2004.03.20-03.21

宗谷本線漫遊(旭川−名寄−咲来)   路線図を表示

 日本最北の路線である宗谷本線。 もちろん綾小路さんもこれまでに何度か乗車していた。 しかしどうも灯台元暗しのようになっていた。 北方の稚内方面に位置する駅の写真はそこそこ充実しているが、南方で旭川方面に位置する駅の写真は、まだまだ寂しいものであった。 これは根室本線や函館本線、日高本線にも当てはまる事となっている。 どうもいつでも行けるという感覚からそういう傾向となっているのだろう。 その中で石北本線については先日、札幌から一番近い新旭川−上川間を漫遊して、ようやく足元がしっかりした感じとなった。 せっかく乗車するのだから終点まで行きたいのは山々である。 しかし今回の行程は2日間と限られていた。 そこでここはじっと我慢して、足元付近を見つめる事にした。 まだ特集していない旭川−名寄間と、音威子府までの列車で訪れていない駅を中心とした計画を立てたのである。

 宿泊を伴うので今回はパーク&トレインを利用する事は考えなかった。 JRの駐車場とはいえ駅前、盗難やいたずらに会わないとも限らないからだった。 そこで久々の札幌駅出発となった。 地下鉄福住駅からの移動もあったので、札幌駅6時38分発の各駅停車に乗車した。 しかしこの列車は滝川行きであった。 8時18分に滝川駅に到着したが、次の旭川行きの各駅停車は12時01分発だったのである。 その上、綾小路さんご用達の白石駅6時13分発の列車に至っては、札幌駅を33分早く発車していた。 途中岩見沢駅で5分、滝川駅で10分、その他の列車交換時間を入れると僅か8分前に滝川駅を発車したばかりだった。 おいおい、かんべんしてくれよ。 それならあと8分ぐらい待っててくれよなあ。 まあそれも分かっていた話。 ここで綾小路さんが立てた計画は網走行きのオホーツク1号を利用することだった。 石北本線(新旭川−上川)の漫遊時に深川駅から旭川駅まで乗車した特急である。 この特急の滝川発が8時23分だったのである。 そしてオホーツク1号に乗車して8時38分に深川駅で下車した。 すると、なんと白石駅6時13分発の列車が待っているではないか。 そのまま旭川まで乗車すると2140円かかるが、滝川−深川間の特急利用は740円で済んだ。

 そして各駅停車に乗車して、9時14分にようやく旭川駅に到着した。 しかし、ここから稚内駅まで、全線を通して乗車できる各駅停車はなかった。 名寄駅まで運行する快速列車の発車までもまだ2時間あったので、ここは区間列車で出来るだけ多くの駅に下車する事にした。 もとよりこの区間の漫遊であったのだから、長距離を走破する列車に乗車する必要もなかった。 4分間の乗換時間であわただしく9時18分発の永山行き列車に乗車した。 そして下車した駅は隣駅の旭川四条駅だった。 両隣の旭川駅と新旭川駅は地平駅であるが、旭川四条駅は高架駅である。 地図を見ると、この付近は碁盤の目の通りの中に鉄道が敷設されている。 宗谷本線の列車に加え、石北本線の列車も運行する区間である。 まして永山駅までは通勤圏で、区間列車の運行は多く、高架にしないと渋滞がひどかっただろう。 駅前の通りは狭く、撮影者泣かせの駅である。(左) ホームは相対式で、ここでは列車交換風景が頻繁に見られるようだ。(右) 昭和32(1957)年2月に仮乗降場として開設、昭和48(1973)年9月に正式に駅として開業。


 ホームへの階段や待合室がある駅西側から、高架をくぐって駅東側に出てみた。 こちらからの眺望はよく、高架の様子がよく分かる。(右) しかし綾小路さんがここに来たのはそのためではなかった。 ここに旭川電気軌道の駅があったという。 旭川電気軌道は日本最北の電車軌道で、電車が貨車を引く客貨混合列車が道路の真ん中に敷かれた軌道上を走る、ユニークな鉄道だったらしい。 昭和2(1927)年に開業、昭和47(1972)年12月に廃止されるまで住民の足となり、農産物の輸送手段として活躍した。 当時、モータリゼーションの発達や沿線の市街地化が進み、路面電車の運行で渋滞がひどかったらしい。 とうとう電車の軌道上の運行が困難になり廃止されたという。 JR旭川四条駅が高架となったのもなるほどと思う。 このバス停奥の小さな事務所あたりに旭川電気軌道の駅舎があったらしい。 駐車場を挟んだすぐ隣のレンガ造りの食料品店は当時の農業倉庫が転換されたものだとか。(左)


 ここで一旦、旭川駅に戻る事にした。 宗谷本線の起点駅を撮影しなくては、というのはこじつけか。 駅弁を買わなければ・・・。 駅名と時計が支持された三角形の台座は新しく設置されたものである。(左) ちょうど1年前に来たときには台座はなく、入れ代わりに大きな駅名の電飾が撤去されたようだ。(右:H15-3-21撮影)


 ここでちょっといい事を思いついた。 駅前のデパートに上ると、この巨大な駅が見れないかと考えたのである。 屋上には行けないだろうと思っていたが、展望エレベーターから撮影できた。(左) 良く見ると期待していなかったが、遥か奥に富良野線専用のホームが写っていた。 いい光景だ。 本当に屋上に行けないのかな? そして改札を再び通って、ホームに出た。(右) 旭川駅は函館本線の終点であり、宗谷本線の起点でもある。 また、石北本線も全列車が旭川駅に発着するため、3面5線のホームがある。 そしてその奥には何本もの引込線があり、駅の最奥には富良野線専用の島式ホーム1面2線がある。 明治31(1898)年7月に現函館本線の駅として開駅、明治末期には『あさひがわ』に改称され、昭和末期に再度『あさひかわ』と改称された。


 再び旭川駅から出発するときがやってきた。 10時27分発、今度は比布行きの列車に乗車して旭川駅を後にした。 ここで『さあ駅弁だ』と言いたいところだったが、その前にひと仕事があった。 旭川駅は函館本線、宗谷本線、富良野線に加え、石北本線も実質は起点駅と言える大ターミナル駅である。 その点で言えば、道内最大の駅と言っても過言ではない。 そのターミナル駅の中に、かつて転車台と扇形車庫があった事を資料で見て知っていた。 一度、それが残っているのかどうか、残っていれば撮影したくて駅裏に回ったことがあった。 しかし広大な駅構内は立入禁止で、あえなく断念していたのである。 それが先ほどの往復で給水塔が残っているのを確認できていた。 カメラを構えて給水塔が近づくのを待った。 よーし、ここだ。 扇形車庫も給水塔の右側に見えるようだ。(左) 給水塔には『旭川運転所』の文字が見える。 駅構内にありながら、所属は『旭川駅』ではなく、『旭川運転所』だったようである。 そして、転車台まではこのときには分からなかったが、拡大すると確認できた。 転車台が分かりやすい別の写真を拡大したのが右の写真。


 よしよし、綾小路さんは給水塔と扇形車庫の撮影に成功して、上機嫌で朝食をとる事にした。 念願の蝦夷鴨めし¥920である。 醤油ご飯の上に錦糸玉子を乗せ、鴨肉が2枚、わらび、竹の子、葱など。 いやこれはうまい、うまいが鴨肉の量がちょっと少なくないか。 値段を考えると最低でも、もう一枚はほしいところである。


 列車は旭川四条駅の次に新旭川駅に停車した。 ご存知、石北本線の起点駅である。(左:H15-3-21撮影) ホームは2面3線であるが、改札を出た駅舎の脇は4番線、跨線橋を渡った島式ホームの駅舎側が3番線で奥が2番線となっている。(右:H15-3-21撮影) いったい1番線はどうしたのかいな。 ここだけに限った話ではなく、函館本線の茶志内駅も同様に、駅舎の一番奥側が2番線だった。 そういう1番線がない駅に限って、駅舎側から番号を付けるところが逆に付けられている。 大正11(1922)年11月、現石北本線の新旭川−愛別間の開業時に開駅されたようである。


 新旭川駅を発車して石北本線が分岐していき、しばらく走ると列車は速度を落とした。 あれっ、次の永山駅はまだだと思っていると車内放送が入った。 旭川運転所に停車するという。 先ほど、旭川運転所は旭川駅構内にあったはずだがと思ったら、どうも移転してすぐのようだった。 ということは・・・、旧旭川運転所=旭川駅構内の転車台と扇形車庫、給水塔が撤去されないか心配になってくる。 短い鋼製のホームに・・・、待合室なんていらないだろうに!(左) 多くの引込線上には今は使われていないだろう客車と、石炭か砂利か分からないが鉱物用の運搬車が見える。(右) それにしても鉄道マニアとしてはここで下車してみたいものである。


 この後、列車は永山駅に停車したあと、北永山駅と南比布駅は通過して比布駅に到着した。 少し古そうな駅舎はピンク色に塗装されている。(左) 看板には『ようこそスキーといちごの比布町』と書かれていて、どうやら『いちご』を意識したもののようだ。 もう何年も前の話らしいが、エレキバンのCM撮影に使われたこともあるらしい。 ホームは相対式2面で線路も2線であるが、昔は違ったようだ。 少なくとも駅舎の対抗ホームは島式ホームでその奥、防雪林の近くまで線路があったような雰囲気である。(右) 明治31年11月、天塩線(当時)が永山から蘭留まで延伸したときに開駅。


 名寄行きの快速列車の発車まではまだまだ時間があった。 そこで乗車してきた列車の折返しに乗車して永山駅まで戻った。 ファサードが前面に突出て、隣接した食堂とつながっている。(左) 後で改造されたのと思いきや、1979年の写真でも同じ形をしている。 ホームは相対式であるが、やはり駅舎の対抗ホームは元は島式ホームのようである。(右) 明治31年8月に天塩線の旭川−永山間が開業したが、もちろんこのときに開駅している。 当時、屯田兵二個中隊が入植して開拓に従事していたところで、ときの屯田兵司令官・永山武四郎の姓が地区名となったことに由来する駅名である。



 11時27分発の名寄行き快速列車『なよろ1号』がやってきた。 綾小路さんはこの列車に乗車して名寄駅を目指した。 永山駅を発車すると北永山駅はまたも通過、各駅停車でも通過するのだから快速が通過してもあたりまえである。 その後、石狩川を渡ると左手には、真っ白な雪の中に黒っぽいものがちらほら見えてきた。 それは小さな小川を渡っていた橋梁の橋台だった。 この付近はかなり長い区間に渡って路線変更されたのか、それとも複線区間が単線に戻されたのかもしれない。


 なよろ1号は南比布駅は通過、比布駅に停車した後、北比布駅は通過した。 そしてさすがに快速列車、列車交換駅の蘭留駅も通過した。 ここは『ふるさとの駅』に描かれている木造駅舎は撤去され、代わりにプレハブ風の簡易駅舎が設置された。(左:H15-3-26撮影) ホームは相対式2面で引込線も敷かれている。(右:H15-3-26撮影) 明治31年11月に開駅。


 なよろ1号はここから難所、塩狩峠に挑むため坂を上り始めた。(左) 塩狩峠は三浦綾子の小説『塩狩峠』の舞台になった場所である。 塩狩峠には塩狩駅があり、近くには小説のモデルとなった長野政雄氏が、列車事故で殉職したことの顕彰碑や、小説の記念館が建っている。 急勾配でSLが煙を上げながら塩狩峠に挑む写真を目にしたことがあった。 しかしこの車両はキハ40系だったが軽快に峠を上っていく。 右に左にカーブを繰り返し、高度を上げていった。 そして、ようやく目の前に見えるカーブがこの峠の最高点だろう。(右)


 カーブを曲がると塩狩駅は100mぐらい先である。 ここは5月8〜18日には停車するようだが、今日は通過する。 そのため列車のなかから木造駅舎を撮影した。(左) 駅舎は崖を背にしているので普通は妻面に入口があるものだろう。 しかし入口はあるが扉一枚でどうみても勝手口である。 結局はホーム側に回って駅舎内に出入りするのが得策のようだ。 ホームは相対式2面で千鳥に配置されている。(右:H15-1-15撮影) 大正5(1916)年9月に信号場として開設、大正13(1924)年11月に一般駅として開駅。


 塩狩駅を通過すると今度は直線的に峠を下り、程なくして列車は和寒駅に停車した。 ここの木造駅舎も撤去され、プレパブ風の簡易駅舎が建つばかりであった。(左:H15-1-15撮影) ホームは千鳥に配置された相対式2面で列車交換可能である。(右:H15-1-15撮影) しかしこの写真を見ると左側にもう1本線路があったような感じがする。 明治32(1899)年11月に天塩線が和寒まで延伸したときに開駅。


 和寒駅を発車すると東六線駅は通過、なよろ1号は次の剣淵駅に停車した。 ああ悲し、ここの木造駅舎も撤去され、プレハブ風の簡易駅舎が建っている。(左:H15-9-7撮影) 昭和63(1988)年に新築されたらしい。 ホームは相対式2面で列車交換も可能、他に貨物ホームも駅舎と跨線橋の間に見える。(右:H15-9-7撮影) 開駅は明治33(1900)年8月、天塩線が士別までの延伸時である。


 なよろ1号は北剣淵駅を通過して、12時13分に士別駅で停車した。 停車1分後に発車したが、ここから名寄駅まで停車する駅はなく、すべて通過する。 まずは下士別駅を通過した。 木造トタン張りの待合室に、コンクリートパネルの片面ホームである。(ともにH15-3-27撮影) 『ふるさとの駅』ではトタンは張られてなく、木造の壁がむき出しで描かれている。 昭和34(1959)年11月に開駅。


 その次の通過駅は多寄駅、プレハブの簡易駅舎に、コンクリートパネルの片面ホームである。(ともにH15-3-27撮影) 元は仮乗降場かと思いきや、天塩線が名寄駅まで開通した明治36(1903)年9月の開駅となっている。 ええっ、なんと『ふるさとの駅』では短いが(30mぐらいか)、駅前通りの奥に木造駅舎が描かれている。 現在の駅へは線路脇から横に入る構造なので、少し移転したのかもしれない。


 次に通過したのは瑞穂駅だった。 木造トタン張りの待合室に、短い板張りの片面ホームのようである。(ともにH15-5-11撮影) 昭和31(1956)年9月に仮乗降場として開設、駅に昇格したのは昭和62(1987)年4月、JR発足時である。


 風連駅にはまたもプレハブ風の簡易駅舎が建っている。(左:H15-1-15撮影) ホームは千鳥配置の相対式2面である。(右:H15-1-15撮影) ところが『ふるさとの駅』では木造駅舎に線路は3線が描かれている。 その内、駅舎から奥の1線は他の2線と離れているので、駅舎に対抗する写真のホームはやはり島式ホームだったのだろう。 明治36年9月に開駅。 駅舎は平成元(1989)年に新築されたものらしい。


 名寄駅の手前には東風連駅がある。 市販のプレハブ倉庫を改造した待合室に、コンクリートパネル張りの片面ホームで構成されている。(ともにH15-3-27撮影) 昭和31年9月に開駅。



 なよろ1号は12時32分に名寄駅に到着した。 しかしここでのんびりしていられない。 稚内行きの列車の発車は10分後だった。 この間に駅弁を購入しなくては。 この時間まで残っていた種類は少なかったが、お気に入りのニシンカズノコ弁当¥800が残っていたので迷わずに購入した。 列車に乗込んで掛紙を見つめた。 何か前と違うような気がしたが中身は同じ、綾小路さんは満足であった。


 その掛紙はやはり変更されていた。 帰って以前の写真と比べると全然違っていた。 これはいいね、いろんな掛紙を集めるのも悪くない。 中身は同じでおいしいから。(ともにH15-3-27撮影)


 12時42分に名寄駅を発車して日進駅で停車、発車後に天塩川が左手に見えだすと、次の智東駅が見えてきた。(左) 前回も書いたが3月31日までの冬季間は停車しない臨時駅である。 この後に紋穂内駅から日進駅に移動する時にも撮影した。(右) ここは車掌車を改造した待合室と、ホームは片面1線の駅だと思っていた。 しかし左の写真奥の線路のカーブを見ると、かつては列車交換ができたのではないだろうか。 ああ、しかし今ここで下車してみたいものだ。 大正13(1924)年6月に開駅。


 いくつもの駅に停車した後、列車は13時18分に紋穂内駅に停車して、綾小路さんはここで下車した。 1979年の写真を見ると木造駅舎だったが、現在は車掌車『ヨ』の1形式を改造した待合室が置かれているばかりである。(左) ホームは前面道路より高い位置になっていてスロープで上がるが、昔はその前に駅舎が建っていて、5〜6段くらいの階段で上っていたのだろう。 そのホームは片面で列車交換はできない。(右) しかし1線の線路の奥にはもう1線あったようなスペースが横たわっている。 いかんせん雪が積もっていて、その下がどうなっているのか。 線路の曲がりでは判断できないが、かつては列車交換駅だった可能性はあるようだ。 明治44(1911)年11月、名寄−恩根内間の開業時に開駅。


 紋穂内駅から一旦、日進駅まで戻った。 短い板張りの片面ホームに木造の待合室が置かれている。(左) おや、待合室の屋根は以前は緑だったが、青く塗られたようだ。(右) 壁もきれいに化粧直しされたようである。 それにしても、駅名の間のマークは何なのだろうか? ここは昭和34(1959)年11月に開駅。


 この後、14時35分発の下り列車に乗車して智恵文駅で下車した。 1979年の写真に写っている木造駅舎は撤去され、その基礎の上に車掌車改造の待合室が置かれている。(左) 壁に描かれているのは智恵文ひまわり畑のようすだろうか。 なんでも東京ドーム2個分の敷地にぎっしり咲き誇るとか。 ホームは片面1線で列車交換はできない。(右) しかし線路の奥を見ると、どうやらここもかつては列車交換できたようである。 開駅は紋穂内駅と同じく明治44年11月。


 さて、昨年も智恵文駅に来たというのに、今年も来たのには訳があった。 隣の北星駅に徒歩で行くためだった。 宗谷本線も名寄以北は列車本数が少なく、徒歩で移動しないと時間がもったいない。 のんびりと田舎道を1.9キロ歩き、北星駅に到着した。 短い板張りの片面ホームと木造の待合室の駅である。(左) 待合室はぼろく、『毛織の北紡』との大きな看板が掲げられている。(右) そんな企業は聞いた事がないなあ。 看板の雰囲気からして昭和中期のころだろうか。 昭和34年11月の開駅でもあることだし・・・。



 さあ今日の予定は終了した。 綾小路さんは16時50分発の下り幌延行き列車に乗車して、天塩川温泉駅で下車した。 そう、今日の宿泊は天塩川温泉住民保養センターである。 ひと風呂浴びたあと、レストランでの夕食はお好みで取る事にしていた。 目玉はもちろん『音威子府そば』である。 『見てビックリ、黒い!食べてビックリ香りがスゴイ! そば殻を一緒に製粉するからそば本来の風味が味わえる。』 これが音威子府そばの宣伝である。 何?、製法は門外不出で畠山製麺が製造しているとか。 いや、知りませんでした。 冷酒を2本も飲んでしまった綾小路さんはこのあと、温泉にもう一度入ろうと考えていたが、いつの間にかぐっすりと眠りについていた。

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