疲れ果て、侘しい気分で、僕はトロントに戻り、家族や友人の助けを借りて、家を整理し、売りに出すまで
そこにとどまった後、湖畔の家に戻った。その時になっても、これからどうしていいか、まったくわからなかった。
死ぬ前に、ジャッキーは僕にこう言い、ヒントを与えてくれた。「ああ、バイクに乗って旅行でもしてきたら」
だがその時には、僕はそんなことをする気には、とてもなれなかった。しかし、長く空虚な日々を、夜を重ね、
暗い夏がゆっくりと過ぎて行くにつれ、それだけが唯一、するべきことではないか、と思いはじめてきた。
日々を暮らす、その理由が、僕にはまったくなかった。人生にも、仕事や、向こうの世界に対しても、
何一つ興味が持てなかった。だが自らの死を望んだジャッキーとは違い、僕にはある種の生存本能や、
「これから何かがやってくる」ことを確信する心の生理反応のようなものが、あるようだった。
僕の性格が強い(もしくは欠陥がある)のだろう、僕は決して、「なぜ」生きなければならないのか、とは問わなかった。
ただ、「どうして」生きていったらいいか――それは、その時には確かに手に余る疑問だった。
こう考えたことを覚えている。「こんな状況の中、人はどうやって生き抜いていくのだろう、そしてその後、どう言う人間になってしまうのだろう」
答えはわからない。だが、嘆きや悲しみ、孤独や絶望に打ちひしがれていたあの暗黒の時期でさえ、
僕の中の何かはずっと生き続けて行こうと決意を固めていたように思える。その何かが、頭をもたげて
きたのかもしれない。
それとも、あのモルモン教徒の女性が言ったように、「死ねないから、生きているだけなんです」
というような状態だったのかもしれない。
どちらにせよ、僕はバイクにのって出かけ、僕が今後どのような人間になり、どのような人生を生きることになるのかを、
考えてみることにしたのだった。旅の初日、ごつごつした岩の間を縫うようにケベック州の北側を横断するハイウェイ、その
雨で滑りやすくなっている路面をずっとたどりながら、その決心は試練に幾度も動揺していた。激しく水飛沫を撒き散らす
材木トラックを追いぬこうと、緊張し、震えながら、その水煙の向こう側に目を凝らしている時、もうやめてしまおうかと、
一度ならず思った。「こんなものは、いらない。本当に、ちっとも楽しくなんてない。今、こんなことをやりおおせるほど、僕は
強くはない。引き返して、湖畔の家に戻り、もうちょっとあそこに隠れていたらどうだ・・」
いや、それはできない。それもまた、危険な道になるだろう。
引き返すことも選択肢に含めた上で考えると、このまま旅を続けていくのは、「そしてそれから(どうなる?」という
思いに他ならないだろう。一月以上もの間、僕はあそこで、たった一人で暮らしていこうとし、時々は、友人たちも訪ねてきて、
僕を外に引っ張り出してはくれた。それでも、僕は自分が深く、暗い穴の中に滑り落ちて行くような感覚がしていた。気を引き立てることや
気が滅入ることはいろいろあり、それは日毎夜毎を暮らして行くのに、いくぶん助けにはなってくれてはいるようだ。だが、
僕は最近、ある友人へこう書いた。「一時的な避難小屋としてはいいかもしれない。でも、そこには本物の生活というものがない」
僕は「隠者」モードでやって行こうとした。でも今は「ジプシー」モードを試してみる時だ。上手くいかなかったらどうなるか、
そんなことは考えないようにしよう。
旅をすることは、僕にとっては、程度の差はあるものの「普通の状態」だった。過去23年間、ラッシュでミュージシャンとして
ツアーしてきたという必然的な環境だけでなく、そういう(ツアーミュージシャンとしての生活)すべてから
自由になるための手段でもあった。コンサートツアーの合間を縫って、僕は中国を、アフリカを、ヨーロッパを、そして北米を
旅した。はじめは自転車で、のちにはバイクで。こういった、一種自給自足的な旅から、僕は好奇心とチャレンジ精神を、そして燃え上がる
ような想像力を感じていた。
初めから、僕はずっと旅の記録をつけていた。そして家に戻ると、その記録をもとに、散文を書くという興味を実践し、
旅の物語を別なアプローチから書いてみるという試みをしていた。書くことへの興味は、バンドのために歌詞を書くことに端を発し
、手紙を書くことから、ページの上に言葉をつづっていくことへの真剣な情熱へと発展して行った。自分の旅行記録を書くことで
技術を磨こうと、僕は一つ記録を書き終えると、コピーをとって友人や旅行仲間たちに配った。そうやって5作を自費出版で出した後、
ついに1996年、一般出版に踏み切った。それが「The Masked Rider:Cycling In West Africa」だ。
近年では、遠くにいる友人たちに手紙を書く以外、たいしてものを書いてはいなかった。だが、ロンドンにいた頃、「グリーフ・カウンセラー」
のドクター・デボラは、「セレーナへの手紙」と言う形で日々の記録を書いたら、と僕に勧めてくれ、それがたいそう良い治療に
なってくれた。この、まったく新しい種類の(意図したものではあるが、目的のない)旅をはじめるにあたって、見たものや感じたことを
書きとめておきたいという、昔のような熱意を感じるかどうかは疑わしいし、この悲しい旅を後で本にしようというような野心もない。
だが、たまたま何も書かれていない小さな黒い手帳を持ってきていたので、実験的に初日の書き込みをすることにした。
8月20日、1998年
おお、寒くて、ずぶ濡れだ。ケベック州キャデラックでランチ。この数時間、雨がひどい。
驚くほどに、交通量が多い。トラックが派手に水飛沫を上げていく。
景色? 暗く、濡れそぼっていて、陰鬱だ――僕のように。カナダ楯状地は、様様な様相。
あちこちで湖が溢れていたり、排出させていたり。このあたり、ヴァルドールやノランダ近郊には
鉱山や工場が多い。気温は午前中で、かろうじて10度(華氏50度)。今もさして上がってはいない。
オンタリオ州に入って、雨はようやく上がったが、まだ肌寒さを感じる。僕はその日の避難所を求めることにし、
コクランのノーザン・ライツ・モーテルに落ち着いた。1日で850キロ(531マイル)走れば、その日は十分だろう。
濡れたライディングスーツを部屋のなかに吊るし、マカランの小瓶から一杯分をプラスティック・コップに注ぐと、
身体の芯から温かくなった。
シャワーを浴びながら、コクラン――オンタリオ州の、北部州境にぽつんと位置するこの町のことを思った時、
古い記憶の亡霊、70年代半ばにここでやったコンサートのことが、思い出されてきた。ウェニペグから一晩中
移動を続けてここまでたどり着き、まばらな拍手の中演奏し、セットが終わると、もうこれで良いのだろうと
思いながら、ステージを降りた。ところが、僕らが楽屋に引き上げると、プロモーターが――ずんぐりとした毛深い
フランス系カナダ人で、その名はいみじくも「ハンク」と言った――駆け込んできて、まだアンコールをやっていないと
焦燥しきった様子で言い募った。エージェントは、そう(アンコールの)約束をした、と。
僕らは抗議した。アンコールというのは、観客からもっと曲をやってくれという要望があって、するものではないか。
でもその夜は、そんな要求を感じさせるような反応が、何もなかった、と。ハンクはますます取り乱し、強い訛りでこう言った。
「ラッシュがそないしうちすんなんど、思いだもしなかったさ!」
僕ら3人はお互いに顔を見合わせ、肩をすくめて、ステージに戻った。観客は静かに待っていた。僕らはもう一曲やり、
それから(観客は)全員家に帰って行った。誰も興奮してはいなかったが、みんな満足はしているようだった。
町のみんなは全員、僕らのギャラがどれだけかを知っていて(たぶん数千ドルだったと思う)、エージェントはハンクに
アンコールこみであることを、約束していた。それだけは、僕らもわかった。撤収された機材はトラックに積みこまれ、
バンドとクルー、あわせて7人はステーションワゴンに積みこまれて、僕らはトロントへ戻るために夜通し運転を続けたのだった。
コクラン、ハンク、亡霊――
すべては遠い彼方、はるか昔のことのように思える。別の人生の一部だったように。最初の恐ろしい喪失をこうむった
後、もうすでに僕は、これ以上バンドとして一緒に仕事をしていこうという気持ちには、一切なれなかった。そして
セレーナの葬儀の日、僕はラッシュのパートナーたちであるゲディとアレックスに(僕らは3人とも、涙に暮れていた)
「僕は引退したと思ってくれ」と告げた。この先仕事をする気持ちの余裕がおきるかどうか、そんなことなど、なにも気にしなかった。
ただただ、考えられなかったのだ。23年の年月をともにしてきたゲディとアレックスは、僕の打ち続く悪夢の間、ずっと
忠実で、思いやり深い友人でいてくれた。彼らはもちろん、僕がやりたいことがなんであれ、常に応援し、理解してくれてもいた。
そしてもう一つの耐えられない悲劇の重みをなんとか支えて行こうとしている今、僕はますます未来のことなど、なにも気にならなく
なってきていた――そもそも、僕に未来があるのか、ということさえ。
ドラムを叩くことや、ロックソングの歌詞を書くことには、なんの興味もなくなっていたことはたしかだ。僕の周りの世界が
一挙に崩壊してしまったあの夜の前には、僕は終わったばかりのラッシュのツアー「テスト・フォー・エコー・ツアー」
の間に、友人ブルータスとともにバイクで冒険旅行をした、その旅行記を本にまとめようとしていた。だが今、そのプロジェクトに
もう一度取りかかるなど、想像だにできない。
コクランでの夜、「ノーザン・ライツ」の食堂に座り、カワカマスのフライ(普通は一番おいしい淡水魚なのだが、この
(干からびた)標本は、そうではない)をとった後、僕はもう一度黒い手帳に助けを求めることになった。食堂の相客は
退職後の夫婦が二組だけだった。二組は、お互いオンタリオ州の二つの町、ブラントフォードとピーターボロの出身で、
その二つの町は車で2時間もあればいける距離だということを知って、驚いていた。夫人の一人が、感動のあまりこう言いさえした。
「本当に小さな世界ですわね。(世間は狭い)」
夫たちの一人はさらに、一人で食事を取る客と交流を図ろうとし、僕のほうに身を屈めながら、こう言った。
「あなたはそこで、恐ろしく静かにしていらっしゃるんですなぁ」
僕はすっかり驚き、頭の中からいろいろな答えを検索して、いくつかの妥当な返答を探した。すべて真実には違いないが、
その中には、その場で本当に会話を終わらせてしまうものもある。最後に僕はためらいがちに小さく笑い、夕食の皿に向かって
頷きながら言った。
「ああ・・僕は大丈夫ですよ」
そして記録に書きこんだ。
「一人でいることの危険性、その1:人が話しかけてくる。僕は話を聞いているだけの方がいい」
次の朝には、オンタリオ州を西へと進みつづけた。夜明けから午後の遅い時間まで道路を走りつづけ、止まったのは、燃料補給の
ためと、時々道路の側で身体を伸ばしたり、煙草を吸ったりする時だけだった。ただ、移動を続けた。長い間停車するのが、
自分に考える時間を与えてしまうことが、怖かった。身も心も運転に集中しながらバイクに乗っていること、絶え間なく変わって行く道路や
他の車に最大限の注意を払いつづけていくこと、それで、僕のささやかな頭は、ほとんど手一杯になっていられる。
動いていること、絶え間ない振動に揺られることから来る、トランス状態のような効果、時折現れる窪みやカーヴ、1マイルごとに、
1時間ごとに変わって行く光景を見ること、そういうことすべてが、僕の精神をなだめ、落ち着かせてくれた。
夏が始まる頃、僕は無残な残骸と貸した人生をじっと見つめながら、今や自分の使命は自らの内にある本質を守ることだ、
そう思い定めた。それは、湧き出でる生命の力であり、同時に、今にも消えそうなろうそくを両手で包んで守ってやらなければならない、
そんなか弱い精神でもあった。名残の火花のようなそれを、僕は「僕自身の小さな赤ん坊の魂」と、呼ぶようになった。そして、
できる限りこの小さな心を育んでやろう、それが僕の義務だ――そう思ったのだった。
僕の小さな赤ん坊の魂はもちろん、決して機嫌の良い幼児ではなく、多くの不満を抱えていた。だが、たいていの親は学ぶものだ。
むずがる赤ん坊は、お出かけに連れていってやると、ご機嫌が直ることが多い、と。僕の中で泣き叫んでいるその心も、同じようにやれば
なだめられる、実際に行動してみて、そうわかった。それで、僕は未知の旅に出ることを、決心したのだ。僕の赤ん坊の魂を、
お出かけにつれて行ってやろう。
すべてがなくなってしまった後で、トロントからケベックに戻った頃には、自分の周りの世界にほとんど何も関心がなかった。
なにものも好きになれず、気にかけることも何もなかったし、何もやりたくなかった。気持ちが上向きになれるかもしれない、初めての兆しが訪れたのは、
ある午後、片手にマカランのグラスを、もう一方の手にタバコを持って、デッキに座っていたときだった。輝く湖水の向こう側、
島の一つの近くを眺めていると、水面から突き出ている二つの楔形の岩が目に止まった。この二つの岩はいつも、お互いに向き合っている2羽の
アヒルを連想させる。そしてこの日、僕の中の赤ん坊の魂は、この二つの岩を意味あることと認めたのだった。
「ああ、僕はまだ、あの岩のことが好きだ――」
その時、僕は悟り、眉を上げた。僕は実際に、何かを好きでいられる――それゆえ、僕はその二つの岩から、もう一度新しい世界を
築かなければ。それは、僕の中の赤ん坊の魂が、その中で生きることのできる世界でなければならない。そしてその世界は、
あらゆることが起きる可能性を内包している。それゆえ、それはかつて僕が生きていた世界とは、相当に違ったものになるだろう。
ともかく、まずは根本原理からはじめてみよう、この地球だ。西へ向かって旅をしながら、僕は回りの景色に反応し始めた。
ニピゴン湖や、スペリオール湖の北岸をとりまく、切り立った崖や広がる森に。
かつてのように、素晴らしい景色を見て喜びを感じることはできなかったにせよ、周りの美しさを感じて、共鳴することは
少なくともできていたし、地図に載っているこの次の道路では、どんな光景が広がっているだろうという好奇心も感じていた。
だが、地図のラインをたどって進んでいる時、安らかさも、思いも、内なる音楽もすべて、この上なく耳障りな音によって、
突然途切れてしまった。耳栓とヘルメット、それに風の音を通してさえ、その電子的なけたたましい響きは、間違えようがない。
バックミラーに目をやると、地域警察のパトカーのグリルの背後でちかちかと点滅する赤と青の光が一杯に映っていた。僕は速度を落とし、
路肩によって、バイクを止めた。警察官が僕の側にやってきて、手を突き出しながら言った。
「レーダー探知機を、こっちに渡してもらえないかね?」
まごつきながらも、僕は抗弁した。
「でもこれは、探知なんてできないようですよ!」
彼は頭を振った。
「そんなことを言っても、見逃してはもらえないぞ。誰かがまた追跡してくるだろう。それが探知なんて出来ないのは、
知っているさ。妙な信号を出していたからな」
なんてことだ。それに、ますます悪い事態だ。オンタリオ州が発行した僕の運転免許を調べながら、彼は小さく頭を起こし、もっと近くに寄ってきた。
そして僕のヘルメット越しにじっとのぞきこみながら、今やにやりと笑っている。
「あなたはミュージシャンだね?」
僕は大急ぎで、再び返答一覧が詰まっているインデックスを検索し、もっともらしい逃げ口上を捜し求めた。
(制服と銃に身を固めた相手に対してでは、決してやさしいことではないが)
やっと、僕は口篭もるように言った。
「あー・・いや・・もう違います」
相手は僕の保険内容と現住所を調べていたが、一瞬動きを止めた。
「だが、ともかく、ミュージシャンだったんだろう?」
「あー・・そう・・何年か前までは」
彼はトロントの、かつて住んでいたことのある場所について、話していた。それは、僕がそうだと彼が思っている人物にとっては
意味ある何かに、非常に近いものだった。だが僕はと言えば、別の返答を探して、「答えのインデックス」を検索していた。
「僕は昔、いろいろなものになっていましたから」
後で、僕は友人の一人に、こう書いた。
「僕が誰なのか、何をしているのか、何をしようとしているのか、何もわからない」と。
時がたてば、わかるのだろう。僕はただ、そう願う。時が「偉大な癒し手」であるのならば、僕ができる最善のことは、
できるだけ苦痛の少ないやり方で、「やり過ごすこと」、そして自己破壊的な衝動をできるだけ小さくし、しばらく湖畔の家から
遠ざかることなのだ。
時が過ぎ去るのを待とう。その間に、僕の小さな赤ん坊の魂を、お出かけに連れていってやろう。
警官は僕のキップに記入し終え、僕は再びバイクに乗って進んで行った。
僕の後ろに、道はまっすぐ伸びる
かつてあったものは、行ってしまった
僕の前に、道はまっすぐ伸びる
そして僕は(愛車とともに)走り続ける
僕がハンドルを握る番だ
(ドリヴン 1996)
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