Clockwork Angels the Novel (Teaser)

By Kevin J. Anderson


第1章


こんなに小さく感じられる世界では
大きなことを考えずにはいられない

 穏やかで完全な生活を送っていて、だがそれだけでは十分ではないかもしれないと気づいた人間――物語を始めるのに、これほどふさわしい場所はないだろう。
 しなやかな曲線を描いて流れる、曲がりピニヨン河を見下ろす、緑に覆われた果樹園の丘の上で、オーエン・ハーディは林檎の木の幹にもたれながら、遠くを見つめていた。その場所から、アルビオンの全景を見ることができる――少なくとも、見えると想像することはできた。ウオッチメイカーの治める都、クラウン・シティは、はるか遠くだ。自分では、とても不可能な遠さだと彼は思っていた。バレル・アーバーにいる人々の中で、その距離を気にする人がいるだろうか――実際に都へ行った人は、ほんの一握りだった。そしてその中に、もちろん彼は入ってはいない。
「もうそろそろ行ったほうがいいわ」
 ラヴィニアが言った。オーエンが心から愛する、完全にお似合いの恋人だ。彼女は立ち上がり、スカートを払った。
「このりんごを加工工場へ運ばなければならないんでしょ?」
 オーエンはあと数週間で17歳になるが、すでにこの果樹園の副管理人になっていた。そうなってもなお、ラヴィニアに言われなければ、その責任を自分で実感することはなかった。
 林檎の木にもたれたまま、彼は手探りで携帯時計を取り出し、その蓋をぱちんと指で開けた。
「そんなに長くはかからないよ。もうあと、11分だ」
 彼は眼下を流れる川のその緩やかな谷底に、まっすぐ伸びる銀色のレールを見下ろした。
 ラヴィニアはかわいらしく口を尖らせた。
「スティームライナーが通っていくのを、私たちは毎日見なければならないの?」
「毎日ね。時計のようにさ」
 オーエンは彼女は自分と同じ情熱を共有していないのを知りながら、指でぱちんと時計の蓋を閉めた。
「すべてが狂いなく毎日毎日、決められたように進行していくのを見ると、安心しないかい?」
 これなら、少なくとも彼女が理解できる理由になるだろう。
「そうね。私たちの愛するウォッチメイカー様のおかげよ」
 恭しく一瞬の沈黙を置いて彼女は言い、オーエンはクラウンシティの塔からこの国を治めている、聡明で小柄な老人を思い浮かべた。
 ラヴィニアの鼻は丸く、目は灰色で、顔にはそばかすが洒落た飛沫のようにとんでいた。彼女の柔らかい声を聞くと、オーエンは時々、その声で歌う歌の調べを想像することができた。実際に彼女が歌を歌うのを聞いたことはなかったが。彼女の髪は、温かなヒッコリーの木のようだと、彼は思った。さもなければ、ほんの少しクリームをたらした、煎れたてのコーヒーのようだと。一度、彼はその髪の色は何色、とラヴィニアに聞いたことがあった。「茶色よ」と彼女は答え、オーエンは笑った。ラヴィニアの明瞭な簡潔さが、かわいらしかった。
「今日は、早く戻らないといけないのよ」彼女は指摘した。
「歳時暦によると、3時11分から大雨になるのよ」
「時間はあるよ」
「走らなければならないわ」
「わくわくするね」
 彼は空に浮かぶふわふわした雲を指差した。その雲はすぐに雷雲となるだろうが――ウォッチメイカーの気象歳時暦は、決して外れたことがなかった。
「あれは羊みたいだ」
「どれ?」彼女は目を細めて、空を見上げた。
 彼はそのそばに立ち、手を伸ばした。
「僕が指差す場所をたどっていってごらん――あれだよ。その長くて平べったいのの隣にある」
「違うの。あれが、どの羊に似ているの?」
 彼は目をしばたいた。
「どれって――どの羊でも同じだよ」
「羊が、全部同じということはないわよ」
「それから、あれはドラゴンみたいだ。あの左側の出っ張りを翼と見るならね。それからあの細い筋は首だ」
「私はドラゴンなんて見たことないわ。そんなものは、いないわよ」
 相手のがっかりしたような表情に向かって、彼女は顔をしかめて見せた。
「どうしてあなたは、いつも雲をなにかの形に見てしまうの?」
 彼にとっては、逆にどうして彼女には見えないのか、不思議に思うのだった。
「外には想像の余地がいっぱいあるからだよ。この世界全体がさ。世界中を見ることができないのなら、せめて想像したいよ」
「だけどどうして、自分の生活のことだけを考えていられないの。このバレル・アーバーでやれることだけで十分でしょう」
「それじゃ小さすぎるよ。僕は大きく考えるのを、やめられないんだ」

 遠くから連絡鐘のリズミカルな響きが聞こえてきた。彼は林檎の木の下から移動して、目の上に手をかざしながら、谷を見下ろした。そこにはスティームライナーの線路が、剃刀の刃のようにまっすぐ、光を放ちながら、彼を招くように伸びている。この錬金術的なエネルギーで満たされた道は、クラウンシティにあるセントラル・ジュエルまでまっすぐ続いている。オーエンは息を呑み、手を振りたい衝動をこらえた。スティームライナーからは遠いので、中からはどのみち彼は見えないだろうが。
 一連の飛空装置を持った車両群が空から降りてきて、レールに沿って一列になった。大きな灰色の幌が、下から供給されるエネルギーを受け止める。鉱山から堀り出されてきた鉄や銅、北の森から切り出されてきた木材などを満載した、重くて間口の低い貨物車両があり、装飾を施した客用車両もある。それぞれが連なって、スティームライナーの車両群は、すばらしい、膨れ上がったキャラバンのようだった。
 岩の多い場所では上空を飛び、つながった一連の飛空車両群は、谷の向こう側から降下をはじめ、軽くキスをするようにレールに触れる。その接触を受けて、鋼の輪の回路がつながる。冷たい火のエネルギーが蒸気機関に満たされ、動力ピストンを動かし続ける。
 遠くや近くからの宝物や神秘を載せ、唸りを上げて通り過ぎていく一連の車両群を、オーエンはじっと見つめていた。どうしてこれが想像力をかきたてずにいられよう。あのキャラバンと一緒に行きたいと、彼は切望した。一度だけでいいから。
 世界中を見てみたいと思うことは、身に過ぎたことなのだろうか。何でも試してみたい。いろいろな光景や、音や、匂いを、実際に体験してみたい――ウォッチメイカーにお会いして、もしかしたら時計塔で仕事をしているところを拝見して。天使たちの歌声を聴き、西の海を渡って神秘的なアトランティスへと向かう船を手を振って見送り――もしかしたら、実際にその船に乗り込んで、自分自身の目でその場所を見て――
「オーエン、またあなたは白昼夢を見ているわね」
 ラヴィニアは自分のりんごかごを持ち上げた。
「もう行かないと、ずぶぬれになってしまうわよ」
 スティームライナーが遠くへ消えていってしまうのを見送ったあと、彼は自分のりんごをかき集め、彼女のあとを急いだ。

 残り14分で村に帰らなければならない。しまいには、彼とラヴィニアは走った。笑いさえした。予期せぬアドレナリンの噴出が、彼を高揚させた。ラヴィニアの笑いは、不安そうだった。ちょっとした雨が壊滅的にいやなわけではないが、濡れるのは嫌いだったのだ。村のはずれにある天使の石像を通り過ぎる時、オーエンは時計を取り出し、時間を確かめた。3時11分の大雨に向かって、分針は這うように動いていく。
 ラヴィニアの両親が運営している、バレル・アーバーの電信局に二人が滑り込んだときには、頭上の雲は予定通り灰色に変わり、今にも降り出しそうな気配だった。電信局では、クラウンシティから配信される日々のニュースや、ウォッチメイカーの箴言が送られてくる。パケット夫妻はここからすべての知らせを村人たちに配信していた。
 オーエンはラヴィニアが持っていたりんごのかごを受け取った。
「雨が来る前に、中へ入ったら」
 ドアに向かう彼女の顔は紅潮し、疲れているように見えた。時間通りに戻れたことを感謝しながら、彼女はドアを開け、心配そうな目でうしろを振り返った。その目は雨雲そのものより、村の時計塔に向けられていた。
 17歳の誕生日と、公式な成人認定が、スティームライナーのような速さで向かってくる――オーエンは完全な安定の、その淵ぎりぎりにある不安定さの上に立っているような思いを感じていた。クラウンシティの公式文具で印刷された、ウォッチメイカーからのパーソナルカードを、彼はすでに受け取っている。彼の幸運を祈り、来るべき幸福な、満足した人生への祝福が書かれていた。妻、家庭、家族、人間が欲するすべてのものを。
 いったん成人したら、どういう風な人生を歩むのか、オーエンにははっきりとわかっていた。村のりんご農園の副管理者になることが、不満なわけではない。ただ、それによって失われる可能性が悲しいのだ。ラヴィニアは、彼より数ヶ月若いだけだ。たぶん彼女も同じように感じていて、いずれ同じ制約を受けるなら、小さな日常からの逸脱もともにしてくれるに違いない。
 ラヴィニアが電信局の中に引っ込んでしまう前に、オーエンはあることを思いつき、彼女を呼び止めた。
「今夜、何か特別なことをしようよ。わくわくするようなことを」
 彼女は顔をしかめた。すでに懐疑的になっている。オーエンは精一杯魅力的な笑顔を作った。
「心配しなくていいよ。怖いことじゃないから。ただ、キスするんだ」
 オーエンは時計を見やった。3時5分だ。まだ6分ある。
「もうキスは、したじゃないの」彼女は言った。
 二人はやがて正式に婚約するのだから、それは当然予期されることとして、週に一度、軽くキスを交わしていたのだ。まもなく、彼女もウォッチメイカーから自分自身のパーソナルカードを受け取るだろう。彼女の幸福、夫や家庭、そして家族への祈りと祝福の。
「わかっているよ」彼は急いで言った。
「でも、今度のはとてもロマンティックで、特別なものになるのさ。裏の果樹園の丘の上で、星の下で、真夜中に会おうよ。君に星座を教えてあげるよ」
「星座なら、ガイドブックで見られるわ」彼女は言った。
 彼は顔をしかめた。
「どうしてそれが同じものだってわかるんだい?」
「だって、同じ星座でしょう」
「とにかく、僕は待ってるよ。真夜中にあそこで」
 彼はチラッと雲に目をやり、そして携帯時計に目を落とした。あと5分だ。
「ねえ、これは僕らの特別な秘密だよ。ラヴィニア、お願いだから」
「わかったわ」
 すばやく、しかしあいまいな調子で彼女は言った。そしてそれ以上の別れの挨拶はせず、電信局の中に駆け込んでいってしまった。
 陽気な気分で、両手に林檎のかごをぶら下げながら、オーエンは加工工場へと向かった。そこは、彼と父が住む家に隣接していた。

 雷雲の数はどんどん増えていき、日差しは暗くなった。計画された大雨が今にも起こりそうな様子の中で、町の通りに人影はなく、家々の窓もかたく閉じられていた。バレル・アーバーの人々は毎日歳時暦を見、それによって日々の暮らしの計画を立てていたのだ。
 たぶん降り始めの雨には濡れてしまうだろうな――そう思いながらオーエンが家路を急いでいる時、メインストリートにいる不思議な人影に気づいた。濃い色の外套をまとった行商人だった。灰色のあごひげを生やし、同じ色の長いねじれた巻き毛がシルクハットの下から垂れている。
 ハンドベルを鳴らしながら、行商人は荷車の傍らを歩いていた。小さな包みや装飾品、ポットや鍋、ぜんまい仕掛けの装置、淡いブルーに輝く冷たい火が入ったガラス球などがいっぱいに積まれている。その荷車は蒸気で動いていて、よく油がさしてあるピストンから車輪に連動して、動力が送り込まれている。この小さなエンジンに、5ガロンのボイラーで温められた錬金術の火は、似つかわしくないほどだ。
 しかし、もうすぐに嵐がやってくるこの時ほど、行商人の来るタイミングとして最悪なものはなかった。他の地方から仕入れた珍しい品物を売るために彼はバレル・アーバーにやってきたのに、顧客となるべき人々は今にもやってくるだろう雨のために、家の中に隠れてしまっているのだ。彼はベルを鳴らした。だが、その品物を見るために出てきた人は、誰もいなかった。
 オーエンは加工工場に急ぎながら、声を張り上げた。
「3時11分に雷雨が来ますよ!」
 この老人の携帯時計は壊れているのか、それとも、気象歳時暦をなくしてしまったのだろうか。
 その見知らぬ老人は顔を上げた。お客になりそうな人を見つけて、喜んでいるようだった。行商人の左目が黒い眼帯で覆われているのを見たオーエンは、不安な気分を感じた。ウォッチメイカーの安全で善意に満ちた「スタビリティ(安定)」の元では、人々はめったに怪我をしないからだ。
 その残った片方の目でじっと見つめられると、オーエンはまるで相手は自分を探していたのではないかというような感じに捕らわれた。行商人はベルを鳴らすのをやめた。
「心配することは何もない、若者よ。すべては最良の結果になるのだ」
「すべては最良の結果になる」オーエンは繰り返した。
「でも、それでも、濡れてしまいますよ」
「気にしてはおらん」その見知らぬ相手は蒸気エンジンを止め、何かを考えているかのように、荷車に積んだ箱や包みを次々と手に取り、その手の上で軽く転がしてから、元に戻していった。その間も、その目はじっとオーエンを見つめ続けていた。
「さて、若者よ。君は何か足りないものはないかね?」
その質問はオーエンを驚かせ、一瞬、今にも来そうなどしゃぶりの雨のことを忘れた。たぶん村から村へと渡り歩いて品物を売るこういう行商人たちは、みんなそう言うのだろう。それでも――
「僕に足りないものは何か?」
 オーエンは今まで、そんなことは考えたこともなかった。
「奇妙な質問ですね」
「それが、私の商売なのだよ」
 行商人のまなざしは力強く、失われたもうひとつの目を補って余りあった。
「考えてみなさい、若者よ。君に足りないものは何かね。それとも君は満足しているのかね?」
 オーエンは鼻を鳴らした。
「何も不足しているものなどありません。愛するウォッチメイカー様が必要なものはすべて手配してくださいます。食べ物もあります。家もあります。冷たい火もあります。幸せもあります。アルビオンにはもう一世紀以上にわたって、何の混乱もありません。これ以上、何を望むというのですか」
 その言葉は彼が何か思うまもなく、口から流れ出てきた。それは自発的なものというより、自動的に言っているようだった。父はまるで夜毎劇に出る俳優のように、何度も何度も同じ言葉を暗誦してきていた。同じ言葉を、彼は酒場で人々が口にするのを聞いている。 会話の中で出るのではなく、ただお互いに確認するかのように。
 僕には何が足りない――?
 オーエンは自分がまもなく一人前の男になること、そしてそれにふさわしい責任を持つことになることをも、知っていた。彼はりんごのかごを下に下ろすと、肩をいからせ、ありったけの確信をこめて答えた。
「僕には足りないものなど、何もありません」
「それは、人間として最上の答えだ」
 その神秘的な老人は言った。
「そのように途切れることなく繁栄している世の中では、私のような商売を、やっていくのは難しいのだが」
 行商人は自分の答えに、がっかりするよりも喜んでいるような、そんな奇妙な印象を、オーエンは感じた。
 老人は自分の荷物の中をかき回し、ふたを開けて、そして手を止めた。その心を確かめているかのようにオーエンを見た後、彼は袋の中に手を伸ばし、一冊の本を取り出した。
「これを君にあげよう。君は知的な若者だ。考えることが好きと見える。私にはわかる」
「どういう意味ですか?」オーエンは驚いた。
「その目を見ればわかる。それに」
相手は空っぽになった村の通りを指し示した。
「こんなとき、外に長くいすぎる人間は、もっとやりたいことがある者だけだ。ほかに考えることがあるというな」
 彼はその本を、オーエンの手に押し付けた。
「君は聡明だから、スタビリティ(安定)の真の恩恵と、ウォッチメイカー様が私たちのためにやってくださるすべてのことを理解できるだろう。この本は、その助けとなるだろう」
 オーエンはその書物を見た。本の背には、ウォッチメイカーのシンボルであるミツバチが印刷されている。きっちりとそろった文字で、タイトルが刻まれていた。
『スタビリティの前には』
「ありがとうございます。読んでみます」
 見知らぬ行商人はダイアルを回して、ボイラーの中の錬金術的な熱を上昇させた。盛大な蒸気が吹き上がった。荷車が前に進むと、行商人はその後について、村から出て行こうとしていた。
 オーエンはその本に興味をそそられ、見開きページを開いた。彼は通りの真ん中で立ったまま、その内容を読みたかったが、ふと携帯時計を見てみた。3時13分だ。彼は手を差し出した。そして雨粒が落ちてこないことに、当惑を覚えた。雨が2分も遅れたことは、今まで決してなかったのだ。
 しかしどちらにしても、本を濡らすリスクは犯したくなかったので、りんごのかごもろとも、急いで加工場に運び込んだ。父親が働いている天然石作りのひんやりとした建物にたどり着いた時、彼は振り返り、あの老人とその自動荷車が消えているのを見た。
「遅いぞ」
父はぶっきらぼうにそう呼ばわった。
 オーエンはドアの影に立ち、村の通りを見下ろしていた。
「雨もね」
 そっちのほうが、もっとはるかに困惑すべきことだった。
 空に雷鳴がとどろいた。そして誰かが水のバッグを引きちぎって開けたかのように、雲から雨が降り落ちてきた。オーエンは眉を寄せ、加工場の中にある時計を見た。午後3時18分だ。
 その日の朝、村の電信局に歳時暦の更新版が届き、雨の開始時間は3時18分に変更になったと知らせてきたことを、オーエンは後になって知ったのだった。




第2章


僕らは人間に過ぎない
僕らには理解しなくてもいいことなのだ

 加工場の中の、ひんやりとした影に覆われた場所につまれた何ブッシェルものりんごは、柔らかく甘くなるまで熟していた。オーエンと父はその日の午後、新鮮なジュースを樽に半分、絞ることになっていた。そのためには、どのくらい汁気があるかにもよるが、少なくとも3ブッシェルのりんごが必要になる。
 父を手伝って、圧縮機の傍につき、冷たい火を調整して蒸気の圧を適正なレベルに保ちながら、オーエンは時々巻き起こってくるさまざまな思いを追っていた。果樹園の副管理者として、オーエンはりんご産業のあらゆる側面を知っている。だが、半ば上の空で自分の仕事をこなしながら、彼はあの神秘的な行商人のことを考え、もらった本のページをめくってみたくてたまらなくなった。それだけでも気をそらすのに十分なのに、さらに彼はラヴィニアと交わした約束――星々が見下ろす中での、真夜中のキスのことを思うと、さらに上の空になった。それは想像ですら及ばない領域だった。
 彼の父親、アントン・ハーディは、オーエンの夢うつつ状態に、まったく別の解釈をした。圧搾機を指し示しながら、彼は言った。
「心配することは何もない、息子よ。私がお前によく教えてやる。すぐにお前も、私と同じように果樹園を経営できるだろう。私に万一のことがあった場合でもな」
 オーエンは父の言葉がどうして出てきたのか、しばらく考えた後、言った。
「ああ、僕は心配しているわけじゃないよ」
 そして本当のことを説明するよりは、父の解釈に沿っておいた方がいいだろうと思い、言った。
「それに、あなたに万が一のことなんて起こるわけがないよ。予期せぬことなんて、何も起こらないんだ」
 香りの染み付いた古い樽の上に置いた本をチラッと見やり、彼は言葉を継いだ。
「スタビリティのおかげでね」
「私もそう願おう。息子よ」
 父の重々しい目に、突然涙が浮かんできた。父は背中を向け、りんご圧搾装置につながった水圧機に集中しているふりをした。息子の言葉で、アントン・ハーディは妻のことを思い出したに違いなかった。彼女はオーエンが子供のころ、熱病のために亡くなっていた。
 オーエンはごく小さいころの、母のことを覚えていた。よく母のひざの上に乗り、そのスカートにくるまっていたものだった。特に、青い花柄のドレスをよく覚えている。母とオーエンは一緒に、よく絵本を眺めていた。彼女は遠くの場所に伝わる素晴らしい伝説の数々を話してくれた。家にいる時、彼は今もその宝物のような本を、よくながめていた。そこに記された話は、母のかわりに自分自身で読まなければならなかったが。父は決してそうしてはくれなかった。
 アントン・ハーディは愛する妻ハンネケの思い出を、まるで本の間に挟みこまれた花のように思っていた。色鮮やかで大切なもの――だが、取り出して眺めるには、あまりに繊細なものだと。オーエンは、母が死んだことは知っていた。だが彼は子供だったので、その記憶はあいまいだった。母は熱病を装って、実はこの眠っているような田舎町を去り、広い世界へ探検に行ったのだ――空想の中では、そう思うほうが楽しかった。「とうとう自分の道へ踏み出したのだ」と。空想の中では、彼女は今も冒険を続けていて、ある日突然、クラウンシティや、遠くのアトランティスからひょいと帰ってくる。驚くべき話の数々と、異国からの贈り物を携えて――彼はそうやって、いつも希望を持っていた。
 父は鼻をすすり、つぶやいた。「すべては最善の結果へと導かれる」
やがて絞りたてのりんご果汁が、樽半分まで達した。父は樽のふたの決められた場所を、木槌で打ち付けてとめた。

 アントンが店の周りの瑣末な用事を片付けている間に、オーエンは小さな窓の傍に座り込んだ。そこなら読書に十分な明るさがとれた。
『スタビリティの前には』は、悪夢がぎっしりと詰まった本だった。ページをめくっていくたびに、若者はますます不安になっていった。
 一世紀以上前にウォッチメイカーが到来するまでの世界は、とても恐ろしい場所だった。村々は焼き払われ、武装勢力は無力な家族に襲い掛かり、子供たちは飢え、女たちは強姦された。盗みは頻繁に起こり、疫病が人口のほとんどを奪い去っていった。残されて孤立した人々は、命をつなぐために人肉食に陥るほど貶められていた。この過酷な事柄の数々を、彼は目を見開いて読んでいった。早く本の最後に到達しないかと願いながら――なぜなら、最後にはアルビオンは救われると――今、人々は幸せに満足して暮らしているから。そう知っていたからだ。
 本の最後のページをめくり、ほっとした気持ちと確信をこめて、そこに書かれたことを読んだ。『そしてバレル・アーバーはスタビリティがもたらした完璧な実例となった。すべてのありうる中で最良の世界の、最良の村だ――すべての人々が自分の居場所を知り、満足して暮らしている』オーエンは感激のあまり微笑みをもらした。それを知ることはうれしかった。自分の空想はどうあれ、これ以上の場所は他にないだろう。
 父は本については、何も言わなかった。二人は早い夕食にとりかかった。りんごクリスプ(自然に乾燥させたもの)と、未亡人のルーミスから買ったチーズ、そしてパン屋のオリベイラ氏から届けられたパンと一切れのアップルパイだ。ハーディ親子はパン屋が必要なだけのりんごをすべて提供し、そのお返しとして、アップルパイやアップルタルト、アップルマフィン、アップルシュトルーデル、そのほかオリベイラ氏が思いつく限りのものが、定期的に提供されてきていた。
 二人はほとんど話をしなかった。話をすることは、めったにない。お互いにそういう状態に慣れていたし、そんな日々の暮らしにも慣れていた。オーエンと父は同時に、めいめいの携帯時計に目をやった。予定された仕事はすべて終わり、いつもの軽い食事に満足していた。ほとんどの人々は夕食のあと自宅で家族と過ごすが、アントンは別の習慣を持っていて、オーエンも一緒についていく。二人はチクタク酒場へと向かった。小さな村では、ニュースの伝達に最も効果的な方法は噂話で、その噂話を集めるのに最も良い場所は、酒場だった。

 アントン・ハーディはいつもの木製の椅子に腰を落ち着けると、りんご酒を一杯飲んだ。オーエンはその傍らで、りんごジュースを飲んでいた。他の人たちはヒュングのところの蜂蜜でできた、蜂蜜酒のほうを好んだ。この蜂蜜はウォッチメイカー自身の養蜂者たちによって設計された標準に従って運営されている、町の養蜂所から取れたものだ。
 オーエンは17歳になったら、りんご酒を飲むつもりだった。それが大人として期待されていることだった。(実際には、初めからそのつもりではなかったが、彼はすでにこっそりと少しりんご酒を飲んだことがある。父はそのことを知っているのではないかと疑っていたが、父は何も言わなかった)
 酒場の客たちがいつもの状態に落ち着いたころ、ラヴィニアの父親がタイプされた一抱えの報告書や告知書を持って、やってきた。それは共鳴する錬金術の信号によって、情報電信局に伝えられてくるものだった。その豊かなもみ上げを非常に誇りにしているパケット氏は、黄色がかったパルプ紙を持ち上げて、冷たい火のランプにかざし、不ぞろいなタイプで印字された文字を横目で見た。パケット氏が間を引き伸ばして期待をあおっている間に、チクタク酒場の会話は静かになっていった。
 彼は眼鏡を調整し、咳払いをひとつしてから、とても重大なことを伝える口調で話し出した。
「気象錬金術師は、今日の午後の降雨予定を7分遅らせることを告知した。湿気増幅装置をもっと効果的に稼動させるためである」
 彼は当惑しているように、紙を振った。
「すまん、これは今朝来たんだ」
 次のニュースが記された紙を取り上げ、彼は読んだ。
「アナキストがまた爆弾を仕掛けて、北部の鉄道の一部が破壊され、スティームライナーの運行を妨害した。幸いなことに航空艇の船長はすんでのところで車体を浮かせることに成功したので、誰も怪我人はいなかった」
 人々は愚痴をこぼし、ウォッチメイカーの一世紀以上にわたるスタビリティを一人で乱そうとする邪悪な男に対して、軽蔑に満ちた言葉を口にした。パケット氏は続きを読んだ。
「レギュレイターたちは爆発のあった直後にその地区を閉鎖したが、彼は逃げた。きっとさらなる破壊行為を行うに違いない」
「悪魔が奴を連れ去りますように」オーエンの父は言った。
「いいぞいいぞ!」
 他のものたちは、りんご酒のグラスや蜂蜜酒のカップをめいめいに掲げ、乾杯した。
 オーエンは皆と一緒にグラスをあけたあと、たずねた。
「なぜウォッチメイカー様が作り上げたものを、壊したがる人間がいるんだろう。スタビリティができる前の世界がどんなに危険なものだったのか、奴は知らないんだろうか」
 行商人の本を読む前から、オーエンはそのことを知っていた。
「奴は自由を求める極端主義者なのだよ。狂った心がどういう風に働くかなんて、わかりはしないのだ」
「私たちには、理解しなくていいことですね」オリベイラ氏が言った。
「あの怪物自身ですら、わかっているかどうか怪しいものですよ」
 パケット氏は、ニュースの読み上げが終わっていないことを知らせるために、大きく咳払いをした。皆の注意が集まったところで彼は三番目の紙を取り上げると、眉を上げていらいらした様子で、酒場のざわめきが静まるのを待った。
「ウォッチメイカー様はまた、ポセイドン市からの精密宝石や錬金原料を満載した貨物船が行方不明になったことを、悲しんでおられる。レッカーどもの仕業に違いない」
 さらに多くの不平の声が酒場に広がった。
「今年に入って、これで三度目だ」ヒュング氏が言った。
 得体の知れないレッカー(遭難屋)たちは、西の海を渡って遠くの港ポセイドン市から来る貨物船を餌食にする海賊で、略奪者であった。それらの船は、アトランティスの鉱山から採取される豊かな錬金材料や時を刻むのに必要な宝石をのせている。それはすべて、ウォッチメイカーの仕事には欠かせないものだった。
「アナキストと奴らは、同じ一味だと思うな」オーエンは言った。
「あいつらはみな、騒ぎを起こしたいんだ」
「ウォッチメイカー様がいいようにしてくださるだろう」
パケット氏は紙を傍らに置き、ウォッチメイカーからの言葉ではなく、自分の意見を述べていることを強調しながら、大いなる確信を持ってそう言った。
「奴らには、それにふさわしい罰が下るさ」
「だけど、どうやってそれがわかるんだい」オーエンは小さな声で言った。
 父がその腕を軽く小突いた。
「我々は信じているからだよ、息子よ。お前は信じるように育てられてきた。すべてのものにはそれにふさわしい場所があり、すべての場所には、それにふさわしいものがある」
 彼は周りの人々を見た。息子に疑いを持たせるなど、自分は父親として失格ではないかと思われるのを、恐れているかのように。
「そして私は最後の息を引き取る時まで、そう信じるだろう」
 皆がそれに同意した。必要以上に騒々しく。そしてもう一度りんご酒と蜂蜜酒で乾杯した。

 夜が深まっていくと、彼と父は自分たちの小さな家で、静かな時間を過ごした。アントン・ハーディは火の傍に座り、とがった鉛筆を持ち、台帳を広げた。りんごジュースを何樽納めるべきか、どのくらいを倉庫に寝かせて醸造してりんご酒にするべきか、何樽を酢にすべきか、そしてウォッチメイカーがそれぞれに対して許可した値段、などを記していった。すべての村人たちにはそれぞれ決まった役割があり、すべての勘定は釣り合うようになっていた。
 それが終わると、オーエンの父は台帳を横に置き、バレル・アーバーの地方新聞を読み始めた。それはクラウンシティに集められた一週間分のニュースや、時計仕掛けの天使たちの示唆に富んだ言葉のほかに、ラヴィニアの両親がそれぞれの刊に付け加えている、いくつかの興味深い村の話が載せられていた。
 最新刊には、まもなく来るオーエンの誕生日のことが、早めの告知として載っていた。それにパケット氏はちょっとしたコメントを添えていた。
「そしてこのことに続いて、さらにもっと実質的なニュースを、私は期待している」
 伝統的には、それはもちろん、ラヴィニアとの正式な婚約のことに違いなかった。
 オーエンはすでにその新聞を読んでいた。彼はそれより、棚の高いところに置いてある、分厚い本たちのほうに興味が向いていた。『スタビリティの前には』を午後読んだときには、気分をかき乱された。だがその他は、彼が心からなじみ親しんできた本――子供のころから愛してきた絵本だった。美しいハードカバーの本で、クロノタイプで刻み込まれた文字と、反射する錬金術的な塗装を施した色版を使っていて、読者はあたかも実際にその画像を目の前で見ているかのような、わくわくした気分を感じるのだった。
 初めに、彼はクラウンシティについての絵本を開き、感動的な時計細工の天使たちに思いをはせた。それはウォッチメイカーが支配する世界の、もっとも有名なシンボルだった。クロノススクエアに据え付けられ、群集たちの頭上はるか高く輝く、四人の優雅な女性たちの像――象徴的で、それでもなお、まったく完璧な、神のような機械細工――翼を広げ、人々にその恵みを与えるのだ。オーエンは母のことをほとんど覚えていないが、四人の時計細工の天使たちそれぞれの顔は、母の顔をモデルにしたに違いないと思っていた。
 二番目の本は、さらに想像を掻き立てるものだった。どれも、現実にはないものだが。海の怪物や神話的な動物たちの伝説――ケンタウロス、グリフィン、ドラゴン、バシリスク――アルビオンから遠く離れた想像上の土地――その中には、まとめてシーボラと呼ばれる、素晴らしい黄金の七都市もあった。この本はとても古く、スタビリティ以前の混乱の時代に印刷されたものらしかった。あの行商人の本を読んだあとでは、あれだけの破滅的な状況をくぐりぬけて残っている本があること自体が驚異的だと思えた。
 オーエンは本に夢中になるあまり、父が自分の背後に立っているのに気づかなかった。アントン・ハーディは息子にそういった本を見ることを禁じたことはなかったが、若者らしく、あまりに不適切なほど熱狂的になることも、認めなかったのだ。
 オーエンは驚いて、本を閉じようとしたが、父は手を伸ばして息子を押しとどめた。鮮やかなクロノタイプのページの上には、レッドロック砂漠の日の光を浴びて輝く、奇妙な形をした岩々が描かれている。二人はともに、黄金の七都市の目の覚めるような建築物――石を複雑に積み上げて造られた、空想的な美しい塔の絵を見つめた。
「それは、お前の母さんの本だ。私も、彼女が恋しい」
 彼は長いこと手を本の上に置き、見下ろしていたが、絵を眺めてはいなかった。
「私も彼女が恋しい――」
 彼は小さな、ほとんどささやきのような声で繰り返した。
「ああ、ハンネケ――」
 父の声がこれほど感情をあらわにしたのを、オーエンは今まで聞いたことがなかった。  だが、その声はすぐに厳しく、実際的なものになった。
「もうすぐ、この本は永久にしまっておかねばならないだろう。過去には鍵をかけてしまっておくのだ。ウォッチメイカー様は、われわれには時を止めることはできないとおっしゃる。過去を振り返るのはやめるのだ。今はお前の周りのものをよく見るために、時間をとるべきなのだ」
「だけど、これは母さんのただひとつの形見なんだよ。この本と思い出だけが――」
「お前は前を向かなければならない」アントンは言った。
「大人になれば、ウォッチメイカー様の期待にこたえなければならない。こういう愚かなことはすべて、もう捨てていかなれればならないんだ」
 オーエンは本を閉じたが、ひざの上に載せたままにしておいた。この静かな、整然とした世界では、「愚かなこと」など、初めから許されてはいないのだった。

 父は冷たい火の灯りを少し落とし、心地よい明るさにした。
「時計のねじを巻く時間だ」
 二人は寝る前に、いつもの儀式をはじめた。オーエンは覆いつき時計のキーを調整し、ねじを巻いた。父は台所の時計を、同じようにした。オーエンはよく使うお祖父さんの時計の、振り子のバランスをとり、再始動させた。時計から時計へ、棚から棚へ、部屋から部屋へと、彼らは回っていった。最後のチェックに、オーエンは窓から頭を突き出して、バレル・アーバーのメイン時計塔を見、このウォッチメイカーの世界におけるすべてが同じ時を刻んでいることを確認した。
 毎晩、いつもこの時を父子はともに過ごすのだが、それぞれに時計の調整とねじ巻きに没頭しているため、実際のところ一緒に同じ時を過ごしているとは言いがたかった。過ごしているというより、時を節約しているのだ。そして一秒たりとも無駄にはしないのだ。
 すべての作業が終わり、満足した父は、もう寝に行くことを、オーエンに告げた。
「僕はもう少し起きているよ」
 オーエンは言った。彼はたいてい、そうしていた。
 亡き妻の思い出に悲しみを感じている父は、息子に甘かった。今晩はもう少しだけ、あの絵本を見させてもいいだろう――
 一人で座り、これからの真夜中の無軌道なプランを考えていると、オーエンの胸の鼓動は早くなった。あと2時間と少したったら、可愛いラヴィニアと会って、こっそりとキスを交わすために、家を抜け出すのだ。それは一瞬の出来事だろうが、その思い出は長く残るだろう。
 17歳になったら、あとはウォッチメイカーの安全な網の中に包まれて過ごすことになる。もうこんなに無謀なことをする機会など、持つことはできないだろう。だから今、彼は最善を尽くすつもりでいた。




第3章


とうとう自分の道へと

 父は10時6分には、かすかないびきをかいていたが、オーエンはまったく眠くなかった。家の中、揃ったリズムを刻む時計の音さえ、眠りを誘うのに十分ではない。これからの予感が、体の中の螺子をきつく巻き上げていた。
 そのことを考えれば考えるほど、オーエンは自分の中の衝動に、ますます驚かざる得なかった。何が、この思い付きへと駆り立てたのだろう。バレル・アーバーでは、まともな人たちは夜中に外へ忍び出たりはしない。彼とラヴィニアは、いつも日々の仕事をともにこなし、同い年で、気が合って、まるでお互いがお互いのために造られたような、お似合いの組み合わせだと思われている。村人たちは二人が一緒にいるのを、ごく当然のこととみなしていたが、二人はまだ正式に婚約したわけではなかった。そんな二人が夜もとうに更けたころに会っているのを見られたら、結構な醜聞になるだろうとオーエンは思った。
 それだから、この計画は、余計にわくわくした気分にさせるのだ。
 ラヴィニアも同じような思いを感じてくれることを、彼は願った。このちょっとした逸脱行為は、子供たちには話せないだろうが、二人だけの思い出としていつまでも残ってくれる種類のものになるだろう。
 二人が年を取って、落ち着いた生活を送っているころには、あの頼りになる、きちんとしたオーエンとラヴィニア・ハーディが、若いころこれほど無鉄砲で衝動的なことをやったとは、きっと誰も信じないだろう。彼は父も若いころ、同じことをしたかもしれないと考えると笑いたくなったが、冒険好きな母なら、どうだっただろう――
 彼は空想を始めた。母ハンネケは世界を見るために、ここを出て行ったのだ、と。黄金の七都市を訪れ、もっと遠くの国を目指してスティームライナーに乗っていったのだと。いつか彼とラヴィニアもここを出て、魅惑的なアトランティス大陸へ冒険に出かけるのだ。彼の母が奇跡的にまだ生きていて、失われたどこかの国の女王となっているかも知れないと思うと、思わず微笑がもれてくる。彼女は息子とその美しい妻を、王子と王女として迎えてくれるだろう。そして皆で、何百もの種類の果物で、宴会を開くのだ。りんごだけではなしに!
 彼はラヴィニアも自分と一緒に旅をしているという想像を続けようとしたが、思いはいつの間にか、どこかへと迷い出ていった……
 オーエンは、はっと目を覚まし、ベッドのそばに置いてある時計に目をやった。11時28分だ。12時まで30分しかない――まだ時間は十分にあったのだが、急き立てられるような気持ちを感じた。ズボンをはき、灰色のホームスパンのシャツを着ると、りんごが二つ入った小さな袋をとった。ラヴィニアとともに、星明りの下、しばらくの間一緒に座っているかもしれない。彼女に詩を暗誦してあげたら、素敵だろうな――オーエンはそう思ったが、実際に知っている詩はひとつもなかった。

 ドアを押し開けると、かすかにきしんだ音がした。外へ忍び出ると、ドアを後ろ手に閉めた。父は何か妙なことが起きたなどとは、気づかないだろう。オーエンは道を上っていった。明かりの消えた家々を通り過ぎ――住民たちは皆寝静まっている――村では消費しきれないほどの蜂蜜を生産するヒュングの養蜂場の、冷たく静まった垣根を通り過ぎた。天使の石像は星明りの下では青白く、この世のものとは思えないように見えた。りんごの木に囲まれた小道を登っている時も、そして果樹園の丘の上についた時も、夜はほの明るかった。
 ラヴィニアは早く来ているかと思ったが、彼女はそこにはいなかった。彼は携帯時計で時間を確かめた。12時10分前だ。ウォッチメイカーは時間厳守こそが確かな愛の証だと、いつも言っている。
 待っている間に、彼は星を見上げ、本で見たことのある星座を探そうとしたが、なかなか見つけることができなかった。バレル・アーバーの人々は夜明けの光とともに起きるので、夜遅く、星の配置についてじっくり考えるために外に出ていることなど、まずなかった。そういったものの研究は、月の位相や惑星の動き、元素と魔術の結合などと同じく、錬金術僧の領域であり、ごく普通のありきたりの人々のものではなかった。ウォッチメイカーは彼の時計仕掛けの宇宙について理解しており、人々に必要なことはすでに知らせてあると、常に言っていたのだ。
 オーエンにとっては、空に輝く小さな明かりの配置は、頭を悩ませるほどランダムに見えた。それで彼は自分自身の配置を造ることにし、線をひき、点をつないでいった。彼が作った星座が、正式に記録されているそれより、価値がないなんて言えるだろうか。星々はウォッチメイカーが投影した配置など、知っているだろうか。
 彼は自分自身の考えにすっかり夢中になり、時間の感覚を忘れた。ラヴィニアが来る気配は、まだなかった。彼は携帯時計をチラッと眺めた。12時5分だ。心が沈むのを感じながら、オーエンは丘を下っていく小道を、果樹園の影を透かし、目を凝らして見た。誰かが来る音は、聞こえなかった。遅れてしまったので慌てて来ようとする、スカートの摺れる音もしない。彼女は寝過ごしてしまったのかもしれない。
 12時36分になっても、彼女は現れなかった。何か彼女の身の上に起こったのかと、オーエンは心配になった。彼女の家が火事になったのかもしれない! だが、村を見下ろしても、どこにも炎は見えなかった。彼女の両親が、娘のよからぬたくらみを知って、彼女を家に閉じ込めたのだろうか。だが、彼らはどうやって、それを知ったのだろう?
 もう10分待ってから、彼女の名を強く囁きながら、思い切って小道のほうへ降りていった。返事はなかった。彼女は別の道を通ってくるかもしれない。彼は急いでまた、丘の上へと戻った。

 1時になった時、彼女は来ないと、オーエンは悟った。ひどく気分が沈んだ。
 聞きたくはなかったが、彼の耳には本当の理由が囁かれるのが、聞こえるようだった。ラヴィニアはただ、来るつもりがないから、来なかったのだ。彼女はルールを曲げ、自分の習慣に反することをするのが怖かったのか、それともただ気乗りがしなかったのだろう。オーエンがそう考えた時、彼は突然悟った。彼女は彼の大胆な提案を、まったく本気にしなかったのだ。暖かい自分のベッドで満足してすやすやと眠っている彼女は、たぶんオーエンが本気だったなどとは、思ってもいなかったのだろう。星の下での、真夜中の秘密のキス――なんて、ばかげた思いつきだったのだろう。
 こういうおろかなことはすべて、もう捨てていかなければならない――
 あと数週間で、彼は自分の夢をずっと、高い棚の上に置き去りにしてしまわなければならない。公平とは思えなかった。これまでの人生でも、彼はずっと決められたルールに従って生きてきた。自分がやりたいことよりも、そう期待されていることを、ずっとやり続けてきた。毎日毎日が厳密に計画され、すべての事柄は予定されている。彼の存在のすべての側面は、他のいくつもの小さい歯車が組み合わさった無限のチェーンの中の、ひとつの歯車のように動いていく。お互いがかみ合いながらスムーズに回っていくが、決してどこへもたどり着くことはない。

 遠くから、聞きなれたカランカランという響きが聞こえてきた。彼方から漂うように響いてくる、連絡鐘の音だ。振り返ると、蒸気の柱が見えた。膨れ上がったスティームライナーの一隊が、山の間から姿を現すところだった。上空を漂いながら、下の谷間を川に沿って伸びるレールを目指して降りてくる。
 印刷された時刻表によれば、毎夜午前1時27分に、バレル・アーバーをスティームライナーが通る。オーエンはそれを知ってはいたが、実際に見たり聞いたりしたことはなかった。彼は息を呑んだ。
 衝動的に、自分にはできるということを見せてやる、その思いだけで、彼は丘の上を離れ、果樹園の坂を、谷へ向かって駆け下りていった。小道を探すこともなく、丈の高い湿った草の中を、突っ切った。りんごの入った袋を握り締めながら、躓くこともなく、ありったけの速さで走った。下にたどり着いた時、ちょうど壮大なキャラバンが通りがかるところだった。手を伸ばせば触れられるほどの近さだった。
 ラヴィニアが一緒ではなかったにせよ、その夜何か特別なことをすることができたと、彼は誓えるだろう。もうこんな機会がなかったら、どうなる? もし彼が大人になったとき、その思い自体が彼の中からなくなってしまったら? 少なくとも、今夜、彼はキャラバンを目の前で見ることができるだろう。それは何か、記憶に残るような出来事となるだろう。
 連絡鐘の響きと蒸気の音が大きくなるとともに、彼は線路の近くに走りよった。輝くレールの上に着地すると、列車は形を変え、一列になって疾走するマンモスのように見える。重い貨物車の長い隊列、そして客車のゴンドラ。客車は夜光虫のようなぽおっとした灯りに彩られ、優雅な風船状の袋でバランスをとっている。メインエンジンから間欠的に吹き上がる排気は、眠れる白いドラゴンの息のようだった。鋼鉄の輪が鋼の道の上を回転しながら走り、エンジンは蒸気を吹き上げる。
 オーエンが線路に着いた時、その音は興奮と笑い声、エネルギーと賞賛の響きがすべて混ざり合い、ひとつになったもののように聞こえた。彼はうなりをあげて通り過ぎていくスティームライナーを、じっと見つめていた。それは自分が見たこともない神秘の国からやってきて、同じく自分が見たこともないクラウンシティへと、この風景の中を走り去っていく。
 彼は身動きもせずそこに立ち、見つめていた。何台かの貨物車両のあとに、薄明かりに照らされた客用ゴンドラが続く。眠っている旅客たちの頭が、影になって見える。そしてそれからまた、貨物車両が続く。それらが通り過ぎる時、彼は風の息吹を感じた。蒸気と火花と熱い鋼の匂いがした。
 ラヴィニアがここで、自分の傍にいてくれたらと願ったが、決してそれは叶わないことだろうとわかっていた。彼女はそんなことをしようなどと、考えたこともないだろう。父もスティームライナーを眺めることには、何の興味も示さなかった。彼らにとって、それは日常生活の一部でしかない。日が昇り、また沈むのと同じように、スケジュール通りに来て、そして去っていく。すべては最上の結果へと。
 アルビオンは広い。でも、バレル・アーバーはそうではない。自分がクラウンシティへ行き、時計仕掛けの天使たちを見ることは、あるのだろうか。塔の中のウォッチメイカー様にお会いすることが、あるだろうか。西の海へと船出をすることは、あるのだろうか。まもなく、彼は母の本を片付けなければならない。もうその中の絵を見ることは、決してないだろう。それは彼にとって、ありえないほど悲しいことだった。

 一台の古ぼけた、傷だらけの貨物車両が近づいてきた。開かれたドアに、一人の男の影があるのが見えた。頭の形の影が突き出て、手を振っている。オーエンは驚きに打たれた。その男はまるで自分がここにいるのを知っていたかのように、スティームライナーのたてる音をついて、叫んでいた。
「手を出せ! 引っ張り揚げてやる!」
 オーエンは凍りついた。スティームライナーに乗れる! このレールの上を、クラウンシティまで乗っていける。この目で、あの天使たちが見られるかもしれない。手遅れになる前に――
「そんなことは、するべきじゃないよ」オーエンは叫び返した。
「だが、お前はそうしたいんだろ?」
 男はより近くまで身を乗り出して、そう呼ばわった。
 車両は、すぐそばまで来ていた。オーエンは本能的に、衝動の命ずるままに手を伸ばし、その男の手をつかんだ。見知らぬ男は力強かった。彼はオーエンを地面から持ち上げた。突然ひとつくしゃみをするほどに短い時間で、すべては終わった。
 オーエンはスティームライナーの線路の側線から、足が離れるのを感じた。と、あっという間に彼は引き上げられ、貨物車両の中にいた。
「やったな、若いの」見知らぬ男はそう言った。
「お前を誇りに思うぞ」
 オーエンは後ろを振り返り、自分の村がはるか彼方に小さくなっていくのを、めまいがするような思いで見つめていた。見知らぬ男はオーエンの肩を支え、体制を保ってやっている。
 オーエンは、自分がやったことが信じられなかった。いったい自分が何をやったのか、その本当の意味を、まだ把握できてさえいなかった。なおも貨物車両から身を乗り出しながら、オーエンは顔にかかる心地よい夜風を感じた。遠ざかっていくバレル・アーバーから目をそらし、彼は行く手を見た。クラウンシティを。そして未来を。
「とうとう自分の道を踏み出したんだ」彼は言った。





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