第1章
こんなに小さく感じられる世界では
大きなことを考えずにはいられない
穏やかで完全な生活を送っていて、だがそれだけでは十分ではないかもしれないと気づいた人間――物語を始めるのに、これほどふさわしい場所はないだろう。
しなやかな曲線を描いて流れる、曲がりピニヨン河を見下ろす、緑に覆われた果樹園の丘の上で、オーエン・ハーディは林檎の木の幹にもたれながら、遠くを見つめていた。その場所から、アルビオンの全景を見ることができる――少なくとも、見えると想像することはできた。ウオッチメイカーの治める都、クラウン・シティは、はるか遠くだ。自分では、とても不可能な遠さだと彼は思っていた。バレル・アーバーにいる人々の中で、その距離を気にする人がいるだろうか――実際に都へ行った人は、ほんの一握りだった。そしてその中に、もちろん彼は入ってはいない。
「もうそろそろ行ったほうがいいわ」 ラヴィニアが言った。オーエンが心から愛する、完全にお似合いの恋人だ。彼女は立ち上がり、スカートを払った。
「このりんごを加工工場へ運ばなければならないんでしょ?」
オーエンはあと数週間で17歳になるが、すでにこの果樹園の副管理人になっていた。そうなってもなお、ラヴィニアに言われなければ、その責任を自分で実感することはなかった。
林檎の木にもたれたまま、彼は手探りで携帯時計を取り出し、その蓋をぱちんと指で開けた。
「そんなに長くはかからないよ。もうあと、11分だ」
彼は眼下を流れる川のその緩やかな谷底に、まっすぐ伸びる銀色のレールを見下ろした。
ラヴィニアはかわいらしく口を尖らせた。
「スティームライナーが通っていくのを、私たちは毎日見なければならないの?」
「毎日ね。時計のようにさ」 オーエンは彼女は自分と同じ情熱を共有していないのを知りながら、指でぱちんと時計の蓋を閉めた。
「すべてが狂いなく毎日毎日、決められたように進行していくのを見ると、安心しないかい?」 これなら、少なくとも彼女が理解できる理由になるだろう。
「そうね。私たちの愛するウォッチメイカー様のおかげよ」 恭しく一瞬の沈黙を置いて彼女は言い、オーエンはクラウンシティの塔からこの国を治めている、聡明で小柄な老人を思い浮かべた。
ラヴィニアの鼻は丸く、目は灰色で、顔にはそばかすが洒落た飛沫のようにとんでいた。彼女の柔らかい声を聞くと、オーエンは時々、その声で歌う歌の調べを想像することができた。実際に彼女が歌を歌うのを聞いたことはなかったが。彼女の髪は、温かなヒッコリーの木のようだと、彼は思った。さもなければ、ほんの少しクリームをたらした、煎れたてのコーヒーのようだと。一度、彼はその髪の色は何色、とラヴィニアに聞いたことがあった。「茶色よ」と彼女は答え、オーエンは笑った。ラヴィニアの明瞭な簡潔さが、かわいらしかった。
「今日は、早く戻らないといけないのよ」彼女は指摘した。
「歳時暦によると、3時11分から大雨になるのよ」
「時間はあるよ」
「走らなければならないわ」
「わくわくするね」
彼は空に浮かぶふわふわした雲を指差した。その雲はすぐに雷雲となるだろうが――ウォッチメイカーの気象歳時暦は、決して外れたことがなかった。
「あれは羊みたいだ」
「どれ?」彼女は目を細めて、空を見上げた。
彼はそのそばに立ち、手を伸ばした。
「僕が指差す場所をたどっていってごらん――あれだよ。その長くて平べったいのの隣にある」
「違うの。あれが、どの羊に似ているの?」
彼は目をしばたいた。 「どれって――どの羊でも同じだよ」
「羊が、全部同じということはないわよ」
「それから、あれはドラゴンみたいだ。あの左側の出っ張りを翼と見るならね。それからあの細い筋は首だ」
「私はドラゴンなんて見たことないわ。そんなものは、いないわよ」
相手のがっかりしたような表情に向かって、彼女は顔をしかめて見せた。
「どうしてあなたは、いつも雲をなにかの形に見てしまうの?」
彼にとっては、逆にどうして彼女には見えないのか、不思議に思うのだった。
「外には想像の余地がいっぱいあるからだよ。この世界全体がさ。世界中を見ることができないのなら、せめて想像したいよ」
「だけどどうして、自分の生活のことだけを考えていられないの。このバレル・アーバーでやれることだけで十分でしょう」
「それじゃ小さすぎるよ。僕は大きく考えるのを、やめられないんだ」
遠くから連絡鐘のリズミカルな響きが聞こえてきた。彼は林檎の木の下から移動して、目の上に手をかざしながら、谷を見下ろした。そこにはスティームライナーの線路が、剃刀の刃のようにまっすぐ、光を放ちながら、彼を招くように伸びている。この錬金術的なエネルギーで満たされた道は、クラウンシティにあるセントラル・ジュエルまでまっすぐ続いている。オーエンは息を呑み、手を振りたい衝動をこらえた。スティームライナーからは遠いので、中からはどのみち彼は見えないだろうが。
一連の飛空装置を持った車両群が空から降りてきて、レールに沿って一列になった。大きな灰色の幌が、下から供給されるエネルギーを受け止める。鉱山から堀り出されてきた鉄や銅、北の森から切り出されてきた木材などを満載した、重くて間口の低い貨物車両があり、装飾を施した客用車両もある。それぞれが連なって、スティームライナーの車両群は、すばらしい、膨れ上がったキャラバンのようだった。
岩の多い場所では上空を飛び、つながった一連の飛空車両群は、谷の向こう側から降下をはじめ、軽くキスをするようにレールに触れる。その接触を受けて、鋼の輪の回路がつながる。冷たい火のエネルギーが蒸気機関に満たされ、動力ピストンを動かし続ける。
遠くや近くからの宝物や神秘を載せ、唸りを上げて通り過ぎていく一連の車両群を、オーエンはじっと見つめていた。どうしてこれが想像力をかきたてずにいられよう。あのキャラバンと一緒に行きたいと、彼は切望した。一度だけでいいから。
世界中を見てみたいと思うことは、身に過ぎたことなのだろうか。何でも試してみたい。いろいろな光景や、音や、匂いを、実際に体験してみたい――ウォッチメイカーにお会いして、もしかしたら時計塔で仕事をしているところを拝見して。天使たちの歌声を聴き、西の海を渡って神秘的なアトランティスへと向かう船を手を振って見送り――もしかしたら、実際にその船に乗り込んで、自分自身の目でその場所を見て――
「オーエン、またあなたは白昼夢を見ているわね」
ラヴィニアは自分のりんごかごを持ち上げた。
「もう行かないと、ずぶぬれになってしまうわよ」
スティームライナーが遠くへ消えていってしまうのを見送ったあと、彼は自分のりんごをかき集め、彼女のあとを急いだ。
残り14分で村に帰らなければならない。しまいには、彼とラヴィニアは走った。笑いさえした。予期せぬアドレナリンの噴出が、彼を高揚させた。ラヴィニアの笑いは、不安そうだった。ちょっとした雨が壊滅的にいやなわけではないが、濡れるのは嫌いだったのだ。村のはずれにある天使の石像を通り過ぎる時、オーエンは時計を取り出し、時間を確かめた。3時11分の大雨に向かって、分針は這うように動いていく。
ラヴィニアの両親が運営している、バレル・アーバーの電信局に二人が滑り込んだときには、頭上の雲は予定通り灰色に変わり、今にも降り出しそうな気配だった。電信局では、クラウンシティから配信される日々のニュースや、ウォッチメイカーの箴言が送られてくる。パケット夫妻はここからすべての知らせを村人たちに配信していた。
オーエンはラヴィニアが持っていたりんごのかごを受け取った。
「雨が来る前に、中へ入ったら」
ドアに向かう彼女の顔は紅潮し、疲れているように見えた。時間通りに戻れたことを感謝しながら、彼女はドアを開け、心配そうな目でうしろを振り返った。その目は雨雲そのものより、村の時計塔に向けられていた。
17歳の誕生日と、公式な成人認定が、スティームライナーのような速さで向かってくる――オーエンは完全な安定の、その淵ぎりぎりにある不安定さの上に立っているような思いを感じていた。クラウンシティの公式文具で印刷された、ウォッチメイカーからのパーソナルカードを、彼はすでに受け取っている。彼の幸運を祈り、来るべき幸福な、満足した人生への祝福が書かれていた。妻、家庭、家族、人間が欲するすべてのものを。
いったん成人したら、どういう風な人生を歩むのか、オーエンにははっきりとわかっていた。村のりんご農園の副管理者になることが、不満なわけではない。ただ、それによって失われる可能性が悲しいのだ。ラヴィニアは、彼より数ヶ月若いだけだ。たぶん彼女も同じように感じていて、いずれ同じ制約を受けるなら、小さな日常からの逸脱もともにしてくれるに違いない。
ラヴィニアが電信局の中に引っ込んでしまう前に、オーエンはあることを思いつき、彼女を呼び止めた。
「今夜、何か特別なことをしようよ。わくわくするようなことを」
彼女は顔をしかめた。すでに懐疑的になっている。オーエンは精一杯魅力的な笑顔を作った。
「心配しなくていいよ。怖いことじゃないから。ただ、キスするんだ」
オーエンは時計を見やった。3時5分だ。まだ6分ある。
「もうキスは、したじゃないの」彼女は言った。
二人はやがて正式に婚約するのだから、それは当然予期されることとして、週に一度、軽くキスを交わしていたのだ。まもなく、彼女もウォッチメイカーから自分自身のパーソナルカードを受け取るだろう。彼女の幸福、夫や家庭、そして家族への祈りと祝福の。
「わかっているよ」彼は急いで言った。
「でも、今度のはとてもロマンティックで、特別なものになるのさ。裏の果樹園の丘の上で、星の下で、真夜中に会おうよ。君に星座を教えてあげるよ」
「星座なら、ガイドブックで見られるわ」彼女は言った。
彼は顔をしかめた。
「どうしてそれが同じものだってわかるんだい?」
「だって、同じ星座でしょう」
「とにかく、僕は待ってるよ。真夜中にあそこで」
彼はチラッと雲に目をやり、そして携帯時計に目を落とした。あと5分だ。
「ねえ、これは僕らの特別な秘密だよ。ラヴィニア、お願いだから」
「わかったわ」 すばやく、しかしあいまいな調子で彼女は言った。そしてそれ以上の別れの挨拶はせず、電信局の中に駆け込んでいってしまった。
陽気な気分で、両手に林檎のかごをぶら下げながら、オーエンは加工工場へと向かった。そこは、彼と父が住む家に隣接していた。
雷雲の数はどんどん増えていき、日差しは暗くなった。計画された大雨が今にも起こりそうな様子の中で、町の通りに人影はなく、家々の窓もかたく閉じられていた。バレル・アーバーの人々は毎日歳時暦を見、それによって日々の暮らしの計画を立てていたのだ。
たぶん降り始めの雨には濡れてしまうだろうな――そう思いながらオーエンが家路を急いでいる時、メインストリートにいる不思議な人影に気づいた。濃い色の外套をまとった行商人だった。灰色のあごひげを生やし、同じ色の長いねじれた巻き毛がシルクハットの下から垂れている。
ハンドベルを鳴らしながら、行商人は荷車の傍らを歩いていた。小さな包みや装飾品、ポットや鍋、ぜんまい仕掛けの装置、淡いブルーに輝く冷たい火が入ったガラス球などがいっぱいに積まれている。その荷車は蒸気で動いていて、よく油がさしてあるピストンから車輪に連動して、動力が送り込まれている。この小さなエンジンに、5ガロンのボイラーで温められた錬金術の火は、似つかわしくないほどだ。
しかし、もうすぐに嵐がやってくるこの時ほど、行商人の来るタイミングとして最悪なものはなかった。他の地方から仕入れた珍しい品物を売るために彼はバレル・アーバーにやってきたのに、顧客となるべき人々は今にもやってくるだろう雨のために、家の中に隠れてしまっているのだ。彼はベルを鳴らした。だが、その品物を見るために出てきた人は、誰もいなかった。
オーエンは加工工場に急ぎながら、声を張り上げた。
「3時11分に雷雨が来ますよ!」
この老人の携帯時計は壊れているのか、それとも、気象歳時暦をなくしてしまったのだろうか。
その見知らぬ老人は顔を上げた。お客になりそうな人を見つけて、喜んでいるようだった。行商人の左目が黒い眼帯で覆われているのを見たオーエンは、不安な気分を感じた。ウォッチメイカーの安全で善意に満ちた「スタビリティ(安定)」の元では、人々はめったに怪我をしないからだ。
その残った片方の目でじっと見つめられると、オーエンはまるで相手は自分を探していたのではないかというような感じに捕らわれた。行商人はベルを鳴らすのをやめた。
「心配することは何もない、若者よ。すべては最良の結果になるのだ」
「すべては最良の結果になる」オーエンは繰り返した。
「でも、それでも、濡れてしまいますよ」
「気にしてはおらん」その見知らぬ相手は蒸気エンジンを止め、何かを考えているかのように、荷車に積んだ箱や包みを次々と手に取り、その手の上で軽く転がしてから、元に戻していった。その間も、その目はじっとオーエンを見つめ続けていた。
「さて、若者よ。君は何か足りないものはないかね?」
その質問はオーエンを驚かせ、一瞬、今にも来そうなどしゃぶりの雨のことを忘れた。たぶん村から村へと渡り歩いて品物を売るこういう行商人たちは、みんなそう言うのだろう。それでも――
「僕に足りないものは何か?」
オーエンは今まで、そんなことは考えたこともなかった。
「奇妙な質問ですね」
「それが、私の商売なのだよ」
行商人のまなざしは力強く、失われたもうひとつの目を補って余りあった。
「考えてみなさい、若者よ。君に足りないものは何かね。それとも君は満足しているのかね?」
オーエンは鼻を鳴らした。
「何も不足しているものなどありません。愛するウォッチメイカー様が必要なものはすべて手配してくださいます。食べ物もあります。家もあります。冷たい火もあります。幸せもあります。アルビオンにはもう一世紀以上にわたって、何の混乱もありません。これ以上、何を望むというのですか」
その言葉は彼が何か思うまもなく、口から流れ出てきた。それは自発的なものというより、自動的に言っているようだった。父はまるで夜毎劇に出る俳優のように、何度も何度も同じ言葉を暗誦してきていた。同じ言葉を、彼は酒場で人々が口にするのを聞いている。
会話の中で出るのではなく、ただお互いに確認するかのように。
僕には何が足りない――?
オーエンは自分がまもなく一人前の男になること、そしてそれにふさわしい責任を持つことになることをも、知っていた。彼はりんごのかごを下に下ろすと、肩をいからせ、ありったけの確信をこめて答えた。
「僕には足りないものなど、何もありません」
「それは、人間として最上の答えだ」 その神秘的な老人は言った。
「そのように途切れることなく繁栄している世の中では、私のような商売を、やっていくのは難しいのだが」
行商人は自分の答えに、がっかりするよりも喜んでいるような、そんな奇妙な印象を、オーエンは感じた。
老人は自分の荷物の中をかき回し、ふたを開けて、そして手を止めた。その心を確かめているかのようにオーエンを見た後、彼は袋の中に手を伸ばし、一冊の本を取り出した。
「これを君にあげよう。君は知的な若者だ。考えることが好きと見える。私にはわかる」
「どういう意味ですか?」オーエンは驚いた。
「その目を見ればわかる。それに」 相手は空っぽになった村の通りを指し示した。
「こんなとき、外に長くいすぎる人間は、もっとやりたいことがある者だけだ。ほかに考えることがあるというな」
彼はその本を、オーエンの手に押し付けた。
「君は聡明だから、スタビリティ(安定)の真の恩恵と、ウォッチメイカー様が私たちのためにやってくださるすべてのことを理解できるだろう。この本は、その助けとなるだろう」
オーエンはその書物を見た。本の背には、ウォッチメイカーのシンボルであるミツバチが印刷されている。きっちりとそろった文字で、タイトルが刻まれていた。
『スタビリティの前には』
「ありがとうございます。読んでみます」
見知らぬ行商人はダイアルを回して、ボイラーの中の錬金術的な熱を上昇させた。盛大な蒸気が吹き上がった。荷車が前に進むと、行商人はその後について、村から出て行こうとしていた。
オーエンはその本に興味をそそられ、見開きページを開いた。彼は通りの真ん中で立ったまま、その内容を読みたかったが、ふと携帯時計を見てみた。3時13分だ。彼は手を差し出した。そして雨粒が落ちてこないことに、当惑を覚えた。雨が2分も遅れたことは、今まで決してなかったのだ。
しかしどちらにしても、本を濡らすリスクは犯したくなかったので、りんごのかごもろとも、急いで加工場に運び込んだ。父親が働いている天然石作りのひんやりとした建物にたどり着いた時、彼は振り返り、あの老人とその自動荷車が消えているのを見た。
「遅いぞ」 父はぶっきらぼうにそう呼ばわった。
オーエンはドアの影に立ち、村の通りを見下ろしていた。
「雨もね」 そっちのほうが、もっとはるかに困惑すべきことだった。
空に雷鳴がとどろいた。そして誰かが水のバッグを引きちぎって開けたかのように、雲から雨が降り落ちてきた。オーエンは眉を寄せ、加工場の中にある時計を見た。午後3時18分だ。
その日の朝、村の電信局に歳時暦の更新版が届き、雨の開始時間は3時18分に変更になったと知らせてきたことを、オーエンは後になって知ったのだった。
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