第九章 「 血の盟約 」
第四節 【血の盟約】


 フェリスの生々しい血の匂いに満たされた回廊の先には、ぽっかりと暗闇に光を放つ入り口があった。躊躇わずにそこへと突き進んだクオンは、片手を目の前にかざし、室内のまぶしい光ごしに、中の様子を懸命に伺う。
徐々に光に慣れる目に飛び込む光景。アーチ上に石の積み上げられた入り口の大きさから想像したよりずっと広かった。同じ石造りの壁面に設置された発光の呪石がいくつも連なり、幻想的な灯りで室内を満たしている。その中央に巨大な黒い寝台が置かれ、その寝台を囲むように四方に立つ石柱の上には漆黒の呪石が黒く淀んでいた。
 革のようにつややかな黒に映える寝台に、白く透き通るような肢体が大の字に拘束されている。よく見れば鋼鉄のごとくに黒光りする大きな枷に両手足首を戒められており、その肌には青あざや赤い擦り傷が痛々しく残っていた。そして、その姿は一糸まとわぬ裸体。意識がないものか、身体はまるで美しい陶器で形作られた人形であるかのように微動にもしていない。けれど、彼女の腰あたりにわだかまる黒い布の塊がもぞもぞと動いていた。
 「…フェリスっ!!」
 クオンが思わず叫ぶのと、彼女の腰あたりに覆いかぶさろうとしていた黒い布から骸骨じみた顔が振り返るのは同時だった。思わず彼女の元へと駆け寄ろうとするクオンを、その黒い布が俊敏に動いて立ちふさがる。
 「思ったより早かったなクオン。イルミアが居ない間に、詠唱者となった若き念覚導師と『血の盟約』を交わそうと思ったのじゃがな。そう上手く事は運ばぬものじゃ。」
 黒い布の塊としか見えなかったそれが、賢者の道衣だと気づく。そして深くかぶったフードの奥に除く奇怪な容姿はひどく見慣れた顔だった。
 「セルベルト先生…。あなたがオルデリスなのですか。」
 ひどく醒めて冷たい声が自分のものでないように響きわたる。動かないフェリスの裸体が意識から離れない。あれほどの血の匂いが今は何処にも感じられなかった。
 「そう、平民あがりの君にしては珍しく的を得た答えだよと、君の知るセルベルトならば言っただろう。けれど君の身分は違うのじゃ。おまえは馬鹿王子ライエルなんぞよりもっと由緒正しき貴族の身。この教団国家の中で最も力を持つといわれるイゼフィア帝国の前皇帝セルディンとその妻リリアとの間に生まれるはずだった子なのだよ。」
 瞳を閉じて動かないフェリスの頭の先のほうに低い石柱がもう一本あり、その上に不気味に脈動する光を放つ球体があった。彼女を詠唱者にしたあと、心まで打ち砕く宝珠を埋め込むとイルミアが語っていた、その宝珠なのだろうか。
 「歴史の授業で教えたとおり、イゼフィア帝国の皇帝セルディンはリリアとの婚姻の日に弟のガルニスに襲われて亡くなった。そのとき共に亡くなったリリアのおなかの中には、お前の命が宿っていたのだよ。そう、わしはお前の命を救った。死に逝くリリアの腹の中からお前を取り出し、呪生手術を繰り返して人の形を成すまでに作り上げたのじゃ。」
 それが自分に加えられた常軌を逸した行為だと聞かされてなお実感は湧かなかった。ただ、想像で浮かぶ優しげな父と母の笑顔。生まれる前に無くなってしまっているのなら顔を覚えているはずもない。ただ、もしかしたら母親のおなかの中に居たぬくもりだけは心の奥深く何処かに残っているのではないだろうかと、切ない期待に胸が締め付けられる。
 「そう、クオン。おまえはわしに生かされ、育てられたのじゃ。いま、おまえがそうやって立っていられるのも、わしのおかげだと言うことを忘れるなよ。まあ、おまえは覚えておらんかも知れんが、わしはお前を好きで捨てた訳ではない。オルアス聖国のしつこい追っ手に急襲されて命からがら逃げ出したのじゃ。残念じゃったが、とてもお前まで一緒に連れてゆける状況じゃなかった…。」
 記憶に残る優しい思い出は養父ダリアスとその妻に引き取られてからのこと。オルデリスの記憶はどこにもなかった。クオンにとってはそれが残念だというより嬉しかった。人の命を玩具みたいに弄び後悔すら感じない男に育てられたと言われたことが悔しかった。ましてアスティアを信じるなら、目の前の男はクオンの寿命を知っている。いつ消え去ってもおかしくない命はオルデリスの無謀な呪術改造が原因なのだ。彼が自分を好き勝手に改造して得たかったものはなんだろう。
 「一つだけ教えて欲しい。お前はなぜ僕を選んだんだ?」
 オルデリスと口をきくことにさえ嫌悪を感じるが、この身に降りかかった運命がなにによってもたらされたものなのかを知りたかった。全てを失ったはずの者をわざわざ生き返らせた理由。その結果、積み上げたものを再び全てを失うことにならんとするその理由を。
 「もちろん、おまえがリリアの子だからじゃ。アスフェスの神格を持つ高位術者セルディンとホレークの神格を持つアルヴィ・オルミーダの娘のリリアの間に生まれた子が尋常な魔力の持ち主になるだろうと考えたのじゃ。それに、あの美しいリリアはわしを見向きもせずに高慢な若造のセルディンを選んだのじゃ。許せることではない。わしは報復の機会をずっとうかがっておった。残念ながら殺害の楽しみは弟のガルニスに奪われてしまったが、死んだリリアの身体とその子供は手に入れて、思う存分に汚し尽すことができたのじゃよ。」
 枯れ木のような身体をゆすりながら、骸に皮を貼り付けたような口をかくかくと空けて、高笑いを上げるオルデリス。クオンは知らず憎悪が自分の心を黒く塗りつぶして行くのを感じる。目の前の死人のような男が、大切なフェリスを汚そうとしただけでなくクオンの母の死体まで侮辱したのだと知って、平静を保てるはずもなかった。
 「許せない…、お前はお前だけは…絶対に…許さないっ!!」
 激情に振り上げられる漆黒の剣。見開いた目を血ばらせて絶叫が爆ぜる。渾身の力が剣に込められ、漆黒に沈む刀身を不気味に煌かせた。斬撃は一瞬。どこを見ても空きだらけの老人に対して、けれど手加減など出来るゆとりはない。クオンは初めて人を殺すために剣を振るう。それは何かを守るためのものかも知れない。同時にひどく大切なものを失う行為なのかも知れない。けれど彼の心を支配する憎しみの感情は、彼から何かを考える意識さえ奪い去っていた。
 「クオン、後ろよっ!!」
 その耳慣れない叫びが、身動き一つしなかったはずのフェリスから発せられた『声』だと気づく。いつ意識を取り戻したものか。そして声を失っていた少女が、やわらかな唇から初めて現実へと発することの出来た音。その声音は麗しく、清流のせせらぎのごとくにクオンの耳朶を打つ。思わず捕らえたフェリスの美しい瞳が浮かべるのは、自分が声を発していることへの驚きなのだろうか。けれどそれは、フェリスの肉体が既に完全なる呪術生命体、詠唱者へと変えられてしまった証なのかも知れない。
 たとえ気づいたとしても、オルデリスの額にまで迫っていた剣筋を変えることは出来なかった。裸体のまま手足を拘束されながらも懸命に頭を起こしてクオンに叫びかけているフェリス。彼女の無事な姿が胸を熱くする。どんな姿でも無事で居て欲しいという願いは聞き届けられたものか。オルデリスの頭部へと吸い込まれる漆黒の剣に、頭から足元までを一気に分断するまでに込められた力の衝撃は伝わらない。彼女が我が身も省みずに懸命に叫ぶのは、後ろに注意しろという意味だろう。けれど剣技の鍛錬で研ぎ澄まされた感覚は、その存在が自らを露呈するまで何も伝えることがなかった。
 「残念だったな、クオン。魔術の使えない君はわたしの失敗作だったのじゃ。必要以上に長生きされてしまったのでな、自ら造り上げた呪術生命を壊す趣味はないが処分させてもらおう。」
 瞬間、背中に感じたオルデリスの手。フェリスが拘束された寝台の四隅に立つ石柱の上にあったのは漆黒の呪石。たぶん、クオンはオルデリスの幻影に騙されて呪術甲殻さえ中和して効力をなくしてしまう結界の中に誘い込まれていた。肉体に直接打ち込まれる魔術はどれほどの破壊力を持つのだろう。まして呪術甲殻の保護もなければ、脆い肉体など一瞬にして消し飛んでしまうのかも知れない。
 そして、胸に感じた重い衝撃。目の前に飛び散る赤い肉片。それに混じりあって、奇妙にきらきらした破片が美しく舞い踊っている。ちょうど、オルデリスと思っていたものがあった何も無い空間。クオンとフェリスが拘束されている寝台との間。そこにクオンの胸であったものが降り注がれてゆく。見開かれた漆黒の美しい瞳。取り戻したばかりなのに再び失われた麗しい声。いっせいに血の気がうせて真っ白に近いまでに青ざめたフェリスの顔。クオンはただ、その顔を忘れないために一心不乱に見つめ続けた。
 気配を隠していたオルデリスが枯れ木のような手をクオンの背中にあてて、幻影と戦うことに夢中になった彼の胸をその呪石ごと『粉砕の魔風』で打ち抜いていた。精気を補い続ける呪石がなくなれば、魔力で造られたクオンの身体は残り僅かな精気を食い尽くして消滅するだけ。今までの茶番もすべては背後に意識を集中出来なくするための巧妙な演出。オルデリスは自らの徹底した作戦の成果に満足したものか、不気味な笑みを浮かべていた。
 「あ…、あ、あ…」
 魔力を結界呪石で封じられているために、心の声も使えないフェリスだったが、目の前で起きた光景の衝撃で満足に言葉を発することさえできなかった。
 「…フェリス、生きていてくれて良かった。本当は助けに来たんだけど…、最後まで助けられなくて…、ごめん。」
 クオンは優しげな微笑を浮かべ、ずっとフェリスを見つめながらささやきかける。信じられないほど綺麗に、ぽっかりと空けられた胸の傷口から大量の血や内臓が吹き出す。背骨さえ失った身体は、如何なる支えもなく崩れ落ちてゆく。普通なら穴を空けられた瞬間に即死しておかしくない傷。けれど、もしかしたら本当の致命傷が呪石なのだと彼女も知っていたかも知れない。そうでなければ、華奢な手足の首がより深く傷つくものかまわずクオンの名を繰り返し叫びながら暴れる無意味さに気づかないだけなのだろうか。
 消えゆく身体。意外にも痛みは感じなかった。疲れにも似た奇妙な浮遊感に心が満たされてゆく。そう、クオンの身体を形作る魔力が先を争って僅かにしか残されていない精気を吸い尽くそうとしている。アスティアが懸命に与えてくれた『星霜の宝珠』もそれを取り込む身体が無くては効果を発揮することができないのだろうと、なんとなく思う。
 フェリスの叫びと身もだえがより激しさを増すなかで、クオンの意識は霞んでゆく。そんなに自分の身体を痛めつけなくてもいいよと、フェリスに語りかけるはずの言葉も声になることはなかった。ただ全身を包むけだるい感覚が全てを満たし、このままきっと深い眠りについて二度と目覚めることがないのだろうと感じていた。
 「だめよ、クオン。お願い…、死なないでクオン。ねぇ、消えないで…。」
 漆黒の瞳から舞い散る涙は、クオンの粉砕たれた呪石の破片と同じように美しく舞きらめいていた。華奢な手足を引きちぎらんばかりにのたうつ裸体が、少しでも消えかかるクオンに近づこうとしていた。けれど無情にも、人を拘束するには頑丈すぎる枷は微動すらしない。
 やがてフェリスの瞳に、瞳を閉じて全てを諦めたようなクオンの残骸が映る。知らず、一際高い絶叫が、発光呪石の陰鬱な灯りが揺らめく冷たい石造りの部屋に木霊した。
 「嫌ゃあああああっ!!」


 イルミアを目の前にして動けない様子のアスティアだったが、静止の呼び声も聞かずにクオンが走り去ってしまうと、慌ててその後を追おうとした。
 「待ちなさい、あなたは駄目よ。クオンと一緒には行かせないわ。」
その隙を予測したかのように、しなやかな肢体が目に留まらない動きでアスティアの前に立ちふさがる。
 「邪魔しないでっ!!」
 エルダの目にさえ映らないアスティアの一撃。それは眼前に立ち尽くすイルミアを袈裟切に両断するはずの高周波。けれど、その見えない刃も黒い衣さえ切り裂くことなく、重く鈍い音を立てて回廊のかび臭い石垣に深い傷を穿っただけだった。ましてその瞬間に攻撃すら可能だったのか、間合いをはずすためやむなく後方へと跳躍したアスティアの白い頬に一筋の紅いしずくが流れる。
 「…効力者。」
 片膝をつきながら、イルミアを見据える藍色の瞳には焦燥の色が浮かぶ。意思だけで混沌より力を引き出すことが出来る者の名をつぶやきながら、不利な状況を自らに納得させるかのよう。
 「そこを退きなさい。ネアゼルタの『影』よ!」
 目を細めて闘志にぎらつく瑠璃輝き。可憐な顔を歪めて叫ぶのは敵の名だろうか。アスティアがイルミアの胸の内深くに見出していたのは、グラムズの内にあったものと同じ。人を殺戮兵器と変えるマリフィエクスの『種』。しかし、彼よりも同化の進んだそれは、とりつかれた宿主の死を避けて取り除くことも出来ないし、尋常ならざる能力も発揮する。さらに、魔法のごとき効力を使える者であれば打ち倒すことさえ難しい。クオンに『星霜の宝珠』を与えることで本来の機能の十分の一も作動しない状況では、逆に打ち倒されることを心配しなければならない程だった。
 「あなた…不思議ね。見かけたときからずっと、わたしの胸の宝珠が騒ぐのよ。そいつを殺せ、そいつを消滅させろ、そいつが本当の敵だってね。わたしはあなたに会ったこともないし恨みもないけれど、わたしの身体を支配する宝珠の望みに逆らう理由もない。」
 時にさえ忘れかけられた静謐な回廊の中で、二人の間に高まる闘気がその空気さえも震わせるかのよう。エルダはクオンを追って共にフェリスを救い出そうとするが、足がすくんで動かない。上位の魔闘志を目の前にした時にも感じることのなかった怯え。目の前で睨み合う人の形をしただけの、それでは決してない者達。訓練と経験を積んだ眼力だからこそ理解できる、あまりにも圧倒的な力の差。この場で一歩を踏み出すことは、そのまま今までの命を失ってしまう事と変わりない。その気になれば彼女の命など陶器の壷を叩き割るかのように一撃で粉砕してしまうだろう。
 「あなたに少しでも理性が残っているのならば、聞きなさい。あなたがとりつかれているものは『種』とよばれる殺戮兵器にすぎないわ。それは放置しておくと、どんどん同化を進めて手遅れになる。そう、自らの意思を持たない危険な肉の塊と化すのよ。それは人類を意のままに弄ぼうとするマリフィエクスが星の世界に放った、破滅をもたらす人工病原体なのよ。滅ぼすのはあなただけじゃない、おそらくこの惑星全ての生命がその『種』をきっかけとして犠牲になるわ!」
 激しい言葉と決死の表情はアステイアの焦りを具間見せる。説得が可能だと思っているわけではなかったし、その内容が正確に伝わるとも思わなかった。ただ、出来るのなら罪のない生命を奪いたくはないと、『種』にとりつかれた故に悪鬼と化し破滅を迎える運命を変えてあげたかった。
 「訳のわからないことを叫んでいる間があるなら、自分が死んだあとのことでも心配したほうが有益なのじゃなくて。仮に、わたしに埋め込まれた宝珠が悪魔の手によるものだとしても、関係ないわ。だって、わたしだったものはとうの昔に死んでいるし、こいつに支配されてしまっているのだから、もう手遅れなのよ。クオンが助けたいと思っているあの女と同じようにねっ!!」
 はき捨てる言葉と呪文開放は同じ一瞬。黒衣のイルミアを瞬時に包む魔法陣と紫に輝く魔力の光。エルダの目に映るその魔術はホレーク神格天位の神聖魔術『溶解の煙霧』。形あるものをことごとく煙霧へと霧散させる狂気の魔術。紫の魔力はまるで自らの意思をもつがごとくに不定形の塊となってアステイアとエルダに襲いかかって来た。
 視覚でとらえるなら、それはただの薄い紫色をした霧に見える。けれど、それはただの霧ほどに無害なものではない。分析システムが絶叫するほどに危険な『場』。本来、意思の力によって氷輝晶を使い混沌から力や物質を顕現させるものだが、仮にその逆をすればどうなるか。すなわち、この空間に現存する力や物質を混沌へと返してしまうことが可能になる。停滞空間と呼ばれるものが動きを止めるものだとすれば、それはあらゆるものを消滅させる空間。すなわち消滅空間と呼べる代物。目の前に迫る『霧』がまさしくそれだった。
 二人を全ての方向から素早く取り囲もうとする『溶解の煙霧』。消滅空間と呼べるそれに対して電磁派系のシールドや物理的な障壁は何ら意味を成さないだろう。空間自体を歪めるか、それが持つ時間を反転させるか…いずれにしても今のアスティアに時空操作系の機能は使用できる状態になかった。まして、彼女の傍らに立つエルダはまったくの無防備で立ち尽くしている。一人でなら簡単にかわせた攻撃。けれど、アステイアは僅かな間だったが共に戦ってきたエルダを、いや一つの生命体を見捨てることは出来なかった。結果、僅かに遅れる回避行動。
 懸命に回避しようとしながらも、すでに周囲を取り囲みつつある死の霧方が早い現実に見開いたエルダの瞳。行動を速めたアスティアは、彼女を殺してしまわない程度の力で霧の閉じていない唯一の逃げ道へと突き飛ばし、自らもその跡に続く。結果、僅かに遅れる回避行動。紫の霧がその効力を発揮できる僅かな瞬間。それはエルダの後に飛びのくアスティアの片足を捉えて消失させた。
 全身に走る灼熱の感覚。計算どおり『霧』は左足のひざ下までに追いつき、その下を一瞬にして混沌へと還元した。切断面から噴出す鮮血。片足が使えずに加速分の体重を抱えたアステイアの着地が無事に済むはずもない。
 先に突き飛ばしたエルダが逃れえる限界の衝撃に耐え切れなかったものか、石壁に激突してその下に崩れ落ちていた。意識を失い打撲や骨折がありそうだったが、命に別状が無い事を確認しながら冷たい石畳に転がりまわる。激痛まで人と同じく感じ取れる機能に恨み言をつぶやきながら、回廊に響くイルミアの高笑いを聞く。
 「ぶざまな姿よね。そんなあなたの姿をクオンが見たらどう思うかしらねぇ。弱すぎて愛想をつかされるのじゃないかしら。ふふっ。でも安心して、クオンはあたしが守ってあげるわ、わたしだけのものにしてね。」
 次の攻撃にまた同じ技を使われたら、片足を失い意識の無いエルダを抱えたアステイアに逃れ切れる確立は低すぎた。何らかの対抗手段を懸命に模索するが、消滅空間に対抗できるほどの手段となると難しい。エルダを見捨て、イルミアを殺害してしまうなら助かることも可能だろう。けれどそれはアスティアの感情が許さない。リアメライル・ノジアの名を冠する者は生命を一方的に殺戮するネアゼルタとは違う。それは生命を守り共に歩むものだった。
 「それじゃ、そろそろ終わりにしてあげるわ、二人とも。わたしの『溶解の煙霧』は強力だから、後にはなにも残らないし、苦痛もないわ。ただ忽然と消滅するだけよ。」
 紫に輝きを増す足元の魔法陣から立ち上る魔力を全身に浴びるイルミアは、同じ魔力に満たされた両手を頭上高くに掲げる。かすかに響く陰鬱な詠唱とともに輝きを強める魔力の光。
 「…混沌に沈みしあまたなる聖樹の根に集う異形の同胞、うつし世の儚き理を嘆く水面の幻影。深海深くに彷徨し無明の闇に閉ざされし真理は、かくも広大なる無辺の海底に蠢く…」
 詠唱が終われば容赦なく襲いかかるだろう消滅空間。アスティアは血を流し続ける片足の激痛とも戦いながら緊迫した事態の回避を模索し続ける。明確な答えの出ない中で、不安定な感情だけが揺れ動く。この地に潜むであろうネアゼルタの本体すら見つけることが出来ずに、ここで果てる訳にはいかない。彼女を造り育ててくれた父や母達の想いを、こんな所で断ち切られたくはない。まして、『星霜の宝珠』を与えたクオンは未だその同化すら進行を進めていない状態。常に彼の傍らにあって、せめて完全な同化を果たすまでは彼の力になりたかった。造り出されてから初めて出会えた『星霜の宝珠』に適応するかも知れない者。たとえ、それがなくとも彼の優しい心根に引かれつつある自分がいた。異なる世界に生まれ育ったとしても、ごく自然につながり合える心。誰もが保身と欲望を纏って接する中にあって彼の純粋さは得がたい輝きを放つ宝玉のようにも感じられた。
 「…混沌の深海より立ち上りし茫漠たる渦の柱は、この世全てを混沌へと巻き込み行く真理。かりそめの身に幽閉されし罪深きその命を、すべてを満たす混沌の大洋に捧げ真理を成就せよ。あまねく息吹の満る紺碧の奥く深くに求め得ない交わりの彼方を見よ…」
 紅きくちびるが唱える長く丹念な詠唱。それは施術される魔術の力と技が、それだけ強大だということを知らせる。もう少しで完成するだろう魔術の前にアステイアは未だなす術を見出せずに、冷たい石畳に伏したまま。魔力に輝く黒衣のイルミアに向けられた瞳は茫洋となにかを思案するかのよう。決断に惑う心は、いったい何を秤にするものか。
 相変わらず二人を救う術を苦悩の中で模索し続けるアステイアの心に、かすかな警告が響く。それはごく小さな知らせだが、その意味はアスティアを絶叫させるほどに重いものだった。クオンに転送しているエネルギーがその行く先を見失ったことを告げるごく簡単な警告。いまだ『星霜の宝珠』と同化しえないクオンが生気を吸収する術を失った事を知らせるもの。すでに存在することだけで消費される莫大な生気に耐えられる状態でないクオンの身体が、それを補充する術を失ったら…僅かな時間を経ずその存在そのものを失ってしまうだろう。
 思わず見開く濃紺の瞳。震えるつややかな唇が、知らずクオンの名を絶叫する。それは詠唱途中のイルミアまで躊躇させるほどの形相だった。アスティアに思考する時間は残されていなかった。クオンの身体が消える前に可能な手段はたった一つしかない。もともと、精気のともなった実体として身体を持たないクオンの同化が遅いのは同化するべき実体が少ないのも原因の一つだろうと推測していた。そのかりそめの身体が消えようとしているなら、新しい身体を与えるしかない。同化はしていなくとも、確実に『星霜の宝珠』を植えつけた体。同化可能な肉体さえあればクオンを生きながらえさせることが可能になるだろう。
 すべてが推測な成り立つ理論、確実なものはなに一つない。けれどそれに賭けるしか方法がなかった。自らの体を緊急退避時のスフィアへと代え、自らの中枢をきりはなしてクオンの宝珠に融合させることが出来れば、それが可能になるはず。目の前の圧倒的な力を見せるイルミアを突破してクオンの元へたどりつき、自らを守るべき緊急退避の独立した人工頭脳を破壊して、自らの意思で自分の中枢と身体を切り離なすことが出来るのであれば。
 片足さえ失った状況で、如何なる方法がそれを可能成らしめるものか。けれどアステイアはためらわずに行動を起こす。たとえ成功の確率が一割にも満たず、予測外の因子があれば、ほぼ絶望的な結果しか生まないものだとしても。ただ、それだけがクオンを救うことが叶うかも知れない唯一の方法だったから。
 詠唱を再開させる間を与えないよう、不自然な体制ながらも残った片足に渾身の力を振り絞り、イルミアへとその身を躍らせるアスティア。普通の人ならばかわせるはずもない高周波の刃を、続けざまに浴びせかける。視覚で捉えることは出来ないが、触れれば硬い岩石でさえ優に分断する刃。魔法陣と呪術甲殻を持つイルミアであってもそれだけで防ごうとするなら無事では済まないだろう。しかし、彼女の内に同化するネアゼルタの『種』は的確な判断と敏捷性を発揮させ、紙一重のタイミングでその全てを回避した。
 かすり傷さえ負わないイルミアが目の前に迫ったときに崩れるバランス。いかにも、再度彼女を狙おうとした高周波が大きく狙いを違えたかのように頭上の石壁を大きく抉る。巧妙に演出されたほんの僅かな隙。果たしてイルミアはそれを見過ごさずに、鋼鉄の短剣を手にアステイアの頭部を狙った。僅かに歪めたシールドは、ほんの少し刃先をずらして、『種』が彼女に狙わせているだろう中枢ではなく、緊急退避の人工頭脳にそれを突き立てさせた。
 一瞬の衝撃と続く激痛がアステイアの意識さえ痺れさせる。ごく普通の短剣ながら、狙い違わず弱められたシールドと頭蓋骨を優に貫通する力と技量は『種』による生体の強化がなせる技か。けれど、計算通りのタイミングでイルミアの頭上に降り注ぐ石壁の塊。彼女が避けようとして意識を逸らす瞬間を見逃すわけにはいかなかった。用意していた対抗ウィルス入りの弾を、保護シールドさえ役に立たないだろう至近距離から彼女の首筋に撃ち込む。驚愕に見開かれた瞳。そして、それが全てアスティアの捨て身の作戦だったのだと理解するまでに時間はかからなかった。
おそらく体中に走る激痛に苦悶し、崩れ落ちる黒衣。『種』支配される身体は、その支配力が強いだけ『種』そのものが脅かされる危機に反応する度合いが強い。『種』を死滅させる対抗ウィルスは、それに対する『種』の過剰な拒絶反応で寄生する身体をまひ行動不能な状態にするはずだった。直接、体内に打ち込まれた対抗ウィルスは即効性。イルミアには反撃どころか言葉さえ発する時間もない。
 片足を失いながら、わざとバランスを崩して攻撃する無理のために、まともな着地が出来ず、再び石畳の上に転がるアスティア。対抗ウィルスを打ち込んだとはいえ、『種』の拒絶反応で宿主の命を奪わない程度に薄めたもの。イルミアが動けないほどの状態を保てるのは短い時間。片足が使えない為に、冷たくざらついて黴臭い石畳を這って進まなければならないが、クオンの居る場所へとたどりつくまでの間は、なんとか保って欲しいと願う。
 人工頭脳の中枢はかろうじて被害を免れたものの、最も近い緊急退避ユニットを故意にとはいえ破壊させたことは身体機能に甚大な障害を負わせていた。鋭利な傷口から次々と溢れる血も、顔に伝い右目の視界を奪う。石畳を這って進む行為だけでさえ、全ての気力を振り絞らなければならなかった。
 
 決して思い上がっていた訳ではない。この救出作戦が、王室近衛隊の力を借りたにせよ、それほど簡単に成功するとは考えていなかった。けれどまた、これほどまで多大な犠牲を支払わなければならないとも考えていなかったのは確かだった。
 ライエルは回路の隅に背を預けて、かろうじて意識を保っていた。最後にアスティアの通信機を使って会話してからどのくらいの時間が過ぎたのだろう。意気高く暗い回廊を進む彼らにオルデリスの仕掛けた罠が次々と情け容赦なく襲いかかってきた。影のように薄い刃はもちろん、石壁に突如あらわれる大きな牙。身体を腐食させる『瘴気の壊死』を吐き出す奇怪な軟体呪生体。つたのような触手に絡めた獲物を炎で燃やし尽くす百足のようなものまで現れた。結果、要した十の白亜の呪石の込めた召喚魔獣を全て使い尽くし、共に進んできたストレイズとロイエルも彼を助けるために邪悪な呪生体の餌食と化した。
 石壁から突如襲いきた牙だけの呪生体にかじられた片腹の傷から流れ落ちる血がとまらない。かすり傷は数えるのも諦めるほどに全身を覆いつくしている。幼きころより共にあり何かとライエルの世話を焼いてくれたストレイズの最後の表情が脳裏に焼きついてはなれない。彼の身代わりとなって、牙だけの呪生体に喰われたストレイズは飲み込まれる瞬間、確かにライエルの無事を認めて微笑んだのだ。自らの死の間際にもかかわらず、自らの家族を残して逝く苦悩も見せず、ただ純粋に無事を認めた安堵の微笑みを浮かべていたのだ。
 涙がこけた頬に伝わるのもぬぐおうとはせず、激痛に軋む身体を気力で叱咤し立ち上がる。ライエルの救出隊が目指すはずだった目的地点はもう直ぐのはずだった。命に代えてもリアンナを救い出す。この決心は揺らいではならないものだ。国王を目指すものならなおさら自分に折れる訳にはいかない。如何なる犠牲を払うとも成し遂げならなければならない目的。おそらく、国を統べるということはその重荷を背負っていき続ける代価を支払うということなのだろう。ストレイズが残した最後の微笑みを胸に抱きながら、ライエルは暗闇に口を空ける灯りに、その身を踊らせた。これよみがしな罠かもしれない。もっとも手ごわい敵の大将が待ち構えているのかもしれない。けれど、自分に残された時間も体力も限られている。推測が間違っていないことだけを祈ることしか出来なかった。
 石造りの部屋を照らす発光呪石の陰鬱な灯り。意図的に灯りを押さえているものか、魔術の光は弱々しく揺らめいていた。そのゆれる灯りに影を揺らす黒い寝台に誰かが横たわっている。意識があるのか、無いものか。ライエルがそこに近づいてゆくと、華奢な線の身体が身じろぎするかのように揺れた。
 ぼろぼろに切り裂かれたかのような衣服。擦り傷だらけの白い柔肌。薄汚れた金色の髪。弱々しく瞬く目じりには乾いた涙の筋が幾本もその跡を残していた。見たようによってはライエルとさほど変らない姿。目の前の少女はこの場所でどれほどに苦しい現実と向き合わなければならなかったのだろう。それも、すべて自分の浅はかな行いの為に…。
 「あ…。」
 先に声を上げたのはリアンナだった。硬く拘束された枷が解かれるような様子に、怖くて見ることが出来なかった人影に目を凝らす。
「…悪いな。クオンじゃないだ。」
 薄暗い灯りの室内で影になったライエルの表情はリアンナに見えないはずだと自分に言い聞かせる。王子たるもの婦女子に涙を見せることは許されない。たとえそれが生きていたリアンナを見つける事ができたことに対する喜びの涙だったとしても。
 「ラ、ライエル…王子様?」
 間近に息を呑む様子と身体を硬くする動きが伝わった。彼女がそう感じても無理の無い仕打ちを与えていたことに、いまさら気づく自分に歯軋りする。そう、彼女が待ち望んでいるのはクオン。それは初めから分かっていたことだった。
 「君を助けに来た。もちろんクオンも一緒だ。ただ、探す効率を考えて二手に分かれたんだ。本当ならクオンが君を先に見つけるはずだったんだがね…。」
 懸命に考える嘘。いや、嘘ではないが、いかにクオンが彼女の身を案じているのかを伝わるように語り掛けたつもりだった。きつく結ばれた枷を外す手が震える。これほどに動揺する自分に不甲斐なさを感じながら。
 「どうして…、どうして泣いてらっしゃるんですか?」
 しばらくの沈黙のあと、枷をすべてはずし終わったライエルにリアンナが声を掛ける。それは一番聞かれたくなかった疑問。そして気づかれたくなかった証。下手な嘘ではごまかしきれないだろう。真摯なリアンナの瞳を盗み見てライエルは覚悟した。
 「ここに来る途中で、大切な人を失ってしまってね。いつもそうなんだ、僕は。無くしてから気づく…、それがどれだけ自分に大切なものだったのかとね。」
 腹部の激痛は焼け付くよう。血も相変わらず止まる気配が無い。どうか、この血の匂いがリアンナに気づかれないようにとライエルは寝台から離れようとした。
 「待ってください。」
 それは気弱だと思っていた彼女が発するとは思えない鋭い言葉。枷にしびれているはずの華奢な手がライエルの腕を掴んでいる。
 「どうして…、そんな大切な人を失ってまで、わたしを助けに来てくれたのですか?」
意外な力で彼を引き寄せたリアンナが、その優美な面差しを近づけて覗き込む。その瞳に宿る真剣な問いかけは、言葉を濁すことさえ許されないのだろう。
 「クオン…、クオンに頼まれたんだ。仕方が無いから手伝ってやったまでだ。」
 どうしてもリアンナの瞳を見続けられなくなって、視線をそらしながらぶっきらぼうに答える。真実はたいてい残酷な結果に終わるものだ。たとえ、この想いが本物なのだとしても彼女に伝わることはないだろう。
 「あっ、ライエル様。傷が…お腹から血が出ています!」
 リアンナの慌てように、つい苦笑が漏れる。こんな傷よりきっと彼女はクオンのことが気がかりで仕方がないはずなのだ。
 「気にするな、かすり傷だ。それより、クオンがどうしているか知りたくないのか?」
 意地の悪い質問なのかも知れない。もともと女性に対する気遣いなど覚える気もなかった。本当の事をあからさまに尋ねるのは、時として人を傷つけてしまう。
 「何を言ってるんですか、あなたの傷の方が先です!」
 それは有無を返さぬ断言だった。愛しい男より、目の前の憎い男の傷の方が心配だというのは、まったくおめでたい限りだと感じてしまう。リアンナは、逆に寝台にライエルを横たわらせて応急手当をする。当然何もない場所だったから、彼女は自分の衣服を裂いて傷を抑える包帯に代えていた。
 「ライエル様、いったいいつ何時クオンと仲直りなさったのですか。」
それは包帯を巻きながらの何気ない一言だった。それに、クオンを許したなどと一言も彼女には告げていない気がする。驚いた表情を向けると、そこにずっとあこがれ続けていたリアンナの優しい微笑みがあった。
 どれ程の犠牲を払ってまでも本当に求めたかったものがそこにある。彼に向けられる心の底からの純粋な笑顔。ライエルは大きなものを失いながらも、一つだけ本当に欲しかったものを手にいれることが出来ていた。


 フェリスの慟哭に近い絶叫と、オルデリスの乾いた嘲笑が響く石造りの部屋の中で、魔力が共食いを始めたクオンの身体であった筈の残滓までが消えかかっていた。
 「魔力に喰われて、身体を失うのはなんとも無様な姿じゃな。ほれ、お前もしっかり目に焼き付けておくのじゃ。盟約主に捨てられ、精気をもらえなくなった詠唱者の末路も同じものなのじゃからなぁ。」
 フェリスが拘束された寝台の傍らに腰を下ろし、片手で泣き叫ぶフェリスの隠しようもない乳房を弄びながらオルデリスが愛らしい耳元で嫌らしくささやく。クオンの断末魔を心底楽しみなが鑑賞することが、これからフェリスと血の盟約を結ぶと称して陵辱する余興でもあるかのようだ。
 「ほう、もう少しで完全に消滅しそうじゃな。フェリスや、あいつが消えたら盟約の儀式を執り行うからの、楽しみにしているのじゃ。さっきはイルミアに邪魔されたが、今度はそうはさせん。おまけに、お前はもう呪術改造された詠唱者。女性器を封印しておった邪魔な念覚導師の純潔の誓いも消えて無くなっておる。まあ、ついでに古い呪いで奪われていた『声』も綺麗に取り戻してやったのじゃ、いい声で鳴いてもらわんと困るぞ。」
 オルデリスの言葉など聞くゆとりも無く、クオンの様子を瞬きさえ忘れたように見つめ続けながら身悶える華奢な裸体。すでに絶叫する声もかすれ声に近く、頑なな枷に抗う手足の首から流れる血が寝台を伝って石畳の床に滴り落ちていた。
 幾度と無く聞かされたオルデリスの嘲笑にまみれながら、消えかかるクオンの頭部らしきものが、再び溢れだす涙に滲む。それもやがて待ちかねたように覆いかぶさってきたオルデリスのかび臭い体臭と共にかき消されてしまった。
 「…お願い…、お願い…わたしも一緒に殺して…。」
 愛するものを失い、これから身体にくわえられるだろう死に勝る屈辱の絶望に抗いながらも打ちひしがれる心の声がつぶやきとなって溢れる。
 「…お願いだからクオンと一緒に、一緒に、殺してぇっ!」
 出来るものなら彼と一緒に死んでしまいたいと願う心の底からの絶叫。追い詰められた死に物狂いの願いは誰に聞かせるものか。涙と絶望に歪む瞳に映る骸のような顔は、フェリスの死を乞い願う慟哭さえ、心地よい刺激でもあるかのように満悦の笑みを浮べ続けていた。
 情欲に溺れるオルデリスとそれに必死に抗うフェリスは、床を這いずりながらクオンであったはずの残滓へと一心不乱に進むアスティアに気づかない。ましてオルデリスは色欲に目が眩んで自ら仕掛けた魔力封じの結界の中にいた。だいぶ以前から彼らの存在に気づいたアスティアは物音を立てないよう、細心の注意を払って進んでいる。消えてなくなろうとする寸前の残滓はもう目の前だった。
 クオンに新たなる身体を与えるため、自分の中枢と身体を切り離す時が至る。たとえそれが、アステイアの体を失わせ自己修復不可能な人工頭脳の中枢と呼ばれる塊に過ぎないだけの存在にする行為だとしても。そう、身体を失えばもう外部に干渉することは出来なくなる。自己修復機能も破壊したから、もしクオンが同化しなかったり、何らかの原因で同化に失敗すれば、もう二度と目覚めることはない。けれど今のクオンを救う可能性はこれしか残されてはいなかった。星界の命運さえ賭けられたこの行為がどうか成功しますようにと、アステイアは最後の祈りにも似た気持ちを込めて残滓を抱きしめる。その間に不思議と浮かび続けるのはクオンの笑顔。
 「…最後まであきらめないで、あなたならきっと出来るから…。」
 いつしかアステイアは届くはずも無いつぶやきで、その残滓に語りかけていた。もしかしたら限りある命しか持たない生命にとって死ぬ前の感覚は、こんな心持なのかも知れないと思いながら。
 アスティアが自らの意思で中枢を切り離し、クオンに着床していた星霜の宝珠にその身体を委ねた瞬間。果たして、その同化は爆発的な勢いで全てを包み込んでいった。普通の肉体を持つ人間なら耐えられないものですらあったが、そもそも耐えるべき肉体さえ持たないクオンには如何なる影響を与えたものか。
 それは、陰鬱な石の部屋を満たしつくす白銀の輝き。全ての闇を駆逐するがごときの希望の矢。そして、アスティアの願いが叶えられたことの証。その光を背に浴びて、初めてオルデリスは異変に気づいて遅すぎる驚愕の叫びを上げる。抗いにきつく目を閉じていたフェリスの意識にさえ届くほどの光が、一瞬の間だけ何もかもを覆い隠していった。
 「…な、何故だ。何故お前が…。」
 死にも勝る屈辱と苦痛さえも癒してくれる感覚を運んできた輝きに、愛おしささえ覚えるフェリス。傍らに起き上がったオルデリスの声が驚愕に震えていた。目も覆うほどの眩い光は何時の間にか収まり、奇怪な現象の原因を必死に見つけ出さんとした彼の目には信じ難い光景が映る。
 そのかび臭い身体を離し、あまりに激しい動揺を見せるオルデリスの様子につられて、フェリスも目を開いてその視線を追う。その先に現れた姿は夢なのだろうか。たった今しがた消えてしまったと絶望に沈む心が諦めきれずに見せる幻だろうか。彼女が自らの命と引き換えにしても共にありたいと願った青年の姿がそこにはあった。
 「女神が残した星霜の宝珠が、僕にその願いを託した。遥か古の過去より連綿と受け継がれて来たコーサ・イシスの想いは、今、ここに受け継がれる。人々が望みし希望の盾となり剣となりて戦い続けることを誓ったから。それが、消えかかっていた僕が身体を与えられ再びこの場所に立つ理由。」
 漆黒の瞳はオルデリスに向けられたまま、落ち着いて淡々としながらも毅然とした意思に満ちた言葉を紡ぎだす。その声も、顔も、姿さえ、それはフェリスの知っているクオン・ファーラントに間違いない。精気を補う唯一の呪石さえ失って消えかかった体は、如何にして元に戻る奇跡を成し遂げたものか。大きな疑問を感じながらも、ただ純粋に彼の無事な姿が嬉しくて再び涙が溢れだす。
 オルデリスは寝台の頭に立てかけて置いた呪術杖に微かに震える手を伸ばす。クオンを改造した者だからこそ、目の前の現実があってはならない出来事であることを、誰より痛切に理解していた。それは正に、死人が蘇ることと大差の無い現象ではないのか。
 「そして…、あまたの人々の希望と未来を己が欲望の為だけに摘み取り続けた、オルデリスと云う名の闇の賢者を葬り去るため。」
 己の断罪をどこまで聞いていたものか、最初に攻撃を仕掛けたのはオルデリスだった。骸のような顔に脂汗さえ浮かせながら懸命に呪術杖をかざし、開放呪文を唱える。果たして、身構えすらしていないクオンを襲うのは、石造りの部屋の物陰から忍び寄り飛びかかる厚みの無い影の刃。それは同時に幾つもの方向から複数の刃を獲物に突き立てようと、逃れよう無く襲いかかる。
 自身が回廊に仕掛けた罠を苦も無く駆逐したアスティアを知らないオルデリスは、その血に飢えた薄く鋭い刃が、クオンの身体に突き刺さらんとする瞬間にことごとくはじき返される様に呆然とするしかなかった。それはアスティアだけが可能であったはずの至近探知レーダー連動による接近範囲反応障壁と呼ばれるもの。星霜の宝珠がクオンに与えたものはアスティアと呼ばれる人工生体を生み出した異世界の技術だった。
 次々と物陰より飛来しては打ち落とされてゆく影刃を気にすることさえなく、クオンは足元に落ちていた自分の魔術片を拾い上げ、暗がりに淀む石の天井へと投げ上げる。漆黒の呪石より造られし十枚の封神石片が灯りを反射しながら舞い落ちてゆく。九魔神に対応する九枚の魔陣片が自然にはありえない正確さでそれぞれの位置に並び降りて魔法陣を作り上げる。残る最後の一枚、禁投石片と呼ばれ創世の魔神に対応するそれをクオンの右手が掴み取った瞬間、小さな石片が長剣へと姿を変えた。
 「この剣は…、創世の神意より生み出されし『断罪の神剣』。創世の理に背きし汝らにくだされる無慈悲なる鉄槌。信心なく蒙昧にこの地を穢す輩に示された神の怒り。後悔はすでに遅く、その罪は許されない。もしも汝に信心が蘇るとしても、黙して逆らう事無く無の塵と帰するが良い。」
魔法陣の放つ白光に包まれながら、長剣へと変じた魔陣片を正眼に構えるクオン。対峙するは呪術杖を意味も無く降り続けて、彼を傷つけることの叶わない影刃を叱咤するオルデリス。
 「馬鹿な…、創世神格の魔術だと。地位神格の魔術さえ満足に使えなかったお前が、いまさら誰も使えない魔術を使うというのか。」
いみじくも賢者を名乗る程に魔術に精通するなら、クオンの足元に広がる魔法陣の印と白く輝く魔力の意味を無視できるはずも無い。前例さえ無く既に伝説さえ化した言い伝えだとしても、目の前に事実を提示されては頷く事しか出来ないだろう。
 宝珠の強化を得ていた魔闘志のグラムズがかろうじて凌いだ『断罪の神剣』を闇の賢者とはいえ防ぐ術があるものか。オルデリスはしかし、呪術杖をクオンに向けようとはせずに、傍らで未だ裸体を拘束されたままのフェリスに向ける。
 「この念覚導師の命を救いたいのなら、その剣を捨てて魔法陣を解け。たとえ詠唱者に改造された身体とはいえ、頭ごと吹き飛ばされれば即死同然じゃぞ。お前にとっては、命がけで救いに来た大切な女なのじゃろう。」
 骸の顔に空いた穴から嫌らしく響く嘲笑。身動きさえとれないフェリスを盾にとる卑劣な手段に絶叫が響く。
 「わたしのことは構わないから、クオン、お願いっ!」
 自分の命と引き換えに再びクオンの命を奪おうとするオルデリスに取り乱すフェリスが縋るような瞳で悲しげにクオンを見つめる。女神の結界で心通わせた純真な青年には見捨てることが出来ないと判っていても、懇願せずにはいられない。一度、彼を失ってしまった絶望を垣間見た心が、二度目には耐えられないとむせび泣く。
 「さぁ、早く決めてもらえんかの。そのままでおると、彼女の頭が今にでも吹き飛んでしまうかも知れんぞ。」
 意地悪くクオンを睨み付けるオルデリスが魔術杖をゆっくりとフェリスに近づけてゆく。魔術で彼女の頭を粉砕しようとしているなら必要のない行為。いかにも焦りを引き出そうとする小細工にクオンは気づいているものか。
 「…いった筈だ、オルデリス。すでにその罪は許されないものだと。」
意外なクオンの返答に動揺したのはオルデリスの方だった。フェリスは何かに安堵したような微笑すらうかべて瞳を閉じる。それが、彼女の望んだ答え。例えそれが為に本当に頭を砕かれてしまうとしても悔いはなかった。
 「正気なのか、この女がどうなってもいいのか。本当に死んでしまうのだぞ。わしが『粉砕の魔風』の魔術をこの杖から開放するだけで、この美しい頭は見る影も無く砕け散るのじゃぞ。」
 もはや必死とさえ言えるほどにクオンを説得しようと言い募るオルデリスは滑稽ですらあった。
 「フェリスは僕の大切な人だ。おそらく失うことに耐えられないぐらいに大切な存在。だから、彼女が殺されようとするのを黙って見守る訳にはいかないっ!」
 振り上げられる『断罪の神剣』。けれど渾身の気力を込めて振り下ろされるのは、フェリスに呪術杖を突きつけるオルデリスではなくクオンの後方。振り向きざまの一刀はしかし確かな手ごたえと、奇怪な断末魔のような絶叫を生み出した。
 「おまえ…はじめからわしが後ろに居ると、気づいておったのか…。」
 象位の神格を持つ彼の呪術甲殻さえ粉砕し、黒衣に包まれた枯れ木のような身体を両断した『断罪の神剣』。オルデリスはなす術なくどす黒い血と共に冷たい石畳に崩れ落る。         自らの死期を悟った最後の言葉は、おそらく疑問ではなかったのだろう。闇の賢者と呼ばれ、恐れられた稀代とも言える呪生導師にしてはあっけない程の最期だったかも知れない。
 さっきまで部屋の入り口で様子を伺っていたイルミアの気配が、何故かオルデリスがクオンに打ち倒された後に何処かへと消えていた。足元に転がっていた銀色に輝く拳大の球体。おそらくアスティアであったものを慎重に取り上げながら、フェリスの拘束された寝台へと近づいていった。
 必要以上に頑丈な四肢の枷を解き、過酷な苦しみに悄愴しきった裸体を優しく抱え起こす。微かに震えている柔肌に、苦悶の汗に甘く香る体臭がクオンを柔らかに包み込む。フェリスは長時間拘束されたままで痺れきった細い腕を躊躇いがちに、それでもクオンにまわして狂おしげに抱きつく。それは、もう二度と失うことが無いのだと自分に言い聞かせるかのように。そして、押し付けられた美しい素肌の熱が二人の動悸に合わせるかのように高まってゆく。ふと胸に摺り寄せられていた艶やかな黒髪が動き、漆黒に煌く瞳が優しく抱きとめたクオンを見上げる。恥ずかしげに紅く火照った頬を見せながら、体温より熱い囁きが桜色のくちびるに溢れて耳元に響いた。
 「ひとつだけ、お願い…わたしをクオンの詠唱者にして欲しいの…。」