******************************************************************

History of Beastie Boys

******************************************************************

ビースティ・ボーイズ結成

マイク・ダイアモンドがジョン・ベリー、ケイト・シュレンバックと組んでいたヤング・アボリジニというバンドをたった一日で解散させた後、1981年にアダム・ヤウクを加えてニューヨークで結成されたのがビースティ・ボーイズである。
最初のステージはヤウク17歳のバースデー・パーティーでのパフォーマンスだった。ハードコア・パンク・バンドとして立ち上がったビースティーズは、お世辞にも上手いとはいえないそのパフォーマンスで世間の不評を買ったが、この年の暮れに『ポリー・ウォグ・シチュー』なるEPをレコーディングし、年明け早々にリリース。ここでも不評を買うことになる。
EPのリリース後にベリーがバンドを脱退。その後釜としてヤング・アンド・ザ・ユースレスで活動していたアダム・ホロヴィッツが加入することになる。
この頃から、ヒップホップがニューヨークで新しい音楽として登場すると、ビースティーズのメンバーも大いに影響を受け、1983年に『クッキー・プッス/ビースティ・レヴォルーション』なるシングルを発表。音楽的には特にどうと言ったことのないこのシングルだが、なんと英国航空がTVCMに「ビースティ・レヴォルーション」を使用していたことが判明し、英国航空に対して訴訟を起こし、まんまと4万ドルを英国航空からせしめる事に成功したのである。
リック・ルービン、ラッセル・シモンズと組む事になったビースティーズだが、ルービンの女性蔑視的態度からシュレンバックが脱退、それぞれが芸名を付けて、現在のビースティ・ボーイズが出来あがった。

バンド・メンバー

マイク・ダイアモンド 1965年11月20日マンハッタン生まれ 通称:マイクD (Vo./Dr)

アダム・ヤウク 1967年ブルックリンハイツ生まれ 通称:MCA (Vo./B)

アダム・ホロヴィッツ 1966年10月31日マンハッタン生まれ 通称:アドロック (Vo./G)

笑撃のデビュー作『ライセンスト・トゥ・イル』

1984年にルービン、シモンズが発足させたレーベル「デフ・ジャム」の第二弾シングル(記念すべき第一弾はLLクールJの「アイ・ニード・ア・ビート」)として11月に「ロック・ハード/ビースティ・グルーヴ」をリリース。
さらに、あのマドンナのライク・ア・ヴァージン・ツアーの前座としてマディソン・スクエア・ガーデンなどの大舞台に立つチャンスを与えられ、彼らはWANNA-BEなマドンナ・ファンの前でしっかりと聴衆を嘲ることに成功したのである。
そして、86年に『ライセンスト・トゥ・イル』を発表。これが、大ヒットとなってしまう。今ではメンバーはその存在を忘れたいようであるが、全米1位のこのアルバムはラップ、ヒップホップをアメリカのメインストリームへと押し上げるのに一役買ったことは間違いないであろう。
その中でも「戦え、権利のために、そうパーティーする権利のために」と歌われた「ファイト・フォー・ユア・ライト」は全米2位、全英3位の大ヒットを記録し、歴史に残る迷曲となってしまう。
ビースティーズのメンバーは、笑いのセンスには長けていたが、それが時として問題を起こすことも少なからずあった。女性蔑視的な歌詞、常軌を逸した態度、発言などは評論家の絶好の標的となることも多かった。
当時の彼らは、あからさまな猥談やホモに対する差別発言などお構いなしでインタヴューに答えていたし、ステージにはドデカイ油圧式のイチモツが表れ、リバプール公演ではアドロックがステージに飛んできたビールの缶をバットで撃ち返したものが観客席の女性に当たったと訴えられ、逮捕までされてしまった。アド・ロックはこのことに関しては無実を主張しているが、メンバーの行動が行き過ぎていたのは明らかであった。今では彼らは、当時のこういった行動や発言を後悔しているようである。

ニューヨークからロサンゼルスへ

ファースト・アルバムでの信じられない成功は、彼らの状況を悪い方へと導いていった。
アドロックは映画『ロスと・エンジェルス』に出演するが、興行的には失敗に終わる。
そして、ラッセル・シモンズがビースティーズが稼いだ印税の支払いを拒否すると、シモンズとメンバーの間に確執が生じ、訴訟にまで発展してしまう。結局ビースティーズはデフ・ジャムを離れ、キャピタルと新たに契約を交わすことになる。
3人はニューヨークからロサンゼルスに移り、訴訟問題などを乗り越えて、ダスト・ブラザーズを迎えて89年にセカンド・アルバム『ポールズ・ブティック』をリリース。限定盤レコードジャケットは、マンハッタンの街角を8面ジャケットで再現するといった形をとったちょっとユニークなジャケットになっている。その「Paul's Boutique」の看板は、撮影時に本当にあった店が閉店されてしまっていたため、後から付け足したものらしい。
とにかく、満を持して発表されたこのアルバムの評価は、当時賛否に大きく分かれた。
ビートルズやスライ&ザ・ファミリー・ストーン、アリス・クーパーなどを絶妙にサンプリングし、ヒップホップのアルバムとして傑作を作ったものの、結果的にこの作品は過小評価され、売れ行きも期待外れに終わってしまう。

グランド・ロイヤル設立

前作で使用しなかった楽器の演奏。彼らは再び自分たちで演奏するという形を取った。自分たちのスタジオを建てて、大工のマーク西田を仲間に引き入れてレコーディングに励んだ。
92年に3枚目のアルバム『チェック・ユア・ヘッド』をリリース。ここでもビースティーズのスタイルの変化に賛否が飛んだ。
しかし、今回は売れ行きも好調でトップテンヒットのアルバムとなる。
自前のスタジオを建設したビースティーズは、これを利用して自分たちのレーベルを立ち上げることにする。
「グランド・ロイヤル−新鮮度抜群、素晴らしいこと間違い無し」といった意味を持つこのレーベル名はビースティーズの友人のビズ・マーキーの口癖から頂戴したもので、彼らのレーベル運営を象徴する、まさにうってつけの名前である。
レーベルのロゴは『チェック・ユア・ヘッド』にも載っていたが、実質的なグランド・ロイヤルからの最初のアルバムは元ビースティーズのオリジナル・メンバーであったケイト・シュレンバックのバンド、ルシャス・ジャクソンの作品である。
その後も、ジョン・レノンの息子のショーン・レノンのアルバムやビス、ベン・リー、アタリ・ティーンエイジ・ライオット、日本からはバッファロー・ドーターなど多岐にわたるアーティストの作品をリリースしている。
93年には同名の雑誌を創刊。当初はファン向けのニュースレターになるはずだったが、最終的に雑誌という形をとってスタートさせることになった。
自分たちの好きな事を題材とすることをモットーにして、創刊号ではブルース・リーを特集。5000部のみ発行された創刊号はすでにプレミアものになっている。
その後も、リー・ペリー、ビンポール・プレイヤーのライマン・シーツなどを特集している。
この雑誌の編集に当たっているのはボブ・マック。彼は以前「SPIN」誌でビースティーズのバスケットの腕前をこきおろし、ビースティーズに逆に罵倒されているが、現在ではお互いを認め合う仲になっている。
これらグランド・ロイヤルの経営に対しては、マイクDがその中心となっているが、さらに彼はX−ラージなるTシャツ会社の設立にも参加し、ヒップホップ界の実業家として活動している。
一方ヤウクは1990、92年にネパールに行ったことを機にチベット問題に興味を抱くようになり、自らチベットをサポートする道を選ぶことになる。

チベタン・フリーダム・コンサートと『ハロー・ナスティー』の成功

1993年5月にニューアルバム制作のため、故郷ニューヨークに戻ったビースティーズのメンバーは、あえて前作のスタイルを生かしてレコーディングを始めた。ニューヨークの猥雑さと、ロスでの自分たちだけの世界が上手く重なり合って完成したのが『イル・コミュニケーション』である。
このアルバムに収録されている「サボタージュ」はスパイク・ジョンズ監督の刑事ドラマ仕立てのプロモーション・ビデオもインパクトが強く、結果としてビースティーズの代表ナンバーとなっている。
このアルバムからはシリアスなメッセージも目立つようになり、「シュア・ショット」ではヤウクは過去の不品行や女性蔑視を反省し、女性を心から尊敬するとラップしている。 (98年のレディング・フェスティバルでプロディジーに女性蔑視的な曲「スマック・マイ・ビッチ・アップ」を演奏しないでほしいと電話し、プロディジーがステージで「やるかやらないかなんて俺たちの自由さ」と言って演奏した話は有名)
94年にヤウクはミラレパ基金を設立し、96年には第1回チベタン・フリーダム・コンサートを開催することに成功し、多くの若者にチベットの惨状を伝えることに一役買っている。
96年に全8曲11分というハードコア/パンクEP『アグリ・エ・オリ』(イタリアの家庭料理のパスタのこと)を発表し、長いインターバルを経て98年には、5枚目のアルバム『ハロー・ナスティ』をリリース。今回は3人が共同で詩を手がけ、ハードコアのナンバーをあえて排する手法を選択。いつものメンバーに加えてミックス・マスター・マイクをDJとして起用し、そのクールなスクラッチの腕前を惜しげなく披露している。音楽的な面で非常に濃厚なビースティーズの集大成的なこのアルバムは見事全米1位に輝き、その存在感を見事に示す結果をもたらした。
シングル「インターギャラクティック」のプロモーション・ビデオの撮影を日本で行い、その後行われた全米ツアーでは円形のステージで360度のビースティー・サウンド&パフォーマンスを披露。残念ながら日本ではこの円形ステージは実現しなかったが、久しぶりに来日公演を果たしてくれた。
99年には初のベスト・アルバム『サウンズ・オブ・サイエンス』をリリース。CD2枚で42曲のボリューム! ベスト盤のリリースは確実にビースティーズにとって一つの節目を迎えたことを意味している。
2000年はそれまでの順風が嘘のように苦難の年になってしまった。過去4度行われたチベタン・フリーダム・コンサートは完全に中止(それでも、日本だけでも開催しようとMCAはじめ関係者が努力をしていたが)。さらにマイクDの自転車での事故のため、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとの"rhyme & reason 2000"のツアーまでもが中止に。それでも、DVDによるアンソロジーをリリースし、2001年には再びチベタン・フリーダム・コンサートの開催が企画されている。新作の発表はまだありそうにないが、ビースティーズの次の一手が何になるのか? まあ、気長に待つとしましょう。

グランド・ロイヤル廃業

最近ではアット・ザ・ドライブ-インの『Relationship Of Command』が世界で約100万枚の売り上げを収めていたグランド・ロイヤルだが、8月31日に山積みの負債と資産の減少、経営状態が極端に厳しくなったことが理由となり、事業に幕を閉じることになった。
マイクDは声明で「これは今までで最も困難な決定のひとつだ。グランド・ロイヤル・ファミリーは何年もの間、業界で最も才能のあるミュージシャンとスタッフを抱えて成長してきたが、その成長が経費とインフラの面でもはや存続不可能な状態を生み出してしまったことは悲劇だ。俺たちの目的は単に、いつでもエキサイティングな音楽とそれに情熱を向ける人々が集まる居場所を創り出すことだった。そういったことが続けられなくなって本当に気が滅入るよ」と語っている。
今後も一部作品は発表されるようであるが、グランド・ロイヤルの廃業にチベタン・フリーダム・コンサートの延期と去年の"rhyme & reason 2000"のツアーの中止以降ビースティーズには試練が続いている。


このページのトップに戻る

Beastie Boysに戻る

home