Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years' Sprint

最後の年





 最後の年が明けた。運命の神よ、この年、あなたが世界にもたらすものは、なんなのだろう。破滅、それとも希望――僕は今まで読んでいた新聞をたたんで、家族の姿を眺めた。大晦日、元旦と続いた地元のスタジアムでのショウを終えた僕たちは、その翌日、恒例の新年パーティ、おそらく最後のそれをロブの家で開いた後、再び合衆国に乗り出す前に、数日間の休息を楽しんでいた。
 平和な夜だった。ステラはソファの上で編み物をし、クリスは絵本を読んでいる。ステラの蜂蜜色の髪とクリスのダークブロンドの巻き毛が、二年前に造った暖炉の火に照らされて、赤みがかった輝きを放っている。二人の足下には、金色の毛のレトリーバーが、気持ちよさそうに眠っていた。
 僕は立ち上がり、窓の外を眺めた。今朝からまた雪が降りはじめている。この冬は雪が多い。白い結晶が間断なく空から舞いおり、真っ白い絨毯を敷きつめたように街を覆っている。その中に、無数の金色の明かりが、遠くまで広がっているのが見えた。この街には多くの人たちが住んでいる。無数のライトは、彼らの生活の証だ。そしてこの広い世界には、はるかにはるかに多くの人たちが、それぞれの日常を営んでいる。
 地球はどこへ行く――新聞にそう書いてあった。環境汚染がかなり深刻になっているという。いくつかの地域は、まだ紛争やトラブルのさなかにある。戦争までにはなるまいと、新聞には書いてはあるが。しかし地球は人類の手で破壊されるのを、おとなしく待ってはいないかもしれない。世界があと少しで終焉を迎えるとしても、それは結局人類の罪――未来世界でゴールドマン博士が言っていたように、人類の自業自得――僕ら全員が犯してきた、罪の結果なのかもしれない。
 そうは言っても、やっぱり遣り切れない思いが残る。それはあくまで大人たちの罪であって、子どもたちに責めはない。なのに大払底の炎は、すべての人類の上に襲いかかる。不公平に思えた。一人の子供の親として、罪なき子供たちを守るための避難場所に彼らを逃がしてやれたら、どんなにいいだろうと。だがアイスキャッスルは子供向きの場所ではない。大人でも苛酷な環境の中で、子供たちは果たして生き残れるだろうか。第一、僕たちのコンサートとなると、子供はまず来ないだろう。僕たち自身の子供たちの他は。悲しいことだった。これほどの不条理はないように思える。大人たちのツケは常に子供たちに行く。環境を破壊し、社会を暴力に染め、未来の国を絶望に変えたのは大人の罪だ。僕たちは子孫たちに、なんと言って謝ったらいいのだろう――。
 そんな遣り切れない考えを断ち切ろうと、僕は新聞を畳んで傍らのサイドテーブルに置いた。そして頭を振りながらカーテンをさっと閉め、息子にゲームを誘いかけた。

 一月の二週目から、再びツアーは続いていった。たぶん最後になるだろうワールドツアーが。一月半ばまで合衆国を回った後、二月上旬まで中南米、二月下旬から五月まではヨーロッパ、六、七月はアジアとオセアニア。僕たちは世界を駆け巡った。
 過ぎていく一日一日が名残惜しい。訪れる街々で、いろいろな国々の、さまざまな風景、人々を見る。できるだけ多く、心のアルバムの中に覚えておくために。僕らの世界を記憶に刻みつけるために。行く先々で五感をはりつめ、目に見えるもの、触れるもの、耳にするもの、味わうもの、すべてを吸収しようとした。いつもステージが終わり、完全に一体化した観客たちと別れる時、もう二度と彼らには会えないし、この街を訪れることもないだろうという切なさが胸に溢れてくる。僕たちは別れを告げなければならない。
『おやすみ。また会おうね!!』
 今までのツアーでは、コンサートが終わった後、エアリィは観客たちに、最後にそう告げていた。でも今度のツアーでは、こんな最後のあいさつに変わっている。
「さよなら。またいつか、会えたらいいね!」
 彼には、また会おうねとは言えなかったのだろう。
(もう二度と会うことはないだろうけれど……)
 鋭い人なら、そんな含みが聞き取れてしまう別れのあいさつだが(実際、ネットなどでその言葉が取り上げられ、解散説や引退説も飛び出しているが)、僕も言葉に出して言わなければならないとしたら、やっぱり同じようにしか言えない。僕は心の中で繰り返す。
 さようなら、情熱的なラテンの国々。活力にあふれた、若者のような国たち。
 さようなら、ヨーロッパ。古き良き伝統に育ぐまれた、文明の母の国たち。
 さようなら、アジア。遠い異国の、大地に生きる人々。
 さようなら、オセアニア。若くおおらかな、南十字星の国。
 さようなら、さようなら、世界。また、いつか会えたらいいね――。
 時は過ぎていく。一日一日、一月一月と。一月、二月、三月――季節は冬から春へ――四月、五月、六月――夏へと変わっていく。もう七月、そして八月になる。なんて時は早く過ぎていくのだろう。夏が終わり、秋が来て、そして去った時――ああ、冬がくる前に、時間が止められたらいいのに。

 八月初め、夏の真っ盛りに、僕らは再び北アメリカへ戻ってきた。最後の全米ツアーがいよいよ始まる。これで十年間に渡る公演旅行が終わる。アメリカには、これまで何回ツアーに行っただろうか。あの初めてのツアー、十一年前の秋、あるビッグネーム○○(四年ほど前に解散したが)のサポートアクトとして、初めてアメリカをサーキットしていた時から。あの時、僕たちは文字通り天地が引っ繰り返るような経験をし、それ以来、心の中に潜む恐怖と戦い続けていた。そしてバンドは、まるでなにかに憑かれたような勢いで、天まで届くような大成功を収めた。
 十一年前のあの時から――僕らがサポートアクトとして同行したツアーが六回、ヘッドライナーで回るのは、今回で十回目。全部で一六回、僕たちはアメリカの地を踏んできた。そのたびに情勢は変わり、大いなる上昇気流にのって、僕たちは前人未到の高処に舞い上がっていった。でも、それも今回で終わる。もしあの運命が本当だとしたら、きっと永遠に取り戻せない日々――それも本当に残り少ない。残された日々を、身体一杯に吸収しなければ。今までのツアーで世界各地に別れを告げてきた。今度は僕たちの母なる大地、母国カナダ、そして第二の故国ともいえるアメリカ。この馴染み深い世界に、別れを告げなくてはならない。
 訪れるどの街も、この上なく貴重なものに思われた。僕たちは混乱と多少の危険を覚悟して、できるだけ外に出た。人々の姿を見、街を見、出来るだけ多くの人と話すために。一つの街でコンサートが終わるたびに、ステージの上で満足感と悲しさと淋しさが入り交じったような思いをかみしめる。まるで古くからの友達と会い、もう二度と会えないことを知りながら別れる。そんな気分だ。僕らは別れを告げていく。
『さよなら。またいつか、会えたらいいね』と。

 ツアーの中盤、デトロイトでのコンサート前に、ジョージが感慨深げに言いだした。
「『Neo Renaissance』も、あっさりダイアモンドアルバムか。本当にとんでもないな。アルバム七枚トータルの売り上げが、世界で三億五千万を突破したんだぜ。ライヴやベストを入れたら、四億だ。CD媒体だけでだぜ。まったく、とんでもなく天文学的な数字だな。おまけにDVDとブルーレイがライヴ四枚とPV集で軽く二億以上って、マジDVDの数字かよ、て感じだな」
「まったくね。おまけにツアーをやるたびに動員記録を塗り替えているし。ソールドアウト記録も八年前からまだ更新中だよ」ミックが頷いた。
「こんなに母集団が多いのに、アイスキャッスルにたった八千人しか来れないというのは、惜しいと言えば、惜しいな」ジョージは首を振り、
「アイスキャッスルのキャパ的には、どうしてもそれ以上は来られないからね。シェルターを開放しても……でも長い目で見れば、あまり人数が多いと、食料もあるし、維持が大変だと思うから、最大限八千人は、妥当な線かもしれないと思うよ」
 ミックは少し考えこむような表情だった。
「うん……たしかにね。で、第一にアイスキャッスルでコンサートをやるってことに、どういう理由付けするか、考えなきゃいけないなって思う。北米第二レグの一環でアイスキャッスル、って、思い切り唐突じゃない? 元の住民もいないし。しかも超オフシーズンだし」エアリィはちょっと首を振り、肩をすくめる。
「まあな。それはたしかにな……」僕は苦笑した。
「でも、いくら辺地だからって言っても、八千人の物好きくらいは来るだろうとは思うけどな。結構僕らのファンって、熱心だから……」
 でもあんな特殊な場所でやるからには、やっぱり理由付けが必要だろう。何かメモリアルな――ある考えが頭の中をよぎっていったが、それを口に出すのは少しためらわれた。僕が言い淀んでいるうちに、エアリィが僕の思っていた言葉を引き取るように言った。
「理由は必要じゃないかな、やっぱ。あんなド辺地でやるからには、それなりの……たとえば解散コンサートとか」
「そうなんだ! 僕も実はさっきそう思ったんだけれど、そこで言っちゃっていいか、ちょっとためらってたんだ」僕は思わず膝を叩いて頷いた。
「解散か。やっぱり、そこへ持って行くしかないんだな」
 ジョージがため息をつき、ロビンとミックも頷く。
 それは今度のアルバムが完成した時点から、僕ら全員がある程度悟り、覚悟していたことだったかもしれない。エアレースとしての、最高到達点に来てしまった。もうここから先に進歩はない。たとえ世界が続いても、ここでバンドに終止符を打つべき時が来たのだ、と。

 決断はすぐに行われた。十一月二日、運命の日のアイスキャッスルでのコンサートを最後に、AirLaceは解散する。たしかに騒ぎにはなるかもしれないが、レーベルとの契約もちょうど切れる時機だから、そんなにまわりに迷惑はかけないですむだろう。というより、そのために『Polaris』リリース後に再びレーベルとの契約更新をする時、アルバム複数枚契約ではなく、一枚ごととしたのだから。
 すぐに具体的な準備を始める必要があった。時間は残り少ない。ジョージとロビンは父親に電話してアイスキャッスルにスケジュールを入れ、特別に臨時営業をしてくれるよう計らってもらった。長い間財閥に君臨してきたお祖父さんは昨年の夏に、アイスキャッスルのオープンを見届けるのを待っていたように、急な病気で亡くなったので、現在は父親が実質上、スタンフォード財閥とアイスキャッスルの責任者なのだ。今までに入ってきた天文学的なお金の中からいくらかを出しあって、これもまたスタンフォードグループ経由で、極秘裡に二百万食以上の非常食を買い入れ、生活備品、衛生用品、固形燃料もアイスキャッスルの倉庫に入るかぎり追加し、さらにシェルター部でもある程度快適な生活が送れるよう、調度やベッドマット、寝具なども購入し、アイスキャッスルの施設の中に設置してもらった。
 十月に入るとすぐに、ロブはマネージメントとレーベルとの事務処理のためにトロントへ帰り、替わりのツアーマネージャーが来た。
 発表の場所とタイミングというのも問題だ。全米ツアー中に発表すると、まだ消化していないコンサートが、非常に騒がしくなりすぎてしまうだろう。できればツアーが終わるまでは公表したくない。十月十三日から三日間、地元トロントのスタジアムでのコンサートで、アメリカ/カナダツアーの全行程が終わる。その三日目のラストに、僕たちは発表を行うことに決めた。期間はかなり短いが、ネットでエントリーを取って、チケットを発行するだけなら十分だ。その間、僕たちは残った期間を自分の時間として過ごせる。もっとも今の状態に解散騒動まで加わったのでは、おいそれと外には行けそうもないが。
「とりあえず十五日に、オフィシャルサイトに告知しよう。コンサートでも宣言してね。それから世界の主要な音楽雑誌に僕らの声明文を載せてもらって……」
 ミックがそう言いかけ、
「活字媒体は、遅すぎるんじゃない? 早くても公演日ぎりぎりくらいの発売になるだろうから。ネットオンリーじゃないと、今回は間に合わないよ」と、エアリィは首を振る。
「まあ、それはそうだね。でも一応紙媒体にもニュースは流しておかないと、不自然だよ。チケット発売は、完全にネット頼みになるのは、しかたがないけれど」
「まあ、もともとほとんど今はネットでとるのが普通じゃない、チケット。けど、さすがに時間が短すぎるよ、やっぱり。それにさ、十一月二日って、ど平日だよ。火曜日。二週間前告知じゃ、急に休みを取るのも大変だろうし。絶対、文句来そう」
「それは覚悟しないとね。でも、この場合仕方がないよ」
「そうだな……」二人のやり取りに、僕も頷いた。ジョージとロビンも同意している。なにぶん、本当の理由を明かすことができないだけに、どう転んでも、唐突な印象になってしまうのは、仕方がないのだろう。もし、その日が無事に過ぎたら、いくらでも言い訳なり対策なりを、考えたらいい。
「しかし、エアレースもいよいよ終わりになるのか。なんだかそう思うと、寂しいぜ」
 ジョージが嘆息しながら、声を上げた。それはたぶん全員の思いだ。
「仮に世界の終わりが間違いだったとしたら、僕はきっと一年くらいは抜け殻状態で、ぼーっとしているだろうな」
 思わずそう言うと、ジョージ、ミック、ロビンも頷いて苦笑する。「同感だよ」と。
「しばらく牧場に戻る元気もなさそうだなあ。でもきっと、そのうちにやる気は出るだろうさ。俺は牧場、ロビンは小説、ミックは大学院と。ジャスティンは、業界に残るのか?」
 ジョージにきかれて、僕はしばし考え込んだ。
「いや、わからないよ。立ち直ってからじゃないと。でも、たぶんもう現役にはならないだろうな。エアレースの再結成なんていうんじゃない限り」
「あっ、同感だ」と、またしても三人が頷く。
「えー、結局リユニオン考えてるの? 解散の意味なくない?」
 エアリィは笑って僕らを見、ちょっと肩をすくめた。
「それだけ僕らは、このバンドが自分の音楽基盤になりすぎているんだろうな。おまえは、他にもあるんだろうが……エアレースが解散したら、おまえはやっぱりアクアリアに戻るんだろ?」僕は思わず苦笑した。
「いや、実際戻れないと思う、もう」彼は少し悲しげな口調になり、首を振る。
「可能ならまたやりたいって、エアレースで活動再開する時、シルヴィーたちには言ったけど。それにアクアリアでアルバム作ってる時、あっ、これ三部作にしたら面白いかもって。Birthから始まって、Terminateで終わる。真ん中の奴のタイトルはまだ決めてなかったけど。そう思って、彼らはぜひ完成させようって、すごく乗り気だったけど。僕らにはリミットがあるから無理だ。幻の三部作は絶対完成しないで終わるだろうね。だけど、それで良いのかもしれない。誕生だけがあって、隆盛や終局はないっていうほうが」
「エアリィ、今から悲観的にならないでくれよ! まるで決まり切ったみたいに言うなよ。おまえらしくもない」
 ジョージが苦笑して抗議していたが、僕も同感だった。
「悲観的になってるわけじゃないけど、僕には他の選択肢は考えられないんだ。この世界が続いていけたら……本当に、その願いが叶えられるならって、どんなに願っても、それはありえないって。だから、もうホントに残り少ない日々が……惜しい。大切に過ごさなきゃ。怖いけど、でも、怖がって過ごしたくはないんだ。もったいないから」
 エアリィは両手を組み、頭を振った。決然とした口調だった。
 それは冷厳とした事実なのだろう。僕も思わず、背筋に寒気を感じた。僕らはみな、未来を遮るこの大きな壁のことを、意識の底でずっと感じ続けていたのだと思う。この世界は、やがて滅びゆく世界なのだ。そこにいる大勢の人たちもみな。そして今、まさに夕暮れを迎えつつある。それはわかっている。しかし心の奥底では、同時に希望も持っていた。もしかしたら、間違いなのではないか。未来のヴィジョンは、本当に幻なのかもしれない。不確定な――そんな思いも、心の片隅に持ってしまう。だから時々、世界が終わりにならなかったら、それからどうするだろう――そんな考えを追ってしまうのだ。でもエアリィだけは、この希望的観測をまったく持っていないように思える。それが、少し不思議に思えた。彼は本来、僕らの中では一番楽観的でポジティヴなのに、なぜこの問題だけは、一種の宿命論者になってしまうのだろうと。
 僕らは今、その大きな断層の淵まで近づいてきている。僕らを強くしてくれる神の恵み――音楽、友情、愛、家族。でも、その音楽の恩恵を享受できるのは、これが最後かもしれない。繁栄と腐敗のこの世界の象徴のような、現代のアメリカの姿を見るのも、これで最後になるのだろうか。グランド・カウントダウンが終わり、審判の日が来た時、この世界は一陣の嵐とともに消え去ってしまうのか――ああ、何という恐怖だろう。
 噛みしめるように過ごしている一日一日が過ぎていくにつれ、その思いは増幅されていく。八月、九月、十月――答えが出るまでに待つ時間は、どんどん短くなっていく。
 アメリカでの最終公演地ニューヨークを発つ時、僕は振り返って、もう一度この大都会の景色を眺めた。もうこの姿を見るのは、これが最後か? それともこのまま残ってくれるのか? 三百年後のニューヨークはもう海の中で、そのかわり今のフィラデルフィアの北百数十キロのあたりに建てられたあの町――わずか一万人足らずの人たちが住む、コンピュータ・シティになるのだろうか。わからない。僕は運命を試すことが出来ないから。さようなら、ビッグ・シティ、ニューヨーク。いつかまた会えるだろうか――?
 大いなる熱狂の中でツアーは終盤を迎えた。僕たちのキャリアも、いよいよ最後の大詰めを迎えようとしていた。

 ワールドツアーの最後、トロントでのコンサート三日目の朝、オフィシャルサイトを通じて、バンドの解散が宣言された。コンサートの最後でも、同じ宣言を繰り返した。不意打ちの宣言に、ファンたちは驚いたに違いない。僕たちに見える反響は、非常に重く、滅多につながらなくなったオフィシャルサイトへのアクセスと、会場入りした時、周りに普段のたぶん十倍以上もの人が来ていたくらいだが、全体にざわざわした空気は感じられた。
 でも、ファンたちにも、ある程度覚悟は出来ていたのかもしれない。アクアリア以降、ネットでは常にエアレース解散説が飛び交っていたというから、すでにその可能性を視野に置いていたのだろうか。さらに、『Neo Renaissance』アルバムが、これが最高点で終局だという認識を、僕らと同じように、ファンたちにも与えていたのかもしれない。そのせいだろうか、幸いにも恐れていたような大混乱は起きなかった。コンサート会場では、やめないでくれという熱烈コールは起きたが、彼らは最後には、わかってくれたようだ。そして、みんな一斉に言ってくれた。
「また再結成して。いつまでも、待っているから!」と。
「今までありがとう、本当に!」僕らも繰り返した。
「今まで応援してきてくれて、本当にありがとう」と。
 それしか僕らには、返す言葉がなかった。
 解散宣言と同時に、僕らは声明を発表した。フェアウェル・ツアーはやらない。一回だけ、追加公演をする。十一月二日、アイスキャッスル。それが、エアレースとして最後のコンサートになると。

 マネージメント側には解散を決めた時、すでにロブを通じて話をしていたが、宣言を出す前日、改めてマネージメント会社を訪問し、コールマン社長やお世話になった多くの人たちにお詫びをした。三枚目のアルバムの制作前にお世話になったインストラクターたちにも連絡を付けて、話をした。
「仕方がないね。しかし君たちは、またきっと戻ってくると、私は信じているよ。君たちに音楽は捨てられまい」コールマン社長は、静かに頷いていた。
 そして社長は最後のコンサートを見届けるためにアイスキャッスルまで来てくれるが、マネージメント会社の他のスタッフは、アイスキャッスルに行けない人たちの救済措置として企画したライヴビューイングやストリーミングの管理をするために、トロントへ残らなければならない。インストラクターたちも、フレイザーさんはニューヨークでミュージカルが入っていて現場を離れられず、他の三人も多忙で、コンサート会場まで足を運ぶことはできないという。ローレンスさんも今は遠い異国にいて、連絡もつかない状態だ。彼らもみな、一緒に来てくれたら――でも本当の理由を言えない以上、無理強いは出来なかった。

 僕らは最後の二週間を過ごすために、再び家族のもとへ帰っていった。ステラも突然の解散騒動に驚いていたようだが、僕がわけを話すと(本当のわけではなく、一般にも公表した表向きのわけだが)、妻は心から理解し、その決断を喜んでくれたようだった。
「ちょっとびっくりしたけれど、ジャスティン。去年の暮れにそんな話をした時には、まさかこんなに早く現実になるなんて、思わなかったんですもの」
 ステラは微笑みを浮かべて、僕を見た。
「でもね、わたし正直言って、少しほっとしてるのよ。いろいろな意味で」
「本当に今まで長いこと僕のわがままにつきあってくれて、ありがとう。君には、いつも淋しい思いばかりさせてきたんじゃないかな。ごめんよ。これからは、当分君のそばにいるよ」僕は妻に微笑みかけた。
「これからのことは……そうだな、アイスキャッスルのコンサートが終わったら、ゆっくり考えるよ。今はなんだか頭の中が真っ白になったみたいな気分なんだ。本当に、何も考えられないよ」
「ゆっくり疲れを取ったらいいわ。まだ先は長いのですもの。あなたもまだ二八才ですものね。でも、しばらくはわたしたちと一緒にいてね」
「ああ。いるよ」僕は妻を抱き寄せた。
「でもアイスキャッスルのコンサートには、ぜひ君にも来てほしいんだ。他のみんなの家族も来るから。僕は君に、僕の当面最後の晴れ姿を見てほしいんだよ。最愛の妻と最愛の息子にね」
「ええ、もちろんよ。わたし、あそこは興味があったの。夏のほうが良かったけれど、でも、良い機会だわ」ステラは少し笑って、頷いてくれた。

 翌日僕は実家へ出向き、アイスキャッスルでのラストコンサートにきてくれるように頼んだ。だが父はそんなに遠くまで、しかも寒いところに見に行く暇はないと、無情にも断る。この反応はある程度予期していたが、この選択は彼らが考えるより、はるかに重いかもしれない、そう告げることのできない自分がもどかしい。
 ジョセフはあまり乗り気ではなさそうだったが、僕が是非にと頼むと承知してくれた。
「じゃあ、せっかく弟の一世一代の晴れ舞台だ。ちょっと遠いし、今の時期は本当に寒そうだが、しっかり防寒して、見に行ってやるか。アイスキャッスルにもおまえたちにも、興味はあるからな。僕はおまえたちのコンサートは、観たことがないんだ。ずいぶん話題になっているようだが。本当を言えば、CDは愛聴しているんだよ。特に最近の二枚が」
「本当? じゃあ、絶対に生で聴きにきてよ!」僕は思わずそう叫んだ。
 ジョアンナも下の子供と一緒に来てくれるという。でも、上の子供は学校があるから駄目だ。僕らの熱心なファンだという、姉の義理の姪グラディスとルースも、学校があるからということで、許可は下りなかったようだ。そのかわり学校が終わったら、スタジアムで行われるライヴビューイングを見に行くという。僕らに熱を上げすぎると、一時CDを隠したという母親――ジョアンナの義姉も、娘たちと一緒に会場に行くらしい。
 そしてエイヴリー師は、こんなメッセージを届けてよこした。
【私の好みでもないし、宗教的同義にも反するから行かないが、君たちの音楽活動は結局意味があったと、私は認めている。私は君たちの英断を好ましく思う。これからは、さらにもっと神の道に近付くように祈っている】
 姉の同行にも義兄の追認にも勇気づけられた。おおいなる味方を得たような気分だ。
 ジョアンナは微笑んで、僕に言ってくれた。
「あなたのことをずっとわたし、応援していたのよ。ロバートの手前もあるから、そう大っぴらにはできなかったけれど。大丈夫、あなたたちの音楽は、神への冒涜ではないわ。わたしが保証するし、今はロバートも認めているわ」

 母はジョイスのことでいっぱいで、今は家を離れられないという。ジョイスは初めてのお産のために、里帰りしているのだ。なんという偶然の悪戯だろうか。きっと彼女は真っ先にきてくれたに違いないのに、初めての子供が生まれるので、昨日病院に入院したばかり。これでは、来るのは不可能だ。
 母になる期待と喜びを身体中にあふれさせながら、幸せそうにはしゃいでいる妹の姿を見ていると、やりきれない思いがする。もしあの運命が本当になってしまったら、彼女を救えないのだから。いつも僕を慕い、僕の後をついて回っていた妹。兄弟の中で最も親しく、仲の良かった妹。家族の誰よりも僕を理解し、僕の夢を叶えるために自らの結婚さえ決めてしまった妹に、僕は何もしてやれないなんて。

 一般のファンたちは幸いなことに、どうしても行きたいと希望する人が多くいたようだ。条件は非常に厳しかったにもかかわらず。チケット代は普段と同じだが、アイスキャッスルへ行くには、飛行機代やホテル代もかかる。さらに当日は火曜日。当日移動でも二日、前日なら三日、学校や仕事を休まなくてはならない。いや、飛行機はトロント発着だが、応募者の地域は限定せずに募集するので、地元の人以外は、まずここまで来ることが必要だ。そのためにかかる日数や費用も、遠方からならかなりのものになるだろう。
 チケット販売はチケット仲介業者を介さず、すべてマネージメント会社で直接販売という形式を取った。解散宣言を出したのが十月十五日。翌日、最後のアイスキャッスル公演の告知を出し、十月十九日、十時から十二時までの二時間だけ、オフィシャルサイトを通じて、申し込みを受け付けた。そこから抽選となる。そんな慌しい、そして難しい時期の公演でも、最終コンサートという重みがファンたちの熱意に火をつけたようで、二時間の間にネットから受け付けたエントリーは、百万を超えた。サイトは極端に重くなり、ずっとアクセスを続けたけれど、つながらなかったという人も、かなりいたようだ。
 その日の午後から翌日にかけて、そのエントリーから抽選し、当選した人にのみ、二十日の夜に通知する。当選した人は翌日から三日間で改めてエントリーしてもらい、チケット代と往復の飛行機代、ホテル一泊、もしくは二泊の代金を、クレジットカードが使える人はそれで、そうでない人は銀行振り込みか国際為替で払い込んでもらい(シェルター部利用の人は、ホテル料金は半額だ)、二四日までに手続きを完了させた人に、チケットを発行する。時間がないので、Eチケット――ネットからのダウンロード限定だ。手続きが期日までに完了しない場合はキャンセルとみなして、二次応募をかけるつもりだったが、キャンセルは出なかった。数枚、オークションサイトに出ていたらしいが。
 アイスキャッスルへ行く八千人。それは、彼らが考えている以上に、重い意味合いを持つだろう。百万人の中から選び出した八千人。それは抽選を行うマネージメント側が考えている以上に、重い選択だ。あそこは陸の孤島なので、チケットを買わない人は飛行機には乗れず(今の季節のアイスキャッスル行きは、全便チャーターだ)当然会場にも行けない。来てくれるという人たち全部が一緒に行けたら、どんなに良かっただろう。
 今回は全スタッフとクルーに、それぞれ三枚ずつ招待チケットを渡した。これで最後だから、呼びたい人を連れてきてくれと。そしてコンサートが無事に終わったら全員で、招待者も含めて、翌日はパーティをする予定だった。でも、コンサートの翌日――その日は来るのだろうか。時間はいやおうなしに流れるから、その日自体は来るのだろう。でも、そのころの世界はどうなっているのか、パーティなど出来る状態になっているのか。わからない。でもたとえほんの微かであっても、先の希望は持っていたかった。たとえ気休めに過ぎないとしても。
 アイスキャッスルのチケットは無事発行できたが、抽選に漏れた人、エントリーできなかった人、そして学校や仕事の関係でどうしても行けない人たちの救済のために、僕たちはアイスキャッスルのコンサート告知と同時に、オフィシャルサイトを通じてライヴストリーミングを配信し、さらに急遽押さえられたいくつかの会場で、ライヴビューイングを行うとも発表していた。最後のコンサートは、次の春までにDVD化するとも告知した。最後のものは、本当に実現できるかどうかはわからないが。運命の日から先の予定は、まだ完全に霧の中だ。

 とうとう十一月最初の日が訪れた。午前中、三日前に赤ん坊を生んだばかりのジョイスのお見舞いに行き、気が変わったら来てよと両親に言って、実家に二枚のチケットを置いてきている。愛犬パービーも実家に預けてきた。
(また、帰ってきますよね?)
 僕の手をぺろぺろ舐めながら、もの言わぬ無邪気な瞳が、そう問いかけている。
 僕は犬の頭を撫でながら声をかけた。
「すぐ帰ってくるから、いい子にしているんだよ」
 だが、その言葉は真実だろうか? それとも、破らなければならない約束なんだろうか? この一年半、家族の一員となってきたペットと別れなければならないのはつらいけれど、それは他のメンバーも同じだ。エアリィのところのミックス犬、トリクスター。ラグドールのライカ。ジョージのところにいる、ジャーマンシェパードのグレイガルフとレックス。そしてたくさんの牧場の動物たち。ロビンが飼っているアビシニアンのミア、ミックの家にいる二匹のジャパニーズ・ボプテイル、タマとミカ――みんな、どういう思いで別れを告げてきたのだろうか。罪もない動物たちに対しても払底の炎が襲いかかってくるかもしれないというのは、ひどく理不尽に思える。そして、もしあの運命が本当になるとしたら、僕たち人間が、再びペットたちと家族として暮らせるようになるには、いったいどのくらいの年月がかかるのだろうか――?

 空港で他のメンバーたちに合流した。みんな奥さん子供同伴なので、自分の車でここまで来ている。スタッフや施設関係者たちを乗せた便は朝の七時に出発しているが、僕たちの乗る便は十時発、現地到着は二時前後の予定だ。それから四十五分おきに十便の飛行機が飛び、三千人強の観客を乗せてくる。翌日は朝の六時から二十分間隔の離陸となり、午前十一時まで十六便で、残りの五千人あまりの観客を輸送する。すべて臨時便なので、メインの国際空港からでなく、ローカル空港からの発着だ。それゆえ、飛行機も輸送定員三百人程度の大きさがせいぜいなので、八千人を移動させるには、このくらいの飛行スケジュールが必要なのだ。ジョアンナとその息子は今日午後一時の便で、ジョセフは明日八時の便で来ると言っていた。
 僕たちは飛行機に乗り込んだ。座席はプレミアムクラスなので、一般席から離れているが、観客たちの一番早い便も、この飛行機だ。
 タラップが外され、飛行機はゆっくりと動き出した。長い滑走路を走り、ふっと浮き上がる。離陸だ。僕の目の下で、街がゆっくりと小さくなっていく。
 さようなら、トロント。僕の生まれ育った街。二八年と七カ月半の今までの人生と共にあり、僕の夢も希望も育んだ街。さまざまな思いが胸の中を去来する。苦い思い出など数えるくらいしかなかった、僕のある意味では恵まれた人生も、この街と一緒に去ってしまうのだろうか。心を巡るただ一つの思い。ここへ戻ってくるのは、いつだろう? 予定通り三日後か、それともずっと先か――もう、これで最後なのか。
 世界よ、おまえはいったいどうなるのだろう。十一年前に知らされたその運命の日が、いよいよ明日訪れる。すべての答えが、明日出る。
 怖い! 再び芯から震えるような、凍りつく恐怖が襲ってきた。身体の震えを止めようとして手をぎゅっと握り締め、窓ガラスに押しつけた。窓の下に街は遠ざかり、緑の大地が広がっていく。
 母なる地球よ。愚かな僕たち人間を許し、出来たらあの未来世界が、ただの幻想に終わりますように。今も地球を破壊しつつある僕たち人間もいつか目覚めて、もう一度今の世界でやり直せますように。そんな願いを――たぶん叶わぬ願いを、祈らずにはいられなかった。でも、それは本当に叶わぬ願いだろうか。それとも、叶ってはならない祈りだろうか。僕ら人類は、科学と文明という名の諸刃の剣を、暴走させてしまったのかもしれない。道を踏み外してしまったのは、何時からなのだろうか。やり直すのには、もう遅すぎるのだろうか。一見平和で繁栄した世界が、その内には多くの破滅へとつながる危険な種子を含んだ世界が、運命の一撃で消えてしまうということが、本当にありえるのだろうか――。

 世界はいつもの姿で動いている。飛行機は北へと向かい、前の座席では、ステラの隣に座ったクリスが窓に顔をくっつけるようにして、外を見つめている。座席は二列なので、家族の数が偶数である他の四人と違い、僕らは一人余る。それゆえステラとクリスは前の座席に並んで座り、僕はその後ろに一人で座っていた。クリスは僕を振り返り、にこっと笑って小さく手を振ると、再び窓の外を見つめている。その瞳は純粋な好奇心に輝き、未来に対して一点の曇りも不安の色も感じられない。僕は息子に笑って頷きながら、再び祈らずにはいられなかった。十一年前に祈ったあの祈りを、さらに強い思いをこめて。

 神よ、この小さな命たちをお救いください
 世界の全ての生きとし生けるものに
 恵みと哀れみをたまわらんことを

 空は神の座に、より近いように思える。僕は我が子のために、愛する人たちのために、世界のために祈る。その祈りが届かなくとも、叶わなくとも、それが僕にできる唯一のことだから。
 遠ざかる故郷を見下ろしながら、僕は繰り返し繰り返し、声に出さない祈りを続けていた。僕たち愚かな人間たちをお許しください。どうか世界が救われますようにと。

★ 第二部 終 ★




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