2004.05.01

豊肥本線漫遊(熊本−大分)   路線図を表示

 5月になった・・・。 中には今日から本格的にゴールデンウイークを迎える会社も多いのだろう。 綾小路さんはすでに今回の漫遊の最大の目的である、肥薩線の漫遊を満喫し、まったりとしていた。 あとは『おまけ』みたいなもの・・・、ではけっしてなかった。 まだまだ精力的な綾小路さんの漫遊は続く。 今回の漫遊の最大目的はもちろん肥薩線だっただろう。 そして、その次の目的はというと、西九州の漫遊である。 綾小路さんはここから佐賀、長崎方面に向かう予定であった。 しかし、旅程はまだたっぷりとあった。 全九州フリー切符も残り4日分ある。 そこでちょっと寄り道、大分回りで行くことにした。 熊本から豊肥本線で大分まで行き、久大本線で久留米まで戻る。 その後、鳥栖まで行き長崎線・大村線・佐世保線を漫遊するのである。 鳥栖までまっすぐ行けば各駅停車でも2時間とかからない。 それを豊肥本線・久大本線経由で行くという、『365歩のマーチ作戦』真っ青の、10歩進んで9歩戻る計画であった。



 ホテルをチェックアウトして、今日は市電で熊本駅にやって来た。 ここは大きな駅ビルで、今すぐにでも新幹線に対応できそうだが、改築する予定があるらしい。 綾小路さんはこの駅舎が残ろうが、建替えられようが、あまり興味はない。 しかし駅構内には興味深い施設が目白押しである。


 かつて熊本駅には機関区が置かれていたようで、古いレンガ造りの機関庫が残されている。(左) 広い構内の奥にはSL時代の給水塔がいまだ撤去されていない。(右) 昨日見た大畑駅は給水塔の基部だけであったが、こちらはタンクも残されている。 それにしても巨大だ。 基部だけの比較しかできないが、大畑駅の倍以上あるようだ。 今まで見たもので最大だろう。 これら近代化遺産は後々まで残してほしいものである。(無理かなあ)


 豊肥本線の列車は駅舎の南側にある0A番と0B番ホームに発着する。(左) このホームの右側は駐車場となっていたが、古いホームの跡も見られた。 と、ここまでの写真は全て昨日に撮影したもの。 今日は時間に余裕がなく、0A番ホームに直行した。 そこにはすでに6時36分発の『クハ814 3』が待機していた。(右)


 熊本駅から鹿児島方面に向けて発車した『クハ814 3』はすぐに複線の鹿児島本線から東(左)方向に分岐していった。(左) 昨日と一昨日は鹿児島本線上から分岐する豊肥本線を見送っていた訳だが、今度は豊肥本線上から鹿児島本線を見送った。
 しばらく走ると、『クハ814 3』は豊肥本線最初の中間駅・平成駅に停車しようとしていた。 跨線橋の下に作られた、相対式ホームのみの駅のようだ。 その名が示す通り、開業が平成4年の新しい駅である。(右)


 『クハ814 3』は次ぎに南熊本駅に停車した。 実は一昨日に熊本空港に到着し、タクシーで肥後大津駅まで移動した後に、途中下車で立ち寄っていたのである。 ここは昭和15(1940)年まではこの付近の地名である春竹駅と呼ばれていた。 その豊肥本線の春竹駅の開業は大正3(1914)年6月。 大正4(1915)年には春竹駅を起点とした御船鉄道が開通。 その後に延岡までの開通を目標として熊延鉄道と改称されたが、昭和39(1964)年に廃止された。 また、昭和4(1929)年に市電の南熊本線が辛島駅から春竹駅前まで開通して、昭和45(1970)年まで営業していたようである。 そんないきさつがあったからか、なんとも見事な駅舎である。(左) ホームは相対式で列車交換が可能。(右)


 次に見えてきたのは新水前寺駅である。(左) 片面のホームは築堤上に設置されていて、向こう側には道路をオーバーパスする鉄橋が見える。 そしてその向こうには、わずか700mしか離れていない水前寺駅のホームも見えるのである。 このサイズの写真では分からないだろうなあ・・・。 ここは昨日、豊肥本線漫遊後に立ち寄っていたのである。(右) 鉄橋の下の道路には市電が通っていて、すぐそばに停留所がある。 そこからホテルへと向かったのであった。



 そして『クハ814 3』は新水前寺駅から1分とかからずに水前寺駅に停車した。 かの『水前寺清子』の出身地かどうかは分からないが、名付けのゆえんではあるようだ。 そうだ、彼女がいなければ『365歩のマーチ作戦』も生まれてなかった・・・。 ここも昨日に撮影した写真。 なんとマンションの2階部分が改札となっている複合施設である。 1階にはドラッグストアなどの店舗が並んでいる。


 綾小路さんはひと駅やり過ごして、竜田口駅で下車した。 大正3年6月21日開業。 細川家の墓地・泰勝寺を当初は立田村泰勝院と呼んだのが、後に竜田山泰勝寺と変わったとか。 また、この地が熊本へと通じている水路の入口であったことが駅名の由来である。 こんな事まで知っているなんて、綾小路さん、物知りー。 実は大型の駅名標が設置されていて、開業日と駅名の由来が載ってたのである。 でへへ。 駅舎は木造でなかなかのもの。(左) ホームは島式で奥(左側)には引込線もあるようだ。(右)


 その後、上り列車で先ほどやり過ごした東海学園駅に戻った。 九州東海大学の東海大学第二高等学校の前に設置された駅のようである。(左) 左端に見えるのが校舎。 片面のホームは休日だからか閑散としていた。(右) いや、まだ7時過ぎ。 通学途中なら分かるが、ここで下車して登校するには早すぎる時間だろう。


 綾小路さんは再び大分方面への下り列車に乗車した。 列車は竜田口駅の次に武蔵塚駅に停車した。 そこには相対式ホームが見え、交換列車が待っていた。(左)
 そして列車は次の三里木駅に停車した。 大正3年6月21日開業。 参勤交代のとき、1里ごとに榎の木を植え里数木とした。 この地が3番目であったため、三里木という地名になったことに由来する。 これも駅名標に載っていたのは言うまでもないか・・・。 写真は一昨日に列車交換の3分間でダッシュして撮ったものなので、何故パトカーが来ているのかは分からなかった。(右)



 列車は次に原水駅に停車した。 ここはカーブした相対式のホームに小さな待合室が確認できた。 そして相対する線路の間隔がやけに広い。 かつてはこの中間に通過線が敷設されていたのだろう。


 列車は7時37分に肥後大津駅に到着した。 実は一昨日に空港からタクシーでここまで来たが、飛行機の遅れもあって、駅に到着したのは予定していた列車の発車3分前。 その時間では満足な写真が撮れず、再度ここで下車することにしたのであった。 あのときはタクシーで原水駅に行くのが正解だった。 そうすると早く着いて、タクシー代も安かったろう。 大正3年6月21日開業。 加藤清正公が滋賀県の大津から名を取り、大津一の宿と命名した。 このことからこの付近が大津と呼ばれるようになったらしい。 再度時間を割いてまで撮影したかった駅舎は木造で見事なもの。(左) そして豊肥本線の電化区間はここまでで、ここからは非電化区間となる。 乗車してきた列車も熊本−肥後大津間の区間運転列車だった。 その折返しの列車が待機するホームは駅舎から奥側の片面であり、間に島式ホームを挟んで駅舎という配置だった。 駅舎の裏にはホームがなく、変則の2面3線ホームだろう。(右)


 8時00分発、熊本から直通のディーゼルカーがやってきた。(左) JR九州のコーポレートカラーである赤一色の塗装で斬新なものである。 そして乗車すること6分、次の瀬田駅には小さな待合室が建っていた。(右)



 さらに乗車6分で列車は立野駅に到着した。 さあ、ここからが豊肥本線のハイライトだ。 ここには日本で最大というTバック・・・、もとい3段式スイッチバックがある。 最大勾配はなんと33.3パーミルになるという。 そのスイッチバックに備えてか、立野駅では停車時間が5分ほどあった。 この時間で少しだけホームを探索した。 後で戻ってくる予定なのであせる必要はなかった。 ここでいいものがあった。 3段式スイッチバックの看板を発見したのである。 これによると、すでにスイッチバックの1段目を上ってきている訳である。


 運転手も列車の前から後ろに移動したようで準備完了のようだ。 列車は8時18分に今までと方向を変え、バックで発車した。 そして、先ほどやって来た熊本方面への線路とすぐに分岐して、坂を上り始めた。(左) さすがに33.3パーミル、かなりの急勾配に思える。(右)


 列車は急勾配をしばらく進んで、2段目を上りきって停車した。 目前にはスイッチバックの最奥が草むらに隠れて・・・(左) ああ、あと10m、いや5m進んでほしかった。 ここでスイッチバックの最奥を撮影している間にも、運転手は2両編成の列車の後ろから前への移動を完了しようとしていた。 綾小路さんも後を追い、なんとか発車には間に合った。 そして発車後すぐに、通過してきたばかりの立野駅へのスイッチバックの2段目を右手に見て、3段目を上り始めた。(右)


 3段目のスイッチバックを上りきり、しばらく走ると列車は赤水駅に停車した。 跨線橋はなく、島式ホームから駅舎へは線路上の通路を渡る構造となっていた。 その通路を渡り、ふと振り返ると遠くに山並みが見えた。(左) スイッチバックを上ったところで阿蘇の外輪山の中に入っていたのだ。 そしてここで下車したのはもちろん古い木造駅舎があったからである。(右) これが大正7年1月25日の開業時のものかどうかは分からないが、いい雰囲気に満足した。


 赤水駅から先ほど上ってきたスイッチバックを下り、立野駅まで戻った。 駅舎は5mぐらいの崖下に建っていて、陸橋でつながっている。 その崖上や駅正面(陸橋下)からはアングルが悪く、ホームとの通路から撮影した。(左) 島式ホームには駅名標が建っているが、どうも納得いかない。(右) スイッチバックなので『せた』も『あかみず』も列車は左方向に向かうのである。 大正5年11月11日開業。


 その駅名標の右側に向かう鉄道が存在する。 旧国鉄高森線を継承した『南阿蘇鉄道』である。 鉄路は立野から高森まで敷設されたが、旧国鉄高千穂線(現高千穂鉄道)の高千穂とはついぞ接続しなかった路線である。 豊肥本線のホームとは千鳥に配置された島式ホーム上に南阿蘇鉄道の駅舎が建っていた。(左) しかしごらんのように片面の線路はすでに撤去されている。 トロッコ列車も運行するようだがこの時、片面の線路上には『南阿蘇鉄道』のディーゼルカーが停車していた。(右)


 今度来る時は『南阿蘇鉄道』にも乗車したいものだ。 いや、線路はつながっていないが、その先の『高千穂鉄道』も飛び越えて乗車したい。 後ろ髪をひかれながら立野駅をあとにした。 再びスイッチバックを上り、列車は赤水駅の次に市ノ川駅に停車した。 片面ホームに上屋のみの駅だった。(左)
 ここからひと駅やりすごして、10時04分に阿蘇駅に到着した。 もちろん印象的な駅舎は撮影したが、何故か載せたい写真はこれきりだった。(右) 30分もいて11枚撮ったんだが、何をしていたのやら。 まあ、阿蘇山への登山客が多く、駅前がばらけるのを待っていたのではあるが・・・。 ちなみに、ここが『世界一のカルデラのまんなかの駅』と駅名標には載っていた。 大正7年1月25日開業。


 例によって阿蘇山登山にも目もくれず、旅を続ける綾小路さんである。 ここでまたも熊本方面に逆戻り。 上り列車でひと駅戻り、内牧駅で下車した。 個性的な駅舎が建っていたが、右側の部分も2階建てではなく、屋根が高い待合室だった。(左) ホームは島式ホームで列車交換可能だったが、駅舎脇のもと貨物ホームが目についた。(右) 大正7年1月25日開業。



 内牧駅で乗車した列車は宮地行きだった。 その先の宮地−豊後竹田間は峠越えであり、熊本−大分の県境ともなっている。 こういう区間は極端に列車本数が少ないことが多い。 実際にこの区間は下りの各駅停車は1日に5本しかないのである。 そのうち2本の各駅停車が熊本から豊後竹田までの運行で、大分まで直通の各駅停車はない。 そして各駅停車は、わずか2本の熊本発・豊後竹田行き以外はすべて宮地止まりとなっているのである。
 列車は阿蘇駅と宮地駅の間の『いこいの村』駅に停車した。 ホームに上屋のみの駅であったが、結構下車する乗客がいたものだ。


 列車は11時44分に宮地駅に到着した。 実は宮地止まりの列車でもいっこうに構わなかったのである。 大分方面への次の列車の発車までは1時間以上あった。 しかしここは見所いっぱいのスポットだった。
 もちろん綾小路さんにとって、最大の見所は駅舎である。 寺社建築風の駅舎はなだらかな瓦屋根の上に急角度の屋根が覆う、2重構造に作られている。 駅舎の正面にはこれまた寺社風の駅名看板が掛けられていて、しめ縄が吊るされていた。(左) 宮地駅がある『一の宮町』には『阿蘇神社』や『国造神社』などがあるが、どの寺社を意識しているのかは分からなかった。 そして峠越えに備える駅という訳で、構内は広く、島式ホームの1面2線の他に引込線は3線もあった。 その島式ホームの端には転車台が設置されていて、カラフルに塗装されている。(右) これは熊本−宮地間に運行している『SLあそBOY』の機関車の方向転換に使われているのである。 綾小路さんもその様子が載った雑誌を持っている。 その雑誌によると、なんと昨日立ち寄った、吉松駅に残されていたものを『SLあそBOY』用に移設したらしい。


 豊肥本線は軽便鉄道法により、熊本・大分の双方から建設が進められた。 大分側の犬飼軽便線は大正3(1914)年4月に大分−中判田間が開通したことに始まる。 熊本側は、宮地軽便線として同年の6月に熊本−肥後大津間が開通した。 その後、犬飼軽便線は竹中、犬飼、三重町と順次延伸していく。 さらに犬飼線として緒方、朝地、豊後竹田と延伸し、大正14(1925)年11月に玉来までが開通した。 一方、宮地軽便線は立野までの延伸を経て、すでに大正7(1918)年1月には宮地まで到達していた。 ここから玉来までは宮路線として建設が進められ、昭和3(1928)年12月に開通した。 これにより熊本−大分間が全通、同時に全線が豊肥本線と名付けられた。

 駅舎や駅構内をひと通り撮影して、待合室で昼食(駅前のパン屋:結構いけた)を取っていると、カメラを持った何人かが改札を通っていった。 おそらく12時33分着の『SLあそBOY』を撮影するのだろう。 さあ、綾小路さんも撮りに行くか。 待つことしばし、カメラを構えた人々の視線を受けて、いよいよ『SLあそBOY』がやって来た。 機関車は『ハチロク』こと8620型である。 よし、ここだ。 若干シャッターを切るのが早かったか、別のカメラマンが写ってしまった。(左) まあ、こんなものか。 そして『SLあそBOY』がホームに停車すると、乗車してきた乗客も加わり、一大撮影会と化した。 機関車のサイドには『58654』に『熊』のエンブレム。 どうやら熊本機関区所属だったようだ。(右) この機関車こそが昨日立ち寄った矢岳駅のSL展示館で『D51』の横に保存されていたものであるという。 ながらく眠っていたが、『SLあそBOY』用に現役復帰したのである。 しばらくすると『SLあそBOY』はホームを離れて、いったん大分方面に進み、広い構内の引込線に引き返して停車した。 この後に機関車『58654』は客車と切り離され、先ほどの転車台に乗せられて方向転換するのである。 これも撮影したかったが、いかんせん時間がなかった。 そうこうしているうちに綾小路さんが乗車する大分行きの特急が、先ほどまで『SLあそBOY』が停車していたホームに入線してきた。



 綾小路さんは12時49分発の特急『九州横断特急4号』に乗車した。 この後、13時05分発で豊後竹田行きの各駅停車もあったが、その豊後竹田駅を撮影したかったからである。 豊後竹田駅まで各駅停車で行くと、接続列車は2分後に発車する。 その次の列車は70分後だった。 それがこの特急に乗車すると、豊後竹田駅で30分程度の時間がとれるのである。 それにしてもなんとも味気ない列車名である。 他になにかいい愛称はなかったのか?
 『九州横断特急4号』は宮地駅を発車するとすぐに南側に迂回して、山肌を徐々に登りだした。 そしてぐんぐんスピードを上げて登る登る! トンネルを連続して通って、波野駅の手前で峠を越えたようだ。 波野駅では列車交換可能な相対式ホームが見えた。 木造駅舎があったらしいが数年前に消失したらしい。



 そして『九州横断特急4号』は波野駅を過ぎると、今度は下りだした。 早いぞ! ここで綾小路さんは特急に乗車したことを後悔しだした。 この峠越えの辺境の区間はじっくりと各駅停車で移動するのにぴったりの感じであった。 列車本数が極端に少なく、苦労しそうだが時間をとってまわりたいものである。 次の滝水駅でも相対式ホームが見えた。 しかし奥の相対ホームの線路は撤去されている。 運行本数が減少して、ここで列車交換の必要はなくなった訳だ。


 『九州横断特急4号』は次の豊後荻駅で停車した。 この列車が停車するのは6月30日までで、季節限定の停車であった。 しかし、そのおかげで車内から駅舎を撮影できた。 半円形のステンドグラスの中心に『トマト』の紋章が鮮やか。 JAか、それとも物産館との合築駅舎だろうか?(左)
 下車予定の豊後竹田駅まではもうすぐ、その次に通過した玉来駅は片面ホームの小駅だった。(右)


 13時27分に『九州横断特急4号』は豊後竹田駅に到着した。 ホームに下りると、聞き覚えのあるメロディーが流れだした。 滝廉太郎の『荒城の月』である。 少年時代を過し、また23歳で結核の療養中にこの世を去ったのがここ、大分県竹田市であったらしい。 しかしボリュームが小さい。 綾小路さんは事前に知っていたから気が付いたが、あわただしく駅舎に向えば気が付かない人も多いのではないだろうか? 駅舎は駅近くの『岡城址』を意識してか、お城風の立派なもの。(左) その『岡城址』をイメージして『荒城の月』が誕生したという。 ホームは駅舎裏の山腹に設置されていて、島式ホームの1面2線である。 しかし、引込線がさらに3線、奥には車庫も見える。(右)


 13時58分、再び『荒城の月』を聞きながら、今度は豊後竹田駅を後にした。 次の朝地駅には小ぎれいな駅舎があり(左)、その次の緒方駅は木造駅舎のようだった。(右) このいずれもホームに花が飾られ、活気溢れる駅のようだった。


 今思えば、このあたりでは車内も空いていて、列車の停車のたびに車内から駅舎を撮影できた。 次は豊後清川駅、ここにもホームに花が置かれていた。(左) 続く三重町駅には飾られていないものと思いきや、上屋の天井から植物のポットが吊るされていた。(右) ともに大きな駅舎で一見すると木造のようだった。


 ここからはいい雰囲気の木造駅舎が2駅続いた。 菅尾駅(左)と犬飼駅(右)である。 いいねえ! 両駅とも撮影したかったが、これ以上、豊肥本線での途中下車の時間は残されていなかったのである。 今日1日を豊肥本線に費やせれば両駅とも撮影可能だったが、実は大分から日豊本線の駅に立寄る予定にしていたのである。 綾小路さんは後ろ髪を惹かれながら両駅を見送った。



 これ以上の途中下車の予定はなかったが、次の竹中駅では列車交換のため3分間の停車時間があった。 ラッキー、ここでダッシュ。 島式ホームだったが幸いにも跨線橋はなく、線路横断ができたので無事撮影完了。 駅舎の右端に島式ホームと、その向こう側に停車中の列車が写っていた。


 そしてさらなるラッキーが綾小路さんを待っていた。 中判田駅でこんどは特急列車の通過待ちがあった。 しかも今度は10分以上ある。 実は菅尾、犬飼、中判田の3駅のどこかで(欲を言えば全部で)下車したいと考えていた。 時刻表を眺めて悩んでいるうちに、この停車時間を発見していたのである。 駅の改札をでるとジャージー姿の高校生3、40人が駅前に座り込んでいる。(左) それら大勢も写るが、10分しかないのでしかたなく撮影してホームに向かった。 駅構内に戻り、跨線橋の上で次の撮影対照を模索していたら、なんと彼らがぞろぞろと上ってきた。 乗るならさっさとホームに来とけよと思いながら、この後綾小路さんはまた駅の外にでて撮影しなおしたのである。 おかげで駅構内の写真が少なくなった。 ホームは島式ホームで、駅舎の脇まで引込線が伸びていた。(右)


 中判田駅あたりからは大分までの通勤圏らしく、その後の駅からはぞくぞく乗客が増え、まるで通勤電車状態となった。 もちろん先ほどのジャージーの高校生たちが大勢で乗車して来た影響もあるだろう。
 しかし、まだまだ根性で撮影を続行! 次の大分大学前駅は結局、駅舎への通路しか写っていなかった。(左) しかもこれでは駅舎があるのか、はたまた待合室なのかも分からない。 そして次の敷戸駅は小さな駅舎みたいだが、駅員が配置されているようだ。(右)


 ここでいよいよ撮影不可能となった。 最後の途中駅である滝尾駅では身動きがとれず、日豊本線との合流点にいたっては、撮影する事も頭から飛んでいた。 そして15時21分に列車は大分駅に到着した。 綾小路さんはこれで豊肥本線の完乗となった。 豊肥本線の終点、大分駅は日豊本線の途中駅であり、久大本線の終点駅ともなっている。 何と3路線、しかもすべてが本線の終結する一大ターミナル駅ということになる。 駅舎は鉄筋コンクリート造り3階建て、屋上にも後から建て増ししたような外観である。(左:翌日に撮影) 駅構内もさすがの広さ、ホーム3面5線に無数の引込線が敷設されている。(右:H14-12-24撮影)


 豊肥本線では菅尾駅や犬飼駅などのとりこぼした名駅舎の撮影。 また、宮地−豊後竹田間のローカル旅情を次回はぜひ楽しみたい。 もちろんスイッチバックを含めた阿蘇の景観は何度でも楽しみたいものである。 さあ、いざ日豊本線漫遊(東中津−上臼杵)へ! 豊肥本線の菅尾駅、犬飼駅を蹴ってまで行きたい名駅舎がそこにある。


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