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≪きまぐれ月記:2007年5月≫

13日 27日

≪5月13日掲載分≫

 私は字を書くのが凄く下手です。意識してゆっくり丁寧に書こうとしない限り、自分で書いた文字を読むのにも苦労するほどです。
 例えば、0と6の見分けがつきません。4と6と9の見分けもつきません。ついでに−1と+の見分けもつきません。学生時代には、数学のテストで自分が書いた途中の式を読み間違えて、平均で5点は落としていたくらいです。
 こんな私ですが、パソコンを使えば美しい文字で文章を書くことができます。私がテキストサイトを運営できるのは、ワープロソフトのおかげといっても過言ではありません。

 ワープロソフトのおかげ。と思えることは他にもあります。学生時代、私が最も苦手だったのは作文でした。その理由はいくつかありますが、その1つに漢字が苦手だったことが挙げられます。というのも苦労して文章を考えても、それを書こうとするとひらがなだらけ。でもそれは恥かしいので、知っている漢字だけで書ける文章を考えようとして挫折。そんなことが珍しくなかったからです。
 こんな私でも、パソコンを使えば大人っぽい文章を書くことができます。むしろ漢字を使いすぎて読みにくくならないように、気をつけなければならないほどです。パソコンというのは本当にありがたいです。

 でもパソコンの力を借りても、文章そのものは自分の力で考えなくてはなりません。こればかりはどうにもならず、サイトの更新がままなりません。もう何年も更新していないコンテンツさえあるほどです。
 「とても大切なことだから、1日でも早く更新したい。そして1人でも多くの人に読んでほしい。」
 そう思っていることなのに、いつまでたっても書きあげられない。それがどれほど辛いことなのか、同じ経験をしたことがある人ならば、きっと分かっていただけると思います。

 ところが先日の早朝のことです。目覚ましがなる1時間ほど前に目が覚めてしまい、半ば無意識に考え事をしていたのですが、ついに天啓がやってきたのです。それまでに考えていた断片的な理論が、面白いように次々と繋がっていくのです。長年苦しんできたテキストが、ついに完成する予感がしてきました。

 実を言うと、これまでにもそんなことが何度かありました。でもそんな状態で考え事をしていると、いつの間にか眠ってしまいます。そして再び目を覚ましたときには、考えていたことを何一つ憶えておらず、更新に繋げられなかったのです。
 でも今回の私は違います。考えたことを忘れてしまってもいいように、枕もとにメモ用紙とボールペンを置いていたのです。そしてもちろん、眠る前にちゃんとメモを残しておいたのです。
 再び目を覚ましたとき、私はこれまでと同じように、考えたことを何も憶えていませんでした。しかし今回はメモがあります。それを見れば、私は失われた記憶を取り戻すことができるのです。

 私は大きな期待を胸に、そのメモを手にとりました。そして “常識との違い” や “読者の反応” を恐れることなく、私の純粋な思考によって導き出された理論が書かれているであろう、そのメモを読み始めました。
 そして私は驚きました。その、自分が書いたとは思えない文章に。

 ああ、なんてこった!
 字がへたくそすぎて読めないよ!

 ああ、このメモさえ読めれば・・・
 この、自分が書いた文字さえ読むことができたならば・・・
 うわー、これってめっちゃ恥かしい!

 というわけで、最後に一句。

 眠いとき かきたくないね 文字と恥じ


≪5月27日掲載分≫

 人の価値観は、みんなそれぞれ違います。そして「価値観はみんな違って良い」という考え方は、多くの人に受け入れられています。
 でも私は、この考え方に否定的です。みんなが同じ価値観でもいいと思っています。それどころか、みんなが同じ価値観を持つことこそが理想だと思っています。
 だってそうでしょう? 価値観はみんな違ってもいいのなら、私がこんな変な価値観を持っていても良いってことになるんですよね? 「価値観はみんな違っていて良い」という価値観を、みんなが持っている方が変ですよね?

 ・・・冒頭からヘリクツ全開っぽい文章になっていますが、私は本気でこんな考え方をしています。なぜかというと、価値観とは学習によって作られる部分がほとんどだからです。つまり全ての人が十分な知識と理解を持っていることであれば、それに関する価値観に大きな差は出ないはずなのです。ですから差が出なくて当たり前ということに関しては、違っていて良いというのはおかしいと思うのです。

 もちろん学習以外の要素が大きく影響することに関しては、価値観の違いを否定することが問題に繋がります。例えば食べ物の嗜好に、生まれ持った感覚の違いが大きく影響していることは有名です。
 でもちょっとしたきっかけで好き嫌いが変化することもあるように、この場合だって後天的な要素が少なからず影響しているのは確かなのです。

 つまり価値観の違いとは基本的に教養の違いであり、テストの成績と同様に優劣が存在する場合が少なくありません。そして「明らかに劣る価値観」が、世の中で起きている問題のほとんどに大きく関わっていると考えられるのです。

 価値観とは気が付いたときには身についているものですから、自分の価値観を分析したり疑ったりするのは困難です。しかし困難だからといって、目を背けても良いことだとは思いません。なぜならば、自分の価値観が作られたものであることを理解できなければ、他人の価値観や現実というものを理解することができないからです。

 私たちの価値観とは、現代の日本で生まれ育ったからこそ身についたものです。それゆえ自分の価値観を理解するためには、現代の日本社会というものを理解しなければなりません。そして今の日本がなぜこんな社会になったのかを考えようとすると・・・
 人類がまだ、「ウッホ、ウホッ、ウキキッ」と言っていた(?)時代のことから考えなくてはならないのです。
 ・・・ここ、笑うところじゃないですよ。もちろん鼻で笑うところでもないですよ。

 というわけで、ここからは人間社会の歴史らしきものに関するお話です。
 人間は生物の一種であり、生物にとって最大の目的とは種の存続です。ですから危険と隣り合わせの生活を送り、死が身近であった当時の人類にとっては、子供を1人でも多く産み、少しでも確実に育てることが生活の中心となっていたはずです。そして子供を育てるために必要なのは、授乳が可能な女性です。つまり女性が育児を担当するのは、最も自然な行動だったといえます。
 では男性は何をするのか。当然ながら、女性ができない仕事を引き受けることになります。例えば力仕事であり、危険な動物から集落を守ることです。つまり集落の中心で女性と子供が暮らし、そこから離れなければできないことや危険なことを、男性が担当することになります。つまり男性が外に出て働くというのは、最も自然な行動だったといえます。

 この役割分担は自然なだけでなく、非常に合理的なやり方でもあります。なぜならば、男性の命は女性の命よりも軽かったからです。なにせ一人の女性が出産して育てられる人数は僅かです。ですから女性は非常に大切です。しかし男性の場合は一夫多妻でさえ可能なのですから、事故で命を落とす者がいても大きな影響は出ないのです。実際、ほとんどの雄を除外した社会形態を持つ生物は、決して珍しくありません。そんな生物にとって、除外された雄とは単なる予備でしかありません。
 つまり動物にとっては、雌はすべて重要であり、雄は必要最小限の優秀な者のみが重要なのです。そして人間を動物として考えた場合、やはりこの考え方が当てはまるのです。

 そして時は流れ、人類が進化し、文明が発達し・・・
 生きることが容易になり、種の存続を中心とした生活から抜け出すことに成功した人間にとって、女性中心の社会で暮らすことの意味は薄れていきました。だから多くの人が、そんな動物的な社会に不満をもつようになりました。そんな世の中で、体力に恵まれているうえに自由が利く男性が半分を占めていれば、女性中心の社会が長く続くことはないでしょう。
 その結果、人間は動物らしい自然な社会形態を捨て、男性優位の社会を築き、そんな社会で生まれ育った人たちによって男女平等の社会が作られ、やがて現代日本のような社会に行き着いたと考えられるのです。

 さて、私がなにを言いたいのかというと、私たちが当たり前だと思っている今の社会とは、人間が意思によって自然の摂理をねじ曲げて作った創作社会であり、つまりはルールによって維持されている(ルールがなければ維持できない)不自然な物であるということです。一夫一妻という制度や人権尊重という考え方でさえ、動物としての生き方から外れた不自然なものなのです。そして不自然な部分の最たるものが、生活の中心が種の存続から、社会の存続に変わったことだと言えるでしょう。

 私たちはそんな社会で生まれ育ったがゆえに、本来は不自然であるはずの社会や感覚を、当然のものであると錯覚してしまいます。しかし社会に統一感が無いため重要な価値観にも揺らぎが生まれ、作られた目的である社会の存続(ルールの遵守)という不自然なものを、足かせのように感じてしまうことが少なくありません。
 しかし動物らしい自然な生き方を捨てることによって自由を手に入れた私たち現代人にとっては、不自然な社会こそが現実であり、それを維持することが理想なのです。ですからこの事実を基にして作られた価値観こそが、今の社会で幸せを生み出せる、優れた価値観だと言えるのです。

 最近の日本では、モラル(倫理観・・・価値観の一種)の低下が大きな社会問題になっています。しかし私は、日本人の質が低下したわけではないと考えています。大人も子供も、問題を起こした人も起こしていない人も、その大半がただ普通に生きていただけであり、そこに違いはありません。変化したのは社会です。みんな環境に合わせて普通に生きてきただけであり、環境が変わったから結果が変わったのにすぎないのです。

 ここで問題になるのが、環境に逆らい自分の意志で、望む価値観を身につけられる子供はいないということです。そして自分の意思で自分の価値観を変えられるのは、人間的にある程度成熟した人だけだということです。

 だからこそ子供やこれから生まれてくる人が、環境に合わせて普通に生きていれば、人間らしい価値観を当たり前のように身につけられ、本来は不自然な生き方を自然にできるようになる社会を築くことが、私たちにとって最も重要なことの1つであると言えます。そしてその鍵を握っているのは、専門家ではなく、政治家でもなく、私たち一般市民です。それも特別な活動をするのではなく、例えば喫煙を否定するとか、幸せに繋がる恋愛観を持つといった、日常的な生活の中に答えがあると思えてならないのです。


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