Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(2)




 僕の件が軽くすんだ理由のもう一端は、エアリィの私小説騒動だろう。僕が自分の件の報告を受ける三日くらい前に、それは始まった。レコーディングに付き添っていたロブがマネージメントに呼び返されてトロントに戻り、その翌日その本を持ってスタジオに帰ってきた。
「エアリィ、今ちまたでこんな本が売れているんだ。去年の十一月に出た、『Like a Wind』という小説なんだが、まだ読んでないなら、ちょっと読んでみてくれ」
「なに? 読んでないけど。この人って、ドキュメント系の人じゃなかった?」
「そうなんだろう。まあ、いいから、読んでみてくれ」
 彼は本を受け取り、ページを繰ったが、冒頭でいきなり「ええっ!」と声を上げている。
「なに、これ! これって、まさか……」
「そうだ。たぶんそうなんだ。この作者は一昨年の暮れに、おまえのバイオを書かせてくれと言ってきたんだ。でも、我々は断った。おまえ個人としても、エアレースとしても、バイオ本を出すつもりはないと。だから、こういう形になったんだと思う。でも僕らには、どこまでそれが事実と符合しているのかが、わからない。おまえでないと。だから、読んでみてくれと言ったんだ」ロブは真剣な口調だった。その表情も。
 エアリィは再び本に目を落とした。ぱらぱらとページをめくっていくが、彼の場合はそれでも内容はしっかり読んでいる。学校で僕やロビンのテキストを読んでいた時もそうだった。活字量にもよるが、見開きで一、二秒。そのくらいで読めてしまうようだ。ページをめくりながら、その表情が明らかに変わっていった。頬には血の色が上り、目に怒りと当惑が現れている。途中まで来て、彼は本を閉じた。
「もうこれ以上読みたくない! 生々しすぎて、いやだ」
「そう言いたいのはわかる。でも、つらいだろうが最後まで読んでくれ。どこまで事実に基づいているのか、おまえでないとわからないんだ」
「……ん」エアリィは気を取り直したように本を再び開き、最後までページをめくった。そしてため息をついてぽんと本を床に置き、ちょっと苛立ったような口調で言った。
「これ、アラン継兄さんの扱い、ひどすぎる。彼がこんなふうだったのは、最初の二年間だけだ。僕らのターニングポイントだったあの事件が、なんか僕が勝手に振り切って逃げたことになってる。それに、なんでエステルがいないことになってんだろ。双子じゃなくて、メイベルだけで。なんかもう、小説だから仕方ないけど、主人公を不幸にしようと、がんばりすぎじゃない?」
 彼はもう一度本を取り上げ、ふっとため息をついてロブに返すと、首を振った。
「そう……小説なんだよね。僕の話じゃない。似過ぎてるけど、微妙に違う。この子は誕生日がイースターだし、妹が一人だけいて、継兄さんは意地悪なままで、継父さんは仕事人間であまり家庭を顧みなくて、主人公は肉親を十三ですべてなくして、独立するんだ。僕の話じゃない。『僕はこんなこと思わなかった』ってのが、いっぱいあるし、このエンディングはみたいな恥ずかしい台詞、僕は仮にその状況でも言わないよ」
「でも、事実は事実なのか? それ以外は、だいたいこの通りなのか?」
「うん。それもディテールが合いすぎてて、やばいよ。まるで相手に直接話を聞いたみたいに。悪い意味で、鳥肌立った」
 エアリィは少し青ざめ、ぶるっと身震いしていた。
「いったい、なんなんだ?」僕はようやく、そこで口を挟んだ。
「おまえたちも読んでみればわかるよ」ロブがその本を差し出す。
「えっ! みんなが読むの? なんかやだなあ」
 エアリィは困惑した表情を作り、首を振った。
「まあ……気持ちはわかるがな。おまえが嫌ならやめておくが、でもみんなにも状況を知ってもらった方がいいと思うんだ。なぜ今、騒ぎになっているか。だから……そうだな。このラウンジの本棚に置いておく。読む読まないは四人に任せて……それでいいか?」
「うん……まあ。でも、なんで騒ぎになってるの?」
「おまえも内容を読んだからにはわかるだろう、エアリィ?」
「うん。でもこれって小説だし、僕がモデルだってことなんて、どこにも書いてないし、名前もみんな違うんだし……」
「最初はそうだった。だが主人公の境遇が、公開されている範囲のおまえのものと似過ぎている、妹が一人足りないだけだ、ということに、読んだファンたちが気付きだしてな。まさかこの話はおまえの実話なのか、こんな目に合ってきたのかって、騒ぎ出したんだ。今の時代、こういう情報の伝搬力は早い。それであっという間に本はベストセラーになり、騒ぎは過熱し、マネージメントにも問い合わせやら取材申し込みの電話が、ひっきりなしにかかってくるようになったんだ」
「マジで……? なんで?」
「内容がいろいろショッキングすぎるからだろうな」
 ロブは苦虫を噛み潰したような顔になり、頭を振っていた。
「そんなにショッキングなことなのかなぁ……」
「でもおまえも、例えばこの本の内容をインタビュアーたちに詳しく掘り返されたら、平静でいられるか?」
「ああ、それはやだ!」
「そうだろう。それで……マネージメントとしても、そろそろ公式見解を出さなければならなくなった。否定するか、認めるか。認めた場合、この作家を告訴するかどうか。それをおまえの意思を聞いて決めると、社長が言っていたんだ」
「告訴?」
「そうだ。本人に無断で明らかな私小説を出版するのは、明らかな人権侵害、名誉棄損だ」
「でも、盗作ってわけじゃないし、名誉棄損っていっても、そんなに嘘書いてるわけじゃないし、モデルが僕だって公言してるわけでもないから、裁判って難しくない? それに、もうこれって、出ちゃってるんでしょ? それも売れてるって、ロブさっき言ってたし。情報は出ちゃってるわけだから、今からなんかしても手遅れって気がするし、訴えるとかめんどくさいから、それはいいや」
「そうか。それならどうする? 否定コメントを出して、一切かかわりない、偶然だと言った方が無難な気はするが……」
「でも、それは嘘だよね。明らかな嘘はつきたくないな」
 エアリィは首を振り、しばらく頭に手をやって何かを考えているようだったが、やがて意を決したように頭を上げた。
「わかった。公式の個人ページで、コメント書いとく。取材は……今はレコーディング中だし、リリース後も、その問題は触れてほしくない。それだけ言っといてくれたらいいよ」
「そうか……わかった」ロブは重々しく頷いていた。
 二人のやり取りを聞いていて、僕もなんとなく理解した。エアリィの波乱の半生が、バイオグラフィーと言う形でなく、非常に酷似した小説と言う形で、おそらくマネージメントや本人に無断で出版され、ファンがその相似性に気づいて、騒ぎ出しているということなのだろうと。
「でもこの人、絶対いろんな人に話聞いてるなぁ。想像じゃない。だって、最初に言ったけど、ディテールが合いすぎてるから」
 エアリィは頭を振って、そう言葉を継いでいた。そして思い出したように、「あっ」と小さく声を上げ、手をぽんと打ち合わせた。
「あのメール! そうか。あれがこの作者さんだったのかな」
「メール?」ロブが怪訝そうに、そう問い返していた。
「そう。公式サイトに、連絡用アドレスあるよね。あれに来たらしくて、担当さんが、『やけに内容が具体的だから、ちょっと気になったの』って、僕に転送してきたんだ。それには野バラさんやダンや、それにあのニューヨークのあいつの近況が書いてあって」
「野バラさんというのは、おまえがお母さんの愛人だった奴の元を逃げ出して、雪の中で凍え死にそうになった時、保護してくれた娼婦か?」
「そう。いや、その名称は好きじゃないけど。僕はあの時、野ばらさんっていう通称しか知らなかったけど、本名はローザさんっていうんだ。だからそういう源氏名っていうの? になったんだって。五年前に元お客さんの一人と結婚して、その旦那さんと小さなレストランを始めたんだけれど、借金抱えてその店を取り上げられそうだって、メールにそんなことが書いてあった。びっくりしたけど、とりあえずネイトに頼んで、確かめてもらったんだ。セキュリティの。彼は僕らがツアーしてない時には、普段NYにいるから。彼はニューヨークの表や裏の連中に、少し伝手があるらしくて。それで彼がどうやら本当のことらしいって言ってきたから、それで、去年の十月に会いに行って。十三年ぶりの再会だね。彼女、僕がさらわれてから、ずっとすごく気にしてくれてたらしくて。早く警察に保護しているって言えばよかった。でもつい少し置いてもいいかな、と思っているうちに事件が起きたから、ものすごく後悔したって言ってた。だから、すごく喜んでくれた。でも僕があの時の子だって言うのは、二年半前にわかった、って言ってたよ。ラジオで『Wild Rose』を聴いて……それで、旦那さんに調べてもらったらしい。でも彼女は、僕にお店の借金払ってくれって頼むのはいやだって言うんだ。それで、いろいろ話し合って、とりあえず余裕が出来たら少しずつ返すってことで、納得してもらった。なんとか繁盛するようになればいいんだけどね。料理もおいしかったし」
「ああ。おまえが去年十月の終わりに一週間ほどニューヨークへ行ったのは、そのためか。ジャクソンも『プライベートな用事だった』としか言わなかったが。オフ中だし、こっちもその場合は、事細かに報告しなくとも良いと言っていたからな。それにしても、おまえが公式ページの更新で彼女の店のことを書いたら、一発で流行りそうじゃないか」
「えー、なんかそれも彼女に迷惑な気がする。でも、良い案ないかな? まあ、ともかく、彼女とダンに会えたのは、ありがたかったけど。ダンはあれから住み込みで働くようになって、ずっとその自動車工場にいたんだって。『おまえ、やっぱそうか! あの時は、さらわれちまったのかと思ったぞ。無事おふくろさんに会えて、良かったな。それにしても、えらい出世したな!』って言われた。ほんと、ダンらしくて、懐かしかったけど、そのメール、誰がくれたのかは、結局わかんなかったんだ。返信しようとしたら、アドレスが無効になってたし」
「送り主はその小説家か、さもなければ彼の関係者か。ありえるかもな。そうだ。とにかく、社長は問題のその小説家に連絡をしたんだ。向こうも問い合わせが山のように来ているらしく、ブログも一時閉鎖されていたが、なんとか一昨日返信が来た。一度話を聞いてくれと。それで我々は昨日、おまえの意向を確かめたうえで会うと返答した。だから、近いうちに会うつもりだが、おまえは何か言うことはないか、エアリィ」
「作家さんに? バックアタックはやめて。動機とか本当のことをちゃんと話して、っていうことくらいかな。あ、あとアラン継兄さんの名誉を回復して、って」
「わかった……」ロブは再び重々しく頷いていた。

 その後、この本はレコーディング中、ラウンジの本棚に置かれていた。時々数日なくなり、また返ってくる。レコーディングの空き時間に、部屋で読んでいるのだろう。最初にジョージが持っていったようで、「感動したが……これはマジでやばいぜ」と言っていた。次にミックが持っていき、「本当に、なんて言ったらいいか……小説としては、よくできているけれどね」と、首を振り、さらにロビンが「僕、すごく泣いちゃったよ」と、本当に赤い目をしていた。
 僕も本を手に取り、部屋に持っていって読んだ。何が書かれているのか、どこまで関連性を想起されるのか、それを知る必要がある、そう思ったためだ。
 本の冒頭部分を読んで、僕は思わず小さな声を上げた。流星雨の描写から始まり、ついでアグレイアさん――その小説ではアグネスさんだが、その人の謎の失踪と、一年後の夜明けに、記憶喪失状態で赤ん坊を抱いて戻ってきた経緯が書いてある。六月がイースターに変わっているため、花摘みに出かけたとか木の下で寝てしまったという話ではなくなっているが、不可思議な失踪自体は四年近く前シスターに聞いた話そのままだ。なるほど、エアリィがいきなりこの描写に出くわして、「えっ!」と驚いたわけだ。僕だって知らずに読んだら仰天するだろう。
 それは、かつて彼自身が僕に話してくれた歴史そのもの。さらにその時には話さなかった、詳しい状況や事情まで書かれていた。神秘的な出生から、ミュージカルレッスン場で過ごした赤ん坊時代、最初の継父カーディナル・リードさんとのこと、その後リードさんとの忘れ形見を早産でなくし、その悲しみと相手の親族との確執で荒れた母親、その結果のネグレクトとその顛末。このあたりはおおむね、エアリィが僕に話してくれたことや、マインズデールのシスターから聞いた内容とほぼ同じだ。留守番期とネグレクト期は情報提供者があまりいなかったらしく、それほど詳細には至っていない。母親に二週間放置されて死にかけた、というのは入っているが。それから母の事故と家出。母の愛人だった男から受けた、激しい暴力。作者はこの男に話を聞いたようで、その内容は恐ろしく具体的で、そして衝撃的だった。エアリィ自身はほとんど何も具体的には言わなかったが、それでさえ僕を震え上がらせた。だが詳しい事実は、それ以上だった。
 あの時、彼が言わなかったこと。それはかなり性的な領域に接触する。その男は当時六歳のアーディスに、ずっと女の子の服を着せていたという。『クロゼットはあいつが自分の部屋に持ってっちゃったから、あいつがよこす服しか着られなくて』と、かつてエアリィがインドの高原で僕に話していた言葉の意味が、この時やっとはっきり納得できた。
 そこからのことは、詳しくは書かない。書きたくない。ただ一つ、エアリィが『テイザーは嫌い』と言ったのは(まあ、好きな人間はいないだろうが)その男がよく暴行の時に使っていたからなのだろうと、納得した。きっと小さい時から、彼は半端ない反射神経と運動神経を持っていただろうから、まともに行ったら子供とはいえ、攻撃をかわすことくらいはできただろう。壁や床に投げつけても、叩きつけられる前にダメージ軽減することもできたはずだ。相手にもそれがわかっていたゆえ、まず最初に子供の腕をつかんで、背中や肩にテイザーを当てることから始めたという。しびれが消えるころには、暴行のダメージのためにもう抵抗する力はかなりなくなっていても、少しでも抗おうとしたら、追加が当てられた。おまけにそいつがやったのは、激しい暴行だけではなかった。その内容は、とても書けない。バーンズ夫人ではないが、本当に悪魔の所業だ。
 ある日、夕食が終わった後、ジョージがエアリィに言っていた。
「こんなことを言うべきじゃないのかもしれないが……本を読んだんだ。ジャスティンから話は前に聞いてたが……おまえ、良く生きのびたな。いや、気を悪くしたらすまん。変な意味じゃないし、感心してるんだ。下手したら六歳で、おまえ三回くらい死んでても、不思議じゃないだろう」と。
「僕は猫じゃないから、そんなにたくさんの命は持ってないよ」と、エアリィは何でもないように肩をすくめて、そう返していた。そしてちょっと首を振り、言葉を継いだ。
「まあ、でも確かにね。そのくらい命の危機はあったかな。あの三か月の間にも、よく一面の花の中に包まれて寝てる夢を見たし」
「やばくないか、それ。お花畑って」と、ジョージは声を上げ、
「本当に、死に近づいていたのかもしれないね」と、ミックも重々しく言っていた。
「そのお花畑とは、ちょっと違うと思うけど」
 エアリィはちょっと笑い、そして続けた。
「でもさ、一度地獄を見ちゃうと、あとがものすごく天国に見えるんだよね。あいつのところから逃げ出して、パン買って一口食べた時、わあ、ふかふかのパンだって、妙に感激したっけ。路上生活も、そんなにつらくは感じなかったし。仲間もいて、結構楽しく感じてた。今はホント、あの頃からは考えられないくらい恵まれた生活を送れてるけど、その日常を当たり前に感じるんじゃなくて――すごくありがたく思えるんだ。毎日、ああ、今日も幸せで良かったなって。幸せも、いつまでも続くものじゃないから、その毎日を大事にして、感謝したいって思う」
「そうだな……恵まれている日常を大事にしたいな」
 僕は思わず頷いた。僕は最底辺を見たことはない。恵まれた暮らしをずっとしてきたが、でもこの平和な日常も、いずれ途切れる。僕らはリミット付きの世界に生きているのだから、と。みなも同じように思ったようで、深く頷いていた。

 本の方には、まだ続きがあった。ストリートチャイルドになった経験、雪の中で凍死寸前のところを、コールガールさんに助けてもらったこと、そして幼児売買組織につかまって、そこから脱出したこと。救出者ステュアート博士と母親との再婚。その間に、トラウマを癒すべく、農場体験に行ったこと。そこで本来の自分を取り戻したこと。
 このバーンズ夫妻とシルーヴァ少年と共に過ごした四ヶ月の記録は、とても温かい。彼らは常に笑顔で接し、話しかける時にはかがんで、同じ目線で明るく言葉をかけ続けた。夜中にうなされて起きた彼を、『もう終わったの』とバーンズ夫人は涙を流しながら抱きしめた。バーンズ氏とシルーヴァもドアのところで、一緒に泣いていたという。この傷ついた子供が癒されていく過程は、とても感動的なパートとなっている。縁側で食べたとうもろこしケーキ、干草だらけになりながらの農場の手伝い、日曜日の夕方歌った歌。このあたりの情報提供者は、絶対シルーヴァ・バーディットだろう。彼のほかに、当事者はいないのだから。そしてこの場面を読むと、あの妨害者たちが言っていたこと、『シルーヴァはアーディスのことを、両親と共に農場で幸せに暮らしていた時代の象徴と思って、大切に感じている』――それが改めて納得できた。暖かく、幸福に満ち、輝いていた時代。それはその後一年もしないうちに養親を惨殺され、残忍な遠縁の男と暮らさざるを得なかった暗黒時代に、そしてそれからも、唯一シルーヴァの心の中にともり続けていた光だったのだろう。
 その後、母親は博士と再婚し、ロードアイランド州プロヴィデンスに移り住む。彼は継兄の意地悪にもめげず学校に通い、たくさんの友達が出来、妹が生まれ――そしてあの忌まわしい事件が起こる。これは──六歳時の虐待も相当なもので、一部抵触するが、これはそれ以外ないだけに、より過激だ。まともに読むのもきつい。本当に寒気がする。ただ、その小説内で書かれているほどの深刻なトラウマにはなっていないようなのが幸いだが。
 その後やっと立ち直って幸福に暮らし始めたと思ったら、母と妹が事故死する。その波乱万丈の半生が、すべて小説として書かれていた。もちろんバイオグラフィーとは違うので、本名ではない。主人公の名前はアート、お母さんはアグネス、妹はメイ。最初の継父はカールさんで、現在の継父はジェラルドさんになっている。しかし、みんな本名と似た名前なのがわざとらしいし、職業はそのままだ。アグネスさんはもとミュージュカルダンサーで、不幸な事故で再起不能になった。カールさんはレーサーで翌年のF1入りと、インディのシリーズチャンピオンを決めた後、最終レースで壮絶なクラッシュ死。ジェラルドさんは、機械工学分野では名の知れた科学者で、大学教授。なるほど。ここまで同じだと、察しの良いファンなら、すぐにモデルの見当がついてしまうだろう。だいたい主人公の名前はArthisの最初の三文字を取ったことは見え見えだし、そもそも『風のように』などというタイトルからしてモデルを暗示している。
 本の扉には事実に基づいて構築したフィクションだと書いてあった。たしかに事実と違う点もある。妹エステルの存在が消されていて、主人公は母と妹が死んだ時点で天涯孤独になり、継父や継兄(ちなみにアランさんをモデルにしているであろう、このアンディというキャラクターは、まるでシンデレラの継姉みたいな書かれ方になっている)からも独立して新たな天地を目指すという、エンディングになっていた。
 主人公は荷物を手に持ち、駅へ向かって歩きながら、最後に家を振り返って呟く。
『僕は負けない。これから先に何が待っていても。僕は風になってやる。過去にも、恐怖にも、悲しみにも、なにものにも縛られない風に』
 なるほど。エアリィが『この状況だったとしても、僕はこんな恥ずかしい台詞、言わない!』と言うわけだ。はなはだ不謹慎だが、僕も思わず吹き出しそうになった。

 しかし、マネージメントが困惑したわけもわかる。彼が子供のころ虐待の被害にあったことは、ほんの軽くではあるが、以前から知られていた。『Children for the Light』――僕らを今の地位に押し上げた大ブレイク作の何曲かが、その時代に題材をとっていたから、エアリィとしてもインタビューなどで本当に軽く軽くだが、匂わせるような言及をしなければならない状況が、時々あったゆえだ。しかし、その具体的内容があまりにも凄まじく、さらにいくら幼少期であるとはいえ、性的虐待の被害者であったことをも――しかも、こんなにあからさまに具体的に知られることは、今の彼のステータスだと相当な、ダメージにはならないにせよ、衝撃になるだろう。それゆえにファンたちが騒いだのだろうし、取材申し込みや問い合わせがマネージメントに殺到する事態になったに違いない。
 だから僕の件も、たった三万ポンドで、あっさりけりが付いたのだろうか。僕のスキャンダルで、AirLace自体がさほど傷つくとは思えない。僕のことはがっかりして見捨てるかもしれないが、バンドのファンをやめはしないだろう。エアリィの騒動がここまで大きくなった以上、今さら僕のスキャンダルをさらす価値はないと、妨害者側も思ったのかもしれない。だからその程度の金で、あっさりと写真を放棄したのだろう。
 いや――僕は、ふと思った。もともとこの騒動がなくとも、僕の写真はステラに見せることが大目的だったのだろうから――もしあのダイレクトメールをステラが見なかったら、公開されていたかもしれないが、その目的は果たされたのだから、妨害者の一人の正体がマネージメント側にわかってしまった時点で、もういいと思ったのかもしれない。僕の評判を落としてみたところで、バンドの人気にはあまり影響しないだろうし。
 でも自分のことは、もうどうでもよかった。仮にあの写真のデータがまだどこかに残っていて、それがどこかのネットサイトか三文雑誌に売られ、公開されて醜態をさらしたところで、一番見て欲しくなかった妻が見てしまった以上、誰が見ようが、もうどうでもいい。僕自身はずっと、そんな気分だった。あの一件が僕の家庭に与えたダメージの大きさに比べれば、これ以上何が起こったって、かまいはしないと。

 エアリィの小説騒動は、ロブが話を持ってきた三日後、公式ページにエアリィ自身がコメントを書いた。その中で、あの小説はほぼそのまま彼の半生だと認めた。ただし、小説との相違点――継兄とは両親の結婚二年目で和解できて、今は本当の兄弟のような関係であること、継父は仕事人間ではあるが、とてもいい人であること。さらに今も生きているもう一人の妹がとても大切な存在であることが、付け加えられていた。そして【過去は僕にとっては文字通り過ぎ去ったことでしかないし、それがたぶん今の僕を作ったというのは間違いないけれど、あえて触れられたいことじゃないから、みんなもあまり意識しないでくれると、ありがたいな】と、締めくくっていた。それから数日間、公式ページは異様に重くなり、返信も山のように来たが(もちろん直接返信できる構造にはなっていないので、メールだったり手紙だったり、掲示板の書き込みだったりするのだが)、ほぼ全部が肯定的なものだった。そして結果的に、この騒ぎはスキャンダルやイメージダウンにはならず、逆にファンたちに感動を与えたようだった。その本自体も、たしかに一部過激な描写はあるものの、非常に肯定的に書かれていることも大きな要因だったのだろう。繰り返し襲う逆境に決して負けず、打ちのめされず、状況を切り開いていこうとする気概。理不尽な相手に、心理的に服従するのを拒んだ勇気。それには『外側は傷つけられても、心に闇を入り込ませない』という、強い思いが透けて見える。そして、強い“愛の心”も。
 虐待男の元から脱出して、ストリートに出た時、アーディスは『何もなしじゃ困るから』と、家からお金やコートを持ち出してきたが、コートはすぐに他のストリートチャイルドにあげてしまい、お金も二十セントコイン一枚を残して、すべて他の家なき子たちにあげてしまった。最後のコインでパンを買って食べたが、それも半分あげている。仲間たちとはぐれた時に凍え死にしかけたわけは、その時着ていたセーターもあげてしまったから。実際その時彼から助けられた子供たちに、その作家さんは話を聞いたという。
 さらに幼児売買組織につかまった時、彼はただ『首輪が外れたから、窓から脱出した』と言っていたが、実はそこは八階だった。『外へ行って、みんなのことも知らせて助けてもらうから、待っててね』彼はブラインドを引き上げ、窓の外を見て、その高さに一瞬ためらったようだった。でも、すぐに言ったらしい。『今、下に携帯を持った人が通ってる。じゃね……助かるといいね。祈ってて』そして窓から飛び出したが、幸運にも一階の張り出し屋根にバウンドして下に落ちたので、命が助かった。そして携帯電話を持って下を歩いていた人――偶然道に迷って通りかかったステュアート博士に『みんなを助けて……八階に捕まってる』と言って、気を失ったらしい。(どうやって八階だとわかったんだ、と後で本人に聞いたら、落ちながら窓の数を数えた、と答えていた。六歳のころから、相変わらずのぶっ飛びぶりだ)
 いきなり目の前に異様な格好をした子供が落ちてきたのを見た博士は(エアリィがかつて言っていたように、下着一枚に毛布をかぶせられた状態だったから)さぞかし仰天しただろうが、すぐ911に通報してくれたので、部屋に拉致されていた子供たちは、全員救助されたという。親がいる子はその元に返され、そうでない子は施設に保護されたらしい。この作家はその時の子にも話を聞いたらしく、何人かの後日談が、のちに再開された彼のブログに載っていた。
 アーディスの怪我自体は打撲と左肩甲骨の亀裂骨折だけで(虐待男に受けたダメージより、はるかに軽い)、すでに骨折していた右腕の治療も含め、一ヵ月半ほどの入院で完治した。むしろ病院で、抗生物質点滴でショックを起こした時の方が危なかったらしい。幸い早く気づかれたおかげで、事なきを得たが。その時病院でアレルギーテストを受け、五十種類ほどの薬が引っかかって、アレルギーカードの携帯を命じられたそうだ。
 プロヴィデンスでのあの事件も、一番強い印象を刻んだのは、周りの友人たちの“愛”だった。ことの次第を泣きながら仲間たちに打ち明け、『僕のせいでジョンが死んじゃった。だから、もうみんな友達とは思ってくれないよね。ごめんなさい』そう言ったアーディスに、『おまえのせいじゃない、絶対。どっちかって言ったら、あいつの正体に気づけなかったおれたちの責任だ。だから、許してくれ』と、遊び仲間たちの一人、エリック・ライトは彼を抱きしめ、『何かあったら、おまえのことはおれたちが守る、絶対! だから戻ってこい、アーディ!』その集団のリーダー的存在だったトニー・ハーディングは、きっぱり言い切ったという。そのシーンは非常に感動的で、過激なシーンを吹っ飛ばすほどのインパクトがあった。もちろん、彼らは小説の上では別の似た名前だが。
『悪い、アーディ。おまえのバイオ本を書くから、詳しいエピソードを聞かせてくれって言われて、三日くらい一緒に酒を飲んでるうちに、ついいろいろしゃべっちゃったよ。おまえも承知してるって、奴は言ってたんだが……ごめん』と、後に彼らはエアリィに言ってきたそうだが、『いいよ、全然。気にしなくて』と、彼は笑って返していたようだ。彼らにまったく悪気はなかったのだと、彼にもわかっていたのだろう。
 彼らは毎年、その時の犠牲者で遊び仲間の一人だったジョン・グルーウェンバーグの命日に、今も全員揃って行くという。五月二十日。エアリィはロードがぶつかると参加できないが(最初の年と、直近の二ワールドツアー時は、欠席だった)、ツアーが一段落するとすぐに駆けつけ、その時にはまた仲間たちが集まってくるという。『ローディー・ギャング』たちは、プロヴィデンスの凱旋公演のほか、ニューイングランド地方の公演のバックステージでも必ず会うので、僕らにもある程度おなじみだ。僕らは挨拶程度しかしないが、楽しそうな、賑やかな談笑の声は、いつも聞こえてくる。
 それは、たしかに波乱の半生だ。でもそれは、エアリィが以前僕に言っていた『闇に襲われても、流されない。抗わなくちゃいけない。ずっとそう思ってた』というその信念と他者への愛に裏打ちされた、決して自暴自棄になることも打ちひしがれることもない、強靭だがしなやかな心をも、鮮やかに描き出している。『僕は無駄にポジティヴだって言われるけど、それは元々そうなんだ。無理してるわけじゃない。そのおかげで潰されなかったんだと思う』インドの高原で、彼がそう言っていたように。
 それは闇とは反対の、光の精神なんだな――本を読んで、僕は改めてそう思えた。昔、彼から話を聞いた時、僕はその心の強さに感嘆した。それは、光の強さだ。闇が攻撃してくるのは、彼が光の心の持ち主だから。しかし闇の激しい攻撃も、その光を消すことは出来ない。そう思えた。
 ここで話をしてから一週間後にその作家に会ったロブの話では、その作家は妨害者の一味などではなく、それまでに伝えられていた情報から、『この子のバイオを書いたら面白そうだな』と、純粋に作家的な興味から思ったのだ、とロブに語ったという。
「バイオグラフィーは断られたが、取材をしてみて、没にするには惜しい話だと思えた。詳細には立ち入りすぎたと思うが――ことに性的な問題は微妙なのだし、彼の立場上どうかなという躊躇はあったが、それも重要なエッセンスなのだからと、あえて書いた。でも、決してネガティヴに書いたつもりはない。むしろ彼の物語は、同じような境遇にある子供たちへの励みになると思う。そう思って出した。本人に無断で出してしまったことは申し訳なかったと思う。その点は謝罪する。申し入れたら、絶対に断られると思ったから、そのまま出してしまったが、彼が謝罪を受け入れてくれるなら、直接会ってお詫びをしたい」
 その作家はブログを再開した後、そのコメントをそのまま載せ、ついで小説のモデルがエアレースのアーディス・レインであること。継兄と妹のことに一部脚色はあるが、ほぼ彼の半生であると認めた。それから、その時の取材結果をブログに載せ始めた。そこで『紅ばら』さんのモデルとなった人の後日談として、彼女が結婚してニューヨークで食堂を開いていることも、ストリートチャイルドのボスだった『デイヴ』の勤める自動車工場も紹介したので、ファンたちにも広く認知され、結果的に彼女のお店は繁盛するようになり、ついでに工場も有名になったという。さらにその小説家のリサーチにより、ダンはかつて(親切な人に保護されて欲しい)と願いを込めてスーパーに置いてきた、四人の小さな弟妹たちとも再会できたらしい。彼らは保護された後、二人ずつ別々の孤児院に預けられ、そのうちの二人は親切な人の養子となって、みな無事に成長していたという。行方不明になった妹だけは、とうとう見つからなかったようだが。

 そんな波乱はあったものの、レコーディング自体は順調に進み、作業はミックスダウンの段階に入った。サードアルバムからモンスターセールスを記録するようになったため、制作費を気にする必要がなくなった僕らは、いつも使わせてもらっているケベックの高原にあるプライベートスタジオ、ラセットプレイスを共同所有するスィフターメンバーの未亡人たちに多くの謝礼を渡すこともできたし、観光をかねた海外でのミックスダウンもできるようになっていた。そのため、前作はロンドンで作業を行ったが、今回はジュネーブまで飛び、レマン湖を眼下に見ながらの作業となった。そして二週間半で、ミックスダウンは終わった。アルバムに収録する十二曲を選曲して曲順を決めれば、マスターの出来上がりだ。




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