2004.05.02

九大本線漫遊(久留米−大分)   路線図を表示

 鹿児島本線と日豊本線を九州の縦軸の柱とすると、横断する路線が3本あるそうだ。 1本目は一昨日乗車した肥薩線。 2本目が昨日乗車した豊肥本線である。 そして、最後に残った久大本線でこれから九州を横断する訳である。 九州を横断して、また戻ることの繰りかえし。 よーく考えると、なんと無駄なことをしているような気もしてきた。 いや、無駄ではない! これこそ『漫遊』そのものではないだろうか。 ちょっと寄道(日豊本線漫遊)して、出遅れた感もあるが久留米めざして出発。



 10時01分に日豊本線の漫遊を終えた綾小路さんは、いったん改札を出て駅弁を購入した。 そして久大本線のホームに向かうと、すでに10時19分発の列車は入線していた。 車両はキハ125形で、車体には派手に『YELLOW DIESEL CAR』とペイントされている。 綾小路さんは何故かこの車両を見ると、ある歌を思い出す。 『We all live in a Yellow Submarine,Yellow Submarine,Yellow Submarine』。 ビートルズの『イエローサブマリン』である。 間違っても、金沢明子の『イエローサブマリン音頭』ではないことを付け加えておく。 しかし、口ずさむ歌詞は違い、『We all get on a Yellow Diesel Car,Yellow Diesel Car,Yellow Diesel Car・・・』。


 発車してすぐ、車窓右手に転車台が見えた。(左) ホームからは見えなかったが、広大な駅の南端にあったのだ。 実は日豊本線の帰りに発見していたのである。 そうでないと走り出した車内から、こんなどんぴしゃでは撮影できない。 そして構内から離れると、すぐに日豊本線&豊肥本線から分岐して行った。(右) あれっ、この右手に写っているのは高架の工事かな?


 まだ10時半前だったが、お腹がすいてきた。 いや早くない! 何しろ今日も6時前に起きている。 これを普段起きている8時過ぎ(遅くてすんまへん)に換算すると、なんともう午後1時に近いではないか。 いやー、昼休みが過ぎてしまう。 早く昼食を取らねば! 乗車した車両はロングシートだったが、他の乗客もまばらで駅弁も食べづらくない雰囲気だった。 よーし、ここで先ほど、わざわざ改札を出てまで入手した駅弁をとりだした。 そういえば、大分まで来て関サバ、関アジを食べてなかった。 その代わりでもないが『鯵の桜寿司』¥1050。 アジを薄く切った蓮根で巻いた寿司である。 醤油が2個付いているのはうれしい。 悪くはないが少し酢がきつく、アジの味が消されていたような気が・・・。 それとも醤油をつけすぎだったか?


 『キハ125』は駅弁を開いたところで、最初の中間駅である古国府駅に停車した。(左) 片面ホームは鋼材にコンクリートパネルを置いたもののようだ。 比較的新しい駅だろう。 無人駅かと思いきや、後で写真をよくみるとホーム奥には駅員らしき人が写っている。 ちょっとこのサイズではわからないか。 次に停車したのは南大分駅だった。(右) プレハブのような駅舎に、ホームは相対式だが、跨線橋はなく線路横断である。


 その次の駅は賀来駅。(左) よく見ていなかったが、片面ホームに上屋が写っている。 券売機が見えるので、駅舎はないのかもしれない。 発車後、『キハ125』が徐々に上り坂にかかったのを実感した。 そして駅弁を食べ終えたところで、キハ125は豊後国分駅に停車した。(右) ここで列車交換のため3分間ほど停車した。 下車して何枚か撮影したものの、列車内から撮影した1枚がこの駅をよく表している。 相対式ホームの片側に切符売り場、しかし切符売り場は閉鎖されてるのか、前面には券売機が置かれている。


 『キハ125』は10時42分に、終点の向之原駅に到着した。 向かって左側の駅舎や待合室部分と、右側のトイレの部分が一体になっているが、2重の屋根は分かれている。(左) 相対式ホームに停車している車両は乗車してきた『キハ125』で、折返しの大分行きとなる。(右)


 11時07分に大分発、由布院行きの列車がやってきた。 大分からこの列車に乗車していれば、由布院までノンストップで行けた訳だが、そこは駅舎マニアの綾小路さん。 1足先に出発し、向之原駅を撮影した訳であった。 向之原駅を発車したあたりから上り坂が顕著になり、まず鬼瀬駅に停車した。(左) 片面ホームに上屋のみのローカル駅である。 線路はかなりの上り勾配に見える。 この辺りの線路は大分川に沿った、渓谷沿いを通過している。 山の斜面を掘削して、線路や駅が敷設されたようだ。 次の小野屋駅には古い駅舎が建っていた。(右) ここも撮影したかったが、日豊本線を漫遊したツケがここにきた感じだ。 あと5年、いや3年でもいい、残ってほしい。 その時までにぜひ一度、撮影したい駅舎である。


 その次に列車は天神山駅に停車した。(左) 片面ホーム上に待合室が建っていた。 ここは山裾を削って線路が通され、駅ができたようだ。 天神山駅を過ぎると辺りは開けて山奥に向う風情が漂った。(右)


 列車は終点の由布院を目指して、尚も上って行った。 次の庄内駅は新しい駅舎だった。(左) 実は2003年10月に発行の『九州鉄道の旅』という本をこの漫遊前に買っていた。 そこには実に趣のある木造駅舎が掲載されている。 『おお、すばらしい、ぜひ』と思ったのもつかの間。 この駅舎がすでに建替えられたという情報を知った時、がっかりしたものだった。 その次の湯平駅は『JA』との合築駅舎のようだった。(右) 雪国でもないのになんという急角度の屋根だろう。 よく瓦が落ちないものだ。


 終点の由布院まで残りひと駅、列車は南由布駅に停車した。 ここで列車交換のため、4分間ほど停車するようだった。 そこで相対式ホーム間の線路を横断して改札をでた。 うーん、駅舎というよりは待合室だろう。(左) 看板には『南由布ふれあい館』と書かれていた。 急いでホームに戻り、列車に乗車しようとした時、すばらしい光景が目の前に広がっている事に気が付いた。 由布院へと向かう線路の先に、標高1584mの由布岳が鎮座していた。(右)


 由布岳の手前で線路は180度方向を変え、さらに峠に向かって上っていく事になる。 いわゆるΩカーブである。 そのΩカーブの頂点に位置するのが由布院駅だった。 11時51分に列車は90度方向を変えたところで由布院駅に到着した。 久大本線では由布院−日田間の列車運行本数が少ない。 各駅停車に限ると10時01分発の次の列車に乗車するには、13時57分まで待たねばならない。 ここでも日豊本線を漫遊したツケがきていたのか。 しかしここで2時間も待ちたくない。 そこで由布院での乗換時間が9分間、12時ちょうどに発車する特急『ゆふいんの森2号』に乗車する予定にしていた。 という訳でせわしなく改札を出て、駅舎を撮影した。(左) 駅前は屈指の観光地らしく、大勢の人で溢れていた。 名物(?)の辻馬車こそお目にできなかったが、いかにも観光用といった小さなボンネットバスも写っている。 これはスカーボロという、イギリス製のクラシックカーを改造したものらしい。 ここで駅舎から駅前通りを伺うと、真正面に由布岳がそびえていた。(右) 雲が邪魔だが晴れるのを待てるはずもない。『ゆふいんの森2号』の発車時刻は迫っていた。


 そして駅舎脇のホームに目をやると、やっぱりあった。 温泉地らしく足湯が。(左) ここで2時間待ちともなると、時間つぶしで湯に浸かった事だろう。 しかし『ゆふいんの森2号』は間もなく発車する・・・。 その『ゆふいんの森』はJR九州自慢のリゾート特急らしい。(右) 車内も豪華、乗り心地もよく、快適な時間を過した。 他に由布院駅では到着時にトロッコ列車も目にしたが、時間に追われて撮影し損なった。



 『ゆふいんの森2号』は由布院駅を発車すると、さらに上りつづけて何本かのトンネルを通過した。 と、ここで下りになった。 水分峠を越えたようだ。 そしてやや進んで野矢駅に停車した。 あれっ、この列車は綾小路さんが下車する豊後森駅まで停車しないはずだった。 完全に停車したあたりで放送が入った。 ここで下り列車を待つようだった。 おお、ラッキー。 車窓には駅の待合室がちょうどいい位置で映っていた。


 列車待ちのあと、再び発車した『ゆふいんの森2号』は12時30分に豊後森駅に停車した。 ここで下車した綾小路さんは13時01分発の下り列車に乗車し、いったん豊後中村駅まで戻る予定にしていた。 そしてその後に豊後森駅まで戻ってくるのである。 この時間では改札を出て、駅舎を撮影した。(左) 三角屋根がきれいにみっつ並んでいた。 そして、ホームは豊後中村駅から戻った時に撮影した。 かつてお隣の恵良駅から分岐していた宮原線は、豊後森駅が始発だったという。 宮原線が始発だったように駅構内は広く、2面3線の他にも引込線が多い。(右) あれっ、遠くになにか廃虚のようなものが写っている。 あれは何だ!


 はーい! もちろん行っています。 実は駅舎を撮影する前に急いで見てきました。 ここは駅から急ぎ足で片道5分。 かつて広大な豊後森駅内には機関区が置かれていた。 その機関区にあったSLの扇形車庫がボロボロになりながらも残されている。(左) 1、2・・・なんと13線もの巨大な扇形車庫だ。 京都の梅小路運転区には20線の扇形車庫が整備されているそうだが、まだ見たことはない。 これがいままで見た中で最大のものである。 そして扇形車庫といえばつきものがあった。 扇の中心には転車台が錆びつきながらも残されていたのである。(右) ここでSLが回転して、車庫に収まっていた光景はさぞや壮観だったろう。


 豊後森の扇形車庫を見た後、綾小路さんは下り列車で先ほど由布院から特急で来た線路をさかのぼった。 隣の恵良駅は廃止された宮原線が分岐していた駅である。 初めは相対式ホームと思ったが、よく見ると2面3線ホームだ。(左) 右のホームはどうやら島式で、線路の撤去された右側から宮原線の列車が発着していたに違いない。 恵良駅を発車すると、綾小路さんは列車の先頭で目を凝らして目前の線路を追った。 ここだ、線路の撤去された築堤が右側に流れていった。(右) 宮原線の路線跡だ。 恵良−肥後小国間26.6キロの宮原線は全線開通からわずか30年後の昭和59年に廃止されたローカル線だったようだ。


 列車は引治駅を過ぎ、13時15分に豊後中村駅で停車した。 綾小路さんが下り列車に乗車したのはこの駅が目的だった。 駅舎の待合室部分の窓はサッシに交換されているものの、壁面などはかなり古そうである。(左) さびてボロボロになった建物財産表があったが、どう見ても建築年度までは読めなかった。 ホームは相対式であるが、かつては2面3線だったようだった。(右) 撮影を終え、待合室で待っていると登山客の姿がちらほら。 どうやら久住連山へのアクセス駅のようだ。 といってもあまりピンとこない。 ああ、『やまなみハイウェイ』が通っているルートと聞けばイメージが湧いた。



 14時18分、1時間以上の豊後中村駅滞在を経て、上り列車に乗車した。 この列車は何を隠そう、由布院発13時57分のものである。 そう、特急に乗車しなければ2時間待ちで乗車することになる各駅停車であった。 特急を利用したおかげで豊後森の扇形車庫や豊後中村駅を撮影できたのである。 さあ、再び久留米への道。 先ほど引治駅はホームしか撮影できなかったが今度は駅舎が撮影できた。 駅名標には温泉の絵が描かれている。 地図を見ると、駅近くに宝泉寺温泉郷があった。


 列車は14時31分に豊後森駅に到着した。 この列車はここで45分間もの停車の後に、久留米に向け発車する。 しかも始発駅は大分で、大分−久留米間を全線運行する唯一の各駅停車だった。 しかし綾小路さんはそこまで待てない。 先ほど紹介したホームを撮影した後、14時45分発の特急『ゆふDX4号』に乗車した。 ここから北山田・杉河内駅は通過して、撮影は叶わなかった。 そして『ゆふDX4号』は次の天ヶ瀬駅では停車した。 島式ホームの向こうに見えるのが駅舎だろうか。(左) 上に通っているのは国道なのか? 綾小路さんの地図では高速道路は通っていない。 天ヶ瀬駅を発車した『ゆふDX4号』は豊後中川・豊後三芳駅はまたも通過、次に停車したのは日田駅だった。(右:H14-8-11撮影) 残りの日田−久留米間は乗車したことがあり、綾小路さんはここで久大本線の完乗となった。


 久大本線は私鉄の大湯鉄道として敷設された事に始まる。 まず、大正4(1915)年10月に大分市(後に大分駅に併合)−小野屋間が開業した。 この大湯鉄道は大正11(1922)年12月に国有化され、大湯線となった。 そこからは順調に湯平、北由布(現由布院)、野矢、豊後中村、豊後森、北山田へと延伸していった。 ようやく天ヶ瀬まで達したのは、昭和8(1933)年9月のことであった。 一方、福岡県側からは久大線として昭和3(1928)年12月に久留米−筑後吉井間が開業した。 その後、筑後大石、夜明、日田と順次延伸した。 そして昭和9(1934)年11月に最後の日田−天ヶ瀬間が開通した。 久大線は大湯線を併合して、久大線・久留米−大分間の路線となった。 さらに3年後には久大本線と改称された。

 『ゆふDX4号』は日田駅を発車すると、光岡・夜明・筑後大石の3駅を通過する。 夜明駅は築堤上に古い駅舎があるが、築堤の上からでは斜めからしか撮影できない。(左:H14-8-11撮影) いい駅舎なんだが撮影者泣かせの駅か。 日田彦山線の分岐駅であるが、久大本線の特急列車は停車しない。 跨線橋から久留米方面を見ると左側に久大本線のホーム2面が相対し、右側のホームから日田彦山線が分岐するのが見える。(右:H14-8-11撮影) しかし、『夜明』とはなんともいい駅名である。


 陽は傾きかけて久しいが、久大本線の駅ではほとんど下車出来ていない。 日田−久留米間は列車本数も多くなる。 ここからラストスパートだ。 『ゆふDX4号』は15時33分に『うきは駅』に停車した。 木造駅舎には特急停車駅らしく、駅員が配置されていた。(左) ホームは相対する2面のみが生きているようである。(右) しかし、右側のホームは島式ホームで、その奥にもホームがあり、かつては鉱石でも運搬していたような車両が放置されていた。


 ここで15時58分発の下り列車に乗車して、隣の筑後大石駅で下車した。 木造駅舎の屋根はなんと5重にもなる凝ったもの。(左) 駅舎の周辺や待合室中には綾小路さんが見る限りでは、ガラクタにしか見えない骨董品(?)が置いてあり、少し異様な感じがした。 写真でも椅子やボンベが写っている。 もちろん無人駅なのだが駅舎を借りているような人物も見かけた。 元は2面3線のホームは駅舎側の1面だけが生きている。(右) 他に車庫や駅舎脇の切欠きホームなどもあり、かつては賑やかな駅だったようである。



 筑後大石駅からは16時18分発の上り列車に乗車した。 ここからは30分以上の乗車で久留米駅の手前、南久留米駅まで行く。 先ほど下車した『うきは駅』の次は筑後吉井駅である。 ここは列車交換が行われる駅で、一昨年にその列車交換中に駅舎を撮影していた。(H14-8-10撮影)


 ここで下車できず、車内から撮影した駅をふたつ。 まず、筑後草野駅。(左) 立派な駅舎ではあるが、何か他の施設が同居している駅舎に思えた。 もうひとつは久留米大学駅。(右) 片面ホームの向こう側、切り通しの上に写っているのが駅舎だろうか。


 列車は16時51分に南久留米駅に到着した。 建物財産標によると昭和3年11月建築の駅舎は、左側半分が取壊され縮小されたものらしい。(左) ああ、できれば縮小される前に来たかった。 島式ホームは築堤上に置かれて、駅舎からは築堤の中のトンネルを通って行く構造となっている。(右)


 17時21分、ここからまたも大分方面に向かった。 列車は久留米大学駅の次に御井駅に停車した。 おっ、ラッキー! ここで2分少々であるが、列車交換で停車するようだ。 時間は短かかったが、停車したサイドが駅正面だったので撮影できそうだ。 ここは駅舎や待合室はなく、雨避けの上屋があるのみの駅だった。(左) 相対式ホーム間は線路横断で渡る構造。(右) 結構、列車本数は多いのに跨線橋はないようだ。


 綾小路さんは次の善導寺駅で下車した。 南久留米駅と同じく、駅舎は縮小されている。(左) 1996年に善導寺の開基800年記念大法要が営まれ、その中のイベントとして数珠平和祈願祭が行われたらしい。 そこで人々の願いを書いた数珠が16000個、800mに及んだらしい。 その時の数珠の一部なのだろうか、駅舎の周りにめぐらされているようすが写っている。 ホームは相対式で列車交換が可能。(右)


 17時50分発の下り列車に乗車して、綾小路さんは久大本線での最後の途中駅へと向かった。 筑後草野駅の次の田主丸駅である。 この地は河童伝説があるとかで、駅舎が河童の顔の形をしていることで名が知れている。(左) おお、なるほど。 しかしこの建物は『田主丸町ふるさと会館』という複合施設で、河童の顔の部分は特産品展示場となっている。 この日は休日だからか、それとも時間が遅かったからか閉館していた。 そして、田主丸駅はこの建物の右側の一部分を使用しているに過ぎない。 ホームは相対式で駅舎脇には切り欠きのホームがあり、その写真を載せようかと思ったがちょっと待った! 跨線橋を渡る際に駅舎を振りかえって驚いた。(右) 河童の顔の形をかたどっているだけではなかった。 なんと背中まであり、河童の全身をかたどっていたのである。 これは下から撮影したときは気が付かなかったし、知らなかった。 ここはあまり撮影したい駅でもなかったが、話のネタにと立ち寄った訳であった。 しかし、思わぬ発見ににんまり。


 予定終了! 田主丸駅18時36分発の列車に乗車して、今日の宿泊地の久留米駅に向かった。 南久留米駅を過ぎると左手から鹿児島本線の線路が近づいてきた。(左) この暗がりではシャッタースピードも遅く、動いている列車の中からではピントのあった写真は望めなかった。 そして列車は19時06分に久留米駅に到着した。(右:翌日に撮影)



 ホテルにチェックインして夕食に出かけた。 ここで久留米ラーメンの店を探したが、駅前にそう多くの店は見かけられない。 事前に有名店もチェックしていたが、それらが構えている久留米の繁華街は、どうやらJR久留米駅前ではなく、西鉄の駅前のようだった。 今日もどっぷり疲れて、もうそこまで行く気力は残っていなかった。 そこで駅前のとある店に入って久留米ラーメンをいただいたが、いまひとつだった。 まあ明日以降に期待しよう。
 さあ、熊本から久留米まで思わぬ遠回り?だったが明日、綾小路さんはいよいよ九州西部、長崎本線漫遊(鳥栖−長崎)へと向かう。


 


トップ アイコン
トップ
アイコン
鉄道