RUSH EARLY STORY - Part U




 RUSHはそれからしばらく、順調に進んでいきます。Coff−Inでの評判も良く、ハイスクールのダンスなどの仕事も入って、学業と バンドを両立させながら、忙しくやっていました。そして1969年1月、バンドはサイドギター兼キーボード兼サイド・ヴォーカルとして、 Lindy Youngを加入させます。
   LindyはAlexの学友Nancyのお兄さんで、Alex憧れのギターであるギブソン・ファイアーバードを持っていました。そこで、Alexが Nancyに頼みこんで、ギターを貸してもらったことから知り合い、LindyはRUSHのギグを見に来て、飛び入りでキーボードをプレイします。 それがきっかけで四人目のメンバーとなるわけですが、このLindyさん、担当を見てもわかるとおり、なんでもできる人で、ギター、 キーボード、ヴォーカル、さらにブルースハープも演奏し、音楽の幅が一気に広がるのです。
 が、マルチ・ミュージシャンLindyが加入したことで、バンドの人間関係が少々崩れ始めました。
 JohnとGeddyとの間の確執、とバイオには書かれています。Johnは自分がギグの司会をしているのだけれど、Geddyがリードシンガーと して必要以上に注目を集めすぎるのがおもしろくなかった、と。Lindyという新たなタレントが来たのだから、Geddyがいなくてもやって いけそうだ、とJohnは思い、追い出しにかかったとか。AlexとLindyもそれに従い、1969年5月、Geddyがバンドを抜け、一度RUSHは解散と いう形を取ります。
 AlexとJohn、それにLindyはJoe Parnaというベーシストを加えて、Hadrianとバンド名を変え、Geddyは6月にOglivieというバンドに 加入し、すぐにこのバンドはJuddと改名されます。

 このあたりの経緯は、今だったらちょっと大事だったかもしれませんが、まだRUSHが学生バンドだった頃の話ですから、これもまた、 良くあることだったに違いありません。Geddyにしても、一方的にバンドから追い出されるのは心外だったでしょうし、多少傷ついたりも したかもしれませんが、だからといって他のメンバーと険悪になったわけではなく、Hadiranのギグにも行っていたようですし、Lindyとは 特に親しかったようです。その頃、Lindyの妹のNancyと付き合い始めていた、ということもあったのでしょうが。
(ちなみにNancy Youngさん、Geddyの奥さんです。94年にKylaちゃんが生まれて休業したようですが、カナダではけっこう成功していた アパレル・デザイナーだったとか)

 そういうわけで、二つに分裂したRUSHは、Juddはうまくいったけれど、Hadrianはいまいち、という皮肉な結果を残し、その夏の終わりに はLindyがバンドを抜け、Joeもやめてしまって、AlexとJohnはまた二人に逆戻り、という状態になってしまいます。でもJuddもうまく いっていた、というものの、結局9月にあえなく解散してしまいます。
 そこでAlexとJohnはもう一度Geddyに戻ってきてくれるよう頼み、RUSHが再結成されるわけです。お互いに相手が必要だったのだ、という 認識に到達するまでに、ちょっと回り道をしたわけですが、これも結果的に必要なプロセスだったのかもしれません。

 再スタートしたRUSHは、その後は順調に活動を続けていきます。メンバー全員16歳、ハイスクールに通いながらのバンド活動ですが、 オリジナル曲も増え、ギグはいつも満員、でもそれが皮肉なことにCoff−Inのキャパに収まりきらなくなって、Coff−Inは閉鎖されてしま い、バンドは演奏場所を求めて、オンタリオ湖畔の各都市へ遠征したりもしました。学校が終わってから車に飛び乗り、数時間のドライブ ののち、目的地に到着、そこでギグをして、機材を撤収して、それからまたTorontoに戻る──帰りは真夜中だったに違いありません。 次の日も学校あったでしょうから、なんとも凄いスケジュールです。でも、Alexはその時代を回想して、
「楽しかったよ。学校が終わるのが、待ちきれなかった」と言っていたそうです。

 69年の終わり頃、Led Zeppelinがカナダでも人気となり、RUSHのメンバーももろにその洗礼を浴びます。それまでのRUSHはCreamの ようなブルーズ・ロック・バンドで、AlexはEric Craptonのようなスタイルで弾き、Geddyは低いキーで、Jack Bruceふうに歌っていた そうです。が、Zeppelinの洗礼を浴び、ファーストアルバムで聞けるようなスタイル──アグレッシヴなギターや、Robert Plant風 金属的ハイトーンをフィーチャーしたものへと、RUSHのサウンドが劇的変化を遂げたわけです。
 メンバーはバンド活動の合間にアルバイトをし、自活しながら学校にも通い、と忙しい毎日を送っていました。ことにAlexは1970年に 同棲中のガール・フレンドCharlene McNicholさん(「VICTOR」にもゲスト出演していた、奥さんです)との間に赤ちゃんができて、 生活のために学校をやめ、バンド活動の傍らガソリンスタンドで働いたり、お父さんと鉛管工事などをしていたりもしたそうです。

 1971年の初め、Ontario州の飲酒年齢が21歳から18歳に切り下げられます。それは、クラブで演奏するのに21歳まで待たなくともいい、 と言うことを意味します。そこでRUSHも、なのですが、当時はまだメンバーみんな17歳なので、9月まで待たなくてはなりませんでした。
 その間の二月に、RUSHは四人目のメンバーとして、Mitch Bossiという人をリズム・ギタリストとして加入させますが、結局この人は 音楽をあくまで趣味として捉えていたために他のメンバーと歩調が合わず、たった三ヶ月で脱退しています。それ以降、RUSHはずっと スリーピース・バンドでありつづけるわけです。来日時に、メンバーが(誰だったかは、もう覚えていません。すみません)、
「何度か四人目のメンバーが入ったんだけど、みんなすぐ脱退してしまった。僕らにはやっぱりスリーピースという形が合ってるみたいだ」 と、言っていた記憶があります。

 1971年8月末、やっとメンバー全員18歳になるわけですが、でもオリジナル曲が増えて来て、それに自負を持っていたRUSHのメンバーは、 あくまでオリジナル中心で演奏したいと主張したおかげで、その夏はたった三回しか、ギグができませんでした。ファンの間では有名な、 「The Dead Summer」です。やっぱり自分の知っている曲を聴きたいというお客が主流だったのでしょう。
 でもなんとかその夏を耐えしのぎ、その間にさらにオリジナル曲も充実させて、秋からは、ようやくクラブギグもできるようになる。 そこでメンバー全員学校を辞めて、本格的なプロを目指し始めます。
(ただ、ハイスクールは中退したのか卒業したのか、はっきり事実の裏付けが取れないのですが。向こうは9月に学年が切り替わるので、 AlexもGeddyも、日本流に言えば「早生まれ」に当たるはずだから、もう卒業の時期になっていたのかもしれないのです)
   トロント市内やオンタリオ州各都市のクラブや学校の体育館でのギグをこなしながら、オリジナルのレパートリーも増やし、忠実な ファンたちもまた増やしながら、彼らのセミプロ生活は続いていきます。同時にAlexは友人の一人とクラシックギターのレッスンに通い ますが、半年ほど続けたところで、その友人がバイクで事故を起こし怪我をしてしまって、一緒にレッスンを止めてしまったそうです。

 RUSHの人気がオンタリオ州内で高まってくるにつれ、ハイスクールバンドだった頃からマネージメントをしていたRay Danniels (当時は彼も、まだ高校生だったらしい)は、彼らを何とかしてレコード会社と契約させて、プロにしたいと、本格的に動き始めます。 でもその頃のカナダではソフト路線が主流で、ハードロックに興味を示すレコード会社はありませんでした。
 72年の終わり頃、RUSHはデモテープを製作しますが、やっぱりレコード会社には相手にされませんでした。
 そこで、73年の夏には、ファーストシングル「Not Fade Away」(バディ・ホリーのカヴァー)を自主製作します。これも、 ほとんどのレコード会社は見向きもしませんでしたが、ロンドン・レコードだけが、
「契約はしないが、自主製作盤の配給だけならしてもいい」と言ってくれたので、このシングルは陽の目を見ました。が、売れません でした。まあ、もともと数を作っていない上に、
「なんでわざわざ、これがファーストシングル?」と思いたくなるような、似合わない、と言うか、RUSHのカラーにそぐわない曲 でしたし、無理ないかもしれません。
 でも不思議に思うのは、71年の夏には、オリジナル中心に演奏させてくれ、カヴァーはやらない、と言って、たった三つのギグでも めげなかったバンドが、大事なデビュー曲とも言えるファーストシングルに、なぜわざわざカヴァー曲を選んだのか、と言うことです。 それでもデビューしたかった、という思いのほうが強かったのでしょうか。でも結局、らしからぬことは、失敗を招くものです。

   でもめげない彼らは、今度は思い切った冒険に出ます。すべてオリジナル曲で固めたフルレンスアルバムを、自主製作で作ってしまおう と。Ray Dannielsと相棒のVic Wilsonもその試みにのり、彼らにできる限り財政的&営業的な支援を約束します。とはいえ、RayもVicも メンバー同様若く、お金持ちでは決してないから、それほどお金が出せるわけではない。メンバーも生活があるので、制作費に注ぎこめる ギャラはそう多くない。というわけで、できるだけコストを切り詰めるため、スタジオの使用料が一番安い時間帯──真夜中──にレコー ディングし、プロデューサーも名の知れている人はギャラが高くて無理なので、無名の人を使うことになりました。
 夕方五時くらいから夜十二時くらいまでクラブでギグをし、機材を撤収してスタジオに運びこみ、朝までレコーディングをする。 それから家に戻って数時間仮眠し、午後にはまたその日のギグの準備をする、そんなスケジュールで、一週間ほどで、ファーストアルバム のレコーディングは終わったわけです。
「クラブのギグでウォーミング・アップが終わっているから、スタジオに入ってもテンション高くて、すんなりレコーディングできた」と、 Alexは後に言っています。たしかにそういう点もあるでしょうが、しかし──ハードですね。彼らは当時二十歳になったばかり、体力的 にはピークの若さだったから、そして大きな目的意識があったから、できたのでしょうが。

 でも、起用した無名プロデューサーは結果的に失敗で、メンバーは出来上がったサウンドに失望します。そこでRayとVicはさらに大きな 冒険に出、なんとかお金を捻出して、もう少し名の通ったプロデューサー──Terry Brownを起用します。でも全体をやりなおす暇はなく (と言うか、経済的に無理)、リミックスと、いくつかの曲をレコーディングしなおし、一曲目に予定していた「Not Fade Away」を 落っことして、かわりにオリジナル曲の「Finding My Way」(これが最後の追加曲だったとは、ちょっと意外)をレコーディングして、 入れました。
 そうして出来あがったのが、あのファーストアルバムです。もうジャケットデザインにかける費用がなかったので、Ray Dannielsは、 自分がマネージメントを手がけている別のアーティストに、たまたま絵心のあるメンバーがいたので、その人に頼んでデザインして もらったのだそうです。それで出来たのが、あのジャケットです。(オリジナルのムーン・レコード盤はロゴカラーが赤だったそうです。 マーキュリー盤はピンクですが)

 そうして出来あがったアルバムを引っさげて、RayとVicは契約してくれるレコード会社を探しに行くわけですが、やっぱりどこもダメ でした。シングル盤と同じく、ロンドン・レコードが自主製作盤の配給だけなら引き受ける、という返事でしたので、シングル同様、 自主製作レーベルであるMoon Record(のちにAnthemと改名)からリリースし、配給だけはロンドン・レコードで、という形になりました。 それも、年内リリースを目指していたのですが、おりからの石油ショックで(そういえばこの頃、トイレットペーパーが買い占められて なくなったり、レコード盤も含めた石油製品が市場からなくなると噂されたりしたと、記憶しています)、リリースが遅れ、74年1月に 発売となりました。
 でも自主製作盤ですから、プロモーションなどは何も出来ず、バンドはただ今まで通りギグを続けて、自分たちの音楽に興味を持って くれる人を増やして行くしか、手段がありませんでした。




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