第七章 「 死線 」
第二節 【襲来】

 最初の異変は些細なことだった。瞬きの一瞬だけクオンの視界に陰りが映る。倉庫までは視界を遮るものの少ないこの場所で、細心の注意を払っていたからこそ気づいた異変。その陰りが意味するものは、紛れもなく敵意を持った魔術師の存在だろう。

 魔術師がその姿を隠す方法は幾つかあるが、よく使われるのはオセニド神格の『幻惑』の魔術で、相手の知覚能力を混乱させるもの。もうひとつはラデュオ神格の『俊足』で、目にも留まらない速度で移動する方法。もちろん、『俊足』で人の目に留まらない程の速さを出すためには莫大な精気を消耗するため、長い間姿を隠す為には使われない。敵に奇襲をかける時など、移動しながら短い間姿を隠すのに使われている。

 今の陰りは、その『俊足』によって魔術師がクオンと陽光の間を通過した為に見えたものだと気づく。見えざる魔術師はもう間近に切迫していた。

 「ファル、来たっ!!」

 クオンが警告の鋭い叫びを上げるが早いか、傍らのファルが左手で作った呪印を右手の短剣に示して魔術攻撃を仕掛けようとする。恐らくは呪石で造られたその短剣には予め呪文が刻まれていて、開放の印を与えることで魔術が使えるようになっているのだろう。実戦に際して、呪文詠唱もしくは呪印を組む時間短縮のために編み出された『呪石詠唱』。魔術の戦いに身を置く魔術師なら誰しもが使う一般的な方法だが、呪石に刻める呪文の数が限られることと、詠唱者のように精気を補ったり威力を増すことは出来ないために補助的なものでしかない。

 魔方陣の中に揺れる紅いドレスと紺碧の呪石で作られた短剣が、魔力の赤い光に煌く。火精霊魔術師のファルは盟約した火精霊神アグニの司る魔術しか使えない。姿の見えない敵に対して有効な火精霊魔術があるのかどうか。深い青に染まる短剣の先端に集約した魔力の燐光はやがて燃え盛る紅蓮の焔となって、やがてその形を長い槍に変えてゆく。クオンが驚きに目を見張ったのは、その槍の長さ。普通身の丈ほどの槍なら見慣れていたが、目の前に出現した焔の槍は優にその三倍の長さがあった。

 「地界神格火精霊魔術、火炎の槍!」

 優美とすら言える動作で短剣を振りかざし、ファルの端正な唇が裂ぱくの気合をかける。槍と思えないしなやかさで円弧を描く焔の槍が円弧の頂点で短剣の呪縛から解き放たれ、緋色のマントを纏った詠唱者とクオン達の間に突き進む。

 直進すると思われたその槍は一度左に撓んで、そのあと右に向きを変えると自らの後ろを追いかけて行く。ファルは整った額に火精霊神の呪印を浮かべながら、短剣を微かに動かし焔の槍の動きを操っているらしい。けれど敵の姿がない場所に向けられた攻撃にどのような意味があるのだろう。瞬く間に槍は大きな焔の円を形作っていた。

 「!!」

 その時、燃え盛る焔の環の中に、今まで姿を捉えることができなかった何者かが忽然と姿を現す。黒い魔術師の法衣を着た逞しい男。紅蓮の焔に照らし出された短い銀髪の下の無骨な顔が不適な笑みを浮べている。

 「火精霊魔術ごときで、この俺を止めるとはな。可愛い姿に似合わずなかなか達者な腕前だ。」

 ファルの握る短剣の動き一つで、今にも襲い掛かるだろう紅蓮の焔を目の前にして、男は平然と野太い声を響かせる。冷たく焔を映す黄色い目は細められ、目の前のファルを獲物でもあるかのようにぎらつく視線で嘗め回していた。

 「ほほう、中々いい体つきだな女。殺さずに済んだらあとでたっぷり可愛がってやるぞ。」

 命を懸けた対峙の前で、男は下卑た笑いをあげる。挑発にしてはあまりに隙があり過ぎるかのような態度にクオンは違和感を覚えた。ファルは紅く柔らかな唇をかみ締め侮辱を耐えるようで一向に仕掛けた魔術で攻撃しようとはしない。本来なら、男が言葉を終わらないうちに灼熱の劫火が襲っていてもおかしくはない状況。

 「いつまで火の環で遊ぶつもりだ女、俺を足止めするには効果があったが、もう用済みだ。おまえが消さないなら、消してやろうか?」

 なおも続く男の挑発に、ファルは鋭く見つめる紅い瞳を細める。白い額に玉の汗を浮べながら、挑発の裏に隠された男の意図を懸命に探るかのよう。クオンはふと、男の足元に魔方陣がないことに気づく。防御にしろ攻撃にしろ魔術を効率よく使うために不可欠なそれが見当たらない。焔の槍で足止めされたという男は、『俊足』の魔法で姿を隠していたのではなかったか。ファルがサラマンを召喚して不必要な精気を消耗した時のような事情が男にあるとは思えない。まして目前の焔の槍は呪術甲殻だけで防ぎきれるものではないとクオンの目にさえ明らかだ。

 「魔術を使わず行動を速められるのか…。おまえ…何者だ?」

 目の前の男はいったいどのような敵なのか。あまりにも少ない情報ながら、魔闘士としてファルは信じられない推測を断定した。命がけの戦いの中で判断を誤ればそれは死に繋がる。幾たびかの実戦の経験がなければ、意外な事態を正確に認識することは難しい。

 「…よく見破ったな女。こうも早く気づいたものはざらにおらん。さすがは念覚導師の護衛士といったところか。」

 「!!」

 瞬間、ファルの端正な顔が蒼白に染まった。驚愕に震える短剣の先に操られていた焔の槍が消失する。魔鏡導師院の命運を賭けて秘密裏に進められた隠密行動。ファルの肩書きを知る者が、このメルカ王国に何人いるだろう。いや、決して知られてはならない筈のこと。護衛士だと知られているなら、当然、同行しているはずの念覚導師フェリスのことも露呈していると考えるのが自然だった。

 恐らくは敵の巣窟と化しているだろうと推測されたフェンレード学院に、易々と潜入出来たのは上手に敵の目を誤魔化すことが出来た訳ではなかった。敵はわざと気づかないふりをして用意周到に罠を張り巡らせていたに違いない。何がいけなかったのか、後悔に目の前が暗くなる。他の護衛士であるエルダとクーノも王城での調査を夕刻まで続けているはず。ファルが離れた今、フェリスはたった一人学院に残って、守る者は誰もいない。そして、敵にその使命と身分が露呈しているとは思いつきもしないだろう。敵にとってなら、フェリスに不意打ちを仕掛ける絶好の好機。守るべき念覚導師の深刻な危機と、それを看破しえなかった自分の不甲斐なさに噛みしめた唇から血がにじむ。

 「いち早く技を見破った魔術師の技量に敬意を表して名乗ろう…」

 殺気を隠さずに鋭く睨みつける紅い眼光を気にもせず、男は傷跡の目立つ無骨な顔に嘲笑の微笑みさえ浮べている。

 「俺は、ダヤグ神格象位の魔闘士グラムズ・ノーマ。後ろに立つのは詠唱者のルーリアだ。恨みはないが明主の命により、お前達の命を貰い受ける。」

 男の重厚な声が終わらない内にファルの繊細な指先は印を結び、右手に構える呪石の短剣に刻んだ魔術を開放しようとしていた。敵対する魔術師が自らの神格まで明かして名乗るのは、すでに知られている場合と生きて返す意図が無い場合に限られる。盟約魔神と神格が分かれば、どのような魔術が使えるのか推察するのは容易。敵に手の内を知られた状態で戦うリスクを負う事になる。もちろん、目の前で残忍な笑みを浮べた男の場合はクオン達を誰一人生きて帰さない絶対の自信ゆえだろう。

 「クオン、逃げてっ!」

 紺碧の短剣に魔力を込めながら、ファルはクオンを振り向くゆとりもなく叫ぶ。黒衣に包まれた男の黄色にギラつく目から急速に殺気が膨れ上がって来る。魔術も使わずに姿を消せる男の底知れない能力に、クオンの背筋に冷たい悪寒が走った。ファルの叫びは、念覚導師院の護衛士の能力を持ってしても、敵の男から二人を守りきる自信がないという警告。敵を目の前にしたファルを一人残すことには耐えがたかったが、魔術も使えない自分では足手まといにしかならないと思い直して背を向ける。

 「分かった、フェリスに知らせる!」

 高貴なる念覚導師の名を呼び捨てにした無礼を咎める時もあらばこそ、ファルは軽く頷きながら呪印を短剣に示す。クオンは事態の急変に唖然と立ち尽くすメリルの痩せすぎた手を引いて駆け出した。一刻も早くこの場を離れ、学園に残ったフェリスに敵の存在を知らせなければならない。ファルが念覚導師の護衛と知って打ち倒そうとする以上、彼は魔鏡導師院に敵対する存在だろう。事態をフェリスに知らせることがどれほど助けになるのかは判断がつかなかったが、他に手助けする術も思い付けない。

 「火精霊地界神格召喚、いでよ火精サラマン!」

 全力で駆け出す背にファルの気合が追いかけ、魔力の輝きが世界を深紅に染める。間違いなく手加減のない全力の魔力放出に違いない。それはクオンが今までに目にしたものとは比較にならない程の輝き。念覚導師の護衛士としての尋常ならざる魔力に底知れない戦慄を覚える。振り向けば、恐らく数え切れない程の召喚妖精サラマンが乱舞しているのに違いない。先ほど敵の詠唱者ルーリアを襲った人の頭ほどもある人型の劫火は自らの意思を持って敵を攻撃する。数匹ならば対応も難しくはないだろうが、蜂の群れごとくに無数のそれがあらゆる方向から予測の出来ない軌道で一斉に襲い来るとするなら、防ぐ手立ては無いに等しいだろう。不気味な敵の男にたいしてファルは、まさに一撃必殺の技をもって立ち向かっていた。

 ファルの強大な攻撃魔術の成否が頭の隅にこびりついていたが、クオンは決して振り返る事無くメリルの手を引いて駆けた。あの攻撃で敵が倒れれば問題はなにもない。けれど、万が一にもあれほどの猛攻を敵が凌いだ場合、もっと激烈な魔術戦が繰り広げられるのは間違いない。そんな場所の近くに居て無事に済むと考える方が狂気の沙汰。まして魔力の無い受付嬢のメリルは気づく間もなく消滅してもおかしくなかった。

 「つうっ!!」

 メリルの状態を確認しながら懸命に先を急ぐクオンの呪術甲殻が突然、目の前で火花を散らす。視界には何も障害物など映っていない。駆けてきた勢いはそのまま反動となって呪術甲殻ごとクオンを弾き飛ばそうとした。瞬間、意識せずにメリルを引き寄せ受身をとって路上に転がる。目の前に見えないなにかの壁があるとすれば呪術甲殻を持たないメリルに傷を負わせる危険性があった。

 「ど、どうしたのっ!」

 クオンの腕の中で戸惑いながら栗色の瞳が見開かれている。荒い息遣いさえ感じとれる、あまりにも近すぎる距離。とたんに成熟した女性を意識するが、そこに慌てる程の余裕はない。倒れたまま弾かれた道の先を睨みつけて懸命に何かの異常を見いだそうとした。呪術甲殻で弾かれたものなら、それは何らかの魔力に違いない。見えない壁がそこにあるなら…それは魔術によって造られた壁。魔術は魔術師が生み出すものだが、ファルとグラムズと名乗った男は戦いの真っ最中で、ここまで意識を裂ける状態ではないだろう。ここはメリルの異常に気づいて後を追った時に違和感を覚えた場所だと思いつく。

 「しまった! 罠か…。」

 苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめたクオンがつぶやく。敵の魔術師が理解できない手間をかけて詠唱者を囮にした理由、それはクオン達を結界の中におびき寄せ閉じ込める為に必要な行動だったのではないだろうか。敵は何らかの理由で労力と散財を惜しまず、強固な呪石結界を作り上げたに違いない。でなければ呪術甲殻ごと吹き飛ばされる程の結界が忽然と現れた事の説明がつかなかった。

それは呪石と合呪によって生み出される魔力の壁。特定の場所を外界より隔離し、呪解しない限り通り抜けることが出来ない魔術の檻。クオン程度の魔道技術では呪解など想像もつかないし、たとえ高位の術者でも内側からの呪解は困難を極めるだろう。今の状態でクオンが目の前の結界を打ち破るのは不可能に近い。もちろん結界に抜け道などあろう筈もないから、他の逃げ道を探しても徒労に終わる。魔力で隔離された以上、その突破はそれ以上の魔力をもって臨まなければ成功しないだろう。

クオンは結界の罠に気づけなかった自分に歯軋りしながら、立ち上がって振り向く。目の前の壁が突破不能なら、逃れようもなく敵の魔術師と対峙するしかない。黒衣をはためかせながら不遜な表情を崩さずファルと戦うグラムズは、間違いようもなくクオンとメリルを逃さず殺そうとしている。しかも、構築に数日を費やすだろう呪石結界を用意するほどに以前から。もし彼が念覚導師の護衛士ファルを狙ったとするなら、これほどの手間かけて関係の薄いクオンとメリルを巻き込む理由がない。もしかしたら、不気味な能力を秘めて強大な殺気を放つ黄色い目の男は、自分を狙っているのかと思い当たって慄然とした。

 目の前に映し出される火精霊の絢爛たる劫火の乱舞。その数の多さに嘆息してなお、数を数えようとする好奇心まで押し留めるごとくに研ぎ澄まされた優美な動き。ファルがクオンの背で放った渾身の召喚魔術は、まさしく世界の魔力を統括すべき魔鏡導師院の畏怖すべき力を見せつけていた。その灼熱坩堝の中心に立つグラムズに向かって殺到するだろう無数の一撃はどれもが必殺であり、触れるだけで肉を溶かし骨を焦がす劫火。逃れ得ない状況にあってすでに勝敗は決したかにみえた。

 男は魔方陣さえ纏わぬままに血の一滴さえ消炭と化す…はずだった。遠めに戦いを望むクオンとメリルにしても疑いない結果。それを瞬時に覆すにはいったいどれほどの奇跡が必要だろう。男に対して寄せるべき同情もないが、一つの命が瞬時に掻き消えてゆく様を目の当たりにするのは気持ちのいいものではない。

 思い返せばそれは慢心だったのだろう。確実には消滅していない魔術師に対して、その脅威は取り払われたのだと、もしかすれば信じたかっただけなのか。そう、その期待はクオンが灼熱の赤に照らされたファルの端正な容貌が蒼白に変った瞬間に裏切られた。

 「まさ…か…」

 麗しく挑発的なくちびるから漏れるつぶやきさえ遠く離れて聞こえないはずが、耳元で囁かれたごとくに鮮明に耳に焼きつく。なによりも会心の術を放ったファル自身が一番初めに気づいた。敵は渾身の一撃を躱してしまったと。もしその場に人間の限界を優に超えるほどの素早い動きでさえ見逃さない者がいたなら、ファルの召喚魔術を打ち破った男の技量に舌を巻いたに違いない。

 無数の火精サラマンが眼前に迫ったとき、グラムズは橙色の眩い輝きの中で魔方陣を具現化させ、手にした漆黒の呪術剣の柄本に嵌め込まれた紺碧の呪石に五回の開放呪文を送る。呪石詠唱によって解き放たれた魔力、それは慈愛の魔神ギュフラゲールの地界神格魔術『守護の盾』。一回の施術では一面しか守ることの出来ないその魔術を、彼は五回も重ねがけすることで全方向の守りに変えた。瞬きすら追いつけない一瞬にそれだけの魔術を使うのも異常だが、五重の『守護の盾』さえ火精サラマンの劫火の壁を打ち破る為に正面に集めてしまう無謀さは大胆を通り越している。もちろんサラマンの素早さを軽く凌駕する自信があるが故の暴挙。はたして…、目もくらむ魔力同士のせめぎ合いに強い輝きを放ちながら、後ろから襲いかかられるより早く正面に層をなすサラマンの群れを高速で打ち破った五重の盾。

早さを増せば増すほどに、普段なら気にも留めない空気ですら粘力を持って抵抗を増大させてゆく中、サラマンの群れを次々に打ち破る事はどれほどに困難なものか。それ故の五重の盾。そして人ならざる俊敏さ以上に発揮される剛力。普通の時間の流れに逆らう男を押しつぶそうとする世界にすら立ち向かう鉄壁の呪術甲殻。いかに魔道を極めし達人でも同じ事をすれば、精気を莫大に失い三度以上の死を迎えることになるだろう。それほどにグラムズと名乗る男の魔術は異常だった。まるで尽きることのない泉のように湧き出る精気はどこから来るものか。単純な魔術でも度合いが過ぎれば、それは壮絶な力を秘めた魔術の一撃に変わる。魔術師なら誰しも憧れる無限の精気、魔術を使うたびに枯渇する自らの精気を気にすることがないのなら、それは無敵に近い魔術師になれること意味していた。

「火遊びはこのぐらいで止めた方がいい。あまりに華々しい花火を見せつけられると、つい勢いあまってお前を殺してしまうかも知れん。」

 ファルの背後に忽然と現れたグラムズは押し殺した嘲笑を漏らしながら、機知に富むとは言いがたい言葉を口にする。既に橙色に輝く魔方陣をその黒衣に纏って、漆黒に火炎を映す長剣さえ構えていた。

 「!!」

 あり得ない場所からの黒衣の嘲笑が耳朶を打った瞬間に、ファルは狙いさえ定めず短剣を後ろに振り払う。信じがたいスピートに対応する為には敵の出方を待っていてはすぐに敗北する。予測したのは急所への一撃。読みが外れれば間違いなく打ち倒される危うい防御だが、スピードが優に勝る相手に対する術は他にない。

 確かな手ごたえと火花に混じり響き渡る金属音。予想に違わずグラムズは俊敏な攻撃を打ち込んでいた。結果を確認する事無く前に跳躍して間合いを取る。振り向きざまの一刀。当然、追って二撃目への牽制。再びの手応えと鋼鉄同士が弾き会う剣戟。額に汗を浮べつつ必死の表情に笑みが浮かぶ。敵の剣はスピードが早いだけで定石通り。ファルの技量であれば予測でかわし通すことが可能そうだった。

 「ほう、美しい護衛殿は剣術の腕も達者だな。魔術の理を守るのに剣が必要とは痛み入る。魔術の頂点、魔鏡導師院では魔術より剣が優れているとでも教えているのか。」

 正面に対峙するグラムズは避けようの無い剣をかわしたファルを以前に倍する殺気を宿して睨みつけている。瞬速の剣を持ってしても打ち倒せない事への苛立ちを隠しきれない。

 「しかし、次は無いぞ。所詮おまえ如きでは俺を打ち倒すことなど叶わん!」

 激昂した男を平静と睨み続けるファルには分かっていた。次の攻撃は魔術。おそらく瞬間で詠唱されるそれを、剣の攻撃と同時に放ってくるだろうと。けれど思いついた所で、信じがたい速さで襲い来る二重攻撃に対応できる術もない。第一にグラムズが如何なる攻撃魔術を仕掛けて来るのかを当てるのは予想というより博打だろう。

 「攻撃が最大の防御と知れっ!」

 躊躇う間こそなく、気迫を込めて正面から捨て身の攻撃を仕掛ける。その度量と判断こそが若年のファルをして念覚導師の護衛という大任に任ぜられている理由。いかに絶望的な状況であっても負けることだけは許されなかった。

 渾身の力を振り絞った肢体が跳ね、修羅場を美しく彩る深紅のドレスが優雅に舞い踊る。おそらくはグラムズの瞬速の施術が生み出した、忽然と行く手を阻む幾つもの魔術剣。だがその鋭利に切り裂く脅威さえもファルの勢いを押し留めることは叶わない。幾つかの剣を躱し際に呪術甲殻の強化ではね返し、幾つかの剣を手にした短剣で叩き落す、クオンの目にさえ溜息をつきたくなる程に流麗な剣技。ファルはしなやかな肉食獣のごとくに精悍な動きで正面のグラムズに肉薄する。たとえ捉える事が叶わないほど素早くても、間合いにさえ入り込めれば一撃の可能性だけは見いだせるとでもいうように。

 けれど、華奢な両手に握る剣は本格的な戦闘に不向きな護身用の短剣。長剣を持っていたら届けた筈の距離が、今は届かない。それを体力の限界まで動きを早めて補おうとする。普通の相手なら避けようも無い突撃だが、相手は倍に有する速さを見せつける怪物だった。当然、ファルの渾身の一撃を余裕でかわしながら、返す一撃で息の根を止めようとするだろう。その瞬間にどのような勝機があるものか。余裕があれば隙が生まれる。少しでも確実な選択を選び勝利を確信に近づけるならファルが刃物を持つ右側を避け左に回りこむに違いない。ならばファルに残された道は一つしか残っていなかった。

 一向に動こうとする様子さえ見せない黒衣のグラムズに激突したかに見えた一瞬。俊敏な肢体はその速度を相殺することなく身体を右側から後ろに捻り、短剣に渾身の力を込めて、誰も居ないはずの左側をなぎ払う。身体ごと駒のように廻り、加速した勢いさえその一撃に込める。ありえるはずの無い剣戟。しかし、鋭い響と共に舞い散る火花。グラムズは確かにそこに移動し、ファルの短剣を漆黒の剣で受け止めた。

 普通の力なら体格で勝るグラムズが負けるはずのない攻撃。ただ、ファルの短剣には突進してきた今までの勢い全てが注がれていた。衝撃に砕け散る漆黒の剣。そしてファルの短剣は橙色の輝きを増して、弾こうとするグラムズの呪術甲殻さえ打ち破るかにも見えた。

 けれど、黒衣の奥に突き立てられるはずの短剣は宙を舞い、身を包む緋色のドレスごと成す術もなく彼の頭上にはじき飛ばされていた。彼女に向かって突き上げられた筋肉質の左腕に、どれ程の破壊力がこめられていたものか。片腕一本だけで、全力で突進する人体を打ち破る術は人間の業ではないだろう。

 意志の無い人形のような肢体が、緋色のドレスを舞い泳がせながら石畳へと舞い落ちてゆく。白い手に強く握られていたはずの短剣が石畳の上を転がるのとほぼ同時に、紅い布の塊もざらついた硬い石の上をのたうち回る。布の合間から覗く白い肌と苦悶の呻き。呪術甲殻があるとはいえ、全速力の勢いで硬質な石に叩きつけられては無事に済むはずもない。まして黒い布に包まれたグラムズの拳は、なぜか呪術甲殻を通り抜けてファルの胸部に直接鋭い衝撃を与えていた。

 「魔鏡導師院の護衛士としては、無様な姿よ。甲冑も身に着けずにこの俺を倒そうなどとは笑止に尽きるわ!」

 自らの勝利に酔う黒衣の魔術師は、苦痛にもがき苦しむファルを傲慢に見下して高笑いを上げる。いかにも余裕然とした姿だが、浅黒い額には玉の汗が浮かび冷たい眼光を放つ目のしたには疲労の隈が深い陰りを落としていた。

 「ごほっ、ごほ…。き、きさま…その黒衣に黒曜の呪石を…。」

 常人なら失神してもおかしくない程の一撃を受けてなお、赤く燃える瞳はグラムズを睨みつけて離さない。まだ戦いの決着はついていないと語るかのように。けれど闘士にしては華奢すぎる腹部を押さえて咳き込むくちびるの端には血の色が鮮やかに浮かんでいた。

 「呪術甲殻に頼りきる軟弱な魔術師どもに、拳の痛みを味あわせたくて作り上げた特別な魔道衣よ。こいつがあれば、呪術甲殻を突き抜けて敵の肉体に直接打撃の苦痛を送り込めるのだ。苦痛を感じる間もなく一撃で打ち倒してしまう魔術などもったいない。ゆっくり苦痛と死の恐怖に怯える相手を苦しめなければ、戦う意味などないではないか。」

 自身の言葉に興奮したかのように目を血走らせ、武人ならざる性根を吐露するグラムズの笑い声が激しさを増すごとに甲高くなっていった。

 「…く、狂ってる。」

 耳障りな嘲笑とともに振り落ちてくる口角泡に嫌悪の表情を隠せず、恐怖に瞳を見開いてつぶやく。ただの狂人ではない。圧倒的なスピードとパワーを持つ象位の魔術師。その力を目の前で狂気まかせに振るわれてしまったら、生き残れる確立はほぼ絶望的だ。

 「狂っているだと?」

 永遠に続くかと思われた高笑いが急に止み、真顔に返ったグラムズが足元のファルを睨みつける。黒衣に包まれた逞しい身体から発散される殺気は、離れて見守るクオンの身動きさえ封じていた。

 「俺は、俺に与えられた地獄の苦しみを他の奴らにも与えたいのだ。今までの弱々しい魔術師どもは俺の受けた苦痛の十分の一も感じる間もなく死にやがる。殺してしまわないよう気絶させないよう手加減しても、もう殺してくれなどと泣き叫ぶ。だから、もっと強い奴を、もっと長く苦痛に耐えられる奴を探しているのだ…。」

 鮮烈な赤色の血を吐いて咳き込みながら、懸命に狂気の間合いから逃れようとするファルだったが、それは痛々しい四肢の震えにしかならなかった。一段と高まる殺気に、思わず見開かれた深紅の深い瞳。映し出したのは眼前に聳え立つ黒衣の足がゆっくりと持ち上がり、何かを踏みつけようとする瞬間。それが無防備に晒された肢体の何処かだとは予測出来ても避けることは叶わなかった。

 「うぐうっ…!」

 獣じみた呻きとともに、痺れて動けないはずの身体が弓なりにそり返る。赤いドレスの豪奢なレースに縁取られた端からはみ出した白く優美な脚が、黒い底厚のブーツに踏みにじられていた。グラムズは顔色一つ変える事無く、細い骨も砕けよとばかりに力を込める。骨の軋みさえ聞こえてきそうな脚の撓みに、苦悶の声さえ失ったファルは上半身をガクガクと震わせることしか出来ない。いまにも骨の折れるくもぐった音が響くかと思われた時、男は何故か屈みこんで青痣の浮かんだ足首を持ち上げる。とくに何の前触れも無く、サンダルごと足を鷲づかみにしてあらぬ方向に捻った。ゴキッと乾いた音が響いて足首から下に奇妙な形でぶら下がる。もう片方の足にも同じ行為を施して、ゆっくりと立ち上がる男の顔には残忍な笑みが浮かんでいた。

 「足首の関節を外した、もうお前は立ち上がることも出来まい。これからゆっくりと本当の苦痛を教えてやる。まあ、少しでも俺の楽しみを長引かせるよう堪えて欲しいものだ。」

 狂気じみた高笑いを再び上げ始めたグラムズの足元で、ファルは激痛に顔を歪めながら懸命に意識を留めようとしていた。滝のような汗が頬をつたい、荒い息遣いは切迫し、関節を外された両足首からは無数の針を差し込まれるかのような激痛が襲う。狂気に侵されたグラムズの声が遠くで響く。抵抗する術さえなく蹂躙される恐怖が、遠い記憶とともに蘇ろうとしていた。

 「いやあぁぁぁぁっ!」

 知らず甲高い絶叫が、ファルの口唇を突き破って響き渡っていた。グラムズが陶酔に目を細め舌なめずりする下品な音が続く。意に反して小刻みに震える華奢な肢体が砂利にまみれた深紅のドレスを儚げに揺らす。涙さえ溢れた瞳は懸命に非道な相手を睨み続けようとしていたが、すでにその色に精気の輝きはほとんど残っていなかった。