RUSH EARLY STORY - Part I




 1952年9月12日、Neil PeartはHamiltonの病院で、産声を上げました。父親のGlen Peart氏はOntario州Hagersvillという町の近くで、 農場を経営していました。Neilの自叙伝「Port Boy Story」によると、Neilは赤ん坊の頃、馬のマグサ桶にしばしば寝かされていたそう ですが、それは別にキリストとは何の関係もなく、ただ両親が牛の乳を絞る時に、邪魔にならないためだったそうです。
「今でも農場の匂いを懐かしく感じる」と、彼は書いていますが、夫妻は二年後、農場を売り払い、Ontario湖のSt. Katherines(当時は、 まだPort Dalhousieという町だったそうですが、後に吸収合併されたのだそうです。)に、移り住みます。そしてPeart氏はそこで、 農耕器具の販売会社にマネージャーとして勤めはじめます。
 Neilは夫妻の最初の子供で、St. Katherinesに引っ越してまもなく、弟のDannyが、それから一年後に妹のJudyが生まれ、さらに十年 近くたって、末の妹Nancyが生まれたそうです。つまりNeilは四人兄弟の長子ですね。
 Peart家は典型的な中流家庭(と断言していいか、わからないけれど)だったようです。 果樹園の跡地だったらしい、庭に遊具や砂場のある家で育ち、母親が仕事を持ってからは父方の祖母に時折世話にもなりながら、 弟妹や近所の子供たちと外で遊びまわって、ごくごく普通の子供時代を過ごした、と本人は書いていました。

 1953年7月29日、Gary Lee WeinribはToronto近郊のWillowdaleで生まれました。両親はユダヤ系ポーランド人で、第二次世界大戦中、 ナチスの支配下に置かれたポーランドで、あの悪名高いアウシュヴィッツ収容所に入れられたという過去を持ちます。Weinrib夫妻は、 (その頃すでに結婚していたかは不明だけれど)奇跡的に生き残りますが、やっぱり他のユダヤ系ポーランドの人たち同様、その地獄の ような経験と結びつく土地にいるより、と、新天地を求めて、戦後カナダに移民しました。最初はニューヨークへ行こうとしてらしい ですが、同じユダヤ人移民の仲間からカナダがいいと聞かされて、行き先を変更したそうです。
 GaryにはAlanという兄弟(兄か弟かは不明)と、名前はわからないお姉さん(この人がたぶん、Rocket ScienceのRobbie Higginsの お母さんと思われます)がいまして、三人兄弟ですね。GaryがGeddyになったわけは、母親がイディッシュ語(ヨーロッパ系ユダヤ人の 使う言葉らしい)なまりがひどく、人にはGaryがGeddy に聞こえたので、友達がおもしろがって呼び出したというのが、最初らしいです。
 ちなみに父親はGeddyが13歳の時、他界しているそうです。アウシュヴィッツ時代に健康を害したのがもととか。その後、肝っ玉母さん (なんか、このMary Weinribさんって人の人物像、わたしの想像では、そう思えてしまう‥‥)が女手一つでヴァニティ・ショップを 経営し、三人の子供たちを育て上げたそうです。
 とまあ、バックグラウンドはかなりへヴィですが、本人は普通の子供時代を送っていたようです。

 そして1953年8月27日、Alexander Zivojinovichが、British Columbia州のFernieで生まれます。Fernieは鉱山の町で、町の ほとんどの人が炭坑夫を生業としていたそうです。旧ユーゴスラヴィアのボスニアから移民として、戦後カナダに渡ってきたAlexの父親、 Ned Zivojinovichも当時、炭坑夫として働いていたそうです。ちなみに母親のMillieさんも、同じセルビア系のボスニア・ユーゴスラビア 移民。たぶん一緒に来たのだと思います。ユーゴは今も紛争が絶えないのですが、ボスニア紛争のおりには、現地にいるAlexの従兄達も 戦死したそうです。こちらも、なんだかヘヴィですね。
 Alexが二歳の時、Zivojinovich氏は背中(もしくは腰)に怪我をおい、もう鉱山で働くことができなくなってしまいました。Alexの他に、 二人のお姉さんもいて、(つまりAlexは三人兄弟の末っ子ということですね)、まだまだお父さん稼がなければならない、でもFernieには、 鉱山以外仕事はないと言ってもいい状態だったので、一家は思いきって、Torontoへ移住します。Torontoには、同じユーゴスラビア移民が たくさんいるから、と言う理由もあったとか。
 ほとんど英語ができなかったので、Zivojinovich氏は鉛管工やタクシーの運転手をして生計を支えますが、暮らしはそれほど裕福では なかったとか。一家が住んでいる地区はほとんど移民ばかりで、英語を使うことは学校以外めったになかった、とも聞きます。でも、 Alexも他の二人同様、普通の子供時代を楽しく(たぶん)送っていました。

 小学校四年生の時、AlexはJohn Rutseyと同じクラスになり、家も道路を隔てたお向かいさんだったこともあって、親しい友達に なりました。Alexは12歳のクリスマスに、父親からギターをプレゼントされ、(Kentの、安物のクラシックギターだったらしい)以後、 レコードにあわせて、自分で音を探りながら、独学でマスターしていきます。ほぼ同じ頃、Johnも小さなドラムキットを手に入れ、叩き 始めました。
 そしてAlexが14歳の時、Johnとともに、Projectionというバンドを結成します。バンド、と言っていいかどうか、わからないですが。 メンバーはAlexとJohnだけでしたから。Alexはジミ・ヘンドリックスをまねてギターをかきならし、Johnはキース・ムーンを真似て ドラムを叩きまくる、と言う感じで、「ひどいもんだったよ」と、後でAlex自身も言っていたとか。Projectionはパーティなどに時折 出演したけれど、ほとんどお祭り騒ぎをやるだけで、お金をもらって聞いてもらうギグは、できなかったそうです。
 AlexがLifesonというステージ名を使い始めたのは、この頃だったそうです。本名のZivojinovichはどうも覚えにくく、発音もしにくい。 (ジヴォジィノヴィッチ?)それで、たとえお金をもらわないギグでも、ともかくステージに上がる以上、人にもっと覚えてもらえる ステージ名を、と考え、本名の意味をそのまま英語に移した、Lifesonという姓を使い始めたそうです。

  1968年8月、ギタリストとドラマーだけのプロジェクトではなく、本格的なバンドとして始動しようと、AlexとJohnはベース兼 ヴォーカルとして、Jeff Jonesを加えます。そしてちゃんとしたバンドになったところで、新しいバンド名をつけようと、Johnの家に 集まって考えるわけですが、なかなか妙案が浮かばない。そこへひょっこりやってきたJohnのお兄さんBillが「RUSHはどう?」と 何気なく提案したところ、「これだぁ〜! インパクトがあって、覚えやすい!」と、決まったという話です。その時には、まさか この名前がその後三十年以上にわたって生命を持ち続け、発展していくとは、誰も思いもしなかったでしょうが。
 そして同年9月、RUSHは初めてお金をもらうギグに出るわけです。とある英国国教会の教会の地下にある、お酒でなくコーヒーと ドーナッツが出る、Coff―Inという若者向けのライブハウスで、毎週金曜日に出演するというものです。(ちなみに、Coff−Inは、 意味自体は、Coffee−Innなんでしょうが、coffin(棺桶)と同じ発音です。(スペルも)だから変な名前、と「Visions」に書いて あったのでしょう)
 当時のRUSHは、Rolling StonesやCreamのカヴァーを演奏する学生バンドに過ぎませんでした。Alexも、まだ15歳になったばかり でしたし。でも、最初のギグは受けました。そして次の金曜日、二回目のギグ当日に、Jeffは来られないと連絡してくるわけです。
(以下、事実に基づいたフィクション──私の想像上の会話です)

J:「もしもし、アレックス?」
A:「やあ、ジェフかい? 何?」
J:「今夜だろ? ギグ」
A:「ああ、そうだよ。飛ばそうぜ、今夜も!」
J:「うーん、それがさ‥‥」
A:「なんだよ、どうしたんだ?」
J:「行けなくなったんだ、俺」
A:「え?」
J:「行けなくなったんだよ。パーティに行かなくちゃならなくてさ」
A:「パーティ? なんだよ、そりゃ!」
J:「ごめん」
A:「ごめんって、おい、こっちはどうなるんだよ! 今夜なんだぜ! パーティーなんて、どうだっていいだろ?」
J:「そう言うわけには行かないんだ。こっちにもいろいろ事情があるんだよ。悪い!  次はがんばるからさ」
A:「次はって、おい、今日できなかったら、来週も出させてもらえるとは限らないだぞ。信用なくなるじゃないか」
J:「ごめんよ。最悪、君たち二人だけでもできないかな。もともと君とジョンのバンドなんだし」
A:「プロジェクションとは違うだろ? RUSHは三人のバンドなんだぞ」
J:「じゃあ、今夜だけ、僕のかわりに誰かピンチヒッターを頼んだら。ともかく、今夜は行かれないんだ。ごめん!」

 そこでAlexはJohnのうちへ走り、事情を話します。
J(今度はJohn):「なんだって? ジェフの奴が来られない? パーティーへ出るだって? ふざけた奴だな! 仕事をなんだと思ってんだ!」
A:「ったくだよ。でもさぁ、現実問題、困ったなぁ。もう開演まで三時間ちょっとしかないんだぜ。ドタキャンはないよなァ」
J:「あいつ、今度会ったら、とっちめてやる! と、怒ってばっかいても、仕方ないんだなぁ。どうする?」
A:「キャンセルするか、ピンチヒッターいれるか、か」
J:「ピンチヒッターつっても、こんな急になぁ──誰か、心当たりいないか?」
A:「ベース兼ヴォーカルかぁ──(しばし考え)──おお、いたいた!」

 ここで、話はちょっとさかのぼります。1966年、TorontoにあるFishervill Junior High Schoolに、AlexとGeddy(その頃はまだGary) は通っていまして、二人は歴史のクラスで出会ったわけです。歴史の先生いわく、「Alexは陽気でおもしろい奴で、外交的で公正な心を 持っていた。Garyはもっと穏やかなたちで、勤勉で、現実的な考えを持っていた」とか。まあ、性格違いますから、最初は知り合い程度 でしたが、そのうちに仲良くなっていったらしいです。Alexが家庭の事情なのか、アンプが買えなかったので、よくGeddyにアンプを 借りていたのは有名な話ですが、今回は本人を借りたわけです。
 Geddyはもともとベーシストだったわけではなく、最初のバンドではリズム・ギタリストとしてスタートしたそうです。隣りに住んで いた人がくれたクラシックギターを弾きはじめたのが、きっかけだったのですが、14歳の時、所属していたバンドのベーシストが辞め、 「リズムギターより、ベースにまわれよ」と他のメンバーに言われて、ベーシストに転向したそうです。この際、新しくベースを買わな くてはいけなくなって、「35ドル貸して!」とお母さんに泣きついたら、最初は渋っていたお母さんが、最後は根負けして、 「じゃあ、働いて返しなさいよ」と、土曜日に店を手伝うことを条件に、お金をくれたとか。

 話を戻します。そこでAlexはGeddyの家に電話をかけるわけです。
A:「もしもし。ハイ、ゲディー、アレックスだよ!」
G:「やあ、アレックス! 調子はどう?」
A:「元気、元気! ねェ、聞いてくれよ! 僕のバンドが今晩ギグやるんだけど──」
G:「またアンプ貸してくれ、かい?」
A:「それもある。けどさ、それだけじゃないんだ! 君も来てくれない? ジェフが今晩来れなくてさ」
G:「えぇ!? これからかい?」
A:「そう、これから」
G:「何時に?」
A:「六時半」
G:「時間ないじゃないか! 何をやるんだよ?」
A:「クリームの曲さ。知ってるだろ?」
G:「知ってるさ。でも、合わせてる時間──」
A:「二時間ある! 今すぐ来てくれよ!」
G:「君んとこのドラマー、僕知らないんだけどなァ」
A:「いい奴さ! 大丈夫! 合わせてりゃ、なんとかなるって!」
G:「わかった。じゃあ、これから行くよ」
A:「わぉ、ありがとう! 恩に着るよ!」

 まあ、これもあくまで私の想像上の会話ですが、とにかくその晩、二時間でざっと音合わせした後、ファーストアルバムのメンバーが 揃ってのRUSH初ライヴが行われたわけです。その時演奏した曲はCreamのナンバー六曲で、受けは非常に良かったとか。でもアンコール されても、急造バンドのこと、それ以上のレパートリーはなく、もう一度その六曲を、繰り返し演奏したらしいです。
 ライヴの後、三人はもらったギャラを三等分し、一緒に食事に行きます。そこで、以後もこのメンバーで活動していくことを、 決めるわけです。たった一回のギグをやっただけで、結果的にクビになってしまったJeff Jonesさん、自業自得とは言え、幻のRUSH 初代ベース兼ヴォーカリストとなってしまいました。まあでもこの時代のRUSHは、一介の中学生バンドであり、その中でのメンバーの 交代も、たいした事件ではなかったのでしょう。当のJeff Jonesさんにしても、「そんなことも、あったっけなぁ」程度の記憶しか ないと思いますし。




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