Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 4  AGE Purple (紫の時代) (7)




 その夜、コミュニティに事件が持ちあがった。十七才の少年が一人、失踪したのだ。スフィア内のどこを探しても、その子は見つからず、翌朝人々の制止を振りきって、吹雪の中に出ていった母親が、シルバースフィアから三百メートルほど離れた雪の中で倒れている少年を見つけた。しかも少年は裸だった。脱いだ服があたりに散らばっていた。もうすでにこときれていて、医師たちは凍死と診断した。おそらく昨日の午後、外へ出ていって、吹雪の中方向を間違え、迷ったのだろうということだったが、彼がなぜ、何のためにそうしたのか、それは謎のままだった。探しにいった母親も寒さと心労、それに一人息子を亡くしたショックからか病の床につき、ほどなく世を去った。その母親はかつてみどりの家でエヴェリーナの後輩職員として働いていて、知っていたので、彼女も葬儀に参列した。
「でも、どうしてバリーは外へ行ったのかしら」
 少年の母親の葬儀が終わった夜、夫と二人、部屋でお茶を飲んでいる時、エヴェリーナはふとそう呟いた。
「アイスキャッスルでも、昔そんなことがあったって聞いたわ。ええ、狭いところに閉じこめられていることに堪えられなくなった人が、外へ出ていってしまって、そのあと親戚の小さい女の子が、家へ帰りたさに飛び出したって、お父さんがそう書いていたし。でもそれは、アイスキャッスルの冬での話でしょう。ここはあそこほど寒くないから、外へ出ても帰ってこれるはずよ。まあ、吹雪の中じゃ視界はきかないでしょうし、帰るつもりで遠ざかってしまって、力尽きたっていう話は聞くけれど。でも、雪の中で裸なんて……」
「凍死寸前の時は、身体が防衛反応で体温を上げて、暑いと感じるということは、昔本で読んだことはあるな。だから、発見されたとき裸でも、不思議はないと」
 フェリックスはお茶をすすりながら、微かに頭を振った。
「でもたしかに謎だね。彼が何のために外へ行ったのか。自殺、というのも考えられないしね。彼は粗暴でわがままで、評判のワルだったし、自殺するような悩みなどなかったろうというのが、彼を知る周りの意見らしい」
「バリーは、たしかに問題児だったけど……ミリアムが溺愛しすぎたのよね。やっと出来た、たった一人の子供だからかしら。彼女、わが子のことは決して悪く見えないのよね。それ自体は、いいことなんでしょうけれど。でも人に迷惑をかけたり、悪いことをした時でさえ、決して叱らなかったのよ。自分の意思をはっきり持っていて、のびのび育っていて、いい子だって。それはちょっと違うと思うんだけれど。でもあの子の悪さをちょっと忠告しようとしてみようものなら、ヒステリーを起こして大変だしね。みんなあまりそのあたりは、かかわらないようにしていたのよ。わが子を愛するのはいいことには違いないけれど、ミリアムはあの子以外、何も目に入らないって感じだったもの。だから、ショックだったんでしょうけど。でもあたしも、あの子が自殺したなんて絶対考えられないわ」
 その時、ふと、数日前の小さな記憶が、エヴェリーナの脳裏を掠めた。
「そういえばアルシスが……あの子が、何か見てないかしら。ちょうどバリーがいなくなった頃に、あたし、あの子にスフィアの入り口で会ったんだもの。あの子は、外から帰ってきたところだったの。ひょっとして、彼を見かけたかもしれないわ」
「でもアルシスは、バーソロミュー・スミスとは仲が悪いはずだ。というより、スミスの方がかなりあの子を憎んでいたという話を、聞いたことがあるよ」
「あら、なぜ?」
「さあね、特に憎まれるような原因があるわけじゃないと、思うんだ。でもなんといっても、あの子は際立った存在だからね。おもしろからず思う者がいたって、不思議じゃないさ。とくに、バーソロミューのような性格ならね」
「嫉妬みたいなものね。まあ、それはわかるけれど……」
 エヴェリーナは頭を振り、夫に微笑みかけた。
「お茶、もう一杯いかが」
「ああ、いただくよ。それに君の焼いたクッキーは、相変わらずうまい」
「ありがとう。でも、全部食べないでね。明日の孫たちのおやつがあるから」
「わかってるよ。じゃあ、これで最後にしておこう」
 フェリックスは笑いながら、クッキーに手をのばした。
「でも去年の小麦の収穫は、かなり成績がいいらしいね。みんながたっぷり食べて、その上に来年の分まで、結構回せるそうだよ」
「良かったわ。食料があるって、幸いなことですものね。あたしアイスキャッスルの時代は経験したことないけれど」
「それを知っているのは、第一世代の人たち……コミュニティじゃ、もうとっくに死に絶えてしまっているね。でも彼らがいたから、僕たちもここに生きていられるんだ」
「そうね……」
 夫婦はしばらく沈黙し、その苦難の時代を思った。のち話題は子供たちの家庭のことへと移り、エヴェリーナはバーソロミュー・スミスの死に関する不可思議をしばらく忘れた。

 それから数日後、エヴェリーナはアパートの廊下でアルシスとすれ違った。アリステアとポラリスの一家は今、エヴェリーナたちの住んでいる居室と同じ階、三軒隣にいるのだ。彼らが第三子、レナード・エイベルの出産に伴って、九年前に今の場所に越してきてからは、よく廊下で会うこともあり、エヴェリーナも時々訪ねていって、ポラリスとおしゃべりすることもあったのだ。
 アルシス・リンクは七歳ですでに初等教育と中等教育までを終わり、ランディスとライラスを継ぐ第四世代の天才とみなされていた。二年前からは、アンドリュー・パーキンスの後を継いで中央委員会のリーダーとなった父アリステアについて、コミュニティ運営の仕事も手伝うようになっている。
「アルシス。こんにちわ。今日はこれからどこへ行くの?」
 エヴェリーナはそう声をかけた。
「今日はこれから科学班だよ」
 アルシスはそう答えた。その手には何も持っていない。彼はいつもそうだった。メモや記録など取る必要はなく、すべて頭の中に記憶できる。彼の曽祖父のように。
「そう。頑張ってね」微笑んで行きかけたその時、エヴェリーナは、ふとバーソロミュー・スミスの失踪事件のことを思い出した。
「ねえ、ところで、あの日……あなたとあたしがスフィアの入り口で会った日に、男の子が一人失踪したわよね。あなた、外に行っていて、あの子を見た?」
 何気なくそう問いかけた時、エヴェリーナは別に謎を解くような返事を期待したわけではなかった。
「バリー・スミスのこと?」
 アルシスは真っすぐに目を見返してきた。そして、しばらく黙ったあと、言葉をついだ。
「知ってるよ。一緒に外へ出たんだから。小母さんが外へ出てくる前だけど」
「ええ?」その返答を聞いて、エヴェリーナは驚きのあまり、しばらく絶句した。
「一緒に外へ出たって……あなた一人で帰ってきたでしょ? 彼はどうしたの?」
「外へ残してきたよ」少年はまったく動じた様子もなく、そう答えた。
「気を失って倒れたから、そのままにしておいたんだ」
「ど、どうして……なぜ、バリーは気を失って倒れたの?」
「あいつ、口ほどには強くないからね」
「あなたが気を失わせたの?」
「ああ。ぼくはそう力はないけれど、人間の急所は知っているから」
「なぜ……なぜ彼と喧嘩なんかしたの、アルシス?」
「喧嘩じゃないよ、決闘さ。あいつがそう言ったんだ」
「なぜ……?」
「あいつ、女の子をレイプしようとしたんだ」
 アルシスは汚いものを吐き捨てるような口調になった。
「あいつはその娘に惚れていたけど、娘の方ははねつけてた。嫌いだったんだろうね。まあ、無理もないけど。そうしたら、そいつはその娘を倉庫に呼び出して、そこで襲ったんだ。僕はたまたまその時倉庫に行って、見つけた。だから、やめさせた。ああ、まあ、ちょっと手荒にね。それであいつは怒って、表へ出ろってさ」
「で、でもね、アルシス……」
 エヴェリーナは驚きのあまり、しどろもどろになりながら口を開いた。
「理由は、よくわかったわ。たしかに相手が悪いわよ。でも……あんな寒い中に、気を失ったまま残してきたら……しかも、何も言わずに……誰かが気づかなければ、そのまま死んでしまうかもしれないってこと、あなたにはわからなかった? あなたは頭がとてもいいんだし、わかっていたはずよ。あの日はとりわけ寒かったし、すぐに猛烈な吹雪になったのよ。なぜあの時、あたしに言ってくれなかったの? その時なら、まだバリーは助かったでしょうに」
「救けるのに値しない奴だよ、あいつは」
 アルシスは首を振った。いささかの迷いもない、はっきりとした口調だった。
「あいつは元々、ぼくを雪の中に放置するつもりで、外で決闘なんて言い出したんだ。やらなければ、やられてた。あいつは邪悪な人間だ。明らかに、闇の住人だよ。あいつはここに生まれてくるべきじゃなかったんだ。いくらここが善人の庭でも、放っておけば雑草は生えてくる。このまま置いておけば、雑草は枯れる。これはいいチャンスだ。そう思ったから、ぼくは何もしなかったんだ。実際みんなだって、バーソロミュー・スミスが死んで、ほっとしてるのは事実だし。あいつはいずれ、社会にとって破壊分子になる。今のうちに摘めたら、摘んでおいたほうがいいよ」
「じゃあ、あなたはわざと……?」
 エヴェリーナはあとの言葉を失った。恐ろしいことをいとも当然のように言ってのける相手に、恐怖さえ感じながら。バーソロミュー・スミスは悪だったかもしれないが、吹雪の中で気づき、必死にスフィアに帰ろうとしたのだろう。しかし視界を遮られ、方向を誤って、かえって遠ざかってしまった。その恐怖は、いかほどだっただろう。最後に厳寒の中、危機を感じた身体が出した熱を暑いと感じ、服を脱いだ。そして死んだ――それを思うと、エヴェリーナは背筋が凍る思いだった。
 アルシス・リンクは何も言わなかった。ただ肩にかかった髪をかきあげて、泰然と微笑しただけだ。エヴェリーナは父の日記にあった一節を、ふいに思い出した。未来でこの子の肖像を見た時の印象として、綴ってあった言葉――。
『唇に微笑は浮かべているが、その眼は笑っていない。澄み切った天上の青の瞳は、慈悲深くはあるが、同時に氷のような冷たい光をも感じさせる。美しい、磁力に満ちた微笑。まるで研ぎ澄まされたダイアモンドのような』
 エヴェリーナは父の印象の正しさを、心から認めた。無造作に肩まで垂れ下った濃いコバルト色の巻き毛、右側頭頂部の一部だけは光色のその髪に縁取られた、ほとんど非の打ち所のない美しい輪郭と顔立ちに妖しい表情が浮かび、その濃いヘヴンリーブル―の瞳に神秘的な光がきらめく時、すべての人を引きつけずには置かないような引力を発揮する。決して逆らえない、魔力のようなものだ。そしてそれゆえに、恐い。その時彼女は、はっきりとそう感じた。
『アルシス・リンクは、“Guardian”の生まれ変わりじゃないか? 同じ名前だし、そっくりだし、誕生日も同じで』
 成長するにつれ似てくる容貌に、第二、第三世代の大人たちは時々、そうささやき交わしてた。しかしそれを耳にしたアルシスは首を振って、きっぱり否定したという。
「違う。ぼくはあの人じゃない。ぼくはあの人の対の片方だ。カウンターパートなんだ」
 対照的な一対。そうかもしれない。エヴェリーナは集会広場に飾ってある絵を思い浮かべた。アルシス・リンクにとっての曽祖父、そしてエヴェリーナ自身の伯父でもある、アーディス・レイン・ローゼンスタイナーの肖像。イラストレイターをしていたという第一世代の女性が三年かけて描き上げたその全身像は、非常なインパクトと神々しくさえあるオーラに満ちている。その絵はバンドの最新ポスターや服とともに集会広場に飾られ、第二世代以降の人々には『Guardian像』と呼ばれていた。そして中に描かれている人物を、“Guardian”と呼んだ。シルバースフィアの守護神――もともとそのイメージでとらえられてはいたが、その呼び名が定着した頃には、もうオーロラは世を去っていて、アールも三十半ばを超えていたから、多少抵抗を覚えながらも、受け入れているようではあったが。
 数週間前、アルシスの母親であるポラリスと話した時、こんなことを言っていたのをも、エヴェリーナは思い出した。
『アルシスが生まれた時、アールお義父さんが言っていたの。この子は大きくなったら、この子のひいお祖父さんと、そっくりになるって。わたしはお祖父さんのこと、写真と動画と、あのガーディアン絵しか見たことがないけれど、たしかにそっくりになってきている気はするわ。髪の色は違うけれど。でもお義父さん、あの子と同じことを言ったのよね。生まれ変わりじゃない。対の片方だ。カウンターパートだって。わたしあの時には意味がわからなかったけれど、そうね、それにお祖父さんの方を直接的には知らないから、はっきりそうとは言えないんだけれど、なんとなく意味がわかってきた気がするの。お祖父さんは、あの肖像や映像や、音楽や、語り継がれている人となりを聞いていると、とても……感情の人なのかなって。感情を動かす人。でもアルシスはそうじゃない。あまり感情に重きを置いていない気がするの。時々、わたし思ってしまうことがあるのよ。この子の心は、ダイアモンドみたいって。透明で、きれいで、絶対に傷つかない……いえ、そんなこと思っちゃいけないわね。あの子だって、きっと傷つくんだわ。でも、それを重大には捕らえない。あの子は理性の子ね。だから対になる存在。光と影みたいなものかもしれないって。イメージ的には、お祖父さんの方が光で。あの子はわたしたちの大事な子だっていうことには、変わりないけれど』
『あの人は情動の本体で、ぼくは理性の分身だ』
 アルシスがあの日言っていたことを、エヴェリーナは思い出した。それは正しいのだろう。そして、その磁力の微笑の裏に彼女が感じた思い、自分の孫と言ってもいいくらい年の隔たったこの少年に対して感じた微かな恐ろしさは、その理性に重きを置いたパーソナリティゆえ。“正義と真理”の名のもとに悪を平然と切り捨て、そこに感情を交えないという冷静さに対してなのだと。それは父の記録に書いてあった伯父――アルシスには曽祖父に当たる人のエピソード――幼い頃の自分をひどく虐待した男に対してさえ救いの手を差し伸べ、捕まっていた子供たちを助けるために八階の窓から飛び降り、その場にいたファンたちを救うために自分の身を危険に晒したというそれを思い起こす時、たしかに二人は対なのだ。情動と理性の――そう思わざるをえなかった。
 エヴェリーナは、軽い震えを感じた。アルシスは気に留めたような様子もなく、やってきたエレベータに乗り込んでいったので、それ以上話はしなかった。エヴェリーナはしばらく考えた末、アルシスから聞いたその詳しい事情は、決して他言すまいと決めた。ただ一人、夫の他は。

 その夜話を聞いたフェリックスは、驚きながらも妻の決定に同意した。
「その方が賢明だね。はっきりした証拠もないし。それに、もしその通りだとしても、理はアルシスの方にある。たしかにそれが知れれば、彼も少なからず非難されるだろうが……だからこそ、他言しないほうがいいだろうね。彼のために」
「そうね。あたしだってアールお兄ちゃんとオーロラお姉ちゃんの孫の一人が、たとえ相手が悪人であれ、間接的に人を殺したなんて考えるの、いやだもの。もう忘れましょう。バリーの死の真相は、永遠に解けない謎のままでいいわ」
 エヴェリーナはそう宣言し、それ以上本当に、この話は忘れようと努めた。
 しかし翌日一人になると、再びその考えが頭をもたげてきた。
「やっぱりあたし、あの子はなんだか少し恐いような気がするわ」
 エヴェリーナは小さく呟いた。そして思った。
(あの子も、雪の女王のようね。いいえ、正確には女性じゃないから、女王じゃないわ。かといって、本当は男性でもない。ああ、それって、可愛そうなことなのにね。あの子は、笑うだけでしょうけれど。でも、辛い時はなかったのかしら。悲しいという感情を、知っているかしら。あの子は小さいころから、そうだったわ。不愛想というわけでもないけれど、人懐っこいというわけでもない。友達は多いけれど、親しい交流はない。妹や弟たちや、他の子供たちとも遊んだり面倒を見たりはするけれど、半ば義務感でやっているような印象を受ける。どの人にも心を預けることなく、一定の距離を置いて見ているような、そんな感じだから。あの子は感情をもたないのかしら、それとも押さえているだけなのかしら。あとの方だったとしたら、アルシスもかわいそうな子なのね)
 だが、かわいそうなどという言葉は、あの子にはふさわしくない。そのことを、彼女はすぐに認めた。そんな同情など、無意味にとられるだろう。彼は感情を抑制しているのではなく、超えているのだろう。初めから、感情をもたないわけではない。ただそれに重きを置いていないだけなのだと。しかし、アルシスを憎んだり嫌ったりすることは出来なかった。彼には天性の人を引き付ける磁力があり、反発をする人でさえ、その魔力を拒めない。あのバーソロミュー・スミス以外は。それゆえに切られたのだろうか――。
 エヴェリーナは再び身震いしたが、しかしこれからの新世界確立のためには、アルシスはきっと最適なリーダーになるだろうと、認めないわけにはいかなかった。磁力を持ち、感情に支配されない、冷静なリーダーが社会には必要なのだろうと。
(うまく出来ていると言えば、そうなのかもしれないわね。アイスキャッスルからシルバースフィア初期には、感情の力が必要だった。愛とか希望とか、がんばるんだっていう思いがないと、進んでいかないから。でも今は社会が安定し始めたから、必要なのは秩序なのかもしれない。だから、あの子は理性。そんな気がするわ。それにしても、不思議ね。アルシス・リンクはもとから、新世界初代大統領になるべく、生まれついているわけだし。おまけにあの子は八二歳まで生きて、その容貌は二十代後半から変わらないって。だって、それが未来の事実だったんですもの。今はまだ十四歳で、三代目リーダーの息子なのだけれど。あと八年後にはアリステアが亡くなって、あの子が大統領になるの? アリステアだって、今まだ三七なのに。末っ子のアルシアは、まだ五才になったばかりなのに。でもその時には、あたしももう生きてはいないのね。ああ……未来なんて、やっぱり知っているべきじゃないわ。なんだか頭がくらくらする)
 エヴェリーナはため息をついた。軽いめまいすら感じた。もうこれ以上、深く考えることはやめよう。彼女は頭を振り、思いを断ち切った。


( 5 )

 窓の外には、かぼそい秋の日光が揺れている。黄色が醒めてベージュ色に近くなったカーテンが、吹き込んできた微風に小さくはためいている。エヴェリーナはページを繰る手を止めて、窓の外に目を向けた。空は灰色がかった水色で、若い木々は葉を落とし、ブルーグレイの背景の中に、淋しくも雄々しく林立している。
 あれからさらに、四年近い年月が巡りすぎていた。エヴェリーナはこの夏の始めに病に犯され、夏から秋にかけて、ずっと病院のベッドで過ごしていた。十月の終わりになって、彼女は再び、住み慣れた我が家に帰ってきた。決して、病気が良くなったためではない。余命わずかで、あまり苦痛のない患者たちは、もし本人が希望すれば、自宅で最後を迎えることができるようになっていたのだ。長男のダリル一家は、外の道路に面した日当たりのいい部屋を、母のために用意していた。
 エヴェリーナは家に帰ってきてからは一日中ベッドの上で、移り変わる外の景色を見つめていた。シルバースフィア地上部にあるこの住居も、今では晩秋のこの季節になっても、夜冷え込む時以外は、ブラインドを下ろさない。部屋の大きな窓から、オタワの町が見えていた。
 エヴェリーナは積み重ねた枕に寄りかかるようにしながら、窓から見える景色を眺めていた。その景色は、今の自分のようだと思いながら。春のような初々しい美しさも、夏の生き生きとした輝きも終わり、秋の収穫の彩りも終えて、冬を迎えようとしてる。彼女の容貌も、移りゆく季節のように変化を遂げた。かつて金褐色につやつやと輝いていた髪にはかなり白いものが交じり、手入れが楽なように、肩にかからない長さに切られていた。額と口元、目元には少し年輪が刻まれている。ベージュ色に緑の模様が入ったフランネルのネグリジェに包まれた身体は、病のためすっかり肉が落ちた。しかし外の風景を見つめる緑の瞳に宿る光は、昔のままであった。五九才になった今、子供たちはそれぞれ新たな家族を作り、息子たちも娘の夫もそれぞれ社会的に活躍し、幸福な家庭を営んでいる。
 四十年の年月を連れ添った夫フェリックスはこの春、急な病気で世を去っていた。
「ごめん、エヴェリーナ……やっぱり僕は、君の寿命の終わりまで、そばにいることが、出来なかったね……」それがフェリックスの、最後の言葉だった。
「いいのよ。あたしもすぐにいくから……今までありがとう、本当に……」
 エヴェリーナは夫の手をとり、涙をこぼしながら頷いた。
 人生の一人旅を寂しく思う暇もなく、病は彼女にも程なくやってきた。入院中も、もともと一緒に住んでいたダリル一家だけでなく、ヴィクトリアやジュリアン、そして弟の遺児クレアランス一家と、ほとんど毎日誰かしらが訪れ、晩秋の人生に活気を与えてくれていた。家に帰ってきてからも、同じようだった。まもなく、人生の冬が訪れようとしている、この時でも。

「あら、母さん。窓を開けちゃだめよ。もう今は風が冷たいから、身体に障るわ」
 その日、昼食を持って部屋を訪ねて来たヴィクトリアが、窓に翻るカーテンを見て、そう注意した。ヴィクトリアも、もう三五歳。四人の子供を持つ忙しい母ではあるが、ほぼ一日おきに母親の様子を見に来ている。肩のところで切りそろえたとび色の巻き毛を目の色と同じ緑のヘアバンドで押さえ、薄緑色コーデュロイのスモックドレスに黒のスパッツというスタイルだ。彼女はきびきびとした動作で、母のベッドのサイドテーブルに、持ってきたランチを置いた。
「今日はあたしが母さんのお昼を持ってくるからって、アンナ義姉さんに言ったのよ」と、明るい声を出しながら。ずっと食欲がなく、あまり食べられない母のために用意した、今年採れたばかりのブルーベリーを甘く煮て、豆乳と小麦粉でゼリー状に固めたものと、りんごを絞ったジュースだ。
「ありがとう。でも、窓は閉めないでちょうだい。もう今のあたしには風にあたったってそうでなくたって、あまり違いはないわ」
 エヴェリーナは娘を見、微笑して答えた。
「そんな気の弱いことを言わないでよ、母さん」
 娘は四歳になる末っ子のエレーン・テレーザを連れてきていた。くるくるとしたとび色の巻き毛を肩にたらし、緑色の目をしたこの孫娘は、ヴィクトリアによく似ているが、どことなく昔の自分の面影もあるようだ。
「お祖母ちゃん、ご機嫌いかが!」と、ちょっとませた調子で言いながら自分のそばにやってきたエレーンを軽く抱き、枕元においてあった箱から三つほどキャンディを手渡しながら、エヴェリーナは答えた。
「ありがとうね、エレーン。あなたが来てくれるだけで、お祖母ちゃん元気になるわ」
「あまりお祖母ちゃんを患わせちゃだめよ。お祖母ちゃんは病気なんですからね。さあ、いい子だからあそこのソファで、おとなしく遊んでなさい」
 ヴィクトリアは持って来た人形を子供に渡し、ソファで遊び始めたのを見届けた後、エヴェリーナの枕元に来た。
「気分はどう、母さん」
「ええ。ありがとう。今日はずっといいようよ」
「何を読んでいたの?」
 ヴィクトリアはそう問いかけて、肩越しに母が読んでいたものを覗き込んだ。
「ああ、お祖父さんの記録ね」
「ええ」
 エヴェリーナは頷き、それを傍らに置くと、娘が持ってきてくれた昼食に口をつけた。ジュースを半分ほど飲み、ゼリーを二口三口食べると、スプーンを置く。
「もういいの? 母さん」
「ええ。ありがとう。残してごめんなさい。でも、これ以上入らないの。とてもおいしかったわ、ヴィッキー」
 エヴェリーナは娘に笑顔を向けた。そして娘がトレーを片付け終えると、父のノートを手に取り、再び娘を見た。
「ヴィッキー、お願いがあるのよ。あなたが今日来てくれたから、ちょうどよかったわ。そこの戸棚の二番目の棚に、古い便箋があるはずなの。悪いけれど、取ってちょうだい。右の方にあるピンクの花柄のよ。そう、それそれ。それと机の上にあるブルーの万年筆を取って。ありがとう」
 エヴェリーナは頼んだ品物を受け取ると、父の日記のページを繰って、あるところで止めた。ページを広げ、毛布の上に置くと、ベッドテーブルの上に、ピンクの便箋を置く。シルバースフィアの文具店倉庫にあったこの便箋は、かつて父がノートを求めて倉庫を整理していた時、『あの手紙は、そういえばこの便箋と同じものだった』と手にとって、家に持ち帰ってきたものだった。それから長い年月の間にかなり色はあせたが、紙そのものは、まだしっかりしている。
 その退色して少し黄ばんだピンク色の紙をしばらくじっと見つめたあと、エヴェリーナは軽く頭を振り、万年筆のキャップを開けて、しっかりとした字で書き始めた。
【お父さん、はじめまして、ではないですが、あなたはきっとこの手紙を読んでいる時には、私のことは知らないでしょう。他の五人のみなさんも。
 私の名前は、エヴェリーナ・ローリングス・ラズウェル。旧世界の終焉から七年後の、九月に生まれました。私の父は――】
 右手のペンは滑らかな紙の上をゆっくりと走り、父の日記に印されたメッセージを一言一句誤りなく、その上に記していく。
 書きながら、不思議な思いがした。一体誰がこれを書いたのだろう。たしかに自分が書いたものには違いないけれど、頭の中から自然に出てきたものではない。ただそこにあったものを、書き写しているだけなのだから。しかし今自分が書いているこの手紙の言葉が父の記録に印されてあるわけだから、結局書いたのは、彼女自身に他ならない。
(どこが始まりで、どこが終わりなのか、わからない)
 エヴェリーナは初めて父の記録を読んだ時、そう感じたことを思い出した。
『結果が結果を生んでるね。メビウスの輪みたいだ』
 あの時アドルファスが、そんなことを言っていたっけ。
 エヴェリーナは半ば他人の言葉を書き写しているような気分で、ペンを走らせていた。しかし途中まで来て、彼女の手は震え、目は涙に潤んだ。
【私の記憶の中にかすかに残る父に対して、話したいことがもっとたくさんあります。でも父が再びこの世界を訪れる時、私たちが生きてきた過去は、父にとってまだ未来なのです。未来を知りすぎることは、つらいことです。喜びもあるけれど、何よりも大きな悲劇が、人類全ての上に待ち構えているのですから。私は日記から、父の思いを知りました。でもこの手紙を読む時には、まだ何も知らない父やみなさんに、私は何を書くべきか、言葉が見つかりません。ただ、その世界での幸せを大事にしてください。その恐れも、嘆きも私は知っているけれど、同時にあなたがたみなが勇気を持ち、希望を持ち続けてきたことも知っています。私は父の娘として生まれたことを、誇りに思っています――】
 ああ、この言葉は本物だ。あたしの心の中で言いたいことと同じだ。お父さん――幼い頃の懐かしい記憶の断片が、そしてあの夜アドルファスとともに読んだ父の日記から悟った感情が、どっと鮮明なイメージをもってあふれ、思わず手を止めた。涙があふれて、ぽたりと便箋の上に落ちていく。
「あ、しまった」
 エヴェリーナはあわてて涙を拭い、ティッシュを一枚とって、便箋に落ちたしずくの上に乗せた。それは幸い、ほんの少し文字をにじませただけですんだ。エヴェリーナはほっとため息をつき、唇を軽く噛むと、最後までメッセージを書き上げ、ゆっくりと最後の署名をした。
【SS暦六五年十一月十七日。エヴェリーナ・メイ・ローリングス・ラズウェル】
 エヴェリーナはペンを置き、インクが乾くまで、そのまま紙をテーブルの上に広げておいた。それから、三賢者のうち、最後に世を去ったジョセフ伯父から弟アドルファスに託され、ランディスを経て自分の手元に来た薄いブルーの紙数枚――ロボット作成に必要な数式や理論の書かれたその紙を、一緒に封筒に入れる。その封筒は便箋とおそろいのもので、同じように倉庫から父が持ってきたものだ。
 数式の紙は、今年に入って、手紙用タイマーロック付きの箱とともに、ランディスが持ってきてくれた。こう言いながら――。
『ごめん。エヴィー小母さん。五年くらい前に、念のため控えを取っておいた方がいいかなと思って、同じようなメモ帳があったから、それに書いたら、もとの紙がなくなっちゃったんだ。すごく探したけど見つからなかったから、僕が書いた奴でいい?』と。
 そういうことなのか――その時、エヴェリーナは非常に納得した想いだった。この数式の紙は、閉ざされた円の中だけを回っている。しかし、誰かの手によって書かれなければならない。ランディスが書き写した時点で、その数式の紙に関する、小さな円は完結したのだろう。エヴェリーナがそう説明すると、ランディスは苦笑していた。
『なんだ。必死に探して損したなぁ。でもたしかに、不思議な気がしたんだ。やけに僕の字に似ているなって』
 彼女は微かに笑みを浮かべながら、封筒に糊付けし、最後に表に宛名を書き込んだ。
【わが父、ジャスティン・ローリングス様、そして一緒に来た五人のみなさまへ】
 エヴェリーナはしばらく黙って、その文字を見つめていたが、やがて傍らでじっとその作業を見守っていた娘を振り返った。
「ヴィッキー、そこの棚の下から二番目の引き出しにある、鍵のかかる平たい緑の箱を取ってちょうだい。そう、それよ」
 エヴェリーナは手を伸ばして、箱を受け取った。三十年前アドルファスが設計し、のちランディスに頼んで作ってもらったタイマーロックつきの、手紙用の薄い箱だ。表は緑の布張りで、中は金属でできている。エヴェリーナはそれを開けると、毛布の上においた封筒を取り上げ、そっと箱の中に納めた。その中にあった脱酸素剤の封を切ってその上に落とし、蓋を閉める。期限設定は、エヴェリーナが手紙用の箱を頼む時、父の記録の該当部分をランディスに見せ、その手紙の署名日付と父たちが手紙を読んだ未来の日付から、彼が計算してくれていた。そして数式の紙とともに完成したものを持ってくる時、中に入れた小さなメモ用紙に書き留めてあった。彼女はタイマーのつまみを操作し、設定を終えると、そっと安全棒を抜き取った。かちっと音がして、鍵がしまった。このロックは一回安全棒を抜き取ってしまうと、残り日時がゼロになるまで、かたく封印される仕掛けになっている。
 エヴェリーナは平たい箱をしばらく見つめた。この箱が再び開けられる時、円は完全に閉じられるのだろう。この円の閉じる瞬間は、父親同様、彼女にもまた見届けることは、決して出来ないものだ。エヴェリーナは軽く頭を振り、再び娘を呼んだ。
「バケツと着火棒を持ってきて。バケツはプラスティックは駄目よ。金属ので、できるだけ大きなものをね」
 ヴィクトリアは無言で頷き、部屋を出て探してくると、再び母親の所へ戻って、持ってきたものを床に置いた。
「これをみんな、そこで燃やしてちょうだい」
 エヴェリーナは父の記録を全部、震える手で娘に渡した。
「燃やしてしまうの? これをみんな」
「ええ。そうしなければならないの」
「わかったわ」
 娘はノートの束を受け取ると、まず二冊ほどをバケツの中に、ページを広げて入れた。着火棒を取り出し、一瞬ためらうように手を止めたあと、火を付ける。炎が渦巻き、ページが燃え上がっていく。その中へ、ヴィクトリアは次々とノートを入れていった。最後の一冊まで。
「わあ、おうちの中で焚火!」小さなエレーンが、歓喜の声を上げた。
「近くに寄ってはダメよ、エレーン。危ないからね」
 エヴェリーナとヴィクトリアは同時にそう注意したあと、ともに無言で、何冊もの厚いノートが、二十数年間の記録が、父、または祖父の生命の鼓動と以前の世界の木霊が、炎になって消えていくのを見守っていた。
 やがてそれがひと固まりの灰になってしまうと、ヴィクトリアは換気のために窓を大きく開けた後、黙ってバケツを取り上げ、水を拭きかけて残り火を完全に消した。そして『第一種燃えるゴミ』と記されたゴミ箱の中へ、中身を全部投げ込んだ。
「これで、終わったわね……」
 エヴェリーナは小さく呟いた。涙があふれてくるのを、止められない。
「お母さん……」
 ヴィクトリアがその傍らに立ち、小さくなった母の背中に手を回した。
「お祖母ちゃん、どうして泣いてるの?」
 エレーンが心配そうに、その両手を寝具の上において聞いている。
「ええ、なぜ泣けるのかしら。あたしの使命は、これで果たせたのに。あなたたち子供や孫たちを残して、これから伸びていく生命をつないでいくことも出来たのに。ええ、そうよ、これは満足の涙なんだわ。だからエレーン、心配しなくていいのよ。あたしは悲しくて泣いているのじゃないから」
 エヴェリーナは孫娘に微笑みかけると、自身が書いた手紙を収めた緑のタイマーボックスを、娘に差し出した。
「これをあなたに託すわ、ヴィッキー。ゴールドマン家のファミリートレジャーに入れておいてちょうだい。時が来たら開けてもらうために。お願いね」
「ええ、わかっているわ」ヴィクトリアは箱を受け取りながら頷いた。
「任せて、大丈夫よ。セスにはちゃんと了解を取り付けたわ。でもね、お母さん。あたし時々、不思議に思うのよ。お母さんはお父さんと結婚する前、そこに書かれた名前がラズウェルだからお父さんと結婚しなきゃならないのかって、悩んだって言ったわよね。あたしもそこにヴィクトリア・ラズウェル・ゴールドマンとして書かれているのだから、あたしはヴィンスと結婚は出来なかったのね、どの道」
「ヴィクトリア、あなたはまだヴィンセント・ローデスのことが好きなの?」
 エヴェリーナは穏やかに、少し気遣わしげに娘に問いかけた。ヴィンセント・アーサー・パーマー・ローデスはメアリの甥にあたる若者で、婚約をしながら病気のために急死した、ヴィクトリアの初恋の相手だ。
「ええ」ヴィクトリアは少し寂しげな笑みを浮かべて、頷いた。
「彼はまだ、あたしの心の中で生きているの。決して消えることはないわ。でも、もう悲しみではないの。彼のことは、懐かしい思い出なのよ。それに、あたしはセスも愛しているし、彼もあたしを愛してくれているわ。かわいい子供たちもいるし。あたしは今、申し分なく幸せなのよ。だから安心して、母さん」
 娘の緑の瞳には、紛れもない穏やかな幸福の光が輝いていた。
「そう、よかったわ」エヴェリーナは、ほっとして頷いた。
「もう四時よ、ヴィッキー。アーサーとクリスとジェロームが、学校から帰ってくる頃だわ。そろそろお帰りなさい。あたしは大丈夫だから」
「あら、もうそんな時間なのね」娘は驚いたように時計を見た。
「母さん、気分は悪くない? 大丈夫なら、そろそろ帰るわ」
「大丈夫よ。今日は気分がいいの。いつになくね」
 エヴェリーナは娘たちに微笑みかけた。
「来てくれて、ありがとうね、ヴィッキー。それにエレーン。うれしかったわ」
「ええ。じゃあ、お大事にね、母さん。また来るわね」
 ヴィクトリアは窓を閉めると、片手でエレーンの手を引き、もう一方の手に母から預かった箱を抱えて、部屋を出ていく。
「ヴィッキー、その箱のことを、どうかお願いね」
 エヴェリーナは娘がドアを閉めようとする時、そう念を押した。
「ええ。任せて。大丈夫よ」
 ヴィクトリアの明るい声が返って来る。

 娘と孫の姿が消えて、再び静寂が訪れた部屋で、エヴェリーナは疲労を覚えて枕を直し、起き上がっていた姿勢から再び横になった。
「とにかく、これでやるべきことは、終わったわ」
 エヴェリーナは頭をめぐらせて、再び窓の外を見た。いつのまにか訪れた夕闇が、夕焼けの赤にふちどられて広がっている。三日月が西の空にかかり、気の早い星が一つ、空にきらめいていた。
(あれが宵の明星ね……)
 エヴェリーナは、その星をじっと見つめた。
(でも夕焼けは、美しいけれど淋しいわ。日の暮れは、夜へと入っていく前の、最後の華やぎなんだもの。そう、まるであたしの今みたいね……)
 彼女を動かしたもの、弟や従兄姉たちを動かしたもの、人々を動かしたもの、そして父たちを動かしたものは、いったい何であったのだろうか。運命という不思議なものの正体は、いったい何なのだろうか。子供の頃、ケイト伯母に聞いた質問がよみがえってくる。
『運命って、いったい何?』
『わたしたちが生まれた時に、神さまが決めた物語よ』
 それでは、神さまという大きな力とは、いったい何なのだろうか。エヴェリーナにメッセージを書かせたものは、彼女自身なのだろうか、それとも、神なのだろうか。彼女の父たちにそれを読ませたのは、誰なのだろうか。それは、決してわからないことなのだろう。昔、『死んだら本当に天国へいくの?』と、アドルファスと話し合った、あの問題と同じで。
(いえ、そっちの方は、もうすぐわかると思うわ)
 エヴェリーナは静かに考えていた。
(そうしたら、その時、神さまの正体がわかるかしら。ああ、あたしは死ぬことは恐れないわ。みんなが、いてくれるんですもの。フェリックスにグレイス、アンジー、アドルにアールお兄ちゃん、オーロラお姉ちゃん。それに、お父さんとお母さん……ああ、お兄さんと前の奥さんにも会えるかしら……)
 エヴェリーナは非常な眠さを感じて、目を閉じた。
(あたしの人生は夕暮かもしれない。でもこの世界は今、朝なんだと思うわ。夜明けから朝の光が差し込んで、動き始めたところなのよ、きっと……)
 エヴェリーナはその思いを最後に、眠りに落ちていった。それから一時間後に、長男ダリルの妻アンナが食事――プリンと野菜ジュースを運んできた時も、眠っていた。アンナは義母の眠りを妨げないように、そっとその盆をサイドテーブルの上に置き、【起きたら食べてくださいね。何かご用の時や辛い時には、無線で呼んでください】というメッセージを書いた紙を置くと、無線機が手の届くところにあるのを確かめてから、カーテンを引き、静かに部屋を出ていった。

 翌朝、再びアンナが朝のおかゆを運んできた時も、エヴェリーナは眠ったままだった。テーブルの上には昨夜の食事が手をつけられないまま残っており、クリーム色のカーテンごしに差し込んできた、晩秋のやわらかな朝の光が、おだやかな顔を照らしていた。
 エヴェリーナは、もう二度と目覚めることはなかった。

 ★第四部 終★




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