Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

付記 : 最後の夢





 いつのまにか、眠ってしまったようだ。そう、たぶん夢なのだろう。水面に泡が浮かぶように、記憶の断片が、動画のように次々と再生されては、消えていく。
 三歳くらいの頃だろうか。週末に家族で小旅行に行くのを、楽しみにしていた。でも父に急患が入り、行けなくなった。
「旦那様のお世話はわたしがいたしますから、奥様はお子さんたちと、予定通りお出かけください」
 ホプキンスさんの言葉に押され、出かけることにはしたのだが、あの時の僕は、落胆の極みだった。久しぶりに父と出かけることを、楽しみにしていたのだ。
 僕はやり場のない怒りに満たされ、泣きながら芝生の上に立って叫んでいる。
「パパの嘘つきー! 一緒に行くって言ったのに!」
 母がジョイスを抱いて、僕のそばへ来る。笑みを浮かべ、手を差し伸べる。
「ジャスティン。パパはお仕事なのよ。人の命を救う、とても大切なお仕事なの。あなたはわがままを言って、困らせちゃだめよ」
 母は僕の髪を撫でて微笑みかける。
「わかってあげてね、ジャスティン。パパもあなたたちが大好きなの。でも、お仕事も大切なのよ。今、パパは一人の人の命を救おうとしているの。その人にも、あなたと同じような子供がいるかもしれないわ。その子は、パパのやったことを喜んでくれるでしょう。パパと一緒の旅行は、また行けるわ。でもその人は、今でないと死んでしまうの。だからわかってね」
「うん」
 僕は半分も意味がわからないけれど、なんとなくかわいそうになって渋々頷く。
「良い子ね」母はもう一度僕の頭を撫で、笑みを浮かべている。

 海の風景。抜けるような真夏の空。その色を映してどこまでも青く、青く広がる海。潮の匂い、飛ぶカモメ。裸足の足に伝わってくる赤い砂浜の熱い感触。
「海はどこまで続いているのかな?」僕は思う。
「いつか、海の向こうへ行きたいな。僕が大きくなったら、あの向こうに浮かんでる船のような……あれの船長さんになるんだ」

 幼稚園の砂場で遊んでいる五才の僕。雨が降ったあとの湿り気を帯びた砂で、ロビンと一緒にお城を作っている。やっと完成。
「やったあ」
 僕たちは手を叩いて喜び、「また見にこようね」と行って教室に帰る。
 でももう一度見に来た時には、太陽に照らされて乾いた砂は、崩れて形を止めていない。
「壊れちゃったよ」
 嘆く僕たちに先生が言う。
「砂のお城は、簡単に壊れちゃうのよ」

 僕は小学校の五年生。アメリカへ転校していく、仲良しの女の子を見送っている。
「デトロイトへ行っちゃうの。でもお手紙ちょうだいね」
 彼女は振り返り、振り返り、手を振る。その手には、僕が貯金箱を壊して買った熊の縫いぐるみが抱かれている。遠い日の初恋。

 ハイスクールでの交流パーティの夜。白いドレスを着たステラ。僕たちはその夜、いろいろな話をし、一緒に踊った。最後に僕はどきどきしながら「もう一度会ってくれる?」と聞き、彼女は頬を染めて「ええ」と頷いた。そして映画を見に行く約束を取り付けた。初めて二人で見た映画は、ステラの好きな純愛ロマンスだった。僕には決して好きなジャンルではなかったけれど、その時だけは面白く思えた。その後僕たちはファーストフード店に行き、公園を散歩し、アイスクリームを食べた。僕は別れ際に、「また会ってくれる?」と再び聞き、ステラはまた「ええ」と、はにかんで頷いた。三回目のデートの時、僕らは互いの電話番号を教えあった。つきあい始めて三ヶ月後、僕らは初めてのキスを交わした。ステラとの愛は、決して平坦な道ではなかった。二度の断絶。でもそのたびに絆は深まり、ますます深く愛し合うようになっていた。
 バハマの青い海と原色の世界の中で、光と波に戯れるステラがいる。白い帽子を振りながら僕の名を呼ぶ彼女。嬉しそうな微笑みを浮かべて。
「ジャスティーン、見てえ! きれいな貝殻を見付けたの! ほら、こんなに真っ白よ」

 芝生の上に、最初の息子クリスチャンが立っている。クリスはよちよち歩きで、僕とステラの方へ歩いてくる。この子が初めて歩いた時だ。クリスはおぼつかない足取りで、ときどき立ち止まって、ふらふら揺れながら、歩いてくる。小さな手が僕たちに触れた時、僕とステラは同時に子供を抱きしめて叫んでいた。
「よくやったわ、坊や!! うれしいわ!」
「すごいよ、クリス! 本当に頑張ったね!」
 熱帯の植物。真っ白な砂浜。戯れるステラとクリス。二人の髪に反射する太陽の光。
「パパ、あそぼ!!」
 クリスが僕の手をひっぱって笑う。遠い日の夢。

「第七回大会の優勝者は……エントリーNo八番、オンタリオ州の、『AirLace!』」
 勝ち誇ったような司会者の発表に、驚きのあまり、感情も動作も停止してしまった僕。ただただ信じられなかった。いきなり僕たちの目の前に音楽への地平が開けた、あの瞬間。人生の一大転機。

 風景が変化する。七色のライトと観客の歓声の中、ステージに立っている僕たち。あれはフィラデルフィアでの最初のステージ。新世界での野外演奏、マジソン・スクエア・ガーデン、雪の舞いこむドーム、最後のステージになったアイスキャッスル――不安の中にも、いつも喜びにあふれていた時代。

 最後の北米ツアーの時に会った、十六才のエステル。当時ブロードウェイのミュージカルスクールに留学していた彼女は、ニューヨーク公演のバックステージに、エイドリアン・ハミルトンと一緒に遊びに来ていた。いつもはふさふさと垂らしている金髪を大きなポニーテールにまとめ、濃いピンクのリボンを飾っていた。白いレースのブラウスに白い小さな水玉を散らした、リボンと同じ色彩のスカート。まるで人形のように可愛らしかったあの女の子が、きれいな女性に変身しつつある。彼女の輝きを僕は少しまぶしく感じ、一人前の女性になりつつあることを認めたあの日。きれいな笑いを持っている子だった。昔からその響きが好きだった。まるで、金の鈴が鳴っているような。

 エステルの笑い声の響きが消えないうちに浮かび上がったのは、エヴェリーナとアドルファスの姿だ。僕の宝物、二人の幼子たち。廃墟の中で戯れる小さな姿。再び顔を出した太陽の光を浴びて輝く髪。その眼に浮かぶ確固たる表情。大丈夫。この子たちはきっと立派に生きていける。でも僕らが送ったような子供時代も青春も、二人にはないのかもしれない。


 明るい光を感じた。銀色の暖かい光が、一面に降り注いでいる。風景が白くよじれた。足元にも頭の上にも、何もない世界。一面の白い――雪ではなく、氷でもない、暖かなもやに包まれた世界。でも、ここにいると、なんとなくほっとする。
 遠くから誰かが駆けてきた。明るい金色の髪をなびかせて。
「ジャスティーン!」
 彼女は手を振って、僕の名を呼ぶ。ピンクのワンピースを着た、若い娘。
 僕は目を見張り、駆け寄って手を取る。
「エステル!」
「ええ。会いたかったわ!」
 彼女は声を弾ませ、僕を見上げる。
「でも、あたし以上に、あなたに会いたがってる人がいるのよ。あたしは四年待ったけど、彼女は十年近いんですもの。ほら――」
 ゆっくりと別の女性が近付いてくる。金色の髪にサファイア色の目をした女性――彼女は紺色に白い水玉の散ったワンピースを着て、僕に向かって微笑んで手を伸ばす。
「ステラ!!」
「会いたかったわ、ジャスティン」
 彼女は微笑んで僕の手を握る。
「僕もだよ」
 僕は二人の妻たちを見る。二人はお互いに顔を見合わせ、笑った。
「大丈夫よ。あたしたち、仲良しなの」エステルが小さく頷いて笑い、
「ええ。あなたが新しい人生を開いてくれたこと、わたしうれしかったのよ。昔のわたしは、たしかにやきもち焼きだったけれど、今はそうでもないわ」
 ステラが微笑む。そして彼女は手を伸べて、言葉を継いだ。
「わたしが生きている頃、あなたにやきもちを焼いていたのは、あなたを取られたくない思いが強かったからなの。前の人生では、あなたと結ばれることは叶わなかった。でも今やっと、再びめぐり合えた。今度こそ、この人と結ばれたい。その思いが強かったから。もちろん生きている間は、そんなこと意識はしていなかったけれど。そして、その願いは叶ったの。あなたと結婚して、九年も夫婦でいられた。それだけで嬉しいわ」
 意識の底から記憶の井戸を汲み上げるように、忘れていた思いがよみがえってきた。昔――そう、僕がジャスティン・クロード・ローリングスとして生まれる前――まだヨハン・ローゼンシュタイナーだったころ、ドイツで引き裂かれた愛。シルヴィア――塹壕の中で爆弾に直撃されて殺された、僕の婚約者。深く愛し合いながらも結ばれなかった前世を埋め合わせるように、生まれ変わった僕たちは再び巡り会い、夫婦となったのだ。
「前世からの約束なんですもの。あなたたちが深い絆で結ばれているのは、仕方ないのよね」エステルがちょっと笑って、僕たちを見た。屈託のない笑顔だった。
「でも、もう一人忘れちゃダメよ。クリス坊やも来てるの、ほら」
 一人の男の子が駆けてくる。ダークブロンドの髪をなびかせ、頬を紅潮させて。
「クリス!」僕は息子を腕に抱きしめた。
「少し大きくなったな」
 別れた時彼は八才だったが、今は十才くらいの子供になっていた。
「それはパパが、僕が大きくなったって思っているからだよ。それに僕も、もう少し大きくなりたかったから」クリスは笑って答える。
「ここでは、その人が見たい姿に見えるらしいわね」エステルが笑顔で言う。
「だから自分でイメージする姿と、人から見える姿が違うこともあるらしいわ。あたしは死んだ時の意識をそのまま持っているみたいだから、感覚的には二三、四歳くらいね」
「わたしはアイスキャッスルに行く前の自分の意識だから、二十代の後半ね。でもここには鏡がないから、自分の姿を見ることは出来ないの。仮にあったとしても、実体がないから、何も映らないのよ」ステラも微笑んで首を傾げる。
「そうなんだ。じゃあ、今の僕は、どんな姿になってるのかな」
「ラストコンサートのころのあなたに見えるわ、ジャスティン。わたしはどう?」
「君もその頃と変わらないね、ステラ」
「では、わたしとあなたは、それほど意識の上のギャップがないのね」
 ステラが少し嬉しそうに微笑む。
「あたしには、もうちょっと大人に見えるわ、ジャスティン。三十代半ばくらい」
「君と現世で別れたのは、そのくらいだからね。だから君も、そのくらいに見えるよ、エステル。二十代前半――不思議だね。君とステラは十歳以上違うのに、見た目は二、三歳くらいしか変わらない」
「わたしには、エステルちゃんは十代後半に見えるのよ」
 ステラは微笑み、エステルを見やると、言葉を続けていた。
「でも、わたしは妹が出来たみたいで、嬉しいわ」
「ありがとう。あたしも新しいお姉さんができたみたいで嬉しい」
 エステルも微笑んで嬉しそうに言う。
「良かった」僕は妻たちを見、笑った。
「さ、感激の対面がすんだら、行きましょ」
 エステルが僕の腕を取り促した。
「どこへ?」
「みなさん、待ってるのよ」
 ステラも笑みを浮かべて、反対側の腕を取る。あたりは相変わらず白い靄の中だ。その中を僕たちは歩いていく。やがて広い場所に出た。
「あれ!?」
 思わず目をこすった。器材がセットされている。ドラムス、ベース、キーボード。アンプやマイクまで。バンドの仲間たちが、そこで僕を待っていた。みんな、ほぼアイスキャッスルでのラストコンサートの頃と変わらない姿だ。ロビンは薄いオレンジに近いベージュ、ジョージは薄い黄色、ミックは藤色の上衣を着て、濃いグレーのストレートパンツをはいている。僕も気がついたら、衣装が変わっていた。薄い緑のトップスに、濃いグレーのボトムス。
「ロビン、ジョージ、ミック!?」
 僕は懐かしさと驚いたのがごっちゃまぜになって、思わず叫んだ。ジョージはドラムセットのうしろから、にやっと笑い、ミックがキーボードの影から、穏やかに笑いかける。ロビンはベース・アンプにもたれかかって手を振り、「やっと来たね」と笑う。
「ここは、どこだ……?」現実的な問題にたちかえって、僕は聞く。
「ここは……ひょっとして、あの世なのか? 僕は死んだのか?」
「そうだと思うよ」ロビンが笑って頷いている。
 そうなのか。僕は死んだのか――とうとう。様々な感情のせめぎ合いが起きると予感したが、不思議なことに何の感慨も湧かなかった。病に倒れてから一ヶ月の間に、散々悩みつくしてしまったせいだろうか。圧倒的な安らぎの感情に満たされたほかには、何も感じない。
 まわりを見ると、いつのまにか、みんなが集まってきている。エステルとステラ、クリスだけでなく、父と母、ジョアンナ、ジョイス。そしてそして――ああ、僕たち五人の肉親や友たちが、大勢集まってきていた。
「っと、せっかくジャスティンが来たのに、また一人足りない! おーい、エアリィ、早く来い!」ジョージが苦笑してそう呼ぶ。
 広場の真ん中に淡い金色の光があらわれ、そこからエアリィが出現した。いきなり何もないところから出てきたような感じだ。
「あー、間に合った。って、ちょっと遅刻?」
「おまえの遅刻癖は相変わらずだな」ジョージは苦笑を浮かべている。
「もうちょっと落ち着いて、こっちにいればいいものを。アデレードさんやお嬢ちゃんたちや、他にも寂しがってる人が大勢いるぞ」
「無理なんだって。ここは僕本来の居場所じゃないから。あ、ジャスティン来たんだ、やっぱり。あの時、そう長くはかからないだろうなって思ってた」
 エアリィは僕に向き直った。夢で会った時とは違い、髪の毛の長さやウェーブのかかりぐあいも、ラストコンサートの頃に戻っている。青い毛束だけは、頭の両サイドにあるが、服装も白いオーバーシャツにストレートジーンズだ。
「おまえ、こっちと向こうで、格好が違うんだな」僕は思わずそう言った。
「ああ。だってこの姿じゃなきゃ、こっちへ来れないから。地球で生きてた頃の僕。こっちのみんなは、僕の本当の姿は知らないからね。だからみんな、このイメージで見てるわけだし。でもなんか今は、すごく半端な状態だよ、僕は。こっちにきてもそんなに長くいられないし、アクウィーティアの天国にはもう戻れないし、指定席にいても凄くヒマ。周りに誰もいないから。ヴィヴァールさえいない。ただ見てるだけ。ずーと朝から晩まで、テレビ見てる感覚。チャンネルは変えられるけど。ていうか、視点を変える感じだね。楽屋やホテルの部屋でテレビ見てる感じで、この意識のまんまだと、ちょっと単調でやだよ。眠くもなれないし。アイスキャッスルで意識をなくして、目が覚めたら、一瞬、また昔の夢を見てるんだと思った。神殿の広間にいる、て。でも透けてる方の壁には、宇宙空間が広がっちゃってるし、床には『鏡の湖』があって、壁にも大きな鏡があって、そこからみんなの様子が見えてた。あー、ここが御子の繭――指定席かって、わかった時には、すごくがっかりしたんだ。ついにここに来ちゃった、これから四千年ここにいるんだなって。覚悟はしてたけどね。それに本来の姿に戻れば、そう気にならなくなるんだろうし」
「おまえはマジに宇宙人だったんだなって、こっちで知って、本当に驚いたぞ、エアリィ」
 ジョージが苦笑しながら言い、
「うん。僕も。だから、来てくれたって思ったら、本当にすぐ行っちゃうよね。時々は来てくれるけれど、感覚的に一、二時間くらいで戻っちゃう」
 ロビンもちょっと笑いながら、首を振っている。
「宇宙人って言わないで。異星人って言ってくれる? 国が違ったり、人種が違ったりするのと同じようなもんなんだから」
 エアリィは笑ってそう抗議すると、頭を振って軽くため息をつき、言葉を継いだ。
「僕も本当は、もっとここにいたい。みんなはここで仲間がたくさんいて、うらやましいと思うよ。でも、ここは地球人たちの意識が作り出した場所だから、僕は異分子なんだ。だから来ても、そんなに長くいることが出来ない。僕の地球人的意識がつなぎとめていられる割合って、ホント少ないから。でも、もう僕は天国でお休みする時代は卒業したんだから、仕方ないなって。卒業したら、学校に戻れないのと同じように。それで、もうここに来るのは、これが最後だよ。前に来た時、言ったように。僕のこの姿は、本当に一時的な仮の姿だから、意志の力で引っ張っても、もうぎりぎり。本体が強すぎるから。でも本来の姿に戻ると、僕の地球人的要素も消えてしまうから、もうここにはこられない。だから、さよならなんだ。ずっと一緒にいることが出来なくて、ごめんね」
 エアリィは軽く頭を振ってから、まわりを見た。彼の家族、親族、友人たち、そして大勢のファンたちを。
「そうだったな……」みなは感慨深げに頷いている。
「おまえはこの後、どうなるんだ?」僕は問いかけた。
「うん。本来の姿に戻って、指定席で見てる。地球のこれからを。そして四千年後に、もう一度生まれることになるんだ。ヴィヴァールと一緒に。その時になったら、おまえには明かせると思うよ、ジャスティン。僕らが本当に、何のためにここに来たのかが」
「四千年後か……そうか……あの時も、そう言っていたな。その時に、最後の答えもわかるって。でも、四千年か……長いな」
「その中では長く感じると思うけど、過ぎてみればあっという間だよ、四千年なんて」
「二億年から見れば、そうだろうけれどな」僕は軽く肩をすくめた。
「その広大な時間から見れば、人間の一生なんて本当に短いものだな」
「そう。ホントに一晩の夢だよ」
 エアリィは再び髪を振りやりながら、微笑した。
「でもまだみんな、夢の残像が残ってる。そのみんなの夢の残像は、だんだん薄れていって、イメージが消えていって、最後には小さな球になる。それからまた、次の夢が新しく始まるんだ。その期間は、その時によって違うけど。だから、まだイメージの力が残っている間に、ここでやりたいことをやっておいたら。何でも出来るよ。不自由な物体の枷がないから。時間も主観的には、かなり流動的だから。でも、今は地球のほとんどすべての人たちがこっちに移動してきてるから、次に向こうへ行くまでには、長いこと待つ人もいるだろうね。こっちは満杯だけど、向こうには本当に人が少ないから。ここは空間もないところだけど」
「そうなると、あの世っていうのは……ここか……どういう場所なんだろう」
 僕は不思議な気分だった。
「次元を隔てている世界。空間とか時間に左右されない場所。向こう側は物質世界だけれど、ここは精神世界。地球人たちの意識の集合体。うーん、僕もそれくらいしかわからないな。まあとにかく、いろいろまだみんなと話したいけど、もう本当に時間がなさそう。名残惜しいけど、約束の実現、そろそろ実行したいな」
「おっと、そうだったな。ついつい前フリが長くなっちまったが。そのためにここでスタンバイして、ジャスティンを待っていたんだった。さあ、演奏しようぜ」
 ジョージが思い出したように声を上げた。
「僕たちみんなが、元の僕たちでいられる間に、また集まることができて良かったよ。また、五人で演奏できるね。待遠しかったよ」ロビンは目を輝かせている。
「そうだね。何を演ろうか? でも、電源とかは……?」
 僕は戸惑いながら聞く。
「ここは現世じゃないんだよ、ジャスティン。僕たちの意識の世界なんだ。電気のかわりに精神の力がみなぎっている世界なんだよ」ミックが微笑して、首を振っていた。
「それで、なにをやるかっていうとね……」ロビンが微笑みながら言いかけ、
「新曲を作ったんだ、オタワで! それをやってみたい。今演っちゃわないと、永遠に日の目見ないからね」エアリィが笑って続けた。
「そう、以前の作品に負けない傑作だよ」他の三人も頷いている。
「え、新曲かい? でも僕は知らないよ。どんなのだい?」僕は戸惑って尋ねる。
「大丈夫。合わせてりゃ、わかるから。おまえの腕なら、できるだろ、ジャスティン」
 ジョージが指を振って笑い、
「そう。伝わってくるんだ、音のイメージが。それに従って、僕らも練習した。君なら一度だけでも、大丈夫だよ」ミックが微笑んでそう言っている。

 僕はみんなにもっと色々言いたいことがあったが、それを言う前に思念は中断された。突然音楽が、僕たちのいる空間を充たした。なんという音だろう。穏やかなリズム、透明感あふれる、印象的なシンセサイザーの響き――僕の手元に、ギターが出現してきた。それは僕が最初に買った、赤いストラトキャスター――未来世界においてきたものだ。肩からストラップでかけているが、重さは感じない。
 頭の中に、ギターの音が流れてきた。イメージとして――そうか、これが楽譜の代わりなんだ。僕はその音を指に移して弾いた。音が流れ出してくる。
 エアリィは僕をちらっと見、「OK!」と言うように、ちょっと笑った。そして歌い出す。ロック色の強い曲ではあまり使わないが、独特の透明感と響き、浄化力の凝縮された彼の“天使のトーン”は、かつて世界中のリスナーの心を浄化し続けた。そして今、浮き世から離れてしまった分だけ神聖さを増し、性別も年令も超越した、清らかな優しい、しかし力強い声になって響く。不思議な歌だった。メロディは明るく、神聖な響きすらある。そして力強い。激しくも穏やかに躍動し、魂を震わせる。『Neo Renaissance』以上の、強い再生への願いを凝縮し、昇華させている。そこにこめられる思いが、強く激しく胸に迫ってくる。僕は涙を止めることが出来なかった。

 僕らの世界は跡形もなく壊れた
 もう取り戻せない、壊れやすい夢のように
 見渡す限り、不毛の荒野が広がり
 すべての命も、築き上げたものも返ってこない

 二つの世界の狭間に立って
 永遠に続くかのように見える長く冷たい夜の中
 失ったものすべてに思いをはせて
 愛するものや友たちのために嘆く

 でも僕らに何が出来るだろう
 今出来ることは、なんなのだろう
 失ったものは二度と戻ってくることはない
 僕らに出来ることは、また新しく作り直すことだけ

 過去やいとおしい思い出を胸に抱いて
 未来にはまた、何かを得られると信じて
 今、道は壊れてしまったけれど、ここからまた作っていける

 多くの歓声が聞こえてくる。遠くから響く木霊のように。
 ロビンが僕の方にやってきて囁く。
「次は、ギターソロだよ。がんばってね!」
「うん。ギターソロは任せる!」
 エアリィもそう言って、ドラムライザーの前まで下がった。
 僕は感情のありったけをこめてギターを弾く。昔の純粋な情熱が甦ってくるのを感じる。身体が震えるような喜びを。音楽の渦の中で、自分自身が舞い上がっていくような感覚、最初に音楽に出会った時の、あの喜びを。音楽は不思議な一体感であり、コミュニケーションであり、歓びだ。僕は涙の中で、思わず叫んでいた。
「ああ、みんな! 最高だよ! また一緒にやれて、本当に良かった! 嬉しいよ!」
「当然さ!」みんなは声を揃えて答える。
 曲は最後のパートへと向かう。透明な響きと、希望の熱をこめて。
                        
   世界の狭間に立って
   二つの世界を眺めている
   一つは終わったもの、
   もう一つはこれから築いて行くもの

   さようなら、僕らの世界
   もう永遠に失われてしまったもの
   過ちは犯したかもしれないけれど
   誰も責めはしない
 
   こんにちは、新しい世界
   生まれたばかりの幼い国よ
   壊れやすく、それでも力強く
   僕らの流した涙が作ったもの

   新しい世界が上ろうとしている
   伸びろ、そして広がれ、いつまでも
   おまえは僕らの祈りで築かれた、すべての希望
   新世界は昇る、ここから、はてしなく
   そのために、僕らはここに生きてきたのだから

 最後のトーンが消え、それと同時に僕の指も最後のノートを弾いた。僕らの最後の曲が完成した。その中に込められた万感の思い、二つの世界の思いに僕は胸がいっぱいになり、しばらくは何も言葉がなかった。
「ああ……終わった。でも最後にこれがやれてよかった。約束も全部果たせたし」
 エアリィは僕らを見、軽く頭を振ると、ちょっと笑った。アデレードと二人の子供たち――ロザモンドとティアラ。そして妹たち――エステルと十二歳くらいの、もう一人の女の子――たぶんメイベルだろう。いや、こっちが本物のエステルか。少し混乱するが。他にも、たぶんカーディナル・リードさんの子のカーライル君だろう男の子や、アグレイアさん、その他にも彼にゆかりの多くの人々が、近づいてきた。彼はみなに目を向け、笑い、手を伸ばして、慈しむようにアデレードと子供たちに触れた。
「みんな、これで本当に、お別れだね。でもロージィ、前にも言ったように、四千年がたったら、また家族になろう。アデルとティアラと、おまえと僕と、エステルとアール。そしてジャスティンと、あともう一人、僕のとても近しい人。構成と、一部性別も変わるかもしれないけど」
「うん。待ってるね、パミィ」
 ロザモンドが涙ぐみながら頷く。アデレードとティアラ、そしてエステルも。
「オーロラは?」アデレードは、少し気遣わしげにそう聞いていた。
「うん。オーロラは家族じゃないけど、家族同様な人。家族同然な人だよ。ジョージやミック、ロビンとも、結構親しい関係になれると思う」
「僕も、おまえの家族に参加するわけか?」僕はそう聞いた。
「四人揃う必要があるからね。選ばれた四人が」彼は肩をすくめて微笑する。
「そうなのか……」
「うん。だからその時まで、みんなとはお別れだよ。アデル、ロージィ、ティアラ、エステル、メイベル、カーリー、ジャスティン、ロビン、ジョージ、ミック。母さん、継父さん、リード父さん。それにモートン、ネイト、エリック、ジョーダン、メアリ、フィル、ジョン、シルヴィー、ネッド、リック、ローレンスさん、フレイザーさん、ローレンスさんの奥さんのサンディさん、コールマン社長……他にもお別れを言いたい人はたくさんいるけど……まだあっちにいるアラン継兄さんと、アールとオーロラと、それからロブやレオナ、スタッフのみんな、トニーとパティにもお別れが言えなくて残念だけど、地球でこれだけ多くの人たちに出会えた事を、感謝しているよ。みんなにまた会えたらいいな。最後にもう一度、四千年後に……約束の時が来たら」
 フィールドに再びやわらかく淡い、金色の光が満ちてきた。それは彼を取り巻くように包んでいく。その中で、エアリィは両手を胸の前で合わせ、言葉を継いだ。
「地球人は神に選ばれた民だから、これからは果てしない未来が待ってるよ。それは幸せなことなんだと思ってる。九十パーセントは、そう信じてる。でも僕の心の十パーセントは、今でも思っているんだ。本当の幸せって、なんだろうって。地上のパラダイスは、選ばれない民には、叶わない夢なんだろうか。星の民にとっての本当の幸福は、二者択一でしかないんだろうか。そんな思いも感じてしまうんだ。ああ、やっぱり僕は不良起源子なんだろうな。でも、結局僕も、その流れに沿って生きてくしかなかった。現実の重みにも、逆らえなかった。現世でみんなの命を救うこともできなかった。それが地球の定めだったから。後継に選ばれてしまった不幸。でも、みんなの魂は救われてるはずだから、最後には、きっとそれで幸せだったと思ってくれることを祈りたいよ。そう、幸せになれるはずだよ、最後には。僕らアクウィーティア・セレーナの民たちが、そうだったように。僕らの今は、地球の二億年後の未来でもあるから。そのために、僕はここに来たんだから」
 光の中で、彼は姿を変えていった。両サイドの青い毛束はそのまま、残りの髪のウェーブがなくなり、まっすぐに膝の辺りまで伸びて、光と一体化するように包み込んでいく。短く切って降ろされていた前髪も同じようにまっすぐ長く伸びて、センターより少しだけ左に寄った位置から分かれ、両側に流れていく。いつもはほとんど見えない白い額と細く青い眉が見えた。同時に衣装が変わり、表情が変わっていく。光の民の神官長、アルフィアル・アルティスマイン・レフィアス――名前と存在は知っていたが、その姿を見るのは初めてだ。その印象は、紫の幻影、アーヴィルヴァインに似ている。が、あちらが紫と銀なら、彼――いや、彼女は白と金だ。後光のように光る淡いブロンドの長い髪、フードのついた、床まで届く純白のローブ、袖口と襟に金色の縁飾りの入った、かすかに光るその衣装の胸には、金色のマークが入っている。僕らのバンドロゴになっている。スターの中の二つの記号――アーヴィルヴァインの衣装に、銀色で刻まれていたものと同じだ。虹色の光を発する不思議な金の飾りが、羽根のように頭から首の後ろまでとりまき、左手には装飾のある、金色のロッドのようなものを持っていた。
 その人は、静かなまなざしで僕らを見た。その表情に、僕は見覚えがあった。そうだ――僕は一度、彼女に会っている。インドの寺院で――エアリィがトランス状態に落ちた時に出てきた超人格。あの時と同じように、その人はふわりと髪を振りやって微笑した。その笑みも記憶にある。彼の内なるモンスター、そして本来の姿。光の民の神官長――星を統べる人。
 僕は息をのんで立ちつくした。その場にいたみなが、同じように立ちすくんでいる。頭の中に、声が響いてくる。それもまた、聞き覚えのある声だった。
(ありがとう、みなさん。みなさんのおかげで、とても楽しい時間を持つことが出来ました。何名かの方には、また四千年後にお会いできると思います。その時まで、さようなら。その時まで、わたしはいつも見ています。そして最後にみなさんと一つになれる時を、ずっと待っています)
 その人はロッドから手を離すと、あの奇妙な組み方で両手を合わせ、軽く頷くような動作を見せた。それがたぶん、彼らの感謝の仕草なのだろう。手を離しても、その金のロッドは立ったまま、衣装にくっついているようにも見える。彼女は再び手を伸ばして杖を握り、ふわりと微笑んだ。そしてそのロッドを優美な動作で振る。光が渦を巻くようにその周りを包み、そして消えた。同時に、その姿も消えていた。彼は――いや、彼女は帰ったのだろう。本来の姿に戻り、本来の場所に。もう、ここに来ることはない――。
 微かな驚きのざわめきが広がっていった。見ていた大勢の人たちはみな、息をのんでいるようだ。
「パミィって、本物の天使だったの?」
 ロザモンドとティアラが無邪気な口調で声を上げ、
「天使……とは、ちょっと違うのでしょうけれど。でも、近いのでしょうね……」
 アデレードが呆然とした様子で、呟いている。
「いつか見た……ミュージカルのシーンみたいだわ、お兄ちゃん……」
 エステルも息をのんだように、声を絞り出すようしていた。
僕も思い出した。世界崩壊の二年前、アーディスがブロードウェイで主演を勤めたミュージカル、『The Innocent Soul』――主人公のリファエルが、本来の天使に戻る、あのシーンだ。あの時の設定では、彼は天へ帰ったわけだが、本当の彼――彼女はあの時のように光に包まれ、別の次元へ――おそらく僕らよりも高次の世界へと、帰っていったのだろう。
「エアリィの本体って……初めて見た。あれが彼の本来の姿で……彼の中のモンスター、いや、超人格だったんだね。なんだか……次元が違いすぎて……凄すぎるね」
 ロビンも息をのんだように呟いていた。
「マジで俺たちなんかが、太刀打ちできるわけないよなあ、あれは……まるで神様か天使かって代物だ」ジョージはすっかり目を丸くし、驚きの表情を浮かべている。
「光の民……か。未来世界で聞いたね、その話は。彼が知っていたのも、無理はなかったんだ」ミックが息を吐き出すように、低い声で言う。
「一曲だけなんて、あんまりじゃないか、エアリィ」
 思わずそんな言葉が出た。僕は首を振って、続けた。
「本当に次元が違いすぎて、とんでもない奴だったけど、でも、本体はともかくとして、僕らが知っているアーディス・レイン・ローゼンスタイナーは、不思議とそう遠い存在には思われないんだ、僕には。たしかにいろいろな意味で超人だったけど、彼も僕らと同じ人間だった。本質は光の民の、しかも最上位の人でも」
「そうだな、ジャスティン。俺たちは五人だ。いつまでも仲間だ」
 ジョージが言い、僕らはみな深く頷く。
「そう。そして彼は行ってしまったから、ヴォーカルは永久欠番だ。実質は、インストバンドに戻ってしまった感じだね。でも時々は、ジャムっていこう。これからも」
 僕は他の三人を見て笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
「そうだな」彼らはため息をつきながらも微笑み、再び頷く。
「でも、あの最後の曲、あれをロブたちに残せないのが残念だな。僕たちの正真正銘のラストトラックなのに。みんなに聞かせたかったよ」
 僕は首を振った。他の三人は、お互いに顔を見合わせていた。
「聞かせるのは無理だが、できないことはないかもな」
「うん、今なら」
「残すだけなら、可能かもしれないね」
「どういうこと?」
「ジャスティン。おまえ、一回戻れ。それから、もう一回ここへ来ればいい」
 ジョージが手を伸ばし、僕の肩を押した。ロビンとミックも、同じようにする。
「ジャスティン、頼んだよ……」
 僕は再び、虚無の空間を飛んでいた。


 暖かい小さな手が顔を撫でている。やわらかい髪の感触――目を開けると、エヴェリーナとアドルファスの小さな顔が見えた。僕にすがりながら、涙にあふれたつぶらな目で、じっと見ている。
「あっ! パパが、おめめ開けた!」娘がそう叫ぶのが聞こえた。
「なんだって!」
 まわりがざわざわし、いろいろな顔が僕を覗き込む。最初はロブ、それからジョセフ、レオナやアラン、アールとオーロラの顔も見える。
「戻って、きたんだ……」僕は小さく呟いた。
「ジャスティン!」ロブが僕の肩を軽く揺さぶった。
「わかるか、みんなが……?」
 僕は声に出さないまま頷いた。
「信じられない。もう十五分も前に、心臓が止まったのに」医者の声がし、
「心拍が戻ってます……弱いですが」看護婦の声が、そう言っているのが聞こえた。
「帰ってきたんだ……どうしても伝えたいことが……あったから」
 僕は辛うじて声を絞り出した。
「ロブ……紙、ない? 五線紙……七、八枚、いるよ」
「五線紙だって?」
 ロブは怪訝そうな顔をしたが、探して持ってきてくれた。八枚ほどの五線紙をまとめてクリップボードに止め、僕の前に掲げてくれる。手にペンを握らせてもらうと、僕は力を振り絞って右手を上げ、楽譜を五つのパートに分けた。たった一回しか聞いたことはないが、曲は頭の中に鮮明に焼き付いている。すべてのパートがまざまざとよみがえってくる。写実的記憶というのは、こういうものなのだろうか。記憶力には自信のある僕でも、一度聞いただけで、ここまで鮮やかに焼き付けられたことはなかった。もう現世を離れつつある、そのせいだろうか。いや、記録を書いている時も、会話を書こうとすると、その時のシーンが正確に浮かんできた。僕はエアリィとは違って、写実的記憶の持ち主ではないから、それはどこか外から、別のところから来た力なのかもしれない。そんな気がする。 
 一番上は空け、二段目の自分のパートから書き綴っていった。その紙の最後まで行くと、ロブが紙をめくってくれる。ギターパートを書き終わると、ロブは再び紙をくって、最初に戻してくれた。僕は三段目に移った。キーボード。それが終わるとベース、次にドラムス――時々、楽譜の線がダブって見え、正しいノートを書き込むまでにしばらく目を凝らさなければならなかったが、僕はペンを走らせ続けた。苦しさはもう感じないが、力も抜けてしまったようで、書き続けることが、かなり厳しい。でも、書かなければ――。
 ドラムスの最後の音を書き終えると、再び紙も一枚目に戻る。残していた最上段へ。ヴォーカル・パート――今もなお僕の頭の中に響き続けるその調べを、書き綴っていく。音符が終わったら、最後は歌詞――涙が流れだしてきた。僕たちみんなの思いを乗せたあの歌の、一行一句が胸に突きささり、震わせる。楽譜がぼやけ、霞んで見える。
 ようやく最後の句を書き終えた。完成だ――でも、タイトルは? エアリィはなにも言っていなかった。新しい曲としか。
 僕は渾身の力を振り絞って、指から滑り落ちそうになるペンを握りしめ、一番上にタイトルを書き込んだ。『New World Rising』」そう――我ながら、ぴったりだ。
 小さなため息が漏れた。ペンが手から滑り落ちていく。
「これ……僕らの新曲……だよ。向こうで……やってきた……最後の……曲なんだ」
 僕を束の間地上に止めてくれた力が、再び消えていく。でも、その前にもう一度だけ、力を与えたまえ。もう一言だけ、言っておきたい。
「エヴィー……アドル……がんばれ。パパはいつも……おまえたちの思いを……追いかけて……いるから。幸せに……な」
 僕は両手を子供たちの頭の上に置いた。小さな吐息が漏れ、体中の力が消えていく。意識が遠くに吸い込まれ、みんなの声が遠ざかっていく。
「パパ……」
「パパァ、死なないで……やだぁ」
 呼びかける幼子たちの声も、響きを残して、ゆっくりと遠ざかっていく。

 エヴィー、アドル、頑張れ。これからはおまえたちの力で、世界を切り開いていくんだ。僕は遠ざかる声を聞きながら、そう我が子たちに呼びかける。そして消えていく意識の中で、最後の思いをかみしめていた。
 最後の曲、なんとか伝えられたよ。これからまた改めてそっちへ行くからね、みんな。そうしたら、ゆっくりと話そう。みんなと話したいことが、たくさんあるから。僕は今、人生の終わりに直面している。でも、満足だ。安らかで、穏やかで――これ以上ないほど、幸せな気分がしている。世界が壊れて十一年。今、世界は再び昇り始めた。やがてエヴィーが未来の僕たちに、二二年前の僕たちにメッセージを託した時、三百年にわたる時の円環が閉じられ、新世界は確立するのだろう。
 僕は新しい世界の確立を信じて疑わない。僕たちの二二年間は一つの終わりであって、始まりだった。すべてはこれから始まる。でも、思えば不思議なことだ。これから三百年も先の世界に――僕らのはるか子孫たちの国に――昔の僕らが、再びあらわれるなんて。
 新世界よ。おまえの発展を心から願っている。もう一度世界のあるべき姿を取り戻し、繁栄していってほしい。僕らの世界が犯した過ちは繰り返すことなく。平和で自由な、できるだけ幸福な社会を築いてほしい。それは、そんなに無理な注文だろうか。
 誰かこの思いを受け止めてほしい。いや、この時代を生きた僕たちすべての思いを――僕の心にはあの歌が響き続けている。僕らみんなの思いを乗せて。
               
  新しい世界が上ろうとしている
  伸びろ、そして広がれ、いつまでも
  おまえは僕らの祈りで築かれた、すべての希望
  新世界は昇る、ここから、はてしなく
  そのために、僕らはここに生きてきたのだから

★ 第三部 終 ★




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