第四章 「 追想 」
第四節 【犠牲】

ライエル達の話はいつの間にか当たり障りも無いものに変わり、彼の機嫌の悪さも何処かへ消えてしまっていた。ディムルスが物思いから醒め、料理を出さなくてはと思い始めた矢先、王室貸し切りの札を掲げているはずの戸口から呼び鈴が響いた。

 丸い木のテーブルを囲む四人が談笑を途切らせ、いっせいに戸口を向く。彼らに王室貸し切りの表示を出したことを告げては居なかったから、ただの条件反射なのだろう。ディムルスは短く舌打ちをして戸口に急ぐ。王室専用の表示を見落とした馬鹿な客に対する怒りが込み上げる。なにもこんな時に顔を出さなくとも…と、思わずにいられない。ライエルの怒りが収まっているとはいえ、他の客が居ればどんな拍子に諍いが起きることか。彼はすこしためらった後、どうかライエル達に敵対する客でないことを祈りながら重いドアを開けた。

 目の前には意表をつく人物が上品に立ち尽くしている。彼の予期した客の誰でもない。まして自ら酒場に来る様な事がありえないはずの歳若い女性。肩に流れるつややかな金髪が色白の滑らかな頬を縁取り、深い紺碧に沈む大きな瞳が伏せ目がちに様子を伺っていた。

 「あの、ライエル様はこちらに…居りますでしょうか?」

 柔らかな声音が心地よくディムルスの耳朶に届く。まだ少女の面影を残しながらも上品に整った容貌と優美なラインを思わせる体つきが稀に見る美しさを備えていたが、彼女の表情は美しく生まれ育った喜びよりも深い苦悩に沈んでいた。

 不出来の王子の名に違わず、ライエルの女性に関する放蕩ぶりと醜聞は数限りなく耳に入っていたから目の前の少女と彼の関係もおおよその察しがつく。けれど、眼前に優美に佇むその姿を見るとライエルのような外道の権化に連れ添わせるにはあまりにも清純さに満ちているように感じた。

 「よく戻って来てくれたね、リアンナ。君があのクオンを気にする理由は理解できなかったが、愛想を尽かしたというなら嬉しいことだ。やっとあいつの本性に気づいたのだね。」

 ディムルスが取次ぎもしなかったのにライエルは戸口までやって来てリアンナと呼ばれる美しい少女に声をかける。今まで聞いたこともないような優しい口調。しかし彼を認めたとたん、リアンナの表情が一瞬強張るのをディムルスは見逃さなかった。どのような事情があるのか分からないが、彼女がライエルに好意を抱いていないことがおのずと知れる。

 「…わたしは…決心して来ました…。」

 リアンナは色白の顔を蒼白に染め、まるで云いたくない事を無理やり口から押し出すかのようにか細い声を振るわせてつぶやく。彼女の表情が暗く沈んでいる理由はその決心にあるらしい。顔も名も見知らぬ少女に対してディムルスが心配する必要もないが、その場にそぐわない美しさゆえに気にかかる。どう見ても上流貴族の令嬢と思しき身なりをして、貴族街とはいえ末場の酒場にまでライエルを尋ねなければならなかったのか。

 「これからも決してライエル様を裏切ることなく…お傍に居ることを…」

 うつむいて煌く金髪に顔を隠しながら震える声が痛々しい。決して彼女が本心から望んだ事ではなく、望むことを強要された様子。ましてこれから可憐な花を開かせようとする蕾のごとき乙女なら、その苦悩は察するに余りある。

「…誓います。」

 自分のたおやかな胸元にさえ言い聞かせるように、凛然と起こした頬に涙が一筋流れていた。それは、自分の暗澹たる将来に絶望した涙か、それとも決別しなければならない誰かの事を想う涙なのか。ディムルスはやるせない心持で彼女とライエルの間に立ち尽くす。理性はこの場を直ぐに立ち去る賢明さを叫んでいたが、切なげな少女の涙が彼の足を動かそうとはしない。

「ですが…ひとつだけ約束して欲しいのです。どうか、もうクオンには手を出さないでください。彼にあなた様と争う意思は無く…ただ自分の身を守る事に必死になっているだけなのです。きっとあなた様に害をなすことなど無いのですから、寛容なお気持ちでお許しください…。お願いです。」

クオンという名を彼女の口から聞いたときライエルの全身が強張り、冷たい栗色の目が鋭い刃物のように細くなった。いつものように簡単に激情を迸らせる姿はそこに無く、ディムルスは彼の怒りの深さを垣間見る。取り巻き達が目の敵にしてさんざんこきおろしていたクオンという人物を庇うような少女の言動がそうさせたものか。

「…あの偽貴族、魔術学院に通いながら魔術もろくに使えない平民あがりの男をどうしてそんなに気にかけるものか…。あいつは高貴さのかけらも持たず、良識ある貴族の子女子に汚らわしい平民の毒を撒き散らせているだけだ。あまつさえ高尚なる王家の血筋に敬意も払うことなく、楯突こうとさえしている。所詮は獣のごとくに理知や思想も知らぬ輩。魔力があるだけで貴族の仮面を被り、偽善を装ってのうのうと生きている事自体が、われわれ貴族を愚弄する行為なのだ。」

魔力がもたらす魔術がすべてを支配するこの世界にあって、魔術を行使できる貴族が完全なる生命として使えない者を家畜のごとくに支配する旧帝国の考えが当たり前に通用している。それを賞賛し崇高なる思想と考える貴族も多い中でライエルの考えは決して異常なものではない。しかし、恐怖のアゼルディア帝国崩壊後、魔鏡導師院の「教え」によって魔力を持つということだけで人が差別されるべきではないという意識は広まっていた。

理想論的には、ライエルの父クロウド国王のように魔力を持たない領民の権利を手厚く保護するべきと目されていた。その考えが広く末端まで浸透しえないのは、支配する魔道貴族の魔力の弱体化によって貴族自体の地位の正当性が危ぶまれたため。自らの地位に固執する多くの貴族たちは当然その位地の正当性を疑わせるような考え方を広めようとはしなかったし、進んで信じようとさえしなかった。

 「まあ、魔鏡導師院でさえ欺く程の無知にしては狡猾な奴だから、その口車に騙された事を責めはしない。ましてあなたがそこまで望むのなら…望むように奴には手を出さないようにしよう。」

 ライエルの唇が奇妙にめくれ、ゾッとするほどの冷笑が浮かぶ。

 「ただし、もちろんあなたが余の言葉に忠実に従うならば…と言う条件付でな。」

 リアンナと呼ばれる少女の胸に去来する想いはいかなるものか。何かに必死にしがみつくように両手をきつく握り締め、蒼白に震える唇からかすかな呟きを漏らす。

 「…約束してください、クオンにはもう手を出さないと。」

 それは、ライエルに向けた言葉ではなく、彼女自身が自分に言い聞かせているように聞こえた。身を捨ててまでクオンという名の青年を救おうとする彼女の姿にディムルスは何故か、愛しいマイラの面影を重ねていた。優しさのゆえ誰かのために殉じようとする深い想いが彼の胸を締めつける。

思えば、そんな優しさを持つマイラだったからこそ貴族の地位も故国も捨てて二人だけの暮らしを望んだはずだった。互いに想い合い、手と手を取り合って暮らした幸せな日々。豪奢でも楽な暮らしでもなかったが、彼女が居るだけで満ち足りていた時間。マイラを失ってからの空虚な年月が重い苦しみとなって彼にのしかかっていた。いったい自分は何のために生き続けているのか。彼女が残した絵を日々磨き眺め、幸福だった時を思い出す毎日。それでも記憶は薄れ、生き続ける限りは失ってゆくだろうその断片を名残惜しげにいと惜しむ年月。彼女が亡くなった日、自ら死を選ぶ気力さえなくしていた罪なのだろうか。マイラと共に生きるという目的を失った人生にディムルスは価値を見出すことが出来なかった。

「約束する。…その麗しき容姿と魔力を兼ね備えた身体を持ってすれば、不服を申す者などおるまい。」

不安げに藍色の瞳を瞬かせるリアンナの頤に手を添えて仰向かせたライエルは、何かを値踏みするように怯えた表情を楽しんでいる。嫌悪に眉を顰めながらも羞恥に白い頬をかすかに染め、じっと耐え忍ぶ姿が哀れだった。これからその身に降りかかるであろう不幸に彼女は想い巡らせている筈だが、おそらくそれはライエルが考えていることには及ぶべくも無い程に甘いものであったろう。彼の言葉にルーエンとの会話を思い起こしたディムルスは目の前の可憐な少女が辿ろうとする暗澹たる未来に呆然とする。ルーエンが得意げに話していた暗殺者への報酬は歳若い魔道貴族の娘ではなかったか。生贄という言葉が何を示すものかは検討もつかなかったが、貴族ですら平然と暗殺する者の手にかかって無事で済むはずも無い。報酬の憂き目に会った者が失踪者なのだとすれば、彼女らの身が命さえ脅かされる事態に陥っている為に帰ってこられないのではないか。

「本当に…約束してくれるのですね。」

再び藍色の瞳に溢れた涙は愛しい青年への決別の想いなのだろう。ライエルが憎しみさえ込めているかのような冷たい視線で見下ろす。涙は同情でなくさらなる非情へと彼を突き動かすかのようだ。

「間違いなく約束する、王子の名にかけて。心配せずともよいぞ、余がそなたに与える命は簡単なものだ。残念ながら余の手元に置いて愛でる事は叶わぬが、余の願いを叶える為に役立つことであればそなたも本望であろう。」

ライエルが自らの情婦とするつもりがないと聞いて、心持安堵の表情をみせたリアンナを見つめながらディムルスは彼が暗殺者へ彼女を差し出すつもりであることを確信する。彼女はクオンを助けるためにそれに従うだろう。それがクオンを殺害する為の報酬になるとは露も知らず。もし、彼女が生き延びることが出来てそれを知る事になったのなら彼女は自分を許すことが出来るのだろうか。あまりにも残酷なライエルの行為にディムルスは激情が喉元に込み上げるのを感じる。

世界の全て、とりわけディムルスには優しかったマイラを思い起こさせる少女に非道の限りを尽くそうとするライエルに憤りを抑えることが出来ない。もし、ここで手を出せば無事では済まないだろう。彼らの秘密の計画を知り、それを妨害しようとする者を決してライエルは生かしておかない。けれど、命を惜しむ理由さえ今のディムルスにはなかった。ならば、マイラのこどく自らを殺して誰かを救おうとする心に殉じても惜しくはないのだろう。病気からマイラを救う事は叶わなかったが、今…目の前に居る少女を救う事なら間に合う。考えるが早いか、ディムルスの身体は勝手に動き無防備なライエルの痩せこけた頬めがけて拳を振り上げていた。

ディムルスの拳は狙い違わず目を剥いたライエルの顔面を捉える。互いが身に纏った呪術甲殻がせめぎあい桃色と橙色の火花を散らす。激情に高まっていたディムルスの力が不意打ちを食らったライエルに勝り、拳は呪術甲殻を貫いて彼の引きつった頬に重い衝撃を走らせる。今はただの酒場の主人とはいえ、かつてはクランレード王家の司祭警護隊にも勤めたことのある身。実際的な剣技や格闘の心得はあった。無様にのけぞり床に崩れ落ちるライエル。積み重なる今までの鬱積を一度に晴らしたごとく痛快な気分で見やりながら、驚いたリアンナの悲鳴聞き、尋常ならざる様子に気づいた取り巻き達が駆けつける姿を認める。

手を出してしまった以上もう後戻りは出来ない。覚悟を決めたディムルスは、戸口の外に立ち怯えながら後退るリアンナに向かう。店前の街路で調理の為に身に着けていた前掛けを脱ぎ捨てざまに戸口の床に蹲ったライエルとリアンナの間に立ちはだかる。

使うことも無いと思っていた魔陣片を懐から取り出す。武器はお守りのように肌身離さず持ち歩いていた漆黒の短剣。それは遠い昔、彼がクランレード王家第一公女のアルティアから賜った思い出の品。マイラと共に駆け落ちした日、彼に届けられた一通の手紙と短剣。王女らしからぬ文面に綴られた文字は、愛に生きるのも人の道だと叱咤されるべき彼にあえて励ましと餞を送ってくれたものだった。弟と仲の良かった王女を偲びながら、結局恩義に報いることの出来なかった非礼を心内で詫びる。恐らくもう生きて故国に帰ることは叶わないだろう。

「な、何をする…ディムルスっ!」

太ったブレッズに抱き起こされながらライエルは赤く腫れ始めた頬を押さえてわめいた。意味のない大げさな身振りで脇差の豪奢な剣を抜き放つルーエンとクバラカが戸口の前に躍り出てディムルスと対峙する。教学院の学生といえど貴族であれば武器の携帯は認められていた。いかにも高価そうなその剣は名のある鍛冶屋が丹精込めて作った一品に違いない。使う者がそれに見合う技量を持つのであれば脅威となるが、構えからしてまるで基本も知らないような様子に知らず苦笑がもれる。

「出来の悪さだけは世界一の王子ライエルよ、よく聞くがいい。高潔なるクロウド国王の血を受け継ぎながらも、高貴なる意思に目覚めず悪虐非道の行いを繰り返すおまえの腐りきった性根に愛想が尽きた。この娘に行おうとしていた残虐な目論見は全て承知している。身を差し出してまで救おうとする青年に暗殺者を差し向けるため、その対価としてこの娘を支払おうとしていたのだなっ!」

予想に外れてライエルは白を切るどころか耳ざわりな笑い声を立てる。打ち据えられた頬をさすりながらもルーエンとクバラカの間に立ち、自らの白い魔陣片を取り出す。

「それがどうしたと云うのだ、ディムルスよ。そちの思い上がりもここまでくれば反逆だな。余の成すべきことを勝手な解釈で判断し、断罪しようなどとは…何時から酒場の主人が王家の者より尊大になったものかっ!」

唇は笑いに歪んでいてもその栗色の冷たい目は鈍い怒りに見開かれている。自らが手を下さんとした残虐な行為を暴露されたことよりも、不意を付かれて打ち倒されたことがよほど腹に据えかねた様子だった。

「…本当なのですか…、わたくしを暗殺者に売ってクオンを殺させようとしていたなんて!」

震える白い指先を開きかけた唇に当てていた、リアンナが悲鳴に近い叫びで問い詰める。

「確かに余はクオンに手出しをしないと誓った。しかし、暗殺者が勝手に手を下すことまで防ぐ訳にもいかん。あの偽貴族がどんな顔で死んでゆくのか目にすることがかなわぬのは残念なのだがな。」

ライエルの最後の良心に縋るように見つめる蒼い瞳がゆっくりと伏せられてゆく。自らの身を賭けてまで彼を救おうとした行為はすべて徒労に過ぎなかったと嘲笑されても、成す術がない。重い脱力感に膝が崩れ石畳の冷たい街路にうずくまる。

「逃げろ…、今ならまだ間に合う。愛しい者の手を取ってこの馬鹿げた王子のいる国から逃げ出すんだ!」

ディムルスは魔陣片を石畳に撒きながら、後ろのリアンナに声をかけた。すでに涙に濡れた瞳をハッと見上げた先に胸を張って立ちふさがる彼の広い背中がある。

「…どうして…。」

いくら同情を寄せたとはいえ、見知らぬ酒場の主人がこの国で逆らえる者の居ない相手に手を出し、命も危うい危険に身を晒している事に納得が行かない様子。何故、命を賭けてまで自分を救おうとするのかと切なげに揺れる藍色の瞳が語っていた。

「…俺が命を賭けて守るべき人はもういない。だから彼女が望んだことぐらいはせめて成就させてあげたい。俺はもし彼女が生きていたら成そうとしただろう事をしているだけだ。君を命がけで救おうとしているのは、君のためではない。俺の内にあるもっとも大切だった者への弔いなのだ。」

リアンナを逃がそうとするディムルスの意図に気づいたライエルが後方に立つクバラカに鋭い指示を伝える。

「あの女を捕らえろっ!」

ブレッズはブヨブヨとした太鼓腹を揺らせながら、その肥満に膨張した体躯からは想像できない速さで動きだした。太い指が腰袋から取り出したのは先に鋭い槍の穂先を付けた長い鞭のような武器。緊張に青白い顔で剣を構えるクバラカの傍らを器用にすり抜け、ディムルスの右側からリアンナを狙って長い鞭を空中に躍らせる。血に飢えた蛇のような俊敏な撓りにその長い体をうねらせながら、鋼鉄の鋭い穂先は狙い違わず少女の華奢な体に吸い込まれてゆく。

「させるかぁっ!!」

ディムルスの怒号が響き、その身を軽々しく猛進する穂先とリアンナの間に舞い躍らせる。瞬間、彼を包む魔法陣が激しい火花を散らし重い鋼鉄の穂先を迎えた。何の障害もなければ軽く人間の肉と骨を粉砕するはずの棘々しい穂先が、僅かに勢いをそがれ標的を狂わされる。その一瞬のタイミングにディムルスは漆黒の短剣に魔力を込め鋭い一撃で叩き落とした。返す構えに詠唱を乗せて太った巨体に返す。

「精霊樹海の幽玄にただよう生気よ集え、真摯なる願いに集いて力となれ。勇猛なる一撃となって我が敵を打て!」

頭を打たれて苦悶に身をくねらせる黒い鞭が太い手首の返しで後退する間に、詠唱が終わり、ディムルスの短剣に黄色の眩い輝きが宿った。見る間に人の頭ぐらいの大きさに育った光球から激しい光の激流がブレッズめがけて迸る。精の魔神オセニドの地界神格神聖魔術『念波』は『気』の衝撃波で相手を粉砕する攻撃魔術。術者の魔力が高ければ、その力は硬い岩盤をも粉砕できると云う。

ディムルスの注意がブレッズに集中された隙をライエルは見逃さなかった。細い手に広げた白亜の魔陣片の一つを手に取ると薄い唇をよせ、盟約の言葉をつぶやく。

「汝、盟約に従い即来たりて命に従え! ダヤグ神格柔鬼ザカム召還!」

薄く乳白色に透き通る三角形の石版の奥から湧き溢れた橙色の煙が足元の石畳に凝縮して異形なる形を生み出していった。奇妙に細長く伸縮する口とブヨブヨとした軟体生物のような体を、側面から突き出した繊毛のように数え切れない足が蠢動しながら支えている。テラテラとぬめり光るその表面は赤黒く、得体の知れない粘液が流れているようだ。邪鬼ザカムはその嫌らしく蠢く長い口の先から強酸性の液体を放出し、鋼鉄さえも焼き溶かす召還魔獣。敵対する魔術師にとって厄介なのは、その長い口が魔法陣や呪術甲殻を貫いて内側に強酸性の液体を放出する能力だった。

瞬時にディムルスの念波を避けようとして、素早く側らに飛びのいたブレッズだったが気の衝撃波は彼の右足の太股を捉えてその一部をはじき飛ばす。勢いのまま石畳に転がりながら苦悶の声と血を撒き散らす。彼とリアンナの悲鳴が木魂する路地で邪鬼ザカムは硬い敷石を溶かして蒸気を立てながらディムルスに進んでいった。

ブレッズの負傷さえいっこうに気にかける様子もないライエルは、別な魔陣片を取り出すと再び口をよせる。

「汝、盟約に従い即来たりて命に従え! マニ神格鉄鬼アナベルク召還!」

黄色の輝きが白亜の呪石に宿り、眩い輝きの中で光の粒が立ち上り大きな甲虫のような影を浮き上がらせる。鋼鉄の甲殻を纏い、金属音を響かせながら薄い鉄板を重ね合わせたような羽根を震わせたそれは、鋭い槍のような角を頭から生やしていた。鉄鬼アナベルクはその俊敏な飛行能力と鋼鉄の体を持って敵に体当たりして打ち砕く召還魔獣。人の拳大の大きさながら、並外れた飛行能力と重く硬い体の体当たりは鋼鉄の塊を打ちつける破壊力に匹敵し、意思を持った複雑な攻撃は予測が難しく敵を翻弄する。

ライエルの狙いはアナベルクに翻弄させたディムルスを、ザカムの溶解液で焼き殺そうといものだろう。二匹の召還魔獣に彼を引き付けている隙に、リアンナを取り戻すか、新たな魔術を仕掛けるものか。いずれにしても詠唱が必要の無い白亜の呪石による召還魔獣の連続攻撃はディムルスにとって分の悪い戦術だった。

熱と光に弱いザカムと衝撃に弱いアナベルク、二匹の召還魔獣を一度に打ち倒す呪文を思い巡らす。すでに召還された魔獣との距離は短く長い呪文では間に合わない。二匹同時に打ち倒すことが出来るだろう合呪を諦め、致命的となりうるザカムを先に打ち倒すことに決める。

「光年の彼方に輝ける星々よ、肥大した血色の老星より生まれいでし眩惑の新星よ、その鋭き波長の粒子を産声のごとくに暗黒に突きたて貫きたまえっ!」

ダヤグ神格神聖招術の『光波』が彼の手にした漆黒の短剣を目もくらむ輝きで包み激しい光の奔流をザカムに迸らせる。粘着質の体が焼ける異臭に気を取られる隙があればこそ、弾丸のように飛来するアナベルクがディムルスに突進して来る。

血に飢えた鋼鉄の羽虫が激しくその牙をディムルスの魔法陣に突きたて、激しい火花を散らせて抵抗するその壁を打ち破らんとした。額に汗を浮かべながらアナベルクの進入を食い止めようと魔法陣の壁に魔力を凝らす彼の姿を楽しげに見やりながら、ライエルは三度白亜の呪石を取り出し口に寄せた。

「汝、盟約に従い即来たりて命に従え! ホレーク神格蜘蛛邪鬼ネイダル召還!」

ディムルスはアナベルクとの攻防のさなか、ライエルの言葉を聞いて大きな舌打ちを立てる。その名の通りに強靭な糸で敵を捕縛する召還魔獣ネイダルを使ってリアンナを捕まえようとする意図に気づいたからだった。若さに似合わず節くれだった手に掲げられた白亜の呪石から濃密な霧が溢れ出し、やがて黒く巨大な蜘蛛が不気味な姿を現す。

さすが王家の位となると魔術用具に対して金に糸目をつけないらしい。呪文詠唱の必要なく召還魔獣を召還出来る白亜の呪石は魔術師の間で高額に取引される。石に封印された魔獣の質にもよるが一つを購入するためには通常下級仕官の三年分の給与が必要だった。もし、ライエルが持つ九枚の魔陣片全てに召還魔獣が封印されているならいったいどのぐらいの金を使ったのかと場違いな考えが浮かぶ。すぐに無駄な思考を意識から追い払って、ディムルスはリアンナを捉えようとするネイダルへの攻撃に集中した。蜘蛛に対する魔術は針を使うこと。魔法陣の壁で動きが弱まったアナベルクを漆黒の短剣で貫き、呪文を詠唱する。

「神知聖界の長き戦いに散りし幾千の闘志よ、何人にも屈すること無き鋼の針となりて我が敵を貫けっ!」

マニ神格神聖魔術の『鋼針』で三本の細長く鋭い針を短剣の前に出現させると、それを素早く動き出したネイダルめがけて撃ち放つ。針は空気との摩擦で燃え上がる奇跡を残すほどの速さで突き進み、幾本もの足を器用に操って動き回るネイダルの奇怪に膨れ上がった腹に比べて奇妙に小さい頭部を狙う。一本は狙いを外され虚しく石畳に突き刺さる。二本目はネイダルの頭ではなく、大きな腹を貫いて動きを封じた。三本目に意識を集中し、苦悶に振り乱される頭に向けようとしたが僅かの差でそれを貫くことが叶わなかった。

辛くも消滅を免れたネイダルは黒い瞳を怒りに燃え上がらせるごとくに見開き、口の両端に生えた牙をゆっくりと開いて純白に近い糸の塊をリアンナめがけて吐き出した。

状況を悟り逃げ出そうとして華奢な身をよじったリアンナに、ネイダルの吐きかけた無数の糸がまるで意識を持つかのように絡み付いてゆく。

「嫌ああっ!」

悲鳴も虚しく全身に蜘蛛の糸に絡みつかれて身動きを奪われ冷たい石畳に転がされる。幸いなのか不幸なのか、ネイダルの糸さばきで硬い石に強く体を打ちつける事は無かった。暗澹たる気持ちでそれを見届けたディムルスは、勝ち誇ったかのように陰険な笑みを浮かべるライエルが手に奇妙な物を持っている事に気づく。

「これからお前の酒が飲めなくなるのは残念だが、お前が不遜にも逆らおうとした余の力を味わってもらおう。」

ライエルが手にしている短くて太い筒状の物は武器なのだろうか。司祭警護隊を勤めたディムルスでさえ初めて目にするものだ。彼は筒の端を掴み人差し指を小さな突起にかけている。もう一方の端はディムルスに向けられ、その中には穴が開いていた。

「これは、我が王家に伝わる先祖代々の珍品。魔力を持たない者が考え出した恐るべき武器『銃』というものだ。余もこれを魔術師に使うのは初めてだが、ちょうどいい機会だから試させてもらおう。この穴から弾丸と呼ばれる鉄の塊が飛び出して敵を貫くものでな、魔術師には呪術甲殻があるから効果がないのだが、余は弾丸を漆黒の呪石に変えてみた。魔力を絶つ呪石なら魔力の壁を貫いて魔術師でさえ殺せるのではないかと考えたのだ。」

馬鹿のように高笑いするライエルは両手で『銃』を胸の前に構えて腰を落とす。慎重に筒の先端をディムルスに向け、何の躊躇もなくその引き金を引く。その瞬間、鉄と交わった漆黒の呪石が火薬の爆発する轟音とともに飛び出し、目に留まらぬ速さでディムルスを襲う。ライエルはその反動で体ごと後ろに吹き飛ばされ、強大な加速度に耐えられない粗末な弾丸が粉々に砕けた。無数の鋭い破片となった呪石が至近距離からディムルスの肉体を貫く。それは、魔力を跳ね返す漆黒の呪石。魔法陣や呪術甲殻には妨げられる事無く、その凶暴な勢いの全てを彼の肉体の中で開放し、瞬時に全身を傷つけ破壊していった。

ディムルスは自分の体が中を舞い、奇妙な体勢で冷たく硬い石畳の路地に叩きつけられるのを感じる。痛みは感じないが全身が引きつったような感覚で致命的な傷を負ったと知った。左目の視力を失い、体も動かすことは出来ない。やがて灼熱の業火に体中を焼かれる感覚と共に、意識が薄れていった。おそらく無数の破片と化した漆黒の呪石が体中を貫いたのだろう。破片だけで体ごと吹き飛ばすほどの威力があるなら、彼の肉体がもう再び立ち上がることが出来ない状態にあることが判る。

奇妙に死ぬという実感がない。感覚さえ失った為なのだろうか。ライエルに対する激しい怒りも、リアンナに対する同情も薄れてゆく。ただ…奇妙な事に彼の大切なマイラの存在をすぐ近くに感じる。これからはずっと一緒にいられるのだと、不思議な安堵感が全身を包み込むかのようだ。

思えば彼女を失ってから長い年月をよく一人で生きて来られたものだと、今更ながら感じる。これほどまでに優しく、安らぐ感覚を忘れてどの位の時を過ごして来たことか。マイラと共に失った自分の大切な半身を苦しみの果てにやっと取り戻すことが出来たという喜びが込み上がる。けれど、彼女の命を救えず一人逝かせてしまった事を許してくれるのだろうか。今まで過ごした空虚な日々が、逆に彼女の後を追わなければならなかっただろう自分の怠惰な命への執着に思えて不安になる。一人、何の意思も無く過去に捕らわれたままただ生き続けていた自分を見ていたのだとしたら、もう、とおの昔に愛想を尽かしているのかもしれなかった。…もっと早く彼女の想いをこの世に成さなければならなかったのかも知れない。暴虐と非情に満ちたこの世界の少しでも多くの苦しむ人々を救わなければならなかったのかも知れない。

後悔に沈みながら意識を失う寸前、ディムルスはマイラの腕に抱かれた自分を感じる。その柔らかで暖かいぬくもりの中で、懐かしい彼女が何かをささやいたような気がした。

「…わたしはずっとあなたを誇りに想っていたのよ…。生きている間も、そう死んでからも。あなたは死ぬ勇気を持てずに逃げていたわけではなく、わたしが居なくなって何も出来なくなってからも、ずっとわたしという存在だけを探し続けてくれた…。わたしが愛したのはそういう人だったって、いつも胸を張って居られたから。」

長い時を経て感じたマイラの微笑みは、ディムルスにその時の流れを感じさせはしなかった。いつも傍らにあったかのように自然な感覚で受け入れ、いつもそうしていたように優しく彼女を抱き寄せる。彼が探していたマイラは亡くなってからもいつも彼と共に生きていたのだと、安らぎに満ちる心の片隅でふと思いついた。