Chapter 9 : Winterlude
「写真と思い出。20年近く家族とともに過ごした日々は、ずらりと並んだアルバムの行列となって、
湖畔の家の広間にあるクロゼットの棚に詰まっている。好んで自分を苛みたいのでない限り、
そのアルバムを手にとって、ページを開けようという気には、決してなれない。しかし額に入れて飾られた
写真もまた、家中いたるところにある。その中の3枚は、僕が最も愛し――そして憎んでいるものだ。
そのうちの1枚は白黒写真で、ジャッキーとセレーナと僕が、パリのチュルリー宮殿にいるところ。デブに撮ってもらったものだ。
後ろから撮っているので、僕がベンチの背もたれに両手を広げ、『僕の女の子達』二人を抱きかかえているところが見える。
セレーナは横顔を、僕たち二人の方に向けて、見上げている。
2枚目は、まさに最後の朝、1997年8月10日に、セレーナがトロントへ出発する前、ジャッキーの叔父ハリーに撮ってもらった
カラー写真だ。湖と木々を背景にして、僕ら3人がデッキに立ち、白い巨大な塊のようなニックが僕らの前に寝そべっている。
片側に立つ、頭をそった男(7月1日に頭をそり、後はそのまま伸ばしっぱなしにするのが、僕の長年の習慣だ)は笑みを浮かべ、
『エリア51』のTシャツと短パン姿だ。ジャッキーもカジュアルな夏の装いで、裸足にTシャツとショーツ、その髪は太陽と風、
水飛沫にされされ、少し乱れている。真中に立ったセレーナは、若く、力強く、そして美しく見えた。彼女はその夏、厳しいエクササイズに
励んでいた。スイミング、ウォーキング、ゴルフのレッスン、そして『ペリーメイスン』や『グリーンアクレス』の再放送を見ながら
ルームランナーに乗る。その努力は、報われていた。大学生活を始めるために、世界に出て行くために、トロントに戻ろうとしている、
その時の彼女は、輝いて見えた。
愛し憎む3枚目の写真は、ジャッキーと僕の二人が映っている、白黒写真だ。これは1997年に、ラッシュのメンバー3人がカナダ勲章を受けた時、
(カナダで民間人が受けることのできる、もっとも高位の名誉で、『名誉国民賞』のようなものだ)アンドリュー(ロサンゼルスのアンドリューだ)
に撮ってもらったものだ。僕はアルマーニのタキシードを着て、誇らしげな笑みを浮かべながら、カナダ勲章のメダルを掲げ、ジャッキーは
黒いドレスで優雅に装い、微笑をいっぱい浮かべ、目を輝かせて、カメラの方に軽く身を乗り出している。
写真と思い出。
4ヶ月に渡る旅――カナダを横断し、合衆国西部を巡り、メキシコを横断してベリーズまで足を伸ばし、そして1998年12月28日に
メキシコシティから飛行機に乗って帰って来た時、僕はわかっていた。帰って来るということは、もう一度この写真たちと、
そしてあの『とり憑かれた家』に満ちているすべてのものにもう一度まともに向き合うことだと。
キースが僕を空港まで迎えに来てくれ、湖畔の家まで送り届けてくれた。今や湖は凍り、家も回りの木々も、深い雪の絨毯に
覆われている。それが僕には、まったく素晴らしい光景に見えた。僕の魂の風景だ。僕の魂は今、冬景色の只中にある。」
KeithさんはJackieさんの兄弟で、湖畔の家の整備と管理をしている人ですが、Neilの不在中、通常の仕事のほかに、
友人のPierreという大工さんとともに、Neilの希望で、Selenaさんの寝室をメモリアル図書館に改装します。ちなみにこのPierreさんは、
1992年に湖畔の家を建てた時、建設を手伝った人でもあるそうです。Keithさんは他にも、Torontoの家から荷物をこちらに運びこんだりも
したそうです。
Neilは家に戻ってきてから、インテリアを少々改造しようと試みます。Jackieさんの美意識を侵食しない程度に、今までも車の
モデルやアフリカ土産の装飾品などを飾っていたのですが、それをもう少し大々的にやろうと思います。半ば冗談で、Ducatiのバイクを
リビングに鎮座させようと、思ったりもします。
KeithさんはJackieさんの趣味に近いものを持っていたのですが、Neilの心情をわかり、改装を手伝ってくれます。
その後、弟Dannyの一家が遊びに来て、この家に建ちこめる追憶の雰囲気を感じ取り、「嘆きのプロセスには、少々深すぎるようだ」
(ここにいると辛い)と言うような事を後に書いてよこし、Neilは最初はちょっとむっとしますが、すぐその通りだと納得します。
弟一家も帰り、Keithさんは時折家にやってきますが、それ以外はたいてい一人。Neilは手紙を書き始めます。やはり最初は、
Brutusさんあてでした。(ちなみに、この南ローレンシアン地方の美しさに魅せられ、この一帯が売りに出ているのをNeilに教
えてくれたのは、Brutusさん。彼自身も湖の中の島を買ったのですが、今は弁護士にお金を払うため、手放してしまったとか)
手紙は例によって長いのですが、帰ってから今までのことを再確認するようなものがほとんどなので、割愛します。(ぜひ原文で)
次に、Masked Riderの出版時にお世話になったLesley Choyceさんに手紙を書いています。
出版者に当てた手紙ゆえ、旅の途中読んだ本や訪れた記念館の作家関連話が多いですが、基本的には旅行報告なので、割愛します。
(ぜひ原文で)
さらに、前述のMendelson Joeに当てて1通。
これも基本的には旅行報告なので、割愛。(以下略)
義兄Stevenに当てての手紙。
この人は旅行の最後に会っているので、旅行報告ではなく、今現在の心境を綿々とつづっています。これは一部引用します。
「『昔の生活』に関するものには、まだ興味が持てない。それとも、たとえば音楽が持つ情動の力は、心の混乱を
招く危険性があるのかもしれない。これが、問題だ。音楽のない生活というものは考えられないと思いながら、その力を
別の方向に導くやり方をみつけなければならないのだから。
今のところ、僕は音楽の持つ感情的な係わり合いに触れたくないし、求めたくもない。それはかつて音楽が僕ら家族の
生活の一部だったことを、思い起こさせるから。そこで僕は『中間的な』モノからはじめてみることにした。
インストゥルメンタル音楽や、フランク親父のようなスタンダードから。(中略)
興味深いことには、僕がかつて過去に属していた音楽を聞こうとするたびに――たとえばゲディがこの前送ってくれたラッシュの
ライヴCD(訳注:Different Stages)自分がやっていることとして、響いてはこないんだよ。それはいつも、『あの、別の男』だ。
ばらばらの欠片からなんとか作り上げようとしている「新しい男」ジョン・エルウッドにとっては、『他の奴』がやっている仕事を、
それなりに評価できる。だけど、それは僕自身のことじゃないんだ。わかるかい? 僕は、あいつがあの音楽にかけたひたむきな
情熱や努力を、想像してみることさえできない。僕は、彼が成し遂げた仕事に感嘆できる。あのレベルのドラミングができるように
なるまでの、大変な努力を尊敬できる。でもそれは、自分自身のことじゃないんだよ。
ある晩、僕は『実験的な見地から』、自分の教則ビデオ(訳注:A Work In Progress)を見てみた。そうしたら、同じようなことが
起きたんだ。画面でしゃべったり演奏している男は、自分じゃない。彼がやっていることは、それなりに楽しめる。彼がそこまで
出来るようになるためにかけたものを理解できるし、それは決してまったく時間の無駄だとは、思っていない。ただ、今自分の中に
宿っている『僕』には、なんの関係もないことのように思えてしまうんだ。」
映画にも同じことが言え、あまり感情の動くものは見たくない、と記しています。だからスポーツ番組や、くだらないショウものを
良く見ていると。
「僕はグリーフセラピストたちの言うところの『受容』という言葉の持つ感じが好きになれない。たぶん僕は、今その段階にいるの
だろうけれど。『癒しの道』から帰ってきて、距離と時間を置いて眺めてみると、僕は『否定』の段階は通りすぎたと思う。
でも僕にとって、それがすべて真実だと知ることは、その真実を受け入れることと同じではない。それとは、程遠い感じだ。
少なくとも僕が知る限り、こんな風に変わってしまう人生を、僕は決して受け入れたくなんかない。とりわけ、これは僕らの人生なの
だから。これは僕が生きてきた道でも、ジャッキーが生きてきた道でも、そしてセレーナに教えてきたものでもない。
こんな風になっていくなんて、僕はまったく思いもしなかった。そして何より、セレーナとジャッキーが死ななければならないなんて、
とても受け入れられることじゃない。とんでもない。それは僕の世界じゃない。そんな世界は、そんな世界観は、何処かへ行って
しまった。訳知り顔の人々は、『なにごとも、そうなるべき理由がある』のだ、そう考えることで、いくぶんかの慰めになるのでは、と
僕に言う。でも僕は、直ちに(失礼にならない程度に)遮ってしまう。どうしてか、そんな風に見ることが、ちっとも慰めには
ならないことを、彼らはわかっていないようだ。それだけでなく、そのせいで、幾ばくかの恐ろしい疑問が頭に浮かんできてしまう。
『なにか理由がある? 何だって? 彼女たちは死に値するようなことを、何かしたのか? 僕は二人を失わなければならないようなことを、
してしまったのか? この世界はジャッキーやセレーナのような人間を、必要としていなかったということか?
くそったれ。僕の思いは時々偏執狂じみた方向に迷いこんでしまう。それともたぶん、原始的な迷信に。『僕が何かしでかして
しまったのか? 僕を憎む誰かが、僕に呪いをかけたのか?』
理性的な心は、そんなブードゥーじみた考えをすぐに追い払ってくれるけれど、ここで問題にしているのは、理性的な心じゃない。
それは『愚かな心』だ。そしてもちろん、暗闇の中に横たわり、そんな恐ろしい考えをめぐらせているのは、『強い』心じゃないさ。
だから、内面的に生きる僕ら、君や僕のような人は、『受け入れがたいことを受け入れ』ようと、努めるのはやめたい。僕らは
つとめて元気を出し、生き続けていくことを、期待されているのだと思うよ。(中略)でも結局、元気を出させてくれるものが、
何もないのさ!」
それで、自分なりのグリーフ・プロセス・セオリーを書いています。
1.動きつづけること。――常に何かをやっていること
2.優しくお尻を引っぱたいてやること。――何か適当な目標を定める
3.人の好意は素直に受ける。――やっかまない
4.『再生』症候群――記憶の再生が始まったら、できるだけすばやく止める。動くことが有効
5.他に平安を得られる場所を見つける
これはNeilの実体験でしょう。
そして、Stevenさんへの手紙が終わり、そしてもう1通、再びLesleyさんへの手紙が続きます。内容的には、作家や本の話が出てくる
ほかは若干繰り返し的になるので、割愛します。(できれば原文を)
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