第六章 「 星の巫女 」
第四節 【嫉妬】

中庭に立ち尽くす二人の少女を遠巻きに学院生たちが取り囲んでいた。眩い輝きとともに忽然と姿を現した古木と奇怪な装いの少女に興味を隠しきれないが、逆にその怪異ゆえの恐怖に近づくこともままならない様子。最初の驚愕もやがて興奮に変わり、ざわめきが激しくなって来た。彼らの多くはその場所にアルマイックの結界があるとは信じていなかったから、古木が忽然と現れたとしか解釈のしようがない。魔術教学院の学徒ながら、悠然と中庭に聳えるほどの古木を瞬間転移させられる魔術など想像も出来なかった。いかに位の高い魔道師といえ、自らの命を削って魔術を施術することに変わりはない。いったいどれ程の魔力と精気をつぎ込めば、目の前に起きた事実を魔術で可能となるのか。信じられない心持で、そんな魔術師が存在しうる可能性に誰しもが背筋を冷たくする。

もうひとつ、彼らの中でも特に男子の興味を引いていたのは天秤樹の前で向かい合う二人の少女の美しさだった。フェリスが今日転入してきたアイルナだと知るのは六学年の生徒だけで、他の学年の生徒にしてみれば初めて目にする美貌。彼女が同じ女子学院生の制服を着ていることで首を捻る。一目見れば忘れられないほどの容姿なのに見かけた記憶などあるはずもない。人づてに噂が流れ、今日六学年に転入した生徒と聞かされて俄然興味をかきたてられる者も少なくなかった。もう一人の見たこともない服を着た少女も負けず容姿に秀でていたために、六学年男子生徒の興味の的となる。クオンの友人を自称するロムントに至っては、その少女のもとに駆け出そうとして級友に押さえ込まれる程。

フェリスはアスティアに自分の名を伝えようとして思いとどまる。周囲は興味本位の学院生に取り囲まれ、次第にその数を増しつつあった。今までも、自分の描く光の文字がアスティア以外には読み取られないようにと気をつけていたが、それも難しくなって来た。本来、魔鏡導師院の密命を受けた身で大きな騒動の中心に居ることは好ましくない。そうかといって、瞬間転移の高位魔術をこれを見よがしに使って逃げ出すことも出来ないだろう。彼らの目に映さなければならないのは普通の転入生徒のアイルナであって念覚導師のフェリスではない。何より問題なのは、その場を離れる機会すら失わせた目の前の不思議な少女アステイア。この世界に対しての常識を欠きながらも、魔力に似た強大な力を窺わせる者をこの場に放置することにも危険を感じる。

フェリスの念覚は、事態を把握はできなくとも監視を続けるライエルの手下と、近づきつつある教師達の魔力を伝えていた。このままこの場に留まれば、当然教師たちの詰問の的にされるのはフェリス以外にはありえない。アスティアもコミュニケーションは可能だろうが、凡庸な魔術教学院の教師に彼女の言動は理解できないだろう。恐らく狂人か魔物同然の扱いをしようとして、彼女の怒りを買うことは避けられないような気がする。高位魔術師でさえ舌をまく『光の文字』を一瞬にして真似してしまった程の力なら、それが人に対して攻撃に代わった時、いったいどれ程の威力を発揮するだろう。背筋に冷たいものが流れる。アスティアが良識を欠く殺戮者などではないと感じるが、その未知数の力を決して人に向けることがないとは言い切れない。彼女が彼女の世界を守る為ならきっと自分と同じように力の行使を躊躇わないような気がした。フェリスもまたこの世界に属するものとして、なにより念覚導師として興奮にざわめく学院生たちの身を守る使命がある。躊躇いはあったが決意に満ちた瞳をアスティアに向けて心の声を送った。

(わたしは、念覚導師のフェリス・ファブレット。けれど、故あってこの場所では学院生のアイルナ・クローリスと名乗っています。事情を説明している暇はありませんが、わたしが念覚導師であることを知られることが許されません。どうか事情を察してわたしのことを秘密にしておいていただきたいのです。それから…あなたは、この世界にあって特異過ぎるので、みんなに理解されるには長い時間が必要となります。このままあなたがわたし以外の者と接触すれば、おそらく取り返しのつかない誤解から友好ではない危険を招くでしょう。本来ならわたしがあなたを安全な場所まで案内できればいいのですが、事情があってこの場を離れることができません…。そこで、あなたをこの場から安全な場所へと魔術で転移します。その先には、わたしの養父である治療師のイノームと云う者が居りますから事情を説明して匿ってもらってください。)

アスティアは小首を傾げて、蒼い瞳をフェリスに向けていたが、理解の印に少し笑みを浮べた。

(分かりました。わたしはあなたの望むようにしましょう。でも瞬間転移なら自分で出来ます、あなたの手を煩わせることはありません。ただ、行先の場所とお父様のイメージをわたしに送ってください。周りに居る彼らがわたしに友好である可能性が少ないのであれば、あなたがわたしを助ける素振りを見せるのは危険でしょう。ですからわたしがあなたから勝手に逃げたように思わせれば問題が少ないと推論します。)

アスティアの心の声が伝える状況判断は的確だった。フェリスは改めて目の前の少女が見かけほどにか弱い存在でないことを思い知る。瞬間転移ほどの魔術が使えるとは思いもよらなかったが、もしかしたらそれは魔術ではないのかも知れないと思いついて慄然とした。

(詳しく説明する時間がなくて、ごめんなさい。わたしも出来る限り早く会いに行きたいと思います。事情も知らないままこんなお願いで申し訳ないのだけれど…。会ったばかりのわたしの話を進んで聞き入れていただいてありがとう。でも、どうしてそんなにわたしを信じていただけるのですか。)

フェリスはアスティアの望む行先と養父のイメージの送り方を知らなかったが、心に強く思い浮かべて彼女の心へと押し出してみる。一瞬、半眼になった奥で蒼い瞳が不思議な輝きを見せたかと思うと少女の端正な面差しが上がり、思いが通じたというように力強く頷いて見せる。

(あなたはもう、わたしの大切な友人です。それに、命を差別しない人に悪い人は居ませんから。…行先とあなたのお父様が分かりました。さっそくその場所へと移動します。空間転移の時は高重力で少し空間がひずみますから、すこしわたしから離れていてください。ジャンプの瞬間にはテレパシーで知らせます。今、慣性制御回路を開きました。虚空変換機の変換率を3パーセント上昇させます。時空座標は仮定推論での固定。仮定α星系における仮定惑星βの自転・公転速度算出、銀河系を既知銀河と推論、宇宙膨張速度同期。慣性制御リバースによる擬似特異点を設定、内向性電磁シールド最大…。)

フェリスの脳裏にアスティアのつぶやきののような声が続いた。瞬間転移をするための呪文のようなものなのだろうか。確かに、命は差別されるべきものではない。魔道の者も、魔力を持たない人間も、人ならざる者でさえ。命はそれらに等しく宿るものなのだ。けれどそれに気づける存在は少ない。誰しもが自らの欲望のままに他の存在を貶め差別しようとする。自分とは相容れない存在だと勝手に決め付けて、躊躇う事無く抹殺さえしかねない。対立は争いを呼び、争いは憎しみを呼ぶ。命が命を刈り取りながら、懸命に築き上げてゆく世界。その世界はいったい等しき命にとって何の意味があるのだろう。同じ命を失う代価に命の為の世界が果たして訪れるだろうか。それはもしかしたら命が望んだ命の為ではない世界。命が命として生きてゆけない世界になるような気がした。ふと、目の前に瞑目する人ならざる美しき少女に親しみが湧く。同じ命を持つ者として、その平等な価値を見出すことが出来る心に愛おしささえ感じる。魔力が全てを支配し、人の心さえ荒廃させるこの地にあって、それはかけがえのない希望だった。

(…もう少しで転移します。少しの間だけ別れる前に、一つだけ教えてください。わたしがまだ目覚める前に、この場所であなたともう一人の方が天秤樹の前に立っていましたね。彼は誰なのですか。)

瞬間、フェリスの脳裏に記憶ではありえない自分と忘れられないクオンの姿が浮かぶ。おそらくアスティアの心像だと思われる鮮明なイメージに、彼女は時を見失った。何故、異質な少女が彼の事を尋ねるのか。しかもそれは、クオンと心を通わせることが出来たかけがえのない記憶。そこに心を通わせることが出来るアスティアが居たなんて。フェリスは心の奥底に大切にしまい込んでいた宝物を暴かれるような嫌悪に眩暈を覚えながらも、不気味な不安の暗雲が意識を覆い隠そうとするのを感じた。

(どうしてあなたが…彼の事を知りたがるのですか。)

アスティアはフェリスの強張った表情に、尋常でない何かを感じて戸惑った様子だった。

(彼は…いえ、彼が二百年近く眠り続けなければならなかったわたしを目覚めさせてくれた人なのです。今のわたしにはこの場所に来た時の記憶がありません。ですからわたしは彼に会って、どうして彼がわたしを目覚めさせることが出来たのかを確かめたいのです。…それに…。)

フェリスはその後に続くべき言葉に恐怖を感じた。きっと聞いてしまってはいけない言葉。それを聞いてしまうことで何かが崩れてしまう…そんな理由のない不安が喉元に込み上がる。

(彼はもしかしたら…わたしの伴侶になれる人かも知れないのです。…3秒後に転移します、…離れて!)

アスティアの言葉に呆然となったままのフェリスを細い腕が優しく突き飛ばした。足をもつらせて緑の柴の上に崩れ落ちるフェリスの漆黒の瞳に、輝く丸い球体が幾つかの薄い光の環を纏いながら収縮し、微かな燐光を残して消えてゆく姿が映る。心の中で虚しく響く問いかけ。乱れた長い黒髪が緑映える柴の上に奇妙な模様を描く。クオンの剣を握ったままの細腕に顔を埋めたフェリスは自分の乱れた呼吸を聞きながら、いろんな感情に渦巻く硬い決意が込み上がってくるのを感じる。普段の彼女なら笑って聞き流したかも知れない言葉。けれど、その言葉を語ったものが心で通じ合える術を持つの者だと知っていた。

アスティアなら、その敬愛するべき心根と可憐な容姿でクオンの心を奪うことが出来るだろう。彼と心を通じ合わせたフェリスにはそれが分かる。まして、自分が果たせずに居る夢、クオンと心で繋がり合う事を彼女なら同じぐらい深く達することが出来るだろう。自分以外の誰にも出来ないと思っていた事が異質な少女には可能なのだ。切なくも暗い情念が胸の奥底から込み上がってくるのを押し留められない。いつの間にか艶やかな唇をかみ締めていたのだろうか、口の中に温かな血の味が広がる。

(渡さない…、絶対。あなたには、渡さない。クオンの命はわたしが助けるの。わたしの命に代えても必ず救ってみせる。だから…何処かから来たかも分からない、クオンと会った事さえないあなたなんかには絶対に渡さない。彼と心を繋ぐのは…、繋がり合う事を心の底から望むのはあたしだけなの。この世界の中にあって、本当にわたしが心の底から望んでいるのは、それだけなのに…。)

しばらく後、その場に駆けつけた教師たちが見たのは、優美な唇の端に血を滲ませ真っ青になった容貌に呆然と漆黒の瞳を中に迷わせるアイルナの姿だった。

 

ラデュオ神格召喚魔獣ヴィアン(風馬)に引かせた豪奢な天蓋付馬車がフェンレード教学印の巨大な門の前に止まる。御者らしき魔術師が恭しく飾り模様に埋まったドアを開けると物憂さそうな表情のライエルがゆっくりと姿を現す。いつものように昼食は王宮に戻って国を支える大臣達と一緒に摂るのがメルカ王国王族の慣わしだった。もちろん行政上のつまらない話ばかり語る老人に囲まれてライエルが楽しいはずもない。彼らはライエルに注文ばかり押しつけて、彼の意思には関心がないようだ。もちろん父であるクロウド国王に対しては平身低頭、恭順の態度を示すがそれも上辺だけなのだろうと思う。彼らにとって大切なのは我が身の安全と権力の保持。誰も自分の国であるメルカ国を真剣に盛り上げようとするものは居ない。思わず嘆息がもれる。もし、自分が国王となった暁にはあんなしみったれた老貴族をみんな叩き出して、真に自分のために働いてくれる若者を徴用しようと思う。魔力を持たないクズどもに誰がこの国の主人なのかを思い知らせ、真に優雅な魔道貴族の楽園を作りたいと夢想する。夢の中で彼は、力もないくせに反抗的な国賊達を魔術で虐殺する英雄だった。彼の冷酷な手段に恭順と従う若者達が拍手喝さいを送る。魔道に生きるものなら、その力によって魔道貴族のなんたるかを示すのだと得意に演説する自分の姿に陶酔した。

ライエルを夢想から我に返らせたのは、大衆の歓喜の叫びではなく学院生達の大きなざわめきだった。すぐに彼の同級生であり手下でもある背の低いコルダム子爵家のルーエンが猿のように駆け寄ってきた。

「大変です、ライエル様!」

出っ歯からはじけるつばを認めて嫌悪に顔を顰めたライエルが興奮に赤らんだネズミのような顔を睨み付ける。

「何が大変なのだ。ちゃんと分かるように説明しろ!」

ライエルの怒号に身をさらに縮ませたコルダムは、少し深呼吸して頭を振る。彼の様子を見ると、さしものライエルも身分と知能が反比例すると考えざるおえない。もちろん自分は例外として。

「申しつけどおり、中庭で昼食をとるアイルナを監視していました。彼女は綺麗な召使いを従えてそれは優雅な朝食を…。」

「わかった。」

不機嫌に低く響く声にルーエンは言葉をとぎらせ、卑屈な視線で見上げる。

「つづけろ!」

蛇のごとくに釣りあがった細い目が苛立ちを突き立てるかのよう。あわてて言葉を繋ぐ。

「すると、あのクオンが現れて何かを話してしました。そのうちに治療院の女が現れて、クオンと召使いを連れて何処かへ行ってしまったのです。いったい何があったのだろうと思って、治療院の女を案内した用務員に訊いてみました。すると、どうやらイノームの治療院にディムルズが瀕死の状態で担ぎ込まれたらしく…その治療の為にクオンが借り出されたようなのです。」

用務員から情報を訊き出した事をさも誇らしげに語るルーエンに思わず深い嘆息がついて出る。

「おまえは…いったい何の為に監視していたのだ。目の前で起きている事を別な者から聞き出すなら、監視している意味などないではないかっ!」

怒鳴られた当のルーエンは怒りの意味が分からず狐につままれたような顔をしている。彼にとっての監視は、ただ遠くから見ていれば良いという単純な行為なのだろう。世界がそれほどに単純であったなら、誰も苦労などしていない。

「まあいい、お前の頭に理解させる方が苦労しそうだ。…しかし、ディムルズがくたばらなかったとすると厄介だな…。おまけにクオンが助けに借り出されたとなると、万が一ディムルズが我々の計画を奴に伝える可能性がある。あの太っちょのイノームも一応は治療師だからな…騒がれると不味い。」

秘宝の魔銃で息の根を止めた筈のディムルズに、息があるということが意外だった。銃の暴発で大事な左腕まで傷つけて攻撃したのだが、中々思うように行かないものだと不満が募る。魔銃を調整した賢者気取りの落ちぶれ貴族であるジロウィクと言う中年の男を思い出して怒りを覚えた。使ない銃を、さも強力な武器だと吹聴してなおかつ厚顔無恥にも高額な報酬を要求した卑屈な笑い顔に反吐をかけたくなる。いつか、あいつの売り込んだ銃で蜂の巣にしてやると誓いながら、当面の問題を考え込む。

何にしてもディムルズが息を吹き返すことは阻止しなければならない。奴は自分達が暗殺者を雇ってクオンを抹殺しようとしていることを知っている。万が一にでも国王の耳に入れば、いかな王子のライエルとはいえ今の身分を保ち続けることは難しくなるだろう。

「クオンが治療院に向かってどのぐらい経つ?」

「そうですね、四、五分ぐらいですかね。ああ、クオンがディムルズに会う事をご心配なのですね。…で、あればご心配は無用です。先ほど暗殺を依頼した者から伝達の召喚魔獣シキが来て、これから暗殺にかかると伝えました。」

「ほう…。」

まんざらでもない様子のライエルが薄い唇の端を吊り上げる。まさに打ってつけのタイミング。まさか意図している訳でもないのだろうが、これで首の皮がつながりそうだと安堵に力を抜く。

「それで、命をとり止めようとしているディムルズはどうするつもりなのだ?」

「もちろん抹殺しなければならないでしょう。管理人の話では命も危ういほどの重症ということなので、悠長に襲われた事を話せるとも思えません。さらに…あのイノームがクオンにまで助けを求めたことを考えれば、助かる見込みも少ないのでしょう。どうして頼りにするのかは判然としませんが、当のクオンもこれから暗殺者の手で打ち倒されてしまえば…何の助けにもなりませんから余計に助けることが困難になると思います。」

「なるほど…様子を見てから動いても遅くはないということか…。」

ライエルはやせ細った腕を組み、ルーエンの話を値踏みするかのように黙り込む。確かに今動けば陰謀がそれだけ発覚しやすくなるのは違いない。管理人の話を何処まで信じるかにもよるが、クオンがイノームに呼び出された事は違いないだろうから、イノームが教学中の学生を呼び出すほどに切実な状況なのだろう。それが果たしてディムルズの治療の為なのかは判然としない。しかし、いずれにしろクオンが抹殺されてからでも遅くはないだろう。胸の奥に奇妙な歓喜が湧く。今まで無謀にも盾突いたことを断末の苦しみの中で後悔すればいい。そして、彼を信じたおろかなる者達にそれが大きな間違いであったと気づかせるのだ。王子ライエルに逆らう者がどんな末路を辿るのかを示して。

「…ライエル様、失礼ですが大変なのはその事ではありません。」

考えに沈むライエルにルーエンがおずおずと語りかける。クオンの抹殺を夢想し始めていた意識が急に現実に引き戻された。どうもこいつは的外れに過ぎると心内で悪態をつきながらも話だけは聞いてやろうと顎をしゃくった。

「実は…先ほど、中庭に忽然と巨大な天秤樹が姿をあらわしたのですっ!!」

語彙は貧弱なものの、ルーエンは大仰な身振りに加えて、声を低くひそめてライエルの驚きを期待するかのようだ。

「そうか…アルマイックの結界が破れたのだな。」

淡々とした冷静な返答に、逆にルーエンが口を開けて言葉失う。

「以前父から聞かされたことがある…学院の中庭には天位の魔術師しか入れぬ結界が隠されてあると。それは偉大なる賢者アルマイックによって、魔道を志すものが危機を感じる事なく勉学に励めるよう生み出された物らしい。しかし宮内の賢者に言わせれば、魔力が弱まりつつあるこの時代に巨大な結界がいつまで持ちこたえられるか疑問だという話だった。巨大な結界を支え続けるためには膨大な魔力が欠かせない。その供給源が枯渇してしまえばおのずと結界は破れる。…おまえが目にした出来事は魔力が失われつつあるこの世界の危機を端的に示唆する出来事なのだ。」

ほぼ前文受け売りの知識だったが、ルーエンは尊敬の眼差しと感服の頷きを繰り返していた。

「では、いっしょに現れた綺麗な少女は何者なのでしよう?」

「少女?」

「ええ、天秤樹と一緒に奇妙な格好をした女の子が現れたんです。そして、たまたま近くに居たあのアイルナと向き合って何かを話し込んだみたいなんですが…。結局、その子がアイルナを突き飛ばして再び忽然と姿を消してしまいました。それが…魔方陣も使わず詠唱した様子もなく…ただこういきなり…。」

ルーエンの話を聞いてもまったく要領を得ない。天位の魔術師にしか入れないと聞いた結界の中に少女が居たとでも言うのだろうか。そもそもが魔道の頂点たる天の位を少女の若さで得られた者の話など聞いたこともない。『沈黙の導師』と噂される年若き念覚導師がいると伝え聞くが、棺おけに片足を突っ込んだ程の老女の集団の中で年若いといっても老女には違いないだろう。まして魔術も使わずに忽然と姿を消すことなど常識的には不可能だ。

ふと、クオンを中庭で追い詰めたときに忽然と姿を消した記憶が蘇る。あの時一緒に戦っていた親衛隊の隊長さえ怯えさせた強大な魔力の影。直感的にライエルはその少女がおそらくは見た目どおりの存在でないことに気づく。魔方陣も詠唱も必要とせずに魔術を使える程の魔術師ならば、姿を変えることぐらい朝飯前の筈だ。相手の力量を見切って闘う事が魔術戦闘における勝利への条件。逆に言えば相手に自らの力量を見破られない事が勝利へと繋がる。ルーエンが見た少女ごときの者は、身を隠さねばならない天位の魔術師で、何かアルマイックの結界に用事があったのだろう。そして、たまたまその時、結界崩壊の事件に巻き込まれてしまった…そう考えればつじつまが合わなくはなかった。なにより魔道至上主義の彼を満足させる答え。

ひとり満足げに頷くと、ルーエンに向かって賢者のごとく語り出す。奥深きこの魔道世界に生まれ、その世界をこよなく愛する自分に陶酔した。それはもちろんいつか自分こそが魔道の頂点に立つ者であるという根拠のない自信が呼び寄せるもの。王子の身分を持つライエルにしても、その望みが絶望的に困難なものであると真剣に悩む程に年老いてはいない。まさに憎きクオンをついに仕留める瞬間なのだという思いが、さらに彼を饒舌にする。売り払ったリアンナが最後まで愛を寄せ続けた男の死に、暗い情念がざわめき立つ。これで彼女も目が覚めるだろう、そしてライエルを愛さなかったことを生涯悔やみ続けるのだ。

興奮の為なのか目頭が妙に熱い。気付くとこけた頬に暖かい滴りを感じる。何気なく節くれだった手の甲でそれを拭うと、目に信じられないものが映った。…それは涙。いったい自分が涙を流さなければならない何があったのだろう。自分には決して笑顔を見せなかったリアンナの面影が脳裏に浮かぶ。信じられない心持で自分に言い聞かせた。王子たる自分に相応しい女性などいくらでも手に入る。最後まで自分に心を寄せなかった落ちぶれ貴族の女など気にかける必要はない。ましてあの女は最後までクオンの名を口にしていたのだから…。止めることの出来ない涙に、ルーエンが動揺している。王族たるものが人前で涙を見せるなどあってはならない筈のこと。どれほど激しく目を擦っても止まらない涙。むしろそれは止めようとするほどにあふれ出すかのようだ。心の片隅に押し込めたはずの弱い自分が何かを伝えたがっていた。もちろんライエルはその答えを知っている。けれどそれを認めてしまったら、もう今までのような強い自分ではいられなくなってしまう。

涙に霞む目の先に、ついこの間まで友人と談笑する可憐な少女の姿が浮かぶ。知り合ってから密かにずっと彼女だけを見つめ続けていた。いつか必ず自分の胸に飛び込んできてくれると信じていたのに。そう、彼は笑顔の良く似合うリアンナを愛していた。自分の物にならなければいっその事、殺してしまいたい程に…。