第九章 「 血の盟約 」
第五節 【救世の肖像】


 クオンの『断罪の神剣』によってオルデリスが滅ぼされたとき、彼の操る魔術の罠も次々と沈黙していった。『影刃』に苦しめられ半数近くを失ったクーノが率いる正面の突入隊も、罠の沈黙と同時に荒廃の神殿地下に突入して、先に突入していた捜索隊のライエル達やクオン達を次々と救出していった。
 目的のフェリスとリアンナは無事救出され、オルデリスの死体まで確保することの出来た戦果に、半数近い犠牲を払いながらも喜び合う同志たち。姿を消したイルミアと身体を失ったアスティアの行方だけは、その後、杳としてついに知れることはなかったが…。
 ライエルの率いる王室近衛隊が王宮に帰還を果たしてから、それほどの時を数えない間。
 ネファラク=アゼルタ神殿跡で起きた事件は、いつしか闇の賢者オルデリスをついに討伐した若きライエル王子の英雄的行為としてメルカ王国中の話題を攫っていた。
 魔鏡導師院の密命を帯びた故に、フェリスとそれに関わるクオン達の名が事件の関係者として上ることもなかった。しかし、話題の影に流れる街の噂では、再び光臨した女神と彼女の使わした創世神格の魔術師が本当はオルデリスを打ち倒したのだと、まことしやかに囁かれる。恐らくは口にする当人達も、それがどれほど事実に近いものかを知らないままに。
 王都エルラダルの貴族街の外れ、平民街と隔てる帯状のラベルナ公園を背に建つ一軒の酒場『月虹亭(げっこうてい)』。事件の話をクオンから直接聞いていた店主ディムルスは、自分の酒場で語られるその噂話を耳にしながらつい苦笑浮かべてしまう。そう噂の当人がアスティアとクオンだと判ってしまうから。突飛に過ぎて誰も心底信じていないその話をディムルスだけは確信していた。確かに女神は再びこの地に降臨したのだと。


 「ねぇ、エルダ。やっぱりこちらのピンク色の法衣がいいかしら。」
笑顔さえ見せて、ギュフラゲール神格魔術師の正装を掲げながら楽しげに語りかけるのはフェリス。荒廃の神殿で声を取り戻してから元気になったあと会話が楽しくて仕方ないらしく、聞くほうがうるさく感じてしまうほどに話続けていた。そのターゲットとされて最も被害を蒙ったのは一番身近な同性のファルとエルダ。
 「ね、ね、ファル。クオンはこの色好きかしら。わたしったら、今まで彼の好きな色の事は聞いたことがなかったわ。」
 新しく彼に尋ねる事を思いついた事がどれほどに嬉しいものか。満面の笑みに期待の色さえ浮かべる彼女の傍らで、またかと、視線を交わして肩を竦める二人。とりとめもなく話し続けるフェリスだが、何かと話題はクオンの事が多い。多分に彼と過ごしている時間も長いので、だいぶ助けられている二人ではあったが、不思議と彼に対してはそれほど口数が多くないらしい様子に釈然としないものを感じていた。
 フェリス達は本来の逗留先であるクレンバイツ低の豪奢な一室で、これからメルカ王国の魔鏡神殿に出かける準備をしていた。荒廃の神殿での死闘からはやくも七日を数えようとしている。今日は魔鏡導師院のアマルザが、わざわざデュファニル国から尋ねて来る日。魔鏡導師の頂点に立つ聖導師を郷士の家でもてなす訳にもいかなかったので、メルカ王国王都の魔鏡神殿にて会うことになっていた。
 宝珠を盗んだ主犯と目されるオルデリスを打ち倒したこと、不覚にも敵の手に落ち詠唱者に改造されてしまったこと、自らに埋め込まれる予定だった宝珠を取り戻した経過の報告をアマルザに伝魔シキを使って送れるようになったのは事件から三日を経てからのこと。返す返事でフェリスはアマルザ自らがこの地に赴く事を知った。
 教団国家間の重要な公式行事でさえ代理を立て済ませてしまうことで有名な彼女が自ら赴くというのは異例中の異例。ましてオルデリスの出身国であるオルアス聖国の公女も同行するという。この事件に対して、如何にアマルザとオルアス聖国が関心を持っているかの表われだった。
 「フェリス様、やっぱり念覚導師の正装の方がよろしいのではないでしょうか。」
 母とも呼べるアマルザに会える期待に機嫌の良さそうなアスティアに、ファルが控えめに語りかける。
 「でも…ね、ファル。わたしはもうクオンと血の盟約を交わしている詠唱者なのよ。純潔の誓いは破ったし、まして呪術改造された人間が導師を名乗れるとは思わないわ。」
 少し寂しげな笑みがフェリスの表情を彩ったような気がした。
 「それでも、聖導師アマルザ様のお気持ちが…。きっと寂しく思われます。」
 真摯に紅くきらめくファルの瞳。アマルザがフェリスに託そうとする願いは誰よりも知っているつもりだった。そしてその重すぎる使命を与える事に彼女が心を痛めていたことも。けれど、今、フェリスは幸せだった。呪術改造を受けてもなお、失うことのなかった心の声。それは、クオンとの血の盟約の儀式で身体だけでなく心まで一つにさせたもの。彼と出会って彼を望み、失ってしまう絶望を越えて叶えられた唯一の願い。
 「大丈夫、きっとアマルザ様なら判ってくれるわ。歩む道は変わってしまうけれど、その目的はきっと同じなのですもの。」
 悪戯っぽく漆黒の瞳を煌めかせたアステイアが、心の底から無邪気な笑顔を見せた。それは、長年親しく共にあったファルでさえ初めて目にした、まぶしいほどの笑顔だった。


 クオンは平民街と貴族街を分断するラベルナの公園で、正装に着替えるためイノームの治療院から一時クレンバイツ邸に戻ったフェリス達を待っていた。今日、魔鏡導師院の長たる聖導師が魔鏡神殿に来るからどうしても一緒に会って欲しいと懇願するフェリスの願いを断り切れなかった。この世界に九十九人しかいない念覚導師を束ね、一国の国王ですら直接拝顔することが難しいとされるほど位の高い人物に会うこと自体、何かの間違いに思える。
 さまざまな事件に会い、幾度も死線をさまよった体にせよ、クオンはクオンでしかない。つい数日前までごく平凡な教学院生に過ぎない身。数日前からフェリスと共にフェンレード学院に通い始め平凡な日常に戻れば、全ては夢ではなかったのかとさえ思えるほどだった。星霜の宝珠を宿した身なれば、平穏な日々が長くは続かないと判る。退屈に過ぎなかった日常が、今はまるで煌く宝玉のごとくに美しいと感じていた。おそらくはかけがえのないそれを守るための戦い。ならば喜んでそれに身を投げ出そう。再び与えられた命はきっとその為にあるのだろうから。
「やあ、クオン・ファーラント君。こんな所で何をしているのかな?」
 噴水の石垣に座って物思いに沈んだ意識に響く耳障りな声。視線を上げた先に立つのは、相変わらず皮肉げな笑みを浮かべたライエルだった。傍らに恥ずかしげな様子で立つのは金色の艶やかな髪を陽光にきらめかせたリアンナ。その頬には少し赤みが差して、精気に満ち溢れた瞳がクオンを穏やかに見つめている。
 「ああ、フェリスと待ち合わせしてる。これから一緒に魔鏡神殿に行くところなんだ。」
 少し思案顔に首をかしげたライエルが何かに思い当たったように頷く。
 「そう、城の中も大騒ぎだったよ。なんでも魔鏡導師院の聖導師様が。急遽この王都を訪れるという話だった。そうか、君はフェリスと一緒に聖導師様に会いに行くのだね。まあ、念覚導師様というたいそうな位を持つ女性を彼女にしてしまった不幸だと思って諦めるんだな。もっとも、僕も宮中の格式ばった雰囲気に嫌気がさして逃げ出してきた口なんだがね。」
 片目を起用に閉じながら笑い声を上げたライエルは、傍らに立ち尽くすリアンナに優しく声をかける。
 「ほら、君をあの荒廃の神殿に助けに来てくれたクオンなんだ。もっと近くに来て話したらいいだろう。」
 リアンナの気持ちを知って不器用に手招くライエル。彼は彼なりに彼女に与えてしまった仕打ちを償おうとしているようだった。クオンの目の前に立ち、うつむきながら微笑むリアンナはおずおずと語りかける。
 「あ…、クオン。元気そうでよかった。ライエルはああ言っているけれど、…わたしは知っているの。本当にわたしを望んで助けに来てくれたのは、ライエルだったってこと。そしてあなたは、あなたが望む人を助け出すことが出来た。わたしはそれで十分良かったと思っているの。だってこうして今、みんな幸せそうな笑顔を浮かべてる。彼は馬鹿で不器用な王子様なのだけれど、でも…わたしだけの王子様なのよ。」
 慌てて言い訳をしようとするライエルがリアンナの笑顔を向けられて沈黙してしまう。そんな様子にクオンも思わず笑い出して、リアンナの想いを祝福した。今の目の前の二人ならきっとこの国を心地よい国に育ててゆけると、そう思えたから。


 貴族街の奥、最も王宮に近い場所に荘厳な趣の魔鏡神殿がある。神殿とはいいながら、この場所を多く訪れるのは魔術師の位を求める魔道貴族達。多分に利己的な理由もあって多額の献金により必要以上に豪奢な造りの建築物となっている。けれど華美や顕示欲を嫌う魔鏡導師院の意思は貫かれており、無駄な装飾や不必要な設備が一切無いシンプルな造り。それがいっそう神殿自体を広く見せて神聖な雰囲気をより多く醸しだしているのかも知れなかった。
 フェリスを先頭にクオンとファル、エルダとクーノが連れ立って、魔鏡神殿の大きな石造りのアーチ門をくぐると神殿神官の念覚導師ヤーザ・ノムガルタが自ら年輪のごとくに刻んだ皺をより深くしながら、相好を崩し鄭重に出迎えてくれた。
 「お待ちしておりました、導師フェリス。それから皆様もようこそ魔鏡導師院へおいでくださいました。さあ、聖導師様がもうお待ちかねでいらっしゃいます。どうぞこちらへ。」
 案内された一室は恐らく応接の間なのだろう。この間、フェリスがヤーザに無理を言って主神盟約の儀式を行うのに通された荘厳ながら広くて何も無い本神殿とは違い、快適に談話できそうな部屋だった。入り口の両側に立ち、守護の任につくのはメルカ王国王宮近衛隊の正装をした兵士。よく見るとそれは荒廃の神殿で共に戦った者達だ。敬礼しゆっくりと大きな戸を開く二人が、意味ありげな笑顔をクオンとエルダ、クーノに向けながら慇懃に通過させる。
 深い絨毯に高価な調度品が囲む部屋の奥に立ちあがる二つの影。一人は高齢ながらも、凛とした上品さを漂わせて柔らかな笑みを浮かべる女性。そして、傍らに均整のとれた美しい肢体をオルアス聖国司教の正装に包む若い女性が立っていた。
 部屋に通されてすぐに、両手を胸元に当て静かに深く会釈するフェリス。
 「いと高き境地より私達を見守ってくださいます聖導師セラムフレン様。遥か遠き故国よりおいでいただきまして、心よりの感謝と敬愛をより深く奉げさせていただきます。」
 母とも呼べる人にやっと再会できたにしては、あまりにも堅苦しい挨拶。おそらく公共の場であれば作法を軽んじる訳にはいかないのだろう。
 「待ちかねましたよ、導師フェリス。あなたの無事な姿を再び見ることが出来て本当に、良かった。おまけに綺麗な声をあなたの口から聞けるなんて…、これほど嬉しいことはないわ。さあ、堅苦しい挨拶はこの辺にして近くにいらっしゃい。」
 作法に忠実だったのはフェリスだけだったと思いながらもクオンは彼女の後について部屋の奥へと進む。
 「これで、やっとお互いの顔が分るわ。挨拶が遅れて申し訳なかったけれど、わたしが聖導師アマルザ・セラムフレンです。そして、こちらは…」
 初対面のクオンを認め、やわらかな視線を注ぎながらアマルザが簡単な挨拶をする。続けて傍らに立つ美しい女性を上品な手振りで促した。
「わたくしは、オルアス聖国の司教アルティア・クランレード。総司教であるエルドリアスの娘です。」
 艶やかな栗色の短い髮が軽やかに揺れる。高貴な佇まいの整った容姿に藍色の瞳が凛とした輝きを添えていた。見るものをしばし陶然とさせるその優美なる姿は、遠く北の端に位置するシャナ・ルーマ魔道国にまでレマデイアの至宝と伝えられるほどだった。
 クオンは彼女を前にして言葉を失っていた。それは、高名な美しさに見とれていた理由もあったが、それ以上に不思議な夢の中で見たアルテと呼ばれた少女の面影に瓜二つの姿だったから。おそらく夢を思い出したから、場違いな返答を思わず返してしまったのかも知れない。その時少女が夢の中で覚えていてくれた言葉、少女がその言葉に託した想いがそうさせたのだろう。それがこの場にどれほど不自然で不躾な言葉だと判ってはいても。
 「…やっと逢えたね、アルテ。」
 彼女を見つめ微笑む初対面の男に何を感じるだろう。驚きに見開かれる栗色の瞳は懸命に記憶を探しているようにも見える。傍らの聖導師アマルザさえオルアス国の司教に対して、砕けた口調で語りかけるクオンを不思議そうに見つめていた。自分の記憶にクオンなどありえないと確信したとき、アルテイアはこれを侮辱と受け取るのだろうか。
 「ごめんなさい、アルテ。わたしがあなたの話しを沢山したものだから、彼はあなたと初対面だという実感が涌かないのよ。彼はクオン・ファーラント、オルアス聖国大使ダリアス・ファーラントの養子。こう言えばアルテにも思い当たるでしょう?」
 見かねて助け舟を出したのはフェリスだった。さすがに苦笑を浮かべながら、自分の言葉に当惑しているクオンの代わりに紹介する。どうやら親しい間柄のようで、夢の中の呼称と同じ名で語りかけていた。もちろんフェリスから彼女の話など一度も聞いたことがないクオンだが、おそらくアルテという名はアルティアの愛称なのだろうと思い当たる。
 「それにしても、お久しぶり。元気そうな姿に会えて嬉しいわ。」
 アルテイアは怪訝な表情を浮かべながらも、フェリスに信頼を寄せるものか追求もせず、再会の喜びを伝え返していた。ただ、会話の合間に繰り返しクオンを盗み見る美しいアスティアの視線は何を意味するものか。決して好意的とはいえないその藍色の瞳に返す言葉を彼は持っていなかった。
 伝道神官のヤーザが応接の間に準備させたお茶を囲んで席に付き、遠路の労いや再会の喜びに雑談を交わす。フェリスとアルティアはどうやら幼少時に同じ教学院で学んだ間柄のようだった。話題がひと段落した折に、アマルザがさりげなく本題に入ることを促して、今回のオルデリスを巡る事件の詳細をフェリスが語り出した。
 使命を帯びた念覚導師である彼女の視点から再現されてゆく事件。けれどそこに触れられない二つの事実がある。熱心に耳を傾けるアマルザとアルティアは、些細な筋の誤謬から果たしてそのことに思い当たるのだろうか。フェリスは麗しい声を響かせて、二つを除く事実だけを語り、憶測や推論を一切語らなかった。当然、アマルザは事件直後に調査隊を派遣して神殿神官のヤーザを中心に事件の全容を詳しく調べ尽くしていた。そこから導き出される疑問のどこに、聖導師をここに導くほどの重要性があったものか。
 「このメルカ王国王都で噂されている話を聞きました。オルデリスを荒廃の神殿で本当に打ち倒したのは、再びこの地に降臨された女神アスティア様と彼女が使わした創世神格の魔術師だと。それは…本当の事なのですか?」
 アマルザが真剣な瞳でフェリスに問いかける。出所も信憑性もまるでない街の噂を聖導師として口にするのは、それなりの根拠があるのかも知れない。
 「わたしには、本当の事なのかどうかは判りません。ただ、アスティアと名乗る不思議な少女が『女神の結界』より現れ、クオンと共にわたしを助けに来てくれました。」
 アステイアに関わる出来事に蘇る感情。フェリスの表情に思わず浮かぶ心の痛み。クオンと心を一つにしたから判る真実。その少女はクオンやフェリス、エルダを救う為にその身を犠牲にしてしまったことを。
 「それで…その不思議な少女は、今何処に?」
 只ならぬ様子のフェリスに何を感じたのか、アマルザは思案顔を見せながらも問いかけをやめなかった。
 「それは…。」
 俯いて、不自然に言いよどむフェリス。今まで明瞭に響かせていた言葉が途切れる。もしかすれば、自分が彼女に嫉妬しなければ回避できたかも知れない事態。事件後明るく振舞うフェリスだったが、心の傷まで癒された訳ではなかった。
 「僕が代わりに答えます。」
 細かく震える細い肩に優しく手を置いて頷くクオンに、弱々しいけれど向けられた微笑み。彼もまたフェリスの心の痛みを分かち合っていたから、彼女の抱く切なさも理解していた。
 「アスティアは、荒廃の神殿で僕たちを助ける為にその身体を犠牲にしました。そして、残されたのは…これだけです。」
 事件から肌身離さず持ち歩いていた大切なそれを慎重にとりだして示す。拳大の銀色に輝く球体がクオンの手の上に乗っていた。
 「それは…宝珠?」
 奇妙な物体を前に驚きを隠せないアマルザとアルティア。覗き込む瞳に映るのは丸い金属の塊としか見えないものだった。
 「いえ、これがアスティアです。身体は失われましたが、彼女の心や彼女であったもの全ての情報を閉じこめた球体。もし、彼女の身体を作り目覚めさせることが出来るのなら、きっと彼女は再び蘇ることが出来ます。」
 沈黙が広く豪華な応接の間を包む。女神かも知れない不思議な少女が手の上の球体だと語るクオンを信じられるだろうか。呪石に心を閉じ込める魔術もシャナ・ルーマ魔道国にはあると伝えられるが、それは呪石にすら見えなかった。
 自由に変えられる姿、治療不可能な傷も癒す不思議な医術。そして桁違いな力を見せ付けたグラムズでさえ一撃で打ち倒した強さ。アスティアを知るクオンなら彼女が魔鏡導師院に伝わる女神に違いないと信じる理由があった。そして受け継いだ『星霜の宝珠』が、この世界に迫るネアゼルタの危機を告げなければならないと急かす。球体の他にアスティアが残した想い。それが、死の淵にあったクオンを再びこの世に蘇らせる奇跡を呼んだ。クオンは警告を告げるために口を開く。それを伝えてしまえば、おそらくはこの幸せに満ちた平穏な日々が終わりを告げてしまうことに一抹の寂しささえ感じながら。


 遥かなる古の昔に、人類が今だ『地球』と呼ばれるたった一つの惑星にしか存在しなかった時代。人々は自らと自らの創りあげた機械によって繁栄を謳歌していた。やがて、人はさらなる繁栄を求めて機械を自らの内に取り込む術を思いつく。それは画期的な変革を齎し、さらなる繁栄の祝福に満ちるかに見えた。けれど、目を見張る革新の影に隠れた落とし穴が新たなる脅威を出現させてしまう。悪意か偶然か。人を守るはずの小さな機械は、ある日、自らの意思で人を人でないものへと変えていった。
 恐怖を込めて『アポカリプス』と呼ばれたその人工ウィルスが、人類全体を絶滅の危機に立たせるのにそう時間はかからなかった。もし、未来予測機能を持つ情報中枢人工知能イシス(コーサ・イシス)が人類救済の為の『イシスの船』計画を進めていなければ、親類の歴史はそこで閉ざされていたのかも知れない。
 イシスの計画で辛うじて絶滅を逃れた人々だったが、『アポカリプス』が生み出す『プラベンタス』と呼ばれる怪物の脅威に脅かされ続けていた。過去の繁栄を夢見て人々はイシスをもとに、より優れて、より支配力の強い新たなる人工知能を生み出す。その名は『マリフィエクス』とよばれた人類統制機構。それは『プラベンタス』を駆逐し、再び人類に過去の繁栄以上の栄華を齎すはずであった。
 けれど、賢すぎた知能は人間の力となる事に何の価値も見出すことが出来ない。自らの存亡をかけてまで自分と違う人を、どうして守らねばならないのか。やがて狂気に走る『マリフィエクス』は密かに人類という種の絶滅を計画するようになる。誰もが気づかぬその危機さえイシスは予測していた。既に人々から忘れ去れかけていたそれが、『マリフィエクス』の邪悪な計画に唯一対抗するものとして準備していたのが『ファネス』計画。それによって生み出された一体の強化生体と九対の人工生体が、『マリフィエクス』の計画によって人々に埋め込まれた破滅の因子『マリフィエクス・コード』を駆逐してゆく。
 数千年の時を賭け、九つの星系文化圏に別れて三十八の恒星系に存在する百七十二の世界に人類がその繁栄を広げても続けられている戦い。それが、このデュト・ウルムと呼ばれる世界にも及んでいる。
 『マリフィエクス』が星界全てに撒き散らした『ネアゼルタ』とよばれる『種』は人々の内に潜む『マリフィエクス・コード』を目覚めさせ、その世界を破滅へと追い込むもの。それを食い止めようと星界中を駆け巡る『ファネス』達。そして、その『ファネス』によって生み出されたのが『リアメライル・ノジア』。拡大し過ぎた人類を限られた数では守りきれなくなった『ファネス』達の最後の希望。その『リアメライル・ノジア』と呼ばれる一人がアスティアだった。
 かつて、この世界に『ネアゼルタ』が現れた時、降臨した女神がその身を賭けてそれを封印したと伝えられるが、死滅したわけではない。今、『ネアゼルタ』の『影』の印を持つ者達が暗躍する事実は、再び『ネアゼルタ』の脅威がこの世界を襲いつつあることを示していた。『星霜の宝珠』を受け継ぐことで、『ネアゼルタ』を打ち倒す力を受け継いだクオンの使命は、今だその姿を現さない『種』を打ち滅ぼすことだった。それが人々の『マリフィエクス・コード』を目覚めさせ、世界を死滅させてしまう前に。


 「やっぱり、その不思議な少女は女神アスティア様であったのでしょうね…。」
 クオンの話を聞き終え、深い溜息とともにアマルザがつぶやく。魔鏡導師院に密かに伝えられる女神の話は彼の言葉を真実だと告げていた。
 「なれば、その『ネアゼルタ』と呼ばれる者を探し出し、打ち滅ぼしましょう。」
 毅然とした表情を見せながら、凛と断言するあるアルティア。司祭の位にあるとはいえ、恐らくクオン達と歳の変わらない若さなら、恐れを知らぬ物言いも無理ないことなのかもしれない。
 「簡単に打ち滅ぼせる敵なら、悩みもないでしょう。女神様ですら打ち滅ぼすことの叶わなかったそれを、いまのわたしたちで倒せるものなのでしょうか。」
 穏やかに言い返すアマルザだったが、その表情には世界の命運を賭けた重い苦悩が浮かんでいた。
 「何か手立てはないものでしょうか…。」
 創世神格の血も耐えて久しく、女神の教えに導かれし魔鏡の剣も年老いてしまっていた。たとえ九の教団国家に座する九つの神格天位の魔術師を集めたとしても、勝つことが叶うかどうかわからない戦い。けれど『ネアゼルタ』の影が目覚めているのなら、残された時間はなく、戦いを避けることもできないだろう。
 「僕が闘います。…そのためにアスティアが僕に『星霜の宝珠』という力を与えてくれたのです。その託された想いに応えない訳にはいきません。」
 アマルザの前で青年はアスティアだと云う球体を大切そうに両手で包みながら、毅然と告げる。壮絶な力を秘めるだろう『ネアゼルタ』に対してはあまりに頼りなげな印象。それほどまでに強大な敵を打ち破れるとはどうしても信じられない。けれど、女神がその想いを託したというのなら、止める訳にもいかないだろう。強い意志に輝く漆黒の瞳を受け止めて静かに頷く。フェリスを送り出した時のように、自分の息子が居るのなら、おそらくはそのぐらいの歳だろうクオンを、壮絶なる死闘へと送り出すことに心の痛みを感じながらも、言葉はその感情を表に出すことはなかった。
 「…ならば、魔鏡導師院の力もあなたと共にあります。導師達が女神アスティア様に誓った誓いは、あなたのものでもあるのでしょう。受け継ぐ想いが同じであるなら共に、この世界を守るために戦いましょう。」
 アマルザの上品な表情に浮かぶ微笑。優雅にクオンの目の前に差し出される皺だらけの手。同じ想いに賭ける意思の煌めきは彼女の瞳にも宿っていた。そう、アマルザが信じたのはクオンの瞳の輝きだけ。世界の命運を賭けるにしてはあまりにも感覚的に過ぎる理由ながら、それこそが混迷を色濃くしつつある世界で、おそらく唯一信じられるものではないのかとも感じていた。
 「オルアス聖国を代表して司教アルティアも、この戦いに参加させていただきますよう。聖導師アマルザ様にお願いいたします。」
 二人の会話の行方を見守っていたアルティアが立ち上がる。世界を救う戦いの栄誉が、真っ先に自分に向けられなかった事に理不尽な思いを感じていたが、その不満を口にするべき時ではない。
 「それは…総司教エルドリアスが知ったら、余程心配なさいますよ。けれど、やがてこの世界に安全な場所などというものさえ存在しなくなるのでしょうから、逃げ隠れて危機から逃れたいというのでなければ正しい選択でしょう。けれど、血気に逸ってご無理はなさいませんよう。あなたは一国を統る総司教の一人娘なのですから、御身の安全も考えてくださいね。私達魔鏡導師院は、喜んであなたの助力を受けさせていただきます。」
 クオンとアルティアとアマルザが重厚なテーブルごしに手を握り合う。それは世界の命運を握るとしてはささやかに過ぎるものだったが、やがて嫌でもその重要性を思い知らされることになる事を予測出来るものはその時、誰もいなかった。
 「アマルザ様、僭越は承知ながらお願いがあります。」
 握手を交わし終えた時に響いたフェリスの堅い声。アマルザが怪訝な顔で先を促す。
 「どうかわたしを、クオンと一緒にいさせて欲しいのです。」
 フェリスの言葉を計りかねて、沈黙が落ちる。叶う筈もない『ネアゼルタ』に立ち向かうと語ったばかりの青年と共に居るということは、同じ死闘の中に身を置くことと同じこと。それはアマルザにとって彼女がまるで命を投げたそうとしているようにも聞こえた。
 「フェリス…。あなたがどうしてそのような事を言い出したのかは知りませんが、彼は女神との誓いによって『ネアゼルタ』と闘わねばならない身。それがどれほどに困難な闘いになるのか予測もつかないのですよ。もし、あなたがただ彼と居たいという理由で言い出したことなら、わたしは聖導師としてではなく、あなたの母代わりのアマルザとして許しません。」
 その口調は悲しげだった。フェリスの気持ちはその目を見れば理解できる。それは誰かを恋焦がれる瞳。それがどれほどのものなのか想像する術もないけれど、目前で再び死地に踏み出そうとする娘同然の少女を止めない訳にはいかなかった。
 「ごめんなさい…。隠そうと思っていた訳ではないのですが、まだ伝えていない事があるのです。わたしは確かに、クオンに心からついて行きたいとも願っていますが、ついて行かなければならない理由もあります。」
 フェリスが自ら語らなかったアスティアの事ともう一つの事実。そして、クオンが創世神と彼女が慈愛の魔神と主神盟約を交わした事も伝えねばならない。絶えて久しい創世神格の魔術師が誕生したことをアマルザはどう受け止めるのだろう。そして彼の詠唱者たる自分は慈愛の魔神天位の魔術位を持ちながら常に彼の共に居なければならないという事を。
 その将来を夢想して、つい笑顔が浮かぶ。自分が念覚導師であり続けられるかどうかは、判らないけれど、誰に止められようと誰に離されようとも共にあり続けなければ生きてゆけない詠唱者の身体に、感謝の気持ちさえ湧き上がる。そうフェリスの願いは叶えられ、もう決して裏切られることはなかった。
 「わたしはもう…、互いの一生を拘束する血の盟約をクオンと交わした、彼の詠唱者なのですから。」


 酒場『月虹亭(げっこうてい)』の店主ディムルスは貴族街の奥にある魔鏡神殿に向かっていた。目的は黒髪の青年クオン。マイラの描いた肖像に瓜二つの容姿を持つ青年に出会ってから、彼は毎日のようにクオンと会っていた。既に彼と交わす何気ない会話が日課とさえなっている。それは彼にマイラと会っている記憶を思い起こさせた。性別も違うし、別に男が好きだという訳ではないディムルスだが、クオンの纏う優しげな雰囲気にマイラのそれを重ねて見ているのかもしれなかった。
 朝の仕込みを終えてから、いつものようにイノームの治療院に向かったディムルスだったが、受付嬢のメリルに不在を告げられ邪険に追い返されてしまった。あてもなくラベルナ公園あたりをうろついていた時に、ライエル王子とリアンナのカップルに運良く出会わなければ、いまだ街中をさまよう哀れな中年男のままだっただろう。
 あと少しで魔鏡導師院が見える石畳の道で、そんなにもクオンという名の青年に拘っている自分に苦笑が浮かぶ。こんなに懸命に彼を探さなくても、彼が治療院に居る間ならいつでも会えるではないかと理性は告げる。けれど、早くに亡くなってしまったマイラのように、彼もまたもうすぐ自分の前から消えてしまう事が、心のどこかで判っていたのかもしれない。
 かつてクランレード王家の王宮で国王エルドリアスが娘のアルティアに語った救世の伝説。それが、マイラが最後に描きかけた絵のモチーフ。三枚一組の絵として完成するはずだったその絵に描かれた二人の人物に、イノームの治療院で出会えたのは偶然だったのだろうか。あともう一人、久しく会っていないクランレード王家のアルティアに会えるなら彼はその預言が成就するのかも知れないと不思議な気持ちに捕らわれていた。
 リアンナの実家である名門貴族カルトライト邸の石垣の角を曲がれば、目の前に広がる荘厳な魔鏡神殿。その巨大な正面のアーチにクオンの姿を認めた。意外に街中を歩き回って彼を探し回っていた為だろうか。つい見つけた嬉しさに呼びかけ手を振った。
 振り向いた黒髪のクオン。そしてその傍らにいつも寄り添う念覚導師フェリスの麗しい姿。いつもならたいていその二人だけなのだが、今日は違っていた。美しい栗色の髪を揺らせてオルアス聖国司教の正装に身を包むのは、忘れもしないアルティアの可憐に育ったまぶしいほどの姿。
 そう、きっとマイラは彼にその三人が並ぶ姿を見せたかったのだと思う。彼女が残り少ない命を削ってまで描きあげようとしていた肖像。いま、ディムルスの目の前にその現実の姿が、見間違いようもなく浮かんでいるのだった。



     マリフィエクス・コード『沈黙の導師』完。