Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

九年目(2)




 再びトロントへ戻ってきた時は、春の盛りだった。五月上旬に僕は招きを受けて、ジョージの牧場に家族連れで遊びに行った。
 セントキャサリンズの郊外にあるこの牧場は、ジョージの話では十四エーカーほどの広さで、三エーカーの小麦畑と、十エーカー弱の牧草地があるという。牧場には鶏が約六十羽と牛が十五頭、そして馬が三頭いる。ジョージもパメラも牧場経営には全くの素人なので、スタンフォード兄弟の母方の従兄に当たるジェームズ・バートランドがアドバイザーとして定期的に訪れ、あとはその人の紹介できている住み込みの管理員が二人(母屋に隣接した小さな家が、彼らの住居らしい)と、通いの作業員三人で運営されているという。
 クリスは牧場の門をくぐると、その広さに歓声を上げ、ついで初めて間近に見る牛や馬に、目を丸くして見入っていた。母屋からプリシラとジョーイが出てきて息子を歓迎してくれ、ジョーイが、「ね、ね、鶏の卵拾いにいこ!」と、クリスの手を引っ張って、三人でどこかに駆け去っていった。
「子供には、ここ全体が良い遊び場なのよ」パメラはにっこり笑っていた。
「良いですね、本当に。こんなに広々とした場所で、たくさんの動物たちと一緒に暮らすなんて」ステラは感嘆したような口調で声を上げていた。
「おまえたちも農場をやってみたらどうだ、ジャスティン。面白いぞ。気持ちも豊かになるしな」ジョージは愉快そうな笑みを浮かべている。
「悪くないけれど、一生の仕事にしていくには、ちょっと考えるな。本気で経営するのは難しそうだし、僕は農場のことなんて、なにも知らないから」
「俺だって、似たようなものさ。従兄のジムなんぞ、はっきり言ったぜ。おまえのはお遊びだって。最初からそれだけで暮らしていかなくとも良い気楽さがあるから、のんきなことを言っていられる。現実は大変なんだぞ、とな。俺は、まあそうだろうな、と言ったよ。たいして腹も立たなかったな。だって、本当のことなんだからな。たしかに俺のは、大きな道楽かもしれない。じいちゃんの会社にかかわらなくたって、俺にはAirLaceという基盤があって、もう一生金には困らない。そのおかげで、これだけ壮大な道楽を楽しめるってことさ。それでも良いじゃないかと思っているよ。逆にそういう結構な身分だからこそ、採算なんて度外視して、好きなようにやっているんだ。牛も馬も放牧して、新鮮な牧草を腹いっぱい食べさせてやる。飼料だって、全部有機栽培の天然もので、合成飼料なんて、これっぽっちも使わないぜ。鶏だって雄鶏も混ぜて、平飼いにしているんだ。だから卵もミルクも、とびっきりうまいものができるぜ」
 ジョージは立ちあがると台所へ行き、やがて大きなガラスのジャーを右手に、いくつかのカップを左手に持って戻ってきた。
「ほら、これは今朝絞ったばかりのミルクだ。飲んでみろよ。上手いぞ!」
 彼は泡立つ牛乳をカップに入れて勧めてくれた。たしかにおいしい。妙な油っぽさも苦さも匂いも何一つなく、さらっとしたのどこしに、かすかな甘さが残る。
「バターも自家製よ。バターメイカーを入れて、作っているの。ひと味違うでしょう?」
 パメラもにこにこしながら、パンとバターを振る舞ってくれた。バターもふうわりとして、舌の上で自然にほぐれてとろけるようだ。
「良いな、この牛乳とバター」
「本当。家でも食べたいわ、こういうの」
 ステラと僕が声を上げると、パメラはにこりと笑った。
「お譲りするわ、良かったら。バンドの活動が始まっても、この牧場はバートランドさんと雇い人たちとで運営されるから、ずっと牛乳とバターと玉子は出荷するつもりなのよ」
「いいんですか? じゃあ、買います。売ってください」僕は思わず身を乗り出し、
「あら、じゃあ、お客様第一号ね」と、パメラは弾んだ声を出す。
「小麦が取れる頃になったら製粉所と工房を建てて、パンも作るつもりなんだぜ」
 ジョージは満足そうに笑って、そう付け加えていた。
 やがて戻ってきた子供たちも交えて、ランチタイムになった。近所で売っている手作りパンと、ここで作っている自家製バター、新鮮な牛乳とゆで卵、有機栽培農家から買ってきた野菜で作ったサラダ。近くの牧場で売っているハムとソーセージ。クリスは牛乳も卵も、おかわりして食べた。
「プリシラちゃんは小学校、どうしていらっしゃるのですか?」
 ステラがそう聞いている。
「とりあえず、お休みさせたわ。こちらの学校に行かせることも考えたんだけれど、ここに永住するつもりは、わたしたちにはなくて、来年からは夏の間だけ過ごすことにしたのよ。そうなると、また来年の春にはトロントへ戻るわけでしょう。一年ちょっとでまた転校では、かわいそうだから。この子、性格的に慎重なのか繊細なのか、新しい環境に慣れるのに、他の子より時間がかかってしまうのよ。だから無理させるより、一年くらいなら、ここでのんびりジョーイと遊んでいる方が、良いのではないかと考えたの。もちろん週に四日家庭教師に来てもらって、お勉強はさせているわ。トロントに戻った時、お友達に遅れないようにね」
 パメラは、傍らでミルクを飲んでいる娘を見やりながら答えた。
 九才になったばかりのプリシラは、トロントで見た時より健康そうに見えた。頬はピンク色になり、彼女の悩みの種だというそばかすも、あまり目立たないくらいになっている。体つきもふっくらとして、日に焼けていた。黒い髪をお下げに編んで、黄色いギンガムチェックのシャツにジーンズのショートオールを着た彼女は、元気なおてんば娘に見えるほどだ。弟のジョーイは緑のギンガムチェックシャツに姉とおそろいのショートオールといういでたちで、丸々と太った剥き出しの膝には、いくつかばんそうこうがはってあり、日に焼けた顔にも引っかき傷がある。栗色の縮れ毛や、いたずらそうな顔つきとあいまって、こちらは本当に腕白坊主という感じだ。その横でバターつきパンを食べているクリスは、ずいぶん色が白く、線が細く見えた。ずっと海で過ごし、日に焼けたはずなのに、やっぱりこの環境にはかなわないのか、それとも元々の素質だろうか。
 お昼過ぎには、ロビンとセーラもやってきた。二人はセントキャサリンズにセカンドハウスを買っていて、三月からずっと住んでいるらしい。午後は馬に乗ったり乳搾りやえさやりを体験したりし、夕食には外でバーベキューをして、その日はジョージの牧場の家に泊めてもらった。
 この家は階下に広い土間があって、真ん中に大きなストーブが置いてあり、煙突が通っている。そのまわりに、座り心地の良いアームチェアが五客置いてあった。
「昔の農家の作りだな。買い取ったまま、あまり改造してないんだよ。ずっとここに住むことになったら、本格的に手を入れたいんだがな」
 ジョージは大きなマグカップにたっぷりとカフェオレを注ぎ、僕らめいめいに手渡した。ジョージとロビンと僕、三人がそこにいた。今は五月なので、ストーブは使っていない。それぞれの奥さんや子供たちは土間に隣接した居間(ここはちゃんとフローリングがしてあって、ソファやテーブルが置いてある)の方にいた。
「ありがとう。ジョージは前から考えていたのかい? 牧場をやろうって」
 僕はカップを受けとりながら、そう聞いた。
「ああ、俺は昔から会社経営には興味がなくてな。農場暮らしに憧れてたんだ。子供の頃、母さんが俺たち兄弟三人を――まあ兄貴は十五になったら来なくなったが、伯父さんの牧場、この近くにあるバートランド農場っていって、ここより少々広くて、菜園なんかもやっているんだが、今はジムが継いでいるんだ。そこに毎年夏に、遊びに行かせていた影響もあるんだろうな」
「ああ、そういえば君たちは毎年夏に、農場へ行くんだって言っていたものね」
「うん、覚えてる、ジャスティン? 毎年僕らは夏に二、三週間くらい、セントキャサリンズの農場へ行っていて、君たちはプリンスエドワード島へ行っていたものね」
 ロビンは懐かしんでいるような表情を浮かべた。
「あの頃からロビンは、伯父さんの農場に行くより、ジャスティンと一緒にいたい、なんて言っていたんだぜ。でも、ジャスティンだって毎年夏には家族で海に行くんだから、一緒には遊べないって、宥めすかして引っ張っていったんだ。だから俺たちが農場に行くのは、いつもおまえんちが避暑に行く時だったんだ。そうでもしないと、ロビンが行かないからな」ジョージは肩をすくめている。
「へえ、本当に? 知らなかったよ。だから、いつも同じ時期に行っていたんだ」
「だが、こんなにジャスティンべったりで大丈夫か、あまり度が過ぎると、うんざりされるんじゃないか、大きくなってやばい感情でも持ったら、まずいんじゃないか、なんて俺はちょっと心配していたがな。実をいえば、母さんも少々気をもんでたんだぜ。だがまあ、そのロビンも今やセーラさんという嫁さんもらって、すっかり嫁さんべったりだもんな。おい、今は離れていて大丈夫なのか?」
 ジョージにそうからかわれ、ロビンはちょっと顔を赤らめて、
「いやだなあ、兄さんは」と、少々決まり悪そうに苦笑していた。
「俺は農場が好きだったんだ、その頃から」
 ジョージはマグカップの中味を半分ほど飲んでから、憧憬をこめた口調で続けた。
「馬に乗ったり牛の乳絞りをしたり、広い牧草地を駆けまわったりするのがさ。大きくなったら、俺もこういう生活をしてみたいと思っていた。でも、ロビンはあまり好きじゃなかったんだな。動物を怖がったし」
「うん。牛や馬は大きすぎて怖かったんだ。今は大丈夫だけれど、それでも積極的に近づきたいとは思わないよ。それにハエがいっぱいいるし、あの独特の匂いでしょう? 僕は農場をやるなら、果樹園が良いな。セントキャサリンズにも、たくさんあるんだ。家の近くにも、りんご園があってね。秋になったら、たくさんりんごを買おうと思っているんだ」
「だが果樹園にだって、おまえの嫌いなものはいるぞ、ロビン。虫がな。果物は黙っていても、なるもんじゃない。いや、なるにはなるが、虫食いだらけだぞ。消毒して虫取りをしないと。おまえ、出来るか?」ジョージは、にやっと笑っている
「虫はねえ、うちの庭にもいるよ。バラの木はすぐアブラムシがたかるし、ポプラやりんごの木には、油断しているとすぐ毛虫がぶらさがっていたりね。ステラなんて、見つけるたびに悲鳴を上げているよ。庭師が駆除しているんだけれど」僕は肩をすくめた。
「ま、少なくとも虫嫌いな奴に、農園は無理だな。あと、清潔好きな奴にもな」
 ジョージが苦笑して肩をすくめ、、
「それは言えるかも」僕らは顔を見合わせ、笑った。
「ところで、おまえはどんな具合だ、ジャスティン? 楽しくやっているか?」
 ジョージが身を乗り出して、そう問いかけてきた。
「ああ、楽しくのんびりやっているよ。二回、大きな旅行に行ったんだ。バハマとキプロスに」僕は頷いた。
「そうか。それはよかった。まあ、来てくれてうれしいぜ、ジャスティン。ロビンは近くに住んでいるくせに、めったに来ないしな。まあ元々農場は好きじゃないんだろうし、二人だけの世界に浸ってもいたいんだろうがな」
「セーラは馬が好きなんだけれどね」
「じゃあ、来いよ。おまえも一緒に、乗馬を教えてやるぜ」
「兄さん、多少は乗馬ができるようになったの? 昔は乗れもしないのに馬に乗ろうとして、よく振り落とされたじゃない。一度なんて、熟成中の肥だめの中に落ちたよね」
「わっ、言うな、バカ! ロビン! あれは俺の人生最大の汚点なんだからな!」
 ジョージは顔を真っ赤にして、立ちあがりかけた。
「うわっ、汚いな! 本当か?」僕は思わず吹き出した。
「運が悪かっただけだよ、たまたまな。笑うな、ジャスティン。ロビンも人の失敗をばらすんじゃないぞ。俺は少しおまえに外に出て欲しかっただけなんだからな」
「でも兄さん、僕は外に出たくないから、休養したいって言ったんだよ」
「まあ、みんなそれぞれ好きなことをするっていうのが、今回の休業目的だからね」
 僕は苦労して笑いを収めると、カフェオレを飲み、ちょっと肩をすくめた。
「まあな」ジョージも笑って頷く。
「でもなんだか、おまえらの顔を見て、久しぶりに懐かしかったぜ。もっとも普段でもオフは、こんなものなんだがな。みんなてんでんばらばらで、三ヶ月ほとんど音沙汰なしってのは、珍しくないんだが。でも、これから一年もこんな調子だって思うと、ちょっと妙な気分もするんだ」
「うん。あと一年以上あるんだもんね」ロビンもちょっと吐息をついていた。
「ところで、おまえはトロントに住んでいて、ミックに会うか、ジャスティン? ああ、おまえはほとんど旅行してたって言っていたな。あいつはトロント大のハイデンバーク教授のゼミに行ってるんだぜ。こないだ、メールが来てたよ」
 ジョージは僕を見、そう問いかけた。
「ハイデンバーク教授って──僕はトロント大学のことは良く知らないけれど、何の専門なんだい?」
「超常科学だよ、専門は。一つ間違えばオカルトだな。一応政治家の跡取りなんだから、政治経済はやらなくていいのかって聞いたら、大学でやったから、それはもう良いって言うんだ。大学院は、好きなものを勉強したいんだとさ」
「へえ。まあ、たしかに彼はそういうものに興味はあるだろうけれど、でも心理学をやりたいって言っていたのに。ユング理論は、もうやらないのかな?」
「いや、そっちも聴講しているらしいぜ。ブルースター教授のゼミでな。だがユング理論も、人類の共通意識とか曼荼羅とか、一つ間違うとやっぱりオカルトだろう? あいつはそういうの、好きなんだよなあ、本当に」
「僕もそういうの、興味あるなあ」ロビンが少し首を傾げ、小さく声を上げた。
「おまえも受けたらどうだ? もっともミックのは社会人聴講生用のゼミだから、受けるにも資格がいるが、一般向けのゼミもあるんだぜ」
「でも僕、今はセントキャサリンズに住んでいるんだしね」
「ずっとこっちに住みっぱなしでなくともいいんだろう、おまえは。時々トロントへ帰ったらいいじゃないか」
「うん……」
「あっ、僕も興味のあるゼミなら、出てみたいな。一般向けのを。だけど……」
 言いかけて、僕は思わず考え込んだ。トロント大学へなんて行ったら、さぞかし注目されるだろうな、と。そのおひざ元のクイーンズパークへ親子三人で行った時にも、じろじろ見られ、声をかけられた。休業中とは言え、僕らはやはり完全な一般人にはなれない。
「まあ、ジャスティンは目立つかもな」ジョージも苦笑していた。
「知ってるか? ミックは大学じゃ、髪短くしてめがねかけて、まったく普通の格好で通っているんだ。マイケル・ストレイツとして。だから、あまりわかっていないらしいぜ。あいつ、この間のメールに写真を添付してよこしたんだが、見てみるか? 思わず笑ってしまうぞ」
 ジョージはつと立ちあがり、携帯の画像を見せた。ミックが教授らしき人と写っていたが、言われなければ彼だとは、わからなかったかもしれない。茶色の髪を耳のあたりで切って撫で付け、七三分け。黒ぶちの眼鏡をかけ、キャメル色のポロシャツにカーキ色のカーディガン、チャコールグレイのチェック柄ズボンと言ういでたちだ。これではたしかにどこからどう見ても、かなり体格の良い、ちょっと年のいった、ふつうの大学生だ。僕はやっぱり吹き出してしまった。
「だからロビンも髪を切って、今みたいに眼鏡をかけていれば、わからないだろうがな」
 ジョージがにやっと笑う。ロビンもあまり目はよくなく、プライベートでは眼鏡をかけていることが多い。ミックと同じように、ステージやビデオ撮り、フォトセッションの時には、使い捨てコンタクトを使っているが。今ロビンは銀縁の眼鏡をかけ、髪もジョージも同じように、後ろで一つに引き結んでいた。服装もフランネルのシャツにジーンズとスニーカーだ。
「まあ、俺らはその気になれば、一般人にまぎれることもできるだろうさ。それっぽい格好をすればな。だがまあ、おまえは難しいだろうな、ジャスティン。髪を切って普通の格好をしても、おまえは目立つよ。すぐに素性がわかっちまう。それだけ存在感があるんだろうな。旅行に行っていても、声をかけられるだろう、やっぱり」
 僕は苦笑して頷いた。「ああ、多少はね」と。
「一般人になれないのなら、エアリィみたいに、思いっきり芸能人してみるのも良いかもしれないがな。聞いたか? ブロードウェイであいつがやっているミュージカルの評判。ものすごいぜ。ローリングストーンやほとんどの芸能雑誌で、大激賛だ。あまりにチケットの売れ行きが凄いんで、十日目から一日二回公演になったらしいが、それでも切符は手に入らないんだとよ。千秋楽まで、全部売り切れだ。それもブロードウェイで一番でかい、キャパ六千人の劇場なんだぜ」
 ジョージは感嘆したような口調で言い、そして続けた。
「あの規模の会場を二か月押さえるってのは、ブロードウェイじゃ相当な冒険だったらしいが……で、俺はちょっと不思議に思ったんで、ロブに聞いてみたんだ。エアリィが前に言ってたみたいに、四月五月は会場押さえ済みだったってことは……ハナから向こうの関係者はその時期に、あいつを主役に据えて興行する気満々だったのか、と。他のやつじゃ、とても無理だろう。良くて二週間くらいがせいぜいだ。そうしたら、ロブは答えていた。たしかにそれは正しい。二月にツアーが終わって身体が空くから、その興行分だけ休暇を長くセッティングできないかと、去年の夏ごろ、フレイザーさんが社長に要請してきたのだと。しかし、ずいぶんな冒険をするなと俺は思ったよ。あいつがもし断ったら、どうするつもりだったんだとな。フレイザーさんは自信満々で、他のキャストのオーディションも去年の秋から始めて、準備してたらしいが。『もしアーディスが渋ったら、私が説得に行く』と言っていたらしいぜ」
「へえ……じゃあ、この長期休暇の発端はミュージカルとフレイザーさんだったのか」
「そう。それと、映画の件もあるらしい。あれも四、五年くらい前から懸案になっていたらしいが――なんでもアリステア・ローゼンスタイナーと長年組んでいた監督さんが、自分の寿命が尽きる前に、ぜひアリステアさんの遺稿、そして最後の映画を、その孫の主演で実現させたいと言ってきていたらしいんだ。自分の息子を通じて――って、これはだいぶ前に、エアリィに引き抜きをかけてきた業界人なんだがな。その人がプロデューサーをやり、老監督が久々にメガホンを取ると。いつかきっとこの映画に日の目を見せたいと思っていたが、今までふさわしい主演が見つからなかったと。それでまあ、AirLace自体、精力的な活動で多少オーバーペースかなと思い始めていたこともあるし、いっそのこと一年ほどバンドは活動を休んで、その間にミュージカルと映画、両方実現できたらいいと思ったらしいな、社長は。それと俺たちの利害関係が一致したわけだ。たしかに俺たちにとっても、ここで一休みは、いいアイデアだと思うからな。おかげで俺たちみな、やりたいことがやれているわけだから」
 ジョージは立ち上がってマガジンラックの中から雑誌を一冊抜き取り、テーブルに置いた。「これはロブが先週、送ってきたんだ」と。ミュージカルの専門誌らしいが、カヴァーストーリーは『The Innocent Soul』――エアリィが出演中のミュージカルで、表紙も彼だ。オフホワイトの半袖Tシャツにジーンズのカバーオール、首に巻いた水色のバンダナ。ブロンドの髪が肩にふわっとかかり――ひと筋の青い髪束とともに――肩の下五センチくらいの長さに切られている。『表紙撮影って、なんとなく緊張するからヤダな』と本人は時々ぼやいているが、写りが悪かったことなど、まったくと言っていいほどない。元の素材のおかげもあるだろう。たぶんエアリィ以上に写真嫌いな僕には、羨ましい限りだ。
「あいつ、ちょっと髪を短くしたのか」
 僕はそう呟きながら、ぱらぱらと雑誌をめくった。この物語は、天界から間違って地上に落ちてしまった天使の話――たしかに、なんというはまり役なんだと、僕は吹き出しそうになった。この脚本家はここ十年ほどの間に台頭してきた若手で(とはいっても三十代らしいが)、何作かのオリジナル脚本もヒットさせているという。その人が、僕らのPVをいくつか動画サイトで目にし、『シンガーの浮世離れした中性的な美を見ているうちに、稲妻が落ちるようにひらめいた』ものだそうだ。『あの子の存在感は人間離れしている。この世のものとも思えない』――それは僕が彼に出会った時の第一印象に似ている。きっとそれは、たいていの人がそう感じることなのだろう。
 その脚本家は憑かれたように三日間ほどで一気に脚本を書き上げ、それをフレイザーさんのもとへ持ち込んだという。それまでに何本か一緒に仕事をしていたので、氏がエアリィの母親と何度も組んで仕事をしていたことと、彼自身のヴォイストレーナーを務めたこともあると、知っていたかららしい。そしてフレイザーさんも脚本を見るなり、『ぜひ実現させよう。もちろん主演はアーディス・レインで!』と言ったらしい。今、その舞台が実現しているわけか――。
「それでな、ミックがこの間メールで書いてきてたが、一度ニューヨークまで行って、エアリィの舞台見てくるかって。まともにはチケットが取れないが、マネージメントが少し回してくれるかもしれないと」ジョージはそうも言い、
「そうだな。一度くらいは見ておかないと、という気はしていたんだ」と、僕は頷いた。

 ジョージの農場から帰って二週間後、そのプランは実現した。チケットをマネージメントに手配してもらい四人で、さらにロブも一緒にニューヨークへ。エアリィは公演期間中、彼の医療トレーナーでパーソナルマネージャーのカークランドさんと、専属セキュリティのジャクソンの三人で、ブロードウェイにほど近い高層コンドミニアムに住んでいたが、僕らが訪ねていった時には午後四時過ぎだったので、まるでつむじ風のような対面だった。
 彼は僕らを見るや、「わぁ、来んの待ってたんだ。遅いよ! もう出ないと、五時からのが始まっちゃうから! みんなのは八時半からの二回目だから、あとから会場に来て! あっ、これカードキー。出る時には戸締まり、きっちりお願い。まあここはセキュリティ、しっかりしてるけどね」と、あわただしげに言い、カードをぽんと投げてよこすと、カークランドさんとジャクソンに挟まれるようにして、あっという間に出ていってしまった。こんな時間に来てしまった僕らも悪いが、いきなり主のいない家に残されても困る。
「とりあえず、お茶でも飲むか……」
 ロブが苦笑しながら、僕らにハーブティーをいれてくれた。彼は進捗状況を見に何度かここへ来ているらしいので、ある程度勝手はわかっているのだろう。
「忙しいのは確かなんだ、エアリィは。四月十五日からずっと毎日五時と八時半と、二回公演だからな。週末にいたっては、それに一時半の部が入って、三回だ。しかも休演日は全部で三日しかない。」
「一回二時間二十分で三回っていうのは、相当きついね」
「ツアーと違って、場所を動かないだけ、ましだがね。それに出ずっぱりではないから。三分の二弱、正味一時間二十分くらいだ。歌も全部で四曲だから。『ツアーに比べたら、わりと余裕。取材とかもないし』と、エアリィも言っていたがな。だが、スタッフや他の出演者は大変らしい。エアリィ以外の主要役は、みなダブルキャストでやっているんだが、それでもな……ブロードウェイでこの公演ペースは異例らしいし、テンションも異常に高いから、千秋楽が終わったら燃え尽きるんじゃないかって、ブロードウェイの連中は言っているらしいよ。もちろんエアリィじゃなく、周りがな」
 ロブはちょっと肩をすくめていた。
「あいつはブロードウェイでも突っ走っているのか、相変わらず」僕らも苦笑する。
「だが、フレイザー監督はわかっているからともかく、最初他のスタッフやキャストは、多少懐疑的だったらしい。歌は超人的でもミュージカルは素人なのに、いきなり主役で、しかもリハは五日間しか参加しない。ネームバリューはあるが、お飾りにならないか、と思っていたらしい。が、実際彼が練習に参加した初日、台詞はもうすでに完璧に覚えているし、ダンスも一度で完璧にマスターしたらしい。それでみな、度肝を抜かれたそうだ。『前日参加でも大丈夫だったかも』とまで、言われていた」
「僕らはもう慣れているから、驚かないけれどね」
 僕ら四人はいっせいに肩をすくめた。

 その夜、僕らは彼の舞台を見たが(客席は満員で、関係者やプレス席もない日だったので、コントロール・ブースからの観覧になったが)、感想は書くまでもないかもしれない。ともかく想像以上だった。未踏の領域に達したモンスターは、多少フィールドが変わろうと、その圧倒的な吸引力、衝撃力、そして会場すべてを巻きこむコミュニケーションのマジックは変わりはしない。それに地上に落ちてきた天使などという役柄は、まさにはまりすぎという以外ない。
 僕はシンガーとしてだけではなく、パフォーマーとして、またダンサーとしてのアーディス・レインの力を思い知らされた、それだけだ。ことにラスト、天上に戻った主人公リファエルが、地上で知り合った女の子サンドラとその家族にお別れを告げに舞い降り、本来の天使としての自分にかえって、彼女たちすべての人々を祝福する“光の踊り”。これは、ほんとうに圧巻だった。演出ではなく本当に彼自身が光に包まれ、圧倒的に神々しく、そして見ているものを優しさと希望で満たす。まさに、そんなダンスだ。二時間二十分の間、少なくとも彼が舞台に出ている間は一時たりとも目が離せず、ストーリーに引きこまれて泣き、笑い、最後には圧倒的な浄化の感情に包まれて終わる。見終わってしばらく、余韻で動けなくなるほどだった。まるでコンサートの観客になったように。
 
 その夜は彼のコンドミニアムにみなで泊まり(ベッドルームが四部屋あったので、一部屋に二人ずつ泊まった)久しぶりに五人そろって深夜までいろいろな話をして、起きたのは昼の十二時だった。
「うわぁ、寝坊した! 今日土曜日だから、一時半からあるのに!」
 エアリィは部屋から出てくるなり、開口一番そう叫び、
「あっ、そうか。なのに昨夜は遅くまで話しこんじゃったもんな」
 僕らは苦笑した。昨晩寝ついたのは、朝の四時を回っていたのだ。
「でも、ホント久々に、みんなに会ったって感じだよね。普段のオフのインターバルと同じくらいなのにさ、今のところ。なのに、なんかずいぶん懐かしいって気がして……あっ、ありがと、モートン」エアリィはカークランドさんが作ったミックスフルーツのスムージーを受けとると、僕らを見て続けた。
「今は違う世界にいるせいかな、お互いに。バンドメイトの頃が懐かしいって、まあ、来年の春には、またそうなるんだろうけど。来週さ、アデルと娘たちが来るんだ。あと一週間で千秋楽だから。それで、トロント帰る前に一週間くらい、一緒にバルバトスに遊びに行こうかなって。先週はエステルが来てて、ミュージカル学校の試験受けたんだ」
「へえ、エステルちゃんって、ブロードウェイ志望なのか?」
 僕は聞いた。兄妹の母親であるアグレイアさんは、元ブロードウェイ女優だった。その血筋なのだろうか。
「そう。もっとも本人の希望なのか母さんの夢だったのか、知らないけど。エステルもメイベルも四歳くらいからバレエやピアノ習わされてたし。あの事故で一回中断したんだけど、小学校に上がってから、またバレエとピアノ始めたんだ。それで、将来は母さんみたいにブロードウェイに行きたいって。だから僕も、ここで多少つてが出来たから、スクールの試験受けてみたらってことになって、無事、合格したんだ。ニューヨークには継父さんの従妹に当たる人が住んでいるんだけれど、その人のところに下宿させてもらって、九月から通うことになったんだよ」
 エアリィはフルーツスムージーを飲み終えると、洗面所で着替えと支度をすませて、またあわただしく飛び出していく。そして出際に、僕らを振りかえった。
「あっ、じゃ、みんな。わざわざ来てくれて、ありがと。気をつけて帰って! それからさ、僕も来月トロント戻ったら、一回ジョージの農場に遊びにいかせて!」
「ああ、楽しみに待ってるぞ!」ジョージが笑って声をかけ、
「その時には、僕も一緒にまた行くよ。声をかけてくれ」僕はそう言った。
「じゃあ、今度は僕もお供しようかな。それはそうと、これから二時間半近い舞台を三回もこなすのに、朝それだけで大丈夫なのかい?」
 ミックが多少気づかわしげに、そう問いかけている。
「ちょっと足りない! けど、大丈夫。カットフルーツ、車の中で少し食べるから。お昼まではもつよ。じゃ、また! あっ、出る時、ちゃんと鍵かけて、悪いけど劇場によって、モートンに預けといてくれる? じゃね!」
 そう言うと、エアリィはまた再び出て行ってしまった。
「いつも思うんだが、あいつは、果物だけで生きてるのか?」
 ジョージは肩をすくめて、苦笑していた。
「それだけではないけどね。普通に他のものも食べているし。時間がない時には、手ごろだからじゃないかな」ミックは笑っている。
 まあ、たしかにエアリィは体調が悪くなると、固形物が食べられなくなって、ジュースやスムージーだけになり(七年前の集中練習の時には、ずっとそうだったらしい)、普段でもカットフルーツやサラダ、ナッツなどを好んで食べているけれど(ナッツやサラダは果物ではないが、まあ、似たようなものだ)、今はミックの言うとおり、時間がないだけだろう。手っ取り早いカロリーとビタミンの補給に果物は、理にかなっていると思う。
 僕らは再び主のいないコンドミニアムのリビングでハーブティーを飲み、戸締まりをして外に出てから、遅いブランチを食べに行った。劇場によって鍵をカークランドさんに預け、そのまま空港へ。夕方には、再びトロントへ帰りついていた。




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