2004.03.20-03.21

宗谷本線漫遊(旭川−名寄−咲来)   路線図を表示
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 気が付けば翌朝だった。 しまった、もう一度くらいは温泉に入っておきたかった。 しかし、幸い。 まだ6時過ぎだった。 7時の朝食までは時間があった。 今日は少し余裕のある行程を組んでいて正解だった。

 さて、朝風呂を浴び、朝食を取って天塩川温泉を後にした。 天塩川に架かる橋を渡ると、先ほどまで滞在していた天塩川温泉が一望できた。 天塩川温泉はその名が示すように北海道第2の長流『天塩川』のほとりにある。 大正初期に発見され、当時は『常盤鉱泉』と呼ばれていたらしい。 飲用薬として世に広まり、高価な日本酒と取引されていた歴史もあるとか。


 温泉から歩くこと10分余り、天塩川温泉駅に到着した。 短い板張りの片面ホームにプレハブの待合室が置かれている。(左) 昭和31(1956)年7月に仮乗降場として開設。 当時は南咲来と名乗ったが、昭和56(1981)年に現駅名に改称。 正式駅への昇格は、JR発足の昭和62(1987)年まで待たねばならなかった。
 さて、小さな駅だしすでに何度も来ているので、撮影するものもそうはなく、ぶらぶらしているとキハ54 529がやってきた。(右) 宗谷本線の各駅停車はキハ54系とキハ40系の両系統の運行である。 特に名寄から北はキハ54系がほとんどのような印象が残っている。


 7時49分発の上り列車、綾小路さんとしては異例に遅い出発列車であった。 これに乗車したが、下車したのは隣駅の豊清水駅だった。 階段を上ったところに木造駅舎が建っている。(左) もちろん無人駅となっているが、除雪係りの2人が滞在しているようだった。 撮影を終えて駅舎内で待っていると、封鎖された出札口の向こうから声が聞こえたのである。 しばらくすると出てきて、駅周辺や駅舎内の後片付けを始めた。 片付けが終わると、電話で何処かの駅に積雪や気温などを報告している。 今日で冬の除雪作業が終了するようだった。 そして出札口の奥で後始末して去って行った。 ざわめきは静寂に変わり、綾小路さんひとりになった。 ホームは島式ホームで、昨年はここで列車交換したものだった。(右) 昭和25(1950)年1月に開駅。


 8時38分発の下り列車で今回の漫遊では最北の駅に向かった。 と言っても、先ほど乗車した天塩川温泉駅の次の咲来駅である。 ここは1979年の写真を見ると木造駅舎が写っている。 たぶんこの砂利と雪の切れ目付近に建っていたのだろう。(左) それが『ふるさとの駅』では1987年の写生として、おなじみの車掌車を改造した待合室に変わっていた。 それもすでに撤去され、新しい待合室が建っている。 何だろう、コンクリートのパネルを組立てたような造りだ。 これとてそう新しくは見えないものである。 ホームは片面1線であるが、ここも昔は列車交換できたような線路形状だった。(右) 開駅は大正元(1912)年11月。


 綾小路さんはちょっとした朝のお散歩を終え、9時04分発の上り列車に乗車した。 今度は30分近く乗車して美深駅で下車した。 開駅は明治44(1911)年11月。 ここも『ふるさとの駅』では木造駅舎が描かれているが、すでに建替えられていた。 昭和62年に美深町交通ターミナルの一角として生まれ変わっていた。(左) 中央の塔が印象的であるが、上部に鐘が付いているようで、時計の下側には『美幸の鐘』と記されている。 『美幸』とは夢叶わなかった美幸線の事だろうか。 美幸線はその名が示す通り、美深駅と廃止された興浜北線の北見枝幸駅を結ぶ、総延長79kmの路線として建設が進められた。 うち美深−仁宇布間が昭和39(1964)年10月に開業した。 その後も工事は続けられ、北見枝幸までの路盤工事・橋梁などはほとんど完成していたが、国鉄の第一次廃止対象線として廃止が承認されたのである。 昭和60(1985)年9月、沿線住民の念願は叶わず美幸線は廃止され、仁宇布−北見枝幸間は一度も列車が走ることなく野に帰ることになった。 美幸線が分岐する駅であったためか、千鳥に配置されたホームは長く、現在は相対する2線として使用されている。(右) しかし、駅舎に対抗するホームが本来は島式ホームであるのは見ての通り明らかだろう。


 その島式ホームの反対側こそ美幸線が発着するホームだったらしい。(左) すでに線路も撤去されているようで、雪に埋もれている。 美幸線は美深駅を南に向けて発車すると、すぐに左(東)にカーブしていたらしい。 ここで駅舎側ホームの最南端から撮影した写真を見てもらおう。 奥の黒っぽい倉庫は美幸線が分岐していくカーブに沿って建てられたため、道路(宗谷本線の線路とも)とは不自然な角度で残っているとか。(右)


 さて、次の上り各駅停車は13時55分発だった。 現在時刻はまだ10時前である。 ここで4時間も待てるはずがなく、ここから特急を利用する事にしていた。 名寄駅まで740円だが、4時間も待つことを考えると安いものである。 スーパー宗谷2号に乗車して20分足らず、10時18分に名寄駅に到着した。
 雪止めを付けた大屋根に3つのマンサードと、いかにも北海道の駅といった感じの駅舎である。(左) 右側の屋根は庇をデザインしたものだろうが、あとのふたつはドーマー窓なのだろうか。 改装工事は施されているものの、昭和2(1927)年11月建築の木造モルタル造りの駅舎らしい。 尚、名寄駅の開駅は明治36(1903)年9月のこと。 跨線橋から南側を俯瞰すると左手には大きな木造車庫が見える。(右) そして、南にまっすぐに延びている宗谷本線。 かつては左手に名寄本線、右手に深名線が分岐していた。


 名寄本線は大正10(1921)年10月、名寄駅から現石北本線の遠軽駅までが全通した。(湧別−遠軽間は当時、湧別軽便線) 深名線は函館本線の深川駅から名寄駅まで、昭和16(1941)年10月に全通した。 ともに100キロを越える長大路線だった。 しかし、名寄本線は平成元(1989)年4月、深名線は平成7(1995)年9月に廃止された。 この2大路線が分岐していた時代、名寄駅は機関区や保線区を従えていた道北の要衝だった。 もちろん給水塔や転車台もあっただろう。 しかし現在残されている大きな施設はこの木造車庫ぐらいで、広大な構内はがらんとしている。(左:H15-5-10撮影) そして駅舎の横の切欠き部分のホームから深名線が発着していたという。(右)


 上川線(現函館本線)の滝川−旭川間は明治31(1898)年7月に全通した。 現函館本線の函館−小樽間は敷設した鉄道会社が創立したばかりの時である。 このとき宗谷本線は天塩線として、すでに着工されていた。 そして早くも同年の8月に旭川−永山間が開業した。 続いて11月には永山−蘭留間が開業した。 さらに明治32年11月に蘭留−和寒間、明治33年8月に和寒−士別間と、順次延伸していった。 明治36年9月には士別−名寄間が開業し、旭川から名寄までが開業したことになった。 明治44年11月に名寄−恩根内間、大正元(1912)年11月には恩根内−音威子府間が開業した。 これに先立つ大正元年9月に、天塩線は宗谷線と改称されていた。 大正8年10月には廃止された天北線区間を含め宗谷本線と改称された。 その後、天塩線として敷設された音威子府−幌延−稚内間が昭和3(1928)年12月に稚内港(現稚内)まで開業した。 昭和5年4月に天塩線を編入し、宗谷本線は現在の旭川−音威子府−幌延−稚内間となった。



 撮影が終了して少し小腹が空いてきたので駅そばを食べることにした。 駅弁は昨日食べたし、今日はいいか。 ここでも何か今までと違うような・・・。


 そうです、暖簾が一新されていたのである。 以前はどこにでもある駅そば屋で、どちらかというと駅弁の販売はおまけというような雰囲気だった。 それが今回は立ち食いそばと駅弁販売の2本立てという雰囲気である。 ちなみに本日頂いたのもこのときと同じ、天ぷらそばでした。(ともにH15-3-27撮影)


 名寄駅始発の上り列車の発車時刻まで、まだ1時間ほどあった。 ここでも待っていられず、今度はバスで移動することにした。 このバスは『道北バス』の旭川駅行きであったが、これが面白かった。 名寄駅からすぐに国道40号線に出て、南下するものかと思っていたが違っていた。 名寄駅前の通りを南下、この区間は国道40号線と宗谷本線の間を通っている。 そして3キロほど先で、国道と宗谷本線は南西に進路を変えるのである。 しかしバスはそのまま南下を続けた。 完全な裏道である。 途中、国道からは離れている東風連駅前を通った。 そこから2キロほど南下を続け、ようやく西に進路を取った。 しばらくして国道に出てきたと思ったら、今度は通り過ぎたのである。 おいおい、ちゃんと目的地に着くのかと心配になってきたが、すぐにまた進路を変えて国道にでた。 国道沿いを瑞穂、多寄、下士別の駅を横目に走り、バスは士別駅前に来た。 しかし綾小路さんはまだ下車しない。 そしてバスはここからまた国道を通らず、裏道を進むことになる。 宗谷本線はすでに国道の西側を走っていたが、バスはさらに西側の道々を走っている。 士別駅から4キロほど南下したところの、とあるバス停で綾小路さんは下車した。 バスはさらに裏道を通って、剣淵駅方向に去っていった。 バス停からは徒歩で東に向かうこと2キロ弱、ようやく北剣淵駅に到着した。

 そこには短い板張りのホームと、小さな木造の待合室があった。 防雪林の中に設置された駅で、国道まではさらに1.5キロある。 いかにも仮乗降場あがりの駅である。 その仮乗降場としての開設は昭和34(1959)年11月、駅への昇格は昭和62年のJR発足時である。


 12時18分発の上り列車がやってきた。 綾小路さんはこれに乗車してさらに南下した。 北剣淵駅から続いている防雪林を抜けると、程なくして剣淵駅に到着した。 そして剣淵駅を発車した列車は再び防雪林の中に入っていった。 しばらく防雪林の中を走り、停車した駅で綾小路さんは下車した。 そこは東六線駅で、先ほどの北剣淵駅と雰囲気が似ていた。(左) 待合室には『東六線乗降場』の看板が掲げられている。(右) ほう、駅に昇格するまでの昔の看板が残っている。 そう思っていたが、実は東六線駅は開業時から駅だったようである。 昭和34年11月1日に日進駅、北星駅など、合わせて10駅が同日に開駅したことになっている。 そして同じ日に北剣淵駅は仮乗降場として開設されたようである。 では何故、待合室は『東六線乗降場』となっているのだろう。 この後、600m離れた国道脇の案内板でも『東六線乗降場』となっていた。 『乗降場』とは『駅』と『仮乗降場』の間に位置するものだろうが、今ひとつ定義が分からない。


 先ほど、国道脇の案内板と書いたが、バスに乗車するためやってきた訳である。 今度は『道北バス』の旭川駅発で名寄駅行きに乗車したかった。 なにしろ裏道を通る区間が多いようなので、電話で本社に確認を取っていた。 すると東六線駅付近では国道沿いを通っているとのことだった。 バスに乗車して東六線から2.5キロほど国道を北上、剣淵駅への入口で左折して西に向かった。 東六線駅付近では宗谷本線と国道は600mほどしか離れていなかったが、剣淵駅付近では2キロぐらいの離れである。 しかし道々に出て、あと100m南下すれば剣淵駅前という交差点で右折し、北上を始めた。 結局は剣淵駅前は通らなかったのである。 そして先ほど北剣淵駅へ行くために下車したバス停を通過、さらに北上して士別駅に到着した。

 士別駅を探索する前に、駅前の倉庫群を見に行った。 士別駅の南側にはレンガ造りや石造りの農業倉庫が数多く残されていた。 以前、士別駅に来たときには気が付かなかったが、今日は結果的にバスで士別駅前を往復することになって、ようやく気が付いたのである。 ほとんどの倉庫の入口がシャッターに改造されていたのが惜しまれる。 しかしそのシャッターの上の小窓など見ていて飽きない。 小窓の上には屋号が残っている倉庫も多く、中には名のある商人の倉庫もあるのかもしれない。


 しばし駅前の倉庫群を見学したあと、士別駅の撮影に取りかかった。 駅舎はコンクリート造りでそこそこの規模である。(左) さすがに特急も停車するだけの駅であった。 ホームは2面3線でスーパー宗谷の4両編成では物足りない長さであろう。(右) 明治33(1900)年8月に開駅。



 士別と言えばサフォーク種のめん羊が有名。 顔と足が黒い羊である。 士別全体では、約1000頭のサフォーク種が飼育されており、『サフォークランド士別』には世界から集められた30種類のめん羊がいる『世界のめん羊館』があるみたいだ。 おお、ジンギスカン! 最近食べてないなあ・・・と思ったが、めん羊・・・はて。 羊毛を取るための羊ではないか。 まあそれでもバーベキューハウスではジンギスカンを食べることができるらしい。 そうか、士別の羊は食用ではなかったのか。 そのサフォーク種のめん羊がホームの看板でお出迎えしてくれていた。


 ジンギスカンのことを考えたらお腹がすいてきたぞ。 士別駅に駅弁はないし、駅前の食堂は閉まっていた。 ここで思いもしなかった、駅そば屋が営業していた。 ラーメンもあるようだが、そばのメニューはと・・・。 何と、かけそば300円、きつねそば300円、天ぷらそば300円、月見そばにカレーそばも全て300円であった。 綾小路さんは今日2杯目の天ぷらそばを注文したが、これではどう考えてもかけそばが高い。 聞いて見ると、かけそばが高いのではなく、他がサービスで安いとのこと。 まあ、期待通りの答えが返ってきたが、これ以上店員さんを困らせてもと思い、黙ってそばをいただいた。


 綾小路さんは14時41分発の上り快速『なよろ8号』に乗車した。 列車は満員で、こういうときに限って長時間の乗車である。 ようやく15時30分に比布駅で下車した。 なにもここで下車したかった訳ではない。 なにしろ昨日来たばかりであった。 それは次の南比布駅に行くため、各駅停車に乗り換えるからである。 30分近く待ち、比布駅始発の旭川行き列車に乗車して、次の南比布駅で下車した。 国道40号線の跨線橋の下にひっそりと佇む駅である。(左) 短い板張りの片面ホームであるのはまだしも、なんとも言いようがない木造の待合室。(右) 床は土間で腰掛けは埃を被っていて、座ろうという気は起きなかった。 元は仮乗降場とも思ったが、東六線駅など昭和34年11月の10駅同日開業のうちのひと駅である。


 綾小路さんはこの漫遊で最後の下り列車に乗車した。 もうひとつぜひ下車したい駅があったからである。 16時51分発の列車で比布駅を過ぎ、次の北比布駅で下車した。 ここも昭和34年11月に開業。 しかしどう見ても仮乗降場といった雰囲気だ。(左) ここで下車する客なんて他にいないと思っていたら、年配の婦人が下車していったので驚いた。 待合室はやや大きめのブロック積みで、中の雰囲気は南比布駅と似ていた。(右) そのため、撮影終了後の列車を待つ約1時間は座るに座れず、かなりつらいものとなった。


 18時02分発の上り列車に乗車して、これで帰るのかと思いきや、よせばいいのに北永山駅でまた途中下車した。 もうすでに日は落ちていた。 ホームの上には比較的新しいプレハブの待合室があった(左) 新しい駅かとも思ったが、昭和43年11月の大量同時開業のうちのひと駅である。 ホームは板張りであるが、2両以上はたっぷり停車可能である。(右) あれっ、1979年の写真を見たが、ホームは縁石が被せられ、本体は土かアスファルトのようである。 600m程度旭川寄りに移転したとも聞いていたので、どうやら本当のようだ。


 19時09分、綾小路さんはようやく満足して上り列車に乗車した。 すでに3月中旬で今シーズンの冬の漫遊はここまでだろう。 来シーズンの冬の漫遊に思いを馳せながら、綾小路さんは札幌への帰途についた。

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