2004.05.04

大村線漫遊(早岐−諫早)
佐世保線漫遊(肥前山口−佐世保)  路線図を表示

 綾小路さんは北海道の札幌在住である。 その北海道には鉄道に関して、『日本一』が数多く存在する。 まずもっとも有名なのは『日本一北にある駅』の稚内駅であろう。 その次が『日本一東にある駅』の東根室駅ということになるだろう。 綾小路さんは北海道在住ということもあり、そのどちらにもすでに到達していた。 それに対して、九州には『日本一南にある駅』と『日本一西にある駅』がある。 ところがそのどちらも2003年8月開業の沖縄・ゆいレールの駅であった。 うーん、沖縄には行った事がない綾小路さんもぜひ行って見たいが、モノレールにだけ乗るために沖縄には行けないか。 少なくともJR、第3セクターを制覇してからだな。 大きいところを置いておけば、九州本島には『JR最南端』と『JR最西端』の駅がある。 このうちJR最南端・西大山駅は通過しただけで、まだ下車には至っていない。 そして今日、JR最西端駅の佐世保線・佐世保駅を含んだ、JRで西の果ての漫遊を迎えることになった。 ちなみに北海道には他に、日本一長い『駅間距離』、『直線区間』、『レール』、『トンネル』と『日本一低いところにある駅』などがある。 もちろん、綾小路さんがそれらすべてを体験しているのは言うまでもない。

 まずは諫早駅から大村線の乗車である。 綾小路さんは6時49分発の、大村線から佐世保線直通の列車に乗車した。 大村線は発車後の短い区間、長崎本線と並走する。 分岐点が来ると、大村線はそのまま直進して、長崎本線が大きく右方向に曲がっていった。(左) 大村線が先に敷設されたのを象徴する配線だろう。 そして8分で次の岩松駅に停車した。(右) 相対式ホームの脇にプレハブ調の待合室があった。


 列車は岩松駅を発車すると大村駅、諏訪駅に停車して7時08分に竹松駅に到着した。 背が高い平屋の木造駅舎は、階段を登った小高い位置に建てられている。(左) ホームは2面3線であるが、島式ホームの奥側の線路は撤去されて、広いスペースが横たわっていた。(右)



 竹松駅では10分間の滞在で、7時18分発の下り長崎行きに乗車した。 大村線は早岐−諫早間の路線であるが、早岐より前は佐世保線、諫早より先は長崎本線との直通列車が多い。 むしろ起点・終点で発着する列車が少ないぐらいである。 列車は隣の諏訪駅で停車したが、今度は撮影できた。 片面ホームの奥に駅舎があり、改札の駅員が写っている。


 列車は7時24分に大村駅に到着した。 大村はかつて陸軍歩兵46連隊の駐屯地があった町。 建物財産標によると大正7年8月建築の駅舎は、戦地に向かう幾多の兵士を見送ってきたという。 まず、壁面に柱を露出させたハーフティンバー構造が目につき、壁面は白く塗装されて見事。 和風駅舎の黒い壁面が白っぽく塗装されるのは正直がっかりするが、洋風の駅舎に白がぴたりと似合っている。 階段を登ってから玄関に入る構造は先の竹松駅と同じ。(左) ホームは2面3線の構造だが、奥側の線路は車庫までで、その後側は駐車場と化していた。(右)


 ここで7時49分発の上り列車に乗車した。 この列車は快速列車で諏訪駅は通過した。 その後、竹松駅で停車した後は、松原駅も通過となる。 しかし今日は松原駅で下車できず、通過するのもこれ1回きりだった。 そのためここでどうしても撮影したかった。 並行する国道沿いに文字通り松の林が続き、まさに松原駅を通過するときに、駅舎らしい建物が見えた。(左) オッケー、少し暗いが撮影成功。 松原駅を過ぎると、左手には大村湾が広がった。(右) 昨日同様に今日も曇り空、晴れればどんなに美しい風景だったことか。


 列車は次の千綿駅も通過して、8時09分に彼杵駅に到着した。 大柄な木造駅舎は建物財産標によると、昭和4年1月30日の建築。 もしや、白壁と入口部の階段は大村線のスタンダードなのだろうか?(左) ホームは相対式で跨線橋はない構造。 もと長崎本線だけあって、どの駅もホームは長い。(右)



 8時33分発の上り列車に乗車して、ふた駅目の小串郷駅で下車した。 ここで大村線の車両を撮影した。 大村線は『キハ67』と『キハ66』を併用しているようだった。 ただし『SEA SIDE LINER』となっている車両は派手なブルーであるが、もうひとつそっけないカラーリングの車両もあった。 それにしても、JR九州の車両はカラフルだ。 昨日まで乗車した車両は、肥薩線『はやとの風』の『黒』、九州新幹線『つばめ』の『白』、豊肥本線『キハ200』の『赤』、そして久大本線『キハ125』の『黄』があった。 基本的にすべて単色である。 本日はこれに『青』まで加わって、白黒に3原色とすべて揃っていることになるのだろう。


 小串郷駅は小さなコンクリートの駅舎だった。(左) これでも窓口で切符を販売していた。 駅の隣にある跨線橋から見たとおり、ホームは片面で列車交換は出来ない。(右) 駅前広場から100mと歩かずに、大村湾沿いに行きつくことも分かるだろう。 ただし10分間の滞在だったので、綾小路さんは見に行けなかった。


 ここから8時55分発の下り列車に乗車、千綿駅で下車した。 小さく、古い木造駅舎は白壁ではないが、入口部には階段が設置されている。(左) ホームは片面で線路脇には防波堤があり、その外側はすぐ大村湾となっている。(右)



 駅舎の中から見る大村湾はどんよりとしていた。 天気が悪いのが本当に『残念!』(ギター侍の語り調で読んでいただけたら幸いです) 奥に見えているのは大崎だろうか。 地図を見ると、小さな島が陸続きになったような形をしている。



 千綿駅もわずか11分間の滞在で、9時24分発の佐世保行きの上り列車に乗車した。 列車は彼杵駅の次に川棚駅に停車した。 綾小路さんは今日、この駅は3回目の通過となった。 彼杵から小串郷に移動する1回目、列車は島式ホームの奥側に停車して、撮影するのに駅舎は遠すぎた。 そして小串郷から千綿に移動した2回目、列車は駅舎側のホームに入線し、こんどは近すぎたのである。 そして3回目、列車に乗車したままでは遠いので、いったん下車して駅舎を撮影、すぐに乗車しなおした。 コンクリートの駅舎らしく、ホーム側の大きな雨避けの上屋が目を引いた。 ホームは2面3線で、島式ホームの駅舎側の線路は撤去されている。


 大村線漫遊も残り僅か。 列車は小串郷駅に停車した後、南風崎駅に停車すべく減速した。 相対式ホームの片側には、列車交換を待つ下り列車が停車している。(左) あれ、この列車は次のハウステンボス駅で列車交換するダイヤとなっているがはて? どうやらこの列車が少し遅れているらしく、南風崎での列車交換となったようである。 交換列車は時刻表では快速『シーサイドライナー3号』となっているので間違いないだろう。 その交換列車に隠れずに撮影できた駅舎はコンクリート造りのようだった。(右) 右側に見える看板には次の文章が書かれていた。 『南風崎駅は昭和20年10月から昭和25年4月までの間、太平洋戦争終結に伴い、 海外から佐世保港浦頭に引き揚げてこられた方々が、それぞれの故郷へ向かわれた思い出の駅です。』


 南風崎駅を発車すると、残りの中間駅はハウステンボス駅のみ。 どうやら橋上駅らしいが、撮影したのが遅かった。(左) 駅舎は写真の上側だろうか。 ホームが島式ホームというのは分かるだろう。 列車が停車してから駅舎を振り返えろうと思ったが、それより先に豪華な建物が目に入ってきた。(右) これがハウステンボスかと思いきや、どうやらJR全日空ホテルらしい。 右側の奥にも別の建物が見えている。


 列車は9時55分に、大村線の起点駅である早岐駅に到着した。 この列車は佐世保線直通で、行き先は佐世保だった。 綾小路さんもこの後、佐世保まで行く予定だったが、ここで下車した。 何冊かの本によると、財産標には明治30年建築と書かれているという。 しかし手元に財産標の写真はなかった。 綾小路さんは探さなかったのか、それとも探したが見つからなかったのかは覚えていない。 その駅舎は洋風で白壁、駅正面の階段と大村線のスタンダード?を踏襲していた。(左) ホームは基本的に2面3線で、大村線の諫早方面から佐世保線の肥前山口方面、佐世保方面のどちらにも列車方向を変えずに運行できる。(右) という事は、佐世保線で肥前山口−佐世保間の列車はここ、早岐駅でスイッチバックすることになる。 これは元々、佐世保線の肥前山口−早岐間と大村線が長崎本線として敷設された歴史による。


 そして島式ホームの奥には広大な構内が広がり、無数の線路が敷設されている。(左) 早岐駅は大村線の起点駅にして佐世保線の中間駅である。 さすがに鉄道の要衝だった。 中央の奥には大きな車庫も建っているようだ。 うん、あれは・・・? 綾小路さんの肉眼でははっきり分からないが、どうやら白い建物の左側に転車台があるようだ。 ここで『ブッシュマンの眼』で追うと・・・、もといデジタルズームで追うと、おお間違いない!(右:長井秀和の語り調で読んでいただけたら幸いです。)


 大村線は私鉄の九州鉄道として敷設された。 明治30(1897)年7月までの鳥栖−肥前山口−早岐間の敷設に続いて、明治31(1898)年1月に早岐−大村間が開通した。 そして同年11月には、大村−諫早間も開通した。 その後、九州鉄道は国有化され、早岐−諫早間は長崎本線の路線となった。 ところが昭和9(1934)年12月に肥前山口−多良−諫早間のルートが開通し、こちらが長崎本線となった。 同時に早岐−諫早間は大村線と命名されたのである。



 10時23分に、先ほど乗車してきた列車の後発、すなわち大村線の直通列車に乗車して、佐世保駅を目指した。 ここからは佐世保線漫遊になる。 列車は5分で大塔駅に停車した。 僅かに写っている線路の奥を見ると、相対式ホームらしいが、駅舎はなく上屋があるだけだった。


 列車は次に日宇駅に停車し、まずはここで下車した。 駅舎はなく、トタン板で作られた上屋が線路下に建っている。(左) ここからトンネルを通って、築堤上のホームに行く構造となっている。 そのホームは島式でカーブしている。(右) ホームの端から一方の線路は分岐して、右側に写っている車庫につながっている。


 10時53分発、こんどは長崎本線鳥栖からの直通列車に乗車した。 早岐−佐世保間は、佐世保線と大村線の時刻表を見比べなくてはならない。 片方のページに全部載っていないのである。 綾小路さんも、当初計画を立てる時は気が付かなく、どうするか悩んだのである。 列車は5分間走って10時58分、佐世保駅に到着した。 松浦線が第3セクターに移管して、松浦鉄道となった現在、JRでは日本最西端の駅である。 北の地から、おもえば遠くに来たものだ。 駅舎は3年ほど前に高架化されたらしい。(左) エンジ色の巨大な柱と屋根はこれでも車寄せなのだろうか? だとしても車両はこの近くまで進入できない。 車道はそこから10mほど離れた位置に設けられて、その間は歩行者専用のスペースとなっている。 高架上には3面もの島式ホームが作られていて、ここから肥前山口・鳥栖方面への列車と諫早・長崎への列車の双方をさばいている。(右)


 佐世保線も大村線と同じく、九州鉄道として敷設された。 明治28(1895)年5月に肥前山口−武雄(現武雄温泉)間が開通。 翌々年に早岐への延伸を経て、明治31(1898)年1月に佐世保までが開通した。 その後に国有化され、肥前山口−早岐間は長崎本線、早岐−佐世保間は佐世保線となった。 肥前山口−多良−諫早間の新ルートが長崎本線となった時に、肥前山口−早岐間は佐世保線に編入され、現在の肥前山口−佐世保間となったのである。



 駅舎正面側のホームは正確にいうと、片面ホーム1線と上下方向ともに切欠きのホーム2線となっている。 そして、肥前山口側はJRが使用しているが、反対側は松浦鉄道のホームとなっている。 駅員に断り、ホームに入ると松浦鉄道の車両が停車していた。 その松浦鉄道の『たびら平戸口』駅こそ、2003年8月開業の沖縄・ゆいレールが開業するまで永らく、日本最西端の駅となっていたのである。 綾小路さんはそこに降り立ちたいと言う訳ではなく、3セクに移管して、古い駅舎が次々と取壊されているらしいので、早く行きたいと思っている。 今回は西九州の鉄道は初めてということで、長崎本線・大村線・佐世保線に絞ったが、次回はなんとか松浦鉄道に乗車したいものである。


 さて、佐世保駅で綾小路さんは楽しみにしていた事があった。 もちろん駅弁である。 JRの時刻表には珍しい飛び魚の駅弁『あごめし』や、綾小路さんの好きな『あなごめし』などが載っていて、どれにするか悩んでいた。 ところが駅弁屋が見渡しても見つからない。 駅員に聞くと、目立たない場所にあるらしく、ようやく辿りついたのである。 しかし何と、どちらも売り切れという。 まだ11時を回ったところであるのに。 しまったー、ゴールデンウイークか? そこまで計算してなかった。 調べて、予約しておけばよかったが、もう後の祭りだった。 しかたなく購入したのは、幕の内弁当の『ミニ懐石おべんとう』¥780だった。


 11時34分発、大村線直通の列車に乗車して、早岐駅で下車した。 まあ、ここで下車しないと、また諫早に行ってしまう。 もうそんな時間は残されていない。 実は先ほどの転車台の写真はこの時に撮影したものだった。 12時07分発、こんどこそ佐世保線の列車に乗車、早岐駅を後にした。 発車してすぐ、佐世保線の上り・下りの分岐点に差し掛かった。(左) 先ほど述べたように佐世保線は早岐駅でスイッチバックする。 左側の線路は下り佐世保方面に向かうもの、そして右側に伸びる線路こそ、この列車が向かう、上り肥前山口方面のものである。 しばらく走って、列車は三河内駅に停車すべく、減速に入った。(右) 相対式ホームに、右側の駅舎脇には切欠きのホームもあるようだ。 そして奥には、これからすれ違う、交換列車がやってきている。


 三河内駅の次の駅は有田駅である。 その有田駅の手前で車窓左手から線路が延びてきた。 あれっ、綾小路さん、これにはノーマークだった。 松浦鉄道が西九州をぐるりと一周して、有田駅に接続していたのである。 ありゃ、これは綾小路さんの好きな、分岐・合流の写真を撮り損ねたようだ。 そこから列車はすぐに減速を始めた。 そして有田駅のホームが見えてきた。(左) まず目に付くのは交換列車だろう。 ところが、ここでは列車交換にはならないはずだった。 今度は下り列車が遅れているようである。 この車両は特急だろうか。 そうすると30分近くも遅れている事になる。 綾小路さんの今後の行程に支障がなければよいのだが。 そして、ホームは2面3線で、島式ホームの奥には先ほど佐世保駅で見た、松浦鉄道の車両が停車している。 その奥を見ると、やはり分岐駅らしく、広い構内のようである。 奥には貨物のコンテナも見える。 列車がホームに到着すると交換列車はすぐに発車、その時に駅舎を振返った。(右) ホームにはちょうちんが下げられ、駅前にはテントや三角旗が写っている。 今日は有田陶器市が開かれていて、賑わっているようだ。 そして、駅舎の屋根には展望台なのか、奇妙な塔が建っている。 よく見ると、左の写真にも写っていた。 ああ、嘆かわしい。
 『拙者、桃太郎侍・・・、もとい綾小路じゃ!』 『拙者、新しい駅は嫌いじゃ!』 『というか、古い駅が好きなんじゃ!』 ジャンジャカジャンジャン、ジャンジャカジャンジャン、ジャンジャカジャンジャン、ジャンジャカジャンジャン。(ギター侍のフレーズです、念のため) 『ここは、さーせーぼーせん、有田駅。 松浦鉄道が分岐する。 とうきいちも開かれて、結構にぎやかな駅ですよ。 頭の帽子がかわいいでしょ。』っていうじゃない!! ジャンジャカジャンジャン、ジャーン。 『でもあんた、あんたが建たなければ、古い駅舎が残っていたんですから。ざんねーん!』 『古いものは新しいものに変わるのが定め・・・斬りー!』


 列車は上有田駅に停車した後、12時28分に三間坂駅に到着した。 おおこれを待ってました。 純和風な駅舎は建物財産標によると、大正9年1月の建築となっていた。 少しタクシーのテントが邪魔だったが、これには満足。(左) おそらく、昔は有田駅にもこんな駅舎が建っていた・・・、いや、もう言うまい。 ホームは相対式で、中間部にも通過線が敷かれていた。(右)


 ここで一旦、下り列車に乗車し、隣の上有田駅で下車した。 建物財産標によると明治30年7月10日の建築となっているが、リフォームされたのか、そうは見えない。 柱や梁、壁などはきれいに化粧直しされ、屋根の瓦は新品に交換したのだろう。(左) 斜めからすぎる? 何も、綾小路さんは好き好んでこのアングルを選んだのではない。 もともと駅前が狭い上、例の陶器市はここでも開催されていて、ベストアングルの位置と思われた場所にはテントが張ってあったのである。 そして、相対式ホームの肥前山口寄りには、封鎖されたトンネルが見られる。 レンガと石で造られたポータルは歴史を感じさせるものだった。(右)


 13時12分発、ゴールデンウイーク中の臨時特急で上有田駅を後にした。 有田陶器市は時間もなくて見れなかったが、別に惜しいとも思わない。 いろんな駅舎が見れれば満足だった。 列車は10分少々で武雄温泉駅に到着した。 ここは駅前後で大掛かりな工事が行われていた。 駅舎もごらんのように仮駅舎で、プレハブのようである。(左) ホームは島式の1面2線であるが、元は駅構内だったと思われる位置では、高架の工事が進んでいる。(右) 武雄温泉駅は九州新幹線の長崎ルートの停車駅に予定されている。 何かそれを見越した工事に思えてならなかった。 まだ決定でなく、予算は下りていないはずであるが・・・。


 この区間は列車本数はそこそこあるが、うち半分は特急だった。 そのため『365歩のマーチ作戦』だった。 13時42分発の下り列車に乗車して、またも佐世保方面に向かい、隣の永尾駅で下車した。 昭和22年3月建築の木造駅舎は、どうみても先ほどの上有田駅より古く思える。 元々は大きな駅舎だったが、左側の半分弱が取壊されたようだった。 基礎の跡が残り、壊された面の壁は新しいものだったのである。(左) ホームは千鳥に配置された相対式。(右)


 ここで14時15分発の上り列車に乗車して、佐世保線の起点駅である肥前山口駅へ向かった。 武雄温泉駅の次に停車したのは高橋駅。(左) 相対式ホームの脇に小さな駅舎が建っていたが上屋が邪魔だった。 列車は次に北方駅に停車した。(右) やや大きな木造駅舎のようだった。


 肥前山口まで残る駅はひとつ、列車は大町駅に停車した。(左) 島式ホームと駅舎はかなり離れていて、跨線橋で結ばれている。 かつてはこの間に線路が通っていたのかもしれない。 大町駅を発車すると、肥前山口駅はもうすぐである。 やがて、車窓右側から長崎本線が合流してきた。(右)


 肥前山口駅へは14時38分に到着した。 これで、三角線・肥薩線・豊肥本線・久大本線・長崎本線・大村線(実は九州新幹線も)に続いて、佐世保線も完乗となった。 大漁!大漁! さあ、あとは一路札幌に向かうばかり・・・、ではなかった。 この時、札幌への飛行機の時間は迫って、残り時間は少なかったが、もうひと駅だけ、どうしても立寄りたい駅があった。 そのため、肥前山口15時04分発の列車を、久保田駅で下車した。 久保田駅は唐津線の起点駅である。 目的の駅は唐津線でひと駅目の駅なのである。 駅舎から一番遠い3番ホームの片隅に、唐津線の0キロポストがひっそりと立っていた。(左) 唐津線の列車は、ふた駅先の佐賀発着で運行している。 15時31分発、佐賀からの列車は0キロポストのある3番ホームではなく、2番ホームに停車した。 唐津線の列車は久保田駅を発車すると、すぐに長崎本線から右方向に分岐した。(右)



 列車は6分程度で、隣の小城駅に到着した。 さあ、ここで綾小路さんに与えられた時間はわずか7分間だった。 それは乗車してきた列車が、ここで列車交換するための停車時間だった。 綾小路さんはその交換列車に乗車しなければ、帰りの飛行機に乗り遅れてしまうのである。 そうまでして、撮影したかった見事な木造駅舎は、建物財産標によると大正6年3月27日の建築である。



 交換列車で久保田駅まで戻り、鳥栖行きの各駅停車に乗換えた。 ここで列車の先頭に陣取り、長崎本線の駅を撮影した結果は、すでにご覧になっているはずである。 そして、肥前麓駅を発車してしばらくすると、車窓右側から鹿児島本線が見えてきた。 正面には鳥栖駅のホームから見える、鳥栖スタジアムも写っていた。


 鳥栖着は16時23分の予定だったが、7分ほど遅れて到着した。 ここで博多への列車の待ち時間に、ホームの古レールを撮影したのであった。 さらに、ホームの駅弁売り場で焼麦¥525を購入した。 これは結局、自宅に帰ってから食べることになった。 掛紙・・・、と言うよりパッケージには『焼麦(しゃおまい)とは・・・(中略)・・・焼売(シウマイ)に対する、中国本来の名称です。』と書かれていた。 ほー、そうだったのか。 さらに『何もつけずにお召し上がりいただくことをおすすめします。』とも書かれている。 ひねくれものの?綾小路さんはこの文章に反発した。 そんな事はないだろう。 他の人はともかく、濃い味付けの好きな綾小路さんは、しょうゆをつけたほうがうまいにきまっている。 論より証拠、ためしに1個だけつけないで食べてやるか。 どーれ、ほらみろ・・・。 あれっ、うまいじゃない。 これには脱帽の綾小路さんでした。


 鳥栖駅からは、本来なら16時31分発の、リレーつばめ号に乗車した。(左:写真は4/30に熊本駅で撮影したもの) 九州新幹線の新八代−鹿児島中央間に接続する特急である。 この日は満員で、綾小路さんもかろうじて座ることができたぐらいだった。 リレーつばめ号は17時前に終点、博多駅に到着した。(右)


 博多はおりしも『博多どんたく』の真っ最中だった。 振返れば、熊本城・桜島・阿蘇山・雲仙普賢岳・ハウステンボスなど、これに『博多どんたく』も加わったのか。 それら、あまたの観光名所を横目に、綾小路さんの漫遊は続けられてきたのであった。 これからも観光名所への立寄りもなく、日本全国を旅するのであろう。 それで満足だった。 このあと、綾小路さんは地下鉄で博多空港に向かい、東京経由で札幌に帰ったのである。


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