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≪きまぐれ月記:2009年3月≫

3日 5日 6日 19日 21日 22日 24日

≪3月3日掲載分≫

 先日の雑記で「閑古鳥が鳴いている」と書いた男尊女卑のコラムですが、その後ポツリポツリとアクセスがありまして、合計すると意外な数になりました。男尊女卑って注目度の高い事柄なんでしょうか。個人的にはアクセスした人の男女比率が気になるのですが、アクセス解析ではさすがにそこまでは分かりません。分かるのは、読んでくださった方の多くが常連さんだったということくらいです。
 ・・・って、男尊女卑は関係なし!?

 でもこれはこれで、うれしいことではあります。なぜならこのところ、常連さんのアクセスが多いからです。
 2か月ほど前から平均ユニークアクセス数が9から11へと桁違いに(!)増加し、その理由が気になっていたのですが、どうやら理由は常連さんが増えたからのようです。
 増えたといっても3人くらい。でも5人くらいしかいなかったこのサイトにとって、+3の効果は絶大です。だって1.6倍なんだもの!

 何年か前に、とあるゲームの発売がきっかけで、アクセスが大幅に増えたことがありました。1日50件を軽く超えていました。でもそんな外部要因による一見さんの増加よりも、現在の常連さんの増加の方がずっとうれしいのです。だって私が書く文章を、楽しみにしてもらっているということなんですから。楽しみにしてもらえる文章を、ようやく書けるようになったということなんですから。
 サイトを開いて6年目、ようやく書き手として1人前になり、運営が軌道に乗り始めたのかもしれません。

 ・・・とか書いておきながら、このあと半年くらい更新を休んだりしたら顰蹙買うだろうなー。

【注】
 
顰蹙はひんしゅくと読みます。私は今、初めてこんな漢字を知りました。今でも読める自信がありません(笑)。


≪3月5日掲載分≫

 テキスト庵というテキストサイトリンク集に更新報告をするとき、コメントに混ぜておくとアクセスが激増する魔法の言葉があります。それは「テキストサイト」です。私が「テキストサイト管理人の悩み」「テキストサイト運営のコツ」というコメントで更新報告をした時には、どちらも20人くらいの人が来てくださいました。普段は5人くらいのこのサイトにです。
 テキスト庵の利用者の中には、きっとサイト運営をしている人が多いのでしょう。そしてきっと運営に悩んでいる人が多いのでしょう。
 ならばその悩みに、私が応えてあげましょう。理屈かヘリクツか自信を持てない、理論的っぽい文章で!
 というわけで今回は、サイトを開いている人向けのちょっぴり怪しいコラムです。

 サイト管理人の多くが悩むアクセス数。1日に何千、何万ヒットもしている大手サイトと比べて、自分のサイトはなぜアクセスが少ないんだろうと悩んでいる人は少なくないと思います。ネットから情報を集め、アクセスアップの努力をしている人もいるのではないでしょうか。
 でもこれって、努力の方向性を間違っているんじゃないかと思うのです。だってアクセスが増えたからと言って、管理人の自己満足にしかならないのですから。そして小手先の技術でアクセスを増やすことよりも、読者に喜ばれる文章を書ける管理人になることの方が先であり、重要であるはずだからです。

 ・・・え、そんなことは分かってる? じゃあ、別のお話を。

 読者が一部のサイトに集中するのには、いくつかの理由があります。
 1つはネットサーフィンに費やせる時間は無限ではないため、1人の読者が回れるサイトの数には限りがあるということです。つまり自分のサイトの読者を増やすことは、すでに人気になっているサイトを相手に、読者を賭けて勝負をするようなものなのです。読者にとってなじみであり、管理人に親しみを持っているであろう人気サイトよりも高く評価してもらうのは、簡単なことではありません。

 2つ目は、人は大手サイトに自然に集まるものだからです。大手サイトはあちこちからリンクされているため目立つというのもありますが、それ以上に大きな要因として、読者の多くは優れたテキストが読みたいのではなく、自分の居場所がほしいだけという場合が少なくないと思われるからです。言い換えるならば、ネット友達(一方通行もあり)がほしいだけ、自己主張する場所がほしいだけ、大手サイトの読者の一員になれば自分が1人ぼっちではないと安心できるから・・・などという具合です。
 このような、ネットに社交的な要素を求めている読者にとって、重要なのは書かれている内容ではなく、サイトの規模です。そしてサイトに不快感を持たないかどうかです。つまり良いサイトよりも、都合が良いサイトを求めている・・・そんな読者が多いのではないかと思うのです。早い話が、実社会での友達探しと似たようなものです。
 つまり人気がほしければ、管理人と友達になりたいと思われるようなサイトにする必要があるわけです。良いか悪いかはさほど重要ではないのです。

 この友達探しの話に、何か心当たりはありませんか? 読者としてもサイト管理人としても、そんな気持ちでネットを使ってはいませんか?
 それが悪いとは思いませんが、それだけではちょっともったいないと思うのです。ネットは膨大な情報源。そして日本中、世界中の人と出会える仮想空間です。さらには面と向かっては言えないことを匿名で語り合える、自由で気ままな環境です。
 ならば肩書に寄ってきた100人の読者よりも、自分のサイトを認めてくれた1人の読者の方が、はるかに価値があるといえるのではないでしょうか。

 と、理屈を語ったところで、「やっぱりもっと読者がほしい」と思われる管理人さんも少なくないと思います。私もそうです。でも小さなサイトには、実は大手サイトにはない可能性があるのです。

 大手サイトというのは、大抵の個人サイト利用者が1度は見たことがあるものです。それでいて常連といえる人の数は、多くても20万人くらいのものでしょう。つまり大手と呼ばれるサイトであっても、ほとんどの人は興味を示していないのです。しかも訪れたことのない人が少ないということは、読者をさらに増やせる可能性は非常に低いといえるのです。
 でも小さなサイトの場合、これまではさっぱりでも、自分とサイトを磨くことで、まだ訪れたことのない膨大な読者に常連になってもらえる可能性が残されているのです。とてつもなく低い可能性ですけどね。

 大手と言われるサイトでも、実は大したことがない。
 今は小さなサイトの方が、可能性としては上である。
 少しは気が楽になりましたか? 少しはやる気が出てきましたか?
 それでは、楽しい管理人生活を送れますように。


≪3月6日掲載分≫

 普通の人の睡眠時間は、1日6〜8時間。私はうつ病で自宅療養中のため15時間。2倍も眠り、半分しか起きていないわけです。
 こんな生活を送っていると、1日があっという間に過ぎてしまいます。そしてあーっという間に1週間が過ぎ、あ〜〜〜っという間に1か月が過ぎてしまいます。
 昨日まではそうでした。

 ところが今日は、7時に目が覚めました。今は午後1時半なんですが、体調はそこそこ良好です。一昨日から薬が変わったのですが、そのおかげでしょうか。それともたまたまでしょうか。
 体調が良かったため、朝から難解なコラムを書き進めていたのですが、飽きたので今は休憩。無理はしたくないので、今日はもう書かないかもしれません。
 で、これから何をするかで迷っています。
 朝早く起きて体調が良好だと、時間をもて余します。お金があれば出かける気にもなるのですが、そんな余裕はありません。

 働くことって大切なだけでなく、幸せなことでもあるんだなと、今はつくづく思います。
 私が働いていた時は、手抜き作業者の生産数に合わせられたノルマを必死にこなし、ヘトヘトで帰宅。平日は更新作業をするようにならず、週末に頑張るぜ! と思いきや、休みの日は気が抜けてグースカピー。

 ・・・やっぱり働くことって、あんまり幸せではないような気がします(笑)。
 常識が通じるまともな会社って、どのくらいあるものなんでしょうね。次に働くときは、そんな会社に巡り合えるかな?


≪3月19日掲載分≫

≪背中で語れぬ大人たち≫

注:エセコラムに掲載している同タイトルのテキストと、まったく同じ文章です。

【前回のおさらい】
 今回のコラムの前編である「あなたが “あなた” になったわけ」では、価値観とは生まれ持ったものではなく、環境によって作られるものであることを書きました。それゆえ価値観の違いとは基本的に教養の違いであり、優劣が存在する場合が多いのだと。そして明らかに劣った価値観を持っている大人は、自分の意思で自分の価値観と闘わなければならないのだと。
 しかし大人には、他にもしなければならないことがあります。それは子供やこれから生まれてくる人たちが、現代社会で幸せを生み出せる優れた価値観を、自然に身につけられる社会を築くことです。
 そこで今回は、なぜ問題につながる価値観を持った人が多いのかを分析し、子供たちにきちんとした価値観を身につけさせるためにはどうすればよいのか、ということを書こうと思います。

【注】
 価値観は後天的なものであり、学習によって作られることを知らない人が読むと、ここから先の内容を正しく読み取ることはできません。ここまでの内容に納得できない方は、必ず前編を先にお読みください。


【モラルに欠ける大人たち】
 日本では何年も前から、モラル(倫理観)の欠如がしばしば問題になっています。特に問題なのが若者のモラルで・・・とは大人たちを見ているとそうは思えないのですが、大人のモラル欠如と子供や若者のモラル欠如には、その原因や起こす問題に大きな違いがあると考えています。

 今の大人たちは、教育や情報が不十分な時代に生まれ育ちました。つまり現実というものを、自分の実体験の範囲でしか知りません。それでも彼らが育った時代ならば、未熟な社会観しか持ち合わせていなくても、一人前の大人として認められることができました。なぜなら当時は、目先の利益が最優先という未熟な社会であり、目の前の仕事をこなせることが一人前の条件とされていたからです。素人でも公害につながると分かるような問題行為すら、利益につながらなければ黙認するのが常識だったのです。
 つまり今の大人たちは、問題行為が問題として扱われない未熟な社会で生まれ育ちながらも、一人前扱いされたため、自分の未熟な社会観に疑問を持つことなく生きてきたのだと考えられます。また未熟な社会では我を通すことが不可欠であるため、高飛車な人やクレーマーのような人が生み出されたと考えられます。
 まとめると、教養不足と社会の未熟さという単純な要素が、古いタイプのモラル欠如人間を生み出してきた大きな原因であると思われます。

 ただしこのタイプのモラル欠如には、1つの利点があります。それは子どもが「大人っぽく見える大人」を見習って育つため、少なくとも表面的な部分だけはきちんとした大人に育ってくれるということです。これは遥かな昔から、人間が代々受け継いできたであろう伝統です。しかしこんな伝統さえも、今では崩れようとしています。

【モラルに欠ける若者たち】
 現代版のモラル欠如人間を生み出しているのは、近年の急激な生活の変化が原因であると考えています。その急激な変化とは、家電製品やマスメディアの発達を中心とした、生活水準の向上です。
 これがなぜ問題になるのか。その1つは、人間が生活の中で、動物的かつ原始的な行動をほとんどしなくなったことにあると考えています。

 昔は家事をする場合、自分の体を使って時間をかけてする必要がありました。親が苦労して生活している姿を、子供が分かりやすい形で知ることができたのです。また手伝いをすることで、生活することの大変さを実感することもできました。そのうえ行動がすべて原始的であり、何をどう努力すべきかは考えることで答えを出せたため、考えることの大切さや楽しさを学ぶこともできたのです。それも、ただ親のそばにいるだけで。

 一方で現在は、スイッチ一つで大抵のことができる時代です。時間をかけなければならない家事は少なくなり、親が子育てをしながらでも生活を楽しむゆとりができるようになりました。また家電製品がどんな理屈で何をどうやっているかなど、考えることさえありません。その結果、生きていくうえでは苦労や勉強がつきものだということを、そしてそれらがすべて自分のためになるということを、子どもが学ぶ機会が少なくなったと考えられます。
 もちろん子供が苦労や勉強をしなくなったわけではありません。学校や塾があるからです。しかし「なぜ苦労してまでする必要があるのか分からない勉強」で磨けるのは学力だけであり、ここで問題となる子供としての生き方は学べないのです。

 子供としての生き方、それは「自分は大人ではない」ということに気づき、「つまりまだ未熟な子供である」と悟ることから始まります。自分が子供だという自覚を持つことで、大人を偉大な存在だと感じるがゆえに大人の言うことに従い、大人になることに憧れるがゆえに向上心を身につけることができるのです。
 しかし現代の子供は違います。大人でなければできないことを目にする機会はほとんどなくなり、それゆえ大人がしていることの大変さや自分の未熟さを実感できる機会がほとんどありません。つまり自分と大人の違いを学べないから、自分が子供であることを自覚できず、結果として「自分は周囲の人(大人)と同等である」という価値観を身につけてしまいやすいと考えられるのです。

 自分を大人と同等な存在だと感じるようになった子供は、その感覚のズレをいつまでも持ち続けるため、自分が(客観的に見て)正当な扱いを受けることに不満を感じるようになります。なぜなら自分は目上の人と同等であり、同等な人よりも格上であると思っているからです。そのうえ自分を一人前だと思っているため向上心を持つことができず、自分を磨こうとしないために一人前の大人になることができません。これらの結果、規律を守れず高飛車で面倒くさがりの未熟な人間に育ちやすいと考えられます。これが学級崩壊やニートの増加など様々な問題を引き起こす、現代版のモラル欠如人間です。

【現代社会の問題】
 「いくら子供がゆがんだ価値観を持っていても、長く生きていれば自分の未熟さに気づく日が来るだろう」と思われる人もいるでしょう。しかしそれができないどころか、逆にゆがんだ若者が増えていきかねないのが、現代日本という高度な情報化社会で暮らすことなのです。

 現代社会を大きく動かしているといっても過言ではない、マスメディア(ブログなども含む)が発信する情報は、子供でも容易に入手することができます。これらの情報は編集されたものであり、限定的かつ真否すら定かでない解釈例にすぎませんが、そんな怪しい情報であっても、若者がその怪しさに気づくのは困難です。なにしろ若者たちはそんな情報に囲まれた社会で生まれ育ったうえ、自分を磨いてこなかったのですから。
 自分を一人前だと思っている若者がそんな環境で育てば、自分が一人前の社会観を持った大人であると誤解するのは必然であるといえます。実際には社会に出たことすらない、未熟な人生経験しか持たなかったとしてもです。

 長く生きてきたというだけで自分を一人前だと誤解している大人たちと、そんな大人たちの愚かさや社会の本質を限定的に知っているがゆえに、自分は大人と同等以上の社会観を持っていると誤解している若者たち。そんな現代社会において、大人に威厳を感じられない若者が増加するのは当然のことだといえます。
 大人は子供を未熟者として扱い、子供や若者は大人を尊敬に値する存在だとは感じない。この意識のズレが意志疎通を困難にし、モラル欠如の問題をさらに難しいものにしていると考えられるのです。

【ダメ大人だって悪くない】
 日本の高度経済成長を支えてきた一方で、社会の腐敗を放置してきた大人たち。彼らの功罪をどう評価すべきなのでしょうか。私なりの結論は、「終わったことは仕方がない。ただしこれからの生き方次第。」というものです。価値観は育った環境によって大きく左右されるものである以上、未熟な社会で生まれ育てば未熟な大人になることは必然であり、仕方がないのです。そして大人に不満を持つ若者が大勢いるのは、腐敗した社会に疑問を感じられるだけの教育を、大人が作った社会にさせてもらったからでもあるのです。

 ただしそんな理論でダメ大人が正当化される時代は、すでに終わっています。誰もが自分の価値観に疑問を持て、磨くことができる環境が作られたのですから、これからは誰もが子供に戻ったつもりで価値観を磨きなおしていかなければなりません。それをしない人は人間として未熟であり、非難されても仕方がないことでしょう。

 しかしこの教育というものが厄介なのです。なぜなら老若男女を問わず多くの人が、「すでに一人前だから自分の価値観をこれ以上磨く必要はない」という価値観を持ってしまっているからです。そんな人にいくら教育を行っても効果はありません。
 このように価値観とは、学習能力にも大きな影響を与えています。つまり同じ環境で同じ教育を受けても、最高の環境で最高の教育を受けたとしても、それまでに持っている価値観しだいで、教育の成果は大きく変わってくるのです。つまり価値観が作られた後で価値観に関する情操教育を行ったところで、十分な効果は望めないということです。

【大人ならば背中で語ろう】
 つまり情操教育は、物心がつく前から行う必要があるということです。それがいつなのかは分かりませんが、おそらくは生まれてすぐ、もしかすると生まれる前からすべきなのかもしれません。でも正確な時期を知ることは重要ではありません。なぜなら子供は、親を手本にして育つものだからです。つまり理想の情操教育とは、育ての親が一人前の人間としての生き方を実演して見せることであるといえます。ここで重要なのは、演技ではいけないということです。なぜなら演技では必ず無理が生じるため、子供はごまかしを含んだ生き方を学習してしまうからです。つまり親は、無意識のうちに理想の教育を行っておく必要があるのです。ですから「いつから始めるか」などと考えることに意味はないのです。

 さて、理想の教育で子供は何を身につけるのか。何も知らない子供がまず学習することは、五感だけを頼りに鵜呑みにした情報をもとにして行う、「社会や自分ってなに?」というようなものでしょう。これは「社会や自分とはどんな状態が普通なのか」と言い換えることができます。
 この「〜はどんな状態が普通なのか」という初期の価値観を基準にして、その後のすべての学習が行われていくわけですから、この初期の価値観を正しく身につけさせることこそが、人間にとって最も重要な教育であるといえます。
 つまり最も重要な教育は、育ての親にしかできないということです。その教育が実演でしか行えないということは、きちんとした大人でなければきちんとした教育はできないということです。前回のコラムで「幸せにつながる恋愛観を持つことが重要」と書いたのは、自分が一人前でも配偶者が未熟であってはダメだからです。

【そんなの無理だという人に】
 ここまで読んでくださった方の中には、「自分は理想的な大人ではないから、理想的な教育なんて無理だ」と思われる方も多いでしょう。
 でも、それでいいのです。今のゆがんだ社会できちんと生きるのは、容易なことではないのですから。大切なのは、自分の未熟さを自覚して努力することです。「生活するのは大変だ。でも社会の一員として頑張らなければならない。」そんな苦労をしている姿を、(意図的にではなく)子供に見せることが重要なのです。社会の真の姿とそこで生きる大人の姿という、ありのままの姿を見せることは、むしろ必要なことであるはずなのです。

 逆にいえば、明らかな問題行為は絶対にすべきではありません。
 身近な例で最も重要だと考えているのが喫煙問題です。悪い悪いと言われていながら多くの人が公然と吸い、あるいは喫煙所に通ってごまかしの人生を送る、そんな大人たちを見て子供がまともな価値観を身につけられるわけがないのです。そして悪いと言われていることをする自分の親を、子供が尊敬するわけがないのです。
 またそんな大人を見て育った子供は、非行や犯罪に走る確率も高いはずです。なぜなら「悪い」という言葉(概念)の意味を取り違え、「“悪い” ということは、実はそれほど悪くない」という、明らかに間違った価値観を身につけてしまうからです。そんな価値観を持つ人は、問題行動を問題だと感じることができませんし、まともな行動を堅苦しく感じるようになります。なぜならそんな人にとっては、「問題行動だって普通のことだから」であり、誰だって「普通だと感じることの中で最も楽そう(楽しそう)なことを優先する」ものだからです。普通だと感じることを受け入れ、普通ではないと感じることを拒絶するのは、誰だって同じなのです。

 だからこそ社会を憂うならば、そして自分の子供の将来を憂うならば、なによりも自分がまっすぐに生きることを心がけてください。大人は背中で語り、手出し口出しは最低限のことだけでいいと思うのです。きちんとした価値観を身につけさせておけば、あとは子供が自分で自分を磨いてくれるはずだからです。もっともコミュニケーションは、とても大切ですけれど。

【補足】
 今回のコラムを読んで、「悪い子の親はすべて悪いのか?」という疑問を持たれた方もいると思います。でもそれは半分だけ間違いです。最も重要な初期の価値観は家庭で作られるとはいえ、その時点ではまだ価値観は固定されていません。学校などその後の環境によって、少しずつ変化していくのが普通です。つまり価値観に関する家庭での教育とは、子供の傾向を大きく左右するだけであり、機械的に構築するわけではないのです。逆にいえば子どもがいない人だって、近所の子供にとっては環境の一部であるわけですから、やはり自分を磨かなければならないのです。

 また人の価値観を統一化するような教育方針に、不安や疑問を感じる人もいるでしょう。しかし人の潜在能力には差がありますし、生活環境にも必ず差が出るため、子供の価値観は問題化しにくい範囲で多様化します。つまり実社会で必要になるだけの個性は、間違いなく生み出されるはずなのです。


≪3月21日掲載分≫

【注】
 このコラムは、不十分なデータを元にした推測を元にした推測・・・という怪しい理論であるため、実は的外れに近い可能性があります。どんなコラムだってそうなのですが、決して鵜呑みにはしないでください。

 このところコラムの更新が多いのは、引きこもっているせいでエッセイのネタがないからです。
 このところゲーム系コンテンツの更新が少ないのは、ゲーム系コンテンツしか見てくれない読者に対するイジワルです。

 ・・・というのは冗談でして、本当は単なる私の都合です。本日もネタなし&都合により、コラムっぽい文章を書こうと思います。

 文系的なコラムを掲載することもある私ですが、学生時代は完全に理系よりでして、統計などの数値データを見ていれば幸せに浸れるという、ちょっと危ない奴でした。今では文系的な事柄にも興味が出てきたからなのか、以前のようなコテコテ理系思考はなくなりましたが、自分に関する数値データを見るのが楽しくて仕方がないことは変わりません。つい先日まで高熱を出して寝込んでいたのですが、体温を測るのが楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。やったー、40.0度の大台に乗ったぞー!
 そんな私ですから、このサイトのアクセス解析は、趣味で毎日しています。そして乏しいデータをもとに読者の反応を推測し、テキストの評価がどうだったのか知るための参考にしています。

 このサイトの読者には、開設当初からいまだに変わらない、1つの大きな傾向があります。それは読者の大半がゲーム系コンテンツ目当てであり、何時間もかかるような長編を一気読みする人も少なくないのに、読み終えたら一般向けコンテンツには見向きもせずに帰っていくということです。時々一般向けコンテンツを見てくれる方もいますが、ゲームの話題がないことに気付いた途端にさようなら。当然のようにこのサイトの常連さんの半分は、ゲーム系コンテンツ限定です。
 ・・・くっ、ぜったいにイジワルしてやるぜ!

 インターネットを利用する主な理由として、自分の知りたい情報を探し出すというものがあり、知りたかった情報を入手すれば他のことに用はないと考える人が多いのは、決しておかしなことではありません。また現実問題として、素人の書く日記やエッセイは文章のプロが書く物には遠く及ばないのが普通であり、素人の書くコラムにいたっては、ほとんどがたわ言に近いもの(注:人気サイトを含む)だということもありますので、そんなものを見ようとしないのは効率的な行動ともいえます。
 でもこのサイトの場合、ゲーム系コンテンツであるプレイ日記(情報ではなく読み物)と、一般向けコンテンツであるきまぐれ月記(ここのこと・・・エッセイ中心、時々コラム)は、同じ人間が同じ感覚で同じだけの力を入れて書いているのです。プレイ日記を読み終えたあとで他のコンテンツにも興味を示していながら、同じようなコンテンツであるエッセイは楽しめなかったというのは、普通に考えるとあり得ないのです。きまぐれ月記では堅苦しいコラムも書くことがあるから・・・というのも、実は理由になりません。というのも、ゲーム系の堅苦しいテキストに興味を持ってくれた読者も大勢いるからです。
 また一般向けコンテンツを見ようとさえしなかった人についても、やはりおかしなことがあります。人間は、興味を持つ存在に大きく関わっていることにも自然と関心を示すという、豊かな想像力を養える生き物であり、プレイ日記に十分な興味を持ったのであれば、その書き手にも少しは関心を持つのが普通であると思うのです。

 でも、普通ではない(?)考え方をすれば納得することができます。
 それはゲーム系コンテンツ限定の読者は、私という書き手を評価しているのではなく、自分の好きなゲームが満足できる読み物になっているからうれしいだけなのだと。つまり好きなゲームに関するコンテンツであることが重要なのであり、文章の質はそれほど重要ではないのだと。そう考えれば私という存在は、読者から見れば「好きなゲーム>それに関する読み物>>>その出来>その書き手」という遠い存在であり、一般向けコンテンツに関心を示さなくても不思議ではないのです。
 また一般向けコンテンツに目を通しながらも興味を持てなかったという人の場合、文章を楽しもうという心構えで読んでいたのではなく、自分の好きな話題がいつ出てくるだろうか、という心構えで読んでいたのではないかと思います。早い話が飛ばし読みです。書き手への関心が薄いことには変わりがありません。

 でも、それってどうなのよ? と思います。読者が求めていたのはゲーム系の読み物であるはずなのに、読み物であることは重視していないって、おかしいんじゃないの? と思います。自分の願望通りになることだけを求めていたら、いくら人生経験を積んでも何の糧にもならないよ、とも思います。それどころか想像力が欠けているのでは・・・そしてそれは、ゲームに熱中しすぎるのが原因なのでは・・・と、恐ろしいことを考えたりもします。かつてゲーム脳というデタラメ理論(らしい。私は本を読んでいないので知らないが)が有名になりましたが、私自身がかなりのヘビーゲーマーだということもあり、ゲームのしすぎが脳そのものにではなく、性格や視野の広さに悪影響を与える可能性があることには気づいています。そんな「世界はゲームで回っている」的な感覚で生きている人が、一般に思われている以上に多いのでは・・・と危惧したりもするのです。

 このような行動は、一般の個人サイトファンにも当てはまると思われます。特に気になるのが、人気コラムサイトの人気の秘訣です。

 人気コラムサイトの特徴、それは多くの人が感じている不満に関する話を、理論的っぽい文章で書くというものです。
 理論的ではなく理論的っぽいと書いたのは、私でさえ看破できるようなヘリクツが多すぎるからです。私が知る限りきちんとした理屈になっているのは、専門家が専門分野について書いたコラムにほぼ限られるのですが、それでも素人によるサイトに多くの読者が常連としてついているわけです。嫌いだから難癖をつけるために常連となる人も多々いるそうですが、まともな読者が中心となっているサイトも多いのではないかと思います。そんな読者は理屈とヘリクツの区別がついていない・・・のではなく、大半の読者は自分が不満を感じていることを、不満ではなく悪として書いてもらっていることがうれしいだけなのではないでしょうか。悪である理由が本当に正しいのかどうかは分からないけれど、自分の感覚や生き方、大げさに言えば自分自身をきちんとした人間だと評価してもらっているように感じられるため、満足感を得られるというだけなのではないでしょうか。あるいは自分が劣等感を感じていることを、理論的っぽい文章で肯定してくれるから、その理論が正しいのかどうかは分からないけれど以下同文。

 さて個人サイトファンが、素人コラムサイトに求めているものってなんなのでしょうか?
 真実や斬新な発想という、自分の糧になることでしょうか?
 それとも自分の都合を正当化してもらうことでしょうか?

 どんな理由であれ、需要側と供給側双方が納得できれば物事は成立します。でも人気の秘訣が書き手の意図とは全く別のところにあったとしたら・・・そしてそのことに書き手が気付いていなかったとしたら・・・

 え、このサイトのコラムはどうかって? 方向性から人気まで正反対だから関係ないですよ。


≪3月22日掲載分≫

 先日風呂に入っていた時のことです。湯船のお湯が少し熱かったため、そろりそろりと身を沈めていきました。その時です。

 つるん、ドボン!

 そのせいで、昔の嫌な記憶がよみがえりました。
 それは私が小学一年生だった時のこと。通っていた学校にはニシキゴイを飼っている池があったのですが、動物好きの私はその池をよくのぞいていました。そんなある日、見慣れない生き物を見つけたのです。それは、カブトエビの幼生でした。
 当時の私は、カブトエビという生き物を知りませんでした。自宅にあった図鑑の生き物はすべて暗記しており、近所で見られる生き物はすべて知っていた私にとって、未知との遭遇は衝撃でした。

 「うわ、なんだろう、これ。カブトガニの子供かな? でもあれって珍しい生き物だし、この辺にはいないはずだよな。もしかして、新種? うわー、すごい大発見!?」

 無邪気な発想で頭がいっぱいになる私。その不思議な生き物をもっとよく見ようと、乗っていた岩の上から身を乗り出すようにして、カブトエビの観察を続けました。その時です。

 つるん、ドボン!

 後日譚になりますが、テレビで「かぶとえびのクリーム煮」という料理が紹介されていました。カブトエビといえば嫌な思い出のある宿敵です。「カブトエビって食べられるの?」と疑問に思いながらも、奴らがどんな風に料理されるのか楽しみにしながら番組を見ていました。しかし最後までカブトエビは登場せず、料理は終わってしまいました。

 ・・・。

 不思議に思いながら、最後に表示されたレシピを見て、ようやく謎が解けました。

 料理名「“かぶ” と “えび” のクリーム煮」

 本当に相性の悪い奴というのはいるものです。でも話はこれで終わりではありません。つるん、ドボン! で思い出したもう1つのことがあるのです。

 それは私が地元で働いていた時のこと。二十歳そこそこだったでしょうか。地区の行事でバレーボール大会があり、学校の体育館に私はいました。私のチームに試合がなく、他のチームの試合を見ていたときに、事件は起こりました。
 勢い良く放たれたサーブが、相手選手の頭を直撃。その衝撃で勢いよく飛んでいくボールとカツラ。
 ・・・カツラ?

 その瞬間、体育館が爆笑の渦に包まれました。漫画のような展開の前には、「笑っちゃいけない」という理性のブレーキは、あまりにも無力だったのです。
 まさに、ドカン、つるん!

 それから何年もたち、私もいい大人になりました。自分では若いと思っているつもりですが、髪の毛は年齢不相応に薄くなり、育毛剤をたたき込む毎日を送っています。期待していなかった育毛剤ですが、私の頭には合っていたらしく、少し元気を取り戻してきたような気がしています。
 でも、ふと思ったのです。育毛剤をやめれば10年も経たずにハゲそうですが、浮いたお金でカツラを買えばいいのではないだろうかと。そしてあの一発芸を身につけて、偉大な先輩(の頭)が輝いた日のことを知らない子供たちに、伝統として伝えていくべきではないだろうかと。
 これは社会不適応者であるがゆえに、一人前の大人としての役割を果たせていない私にカミが与えてくれた、希望の光なのかもしれません。


≪3月24日掲載分≫

 子供のころの私には、ひどい妄想癖がありました。例えば熱を出して寝込んでいるときなど、退屈してくると布団やベッドを海に浮かぶイカダに見立て、楽しいサバイバルライフのためには何を積み込んでおく必要があるのか、などと考えて楽しんでいたのです。

 そんな昔の話を思い出したのは、やはり熱を出して寝込んでいた何日か前のこと。なるべく動かなくていいように、枕もとに飲み物や体温計、懐中電灯や冷えピタなどを集めていた時のことでした。
 もともと枕もとやその周辺には、テレビやメガネなど様々なものを置いている私ですが、寝たきりモードとなって物は倍増。これでは子供の時に頭の中で作っていた、布団いかだそのものです。

 ・・・いえ、やはり子供の時とは違います。あの頃は確か、虫取り網やおもちゃは真っ先にほしいと思ったものでしたし、ペットもいればなぁ、などと無茶なことを考えていたはずですから。

 子供っぽいものをほしいと思わなくなったのは、私も大人になったということでしょうか。現在の布団いかだに積んであるものと言えば、せいぜいジュースにテレビにテレビゲームに携帯ゲームに・・・
 ・・・おや?


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