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≪狂牛病≫

 ニュースを見ていると、久しぶりにBSE(狂牛病)の話をやっていました。といってもニュースを見ること自体が久しぶりだったので、BSEの話そのものが本当に久しぶりだったのかは怪しいところですが、それはさておき。
 なんでも米国から輸入した牛肉の中に、取り除くことが決められている背骨が混ざっていたため、輸入が再び禁止されたのだとか。そのため日本人のコメントは米国に対する批判的なものばかりだったのですが、その反応がかなり気になりました。

 そもそもBSEの怖さって、いったいどれくらいなのかご存知ですか?
 マスコミ等の情報を元にすると、「BSEは感染すると非常に恐ろしいが、感染する可能性はきわめて低い」というのが真実のようです。また現在では危険部位とそうでない部位がはっきりと分かっており、加工の段階で分離することができます。それ以前に日本人は、危険部位である脳や脊髄などを食べる習慣がありません。しかも事故的な理由で危険部位が肉に混ざってさえ、問題になる確率は非常に低いようです。なぜならBSEは牛には感染しやすいのですが、人間には滅多に感染しないからです。
 BSEがどれくらい感染しにくいかというと、危険な牛ばかり食べていて、しかも食文化の関係で危険部位すらも大量に食べていたイギリスの人が、現在でも元気に暮らしているくらいです。死亡者数は人口5900万人程度のイギリスで、BSE無対策時期に年間数十人(通算で150人強)。ちなみに1国で世界のほとんどを占めています。

 でも「ほぼ安全といっても、100%ではないんだろ? 実際に150人以上が亡くなっているんだろ?」と思われる人は多いと思います。しかしそれも半分は誤解です。

 まず、100%の安全性が確認されている食品は存在しません。逆に一般的に売られている食品の中には、ごく稀に食中毒の原因となる菌が含まれる生卵や、理性だけでなく命を無くすことすらあるアルコール飲料のように、危険であることが確認されている物は数多く存在します。なぜならば、“100%の安全” を求めていては何も食べることができず、何も売ることができないからです。食事というものは “ある程度の安全” が保証できれば、それで妥協するしかないのです。

 食品には衛生上の問題だけでなく、精神衛生上の問題も存在します。
 BSEの場合は感染している牛でさえ、危険部位のみ食用不可で、肉や牛乳だけならOKというのが衛生上の境目のようです。しかし精神衛生上の問題があるため、多くの日本人が嫌がります。これは当然のことのように感じますが、まったく同じような怪しい食材が、身近にいくらでも存在します。
 例えばフグはどうでしょうか。フグは普通に食べると確実に中毒を起こし、高い確率で命を落とす、BSE感染牛よりもはるかに危険な食材ですが、みんな料理人を信じて食べています。自分で料理して食べる素人だっています。どちらも100%の安全が保証されているわけではないのにです。毒性は弱いものの、ジャガイモの芽や病変部(皮が緑色になっている部分)を取り除いて調理するのも同じようなものです。また彼岸花には毒がありますが、茎を裂いて水にしばらくさらせば毒が抜け、食用になります。このことは現在の日本人にとってはどうでもいいことですが、雑学の1つとして面白いと感じる人もいるのではないでしょうか。
 このように精神衛生上の問題は、事実を知らなければ無制限に厳しくなるので注意が必要です。

 それから「人口5900万人のイギリスで、極めて危険な食事が行われた結果、年間数十人の死者をだした」という数字。でもこれより恐ろしいものは身近にいくらでも存在します。例えば現在の日本で最も有害な存在だと思われるタバコによる死亡者数は、「日本だけで年間10万人弱」、BSEよりも怖さを実感しやすい交通事故だと、「日本だけで年間7000人程度」です。

 というわけで現在の日本人に関しては、BSEの危険性は考えるだけ無駄といってもいいくらいです。既に存在し、しかしほとんど非難されることのない身近な危険と比較するならば、100万分の1にもならないでしょう。それなのにBSEがこれほど非難されるのは、明らかにおかしいことだと思いませんか? でもその理由は簡単です。

 「タバコやお酒は好きだから、危険であることは認めないし理解しようとも思わない。危険であることが分かっても我慢する。(または)タバコの臭いは嫌いだし、酔っ払いも嫌いだけれど、法律で認められている身近なものだから仕方がないと思う。」
 「でもBSEのことはよく知らないし、他の国で他の人がしている仕事の問題だから、巻き込まれるのは嫌だ。」
 「プロならば責任を持って完璧な仕事をするべきだ。もっとも自分は平凡なサラリーマンだから適当に働いていても構わないし、会社勤めというのは大変だから、少しくらいの妥協は許されるけれど。」

 わがままですよね。判断の基準になっているのが自分の都合だけなんですから。
 もちろんBSEが危険であることは事実ですから、無視して良いことではありません。生産者側での対策は必要ですし、きちんとした対策をきちんと実行してもらわなければ困ります。またBSEに感染した牛の映像は多くの人が見ていると思いますから、消費者が気味悪さを感じることは仕方がありません。
 でもBSEを怖いと思うのであれば、他の病気や事故の怖さを想像することだってできるのではないでしょうか。「BSEによる死者・・・人口が日本の半分弱の国の人が、危険な生活をしていて年間数十人」「タバコによる死者・・・日本だけで年間10万人弱(そのうち数千人は非喫煙者、つまり殺された)」などという数字から、現実を想像することだってできるのではないでしょうか。

 BSEを否定するのであれば、それよりはるかに危険なものも否定してください。他人のミスやモラルの欠如を否定するのであれば、自分もきちんとした行動をしてください。それが筋というものです。筋を通さずわがままを通そうとすれば、別のどこかでもっと大きな問題が発生するのですから。
 調度良い例が、JT(日本たばこ産業)のコマーシャルにありました。ボランティアでゴミ拾いをしている映像を映しながら言っていたのは、こんな言葉です。

 あなたが気づけば、マナーは変わる。

 これ、正しくは「JTが気づけば、マナーだけでなく様々なことが変わる」でしょう。タバコの問題に関しては、根本的な原因であるタバコそのものが存在しなければ、マナーなんて考えなくてもよいのですから。「タバコで金儲け」というわがままを通そうとしなければ、喫煙者にマナーを求めなくても、それに付き合わされる非喫煙者の協力がなくても、タバコがらみの問題はすべて解決するわけですからね。

 ところで、万が一にも無いことだとは思いますが、もしBSEの常識が覆され、今後一切牛肉を食べることができなくなったとしたら、人間の健康に影響があると思いますか?
 もちろん、まったく影響ありません。牛肉に含まれる栄養素は他の獣の肉、たとえば豚肉の特徴とよく似ており、栄養面での完全な代用ができるからです。そもそも牛肉を食べる習慣がない国や地域なんて、いくらでもあります。
 つまり牛肉とは嗜好品に近いものであり、贅沢品です。美味しいことと、料理のバリエーションを増やすこと以外には、メリットらしきメリットはありません。逆にデメリットはいくつかあるようです。そんな牛肉で大騒ぎできる日本って、本当に幸せな国だよなぁと思います。少しずれている気はしますけど。

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≪信じる心≫

 「失敗は悪いことではない。反省して次につなげればいい」

 なんてことがよく言われますが、これだって非常に難しいことです。失敗を生かすことも1つの行動であり、それを失敗することなく行うなど、不可能といってもいいのですから。
 人間というのは、それほど賢い生き物ではありません。政治関連のニュースを見ればすぐに分かるように、専門家の肩書きを持つ偉い人が専門分野の仕事をするときでさえ、完璧にこなせたりはしないのです。
 ですから重要な行動というものは、「人は失敗することがある(分野によっては失敗するのが当たり前)」ということを前提に行うべきでして、きちんとした組織はそうなっているものです。政治の場合なら、選挙に負けたはずの野党が政治に口を出していたり、ほとんど何の権限もない参議院が存在したりするようなものです。これらにも、ちゃんと意味があるわけですね。・・・ちゃんと機能しているかどうかは知りませんが。

 この失敗を前提とした考え方、日常生活にだって生かせるのではないでしょうか。

 例えば日常会話。これは人が生きていくうえで非常に重要でありながら、非常に難しい行動です。本心ではない、あるいは誤解を与えるようなことを言ってしまい後悔した経験は、多くの人が持っているのではないかと思います。逆に後悔したことがないという人は、無責任な人かもしれません。ここまで書いてきたように人は失敗するものであり、数え切れないほどの失敗を必ずしているはずなのですから。

 「あの時の言葉で友達を傷つけてしまったかもしれない。でもあれは私の本心じゃない。それを分かってくれていたらいいのに。」
 「あの人の言葉で私は傷ついた。でもあれは弾みで口にしてしまった言葉であり、あの人の本心ではないと信じたい。」

 こんな経験、そして願望。思い当たることはありませんか?
 自分に当てはまることは、他の人にも当てはまることが多いものです。ならばみんなが “他人も失敗をすること” を理解して行動できれば、なんの問題もないのでは?

 「口から出た言葉は正確とは限らないもの。だからあなたを傷つけるようなことを言ったとしても、それが私の本心ではないと信じてほしい。」
 「あなたは優しい人だと信じている。だから辛いことを言われても、それは私のために言った言葉、あるいは弾みで言ってしまった失言だと理解してあげられる。」

 ・・・実際に書いてみると、わがままなうえに無理がありますね。あはは・・・
 でもこれが、理想的な人との接し方のように思います。もちろん人を信じるというのはとても難しいことですし、それ以前にその人を信じて良いかどうかという問題もあるわけですが。
 それでも “自分のことを信じてくれていると、心から信じることができる人” が身近に1人いるだけで、生きていく上での大きな心の支えになると思います。
 ・・・都合のいい考え方だとは思いますけれど。でも信頼できる友達や恋人を望む人って、かなり多いのではないでしょうか。

 ではどうすれば信頼できる人を見極められるのでしょうか。どうすればその人を心から信じることができるのでしょうか。失敗するのが当たり前、誤解されるのが当たり前、誤解するのが当たり前という私たち人間が、どうすれば “騙されることなく”、“少なくとも自分にとっては信頼できる人” と出会うことができるのでしょうか。

 一番良い方法・・・といっても100%には程遠い方法ですが、それは自分を見つめ、自分を理解し、そのうえで自分を磨くことだと思います。自分は人間、他人も人間。同じ人間である以上は共通点がいくらでもあるわけで、自分の存在は他人を理解するための一番の教材となるのですから。手間いらずで人の心の美しさと醜さを両方学べて、しかもタダ!
 人の醜い心の中にも、認めるべき醜さと否定しなければならない(表に出してはならない)醜さがあり、自分のどんな部分は認めてほしいのか、どんな部分は否定しなければならないのかを考えるだけで、他人を見る目は大きく変わってくると思うのです。
 自分や他人のことを本当に理解できるかどうかはともかくとして、自分を磨くことに価値を感じられるかどうかだけでも、嬉しい出会いに繋がる可能性は大きく変わってくると思います。類は友を呼ぶって言葉もありますしね(笑)。

 結局は、何事も真実を見抜くことが重要なのであり、それを困難にしているのが “失敗” という存在なのかもしれません。しかも失敗には偶然的な失敗と必然的な失敗があり、ますます話をややこしくしています。
 このやっかいな “失敗” と、いったいどう付き合っていけばよいのでしょうか。失敗するのは当たり前ということを理解するだけで、はたして十分と言えるのでしょうか。
 「どんな失敗も受け入れてくれる」
 「どんな失敗も受け入れてあげられる」
 そう信じることができる人の前でなら、あまり気にしなくて済む問題なんでしょうけどね。(振り出しに戻る)



≪生活の誤解≫

 「お酒と一緒に薬を飲むと、酔いが回りやすい」

 こんな話を信じていた人は、今日から認識を改めましょう。これ、大きな間違いです。でも一緒に飲むと気分が悪くなるのは本当です。
 ・・・なんだか矛盾するようなことを書いていますが、矛盾はしていません。
 冒頭の文章、正しくはこうなんです。

 「お酒と一緒に薬を飲むと、薬が早く回って中毒症状をおこし、気分が悪くなる」

 悪酔いの本当の原因は、薬の方なんです。
 アルコールというのは、水に溶けやすい成分も油に溶けやすい成分もよく溶かします。この特殊な性質のため、薬に含まれている、水には溶けにくいが油には溶けやすい成分がすぐに溶けてしまい、人間が受け付けないほど強力な効果を発揮してしまうのです。

 そうそう、もう1つ注釈が必要ですね。薬の中毒症状なのに、本人が悪酔いだと錯覚する理由です。
 理由は簡単。「アルコール飲料で酔う」というのが、アルコールという薬物によっておこる中毒症状だからです。原因物質は違っても、同じ薬物中毒です。区別がつかなくても不思議なことではありません。
 つまり “酔い” という普通ではない状態を心地良いと感じる人が、自ら薬物中毒をおこすために飲むものが、アルコール飲料というわけです。

 ・・・変な話ではありますが、実際に心地良いと感じる人が大勢いるのですから、自己管理さえきちんとできれば、それはそれでいいのかもしれません。
 もっとも私は、酔うのが大嫌いですけれど。普通でない状態 〜思い通りに体を動かせず、思い通りに頭が働かない状態〜 というのを、すごく不快に感じますので。

 ・・・となると、酔った状態を好む人って、思い通りに体を動かせず、思い通りに頭が働かない状態を、なんとも思っていないということなんでしょうか。これを突き詰めて考えていくと、ちょっと怖い結論が出そうな気がします。もっとも結論を書いてしまうと読者からの怖い反応がありそうなので、この話はここで終わりにしますけど。

 次は、眠りに関する誤解のお話です。

 理想的な睡眠時間ははっきりと分かっていないようですし、その人の生活によっても異なってくるはずですが、大人は7〜7.5時間くらいが基本と言われています。また眠らなければならない理由は様々ですが、特に重要な理由として、脳を休めるというものがあります。
 ということは、8時間くらい寝ないと調子がでない私は、他の人よりも頭を使って生きているという結論に・・・なりませんかね?

 冗談はさておき、よく耳にするのが「昨日は6時間寝たのになぜか眠い」なんていう話です。
 これだけで、もうお分かりですよね? 本人は十分だと思っている6時間の睡眠。でもこれでは足りないから眠たいというだけです。「低血圧でもないのに朝が弱い」という人も、原因は単なる睡眠不足という可能性があります。

 もちろん理想的な睡眠と快適な生活には、睡眠時間以外にも様々な要因が絡みます(例えば枕の高さなど)。でも体調不良の原因が眠りにあるのか、それ以外の部分にあるのかを見極めることができれば、それだけでも暮らしやすくなるはずです。

 「今日はよく寝たから気分がいい」

 そう感じることがある人は、普段の体調不良は単なる睡眠不足かもしれません。寝だめはできません。それなのに十分に眠ると気分がいい。これは脳にたまっている疲れを一気に癒しているからで、気分がいいと感じる状態が、その人の本来の状態だからです。
 もしあなたがこの話に当てはまっていて、時間にゆとりがあるならば、いつもより早く寝ることをお薦めします。

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≪安全運転≫

 4月ということで、初心者マーク付きの車をよく見かけるようになりました。私が免許を取ったばかりの頃は運転するのが怖くて怖くて、ずっと初心者マークをつけておこうか、なんて本気で考えていたのを思い出します。
 さすがに今では慣れまして、いつも通る道ならリラックスして運転できるのですが、リラックスできる理由の半分は技能の向上、でも残りの半分は、安全に対する意識の低下のような気がしてなりません。交通事故というのは、いくつかの “危険な偶然” が重なったときに起こるのが普通です。ですから運が良ければ、あるいは事故の一歩手前という出来事があってもそれに気付かなければ、徐々に運転を甘く考えるようになってしまいますので。

 例えば制限速度をはるかに超えるスピードでいつも走っているのに、事故を起こさない人はよくいます。でもこれは運転がうまいからではなく、他の人がそこそこまともに走っているからにすぎません。1人が無謀な運転をしていても、それは “危険な偶然” の1つ。他の偶然と重ならなければ、つまり運が良ければ頻繁には事故が起きないだけの話なので、安全だと思えるのは錯覚に過ぎないのです。つまり無謀な運転を平気でしている人は、周りの人のおかげで自惚れていられるということになります。

 でも統計を見れば、交通事故が身近なものだということが分かります。日本の場合、交通事故による負傷者は・・・年間100万人程度だったと思います。この数字には含まれていない無傷の加害者もいますから、単純に考えると多くの人が一生に1度は遭遇することになります。
 この “50〜100年に1度の割合” という危険。これをきちんと意識することは、ドライバーに求められる条件の1つだと思います。
 また自分が事故に遭う確率は低くても、家族や友人が関わる場合も含めると、一生のうちに何十回、あるいはそれ以上という数になります。これはとても恐ろしい現実です。

 もっとも私は、友達が少ないから関係ないけどね。

 ・・・というわけにもいきませんで、私の家族は私以外、みんな被害者になった経験があります。特に父は歩道を歩いていたときに、歩道を走っていたバイクにはねられ、あわや! ということがあったくらいです。また交通事故というと、今の例のようなルール無視(非常に危険な偶然)の結果という場合が多いのですが、100%防ぐことは不可能な、ちょっとした不注意が関係している場合だってあります。
 つまり運転に、100%の安全はありえません。

 でも免許さえあれば運転は認められます。
 理由の1つは、車やバイクには非常に大きなメリットがあること。そしてもう1つは、全員が正しく運転して危険な偶然が重ならないようにさえすれば、たまに失敗をしても事故はほとんど起こらないことです。
 つまり重要なのは、全員が正しい運転(安全運転)を心がけること。なにせこれが交通システムの前提となっているわけですから。
 というわけで免許を取得するためには、高いお金を払って長時間の講義を受ける必要があります。正しい運転を行うための条件には、技術だけでなく、それプラス知識だけでもなく、さらに安全に対する意識や感覚を身に付けることも含まれるのですから、これは仕方がないことでしょう。

 余談ですが、ごく稀に、免許の取得にはそれ以外のことが影響する場合もあります。
 私が教習所に通っていたころ、最大の問題となったのは方向音痴だということでした。というのも、教官を乗せずに一人で教習所内を走らなければならない日があったからです。そのため事前に渡された地図を見て、頑張って道順を覚えようとしました。教官から「道が覚えられないと合格できないぞ」と言われながら、必死に道を覚えました。そして「よし、これで大丈夫!」と自信を持てるまで勉強してから本番に臨みました。

 そして本番の日。
 正しい道を走っていたのは初めの1分くらいで、残りの30分以上は全然違うところを走っていました。
 でも合格できました。えへへ。

 ・・・私の言いたいことが分かりましたか?
 私みたいな人でも免許がもらえるんですよ!
 こんな私なのに、道路を走っていると自分がうまいんじゃないかと錯覚してしまうほど、凄い運転をしている人が大勢いるんですよ!
 つまり普通に走っているように見える車は、実はへっぽこドライバーが運転している危険物なんですよ!

 ・・・えーっと、冗談だか本気だか分からない余談はここまでにして、と。

 運転をするときには車が危ないものだということを忘れずに、“危険な偶然” が重ならないように、安全運転を心がけてください。
 また歩行者や自転車も同じです。人は右で自転車は左、薄暗くなったらライトをつけるなどの当たり前のルールは、守らなければ全て “危険な偶然” の1つとなります。“危険な偶然の1つ” となりえることは、できる限り避けるべきです。

 「身近な危険にどれだけ気付けるか。」

 これをテストすれば、ほとんどの人が30点以下だと思います。周囲の人を見る限りではそんな気がしてなりません。つまり、何がどれくらい危険なのか判断できないのが普通なのだから、とりあえずルールは守りましょうということです。

 ちなみに危険性を判断するためのセンスは、日頃のちょっとした心がけや習慣の積み重ねで、かなりの差が出てくるものだと思います。つまり安全運転を心がけることは、部分的とはいえ自分のセンスを磨くことにつながります。そして自分自身がきちんとしたセンスを持っていれば、他人のセンスに気付くこともできます。
 ・・・というのは半分推測ですけれど。もしかしたら逆なのかもしれません。センスがあれば結果的にルールを破らない。センスが無ければ平気でルールを無視できる・・・

 いずれにせよ、運転に限らずルールを守れない人は、自分も他人も守れません。例えどれほど強く、優しく、自己犠牲の精神にあふれていたとしてもです。つまりルールをどれだけ守れるかは、その人の器を示す1つの目安ともなりえます。
 自分が大切ならば、大切な人がいるならば、ルールが存在する理由とルールを守る意味について、一度は考えてみるべきだと思います。

【余談】
 運転免許には筆記試験もありますが、私はこれで苦労しました。というのも問題の中に、文章を普通に解釈したときと厳密に解釈したときとで、答えが反対になってしまうものがあったからです。普通に解釈したときの答えが正解だったのですが・・・ねぇ?
 「社会って完全なものじゃないんだ」「偉い大人だってこの程度なんだ」
 それを学んだ出来事の1つでした。
 でも考えてみれば当たり前のことで、高校なんて欠点(赤点)を取らなければ卒業できますし、資格や検定だって種類によっては70点以上、つまり30%までは間違っても合格できるわけですから(60点以上というのもあったかな?)。また中学や高校の勉強であっても、全ての科目をきちんとこなせる人は珍しく、それが一般的な人の能力ということになりますので。
 もっとも、だからこそ人は協力することが重要なんだ、とも言えるわけですが。

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≪“運命” のからくり≫

 テレビを見ていたら、妙な事を言っている人がいました。

 「人口が増えすぎると、人を減らすために神が病気を流行らせる。」

 正確なセリフは覚えていませんが、こんな内容だったと思います。インフルエンザやエイズのような、人口を激減させるような病気が大流行するのは、神が人口のバランスをとるため・・・というような意味でしょう。
 この説、信じますか? ほとんどの人は信じないと思うのですが・・・信じないという人は、その理由をきちんと説明できますか?

 というわけで今回は理論武装して、何でも神や運命のせいにするのは止めましょう、というお話です。

 過去に病気(インフルエンザなど)の大流行によって、世界の人口が激減したことが何度もあるのは事実です。1年で百万人とか、それ以上とかいう数字です。被害の大きかった地域では、人口が何十%も減ったというような大惨事です。
 もっともそれらが、人が増えすぎた時に起こったのかどうかは知りませんし、何を基準にして「人が増えすぎた」というのかも知りません。でも仮にそうだとしても、大流行の原因を説明するために、神という超自然的な存在を持ち出す必要はありません。これは誰もが知っているような、次の理由だけでも説明できます。

 多くの病気が人から人に感染することは、普通に暮らしていれば実感することができるはずです。分かりやすいのがインフルエンザで、1人がかかると、家族や席が近い人など、身近な人から次々に病気になっていきます。そして次は、その身近な人にうつります。でもインフルエンザになってから人と接することが無ければ、他人にうつすことはまずありません。
 これを図にすればこうなります。

注:色が濃いほどウイルスが多く(接触しやすく)、感染しやすい
【人口が少ない】
病人

 このように人が少ない状態だと、誰かがインフルエンザになっても危険区域に他人が入ってくる可能性は低く、大流行することはまずありません。

【人口が多い(流行初期)】
病人

 人口が増えれば、自然とこのような状態になります。すると周囲の人に感染し、次のような状態になっていきます。

【人口が多い(流行中期)】
病人 病人 病人

 また人が増えれば行動範囲も広がり、「ウイルスに感染しているが、症状は出ていない」という人が、他の町や国へ行ってウイルスをばらまく可能性、そしてその土地で流行する可能性が高くなります。

【人口が多い(大流行)】
病人多
感染者

 実際には「その病気に対する免疫を持っているかどうか」も大きく関係しますが、考え方としては同じです。
 つまり病気(感染症)というものは、人が増えれば増えるほど大流行しやすいのです。その結果「人口が少ないときには、流行しても人口は激減しない」「人口が増えた時に流行すれば激減する」という傾向になって当然です。ですから病気の大流行の原因を説明するのに、神や運命という存在を持ち出す必要はないのです。逆に神や運命が関わっているのだとすれば、ここに書いた理屈を否定しないと、つじつまが合わなくなってしまいます。

【まとめ】
 神も運命も存在しない。
 これをきちんとした理屈で証明することはできないかもしれません。でもそれは、人間が扱える理屈には限界があるからでしかなく、神や運命が存在する証拠にはなりません。
 でも今回のテキストで書いたように、「偶然とは思えないと感じる人がいる出来事」だって、「常識で考えれば当たり前の出来事」であるのが普通です。そして「ほとんどの人が偶然だとは思わない出来事」でさえ、実際にはきちんとした理由 〜その中には単なる偶然(確率の話)も含まれる〜 があるのです。

 神や運命を信じ、偉大な存在だと思うのであれば、考えれば分かることまで、それらのせいにしないでほしい。
 神や運命を信じないのであれば、都合の良いときだけ、あるいは悪いときだけそれらを理由にしないでほしい。
 それが現実と向かい合って生きるということであり、常識ある行動といえるのですから。

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不健康情報

 民放の生活情報番組は、デタラメな内容のものがほとんどです。5月28日に放送された “発掘あるある大辞典(フジテレビ系列)” もその1つで、事実(?)が元になってはいるものの、内容は見事にデタラメでした。
 どんな内容だったのかというと・・・
 「DHA(ドコサヘキサエン酸・・・栄養素の一種)を摂取すれば頭が良くなる(実験付き)」
 「DHAを摂取するにはサバがお薦め」
 「サバを使った料理の紹介」
 ・・・というもの。
 違和感を感じることなく見ていた人も多いのでしょうが、だまされてはいけません。

【DHAで頭が良くなる?】
 実際のDHAの影響というのは様々で、解明されていないことも多いようですが、「頭が良くなる」ということに関しては明らかに間違いです。これは「頭の機能を維持するのに必要な物質の1つ、と考えてよさそう」というのが正しい表現でしょう。
 番組の実験では、DHAを摂取した後ではテストの結果が良くなっていた(程度がはっきりせず、誤差の可能性も否定できない)のですが、この結果をもとに「頭が良くなる」という結論を出すことはできません。
 でも想像できることだってあります。それは、
 「DHAのおかげで成績が上がった人は、DHAが明らかに不足していた人」
 ということです。

 DHAとは、人間にとって無くてはならない物質の1つであり、不足していれば悪影響が出て当然です。逆に十分に摂取できていれば、余分に摂取したところで目立った変化は無いはずです。するとその実験は、「栄養バランスが偏っていた人をかき集めて行った」というような、信憑性を欠くやり方で行われた可能性があります。
 このような実験は、この手の番組でよく使われるあくどい手法です。「健康とは言いがたい人に普通の生活をさせれば、何かは改善される」という当たり前のことを、特別なことのように見せかけているのにすぎません。

【DHA摂取にはサバがお薦め?】
 DHAが大切な栄養素であることは本当です。人間の場合は、植物性の油などを原料にして体内で作り出すことができますが(注)、それだけでは十分な量にならないため、魚(DHAが豊富)を日常的に食べることが良いとされています(もっともこれはDHAのためというよりも、総合的な栄養バランスのためなんですが)。
 そこで番組では、「魚といっても様々な種類があって良い食べ方をするのは難しいから、総合的に最も優れたサバをお薦めします」というようなことを言っていました。そしてわざわざ、サバ料理の話を長々とやっていました。

 しかし番組でも紹介されていたのですが、サバ以外にも優れた魚はいくらでも存在します。ですから「サバを食べましょう」よりも「魚を日常的に食べましょう」の方が、現実的であり常識的です。
 ではなぜ、番組ではサバを強調したのでしょうか。

 筋の通らない内容になったというのは、筋の通らない理由があったからと考えるのが自然でしょう。例えば「魚を食べましょう」という内容ではインパクトが薄く、番組自体が作りにくいからとか、単に筋の通った考え方ができない人が番組を作ったからとか・・・

【まとめ?】
 DHAは、魚の油以外にはほとんど、あるいは全く含まれていません。ですからDHAのことだけを考えて食事をしていたら、ほぼ確実に栄養バランスが崩れます。あるいは「肉を食べてはいけない」などという、極端な生活をしなければなりません。
 でも全体のバランスを考えて、あるいは深く考えずに様々なものを食べていたら、結果的にDHAだけでなく、各種のビタミン、ミネラル、その他の栄養素が、大きく不足することはありません。極端に不足していなければ、人間というのは健康に生きられるようにできていますので、それを目指すのが現実的だと思います。
 そもそも、普通に食べていれば栄養が偏らない国など、ほとんどありません。それでもちゃんと人が暮らせているということは、それくらい栄養素というのは融通が利くということでもあります(もちろん “理想” の食事と比較すると見劣りするのですが)。

 もちろん例外というのはありまして、普通に食べていれば優れた栄養バランスになる食文化を持った国もあります。でもそんな国は、もしかしたら1つだけかもしれません。
 そのたった1つかもしれない例外、それが日本です。
 日本という国は、それほど恵まれているんです。ですから商業主義のマスコミに騙されて、わざわざ体に悪い食生活に変えたりしないように気をつけましょう。

【注】DHAを体内で合成できるかどうか。
 番組では、初めはDHAを摂取することの重要性を強調するために(?)「できない」と言っていたのですが、後の方ではDHAの原料を多く含むサバをお薦めする理由付けのために(?)「できる」と言っていました。意図的な言い回しのように感じます。


【おまけ】
 DHAの話によく出てくる、マグロのトロ。DHAが最も豊富ということになっています。でもマグロを、凄い魚とかDHAの王様などとは思わないでください。
 DHAというのは油の一種ですので、油が多い部分に豊富に含まれています。マグロは大きな魚ですから、トロや赤身という風に、場所ごとに分けて食べるのが普通ですが、当然ながら油が多い部分もあれば、少ない部分もあります。そしてトロは、お腹の、油が多い部分のことです。

 ・・・気がつきましたか?
 マグロのトロや赤身というのは加工食品であり、一匹丸ごとの魚とはちょっと違うんです。トロや赤身などを無視して平均した数値でデータが表示される他の魚とは、厳密には異なるんです。
 もちろんマグロは切り身でしか売られませんから、トロと赤身を分けて扱うこと自体は間違っていませんし、結果としてマグロの切り身は(良くも悪くも)栄養成分が偏っているのですが、それはそれ、これはこれです。

 ・・・というのは大して重要な話ではないのですが、マグロ神話のようなものを信じている人がいそうなので、念のために書いてみました。


(続き)

 5月の初めには、もっと問題な番組が放送されたのをご存知の方もいると思います。

 体調不良のために、寝てばかりいたゴールデンウィーク(5月6日)。その時に眠り疲れて何気なくテレビをつけたとき、放送されていたのが “ぴーかんバディ(TBS系列)” という番組でした。内容はダイエット。
 民放の生活情報番組がデタラメなことを知っていた私ですら、びっくりするほどお粗末な内容で、「これは現実なのか? 私は寝ボケているのか?」と思ったほど酷いものでした。なにせ見始めたときから最後まで、何から何までがメチャクチャだったからです。
 特に酷かったのが、「ダイエットに効果的な成分が熱に弱い」という理由で、「生で食べてはいけない豆を、半生になる可能性が高い調理法で食べることを勧めていた」ということ。
 これは1つのことだけに注目し、総合的に考えることを忘れてしまうという、あまりにも子供じみた発想です。身近な食品の中にも、調理の仕方次第では健康を害するものがいくらでもあるという、料理や栄養学の初歩の初歩すら知らない人が考えたとしか思えない内容です。

 「自分のサイトで、読者に注意を呼びかけたほうがいいんじゃないのか?」
 そう思って番組の名前をメモし、それなのに実行しなかったのは、私の体調が悪かったからなのか、それとも危険性を甘く見ていたからなのか・・・
 それから数日後、ニュースで「TBS系列の生活情報番組が原因で、体調不良者が続出」という話を知り、「・・・ああ、あの番組か」と思っても時すでに遅し。
 1日のアクセスが数十件というこのサイトで、何の肩書きも権威も持たない私が行動しても、意味があったのかどうかは分かりません。でも何のために娯楽系のこのサイトで、頻繁に真面目な文章を書いているのかと思うと、悔しくてなりません。

 ところでその食中毒事件、一般の視聴者や番組製作者は、どんな風に感じたのでしょうか。私には、「あの時の番組内容がたまたま問題だった」と思っている人が、ほとんどのような気がしてなりません。
 確かにその手の番組は毎週何本も放送されており、それが問題になることは滅多にありません。でも、

 「内容が正しいかどうか」
 「一般の視聴者が、きちんと実行できるような内容になっているか」

 という、重要な2つの事柄に関しては、他の番組だって同じくらい問題があると思うのです。違うのは、

 「問題のある情報が流れたとき、どの程度の危険があるか」

 という結果だけであり、例の食中毒事件は、「1度試しただけで健康を害する可能性があった」から発覚しただけだと思うのです。

【デタラメ生活情報が問題にならない理由】
 例えば、「炭水化物を避ければやせられる」というダイエット方法があります。これは明らかに問題のある情報であり、実行すると体調を崩すどころか、命にかかわる危険すらあります。しかし問題にならない(発覚しない)のには、とある理由があるからです。

 炭水化物というのは非常に重要な栄養素なので、意識的に避けることは勧められません。しかしどんな食品にどれくらい含まれているかをきちんと知っている人は少なく、本人が避けようとしても実際にはそれなりに摂取しているものです。
 また炭水化物はあまりにも一般的な栄養素であるために、きちんとした知識を持っていても徹底的に避けることは非常に困難です。
 きちんと実行できたとしても、そんな極端な食生活はすぐに挫折するため、「このダイエット方法を試したせいで体調を崩した」と自覚できるほどの影響が出ることは、まずありません。

 つまり “炭水化物ダイエット” は、痩せるかどうかという以前に「きちんと実行できない」という問題があるため、結果に繋がらないダイエット方法だといえます。そして「きちんと実行できない」という理由で、問題になりにくいダイエット方法だともいえます。

 このようにデタラメ生活情報の大半は、あまりにもデタラメであるがゆえに無害なのです。そして正確に実行することは困難で、結果が出なくても、視聴者が「自分の意志が弱いから挫折した」「自分には合わない方法だった」などと勝手に思い込むからこそ、問題が発覚することが少ないだけなのです。そして次々に登場する “新理論” に飛びつき、古い情報が忘れ去られるからこそ、問題のある生活を続けて体調を崩すことも少ないのです。

【まとめ】
 さて、このような「無害なデタラメ生活情報」の存在をどう思いますか?
 自分が実行していたことが、実は結果に繋がらないことが明らかだったとしたら、どう思いますか? それどころか危険ととなり合わせの方法だったとしたら、どう思いますか?
 実感できる害がなかったとしても、労力は使っているはずです。同じ労力を使って正しい方法を実行していれば、少しは効果があったかもしれません。時間とお金を、もっと楽しいことに使えたかもしれません。

 さてこれは、騙されるほうが悪いのでしょうか。
 専門知識を持っていないのが悪いのでしょうか。

 私は、一般の人が専門知識を身に付ける必要なんてないと思います。簡単に身に付けられるようなものではないからこそ、そして中途半端な知識や理解では問題が発生する危険があるからこそ、免許というものが存在し、それを持つ人が専門家として重宝されるわけですから。

 ただし専門知識は不要でも、騙されない程度の常識と判断力は必要だと思います。
 ・・・が、現実にはこれすらも難しい問題です。なにせ「常識が軽視されている社会だからこそ、常識が身につかない」という悪循環を起こしているわけですから、この状態から抜け出すことは困難です。

 ただし世の中とは面白いもので、そういった負の部分が凝縮されたような存在もあり、それを反面教師にして学ぶことだってできるかもしれません。
 内容だけでなく、存在そのものにも怪しさを感じる非常識の塊。その1つが今回ネタにした、民放の生活情報番組です。こういった番組は見ないのが一番ですが、それでも見るのであれば、ぜひアラ探しもしてみてください。そうすれば、「一般の人に専門的な情報を発信する」という困難なことを、いかにお気楽な気持ちでしているかがよく分かります。これはNHKの生活情報番組(ためしてガッテンなど)と何度か見比べてみると、さらに分かりやすいと思います。
 これだけでは物足りないという人は、ちょっと困難かもしれませんが、内容そのものの矛盾やヘリクツを探すことも可能です。専門知識がなくても、たった1回の放送を見ただけでも気付くような、明らかなことだって珍しくありません。

 情報も生活も大切なもの。だからこそ生活情報はとても大切なもの。
 これらは多くの人が求めるもの。しかしとても難しいもの。楽しく正確に伝えることが困難なもの。
 だからこそ娯楽番組で、素人が軽軽しく扱うべきではなく、また視聴者も、それが娯楽番組のネタでしかないことを忘れてはならないと思います。

 (記:ヨシヒト@無免許栄養士)

【おまけ】
 生活情報番組がこれまでに放送してきた内容を、すべて実行しようとしたら、一体どうなるでしょうか。「○○という食品を、1日に○g食べると体に良い」という内容をすべて実行しようとしたら、1日にどれだけの量を食べなければならないのでしょうか。間違いなく肥満になりますし、それ以前に食べきれないはずです。
 ・・・ああ、そうか。だから頑張って実行してもらうために、ダイエット情報にも熱心なのか。



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