2004.04.30

肥薩線漫遊(八代−隼人)   路線図を表示

 いやあ、実に豪華なホテルだった。 ツアーでの熊本のホテルは宿泊した『熊本ホテルキャッスル』しかなく、他のホテルは選べなかった。 ポーターが荷物を部屋まで運んでくれ、恐縮しかり。 しかし、せっかくの豪華ホテルではあるが、綾小路さんはただ寝るだけだった。 チェックインはだいたい10時30分過ぎだったか。 そして、今朝もまだ早く、市電は運行していない。 熊本駅6時00分発の八代行き列車に乗車するため、タクシーに乗っているところである。 さあ、今日は今回の九州鉄道旅行の実質的な1日目ではあるが、いきなり最大の目的である肥薩線に乗車する。 鉄道ファンにとって憧れの路線であろう。

 まずは鹿児島本線に乗車して、肥薩線の起点駅である八代駅を目指した。 熊本駅を発車した列車は左手に分岐していく豊肥本線を尻目に、まっすぐ南に進んだ。 そしてすぐに駅構内といったところに差し掛かった。 新幹線の車両基地でも作るのか、大規模な工事をしている。 その先には高架が部分的に作られていた。 ここは昨日も通ったはずだが、気が付かなかった。 ちょっと失敗したが、朝早く暗がりでうまく写ったかどうか。
宇土駅を過ぎると、こんどは昨日乗車した三角線が右手に分岐していった。
列車はさらに進んで千丁駅を過ぎ、しばらくすると大きく右側に分岐していく線路が見えた。 その先には高架があり、熊本方面は工事中なのか宙に突き出ている。 そして、その反対側を見ると、大きな新八代駅が建っていた。 分岐した線路は新幹線から博多方面への乗継ぎの特急『リレーつばめ』が走るバイパスだったのである。 ああ、こんな光景はもう2度と見られないかもしれない。 次に来るときは新幹線も延伸して、バイパスは撤去されているのだろう。 綾小路さんは千載一遇のシャッターチャンスを逃した。

 列車は6時37分に八代駅に到着した。 急げ!肥薩線の発車まで時間は少ない。 まずは改札を通り、駅舎の撮影だ。 この時、まだ7時前だというのに高校生が駅からぞろぞろと出てきた。 同じ列車に乗車していたのだろう。(左) 駅舎を撮影後、再び改札を通りホームに出た。 ここで改札を入ったすぐ脇に、肥薩線の0キロポストが立っているのを発見した。(右) 肥薩線124.2キロの起点である。


 九州新幹線開業で駅名標はどう変わったのだろう。 たしか一昨年に撮影した駅名標の写真があったはず。 すでに北海道内ではほとんど見かけないが、まだ九州内では数多く存在する、国鉄色の駅名標である。(左:H14-12-25撮影) 看板の左側には上り方面の鹿児島本線・千丁駅、右側には下り方面の鹿児島本線・肥後高田駅と肥薩線・段駅となっていた。 それが今回の隣駅は(表裏逆ではあるが)上り方面には鹿児島本線・千丁駅までの途中に新八代駅が開業していた。(右) この駅は九州新幹線開業によって誕生した新駅である。 一方、下り方面には肥薩線の段駅のみの記載である。 八代−川内間は九州新幹線開業と引換えにJRから経営分離、第3セクター『肥薩おれんじ鉄道』に移管したのである。 そして肥後高田駅はJRの駅ではなくなったので、駅名表から削除されたようだ。



 肥薩線ホームで待っていた車両は『キハ31 16』である。 綾小路さんが北海道ではお目にできない車両のようだ。 その『キハ31 16』に乗り込んだが、ここまで大急ぎで八代駅を探索したので、少しお疲れモードにおちいっていた。 『キハ31 16』は6時48分に八代駅を発車したが、旧鹿児島本線:肥薩おれんじ鉄道との分岐点を撮影することまで頭が回らなかった。 そして、『ああしまった』と気が付いたところで目の前を鉄道橋がオーバーパスしていった。 いったん肥薩線と分岐した肥薩おれんじ鉄道が再びクロスして、こんどは本当に離れて行ったのである。


 一息つき、やはり綾小路さんは例によって列車の先頭に立って、路線風景を楽しむことにした。 もちろん下車できない駅については車内から撮影するのである。 最初の停車駅は段駅だった。 かつてはホームの端に駅舎があったらしいが現在はない。 駅に進入する際には撮影に失敗したので、発車後に最後方に移動して撮影した。 島式ホームの上に待合室が見える。(左) 反対側ホームの線路は撤去されていて、野草が生えてバラストが見えない。(右) 列車交換が行われなくなって久しいようだ。


 その次の停車駅は坂本駅である。 広くガランとした構内が見えてきた。(左) かつてはここから製紙工場への短い支線が延びていたという。 そして対抗ホームの上には古い木造の駅舎が建っている。(右) ああ、やはりここで下車する計画を立てるべきだったかと少し後悔の念を感じた。 ここの駅舎のことは知っていた。 しかしこの先の予定を考えると、ここで下車する計画は立てることが出来なかったのである。


 肥薩線の八代−人吉間は清流・球磨川に沿って線路が敷設されている。 ここまでも線路は球磨川沿いに敷設されていたが、駅は若干川沿いから離れていた。 しかしこの辺りからは駅までも球磨川沿いに設けられている。 葉木駅も列車の先頭からは撮影できず、発車後に撮影した。 駅舎は片流れの屋根を持った木造のようで珍しいものである。(左) ホームは片面で、道路を挟んですぐ脇に球磨川が見える。(右)



 『キハ31 16』は八代駅を発車していらい、球磨川の右岸沿いをゆっくりと上っている。 球磨川は日本三大急流のひとつらしいが、流れはゆったりとしている。 急流となるのはまだまだ上流の事のようだ。



 続く鎌瀬駅も列車の後方からの撮影となった。 片面ホームに雨避けの上屋のみの駅のようだ。 駅は土地の少ない場所に設けられたのか、民家がすぐ脇に迫っている。


 そして『キハ31 16』は7時15分頃に瀬戸石駅に停車した。 ここで発車までは14分間もの時間があった。 当然、列車交換だろうと思っていた。 しかし『キハ31 16』が到着した時、上り列車はすでに島式ホームの反対側で待っていたのである。 綾小路さんが『キハ31 16』を降りて撮影しだすと、上り列車はすぐに発車していった。 なんでまたこれから14分間も停車するのかと思ったら、発車時刻前にもう1本の上り特急列車が通過して行ったのである。 話は戻るが、ここの駅舎は水害で2度も流されたらしく、駅前には駅名標を利用した駅看板が立っているだけであった。(左) しかし、水害に遭わなかったのか、島式ホーム上には古そうな待合室が建っていた。(右)



 7時29分、上り特急が通過した後に『キハ31 16』は瀬戸石駅を発車した。 そして海路駅の次に吉尾駅に停車した。 片面ホームに上屋のみの駅だった。 ここから吉尾温泉まで近いらしいが、ここで下車する訳にはいかない。



 『キハ31 16』は鎌瀬駅を過ぎたあたりで鉄橋を渡っていた。 すでに球磨川の左岸沿いを進んでいる。


 そして『キハ31 16』は7時43分に白石駅に停車した。 綾小路さんはここで下車した。
国鉄、JRの流れでは駅名は同一の名称を用いないようにしているという。 混同を避けるためであろう。 たとえば根室本線の十勝清水駅は開業した明治40年には清水駅と名乗っていた。 しかし東海道本線沿線の清水町、江尻町など4町2村が大正13年に合併して清水市が成立した。 昭和9年に江尻駅が清水駅に改称する際に、関係者が北海道まで出向き協議の末に、根室本線の清水駅は十勝清水駅と改称されたのである。 (私鉄の駅名は別の話である。 名鉄の瀬戸線には清水駅があり、廃止された片上鉄道にも清水駅があったという。) ところが『白石駅』は全国のJRに3駅もある。 ひとつは綾小路さん御用達の函館本線の白石駅で開業は明治36年。 もうひとつは東北本線の白石駅、こちらは明治20年に開業したという。 そして開業当時は鹿児島本線だった当駅、現在は肥薩線の白石駅である。 開業年度は分からないが、八代−人吉間が開通したのが明治41年だからその少し前であろう。 これは函館本線は北海道炭礦鉄道、東北本線は日本鉄道、鹿児島本線は国鉄(前身の鉄道作業局)と別々の会社によって建設が進められたからだと思われる。 鉄道の国有化の法案が可決されたのが明治39年で、国鉄誕生はその後の事である。 各地の白石駅は他の会社の駅名を気遣うことなく命名され、その後に各々国有化されたのであろう。
 その白石駅であるが古い木造駅舎が建っている。(左) 建物財産標がなかったので建設年度は分からないが、ひょっとして開業時以来の駅舎だろうか。 さすがに坂本駅とてんびんに掛け、こちらを選んだかいはあった。 ここまでの駅と同じく、狭い道路の反対側は崖で、その下は球磨川。 斜め前からしか撮影不可能だったのは少し残念だったが・・・。 ホームは相対式で列車交換も可能、中間にも通過線があり、かつての栄華がしのばれる。(右)


 ここで8時09分発の上り列車に乗車し、いったん八代方面に戻ることにした。 ふた駅乗車して、海路駅で下車した。 お隣の吉尾駅と同じく、片面ホームに上屋のみの駅である。(左) 道路を挟んだ向こう側にはすぐ球磨川が流れている。(右) その道路と球磨川の間には堤防さえない。 球磨川の氾濫で何度も水没したことだろう。 さすがにこの駅は安泰だろうが・・・。



 8時29分発の下り列車で再び歩を進めた。 この付近ではときおりトンネルを通過するが、入口部は赤レンガ積みで造られていて、重厚なものが多い。 どうやら明治時代の開業当時のものらしい。



 さきほどの白石駅を過ぎると、次の駅は球泉洞駅である。 片面ホームに待合室があるようだ。 そして大きな上屋も見える。 駅名となった鍾乳洞の『球泉洞』は奥行きが2000m、全国でも有数のスケールを誇ると言う。 これは昭和48年に愛媛大学の洞穴探検隊が発見したらしい。 おお、綾小路さんの先輩たちではないか。 駅からは長い吊橋で球磨川の対岸に渡り、さらにリフトに乗って入口に到着するらしい。



 次の一勝地駅は元は2面3線のホームだったようだが駅舎に相対するホームの線路は撤去されている。 しかし島式ホームの反対側の奥には列車が入ってきているのが写っている。 ははは、見えないか。 ここは『一勝』と縁起がよく、入場券がよく売れているとか。 入場券なんかはどうでもいいが、立派な駅舎は下車して撮影したかった。


 列車は次に那良口駅に停車しようとしていた。 片面のホームが見えてきたが、線路の反対側が何故か広くなっている。(左) 元貨物駅だという話もあり、ホームがあったかどうかは分からないが、少なくとも線路はもう一線敷かれていたようである。 コンクリートの待合室が建っていて、その向こうには小さいながらも駅前広場があるようだ。(右)


 列車は再び鉄橋を渡って、球磨川の右岸に出た。 そしてすぐに渡駅に停車した。 そうか、この『渡』は球磨川を渡る意味だったのだ。 この辺りになると球磨川の流れも急になり、筏による球磨川下りも体験できるようだ。 残念ながら車窓から急流を感じることは出来なかった。 線路をずっと見ていたからか、それとも今日は流れが穏やかだったのか。 ここらで一枚、球磨川の写真がほしかったか。 そうすると、さきほどの写真も生きてきたのに。 どこか抜けている綾小路さんであった。
 そして綾小路さんはここで2度目の途中下車をした。 木造モルタル造りの駅舎は現在は『球磨村商工会』として利用されている。(左) 見えている入口も商工会専用のものであり、そのため駅舎の右側に待合室部分が増設されている。 ホームは島式ホームで列車交換が可能である。(右) しかし駅舎の脇にもう一線、島式ホームの奥にも何線かの線路が撤去されたようだった。



 渡駅からは9時45分発の人吉行き特急『くまがわ1号』に乗車した。 ここから人吉駅までの途中駅は西人吉駅だけである。 その西人吉駅が見えてきた。 片面ホームに上屋のみの駅のようだ。 ここは特急は通過するため、速度は少ししか落ちない。 あっと言う間に通過したが、なんとか雰囲気が分かる写真は撮れた。(かな?) とりあえず、八代−人吉間の全駅を撮影できた。 間もなく、『くまがわ1号』は人吉駅に到着する。 しかし、肥薩線のわかば・・・もといハイライトは次の人吉−吉松間の矢岳越えに尽きる。 高鳴る胸の鼓動! す、好きです! ってそれは違うだろ。


 『くまがわ1号』は9時52分に人吉駅に到着した。 駅舎はコンクリート造りの立派なものである。(左) 駅前には人吉城をイメージしたモニュメントが見える。 これが何と『からくり時計』となっているのを後で知った。 しかもこの時間の動作時刻には10時ちょうどがあった。 ああ、あと少し待っていれば! しかし吉松行き列車は10時10分発だった。 そんな時間はなかった。 これを逃せば次の列車は13時00分発でそれどころではなかったのである。 本当はここで人吉城址の見学、人吉温泉で一泊、球磨焼酎を浴びるほど飲む・・・。 恐らくは次回もそんな行程は取れないだろう。 しかし推定5〜7年後の3回目ぐらいにはゆっくりしたいと思う。
 人吉駅は難所、矢岳越えに備える鉄道の要衝でもあった。 駅構内は広く、八代方面には石造りの大きな車庫も見える。(右) そして反対側には・・・、第3セクターに転換された『くま川鉄道』が分岐するではないか。 ああ、これに乗車することも考えると、人吉でゆっくりするのは早くても10年後になりそうだ。



 さて、人吉駅のホームに入線してきたのは観光列車『いさぶろう・しんぺい』だった。(写真は大畑駅にて撮影したもの) 雑誌に何度も登場していたが、今日まで綾小路さんは『いさぶろう』と『しんぺい』の2編成で運行しているものと思っていた。 しかし、この写真では分かりづらいがヘッドマークには『いさぶろう・しんぺい』と記されていた。 同一の編成で下り吉松行き編成が『いさぶろう』で、上り人吉行き編成が『しんぺい』となるのだった。 ほー、知らなかった。
 鹿児島、宮崎と熊本以北を結ぶ肥薩線の人吉−吉松間は天下の難所だったという。 明治期に、国家の威信をかけて、鉄道技術の粋を集めた難工事が行われたのである。 当時の工事責任者であった逓信大臣『山縣伊三郎』と鉄道院総裁『後藤新平』の名前をとり、鉄道の歴史と誇りを体感する観光列車が『いさぶろう・しんぺい』と名付けられたとのことである。


 『いさぶろう』は定刻の10時10分に人吉駅を発車した。 さあ、これからが肥薩線のしんせい・・・もといハイライトの矢岳越えである。 いっときも車窓から目を離すものか・・・ いや、その前に腹ごしらえをしなくては。 実は人吉駅で下車した時に駅前で駅弁を購入していた。 ホームではいまだ立売が行われていると言う情報もあったが、見当たらなかった。 短い乗換時間で気が付かなかったのかもしれない。 そして購入したのは人吉駅の名物駅弁『鮎ずし』¥890である。 酢でしめた球磨川産の鮎が丸々一匹、寿司として使われている。 おお、うまい! しょうゆがたっぷり付いているのもうれしい。 他にもうひとつ、栗めしも人気駅弁だとか。


 やはり駅弁を食べている場合ではなかったか。 車内では人吉−吉松間には21本のトンネルがあるとか、最大30パーミル(1パーミルは1/1000)の勾配を、スイッチバックとループで克服したとかの放送が流れていた。 何か車窓の印象がないままに、『いさぶろう』は長いトンネルに入っていった。 横平トンネルだろう。 実はこのトンネルの途中ですでにループ線に差し掛かっていた。 トンネルの上でループしてきた線路が交差しているのである。 そしてトンネルを抜けると『いさぶろう』は間もなく大畑駅に到着するはずである。 ここで大畑駅のループ線とスイッチバック線を見てもらおう。 人吉方面からやって来た列車はトンネル内でループ線に入り、スイッチバックの引込み線に入って大畑駅に到着する。 吉松方面に向かう列車はそこで進行方向を変え、今度はスイッチバックの加速線に進入する。 この加速線は上り勾配である。 加速線の終点にくると列車は再度、進行方向を変え、上ってきた坂を下るのである。 そして大畑駅へのスイッチバックには向かわず、そのままループ線に入って行く。 ここからは上り勾配になり、ループしながら高度を稼ぐことになる。 このように大畑駅は日本で唯一のスイッチバックとループの混在する駅なのである。



 いよいよ『いさぶろう』は横平トンネルを抜け出た。 ここで左側にスイッチバック加速線への入口が見えた。(@) ついでループ線からスイッチバックの引込線に進入、大畑駅に到着した。 ここでは2分間ぐらいの停車時間があった。 乗客はいっせいに『いさぶろう』を降りて、駅舎や車両を撮影しだした。 綾小路さんはこの後、『しんぺい』にて大畑駅に再度やってくる予定なのでゆったりしたものであった。 しかしせっかくなのでこの時間を利用し、先ほど紹介した『いさぶろう・しんぺい』の車両を撮影したのだった。


 大畑駅で『いさぶろう』は進行方向を変え、バックしながら発車した。 ループ線との交差部を一旦通過し、スイッチバックの加速線を上り始めると、こんどは人吉方面へ向かう線路が左手に見えた。(左A) 加速線の上り勾配は思ったよりきつい。 よく考えるとあたりまえか。 坂を上りきると今度は下り勾配を利用して、勢いをつけてループの上り勾配に向かうわけである。 『いさぶろう』はしばらく加速線を上り、やがて停車した。 スイッチバックの最奥まで来たのだった。(右B)


 そして『いさぶろう』は再度、進行方向を変えて加速線を下りだした。 『いさぶろう』には2名の運転手が列車の前後に乗車していて、列車の進行方向を変える際の車内の移動は必要としなかった。 さすがに観光列車、いい手際だ。 さて、坂を下りきったところですでにスイッチバックの加速線からループ線へと進入していた。 この後に再度、大畑駅から『いさぶろう』にて発車した際に撮影した写真では、ループ線に入った線路と大畑駅へのスイッチバック線、それに大畑駅のホームが見える。(左C) この時、綾小路さんは列車の最後方から、ループ線とスイッチバック線の交差部を眺めていた。 左側には人吉方面への線路、右側にはスイッチバックの加速線が見える。(右D:『しんぺい』から大畑駅に到着時に撮影)



 ループに入ってしばらく進むと『いさぶろう』は速度を落とし、やがて停車した。 車内放送が入り、右手を見てくれという。 木々の間から人吉盆地が見えた。(E) さすがに観光列車、2両編成の前側の車両、後ろ側の車両の双方から眺望できるように2箇所で停車した。 おお、やるなあ、JR九州。 いいサービスだ。


 再び進行を始めた『いさぶろう』はしばらく進んで、再度停車した。 今度は左手を見てくれという。 この車窓の先に先ほどの大畑駅のループとスイッチバックの線路が見えると言う。(左F) うーん、確かに雄大な景色ではあるが肉眼では見えないなあ。 よーし、ズームを全開にするか。 おお、見えた。 さらにデジタルズームを最望遠側に設定して撮影。(右) おお、バッチリ。 かつてはその先に大畑駅も見えたそうだが、残念ながら成長した檜に隠され、現在は見えないという。


 ループ線を後にした『いさぶろう』は尚も上り勾配を進んだ。 トンネルを何ヶ所も通過しながら山間部を進み、峠の頂上に位置する矢岳駅に到着した。 矢岳駅では8分間の停車時間があり、駅の敷地内に建つSL展示館内に保存されているSL見学もできる。 かつて肥薩線を走っていた『D51 170』である。 しかし綾小路さんはそれには目もくれない。 あくまで駅の探索を行う。 実は矢岳駅には都合3回やってくる予定なので、ひとつひとつ片付ければよかったのである。 SL館に向かう乗客を尻目に、綾小路さんは駅舎の正面に立った。 そこには古い趣のある木造の駅舎が建っていた。(左) ホームは片面であるが、線路の脇にはかなり広いスペースが横たわっている。(右) かつて峠を上ってきたSLが一息ついていたのだろうか。


 ホームの端には『矢岳駅標高五三六.九米』の標識も立っている。(左) 大畑駅との標高差はなんでも240mだそうである。 駅間の距離は9.5キロ、単純に平均しても25パーミルを越す急勾配である。 また、駅舎の反対側には引込線があり、SLのすすを洗ったのだろうか、水場の跡も見られた。(右)


 矢岳駅を発車した『いさぶろう』はすぐに、ひとつのトンネルを通過することになる。 トンネルの名前は『矢岳第1トンネル』という。 これは長さ2096mもあり、工事は難工事だったという。 この山岳地にして、建設は明治時代である。 トンネル入口上部の題字は山縣伊三郎が書いたものとか。 『天険若夷』と記されている。(左) 例によってゆっくり走ってくれるので撮影できた。 出口上部には後藤新平の『引重致遠』の題字が記されていた。(右) 意味は・・・、放送をよく聞いていなかったので分からなかった・・・。



 矢岳第1トンネルを抜けると『いさぶろう』はまたも停車した。 左手に霧島連山とえびの盆地が広がって見える。 霧島連山は標高1700mの韓国岳をはじめ約20の峰からなっているらしい。 この眺望こそが日本三大車窓のひとつで、まさに絶景! 今日は霞んで見えなかったがよく晴れた日には桜島も見えるとか。



 日本三大車窓を堪能して夢うつつでいると、『いさぶろう』はまさに真幸駅に到着しようとしていた。 坂を下る途中で左手の下方に真幸駅が見えた。 しかしそこから尚も下りながらスイッチバックの加速線に入って、バックで真幸駅に進入するのである。 『いさぶろう』は加速線の奥の手前で停車した。 どうやら最奥はカーブの向こう側で、そこが見える位置までは行ってくれないようだ。 うーん、もう少し進んでほしかった。 代わりに吉松方面への線路は左手の下方に見えた。


 そこから進行方向を変え、『いさぶろう』は11時10分前に真幸駅に到着した。 ここでも3分間ほどの停車時間があった。 乗客はこぞって下車し、こんどはホームにある『幸せの鐘』を鳴らしだした。 さあ、綾小路さんはここで下車だ。 結局、ここで下車したのは綾小路さん1人だけだった。 他の乗客は『いさぶろう』に乗込み、吉松駅に向けて去っていったのである。 シンと静まり返った山間部の駅を綾小路さんは探索しはじめた。 ここにも古い木造の駅舎が残されている。 駅舎正面の平坦部は狭く、10mほどいくと崖になっている。 その崖の斜面に片足を掛けながら、正面からなんとかフレームいっぱいに収めることができた。(左) いや庇の端は欠けてしまったか。 列車交換も可能な島式ホーム上には『幸せの鐘』なるものが設置されている。(右) まあこれも観光だ。 せっかくなので綾小路さんも一回だけ鐘を鳴らした。


 『幸せの鐘』の脇に写っていた駅名標をまじまじと見る。(左:方向は鐘の写真と逆) 確かに方向は合っているかもしれない。 しかしそのまま矢岳駅の方向に進んでもホームの端は行き止まりである。 ここから一旦、吉松方面に進んでスイッチバックの加速線に入り、方向を変えて矢岳駅に向かうのである。 これは駅名標の左側に吉松と矢岳を並べるのが正解だと思うがいかが? その矢岳方面のホームの端には山津波記念石が置かれている。(右) 山津波で巨大な石塊が運ばれてきたらしい。 そしてその奥は擁壁で覆われていて、線路はその前で行き止まりとなっている。 駅名標の通りには行けないのである。 ちなみに左端の山腹に矢岳方面への線路が敷設されている。


 『いさぶろう』が吉松駅に向けて発車してから40分余り経った。 吉松駅で折返し、今度は『しんぺい』となった編成がやってきた。 綾小路さんはこれに乗車して大畑駅まで戻る計画を立てていた。 折角の肥薩線乗車である。 この区間の路線を出来るだけ満喫したかったのである。 どうせここで待っていても次の『いさぶろう』はまだ2時間以上も来ない。 大畑駅まで戻り、そこで乗車するのが正解なのである。 それがいやならこの真幸駅での下車も成り立たないのであった。 ここから大畑駅に戻るのにもうひとつ利点があった。 吉松側からの矢岳越えが体験できることだ。 そら確かに真幸駅のスイッチバックは先ほど体験した。 しかしスイッチバックは本来、坂の上り用に設計されたものである。 それを体験せずしてスイッチバックを体験したとは言えないだろう。

 11時55分に『しんぺい』は真幸駅を発車した。 駅への引込線からスイッチバックの分岐点に差し掛かった。(左) 左奥は吉松方面で、右奥がスイッチバックの加速線となる。 そして右手前が人吉方面への線路となるのである。 『しんぺい』はここから上り勾配のスイッチバック加速線に進入した。 やはりここでもカーブの手前で停車し、最奥を眺めることはできなかった。 ここで進行方向を変え、今度は加速線を勢いをつけて下りだした。 ここでももちろんふたりの運転手のスムーズな運行が見られた。 スイッチバックの分岐点に来ると、『しんぺい』は吉松方面の線路に進路を取った。(右) ここから上り勾配になっているのが分かるだろうか。 右奥が真幸駅で右手前が吉松方面である。



 上り勾配に差し掛かると右手下方に真幸駅の全容が見えた。 この光景が見られただけでも『しんぺい』に乗車した甲斐があったというものである。 それにしても僅かな距離を走っただけで、もうこれだけ上っている訳である。



 『しんぺい』は12時10分頃に矢岳駅に到着した。 ここで綾小路さんはSLを見に行く事にした。 展示館には2両を展示するスペースがあったが、保存されているのは『D51 170』一機であった。 かつて肥薩線のこの区間で活躍したものだという。 黒い車体に緑のエンブレムが印象的である。 北海道に保存されているものはほとんど着色されていなく、中には赤のものをたまに見かけることがある。 運転台の横には人吉機関区の所属だったのか『人』のエンブレムも貼ってあった。 この隣にも以前はもう一機保存されていたという。 現在、豊肥本線で『SLあそBOY』の機関車として使われている『ハチロク』がここで眠っていたらしい。


 12時18分に矢岳駅を発車した『しんぺい』はこんどはループ線を下って、スイッチバックした。 そして12時35分頃に大畑駅に到着した。 予定通り、綾小路さんはここで下車した。 大畑駅で2分間ほど停車した『しんぺい』は人吉駅に向けて発車していき、あたりには静寂がただよった。 実はここにも古い木造駅舎が残っているのである。 大畑、矢岳、真幸と3駅連続して木造駅舎が残っている区間なんてめったにあるものではない。 先ほどの真幸駅と同じく駅正面の平坦部は狭い。 真幸駅は崖上だったが、今度は崖下だった。 しかたない、正面からの写真はあきらめ、斜めからのアングルだけとなった。(左) ホームは真幸駅と同じく島式ホームで列車交換も可能である。 しかし現在、人吉−吉松間は1日に4往復、同時にこの間を走るダイアは組まれていない。 そのホームの奥には歴史を感じさせる水場が残っている。(右) 矢岳駅にも下部のみが残っていたものである。 しかしここは完全なものが残っていた。 おお、水が流れているのは初めてみた。 しばらく枯れていたらしいが、周辺の水源を整備したところ復活したらしい。



 そして話は前後するが、大畑駅のホームに立って真っ先に目に付いたのが給水塔の下部であった。 石造りの給水塔の下部には扉がなく、なんと中に入ることができたのである。 この中に入るのはおろか見たこともなく、いい経験となった。 石積みの上部には鉄骨が残されていて、その上部にタンクが乗っていたのだろう。 遠いSLが走っていた時代のことである。


 13時21分、人吉駅で折返して、再び『いさぶろう』となった編成に乗車して大畑駅を後にした。 綾小路さんは先ほどの往復で撮りきれていない部分を埋めようとは努めた。 まあ、しかしもうおまけみたいなものであった。 すっかりこの山岳路線の醍醐味に満足して満ち足りていた。 それにしても、この観光列車『いさぶろう・しんぺい』はよかった。 綾小路さんは時間的制約などで、普段はイベント列車には乗車しないないが、こんなサービスをすれば乗客が集まるのではないだろうか。 北海道のSLやトロッコ列車にも乗ってみたくなった。

 かくして人吉駅を出発してから35キロ、4時間余りをかけて吉松駅に到着した。 駅舎はコンクリート造り。(左) 吉都線の分岐駅でもあり、かつては機関区があったという。 今回は乗り換え時間が4分間しかなく、跨線橋から人吉方面を伺ったもので駅構内が広いことがわかるだろうか。(右) 島式ホームが2面で線路が4線敷かれているのは分かる。 実は1年半前にここまで来た事があったが、当時は駅構内の写真はほとんど撮ってなかったのである。 そして今回は時間がなく、印象に残すことはできなかった。 余談であるが、写真右端には駅に隣接した公園に保存されているC55の一部が写っている。 これもその当時はほとんど興味を持たず、撮影はしていない。 ここの機関区にはかつては転車台もあったが、『SLあそBOY』の運転に伴い、豊肥本線の宮地駅に移設されたらしい。 何?豊肥本線はSLだけならまだしも、転車台まで肥薩線からもっていったのか。 沸々と湧き起こる怒り! よーし、それなら見に行ってやる。 明日行くぞ! ここで綾小路さんは今後の予定を変更することにした。 えーと、明日の予定は何だったかな。 ありゃ、元々豊肥本線の予定だった。


 肥薩線は九州鉄道の門司(現門司港)−八代間に続き、八代−鹿児島間を結ぶ事を目的に、国鉄の前身の鉄道作業局によって鹿児島線として建設が進められた。 当時は軍事上、海沿いに鉄道を通すことを嫌い、この山岳ルートで敷設が決定されたそうである。 明治34(1901)年6月の鹿児島−国分(現隼人)間の開通に続いて、現肥薩線のルートは順次延伸していった。 明治36(1903)年1月に横川駅(現大隅横川)、9月には吉松駅までが開通した。 一方、工事は八代側からも進められたが難関に阻まれ、明治41(1908)年6月に人吉駅までが開通した。 そして明治42(1909)年11月にようやく吉松駅まで開通した。 この頃には門司−八代間も国有化されていて、これにより門司−八代−隼人−鹿児島間が全通した。 その後、大正時代に入って海沿いの八代−川内−鹿児島間の工事が進められ、昭和2(1927)年10月に全通した。 この時、この海岸ルートが正式に鹿児島本線に編入され、吉松駅を経由する山岳ルートは肥薩線と改称された。

 14時26分、隼人行き列車に乗車して吉松駅を後にした。 肥薩線のエコー・・・もといハイライトは人吉−吉松間の矢岳越えではあるが、まだまだ肥薩線の漫遊は続く。 ここから隼人までは1年半前に乗車していた。 ということは綾小路さんはすでに肥薩線の完乗を果たしていたことになる。 まず、列車は隣の栗野駅に停車した。 停車ホームは島式ホームで駅舎の反対側であった。 ちと遠いがここから駅舎を撮影するか。 と、おもむろにカメラを構えようとすると、なんと隼人方面からの交換列車がやってきて、駅舎は列車に隠れてしまったのである。 この瞬間に肥薩線の全駅舎を撮影するという、綾小路さんの野望はあっけなくついえてしまったのであった。 まあ、仕方ないか。 また来て、ちゃんと下車して撮影しろとの神の啓示と考えることにした。 栗野駅はまた、廃止された山野線の分岐駅であった。 水俣までのこの路線も山岳路線だったようで、ループ線もあったらしい。

 列車は14時44分に大隈横川駅に停車した。 目的の駅舎がここにあったので、綾小路さんは下車した。 百年を経た木造の駅舎、明治36年1月15日の鹿児島線開業時(当時)以来の駅舎だという。(左) 建物財産標にも確かに『明治36.1』と記されていた。 大柄な、堂々とした駅舎は2階建てと錯覚するほど屋根が高い。 ホームは元、2面3線で島式ホームの片側の線路は撤去されていた。(右) 肥薩線のかつての栄光が思われる光景である。


 綾小路さんは15時13分に大隅横川駅を発車する列車に乗車した。 これは『はやとの風』という特急である。 肥薩線にはこれまで特急列車は走っていなく、この特急の登場に地元の盛り上がりもかなりのもの。 乗車したのが特急だったために、次の植村駅はまたしても撮影できず。 しかし、次の霧島温泉駅では列車交換のため、3分間ほど停車した。 コンクリートの駅舎で、昨年の3月に『霧島西口』から改称した駅である。(左) ホームは島式であるが、かつては駅舎のすぐ脇にも線路が敷かれていたようだ。(右) 停車しているのが『はやとの風』である。 黒酢、黒豚、黒砂糖等、薩摩の『よかもん』は黒に彩られているものが多く、この車両も漆黒のボディにカラーリングされているという。


 霧島温泉駅を発車して、次に停車したのは嘉例川駅だった。 ここにも開業以来の木造駅舎が残っているので、綾小路さんはここで下車した。 大隅横川駅と同形の駅舎で見事としか言いようがない。(左) 特急停車駅であるのに無人駅というのも同じである。 まるでこの立派な駅舎を見てくださいといっているような・・・。 こちらは駅舎やホームの花壇などを地元の人が手入れしているそうである。 そのホームは元は相対式であったらしいが、駅舎に相対するホームの線路は撤去され列車交換は出来ない。(右)


 嘉例川駅からは16時11分発の列車に乗車し、隣の中福良駅で下車した。 片面ホームに上屋のみの駅で、典型的な山間部のローカル駅といった雰囲気が漂っている。


 中福良駅から隣の表木山駅までは徒歩で移動することにしていた。 この区間は1年半前に乗車していたので、今回どうしても乗車しなければいけない必要性はなかった。 この間は2.4キロ、山間部なのでアップダウンがあり、思ったよりきつい行程となった。 表木山駅が近づくにつれて轟音が聞こえだしてきた。 この寒村にである。 なんだろうと思ったら、鹿児島空港がすぐ近くなのである。 綾小路さんはてっきり鹿児島空港は鹿児島市近辺だと思っていた。 しかしよく考えたら空港が市街地にあることのほうが少ないか。
 轟音が近くなってきたなと思ったら表木山駅に到着した。 小さな待合室があるが、空港もよりの駅という雰囲気はまったくない。(左) 確かに距離的には一番近いのだろうが、バスの接続などはなさそうだ。 ホームは相対式で列車交換も可能である。(右) 実際にここを発車するときに交換風景も見られた。



 ここから17時10分発の列車に乗車して肥薩線終点の隼人駅を目指した。 今回の肥薩線漫遊で乗車する最後の列車だった。 ここから途中駅はひとつ。 その日当山駅が見えてきた。 片面ホームに大きな上屋が見えた。


 17時20分に終点の隼人駅に到着した。 駅舎は隼人の名産という竹で覆われていて、壁が見えないがおそらくコンクリート造りだろう。(左) 構内は広く、肥薩線の分岐駅であれば転車台があったはずだが見当たらず、それらしき痕跡も発見出来なかった。(右) それにしても肥薩線はループ&スイッチバック、山岳地帯に渓流沿い、明治の駅舎など見所いっぱいの路線だった。 また何回でも乗車したいものである。


 さて、ここから熊本のホテルまで戻らねばならない。 日豊本線で鹿児島中央駅まで行き、今年の3月に部分開業なった、鹿児島新幹線の鹿児島中央−新八代間に乗車する予定である。 綾小路さんはなにも開業したての新幹線に乗車したかった訳ではない。 隼人から八代まで肥薩線で戻りたいとさえ思っている。 しかし吉松−人吉間の列車がなく、止むなく鹿児島回りで帰らざるを得ないのである。 各駅停車と肥薩おれんじ鉄道でもよかったが、時間がかかりすぎる。 その計画を実行するとホテルの到着は深夜の12時頃になる。
 17時57分発の鹿児島中央行きの列車はあいにく、混雑していた。 それでも竜ヶ水駅をすぎたあたりで混雑も一段落し、気が付けば錦江湾(鹿児島湾)の向こう側に雄大な桜島が見えた。 噴煙が上がっているのが少し分かりづらいか。


 18時33分に鹿児島中央駅に到着した。 元は西鹿児島駅と名乗っていたが、新幹線の開業時に改称したばかりである。 ここには元々、三角屋根の木造駅舎があったが、新幹線対応のため取り壊されたという。 変わりに建てられたのが近代的な橋上駅舎である。(左) そして思いもかけず、九州新幹線『つばめ』に乗車することになった。 まだ開業して2ヶ月も経っていない。 初めて間近にした車体は今まで見たことのない斬新なデザインである。(右)


 『つばめ62号』は19時14分に鹿児島中央駅を発車した。 車内は思ったほど混雑・・・というより空いていた。 今日が平日だからだろうか。 今回の九州漫遊の最大の目的である肥薩線乗車もわざわざ平日を選んで乗車したのでそれほど混雑せずに正解だっただろう。 さて、外はすでに暗く、車窓風景は楽しめない。 ではという訳でもないが駅弁を楽しもう。 西鹿児島駅名物・・・おっと、鹿児島中央駅に改称したのだった。 その名物駅弁の『とんこつ弁当』¥900を購入していた。 『とんこつ』なんてラーメンのスープの素としてしかなじみがなかったが、これがうまい。 そしてこれまた鹿児島名物の『さつま揚げ』も揚げたてを手にしていた。 さらに忘れてならないのが、鹿児島本格焼酎の『さつま小鶴』だった。 さあ、宴会だ!


 こうして宴は新八代駅まで続き、そこからは『リレーつばめ』に乗換えて熊本駅まで戻ったのである。 さあ、まだまだ九州の漫遊は始まったばかり。 綾小路さんの漫遊は豊肥本線漫遊(熊本−大分)に続く!


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