2004.04.29

三角線漫遊(宇土−三角)   路線図を表示

 あれは根室本線の富良野−新得間を漫遊したときのことだっただろうか。 だとすると2004年の2月28日である。 JR白石駅で乗車前に旅行のパンフレットを入手した。 列車内での暇つぶしが主であったが、ゴールデンウイークの漫遊先をどこにするか、安い個人包括旅行がないかを確かめるためでもあった。 その時点では『JRフライトプラン大阪』で関西空港まで飛び、紀勢本線アゲイン、名松線などを漫遊しようと考えていた。 2泊3日の計画もすでに練られていて、後は新しい時刻表で確認すればよかった。 しかしゴールデンウイークには青春18きっぷの発売はなく、現地でのJRの移動に費用がかさむとも思われた。 ならば昨年に利用した『みちのくフリー切符』で再度、北東北漫遊を敢行するかと漠然と考えていたところだった。 ごっそりパンフレットを仕入れて、滝川までの道すがら、熱心に見入った。 このとき『JRフライトプラン九州、山陽』のパンフレットに綾小路さんの目が留まった。 そのプランは九州での空港および宿泊地が福岡、長崎、熊本、宮崎、鹿児島の中から選べるものだった。 綾小路さんには2003年の暮れに立てて、まだお蔵入りしている下関から九州入りする計画があった。 この計画に近いものにするには福岡空港が起点だろう。 しかし綾小路さんはかねてから次回、九州に行くときは、肥薩線の漫遊を目玉にすると決めていた。 そこでそれに一番都合がいい、熊本を拠点とするプランに注目した。 その熊本での2連泊プランの値段は76800円。 もちろんこれは往復の航空券とホテルのセットであるが、安い! 延泊も可能だし、追加で個人的に宿を手配してもよさそうだった。 そしてパンフレットをよく見ると、5月1日の出発でこの値段だった。 4月中に出発すれば、なんと57300円、メチャメチャ安いではないか。 よーし、1日休みをもらうか。 さらにこのプランにはオプションが用意されていた。 『全九州フリーきっぷ(有効期間5日間)』の値段は15000円だった。 これはJR九州すべての特急の自由席まで乗車でき、さらにこの時点から2週間後に開業を果たす『九州新幹線』にも乗車できるものだった。 よーし、決定! その後、内容を全面的に見直し、5泊6日の計画が立てられたのである。

 出発の当日、綾小路さんはバスで新千歳空港に到着した。 ゴールデンウィークの登場手続きでは、テロを警戒して靴まで脱いで探知器に入るという情報まで流れた。 ところが実際にはそんなに物々しい検査はなかった。 10時00分発の綾小路さんを乗せたボーイング777は新千歳空港を離陸すると、一路熊本空港を目指した・・・。 だと良かったが実は直行便がなく、止むなく羽田経由であった。 しかも新千歳空港7時50分発で、熊本空港11時25分着の便は確保できなかったので、熊本空港への到着は14時05分の予定である。

 新千歳空港には警備に備えて早めに到着していたので、機内では窓際の座席が確保できていた。 そこで綾小路さんは機上から度々地上を見下ろすこととなった。 最初に気が付いたのは苫小牧東部である。 厚真あたりだろうか? ここで綾小路さんは日高本線の線路を捜した。 それらしき放物線を発見したが反対側が途切れていたような・・・。 いまひとつ確信は持てなかった。
 次ぎに地上を見たときは青森県の南部だっただろうか。 少し前に伺えば下北半島が見えたかもしれない。 遅かった。 そこからは内陸部を進むようだったので、この後のリアス式海岸は見る事はできないようだ。
 そしてしばらくすると宮城県上空にさしかかった。 並んで見えるのは伊豆沼と内沼だろう。 その向こう側には牡鹿半島が見えてきた。 牡鹿半島から続いた海岸線の先には松島らしき小さな区域が見えた。
 ここで綾小路さんは1年余り住んでいた仙台を探した。 仙台港か仙台空港がランドマークになるかと思ったが見つけられない。 気が付けば地図で見覚えのある川が流れている。 あれは阿武隈川ではないか。 そうすると仙台はすでに通過している。 後で確かめると仙台は松島のすぐ南側だった。
 ドリンクサービスの後に地上を伺うと霞ケ浦が見えるではないか。 大きい。 鯉ヘルペスとかで大量の鯉が処分されたのは記憶に新しいところである。 そしていよいよ東京湾が見えてきた。 何隻もの大きな船が停泊している。 それがタンカーなのか、浚渫船なのかは分からない。 大規模な埋立地が見えてきた時にはすでに着陸体制に入っていた。

 11時30分、ほぼ定刻に羽田空港に到着した。 ここで初めて航空機の乗継ぎを経験することとなった。 熊本行きの搭乗ゲートに向かったが、さすがにゴールデンウィーク、大変な混雑である。 ひと際長い搭乗者の列の行先を見ると『釧路』、そして『函館』となっていた。 君たち、もうシーズンオフだよ。 雪の鉄道旅行を楽しまないとはもったいない。 綾小路さんはそう思ったが、彼らはそんなことには興味を持っていないのだろう。

 熊本への乗継便は12時25分の出発予定だったが、これに接続する別の乗継便が遅れたため、離陸は10分ほど遅れたようだった。 うーん、今日は時間ぎりぎりの計画だったので心配になってきた。
 乗継便ではカメラを用意した。 出発して最初に目に付いたのは東京湾横断道路だった。 『海ほたる』に行くまでの細い道路が見えたが、あっという間に翼に隠れて撮影はできなかった。 そして機首が南方向から西方向に向かうと富士山が見えた。(左) このあとで近くになったらもう一度撮影しようと思ったが、飛行機は富士山の左側を通過するようだった。 綾小路さんの座席は左側の窓際だったので富士山は見えなくなった。 右側の窓からははっきりと見えていることだろう。 しかし代わりに眼下に相模湾が見えた。(右) このときは意識していなかったが、左端に移っている小さな突起はどうやら江の島らしい。



 そして相模湾の先にはひときわ大きな突起が見えた。 伊豆半島である。 富士山のアップは撮れなかったが、江の島や伊豆半島など左側の座席はラッキーだったかも。 さらにこの後も左側の車窓・・・でなく航空機の窓からは地図でよく見た地形が確認できた。 もっとも右側の窓からも別の光景が見られたことではあろうが・・・。


 綾小路さんの頭の中には日本地図の大まかな光景は頭に入っているが、微妙なところまでは分からない。 機内誌の後ろに載っている小さな日本地図と、眼下に見える地形を比べても一致できる場所は限られているのだ。 しかし明らかに場所を特定できる光景が見えてきた。 渥美半島と知多半島である。(左) 写真では映りが悪く、見えづらいが機上では、はっきり分かった。 そして知多半島を過ぎると、埋立地が確認できた。 帰って資料を見ると形はまったく同じ。 この時点では建設まっさかりの中部国際空港だろう。(右)


 ここからは紀伊半島を横断する。 おそらく右側の窓からは琵琶湖が見えていることだろうが、この窓からは紀伊半島が見えているのだろう。 しかしいかんせん巨大である。 形が分かろうはずもなかった。 そして大阪湾が見えてきて、その向こうに淡路島が見えた。(左) ここはまだ上陸したことはなかったが、鉄道が通っていればなあと思った。 次に瀬戸内海に浮かぶ小豆島が見えた。(右) 『24の瞳』、『オリーブ』などが思い浮かぶが、綾小路さんは学生時代、かれこれ20年以上前に一度だけ上陸したことがあった。


 この後は瀬戸内海の小島が見えたが、綾小路さんの故郷、丸亀までは分からなかった。 そしてしばらくすると高縄半島が見えた。(左) 本州四国連絡橋の今治・尾道ルートの来島海峡大橋も見えるようだ。 続いて佐田岬半島が見えた。(右) もう少し状態がよければ伊方原発が見えたかもしれない。



 佐田岬半島を過ぎると豊予海峡を渡り、いよいよ九州上空となる。 まず目に飛び込んで来たのは佐賀関半島である。 ここで獲れたサバとアジのみが『関サバ』、『関アジ』としてブランド化されるのだろう。 このとき右側の窓からは国東半島が見えていることだろう。


 九州上空にかかると、すぐに阿蘇山が見えてきた。(左) 写真とかでも姿をみたことはあまりなかったが、間違いないだろう。 噴煙を上げているのが中岳だろうか。(右) この時点で飛行機はすでに着陸態勢に入っていた。 ここから阿蘇山を旋回するように南に機首を向け、予定から15分ほどの遅れで熊本空港に着陸した。


 熊本空港から熊本駅への連絡バスは所要55分と時刻表に載っていた。 しかし、これだけではバスの発車時刻も分からないし、そのあとの旅程の計算も立たない。 そこでタクシーで豊肥本線の肥後大津駅まで行く事にしたのである。 空港から5キロ程度、飛行機の到着から列車の発車までに40分間の時間を充てていた。 しかしここまで到着も遅れて、手荷物の引渡しにも時間がかかっていた。 なんとかタクシーに乗車したときには残り20分もなかったのである。 まあ5キロだから10分もあれば到着するだろうと思っていたが、この区間は信号待ちが多い。 ようやく駅前に到着して2、3枚撮影したところで乗車予定の列車がやってきたようだった。 しかたない、また来よう。 豊肥本線には明後日、全線乗車の予定なので、その時に撮影する事にした。 そして南熊本駅で途中下車したあと、熊本駅に到着した。

 今日の目的は三角線の完乗を果たすことだったが、その前に行きたい駅があった。 それは鹿児島本線の松橋駅である。 15時54分に熊本駅を発車、隣の川尻駅を過ぎ、三角線の起点駅である宇土駅もやり過ごした。 そして3つ目の駅が松橋駅だった。 一見してトタン張りの倉庫のようだが木造建築である。(左) 異様に背が高いがこれでも平屋で、屋根裏は何も使われていないとか。 片流れの屋根はホーム側に傾いていて、瓦屋根である。(右) 駅舎の本によるとモダニズムの影響を受けているという。 明治28(1895)年1月の開業で、初代の駅舎は戦災で消失、現駅舎は昭和24(1949)年の建築だという。


 そしてお待たせ、いよいよ三角線の漫遊である。 ひと駅戻って、三角線の起点駅である宇土駅に到着した。 教会のような斬新なデザインはモダニズム建築だとか。(左) 前面には柱が立ち並び、壁面はガラス張りである。 乗客は両脇から出入りするようになっている。 松橋駅と同じく開業は明治28年1月、現駅舎の建築はやや早く、昭和22(1947)年の建築だという。 ホームは2面3線であるが、駅舎脇には引込線が2線ほどあるようだ。 その内、ホーム側の1本の先は車庫につながっているが、何かの監視塔のようでもある。(右)


 駅舎や車庫の反対側に目を移すと、島式ホームの奥には九州新幹線の高架が工事されている。(左) 3月13日に新八代−鹿児島中央間が先行開業したばかりであるが、博多−新八代間も工事は進められている。 もともとはこの高架の下にも引込線があったかもしれない。 ひょっとして給水塔や転車台が取壊されたのなら残念なことである。 そして、駅舎の中心には三角線の0キロポストが立っていた。(右)



 興味が尽きない宇土駅の探索を終え、17時15分発の三角線の列車に乗車した。 列車は宇土駅から鹿児島方面に向けて発車し、すぐに鹿児島本線から別れて右方向に分岐した。



 三角線は全線単線だが、線路のすぐ脇には道路が並行していた。 なにかこれではローカル線らしくないなあ。 そして最初の途中駅は緑川駅だった。 どうやら片面ホームのみのようだ。 残念、夕日に向かっているからか映りが悪い。


 緑川駅を発車して次に見えてきたのは住吉駅だった。 相対式ホームで、交換列車がすでに到着していた。(左) ホームの脇はガランとしていて何もないが、3年ほど前までは駅舎があったらしい。(右)


 住吉駅を発車すると右手には島原湾が見えてきた。 ここでようやくローカル線の雰囲気が漂ってきた。 列車は肥後長浜駅の次に網田駅に停車した。 綾小路さんはここで下車した。 三角線の途中駅で唯一駅舎が残っているからである。 その駅舎は木造で一部モルタル塗りだった。(左) 窓口で切符も販売されていて、どうやら依託駅のようだ。 ホームは相対式2面であるが、駅舎脇には引込線が敷かれている。 貨物ホームの成れの果てだろうとも思ったが、線路の間には列車の下周りを整備するためのスペースが残っていた。(右)



 ここで一旦、肥後長浜駅まで戻ることにした。 三角線は日中、『キハ31』の単行とガイドブックに載っていたが、やってきたのは『キハ47』だった。 しかも2両編成のようだ。 よく考えると、もう日中ではないか。


 肥後長浜駅は道路から一段上った築堤上にあった。(左) 今は上屋だけの駅だが、その下にはコンクリートの土間が残っている。(右) かつての駅舎・・・いや大きさから判断すると待合室の基礎に違いない。 余談だが、この日は近くの長浜海岸は潮干狩り客で賑わったらしい。



 再び三角駅に向かう、下り列車に乗車した。 島原湾を眺めると、対岸には高い山が見える。 ここでようやくその山が雲仙普賢岳だと気が付いた。 しまったー、この山は緑川駅付近でも線路の延長上に見えていたではないか。 その時に知っていれば撮影していただろうに。 よく見るとガイドブックにもそのことが載っていた。 ここで遅まきながら撮影を試みる。 木立に邪魔され失敗したが、ようやくある程度の満足が行く一枚が撮影できた。



 列車は網田駅の次に赤瀬駅に停車した。 片面ホームに上屋のみの駅である。(写真は帰路に撮影) 三角側のホーム端のすぐ先にはトンネルが見えた。 ここから三角半島を横断して南側に出ることになる。


 列車はその後に石打ダム駅、波多浦駅に停車して、18時51分に終点の三角駅に到着した。 ここは駅舎のすぐ前に展望台が立ち、せっかくの名駅舎が隠されてしまうと不評である。(左) もし展望台がなかったら、綾小路さんもこんな時間に立ち寄らず、もっと明るい時間に来ただろう。 しかも展望台は入口が施錠され、立入禁止となっていた。 勘弁してよ。 綾小路さん、切れそうになる。 そして展望台との隙間から駅舎の撮影を試みた。(右) おお、なるほど。 なかなか見事な駅舎ではないか。 展望デッキが撤去でもされたら、もう一度立ち寄って見たくなった。 ちなみに屋根に立っているのは灯台らしい。


 ホームから線路終点の奥を望んだ。(左) 引込線が多いと本に載っていたが、片面ホームの向こう側に1本横たわるだけであった。 貨物輸送がなくなり、整理されたのだろうか。 改札口の仕切りにはロープが使われていて、支柱には灯台がデザインされていた。(右) そして悲しいお知らせがあります。 三角駅には駅弁が販売されていたが、業者が撤退したらしかった。 確かに2003年12月のJR時刻表には、駅弁の販売駅であることを示す『弁』のマークが付いていた。 しかし今回購入した2004年4月版にはそのマークが消えていた。 様々な情報によると『鯛の姿寿司』という名物駅弁があったらしいが、それを食べることは叶わなくなった。


 三角線は明治32(1899)年12月に私鉄の九州鉄道によって宇土−三角間が開業した。 明治40(1907)年7月に国有化され、三角線となった。

 三角線の列車は三角駅に到着後、多くは10分以内に宇土駅に向けて折返す。 綾小路さんが乗ってきた列車は5分後に折返していた。 次の列車は1時間後、そのため隣駅まで徒歩で行くことにした。 三角駅から波田浦駅に向かって歩きだして5分ほど経ったときだった。 道路脇の一軒の寂れた店舗が目に付いた。 休みなのか、潰れたのかは分からなかった。 店の入口の上を見ると、ひらがなで『おさふね』と書いてある。 なんと、『鯛の姿寿司』を製造していた駅弁屋ではないか。 貼り紙があったので近づいて読んでみた。 『貸店舗』である。 いったいどうしたのだろう。 駅売りは撤退したものの、駅弁自体はまだ製造しているとの情報もあったので、僅かな期待は残っていた。 これでその僅かな期待も消えることとなった。

 すっかり暗くなった中、波多浦駅に到着した。 片面ホームの駅である。 待合室と上屋が並んでいるが、待合室には電気も付いてなく、ここで列車を待つ人はいない。 一方、上屋には電気がともされ、みんなこちらで待っていた。 冬にはどうなるのだろう。 しかしここは九州だった。 北海道では待合室が必要だろうが、ここでは冬にも必要ないのかもしれない。


 三角線は全列車が熊本−三角間で運行されている。 すでに起点駅の宇土駅も探索済みで下車する必要もない。 どのみち熊本駅まで行くので直通列車はありがたかった。 熊本駅に到着すると改札を出て、緑の窓口で翌日からの有効期間5日間の『全九州フリーきっぷ』を受け取ったのである。

 今日と明日の宿泊は熊本市内だったが、ホテルは熊本城近くで、市電を使わねばならなかった。 ここでどうせなら上熊本駅から市電を利用することにした。 ここの駅舎も有名なものだった。(左) 古武士の風格も漂う、堂々とした木造建築である。 建物財産標が掲げられていて、大正2年7月27日建築となっている。 しかしやはり暗いか。 日中に撮影した写真を見ていただこう。(右:H14-12-26撮影) この駅舎、実は存続の危機にあるという。 鹿児島本線の高架化に伴い、新駅舎の建築が決定されているらしい。 九州新幹線の延伸にも関係するのだろう。 あとは現駅舎を保存するかしないかだけのことらしいが、厳しいようである。 日中に撮影した写真に満足していないので、近いうちにもう一度来てみたいものである。



 さあ、お腹も空いてきた。 夕飯にしよう。 三角駅での駅弁は叶わなかったが、ここはもうひとつの期待があった。 熊本ラーメンである。 しかし、実は先ほどの熊本駅で下車した際に駅前を見渡しても見当たらなかったのである。 その時にラーメンを食べれていたら、上熊本駅までこないでそのままホテルへ向かっていただろう。 そしてここ、上熊本駅前でも・・・。 おっと、駅舎のすぐ横に一軒あった。 『ラーメン駅一番』との看板がかかっている。 なんかチェーン店っぽいな。 しかも客は一人も入っていない。 どうする? ええい、もう遅いし、ここでいいや。 店に入ってチャーシュー麺大盛りを注文。 やってきたのは白濁したスープ、どんぶりは『すりこぎ』だ。 しかし、神は綾小路さんを見捨てなかった。 うまい! これが熊本ラーメンかどうかは分からなかったが大満足の綾小路さんであった。


 そこから綾小路さんは路面電車に乗車。 熊本城近くのホテルに向かったのである。
綾小路さんの漫遊は肥薩線漫遊(八代−隼人)に続く!


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