第1章 流浪の旅へ
外に出て、ひとっ走りしてくるといい
そして、自分の意思で出かけられたのなら、
君の内面は、穏やかになれるだろう
そんな時には、一人でいるのもいい
(フェイス・アップ 1991年)
湖畔の家の外では、降りしきる激しい雨に押さえつけられた暗闇が、しぶしぶ薄れて行くように、
ゆっくりと黒から青へ、そして灰色へと変わって行くところだった。僕はこの家で取る最後の朝食を
準備し――オレンジを絞り、卵をゆで、トーストとコーヒーの匂いをかぎながら――
かすんでいたケベックの森が、だんだんはっきりと見えてくるのを、キッチンの窓から眺めていた。
雨の多い夏の終わり近くのこの季節、生い茂った蝦夷松やポプラ、杉の木々の緑が、
艶やかに濡れそぼっていた。
この記念すべき出発には、寒くて暗い雨の降る朝より、もう少しましな予兆を期待していたが、
感傷的に言うならば、きっと僕自身の内面には、この天気がふさわしいのだろう。どちらにしても、
天気がどうあろうと、関係なかった。僕は行くのだ。どこへ行こうとしているのか(アラスカ? メキシコ?
パタゴニア?)、どのくらい長く旅を続けるつもりなのか(2ヶ月?4ヶ月?1年?)今だにわからなかったが、
ともかく行かなければならないことだけは、わかっていた。僕の人生は、それにかかっている。
コーヒーを飲み干すと、僕は革の上下に身体を押し込み、ブーツを履いた。カップを流しで
ゆすいだあと、赤いヘルメットを手に取った。薄いバラクラバ帽(訳注:耳まで覆われた、温かい毛糸の帽子)の上から
ヘルメットをかぶり、プラスティックのレインコートを首の周りで止め、厚い防水手袋を嵌めた。
寒く、ずぶぬれの旅になるだろう――そのことは、わかっていた。頭の方はその覚悟ができていなくとも、
少なくとも身体の方は、これで準備が整ったわけだ。ここまでは、何とかできた。
湖畔の家は、僕の聖域だった。今もなお愛し、そして、ここに唯一残されたものだ。今僕はここを
引き裂かれるように渋々、だが必死の思いで、去ろうとしている。ここには、しばらく帰っては来ないだろう。
心の暗い片隅では、もう二度と戻っては来れないかもしれない、そんな恐れも感じていた。危険な旅になるかもしれない。
そして、不幸な結末を迎えるかもしれない。その時には、僕はもう十分過ぎるほどわかっていた。
悪いことは起こり得るものだと。自分自身の身の上にさえ。
何もはっきりした計画など、なかった。ただ漠然と、オタワ川を越えて北に行き、それから西に転じて、
カナダを横切り、ヴァンクーヴァーに住む弟ダニーとその家族のところへ行ってみようと思った。それとも、
北西を目指して、ユーコンとノースウェスト自治区を横切り、アラスカに行ってみようか、そこはまだ
行ったことがない――それからフェリーに乗ってブリティッシュ・コロンビア州の海岸線を下り、
ヴァンクーヴァーまで行くのも良い。フェリーは、かなり早くから予約する必要があるので、ここで一つだけは、
思いきって予定を決めなければならない。この暗い雨の降る1998年8月20日の朝ここを出発すると、
2週間半後には、アラスカのヘインズに着くだろう。その予約どおりに行くかどうかはわからないが、
かりに守られなくとも、僕も、そして誰も、気にはしないだろう。
外の通路には、赤いバイクが止まっている。その車体には無数の雨粒がつき、きらきらと光っていた。
(日ごろから手入れを続けてきたおかげだ) しばらくアイドリングを続けると、モーターが温まり、
白い蒸気が黙々と後ろになびいている。その規則的なうなりが、耳栓とヘルメットを遠し、くぐもって聞こえてくる。
ドアを施錠すると、もう後ろは振り返らなかった。バイクのそばに立ち、もう一度積荷を調べ、レインカバーとショックコードを調整した。
その日を、そしてこれからの旅を果たさなければ、そんな思いの中、深く息をつくと、左足をフットペダルにかけ、
右足を高く上げて重いバイクをまたぐと、座りなれたサドルの上に落ち着いた。
ずっと旅をともにしてきたこのBMW R1100GS(アドヴェンチャー・ツーリングモデル)には、期間も行き先もわからない旅に備えて、
必要と思われるものを、すべて積んだ。リアタイヤの両側についている二つの荷物ケースと、サドルの後ろに取りつけた雑袋の中には、
テントや寝袋、膨らませることのできるフォームパッド、地面に敷くシート、ツール・キット、それに赤いプラスティック製のガス缶が
積んであった。どんな場合にも、どんな時にも、備えたかったからだ。
時には、法廷速度を超えて走りたくなるから――西部の交通量の多くない道では特に。だがそう言う場合、
目に見える危険という点では安全でも、隠れてやっている取締りに引っかかることがあるので――僕は小型レーダー探知機を使うことにし、
それを上着のポケットに忍ばせ、付属のイア・プラグをヘルメットの下から取りつけた。
そのほかのこまごまとした必需品や、追加分の道具キットと小さなウェストポーチは、(バイクの)前部につけられたタンクバッグ
にしまい、その上に透明なプラスティックカバーを被せたロードマップを(見えるように)とめた。
そのほかに持っていかなければならない荷物は、かさばりはしないが、何よりも重い――その目に見えぬ荷こそが、
僕をして流浪の旅へと駆り立てたものに、ほかならなかった。
だが、その瞬間、手がハンドルを握り、足がセンタースタンドを蹴る前から、旅の最初の恩恵を受けることができた。
僕の思考もエネルギーも、マシンを操る、そのことだけに集中されていたからだ。右手でそっと、スロットルをほんの少しだけ開け、
早くもシールドを濡らして視界を曇らせていた雨粒を左手でぬぐってから、クラッチレバーを引く。
左足でシフターをファーストギアに押し下げ、僕は濡れた木々の間に伸びる小道を、ゆっくりと進んでいった。
道の外れまで来ると、ゲートを閉めて鍵をかけ、もう一度シールドをぬぐうと、そこを後にし、
外のぬかるんだ砂利道へと、走りはじめていた。
この同じ道をパトカーがやってきて、僕らに最初の悲劇の知らせをもたらしたのは、ちょうど
その朝から1年前、そう、1997年8月10日の夜のことだった。その朝、妻のジャッキーと僕は
9月から始まる大学生活の準備のため、トロントへ戻る19歳の娘セレーナを抱きしめ、キスをして、
送り出したところだった。夜が来て、娘からの知らせが来るはずの時間から1時間が過ぎた頃、
ジャッキーはひどく心配を募らせ始めた。度し難い楽観主義者だった僕は(少なくとも、当時はそうだった)
セレーナや、僕らみんなの誰にせよ、悪いことが起きるかもしれないなどとは、まったく信じようとはせず、
ティーンエイジャーゆえの無分別に過ぎない、と決めてかかっていた。きっとそのうちに電話してきて、
その弁明をしてくるに違いない、と。
玄関前の小道をやってくる車のヘッドライトが見え、ポーチの灯りで、それが警察の車だとわかった時、
僕はその前の夏、同じように警察の車がやってきて、この近辺で起きた強盗事件の事を聞きに来たことを思い出した。
今度もその類だろうと、僕は考えていたが、母親というものは、ある種のレーダー探知機を持っているに違いない。
警察が来たと告げた瞬間、ジャッキーの目は大きく見開かれ、その顔は真っ青になった。彼女はわかっていたのだ――
僕は本能的にジャッキーの手を取り、外の小道へと出て、地域警察のアーニー署長に会った。
彼は僕らに中に入るようにと言い、一緒に入ってきながら、オンタリオ州警察から送られてきたファックスを
僕らに見せた。僕らは彼の言葉を、懸命に受け入れようとした。
「悪いお知らせです」「どうか、落ち着かれてください」
紙に書かれた黒いラインのように見える文字を、読もうと努めた。到底理解できないことを理解しようとし、
とても受け入れられぬことを、信じようと努めた。ひどくふらふらしながら、僕の心はそこに書かれた言葉をともかく吸収しようと、
望みのない苦闘を続けた。
「単独自動車事故」「明らかにコントロールを失ったようだ」「即死」
「いや・・」 ジャッキーはつぶやいた。最初は小さなささやきだったが、だんだんと激しさを増して。
何度も何度もその言葉を繰り返しながら、彼女は玄関ホールの床にくずおれた。最初は僕も恐怖と衝撃に麻痺したように、
その場に立ちつくしていた。だが、ジャッキーが立ち上がろうとしている。妻が何をするつもりなのか――
その恐れに打たれ、僕は彼女のそばにひざまづき、しっかりと抱きかかえた。彼女は身をもがいて抵抗しながら、
「離して!」と言ったが、僕は離さなかった。僕らが飼っていた大きな白いサモイド犬のニッキーは、
この騒ぎにおびえ、混乱し、狂ったように吼えながら、僕ら二人の間に割って入ろうとした。アーニー署長は
犬に触ることを躊躇していた。僕はジャッキーが何処かへ行かないように、しっかりと捕まえていた。
ニッキーは誰かを守ろうとし、僕らに騒ぎをやめさせようとしていた。まったく混沌とした状態だった。
僕らは二人とも犬を蹴ったり怒鳴ったりし、ニッキーの鋭く縮み上がったような鳴き声が、家中にこだました。
ショックから身を守るための生理的反応なのだろう、やがてジャッキーはマヒしたようにおとなしくなった。
僕はそれまで彼女をしっかりと抱きとめ、それからアーニー署長に、かかりつけの医者を呼んでくれるように頼んだ。
今や、時間はまったく意味をなさなくなっていたが、その間にいつのまにかニッキーはいなくなり、何処かへ隠れていったし、
そしてスプラント医師がやってきて、慰めの言葉をなにか言おうとしたが、僕らは聞くことができなかった。
やがてアーニー署長が去り、スプラント医師も帰っていった。その後、夜通し僕はリビングのカーペットの上を、
絶え間なく歩き回った。(後でそれは、「サーチモード」と言う状態、つまり動物や鳥たちがするように、
無意識に「いなくなった誰かを探そうとする」行動なのだと、わかった)そしてジャッキーは、座ったまま、
虚空を見つめつづけていた。どちらも言葉を交わさなかった。そして薄暗い夜明けが訪れると、僕らは意気消沈したニッキーを車に乗せ、
降りしきる雨の中、トロントへと向かった。世界の終わりと、向き合うために。
車のヘッドライトが外の小道に見えてきて、それまでの楽しく平穏な生活が、生きながらの悪夢に変わってしまう、ちょうどその前、
ジャッキーが心配しながらやきもきしているその間、僕は考えなしにも、1847年モルモン教徒たちが西方巡礼に出かけた、その
ドキュメタリー番組を見ていた。その時、彼らが耐え忍ばなければならなかったひどい苦難を生き抜いてきた女性の
言葉が紹介されていたが、その最後のフレーズはこうだったと記憶している。
「私が生きているたった一つの理由は、ただ、死ぬことができなかったからにすぎません」
その恐ろしい言葉が今記憶によみがえり、その後の数ヶ月間、僕に取りついて離れなかった。
そしてジャッキーの世界は完全に、そして永遠に壊されてしまったのだと、ほどなくして僕は悟った。
彼女は粉々に打ち砕かれ、二度と元通りにはならなかったのだ。
僕は自分にできる限りなんでも妻のためにしようと努めたが、二度と元通りにならなかったのは、
僕らの関係も同じだった。僕は誰もが夢想もしないほどの激しい悲しみと嘆きを知っただけでなく、
子供を失った後、ほとんどの夫婦が一緒にいられなくなるという、悲しい事実も思い知らされた。
なんと理不尽なことだろう! もうすでに十分過ぎるほど苦悩しているというのに、その上さらなる苦痛と偏見とを
積み重ねられるとは。間違っている、あまりに不公平だ、あまりに残酷だ――
知らぬが仏というわけだろう、かつての僕はまったく逆に考えていた――お互いに共通の悲しみと損失を
分け合うことで、もっと親密になると。だが、事実は違う。
たぶん、お互いに嘆きあうことで、常にそのことを思い出していなければならないためだろうか、
それがほとんど非難の応酬になる可能性があるからだろうか、それとももっと奥深いなにか、
「利己的遺伝子」がもう一度やりなおそうとする試みを、失敗の再生産と認識して、拒絶するのか。
それがなんであれ、22年間に渡る事実上の結婚生活を送ってきたジャッキーと僕にとっては、無情な
考えに思える。悪い時もよい時も(少ししか仲たがいをしなかったような)、とにかく僕らは一緒にいた。
貧しい時も、富める時も、失敗した時も、成功した時も、若い時、壮年期、そして中年になってから(ジャッキーは42歳で、僕は45だった)の
それぞれの危機も乗り越え、セレーナの子供時代から思春期までずっと通して、さらにミュージシャンとしてのツアーや個人的な冒険旅行
での、たびたびの不在をものともせずに。僕らはこう言ったすべてのことを乗り越えてきた。そして今、
僕ら二人ともが、最も大事にしていた宝が失われた時、その事実が僕ら二人を引き裂いたのだ。
トロントでの最初の恐ろしい数週間の間、友人や家族たちが「弔いの家」に詰めかけ、夜も昼もそこにいて、
この耐えがたい事実から気をそらそうとしたり、なんとか乗り越える手助けをしようと、できる限りのことをしてくれたが、
ジャッキーは決して慰められることはなく、目に見えてやせ衰え、まるで儚い嘆きの生霊のようになってしまっていた。
いつか、彼女は首を振りながら僕を見上げ、こう言ったことがある。
「悪く思わないでね。でも、これはとうてい自分では、どうにもできないことなの」
彼女を慰めようとしても、そうさせてはくれなかった。本当のところ、僕と一緒には何もしたがらなかった。
たとえ妻が僕を必要としているように見えても、彼女の悲しみに沈んだ心には、僕の入る余地はなかった。
いや、誰であれ、入る余地はない。セレーナを取り戻せないのなら、他に求めるものなど、何もなかった――
ジャッキーはただ、死ぬことのみを望んでいた。食物を口に入れさせるためには、なだめすかさなければならず、
いつも自殺のことばかり話そうとする。妻の鎮静剤や睡眠薬の使用量に、僕は絶えず目を光らせ、彼女を決して一人にしないように
いつも気をつけた。薬を飲んで眠りにつく時、彼女はいつも額に入れたセレーナの写真をしっかりと腕に抱いていた。
2週間後、僕は友人のブラッドとリタを伴い、ジャッキーをイギリスのロンドンへと連れて行った。
ブラッドとは、子供時代からの知りあいで、70年代初頭には、彼とロンドンのアパートで共同生活をしていたこともある。
そこで彼は、シャー時代のイランからの亡命者だったリタと出会い、彼女と一緒にカナダへ戻っていたのだった。
ブラッドとリタは、彼ら自身で人生の悲劇を経験したことがある。それゆえ、ジャッキーと僕が放浪生活を
始めるために力を貸してくれる友人として、彼らは適任といえた。彼らが故郷へ帰った後も、ときおり友人たちが訪れて、
一週間か二週間ほど泊まって行くので、僕らはハイドパーク近くの小さなアパートに移り、そこで6ヶ月間過ごした。
僕らはグリーフ(嘆き)・カウンセラーである「デボラ医師」に診てもらい、週に数回、
「トラウマによるストレス・クリニック」に通った。それは、少しは僕らの力になってくれるように思えたし、
少なくともそうすることによって、外の世界と時折でも、つながっていられた。
ジャッキーを散歩に連れ出すのも、大変なことだった。
見るものすべてが、妻を苦しめるからだ。放課後着る服の広告を見ても(セレーナ!)、公園で遊ぶ子供たちの姿も(セレーナ!)、
乗馬のレッスンをする少女たちの姿も(セレーナ!)、若さに光り輝くきれいな女性たちを見ても(セレーナ!)――
こうした光景は、もちろん僕にも同じ痛みを突き刺す。僕も気がめいることも、不機嫌になることもあり、
しばしば涙に暮れることもある。だが、自分ではあまりにつらくて到底扱えないようなことに対して、
壁を築くことを僕はすでに覚えていたようで、ロンドンの街路に出る時には、そう言う心理的な防御を
身につけることができた。(娘に)関連のありそうなことに出会うと、僕はひるみながらも気をそらすことができたものだったが、
ジャッキーは剥き出しで傷つきやすいまま、思い出すことの恐怖から身を守ることができなかったのだ。
妻に栄養のあるものを食べさせようとして、僕は簡単な食事をキチネットで料理することを覚え、
(オックスフォード通りにあるマークス&スペンサーの食料市場で、新鮮な魚や野菜、その他こまごましたものの
料理の仕方を教えてもらったおかげだ)運の悪い僕のミドルネームをとって、自分を「シェフ・エルウッド」と呼んだ。
しかし、どんなものも、決して十分ではなかった。僕はできるかぎりジャッキーの面倒を見た。彼女を一人で置いておくのは、
午後、公園やロンドンの通りをちょっと散歩に出かける時か、日々の食料品を買いに行くときだけで、その時には
薬をみな金庫の中に鍵をかけて入れておいた。だが、まるで完全な無気力状態から来る自殺が成し遂げられようとしているのを、
この目で見ているのと同じようなものだった。彼女は、何も気にかけなかった。
翌年一月になり、そろそろロンドンから帰り、カナダの何処かで生活を始められるように、その場所を見つけようと
し始めた頃、ジャッキーはひどい背中の痛みと、夜間の咳に苦しめられるようになった。医者に連れて行こうとする僕を、
彼女はこう言って拒んだ。
「ストレスのせいだって言われるに、決まっているわ」
しかしドクター・デボラは、専門的な検査を受けるように、ともかく医者に行くようにと、僕に勧めた。
ロンドンから旅立つ前の日に、ジャッキーは末期ガンと診断され(医師はガンと言ったが、もちろん
それは傷心と言った方が良いだろう)、二度目の悪夢が始まったのだった。
ジャッキーの兄弟であるスティーヴンが僕らをトロントで出迎え、そのまま家政を引きついだ。彼は
数々の訪問者たちをさばき、(彼らからは「門番」と呼ばれた)ジャッキーの看護を監督していた。
そして僕はその間、「防護的狂気」に陥ったように感じ、アルコールとドラッグでマヒしたようになっていた。
しかしジャッキーは、この知らせをほとんど感謝の念を持って、受け取ったようだ――まるでそれが、
彼女にとって受け入れることのできる唯一の運命、彼女の払うことのできる、ただ一つの代償であるかのように。
悲惨な、絶望的な、怒りにかられた(それはしばしば、手近な目標として、僕に向けられた)数ヶ月を過ごした彼女だが、
診断がついた後には、もはやとげとげしい言葉を吐くことは決してなく、泣くことさえ滅多にしなくなった。
彼女にとって、病はある種の恐ろしい正義だったのだろう。だが僕にとっては、ただただ恐ろしいことでしかなかった。
そして、到底耐えられないことだった。
トロントで2ヶ月、憔悴しきった日々を過ごした後、僕はなんとか気力を奮い立たせ、バルバドスに行きたいという、ジャッキーの願いを
叶えることにした。2年前、その愉快な島国で、僕ら家族は楽しい休暇を過ごし、忘れられない思い出
を残している。そこには十分な医療施設があり、ジャッキーを家で看ることを可能にしてくれた。
彼女の病状はどんどん悪化し、酸素ボンベが手放せなくなり、精神的にも肉体的にも衰弱していったのち、
一続きの発作が起きて、比較的安らかな最後を迎えたのだった。
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