむ、お嬢さんはウサギではなくてお父さまをお探し?』
「ええそうよ。いつも黒い帽子を被っていて、金の時計を持っているの。ご存知かしら?」
『ボーシャに会いたいなら、鏡の国じゃなくて地下の国(アンダーグラウンド)で捜すんだね。 気違いお茶会をしているんじゃあにゃいかい?』
「あら、隠しても無駄よ。お父さまは、ここにいらっしゃるわ。
 それとも、この私に対して謎々遊び(リドル)を仕掛けるつもり?」
チャシャ猫の太い尻尾がパタパタ振られた。
『どんな物語にもルールがある。答えが欲しければ遊戯(ゲーム)に勝つことさ』
「……解ったわ。その賭けに乗ろうじゃない。
 私の報酬はお父さまよ。いいこと?」
『じゃあ、君が負けたら私はその猫でも貰うとするか』
「……ケティを? どうして…?」
リドル様は一瞬戸惑った表情で、私を見る。

『理由なんてありはしないさ。ただ、可愛いお嬢さんが哀しむ顔が見たいだけ。
 いくら私でも、お嬢さん自身には中々手出し出来ない。涙の一滴ぐらい貰わないと割に合わないからねぇ』
「………。解ったわ。でも、もし私が勝ったら…」
リドル様の瞳が冷たく輝く。

「お前の毛を、残らず引っこ抜いてやるから」

『ふにゃにゃにゃにゃ』
チェシャ猫は、笑いとも悲鳴とも取れる声を上げ、頭とシッポを残してクルンと宙返りをする。 雑巾のように捩れたカラダはチカチカ瞬いて消えた。
残ったシッポがひょい、と空に伸びる。
『それじゃあ、ゲームの勝者が決まるまで、これは預かっておくよ』
そう言うと、太陽を絡め取った。…いや、太陽だと思ったのはリドル様の銀の鏡だった。
『じゃ、さよならアリス。楽しいゲームを!』
最後まで白いニヤニヤ笑いを残して、極彩色の猫の顔が消えていく。 ぎゅっと握り締めていた手を開いて、リドル様が静かに息を吐いた。

「……いきましょ、ケティ」

「でも、どちらに行けば宜しいんですの?」
「……とてもナイスな突っ込みだわ」



「まったく、ゲームに誘うんだったら道標ぐらいつけなさいよ。
 最低限の礼儀じゃないかしら」

リドル様がブツブツ言いながら、両手で長い髪を持ち上げると、背中からバサリ、と黒い翼が生えた。
漆黒の色、黒く広がる闇夜の翼。黒曜石のような羽根が、ひらりと舞い落ちる。

「ちょっと上から見てくるわね」
「……気を付けて下さいまし」
「心配性ね」
クスクス笑う気配を残すと、ゆっくりと舞い上がる。
まだ、とても小さい羽根は、リドル様を支えるのには少し頼りなくて、ヨロヨロと安定性がない。

――あの羽根が、将来は、本当に天界の上級天使にもに劣らない翼になるのかしら…?

旦那様は、昔、天界でも高い地位にいらっしゃったと聞く。それがどうして、堕天の道を選ばれたのか……。
生まれつき闇の生き物である私には、想像も付かないけれど。


「…リドルさま、何か見えまして?」
「待って、あっちの方に……きゃあ〜〜!」

不意に、リドル様の体が横に流された。
まるで悪意を持っているような強い風に、白いペチコートが捲くれ上がり、縁のレースが風にはためく。

「リドルさま!!」

白い凧のようなその姿が飛んでいった方に走っていくと、草の上にリドル様がペタリと座っているのが見えた。

「も、もう、レディになんてことするのよ。絶対に許さないんだから!!」
頬を赤くして、拳を握る。
「お怪我はありませんの?」
私がにゃ〜と鳴きながら駆け寄ると、リドル様は首を振る。

「もちろん大丈夫よ。でも、髪がぐちゃぐちゃだわ。折角お母さまに、綺麗に巻いて頂いたのに。
 それに、私のさっきの格好ときたら……」
誰か、どこかで覗き見していないわよね、と空を見上げるが、相変
らず晴天に白い雲が浮かんでいるのみで。
「とにかく、丘の下の方に何かある様子だったわ。行ってみましょ」


リドル様は、怒った時の癖で手を握り締めると、早足でずんずん歩いて行った。
普段なら、私は追い駆けるのも精一杯…なのだが。
「あの…さっきから全然進んでいる気がしませんわね…?」
控えめに声を掛けてみる。
「物語のように、逆向きに歩いてみたらどうでしょう?」
「ああ、もう! こんなところまで『鏡の国』式なの?」
クルリと後を向いて歩いてみると、今度は上手く行った。

小さな林を抜けると、丘の天辺に出た。リドル様はじっと下を眺めている。
少し遅れて見下ろせば、不思議な景色が広がっていた。

「これは…」

無数の升目に仕切られ、よく手入れされた庭。そこには川があり、森があり、途方もない広さだった。 周辺は、グルリと薔薇の垣根で覆われ、時折動くものは、生き物…なのだろうか。
その庭は地平線まで続き、まったく果てが見えない。
「やっぱり…。完全に術の内にいるということね」
リドル様は、呟くように言った。
「これは、チェスのボードよ。いくら魔界だって、こんなものが自然にあるわけがないわ」
そう言いながら、丘を下り始める。

「ケティ、鏡の国の話、最初から全部覚えている?」
「ええと…あの、少女が鏡の向こう側の国に行って、チェスの駒の一つとしてゲームに参加するお話でしたわね?」
私は記憶を引っ張り出した。
「彼女はどうやって自分の家に帰って来たのかしら」
「……ええと、女王になってゲームに勝ったから…」
「きっと、相手はそれになぞらえているのだわ。つまり、私がこのゲームに勝たなければ、家に帰れない…。 この空間に閉じ込められてしまう」
きゅっと手を握り締めて続ける。

「でも、お父さまがここにいるのも確かだわ。
 鏡で、あの扉を開いたのは私だし、確かにお父さまの気配を感じた。相手も、あの屋敷の結界を破るには至らなかったわけね。
 きっと、お父さまはどこかで、私に気づいていらっしゃる筈……」

リドル様は、ふっと周りを見回した。唇に淡い笑みが浮かぶ。

「私も誇り高い魔族の娘ですもの。そう簡単にやられたりしないわ?」

その言葉は、自分に言い聞かせているのだろうか。それとも、何処かにいる筈の、旦那様に語りかけているのだろうか?

やがて、小さな白薔薇の門の前に出た。
「どうやらここが入り口のようね?」
「はい…確か、ポーンの最初の位置はニマス目。最初は二マス進める筈ですわね」
私がそう言うと、リドル様は驚いたように首を傾げた。

「あら、凄い。お前、チェス出来るの?」
「『鏡の国のアリス』に書いてありましたから…。
 あの……リドル様…?」
その言葉に不吉なものを感じて、顔を見上げる。

「ゲーム、お強いんですよ…ね?」
「勿論よ。私を誰だと思っているの?」
リドル様は、自信たっぷりに胸を張る。
「……チェスのルールはご存知ですわね?」
「知らなくたってなんとかなるわ」

「リドルさま……」
私の声があまりに情けなかったのか、リドル様は視線を移して、ふぅ、と溜息を吐く。

「いい?ケティ。ギャンブルは度胸とはったりよ。負けると思ってるから負けるのよ」
「……。そうでしょうか…」









戻ルノ?