Ghost Rider (Part 10)





Chapter 15 : Riding The Jetstream

『夜明け前の薄闇の中、ちょうど6時過ぎに、僕はK-12に荷物を積みこみ、セントラルパークを抜け、ヘンリー・ハドソン・パークウェイを越えて、 ジョージ・ワシントン・ブリッジへと向かった。橋を渡る時、ちらりと盗み見た、夜明けの霧に包まれたマンハッタン。それはいつものように 感動的な光景だった。」

 早朝、NYCを発ったNeilは、北上して走りつづけ、国境を越えて再びケベック州に。その頃には雨が降り始め、 ハドソン河を渡るフェリーに乗る頃には、土砂降りの雨に。ずぶ濡れになりながら、その日のうちに湖畔の家に帰りつきます。
「湖畔の家についた時には、すっかり濡れそぼり、疲労の極致で、寒さのあまり身体の感覚はなくなっていた。 それでも、悲惨な状態だったのは、旅の最後の二時間だけだ。初めの8時間はほとんど完全(に快適)なものだった。 (まるで人生の比喩のようだ。僕のような)
 僕は翌日、また夜明け前の霧の中、起き出してきた。この霧は昨日と違い、湖から立ち上ってくるものだ。そして昨日と同じように明るい、 しかしここでは黄色に輝く太陽が顔を出し、初秋の紅葉に染まった木々を照らし出していた。急に肌寒くなった外気の中に一歩踏み出し、 息を吸いこんだ時、(その空気が)なんとおいしく感じられるかを知り、新鮮な驚きに見まわれた。
 僕はこう思わずにはいられなかった。『どうして何処かへ行かなければならないんだ?』」


 しかし、行かなければならないわけは、自分が一番良く知っている。ちょうど乗換駅に来たように、一時的な休息をここでとり、 また出かけなければ。癒しの旅は、まだ終わっていない。
 3日間、湖畔の家で休息したあと、もう完全に走れる状態になった愛車GSに荷物をつんで、Neilは再び出発します。 何処に出かけるか――最初に旅立った時と同じように漠然と、もう一度Vancouverに弟一家を訪ねてみよう。 6月に生まれた新しい甥っ子にも会いにいってみよう。そこへ行きつくまでの道程は、思いつくままでいい。

 そしてまたその道中、Brutusさんへ手紙を書きます。最初は10月1日付で、ミネソタ州から。 出所したら、プロレスラーになったらどうだい? 運動不足で体格が良くなっているだろうし、僕がマネージャーをやろうか、などという 軽い呼びかけから始まり、あとはQuebecからミネソタまでの道中記です。ここ4日ほどずっと雨に降られ、ひどく寒く、 寒気に追いかけられるようにして、南下した、と。途中、立ち寄った場所での、かつての記憶――Rushの初期にここのハイスクールに出演したとか Test For Echoツアーでこの近辺まで来た、などというような――も、ほんとうにちらりと触れられています。
 今滞在している町は、シンクレア・ルイスという作家の生地で、1920年に書いた「Main Street』と言う本の舞台でもある。 でも、今やそのメインストリートには、マクドナルドやSuper8やハーディーズなどが立ち並び、すっかり様がわりしている、と、 締めくくられています。

 翌日2日付の手紙は、ミズーリ州Maryvilleから。出発の時にはバイクが凍り付いていたほどひどい寒さだったが、 天気には恵まれ、ここまで南下した。でも明日からまた雨が降りだし、気温も下がるという。Vancouverへ向かっている つもりではあるが、しばらくはもっと南に行く、というような内容です。

   4日付の手紙は、ニューメキシコのSanta Rosaから。ついにここまで南に来てしまったようです。さすがにもう寒くない、と。 ミズーリからカンザス、オクラホマ、テキサス、と、南西目指して進み、ここまで2日でたどり着いた。 昨日泊まったホテルでは、トルーマン・カポーティの白黒写真が飾ってあった。(支配人の話では、 カポーティが映画の撮影にこの町に来た時撮ったもの)まだ自分としてはヴァンクーヴァーを目指しているつもりだが、 ついさっきLAのAndrewとも話をしたばかりで、『早くLAにおいで、みんな会いたがっているから』と言われた。 みんな、の中にCarrieさんも入っているのだが、今はまだ、その気になれない。と言うような内容です。

 翌日はコロラド州Cortezから。Santa Rosaを出て、途中給油とオイル、タイヤ交換をし、その間に 近くにあるErnie Plye記念ライブラリー分館を、タクシーで訪れた。Ernie Pyleという人は第2次世界大戦時、有名な戦時特派員だったが、 終戦間際に沖縄で殺された人だったが、私生活では奥さんのJerryともどもアル中に苦しみ、あまり幸福ではなかったとうい話も書いています。 Cortezは泊まる場所も豊富にあり、良いレストランもあり、なにより暖かくて、Tシャツとライディング・スーツだけで快適に過ごせる、 快適なツーリングだった、と記されています。

 翌日はユタ州Moabから。明日はキャニオンランズ国立公園を少し走ってみるつもりだ。まだ自分はヴァンクーヴァーに向かっているので、 雪や寒さを避けて、慎重にプランを進めなければ、とも書かれています。

 ここからは地の文になります。翌日、雨の降る中、キャニオンランズ国立公園のニードル地区まで行き、そこの観光センターでハイキング情報をもらって、 ハイキングに出かけます。すぐに雨は上がり、渓谷を5マイル半登り、コロラド川や眼下の壮大な景色を見ながらランチ。 その夜は違うレストランで食事をとりますが、そこはかなり混んでいて、町自体も人が多い感じがする。
 レストランのバーに座り、(そこではタバコが吸える)ユタではビール以外の酒が(公の場所では)飲めないようなので、料理を ――ハイキングのあとの空腹を満たすために、食べていたところ、一人の客が――イエズス会士のようなひげを生やした長髪の若者が 自分をちらちら妙な目で見ている。そして、さらにその若者のガールフレンドが『正体を確かめに』やってきたところで、 Neilはたまらず、記録に書きこみます。『僕は逃げ出したい!』
 VancouverのDannyと電話で話したところ、もうすぐカナダでは感謝祭なので、それまでに来てほしいと言われ、 そうのんびりもしていられないな、と思うのです。

 そして翌日は、MoabからBoiseまで、一日で952キロを走破。『長い一日だったが、比較的楽だった』と、記録に書かれています。 日記にはまた、古き良き、モルモン教徒の質素な伝統をくんできたユタ州が最近の急激な開発に、すっかり様変わりしてしまったことに対する、 哀惜の意が記されています。そして滞在したホテルは、ホッケーの試合を見に来た客やら一晩中演奏しているバンドやらで騒がしい、 と嘆いています。

 その夜は良く眠れず、起きたら熱っぽく、身体のあちこちが少し痛い。胃の具合も変だ。それでも、その日も 866キロを走破します。微熱のせいか、考えは少々取り止めがなくなり、あちこちさまよいますが、走行自体は危なげがなかったようです。

「そしてこの時、僕は自分自身のことを考えはしなかった。僕は自分の周りの人々のことを――広い意味での 北アメリカの人々のことを、そして彼らの(僕らのでもある)未来に対する希望が、だんだん薄れていくことを、考えていた。 (自分自身のことを考えるのを、しばし止めさせてくれたのは、たぶんに熱のせいだと思う) それまでに、カナダやアメリカをかなり手広く旅行してきて、 多くの都市や村を訪れ、毎日大勢の人たちが、それぞれの人生を行き、お互いに交流している様を見てきて、 僕はそれまで彼らに抱いていた、全体としての印象は、決して高くなかったことに気づいた。
 こんなにも大勢の男性たちや女性たち、若者たちや老人たちが、時に残酷に(お互いに対しても、そして特に子供たちに対して) こせこせして、自分の考えにのみ夢中で、自分だけの正義に凝り固り、独善的に見える。『独善的な奴はぶっ飛ばせ』と僕は自分の記録に書いたが、 彼らは『そもそも本質的に、難攻不落なのだ』と気づいた。僕は時折、ロジャー・ウォーターズが描く 人間の暗い本質――ピンク・フロイドの「アニマルズ』で、彼が人間を犬、豚、羊に分けた、その視点に共感する時がある。 でも僕は、それでももう一つの種族を、そこに加えたい――数少ない、本物の人間を。彼らはその『農場』の世話をし、他の『動物たち』に 優しく接する。ほとんどの人は、お互いにちゃんと接することができない、と思うが。
 ほとんどの人々は友人や近所の人たちという、比較的狭いサークルで人生を営んでいる。そこでは、人間の善意という心休まる幻想を、簡単に受け入れることができるだろう。 (いまいましい外国人だけは、別扱いだろうが)でもそう言う防護壁が剥ぎ取られ、独善者たちが東洋(東ヨーロッパ?)のゲットーやロサンゼルスの南中央地区に閉じ込められたり、 イスラム原理主義者たちの暴動の只中に放りこまれたりしたら、彼らの世界は突如として広がり、ひどく陰惨なものとなるだろう。 そこはジャングルだ。
 同時に、僕はこの『癒しの道』を旅してきて、とうとう『受容』の段階にたどり着いたようだ。どんなに苦痛に満ちたものでも、 僕はありのままの世界を受け入れることのできる感覚を、身につけたようだった。そしていつものように、僕の思いも、旅も、読んだ本も、書いたものも、すべてが すべてが絡み合っているように見える。」


   その後、Alex Shoumatoffという人の書いた本についての記述があり、そして旅の記録で章が終わっています。
「ただ、そうあるだけなのだ。本は、その言葉で終わっている。そしてそれは、僕が自分自身を取り巻く世界について、感じていることでもある。ただ、そうあるだけなのだ、と。 なんとか、取り組んでいこう。
 やってみよう。少なくとも、僕には、先へ駆り立ててくれる好奇心がある。それが希望でなくとも。 (希望は)失われてしまった。理想と、信念も一緒に。もう幻想もない。ただ、そうあるだけなのだ。
 なんとか、折り合っていこう。」




Chapter 16 : Coast Rider

 NeilはVancouverにたどり着き、Danny一家のもとに、再び滞在します。弟の家はNeilにとって、彼の中のGhost Riderや、 他の人格たちにとっても、「素敵な休息所」でありました。かわいい甥っ子たちもいました。

「マックスは3歳になっていて、僕は彼と一緒に、床の上で、ブロックや玩具の車で遊んだ。それはいつも 心を癒してくれた。僕は彼を『ピーウィ−』と呼び、彼は僕を『おかしいマン伯父ちゃん(Uncle Funny Man)と呼んだ。新しくメンバーに加わったニックは生後4ヶ月になっていて、 並外れて穏やかな赤ん坊だった。僕は彼を『ブッダ・チャイルド』と呼んだ。
 ジャネットの両親、スチュアートとヴェラもニューブランズウィックから訪ねてきていたので、皆で感謝祭を祝うのは、素敵なことだった。 ブルータスと一度電話で話をすることもでき、僕らはお互いに、素晴らしくおかしな会話を楽しんだ。彼は自分がおかれた状況のユーモラスな側面を いつも見つけることができた、少なくとも、電話では。僕と同じように、彼も不満は手紙のためにとっておくのだ。」


 バイクを地元のディーラーに預けて、Neilは弟の家での滞在を楽しみます。感謝祭のイベントのほかに、セーリング、インライン・スケート、ハイキングに 挑戦したそうです。そしてバイクが再びピカピカになって戻ってきたあと、再び旅に出ます。

  「旅行することは、明らかに、僕にとって良いことのようだ。そして僕は今年も、前の年のように、クリスマスが過ぎるまで、家に帰らないつもりだった。 ここから合衆国を南下し、メキシコのまだ行っていない場所を訪ねてみようか、そんないくつかの、可能性としての漠然としたプランはあった。  『サウス・パーク』の連中(訳注:Andrewとその仲間たち)が、LAで恒例のハロウィーンパーティーをやるので、来てくれ、と言う誘いがあったので、 そこに行く口実としては悪くないと思い、僕は10日後の10月27日から1週間、サンセット・マーキスの予約を取った。
 山岳地方の天気は、いつもあまりフレンドリーとは言えないので、カリフォルニアまで、海岸沿いのハイウェイを南下していこうか。ブルータスと僕は 一部分だけ、ラッシュのツアー中に走ったことはある。でも、全行程を走破するのも、良いかもしれない。『やったぞ(走破した)』と言うために。 ウエストコーストの人間たちは、永遠にこう問いつづけているのだ。「どうだい、海岸沿いのハイウェイは、やっつけたかい?』」


 Neilはさらに義兄のStevenに電話をかけ、そのうちにMoabで落ち合おう、そこで4WDを借りて、キャニオンランズを冒険しよう、とも約束します。 そして、バンドのクルーであるLiam Bertが他のバンドの仕事で、たまたまSeattleまで来るので、会おう、とも約束します。Stevenとの約束は クリスマス頃、という漠然としたものでしたが、Liamはほぼリアルタイムです。
 10月17日に、Vancouverを出発したNeilはすぐにSeattleに着き、Liamが滞在しているPamamount Hotelにチェックインします。その目の前には、 かつてRushも70年代終わり頃まで良くプレイしていたParamount Theaterがあり、ちょっと思い出に浸ったりもしたそうです。
 Liamは夜まで仕事でホテルに戻って凝れないため、Neilは時間つぶしのため、街に散歩に出かけます。そして街並みや、あちこちで見かけるあらゆる世代の 『進んだ人たち』を見て、『シアトルはいかにも・・シアトルだ』と思うのです。
 夜遅くホテルに戻ってきたLiamと会ったNeilは、ルームサービスでディナーとドリンクを頼み、部屋で語り明かします。Liamは今ツアー中のバンドのことを、 Neilは今までの旅のことを。まるで堰を切ったかのように、こまごまと旅の話をしてしまったために、『退屈させやしなかったか』と、後になって 気になった。Brutusなら、そんな心配は無用なのだが・・そう思いながら、西海岸を南下し、道中、再びBrutusさんへの手紙を書きます。

 10月18日は、オレゴン州Rockaway Beachから。Vancouverでの滞在のこと、とりわけ甥のMaxのこと、そして最近自分の旅の仕方が、『ジャズ・モード』 に変わってきた。インプロヴァイゼーションが多くなり、周りの景色や道路や他の車両に『呼応』するようになってきた、と。
 10月19日付のものは、オレゴン州Brookings Harborより。海岸沿いの道は景色が良いので有名なので、走ってみた、と。そして今後の大雑把な旅の予定が書かれています。 とりあえずLAでハロウィーンパーティーに招待されているので、それまでのプランとして、Sonomaあたりへ行き、ヨセミテ国立公園を訪問し、それから当然Death Valleyへ 行こう。LAでのどんちゃん騒ぎが終わったら、少し東へ向かって、アリゾナの南の方から、メキシコへ行ってもいい、と。もうすぐカリフォルニアだ。暖かくなってきた。 西海岸を走ってみて、思う。『太平洋(Pacific)』の方が、『大西洋(Atlantic)』より言葉の響きは良いけれど、大西洋の方が、潮の匂いは良いように思える。大西洋は芳醇な感じがするが、太平洋は ちょっと淡白に感じられる。潮流の影響だろうか、とも書かれています。

 10月20日は、California州のMendocinoという町から。この小さな町は古風な佇まいで、チェーン店などなく、昔からの店ばかりで、Neilは非常に気に入っている。このあたりはCoast Highwayの 穴場とも言うべき場所だ。去年の春、Geddyに「PortlandからVancouver間で5日間でドライブに行きたいけれど、どう言うルートがお勧め?』と聞かれた時 勧めた5つのルートの一つだそうです。(Geddyは結局行かなかったそうですが)
 このあたりのセコイヤ(redwood)の木は非常に高く生い茂り、うっそうとして、その間から太陽の光が、光線の柱のように入ってくる。 霧に包まれて、非常に幻想的な雰囲気もかもし出してくれる。でも、そんな素晴らしい場所なのに、君(Brutus)がいないのが残念だ、 とも。
 この町には2日連続で滞在したようで、翌日の手紙も同じ場所から書かれています。そしてこの町の美点、気に入った所、歴史と由来などが書かれ、 『アーティスト・コロニーをここに作ったら』と言う考えも閃いた、と。それと、「Fort』とつく名前の所は、やめておいた方が良い、とも書かれています。 (騒々しいから? ただ、北西準州だけは例外、だそうです)

 10月24日には、ヨセミテ国立公園から手紙を書いています。まず、Mendocinoで今まで使っている便箋より良質の紙を手に入れたので、 それに書いている、と言うことから始まって、この山岳の道は良く整備されていて、素敵な道なのだが、その日は日曜の午後だったので、 たくさんの車がのろのろと走っていて、なかなか追い越しはできなかった。このあたり、Yosemite Villege(Grand Canyon)から 観光センター(Mount Rushmore)までの道は、巨大な野外モールのようだ、とも書いています。

 昨日Mendocinoを出発し、海岸沿いにHighway1を南下して、それから少し内陸に向かった。道路はとても素晴らしく起伏に富んでいたけれど、 交通量は多かった。Test For Echoツアーでこのあたりをツーリングした時は、面白かったね。途中Jack London書店に行って本を買い、 Sonomaの町をクルージングし、San Francisco近辺であまり知られていない場所をいくつか訪れ、レストランで食事をし、そのあと車の 博物館を見に行った。そこに展示されている車はどれもレアでユニーク(V-16キャデラックや一台しかないル・マン・プロトタイプのジャガーXJ-13など) 手入れが完璧に行き届いていて、どれも宝石のようにぴかぴかだったし、ゆったりとしたスペースを途って展示してあった。その日はSalina近辺に泊まり 翌日出発して、ここまで来た、と。

 そして翌25日に、再びヨセミテから手紙を書いています。その日一日、精力的にハイキングした。そのことを記録に書こうとした。
「でも、僕が知ったことすべてを(この旅についてさえ)本に書くということは、とてもプレッシャーのかかって気が重い。今日一日でわかったことだけでも、きっと良い本が書けるのだろうが。 歩いている間に、何を見て、何を考えたかを。何百万ものおびただしい思いがぐるぐる渦を巻き、一つ一つが関連しあって、テープがほぐれて行くように感じられる。 でも、いったん立ち止まってしまうと、すべて何処かに消えていく。まいった。バイクに乗っている時と同じだ。せっかく考えていたのに。」
 色々を考えたことが、上手く言葉に表せないもどかしさ、なのでしょうか。そして「Test For Echo」ツアー時に、いっしょに 旅をしていて、「自分たちは恵まれすぎている」と、何度も言ったことを思い出した。あれから自分の運命はあまりにも急降下して しまった、と。

「あのツアーは、自分のキャリアにおいて絶頂期だったと、たしかに思う。僕の人生にとっても。何もかもが上手く行って、僕らも上手くやれた。 これ以上は望めなかった。
 旅から旅へという僕の今の状態を、誰かが(君以外は)羨ましいと言うごとに、僕は直ちにその考えを改めさせた。(もちろん、穏やかにね) 楽しい旅では、決してない。絶望的な、休みない逃避行に過ぎない、とね。前から言っているように、僕は家にいて、素晴らしい本でも書いていたかったよ。 でも・・なんとかやっていくしかないんだ」

 そして明日、この手紙を投函する。28日にはLAに行くから、その時に電話してくれ、と締めくくられています。

「最近、僕は自分の赤ん坊の魂が明らかに成長しているという兆しに気づいた。自分が旅しているこの自然界に対して、再び慈しみの情を持てるように なってきたということに。今まで自然に対する愛情(愛着)は、変わらず持ちつづけていたけれど、同じように慈しみを感じていたかといえば、 そうではなかっただろう。人生に手ひどく裏切られ、僕の理想や信念は、打ち砕かれた。長い間僕は、自分を取り巻く世界に対して、いかなる責任感をも、感じることができなかった。 (あぁ、君たちの惑星を救ったらいい!)それ以前の僕は、ずっと長いこと、環境問題や博愛主義的な興味が、生活の重要な位置を占めていたものだったのに。」

 かつてのNeilは幅広く、様々な慈善事業に貢献していた。毎年12月にはAnthemのSheilaさんが前年度のリストを作り、それをNeilはSelenaさんに見せて、 それにはどう言う意味があるのか、なぜそうしたか、を説明してきた。「良いことをしていれば、良い結果がめぐってくる」と言う人生哲学を 実地で教えたかったから。でも、それが上手く行かなかった時、その信念は砕かれた。個々の友人やストリート・ピープルに対してはなお寛大でいられるけれど、 もう慈善事業団体、というものには興味が持てなくなっていた、と。
 Jackieさんも毎年クリスマスに、食物や日用品を詰めた大きなケースをいくつも注文し、ローカル・フード・バンクに匿名で寄付していた。Jackieさんが亡くなってからは 寄付が途絶えたので、事情を知らない関係者が問い合わせてきた、と義妹Debさんが言っていた、とも書かれています。
 Selenaさんの葬儀の時、Neilの弟DannyがW.H.Audenの詩を朗読し、それがSelenaさんの墓碑に刻まれている。その詩はまた、Jackieさんの 墓標にも刻まれた。その嘆きの詩は(訳注:W.H.Auden 「Twelves Song」――愛する人の死に際して、書かれた詩とされています。「Vapor Trail」に調子が似ている、 と、以前海外掲示板でupされていたため、原詩はあるのですが、著作権に抵触しそうなので、掲載はしません)、こんなフレーズで終わっています。
Pour away the ocean/And sweep up the woods/For nothing now can ever/Come to any good
(大洋の水をこぼして捨て/森を根ごそぎ、なぎ倒せ/もはや何一つとして/幸いをもたらしてはくれないのだから)

「その時、僕はたしかにその心境にあった。世界の終わりが来てしまったように感じられるのに、星や海や森が必要だろうか? 『癒しの道』を 何千マイル旅してきてさえ、僕はまだ『もはや何一つとして、幸いをもたらしてくれるものはない』と信じていた。でもゆっくりと、本当にゆっくりとだが 僕は森や海が健やかであるかどうかが、また気になりだしてきたのだった」

 サンフランシスコからヨセミテに来る途中で見た工業地帯、Glacier Pointを登ってそこからYosemite Valleyを見下ろした時に見えた、 オレンジ色のスモッグ。Aldo Leopoldという人の本には、鯨を取ることに対する批判が書いてあった。 人間は、自然界の一部だ。でも、ある種の人々はその自然界の敵となっているようだ・・

「『混沌が、自然界の掟だ。秩序は、人間が求める夢だ』と、ヘンリー・アダムスは書いていた。ある『失望した理想主義者』(皮肉屋とは言うまい) は、自然や人生とはまったくのランダムであり、混沌であり、無情なものであることを受け入れることを学んだ。それでも、秩序は、僕の求める夢ではない。 僕が求めるものは、ただ美しさだけだ。そしてたぶん、いくらかの平和と・・」




Chapter 17 : Telescope Peak

 1999年10月26日、27日付で、Death Valley国立公演からBrutusさんに書かれた2通の手紙で、この章はほとんど終わり。短いです。

 最初の手紙には、ここへ来るまでの、起伏に富んだ森の中の道をツーリングするのは、気持ちが良かったこと。観光センターに着いて 明日Telescope Peak(展望台、と言う感じか?)に行ってみたいと問い合わせた所、かわいいレンジャーさんが、3000フィート登るのに だいたい3時間、下りが1時間、そこまで行くのにバイクで1時間くらい、かかる、と教えてくれたこと。標高8000フィートから11000フィートまで登るのは、結構大変だが、 やってみよう。上手く行った暁には、明日のディナーでデザートを二つ頼もう、などと書かれています。その後、今日通ってきた道について 地理的な説明がされていますが、ここはちょっと省略。

「なぜ僕はこの場所が(死の谷)がこれほど好きなのか、自分でも不思議に思うよ。(中略)
 スコッティ・ジャンクションからスコッティ・キャッスルへの道を初めて通った時、素敵なステッカーを買うついでに、地元のレンジャーに このあたりの、だんだん侵食されて腐っていく堆積物のことを聞いた。それがなんと言う名前だったか、ここ一時間くらい考えていたのだけれど、どうしても思い出せなかったから。 それからグレイプヴァイン・キャニオンへと下り、この谷間に来たんだ。微笑がこみ上げてくるのを感じながら、僕は見た。ごつごつして、入り組んだ 丘陵地帯や、砂山、塩田などを。その光景が、とても気に入った。なぜだかは、わからないけれど。(中略) 僕はいつか、正式な本のために取っておこうと思う。 (「ブルータスへの手紙」と言う、海賊盤じゃないよ――君が出すつもりだと、聞いたけれど)」


 そして、騒々しい音を撒き散らすバイカーの一団がいて、そのうち二人は、T-シャツ姿でドレスコードのあるレストランに入ろうとして 断られ、怒って立ち去っていったことが書かれています。
「最近、旅を重ねるにつれて、そこで働いたり遊んだりしている人たちを見るにつけ、人間性に対する僕の全体的な評価は、下がって行く一方だと気づいた。 深遠なことだよ。僕はいつも理想主義者で、人々の「向上の可能性」や、ほとんどの人々が基本的に持っている善き心というものを、を信じている。 だから、この変化は意味深いと思うんだ。くだらない柄のTシャツは着るもんじゃない。僕はメッセージつき以外のTシャツやスウェットは、絶対に着たことがなかったからね。 (中略)本能的に好きだと思える人たちにも、たしかに出会ったよ、偶然ね、それに僕がよく知っている、「腹心の友」たる価値ある人たちも、たしかにいると思う。 でも、それは数えるほどしかいない。ほとんどの人たちは、僕らにとって興ざめな存在でしかない――そう思えてしまいそうだよ。
 君もそうじゃないかい? 君はいつも、僕よりずっと寛容(耐えられる)だったけれどね。
 それが、ぴったりの言葉かもしれないね。僕はいまだ、多くのことに耐えている、と言う感じだ。たぶん、これまで以上に。でもそれは、僕が見たことを(わかったこと) 受け入れたとか、感嘆したとか、楽しんでいる、と言う意味じゃないんだ。ただ、我慢して許容しているだけだよ。」


 翌日、27日の手紙は、Death Valleyの景観をプリントしたステッカーを同封しています。
「それは65マイルもの、今までになくひどい道を乗っていくことから始まった。きれいに舗装されたステート・ハイウェイから、道幅の狭い ごつごつした道へ、それから平坦な砂利道、最後の数マイルは、でこぼこした、恐ろしいほど切り立った砂利道だった。ちょうどハンター・マウンテン・ロードのように 砂やら砂利やら、岩や轍、険しい崖に落ちそうな、危険なカーブだらけだった。(「車高の高い4WD専用、と標識に書いてあったよ ――ハッ!)
 それからやっと、標高8000フィートの登山道にたどり着いたんだ。ここから頂上まで、7マイルを徒歩で登らなければならない。標高順に広がっている、木々のなかを。 最初はセージ、次はビャクシン、それからピニョン松、マウンテン・マホガニー(大型のセコイアやポンデローサマツもあった)、9000フィートあたりではリンバー松 になり、ついに標高10000フィートでは古いブリスルコーン・マツに変わっていった。
 頂上そのものは、ほとんど何もない。ほんの少し草が生えているだけの、剥き出しの岩場だ。(僕がそこについた時には、寝転がるのにちょうど気持ちよかったけれど) でもそこからの眺めは、もちろん、驚くほど素晴らしいものだった。谷間全体がはるか眼下に広がり、バッド・ウォーターの白い河川敷や、 小さな緑の点のように見えるファーネイス・クリークのオアシス、そして西の彼方には、茶色にうねる山々に囲まれたパナミント・バレーが広がり、その一方の終端にはいくつも砂山、 横切って伸びるハイウェイは、僕の想像の目にしか見えないが、はるか彼方まで続いているのだろう。
 でも今は、疲れたし、あちこちが痛い。降りるのは、登るのと同じくらい大変だった。少なくとも、呼吸をするのは楽だ、という違いしかないだろう。 歩きながら、痛む場所を数え上げてみた。首、肩、背中、腰、臀部、太腿、膝腱、膝、脹脛、くるぶし、そして特に、足だ。(うわぁ!)でも ともかくヘリコプターで救助されることなしに、歩きとおすことはできたよ。
(中略)
 身体同様、頭も疲れてしまったから(僕は歩きながら、ずっと考えていたんだ)LAでのために(ハッ!)、黙ることにするよ。それに僕の健康過ぎるこの身体に 無理を積み重ねてしまったし。もうトレーニングは十分だと思うんだ。どう?
(LAでは)話せる機会がきっとあると思うから、その時のために、いくつかまだ話を取ってあるんだ。今日考えていたんだが、最近手紙ばかり書いているのは、たぶん 高級めの場所に泊まっているせいだろう。そういうところのレストランの照明は薄暗いんだ。本を読むのには良くない、でも君の僕の心情を書きなぐるには 別に大丈夫なんだよ!
 これだけ言っておこう。僕の夕食は、コーンとかにのチャウダー、プチフィレ肉とチキン、それに海老に、ふさわしいソースとサルサをかけたサウス・ウェスタングリル、 Benziger Cabernetを一杯、インデアン・リヴァーの桃とアイスクリーム、コーヒー、コニャック、それに水をたくさん。さあ、もう自由にしてあげるよ。
 相棒、君と話すのを、君の「近況報告」を聞くのを楽しみにしているよ。
 デス・バレーより。ゴーストライダーはここで今、洗濯をしている。(もっとなにか、マシなことはないかい?) それでは、さらば。
Buenos Noches

G.R

最後に、こう締めくくられています。

「そして、わかってさえいたら・・
 頂上の見晴台に立っていた時、死の谷は、僕の眼前にあった。だが、死の谷は僕の後ろにも、過ぎ去っていたのだ。今は再び、僕の地平から大きなチャンスが 上ってこようとしていた」




BACK   NEXT   GHOST RIDER   RUSH Top