2004.05.03-05.04

長崎本線漫遊(鳥栖−長崎)   路線図を表示

 あなたひとりーにー、(わわわわー、わわわわー) かけーたーこいー、(わわわわー、わわわわー) 愛のことばに・・・。 やはり、クールファイブのバックコーラスも忘れてはいけない。 まあ、そんなことはどうでもいいが、この歌は本当だった。 昨日まではいい天気だったが、長崎に向かう段になってこの天気である。 そして、ここまで熊本−久留米間を鹿児島本線経由で来たなら82.7キロ。 これを綾小路さんは豊肥本線148.0キロと久大本線141.5キロとで走破したのであった。 おまけにその途中、日豊本線にまで乗車している。 何はともあれ、久留米駅までたどりついた綾小路さんの漫遊は続く。 さあ、今日はお待たせの長崎本線に乗車する。

 久留米駅6時43分発の上り列車に乗車して、まずは長崎本線の起点駅・鳥栖駅で下車した。 鳥栖駅は特急の停車が日本一多く、なんと1日に150本も停車するという。 普通、このような駅は近代的な駅ビルとなっていることが多いが、駅舎は意外にも古い木造建築である。(左) 建物財産標によると明治44年3月30日建築となっている。 各種の本にも載っているので間違いないのだろう。 九州新幹線はこの鳥栖駅を通らず、新鳥栖駅が開業するようなので、しばらくは安泰だろうか。 その停車数日本一の特急やその他の各駅停車は、3面6線のホームに分散されて入線する。 そのうち、駅舎に一番近いホームの上屋はイギリス・キャンメル社製、明治30年製造の古レールで支えられていた。(右:翌日に撮影) この時はすっかり忘れていて、帰りに思い出して、ようやく撮影できたものである。 ちなみにホームからはサッカー『サガン鳥栖』のホームグランド『鳥栖スタジアム』が見える。



 撮影を終え、長崎本線のホームに行くと、肥前大浦行きの『クハ816 31』が停車していた。 (日豊本線は電化されていたが)しばらくは本線とはいえローカル色の強い、非電化の豊肥本線(肥後大津−大分間)と久大本線(全線非電化)に乗車していたので、電車が運行するのも不思議な感じがした。 ところが長崎本線は本線らしい路線だった。 この写真を見ても、かなりの長い編成となっている。


 綾小路さんは『クハ816 31』に乗車したが、まだ発車までは時間があった。 少し昨日の酒が残っていたが、買ったばかりの駅弁を食べることにした。 焼売(しゃおまい)弁当(上)¥850である。 こちらではシューマイの事を『しゃおまい』と言っていたのだろうか。 中身はシューマイに、北九州お得意のかしわ飯(鶏肉に錦糸玉子、きざみ海苔)のセット。 焼売弁当¥700には含まれていない、鮭の切身やその他の付けあわせ(きざみ海苔もなし)があり、豪華である。 それにしても掛紙(というか弁当の蓋)に描かれているのは何処の駅だろうか。 今、現物を見ても『駅』という文字はかろうじて読めるが、その前が読めない。 どう見ても『鳥栖』や『佐賀』など、思い浮かぶ文字には読めないのである。 この漫遊の1日目に行った、鹿児島本線(三角線)の宇土駅に似かよった部分もあるが、どうやら違うようだ。 この駅舎が実在するのなら、行ってみたいものである。



 『クハ816 31』は7時28分に鹿児島方面に向かって鳥栖駅を発車した。 走り出してすぐ、ホームからも見える位置で、鹿児島本線と分岐して西に向かった。 まずはこの区間、鹿児島本線と同様に、堂々の複線であった。


 長崎本線で最初の停車駅は肥前麓駅である。(左:翌日に撮影) 小さなコンクリートの駅舎だった。 ふたつ目の駅は中原駅。(右:翌日に撮影) カラーリングこそ違うが、肥前麓駅と同じ形状をしている。


 先のふた駅と違い、ここから橋上駅が続いた。 まず、吉野ヶ里公園駅。(左:翌日に撮影) 吉野ヶ里遺跡にちなんだ駅名だろう。 次に神埼駅。(右:翌日に撮影) どちらも2面3線とホームまで同じ構造だった。


 『クハ816 31』は7時48分に伊賀屋駅に停車した。 綾小路さんはここで下車したが、愕然とした。 駅には上屋のみで、半分に縮小された木造駅舎がない。(左) 取壊されてしまったのだろう。 長崎本線でいきなりつまずいてしまった感じである。 わざわざここで下車したのにがっかり! ホームは相対式で長く、ぽつんと新しい上屋が置かれている。(右)


 肩を落として8時15分発の下り列車に乗車、隣の佐賀駅で下車した。 ここは県庁所在地の駅で、高架駅となっている。(左) かつてはここから鹿児島本線の瀬高駅まで、佐賀線が運行していた。 筑後川には昇降式の可動橋が文化財として保存されているらしく、これは見もののようである。 駅は100m程北へ移動したというので、佐賀線が廃止されてからと勘違いしていたが、佐賀線が健在なときに現位置に移動、高架化されたようである。 ホームは2面あり、切欠き部分も合わせると計5線となる。(右)


 8時41分発、特急『かもめ5号』に乗車して、さらに長崎本線を下った。 特急だったので前面展望はできず、またも翌日に撮影した写真で紹介しよう。 隣の駅は鍋島駅。(左:翌日に撮影) 右側の島式ホームの影から貨物コンテナがのぞいている。 どうやら貨物基地のようだ。 駅舎は小さなコンクリート製で駅員配置駅だった。 その次は臨時駅のバルーンさが駅。(右:翌日に撮影) その名の通り、この駅近くの嘉瀬川河川敷で熱気球の国際競技会が開催される。 この競技会は毎年10月末〜11月の数日間に開催され、その期間のみ営業する駅である。 そんなもの見なくてもいいかと思っていたが、ある雑誌でたまたま目にしたものは壮観だった。 絵になっているのである。 これはいずれ撮影に来なくてはと思った次第である。


 その次の久保田駅は翌日に下車した。 唐津線の分岐駅でもあるが、小さな待合室が建っているだけであった。(左:翌日に撮影) ホームは2面3線で古い木造の上屋はまだまだ現役のようである。(右:翌日に撮影)



 そして牛津駅。 今、気が付いたことだが相対式ホームが両面ともに削られて分断されているようだ。(翌日に撮影) 何だろう、気になってきた。 しかしここにまた来るのは5年以内にはないな。 たぶん。 駅舎は大きめの新しいものだったし。 まだまだ未乗の路線&古い駅舎のある駅を優先させることだろう。


 『かもめ5号』は8時50分に肥前山口駅に到着した。 佐世保線が分岐する駅である。 ここも翌日に撮影した訳であるが、再び愕然とした駅でもある。 伊賀屋駅ほどは期待していなかったが、そこそこの駅舎があるはずだった。 しかし目的にしていた駅舎は撤去され、橋上駅に生まれ変わっていたのである。 おそらくはこの囲いの中に旧駅舎があったのだろう。(左:翌日に撮影) 駅構内は広く、ホームは3面で8番線まであり、その内、写真の2番線と7、8番線はホームに面していない。(右:翌日に撮影)


 長崎本線は起点部分の鳥栖−肥前山口間は、佐世保線直通の列車も走るため、列車運行本数は多い。 また、終点部分の諫早−長崎間も、これまた大村線との接続があるためか、列車運行本数は多い。 ところがその中間部、肥前山口−諫早間は特急の運行はそこそこあるものの、各駅停車の運行は少ない。 この区間は都市間輸送に重点が置かれ、地域間輸送はニーズが少ないのだろう。 しかしこの区間にも名駅舎、個性的な駅舎が多い。 綾小路さんが苦労して立てたプランをごらんあれ。
 話は前後したが、ここからはリアルタイム、本日の漫遊である。 『かもめ5号』は停車時間1分で、肥前山口駅を発車した。 途中のふた駅を通過して、9時02分に肥前鹿島駅に停車した。 綾小路さんはホームを撮影し、すかさず9時08分発の上り列車に乗車、ひと駅やりすごして肥前白石駅で下車した。 このくだりだけでは位置関係が分からないかもしれないが、結局は肥前山口駅の隣駅に降り立った事になる。 列車運行本数が少ないため、苦肉の策であった。 その肥前白石駅はもちろん木造駅舎である。 建物財産標によると昭和24年3月の建築となっていた。(左) ホームは2面3線であるが、奥のホームはすでに使われていないようだった。 半地下の車両下回りの点検・整備場も網でふさがれ、無用の長物と化していた。(右) 他にも駅舎わきには独立した貨物ホームらしきものがあったが、これも廃止されたのか枕木が積んであった。



 綾小路さんは次に9時55分発、多良行きの下り列車に乗車した。 ちなみにこの列車は肥前山口駅が始発で、9時50分発だった。 その肥前山口から長崎までの各駅停車は少なく、7時17分発を逃すと、12時35分まで待たねばならない。 後は全て区間列車である。 ところがその間に特急は毎時1〜2本運行している。 それだけ各駅停車は貴重である。 そしてラッキーな事に、次の肥前竜王駅では列車交換のため、2分間ほど停車した。 鳥栖−肥前山口間は複線だったが、この区間は単線となっていたのである。 このチャンスを逃してなるものか。 綾小路さんは大急ぎで駅を飛び出し、待合室を撮影した。 はあはあ・・・、やっぱ少し時間が短かかったか。


 列車は10時20分に3駅目の肥前七浦駅に停車、綾小路さんはここで下車した。 おお、これだ。 建物財産標によると昭和8年12月建築の木造駅舎である。(左) 窓はサッシに交換されているものの、下見板張りの壁面は古くて渋い。 ホームは相対式で列車交換が可能である。(右)


 ここから10時46分発の上り列車に乗車した。 この列車は多良駅が始発だったので、おそらくは先ほど乗車した列車の折返し運転であろう。 列車は次の肥前浜駅で9分間の停車をした。 こんどは特急列車の追越し待ちである。 しかし、綾小路さんにとってはこの上ないチャンスだった。 ここの駅舎は木造だったが、なんとヤマト運輸の取扱所となっていた。(左) いい駅舎ではあるが、トラックが停車していて、いい写真は撮れなかった。 そして次の駅は肥前鹿島駅だった。 紆余曲折、再びここで下車し、今度は駅舎を撮影した。(右) 特急停車駅だけあって乗降客は多く、送迎の車両もまた頻繁に停車しては発車していった。


 ここで各駅停車を待っていても、まだ1時間以上はやって来ない。 そこで、11時25分発の特急『かもめ11号』に乗車して、長崎駅を目指した。 ほぼ満員の座席から車窓を眺めていると、肥前七浦駅を通過する前後だっただろうか、有明海が見えてきた。 しかし朝からの雨でどんよりしていたからか、特急の車両からではスピードが速すぎたからか、はたまた特急の車両内が込んでいたからか、カメラを向けようと言う気は起きなかった。 ちなみに肥前七浦駅の次の駅は肥前飯田駅である。 これで肥前山口駅から順に白石、竜王、鹿島、浜、七浦、飯田と『肥前』が頭に付いた駅が7駅連続していることになる。 全国的にも珍しい例であろう。
 『かもめ11号』は途中、諫早駅のみに停車、他の駅は通過して長崎駅に到着した。 と言っても明治30年に開業した長崎駅で、現在の駅名では浦上駅という事になる。 コンクリートの平屋であるが、よく見かける真四角のものではなく、正面のデザインは凝っている。(左) ホームは相対式だったが、線路どうしの間がやたら広い。 かつてはこの線路間に通過線が2線、敷かれていたのだろう。(右)


 浦上駅では20分弱の滞在で、現在の長崎駅に向かった。 かつては昭和24年建築の大きな三角屋根の駅舎が知られていたらしいが、惜しくも何年か前に取壊され、現在の駅舎が建築されたらしい。(左) 駅前広場を大きな屋根が覆ってはいるのは珍しいが、駅舎自体は平凡か、残念。 ホームは3面5線あったが、その広大な構内には驚ろかされた。(右) 車両基地になっているのか、引込線は無数に敷かれ、大きな車庫があり、奥には何両もの車両が待機している。 この駅をもうしばらく探索したかったが、いかんせん時間がなかった。 まだまだ探索しなくてはならない他の駅が多く、わずか17分間しか滞在できなかったのである。


 さあ、出発前に駅弁を購入するか。 綾小路さんは駅弁売り場の前で、どんな弁当があるのかうかがった。 中華弁当がいいかな、値段も手ごろだった。 ほぼこれにするかと決めたが、ここで念のため、お勧めを聞いてしまったのが失敗? すると店員は卓袱弁当を指差した。 うーん、この弁当のことを綾小路さんは知っていたが、何しろ高い。 このときまでは¥1300もするこの弁当を買うつもりはなかったのである。 しかし、お勧めか・・・。 ええい、清水の舞台から飛び降りたつもりで買うか。(大げさな) これは長崎名物の卓袱料理をイメージした弁当という。 弁当箱の形は『出島』の形をしているらしい。 中身は鳥そぼろと玉子そぼろの御飯に、豚角煮、焼き魚、えびにクラゲ中華和え。 天ぷらは『えび』だと思ったが、実は魚の天ぷらで、長崎天ぷらと呼ぶらしい。 少し高いが味はなかなか。 まあ、長崎名物を雰囲気だけでも味わったと考え、よしとしよう。


 列車は13時06分に長崎駅を発車し、3分で浦上駅に到着した。 ここからは長崎本線の旧線を進む。 長崎本線は鳥栖駅を基点とすると、喜々津駅の先で旧線と新線に別れ、浦上駅の手前で合流する。 鳥栖からの特急は短絡ルートである、新線のみの運行のため、先ほどほその新線を乗車したことになる。 そして新旧ふたつのルートがあるため、綾小路さんはまだ長崎本線を完乗しておらず、ここから旧線に乗車して完乗を目指そうというのである。 浦上駅を発車した列車は新線を右手にみて、左方向に分岐していった。(左) 旧線で最初の駅は西浦上駅である。 片面ホームの上に見えるのは切符売り場のようだ。(右) よく見ていなかったので断定できないが、待合室はなかったように思う。 乗車してくる学生の後ろには駅員の姿が見える。


 ここから道ノ尾、高田、長与と各駅停車し、列車は本川内駅に停車した。 そして、綾小路さんはここで下車した。 ホームの端にはふたつの建物が合体したような、変わった形の木造駅舎が建っていた。 (左は駅正面から、右はホームから)


 そしてここは一昨年ぐらいまで、スイッチバックの駅だったという。 そういえば駅のホームは喜々津に向かい、上り坂に設けられていた。 最近のディーゼルカー(喜々津−浦上の旧線は非電化)は性能がよくなり、急な上り坂で停車しても、スイッチバックの必要はなく、すいすい登っていくのだろう。 それにしても残念だ。 スイッチバックが廃止され、新しいホーム(現ホーム)が上り坂に設けられたが、その奥にはスイッチバック時代のホームが残されていた。(左:浦上・長崎方面を望む) その旧ホーム下の線路は分断されているものの撤去はされておらず、ホームの端まで行くと、線路端は草むらに埋もれていた。(右) しかし、その左側には本線が通っていて、線路脇の電柱が徐々に低くなっていくのを見ると、想像以上の上り坂だということが分かった。


 本川内駅からは下り列車に乗車、3駅戻って道ノ尾駅で下車した。 ここには立派な木造駅舎が建っていた。(左) ホームは相対式であるが、線路があるのは駅舎側の片面のみ。 相対ホームの線路は撤去され、駅名標がポツンと立っている。(右) 新線が開通したときにでも廃止されたのだろうか。



 14時18分に上り列車に乗車、新旧の分岐点である喜々津駅を目指した。 次の高田駅は高架上に線路があり、高架下には駅舎がありそうな雰囲気だが見えない。 その次の長与駅は橋上駅だった。 列車交換で3分間ほど時間があったが、改札を出て駅正面から写真を撮るには、階段の登り降りを往復しなくてはならない。 それでは列車に乗り遅れる可能性がある。 それでも木造の古い駅舎だったらチャレンジしたのだろうが、ここはホームからの撮影と諦めた。


 再びやって来た本川内駅付近では、やはり上り坂となった。 先ほどはボケッとしていたので分からなかったが、かなりの勾配と感じる。 列車は本川内駅を発車しても、まだまだ上っていった。 そしてトンネルの中ほどで峠を越えたようだった。 そこからしばらく下ると、大草駅に停車した。 ここも個性的な形をした駅舎のようだった。(左) 全容が写っていなく、いまひとつ形が分からないが、長方形ではなく5角形のような気がした。 そして、この付近では列車の車窓から大村湾が見える。(右) 雨でどんよりしているのが残念である。


 列車はここから東園駅に停車したあと、14時49分に喜々津駅に到着した。 綾小路さんはここで長崎本線の完乗を果たした。 ここは新線・旧線の分岐駅であるが、思ったより小さな木造駅舎が建っていた。(左) 写真では分かりづらいが、左側に写っているホームは島式ホームで、2面3線の配置となっている。(右)



 ホームから長崎方面を伺うと、遠くに新旧の分岐点が見えた。 よーし、ズームだ。 しかもデジタルズームでないとまだ小さい。 左側に向かうのが新線、電化されているため架線柱が配置されている。 一方、右側に向かうのは旧線、非電化のためすっきりしている。



 綾小路さんはここから諫早駅に向かう予定であったが、なぜか心残りがあった。 新線の途中駅でまったく下車していないのである。 幸い、少しだけ時間があったので、新線に乗車することにした。 15時05分発の下り列車に乗車し、次の市布駅で下車した。 この駅は島式ホームから駅を出るのに地下道を通る。 写真に大きく写っているのが地下道の出口で、出口正面(写真では右側)には小さな切符売り場があった。


 市布駅では12分間の滞在で上り列車に乗車した。 そして喜々津−諫早間の西諫早駅で下車した。 駅舎は小さなコンクリート造りで、比較的新しいものだった。(左) 三角屋根のステンドグラスは長崎らしい造りといえるだろうか。 ホームは築堤上にあり、相対式。(右) 撮影中もここを特急列車が何本か通過していった。


 西諫早駅から乗車した列車は、15時57分に諫早駅に到着した。 この駅は大村線と島原鉄道が分岐するターミナル駅であるが、まだ昔ながらの駅舎が残っていた。(左:翌日に撮影) ホームは3面あり、駅舎側の切欠きホームから島原鉄道が発着するようである。(右:翌日に撮影) 島原鉄道はここから78.5キロ、島原半島を4分の3周して、加津佐まで運行する私鉄である。 その島原半島の中心には雲仙普賢岳が控えている。 乗車したことはないが、風光明媚な車窓が目に浮かぶ。 次こそはぜひ乗車しよう。 この日は16分間の乗換時間で駅舎を撮影したが、翌日早朝に撮影した出来が上回り、この日の写真はお蔵入りとなった。 それならば、この時にホームに停車していた、島原鉄道の車両を撮影すればよかった。 これは翌日撮影するつもりでいたが、朝の短い時間に島原鉄道の車両は、ごらんのようにホームにいなかったのである。


 さて、ここまでに長崎本線の完乗は果たしていたが、まだまだ撮影していない駅は多かった。 特に有明海沿いの肥前七浦−諫早間は、先ほどは特急で移動したので、どういった路線なのかもほとんど記憶にない。 しかし、この間の駅数は9駅にも及ぶ。 幸い、日中は運行本数が少なかった各駅停車も、夕方近くになり、少しだけ多くなってきたのである。 そこで16時13分発、上り鳥栖行きの列車に乗車した。
 ところが下車したのは隣駅の東諌早駅だった。 夕方近くで運行本数が多いとはいえ、1時間に1本もないのである。 しかしそれには訳があった。 その訳は後に回して、東諌早駅を紹介しよう。 築堤上にホームと上屋が設けられた駅で、ひと目で新しいものだと分かる。(左) ホームは相対式で、実はこれがミソ!(右)


 綾小路さんは東諌早駅から鳥栖方面に向かって歩き出した。 そして300mぐらい歩き、少し奥まった場所で歩みを止めた。 そこはかつて東諌早駅だった場所である。 カーブした線路の右側には、縁石が外されたホームの跡や、ホームに至る階段が残っている。(左) 見たとおり単線で、ここでは列車交換ができるホームや線路が増設できないため、現在地に移転した訳らしい。 元ホームの反対側まで迂回して、踏切脇から振返ると、信号設備らしい建物も残っていた。(右)


 ここから東諫早駅まで戻ると楽だったが、せっかくなので、ひと駅先の肥前長田駅まで歩くことにした。 このまま東諫早駅に戻っても、まだ次の列車は1時間後であった。 肥前長田駅まで歩いても2キロ弱で、余裕で撮影が可能だった。 そしてやって来ました、肥前長田駅。 駅は国道沿いにあったが入口は奥からで、少し遠回りしたのは誤算だったが・・・。 その肥前長田駅には大きな木がポツンと立っていて、いかにも駅舎が取り壊されたという雰囲気が漂っていた。 駅舎のあった位置に基礎が残っているのは珍しくない。 しかし、メンテ車両の停車している引込線には柵がなく、立入自由状態なのはあまりお目にかかれない。(左) ホームは相対式で、ここに待合室があるようだった。(右)


 撮影を終え、ホームで写真を確認していると、通過列車がやってきそうだった。 まだホームの先に見える、列車の先頭には機関車が見えた。 そのため、この路線では見かけていなかったが、貨物列車だと思ったのである。 しかしそれは思い違いだった。 なんと寝台列車だったのである。 しまったー、貨物列車は構わないが、寝台列車なら撮影したかった。 ああ、今さら間に合わない。 茫然と寝台列車を見送る綾小路さんだった。 列車は長崎駅を16時50分に発車して、翌日の11時33分に東京駅に到着する、寝台特急『さくら』だった。 これは千載一隅のチャンスを逃した。 ここで通過する事が分かっていたら、いい光景が撮れただろうに。 (寝台特急『さくら』は2005年2月限りで廃止となる。綾小路さんは最初で最後のチャンスを逃した事となった。)

 気をとり直して17時36発、鳥栖行きの上り列車に乗車した。 列車はひと区間走ると、小江駅に停車した。 島式ホームから跨線橋を渡ると、その先に小さなコンクリートの待合室が建っている。(左) そして、小江駅を発車すると次は湯江駅に停車した。 ここには木造らしき、立派な駅舎が建っていた。(右)


 この先、綾小路さんは今乗車している列車で小長井駅まで行き、そこから長里駅までは徒歩で移動、そこから今日の宿泊地、諫早まで列車で戻る予定だった。 しかし、今日はもうこれ以上は歩けなかった。 そこで、ここはもうひとつ用意していた計画に変更する事にした。 それは長里や小長井のまだ先の、多良駅まで乗車する計画だった。 そのため長里駅は列車内から撮影した。 ここで話に聞いていたことは本当だった。 駅舎がホームと隣接せずに、間には道路が通っているのである。(左) 間違いない、壁に長里駅と記されていた。 そして、次の小長井駅にはメルヘンチックな駅舎が建っていた。(右:多良→諫早の移動時に撮影) ホームの前には暮れかかった有明海が広がり、対岸には島原半島が見えた。


 このダイアでは、小長井−多良間にある、肥前大浦駅の発車時刻が通常に比べて遅い。 おそらくは列車交換をするのだろう。 時刻表をよく見ると、この列車に遅れること31分後に長崎駅を発車する、特急『かもめ36号』が諫早−肥前鹿島間で追い抜く事になっている。 しかもおおよそ、肥前大浦駅辺りで追い抜くダイアとなっていた。 列車は小長井駅を発車すると、ひとつのカーブにさしかかった時に警笛を鳴らして減速しだした。 そしてそのまま停車してしまったのである。 土井崎信号場だろう。 ここで停車する可能性もあるなとは思っていたが、なんとラッキー。 ただし信号場と言っても、北海道にあるような大きな管理施設があったり、ホームや駅名標があるものとは違っていて、ただ列車交換用の線路が2本並んでいるだけである。 そこで待つこと10分弱、『かもめ36号』は綾小路さんが乗車している列車を追い越していった。


 列車は再び動き出すと、しばらく走って肥前大浦駅に停車した。 島式ホームから駅舎に行くには、築堤内を通って行くようになっていた。 ホームから見えた駅舎はプレハブのような造りである。(左) 肥前大浦を発車すると次は多良駅であるが、その間にも鉄道施設があった。 里信号場である。(右) ここでは停車しなかったが、列車の先頭から確認できた。 ホームではないものの、車両のメンテ用の架台があるようだ。


 列車は18時24分に多良駅に到着した。 思い出すなあ。 映画『風とともに去りぬ』のラストで、かの『ビビアン・リー』が『私には多良がある』といったシーンを! えっ、それは『多良』ではなく、アメリカ・ジョージア州の『Tara』!! たらー、綾小路さんの背中に冷や汗が流れた。 そうか、てっきり九州の地名だと・・・。 いや、悪乗りはここまでにするか。 車寄せが中心に配置された駅舎は木造で、きれいに化粧直しされている。(左) ホームは2面3線だったが、他に引込線や切欠きのホームもあった。 島式ホームで撮影していると、乗車予定の下り列車がやってきた。(右) あわてて車内に駆け込んだが、この列車はここで3分間の交換列車待ちとなった。 ちぇっ、少し損をしたか。 今さら列車を降りるのもおっくうになり、そのまま発車時刻を待った。


 長崎本線は私鉄の九州鉄道が明治24(1891)年8月に、鳥栖−佐賀間を敷設したことに始まる。 続く佐賀−肥前山口間は明治28(1895)年5月に開通したが、当時の長崎本線は現在の佐世保線・大村線経由のルートとして敷設されていく。 このうち現ルートの敷設年度を上げると、長与−長崎(現浦上)間は明治30(1897)年7月に開通。 翌年11月に諫早−長与間が開通して、この時点で鳥栖−肥前山口−早岐−諫早−長与−長崎間が全通した。 この区間が現在の長崎まで延伸したのは明治38(1905)年4月。 結構かかったものだ。 2年後に九州鉄道は国有化され、さらに2年後には長崎本線と命名された。 肥前山口から先の現ルートは昭和に入ってから建設が進められ、有明線として昭和5(1930)年3月に肥前竜王までが開通。 その後、有明線・肥前竜王−肥前浜間、有明西線・湯江−諫早間、有明線から改称された有明東線・肥前浜−多良間が順次開業していった。 最後に昭和9(1934)年12月に有明西線・多良−湯江間が開通して、現在の路線が開通となった。 このとき有明東線、有明西線は長崎本線に併合され、従来の肥前山口−早岐−諫早ルートは長崎本線から分離、佐世保線と大村線に改称された。 そして昭和47(1972)10月に喜々津−市布−浦上間の新線が開通し、特急・急行などは新線経由に変更された。 尚、昭和5年に長崎−長崎港間が開通したが、国鉄からJRに移行する際の昭和62(1987)年に廃止されている。


 列車は19時40分過ぎに、諫早駅に到着した。 ホテルのチェックインを済ませると一息つき、夕食を求めて近辺をうろついた。 ホテルでもらった案内図によると、ラーメン屋が一軒目に付いたが、行ってみると営業していない。 先ほどチェックインする前に見かけた、和食レストランやホテルのレストランでは『長崎ちゃんぽん』というメニューがでかでかとでていた。 ここで綾小路さんは我にかえった。 そうだ、ここは長崎ではないか。 何も『とんこつラーメン』が名物ではない。 『長崎ちゃんぽん』であり、『皿うどん』であろう。 そこで、先の和食レストランに行って見たが閉店間際で、結局はホテルのレストランに戻った。 『長崎ちゃんぽん』には様々な具材がたくさん。 あさり、豚肉、こえび、キャベツ、かまぼこ、きぬさや、にんじん、ちくわ、きくらげ、そして綾小路さんの嫌いな『いか』も入っていた。 しかしこれはいける。 ホテルでこの味。 人気店ではどれだけ旨いことか。 長崎ちゃんぽん、恐るべし!


 今日は朝・昼は駅弁、夕食は長崎ちゃんぽんと、3食すべてで満足した1日だった。 めったにない事だろう。 もちろん、名駅舎やそうでない駅舎も数多く立寄り、いい漫遊だった。 ふと気が付けば、長かった九州漫遊も、残りはたったの1日となった。 綾小路さんは最終日の明日、大村線&佐世保線漫遊へと向かう。


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