Ghost Rider (Part 3)


第2章以降は、所々引用を使いますが、基本的にはサマリーのみで行きます。
(細かいところは、ぜひ原作を読んでください)




Chapter 2 : Westering

 スペリオール湖北岸の町Thunder Bayを夜明け前に出発しながら、Neilは、'93年のクリスマスのできごとを、回想します。
 毎年、NeilとJackieさん、Selenaさんは、QuebecにあるHouse By The Lake(湖畔の家)で過ごしていて、 この時も、またそうでした。
「僕たち、小さいがしっかりと結びついた家族3人にとって、クリスマスはいつも特別の時だった」 と、Neilは述解しています。Selenaさんは毎年、「クリスマスタウン」の箱庭を作っていて、それは 小高い山や点在する小さな瀬戸物の家、本物の煙を上げて走るミニチュアの電車など、かなり凝ったもの だったようです。それは、「クリスマスの儀式への、彼女の愛情表現」だったと言います。
 フランク・シナトラ、ナットキング・コール、ハーレム・ボーイズ・クワイアや、特にお気に入りだという 「チャーリー・ブラウンのクリスマス」などなどのクリスマスCDをかけ、さらに奥さんの妹Debのご主人Mark(この人もミュージシャンなのだそうです) さんがアコースティック・ギター、Selenaさんがフルートとアコースティック・ギター、Neilがマリンバ、という ラインナップで、クリスマスソングを生演奏もしたそうです。
 その年のクリスマス、Neilが難しいマリンバのパートを練習していると、外に車のエンジン音が聞こえ、 奥さんが呼ぶ声が聞こえました。
「あなたによ、ニール」
 外に出てみると、Jackieさんの兄弟Keithが、ピックアップトラックの荷台にバイクを積んで、到着したところでした。 それが赤いBMWです。「もうそろそろ自転車を卒業して、バイクにしたいな。バイクを買うなら、BMWがいいな」 常日頃そう言っていたNeilに答えて、奥様は希望どおりのバイクをプレゼントしてくれたのです。それも、Neilが好きな 赤い色のバイクでした。

 年が明けて1994年には、Counterparts Tourが5月初めまであります。そのツアーの合間の4月、 10日ほどオフができた時に、トロントでAlexと一緒にバイクの教習に通います。Alexもたまたま同じ冬に バイクの魅力に取りつかれ、ハーレー・ダビッドソンを買ったので、二人で免許を取ろう、と思ったのでしょう。
 意外な事実なのですが、実はNeilはあまりスポーツが上手ではないらしく、本人曰く、「手足を独立して 動かすのは得意だけれど、協調して動かすのは得意じゃない」ということです。
 Alexは試験をあっさりと、 トップクラスの成績でパスしますが、Neilは二度も落第。先生のスペシャル教授を受けて、3度目でやっと合格します。

 Counterparts ツアーが終わった夏、NeilはBrutusさんと初めてバイクでノヴァ・スコシアまで遠乗りに出かけます。 Brutusさんは、Jackieさんの一番の親友であるGeorgiaさんの旦那様で、初めは奥さん同志が友達だから、 という感じで付き合い始めたのですが、このバイク旅行ですっかり意気投合し、NeilとBrutusさんは 同じく「一番の親友同志」となるわけです。
 その夏から、二人は何度もバイク旅行に出かけます。(イエローナイフにツーリングに行ったとき、 Neilはイヌイシュクを知り、それがTest For Echoのカヴァーになりました) そして楽しい休暇は過ぎ、1996年にはRushは「Test For Echo」をリリース。秋からツアーが始まります。
(以下、本文より引用)

「僕はどうやって、またやってくるロックツアーを耐えて行こうか、と考えはじめていた。(ツアーは) どうしようもない退屈さと、絶え間ない消耗、それにサーカスのような狂気が入り混じったものだと、いつも思える。それは 僕のじっとしていられない、独立を好む、プライベートな気質とは、到底合い入れないものだった。

 逆説的に聞こえるかもしれないが、僕はツアーの準備をしている間は、楽しいのである。バンドとしてリハーサルをし、 「パーフェクトなショウ」を目指して働く、張り詰めた熱意を分かち合うのは好きだし、最初のいくつかのショウでは、 ステージに出て、大規模アリーナを埋めた1万から1万2千人の観客たちに向き合うと、アドレナリンが噴出してくる。 だが、だいたい3回目のステージあたりで、「上手くやれて」しまうと、バンドもクルーも観客も、「卓越したパフォーマンス」の状態に固定されて しまう。僕に関する限りは、それで、もういい。僕の仕事は、良いショウをすることだ。ゴールに達した。 挑戦は成し遂げられた。懸案は解決した。もう家へ帰って良いかい?

 ことは、そう単純にはいかない。だが僕にとっては、残りのツアーは、良くて毎晩毎晩同じ経験を繰り返そうとすること に過ぎなくなっている。しかし、これもそう単純には、いかないのだ。水準に満たないショウをしてしまった時には、 僕は落ちこみ、自己嫌悪に陥る。上手く演奏できた時にも、結局は自分に期待されたことを成し遂げたに過ぎない。 そこには、何も興奮させるようなものはなかった。僕にとっては、ツアーは長く、絶え間なく続く苦行、 くたくたに疲れさせ、精神を破壊するものに、なり得てしまうのだ。ステージに上がっている時間だけでなく、 移動や待ち時間、ホテルからバスへ、アリーナへ、そしてまたホテルへと、細切れの混乱が何ヶ月も続くのである」

 そこでこういう状況から少しでも気晴らしをしようと、Neilは'80年代から'90年代初めまでは 移動がてら、自転車でツーリングをしていたわけですが、今回はバイク・ツーリングを試みるわけです。 T4Eのロゴ(イヌイシュク)を描いた専用ツアーバス(スクーター・トラッシュ号と命名)に2台のバイクを積み、 バンドとは別スケジュールで、Brutusさんとともに、ツーリングしながら移動して行く、この方式はVapor Trailsでもそのまま継承されていました。 (ただ、VTツアーの相方は、スタッフでしたが)

 1996年の夏は、Neilにとって充実した実りある日々だったと述解しています。「Test For Echo」は、 ドラマーとしての自分にとっての一大傑作だという自負が持て、「Work In Progress」が完成し、 「The Masked Rider」も出版。その後に続いたTest For Echoツアーも、Brutusさんとのツーリング のおかげで非常に楽しくこなせ、そのツアーが終わったのが、1997年7月4日。そこからわずか1ヶ月あまりで、 運命は暗転してしまうのです。
 そして1998年の夏である今、「あれからすべてのものが変わりすぎた」 今、一人で旅をしている。 以前の自分は、自分ではなく、「あの男」と、他人のように感じてしまう――

 回想から戻り、Thunder BayからManitoba、Wennipegを経て、Yellowhead Highwayを走り、Edmontonへ。 ここまでは非常に早いペースで、1日1000キロ前後を走り、到達します。周りの景色の美しさや、 野鳥たちに慰められ、「ここ1年ほどの間より、ずいぶん良い気持ちになった」と感じ始めてもいます。

 そしてEdmontonを出て、最初に給油すべく止まったスタンドで、若い従業員から手渡されたノズルが、実は ディーゼル用の軽油だったと、だいぶ入れてしまってから気づきます。明らかにその10代の新人さんのミスなのですが、 Neilも
「あなたの車はディーゼルですか?」と聞かれるまで、「やけに泡が立つな」と思いつつも、気がつかなかった。 (ディーゼル用ノズルはしばしば緑で、実際渡されたのも緑だったのですが)大慌てで軽油を抜き、ガソリンを入れかえるのですが、 すでに遅く、走り出してまもなく、バイクは止まってしまいます。
 Neilはやむなく先ほどのスタンドへ引き返し、 そのスタンドのオーナー、従業員総出で、あれこれ処置をしてみるのですが、時間がたつばかりで、直りません。 Neilはポカをやった少年に対しては寛大なんですが、この事態には焦りを感じたといいます。ついに4時30頃、 Edmontonのディーラーに出張してきてもらって、やっとエンジンが息を吹き返します。
 ところでこのガソリンスタンドの人たちは、オーナー以下の従業員たちを、NeilはNative、つまりインディアンだと 最初は思ったのですが、出発の時、「東洋人には大きすぎる(バイクだ)ね」と言ったオーナーの言葉で、 中国人だと気づきました。そして、人種――「ルーツ」に思いをはせます。
「でも、もはや自分にはルーツはないのだ」

 思いがけないトラブルで、1日の大半を浪費してしまったNeilは、日が暮れる前に少しでも先へ行こうと、 猛然とハイウェイを飛ばし始めますが、スピードを出しすぎて、二度目の警察のご厄介に。
 幸い、この人は免許証を見てもピンとこなかったらしく、「自分もトロントにいたことがある」と言っただけで、 状況を説明すると、同情してくれ、キップの罰則を少し甘くしてくれました。そして、そんなに急がなくとも、 日が暮れる前には、Grande Prairieに着けると請合ってくれ、実際6:30には到着できたそうです。

 このシーズン、カナダは土木工事の季節で、労働者たちで町は賑やかでした。そして食事に出かけた中華レストランで、 一人の婦人が、オーダーを忘れられた、と若いウェイターに食ってかかる場面に出くわします。どうやらそのウェイターは 今日仕事についたばかりの新人で、「ああ、また運の悪いルーキーが」と、Neilは同情的な目で見ています。 そして意気消沈している彼に、「気にしなさんな」と、慰めの言葉をかけるのです。

 その晩、モーテルの部屋でフランク・シナトラのスペシャル番組をたまたま見、泣きそうな気持ちになります。
「彼は本当に偉大だから、そして、たぶん、彼がもう死んでしまったからだ。またもや、亡霊だ――」

 翌日は朝6時前に出発、Dawson Creekで給油と朝食、Alaska Highwayに乗り、北西に向かって行くにつれ、 寒くなります。Fort Nelsonで、スープを飲んで暖をとり、AnthemのスタッフであるSheilaさんに携帯で連絡をとります。 一人旅とは言え、状況を知らせて欲しい。どこにいるのか、それと、なにか不都合があったり、必要なものがあったら、言って欲しい、 というAnthem側の要請で、旅の間、時々連絡をとっていたようです。Anthem側に伝わった情報は、すぐに家族や友人たちに 行き渡り、彼らもNeilの消息を知ることができる。
 一人で旅をしているが、こんなに大勢、自分のことを気遣ってくれている人たちが後ろ盾にいる。それが心強い。 悲劇の当初は、人に対して無関心、もしくはイライラしがちで、つらくあたりがちだったけれど、今は皆がいかに 自分を気遣ってくれたか、力になってくれたかに気づき、感謝の気持ちを感じている。
「人生は素晴らしい、でも人々にはうんざりする、僕はそう思っていた。でも今は思うんだ。 人生には、うんざりする。でも人々は素晴らしい、と」

 NeilはTorontoの家を売りに出すことにし、その手続き一切をAnthemに一任するのですが、その件について、 Sheilaは「家が売れそうなので、Ray(Rushのマネージャー、Ray Danniels氏)が話をしたがっている」と Neilに告げます。トロントの自宅にも多くの愛着があり、幸せな記憶があり、その記憶、愛着ゆえに そこに住むのは耐えがたく、売却を決心したNeilですが、いざ売れそうとなると、やはり心が揺れます。 そしてRayに電話をするのですが、つながらず、そのまま旅を続けます。

「僕の心は、旅の中で作り上げられた世界――景色やハイウェイ、野生の生物といったものに、まだ反応する。それだけでなく、 僕は人々に対しても、反応し始めた。見知らぬ人たちにさえ。ガソリンスタンドの少年、東洋人"インディアン"たち、しょげきったウェイター、 『僕もかつてそうだった愚か者』――明らかに、その人たちのことを気にかけている。この共感は最近の僕には、稀な感情だった。 すべての情感は、ただ一つのパラダイム(喪失!)へと行きついてしまっていて、他人に対する感情も辛らつで、嫉妬深いものだった。 それはつまるところ、『なぜおまえは生きているのだ!』(そしてもちろん、「彼ら」ではない)という、怒りを帯びた詰問に なりえてしまうものであった。
 そして今、僕は自らの勇ましく新しい世界のなかに、他人を受け入れ始めているようだ。そしてたぶん、この『癒しの道』 を旅していくにつれ、僕は再び他者を好きになり始めるかもしれない。どんなことも、可能なのだろう。しかし、旅の途上で 見出す真実や美しさがもたらしてくれる貴重な瞬間がある一方で、暗黒の呪文にかけられ、泣きたくなるような絶望を感じる瞬間も 毎日訪れるのだ」


 その日は622マイルを走り、Muncho Lakeの湖岸にあるNorthern Rockies Lodgeというところに泊まります。 ここは、'96年にBrutusさんとYellowknifeまでツーリングに来た時に、泊まったことのある場所なのだそうです。 そしてここで初めて移動を一休みして、翌日は近隣のハイキングに行き、リラックスした1日を過ごします。 その中で、Selenaさん、Jackieさんの思い出を、悲しみだけでなく、幸せな記憶を よみがえらせ、さらに自らの人生を思い出して、『かつての自分はひどく愚かだった』と思うのです。 これがフロイトの言うところの、「グリーフワーク」の一環なのだろうと思いながら。

「たぶん、それでも、僕にとって良いことなのだろう。気がつくと、僕は自分のことをかなり頻繁に語っていて、 笑ってしまう。でも、それでいい。どうなるか、見てみよう」



Chapter 3 : North To Inuvik

 寒く、ぐずついた天気のもと、Muncho Lakeを出発したあと、少しハイウェイを外れて、Telegraph Creekに向かいます。 Telegraph Creekは昔ゴールド・ラッシュの折にできた開拓者の町で、現在はほとんどゴーストタウン、 唯一やっているのはRiversongという区画(宿屋?)のみ。そこにはいくつか部屋はあるものの、そこが 満室の場合は近くに宿はなし、野宿ということになる。雨のそぼ降る寒い中、テントに泊まるというのは ありがたくはないけれど、ともかくテントと寝袋を持っていて良かった、とNeilは思うわけですが、 幸いキャビンが借りられて、そこで自炊をしながら2泊します。
 Telegraph Creekへ来たのは、名前の響きが好きだったのと、以前YellowknifeにBrutusさんとツーリング に来た時、「一山当てる」と言うゴールドラッシュ時代の精神に興味を引かれたから、といいます。

 その日はAlexの誕生日だったので、公衆電話からAlexに連絡します。
「アレックスは僕からの連絡を喜んでくれたが、僕が何処からかけているかという話を聞いて、 少々困惑していたようでもあった。距離のため、電話のエコーがかかっていることで、余計に『荒野からの呼び声』 のように聞こえてしまったのかもしれない」
 翌日はゴーストタウンを散策して静けさに浸り、静かに流れる河を眺めながら過ごし、夕方 TorontoのRay Danniels氏に電話をかけます。RayはNeilのトロントの家の売却の件で、 買主が、カナダドルの相場がまた落ちこんでしまったので、買うのを見合わせたい、と言ってきたと 伝えます。
「あの『憑かれた家』と、家族の記憶に別れを告げるという思いに慣れて来た頃になって、 それは再び売り出し市場に戻り、僕の心の中にも戻ってきた」

 翌日は5時に起き、オレンジジュースとシリアル、強いコーヒーという朝食をとったあと、 出発すべくバイクに荷物を積み込んでいる時、庭に小さな狐がちょこんと座りこんでいるのを見つけます。 全然こわがらずにずっとそこにいるのですが、キャビンの中に入って食料でも失敬されたら困ると思い、 Neilはキャビンの外から、ドアをばたんと閉めるのですが――しまった、このドアはオートロックだった。 しかもキーはキッチンのテーブルに置きっぱなし。つまり、荷造り途上で、締め出されてしまうのです。 朝の5時30分で、あたりには人っ子一人いない。それでやむなく、非常用はしごを2階の自室の窓に かけ、外から部屋に入って事無きを得るのです。

 その日はWhitehorseまで行き、そこでいくつか部品を買って、オイルを交換しようとするのですが、
「カナディアン・タイヤの店に、必要なバルブはあったのだが、土曜日のためメカニックは休みで、 他の誰もが、古いオイルの捨て方を知らなかった。彼らは「エルヴァイロ・リューブ』の店に行けといい、 行ったところ、そこではバイクは扱っていないという。(僕でさえ、扱っているのに) そして ホンダのディーラーに行けと言うので、行ったら、そこは閉まっている。僕は運命に屈し、泊まるところを 探すことにした」

 そこで泊まったホテルは、観光客でごった返し、部屋の眺めは悪く、食堂のウェイトレスはしょっちゅう注文を忘れ、 サービスが悪い。セルフ・サービスだったTelegraph Creekのキャビンの方が、はるかにサービスが良かった、と 思うのですが、一つ収穫がありました。食堂で流れている音楽、たぶん最近のカントリーロックと察せられますが、 それを聞いて「これはなかなか良い」と思ったのです。悲劇以来、昔からなじみのあるフランク・シナトラなど の古い音楽のほかは、ましておや最近の音楽シーンなどに、まったく関心が持てずにいたところに、初めて (最近の)音楽に対して、「良い」と感じることができた瞬間でした。

 翌日は朝早く出発しようと思ったのですが、気温が−3度。もう少し気温が上がるのを待とうと出発を遅らせ、 ちょうどその日が誕生日の母に電話をするのですが、つながらず。
 旅の途中、父親と二人の息子という3人連れのツーリストと知り合い、彼らは北極圏へ行くのだといいます。 Neilも、彼らとは別ルートで、イヌーヴィクまで北上し、北極圏に行ってみようと思います。

 その日はDawsonまで走り、そこで、Jack London博物館などを見学したあと(ジャック・ロンドン 1876年生まれ、1916年没  アメリカの作家。代表作に「白い牙」「野生の呼び声」など。ゴールドラッシュ時代のアメリカ、アラスカを舞台にした作品が多い) 他の観光客から、考えていたプラン(イヌーヴィクまで行くこと)はかなり大変な行程である事を知らされるが、決行を決意。 Dawsonのホテルで母親に再び電話し、今度はつながって、しばらく話をします。自分自身の家族を失ってしまったNeilが もっとも心のよりどころとしていたのはご両親であり、今まで得てきた無限の信頼と気遣いに思いをはせ、感謝の念を覚えながら、 話をすることで、慰められます。

 「記録を書いていくという観点から見れば、旅についていくのは大変だ。できるだけ気楽にやろうと思うのだが。 1日のうちに、あまりにたくさんのことが起こりすぎる。セレーナがそう言ったとおりだ」

 そこで、以前Selenaさんがそう言った時のことを回想します。

「1997年6月の終わり、ラッシュのテスト・フォー・エコー・ツアーが終盤にさしかかった頃、セレーナが 僕とブルータスとの「スクーター・トラッシュ」チームに、数日間参加してきたことがある。バスの中で眠ったり、 ショウの合間にバイクでツーリングをし、それから『ショウ・タイム』には美しく着飾ったものだった。

 ボストン近郊のグレートウッド・アンフィシアターでのコンサートが終わると、僕はすぐにステージから走り出て、 『スクーター・トラッシュ』バスに飛びこんだ。ブルータスとセレーナはもう乗りこんでいて、ドライバーのデイヴは すぐにバスを出した。僕は汗を吹いて着替え、それから僕ら3人はフロントラウンジに座って、おしゃべりしたり、 音楽に耳を傾けたりした。その間、バスはニューイングランド地方を走っていき、ブルータスと僕はマカランで乾杯し、 セレーナはビールをゆっくりとすすっていた。

 まもなく、僕らはバスの寝台に収まった。(セレーナのお気に入りの寝場所は、動いているバスの寝台だという) それは夜を押しのけることのできる、ツアーリングミュージシャンの古典的休息とも言えた。ブルータスは翌日の『ステージング・エリア』 をメーン州の端の地点に決め、デイヴがその近くまでバスを運転して行った。そこで夜の残りの数時間、僕らは動きの伴わない 眠りを楽しむことができた。
 夜が明けると、僕はまだ眠そうなセレーナを起こし、僕ら3人は狭いラウンジで押し合いへしあいしながら、ライディングスーツを 着込んだ。ブルータスと僕はバスの後ろに積んであるバイクを下ろした。セレーナは僕の後ろに乗り、僕らはニューハンプシャー州の ホワイトマウンテンまで行った。そこで、ブルータスはヘリコプターとビデオカメラマンに会う約束をしていた。

 それから6時間後、セレーナは乗り心地の悪い僕のバイクのバックシートから、同じように乗り心地の悪いヘリコプターの助手席へと 席を替えていたが、そのヘリコプターのパイロットときたら、ビデオカメラマンと、写真家のアンドリュー(彼は僕とブルータスが バイクに載っている写真を撮ろうと、ヘリから身を乗り出していたので、やはり楽しくはなかっただろう)のために、ありとあらゆる アクロバット飛行を演じて見せていた。
 この責め苦の後、かわいそうなセレーナはもう一度(バイクの)バックシートによじ登り、6時間かけて、マサチューセッツ州 レノックスのホウィートクロフト・インまで乗っていった。それは彼女にとって、あまりにも長い、長い1日で、身体はあちこち痛み、 疲れきって、すっかり惨めなありさまだったし、僕ら全員が、そうだった。しかし数分間の後に、僕の小さな娘はライディング・スーツ をきれいな緑色のドレスに着替え、髪を結い上げて、エレガントなレディの装いに変身したのだった。それは、彼女の最も素晴らしかった 瞬間の一つで、僕らは彼女を『戦士のプリンセス、セレーナ』と呼んだ。

 その夜の夕食の席で、いささか疲れたユーモアが飛び交い、セレーナはブルータスの計画のひどさをからかい、 そのせいで、どんなに疲れて身体が痛くなったか、と言った。それから僕らはその日1日のことを話し合い、 セレーナは頭を振って、こう言ったものだ。
「たった1日のうちに、こんなにいろいろなことが起こるなんて、信じられないわ!」と。
僕は娘を、誇らしく思った。

 数日後、ニューヨーク州バッファロー近郊の野外会場で行われたショウの第2部が始まる前に、セレーナはトロントへ帰っていき、 僕はドレッシング・ルーム用トレーラーの外で、見送った。僕は娘を抱きしめ、キスをしながら、言った。
『おまえを愛しているし、誇りに思うよ――あらゆるすべてにおいて』
 そして彼女を最後に見ることになった、1997年8月10日の朝にも、僕は彼女を先導してバイクで、オンタリオ州ホークスベリーまで 給油がてら見送り、そこでもう一度娘を抱きしめてキスをし、言った。愛している、おまえを誇りに思っている、と。
今、僕はその言葉を告げておいて良かったと思い、そして他の思い出に感謝をささげた。

 家族旅行は、ほとんど僕の都合に会わせて行われることが多く、僕自身の旅行の終わりに、たとえばホンコン、ナイロビ、象牙海岸、 やパリで、ジャッキーとセレーナは僕に会うという形になるか、さもなければ、ラッシュのツアーの合間を縫って、 ボストンやセント・ルイス、サンフランシスコで僕に合流することが多かった。しかし、1997年の春に、僕はジャッキーと二人だけで 2週間、タヒチ、ボラボラ、ムーリアに滞在した。その旅の終わりに、旅行で一番嬉しかったのは、ずっと僕の注意が 彼女に、彼女だけに注がれてきたことだと、彼女は言った。その時には、特にそれが重要なことだとは思わなかったのだが、 今思い返してみると、そうできて良かったと思う。
ときには――まったく意識していなかったのだが――僕はそれほど愚か者ではなかった、ということなのだろう。」


 翌日はDawsonからInuvikまで行くのですが、道中ほとんど未舗装道路で、砂利やぬかるみが続きます。極北の地ゆえ、 ガソリンスタンドなども、町に行くまでなく、燃費を気にしながらあまりスピードを出さないように気をつけて走り、 途中珍しい野生動物たちにも出会いながら、Eagles Plainsまで行き、そこで小休止。給油とランチのあと、再び出発。 北極圏に入り、北西準州に入って、と北上するに連れ、道はますます悪くなり、Fort McPhersonでMackenzie川を フェリーで渡った直後、バイクがぬかるみにはまり、転倒。

 幸い、怪我はなかったのですが、一人でバイクが起こせない。今までは一人で旅をすることはなかったので、コケても 手助けがあったわけですが、今は一人。さんざんぬかるみの中で悪戦苦闘するのですが、どうしても一人では起こせず、 通り掛かりのトラックの助けを経て、やっとバイクを起こします。ライトのほかにいくつか破損個所があったので、 フェリー乗り場にとって返し、そこの人と協力して応急処置を施し、再びInuvikを目指します。やっとたどり着いた時には、 すっかりへとへとでした。

   翌日の天気は悪く、雨が降りそう。Neilは疲れていて、その日はお休みにし、近くにハイキングにでも行こうかと考えるのですが、 どっちにしろここから出るには、もと来た道を引き返さなければならないので、雨が降り続いたら、余計にぬかるみがひどくなる。 それに雨の間、ずっと足止めされるという考えは、ぞっとしなかった。
「僕は怖かった。だが、その恐れは、転倒することや、怪我、故障、タイヤのパンク(その危険性はいつも頭の中にあったが) ではない。一つところにじっととどまって、時間を持て余すこと、考える時間、自分が何かにとらわれているというような 思いを感じてしまうこと、それが怖かった」

 それで、雨の降りそうな天気の中、Inuvikを強行出発するのですが、やはり雨が降り出します。
「今僕は怯え、弱り、泣きたい気持ちで、意気消沈していた。そして町の舗装道路が終わった時、 僕は我知らず、大声で悪態を吐き散らしていた。道路に、雨に、自分自身に、そして僕のすべての不運 にたいして責任あるであろう、ある種の力に対して。
 しかし運命には、慰めがないだけでなく、僕には責めるべき人も、誰もいなかった」




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