The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

五年目(3)





「その後のことだが……聞きたいかい?」
「うん。でも……無理にとは言わないけど」
「話したくないようなことだったと、思うのかい?」
「ん……わからない。けど、なんか今、ちょっとやな予感がしてるんだ。あの時も不安だったけど……その新しい養い親の人、良い人だったらいいなって思ったんだけど」
「君のカンには敬意を表するよ、アーディ」シルーヴァは苦笑を浮かべていた。
「察しのとおりさ。良い人どころか、新しい養い親は、とんでもない奴だった。酒飲みで怠け者で、乱暴者だった。学校へも行かせてくれず、さんざん人をこき使って、ちょっとでも失敗すると、殴る、蹴る、棒や鞭でぶちのめす。飯抜きで部屋に閉じ込める。僕も君が受けた苦痛を実感できたよ、アーディ。でも、君ほどではなかったかもしれないな。君は身体の小さな、華奢な子供だったから。でも、最低野郎っていうのは、似たようなものなのかもしれない。自分より力の弱いものを痛めつけて楽しむ奴は。おまけに奴は、性的倒錯者だった。僕があいつの家に行ったその晩に、あいつは部屋にやってきて、眠っている僕をたたき起こし、裸になれと命じた。僕は今でこそでかいが、そのころはそうでもない。あいつは今の僕と同じくらいでかくて、屈強な男だった。抗うすべはなかった。おかげで僕は、地獄を見たわけさ」
 僕らは言葉を失い、何も言えなかった。シルーヴァは話を続けている。
「君に連絡できなかったのも、そのせいなんだ、アーディ。僕は荷物の中に君の手紙と写真を持っていたのだが、あいつはそれを見て、君のことを気に入り、夏に遊びに来るというのなら、ここに来させたらいいと言った。あいつの顔を見て、僕は本気でぞっとした。君が来たらあいつが何をする気か、手に取るようにわかったから、僕は君の手紙をみんな、台所のかまどに突っ込んで焼いた。あいつは頭が良くないから、君の住所など覚えてはいない。だから手紙がなくなれば、君を招待はできない。そのことで、あとでひどく折檻されたが……だが僕は、絶対に君を巻き込みたくなかった。まだ君はその時、八歳になったばかりだ。せっかく笑顔を取り戻して、新しい家で幸せに暮らしているだろう君を、これ以上非情な大人に傷つけさせたくない。『もう終わったから、大丈夫』という母さんの言葉を、嘘にしてはならない――そう、君が言ったあの場面、僕も見ていたんだ。父さんと一緒に、ドアのところから。だから絶対に、母さんのその言葉を守りたい。それしか考えられなかったんだ、僕には」
「えっ?」エアリィは驚いたように目を見開き、そして一瞬後、その意味がわかったのだろう。怯えたような、戸惑ったような表情で、ぶるっと震えた。「そうなんだ……君は僕を、守ってくれようとして……ありがとう。だから、手紙が来なかったんだね。知らなかった」
 彼はしばらく沈黙し、少し頭を振って、言葉を継いだ。「その人も……闇の住人だったんだ。それで、いつまで……続いたの? いつそいつから、解放された?」
「半年までは、いかなかったな。新しい年が明けてまもなくだ」
 シルーヴァは淡々とした口調で、そう答えた。「それまでも何度か逃げ出そうとはしたんだ。でもそのたびに捕まって、ひどい目にあわされた。僕はもう、逃げるだけではだめだと悟ったんだ。たいそうな犠牲が必要だったよ。どうやって僕が奴から自由になったか、わかるかい?」
「いや。どうやって……?」
「殺したんだよ」バーディットは相変わらず淡々とそう答えたが、それを聞いてエアリィだけでなく僕も思わず絶句し、身震いしてしまった。
「真夜中ならあいつも寝こんでいるが、僕は外には出られなかった。奴が玄関のドアに鍵をかけて、その鍵を自分の枕の下に入れて寝ていたからね。僕の部屋にも外鍵がかかっていたが、ラッチ式の鍵だったから、細い定規を突っ込めば、なんとか開けることができるんだ。それで、あいつがしたたか酒を飲んで酔っ払って寝込んだ後に、あいつの部屋の前に台所のストーブの石油をまいて、火をつけたんだ。僕も逃げるすべはない。僕の部屋の窓には格子がはまっていたし、家の出入り口の鍵は閉まったままだった。他の部屋の窓から逃げることもできなかった。あいつの部屋の前を通らないと行けないし、そこはもう火の海だったからね。僕は自分の部屋に戻り、ベッドにもぐりこんで、すべてが終わるのを待っていた。あの時には、自分も助からないと思っていたよ。冬のからからに乾いた空気の中、火が燃え広がるのも早かったからね。だが、あいつと一緒の生活より、死の方がはるかに耐え易いと思えた。天国で、また父さん母さんに会えると思って、祈りの言葉を呟きながら、震えていたんだ。でも結局、僕は助かった。幸い近所の誰かが気づいてくれて、消防署に通報がいったからね、僕の部屋に火がまわった直後に収まったのさ。だから少し火傷をしただけだった。でも、あいつは死んだ。僕は放火の罪で少年刑務所に送られ、四年間そこで過ごした。それだけの短い刑期ですんだのは、たぶん陪審員が同情してくれて、殺人罪にはならなかったせいだろうな。だが刑務所の方が、あいつの農場より何百倍よかったさ」シルーヴァはそばにいたリズム隊の二人を指さし、にやっと笑って言葉を継いだ。
「こいつらとは、その少年刑務所の中で知り合ったんだ。ネッドとリックは見てわかるとおり双子で、アトランタに住んでいたんだが、こいつらの母親っていうのが自堕落な女でね。次から次へと男を取り替え、いろいろな男のもとを点々としてきたわけさ。最近の男というのがアル中の乱暴者で、二人はそいつに耐えかねて、ある日共同でそいつに抵抗し、窓から突き出したんだよ。ところがあいにく、そこは五階だったんでね。その男は死んでしまった。つまり、言ってみれば僕たちは人殺しのバンドさ。君のバンドの他の連中のようなお坊っちゃんたちとは、大違いだな」
 ロック界ではその経歴も決して致命傷にはならないだろうが、それにしても壮絶すぎて、言葉がない。エアリィも同様だったらしく、最初は言葉を出しかねていたようだが、しばらく沈黙の後、言った。
「けどそれって、もう終わったことなんだから。他の解決法があったら本当に良かったんだけれど、でも罪は償ったんだし、今は成功して、もっとも将来有望な新人なんだし。良かった、ホントに……」
 シルーヴァはしばらく黙ってじっと見ていたが、やがて、にやりと笑った。
「本当に変わっていないな、君は……」そしてしばらく黙ったあと、話を続けた。
「僕はそれから、少年刑務所を十七歳と半年の時に出所して、ちょうど同じ時期に出たネッドとリックと一緒にフロリダへ行き、アパートを借りて、三人で暮らし始めたんだ。いろいろな、時には人に言えないような半端仕事をしながら――薬の売人とかの、違法なものじゃないがね――食いつないで、バンドを組んで、クラブを回った。かなりローカルでは成功した。そして三年目にスカウトされ、今に至っているわけさ」
「そうなんだ……」
「君のことは、一昨年の大爆発の時に知ったよ」
「大爆発って、すごい言い方」
「いや、他に言いようはないだろう」シルーヴァは首を振っていた。
「二月の終わりごろだったかな。僕らは今のレーベルと、ようやく契約にこぎつけたところだった。そのレーベル担当はその時、こう言っていた。君たちのデビューを夏にしようと思ったが、時期が良くなさそうだ。年末まで待とう。そのころには、落ち着くだろうから、と。どうして時期がよくないのかと聞いたら、その担当は言った。今、他のバンドがものすごい勢いでブレイクしつつある。たぶんその勢いは確実に夏まで続くだろう。その中でデビューしたら、かすんでしまう可能性がある、と。レーベルの言うことには従うしかないが、僕は内心面白くなかった。インストミュージックは歌ものに比べれば広く浸透はしないかもしれないが、インパクトという点では負けない自負があった。そのバンドはなんというのだと担当に聞いたら、彼は答えた。『AirLace。カナダ、トロント出身のバンドだ。二年半前にデビューしていて、今三枚目なんだが、そのサードで大化けした。バンド全体の力量も飛躍的に上がったが、特にヴォーカルが……まだ、本当に若い子なんだが、モンスターになりそうな勢いだ。本当にとんでもないんだ』と。それで僕はそのヴォーカリストの名前を聞いたら、彼は答えた。アーディス・レイン。仰天したね。なにー! という感じだった、まさに。まさか同姓同名の別人では――まあ、姓はないが、ミドルまでだな――ないだろうなと思いながら、僕は動画サイトで検索して、『Evening Prayer』のビデオを見た。そして間違いなく、君なんだとわかった。あれから十年がたっていても、あの小さな天使ちゃんの成長した姿が今の君なのだなと、すぐにわかる。父さんや母さんがもし今生きていたら、きっと同じようにいうだろう。君はプロヴィデンスから、トロントに引っ越したんだな。そういえば君は、カナダ生まれだったか」
「うん。生まれはたぶんニューブランズウィックだから、国籍はカナダだよ。今でもまだ、アメリカにいた時代の方が長いけど」
「そうだな。それは知っている。かなり片田舎だな。僕も人のことは言えないが」シルーヴァは肩をすくめた。「少年刑務所を出所した半年後の十一月に、ようやく旅費が溜まったんで、僕はプロヴィデンスまで君を探しに行ったんだ。僕は君の住所を覚えていようとしたんだが、君と違って、一度覚えたことをずっと忘れない頭は持っていない。ストリート名までしか覚えていられず、それもかなりうろ覚えだった。だから、手紙が出せなかったからね。君の新しいお父さんの姓は、ステュアートだということだけは覚えていたんだが。だいたいこのあたりだろうと見当をつけた場所を探したんだが、君はいなかった。『ステュアートさんの一家は、八月末に引っ越したよ。六月に奥さんとお嬢ちゃんの一人が事故で亡くなって、それから二ヵ月で。ご主人の連れ子さんは、大学の関係でボストンにいるけれどね。奥さんの連れ子さん? 一緒に引っ越していったよ』と近所の人が教えてくれたが、僕の見た目が怪しすぎたのか、それ以上は話してくれなかった。まさかその三年半後に、パソコンの画面で再会することになろうとはね。そして君は僕との約束を忘れてしまったのか――いや、君は忘れないんだったな。本気にはしていなかったのだな、とわかって、少々悲しくもなったもんだ」
「約束? ああ、あれ? うーん、ごめん。本気だったとは思わなかったんだ。君もどこでどうしているのか、まったくわからなかったし。それに、このバンドに入ったのって、半ば成り行きだったけど、今は僕のホームなんだって思ってる。君がもしまじめに取っていたとしたら、申し訳なかったけど」
「仕方がないな。あれは子供同士が『大きくなったら結婚しようね』と約束したような、そんな類だからな。それで実際結婚したカップルは、そう多くない」
「すごいたとえだけど……当たってるかもね」
「約束って、なんなんだ?」この疑問をシルーヴァにぶつけるわけにはいかなかったので、僕はエアリィにそうきいてみた。
「音楽をやるなら、いつか一緒にやろうねって、彼と言ったことがあるんだ、昔」エアリィは頭を振りながら、小さく肩をすくめて答えた。「僕がサニーサイド農場にいた頃、バーンズの小父さん小母さんは二人とも音楽好きだったんで、僕も小母さんが歌ってる歌を覚えて。で、歌ってたら、ちゃんと聞かせてくれって言われて、毎週日曜日の夕方に、居間で歌ってたんだ。『アメージンググレース』とか『アニーローリー』とか、『カントリーロード』とか、まあ、小母さんの好きな歌をね。シルヴィーがギター弾いてくれて。で、いつか二人でこうやってプロになれたらいいな、ってシルヴィーが言って、でも僕は、大きくなったら何になりたいのか、わからないって言って」
「君は素晴らしい声をしているし、人の心に訴えかける歌が歌える。もし君がその気になれば、大きくなったら、きっと有名な歌手になれる。だから、もし君がプロになる気になったら、僕に声をかけてくれ。僕は君のそばでギターを弾くから……君にそう言ったんだったな、アーディ。で、君は『うん!』と、思い切り頷いていた」シルーヴァが苦笑しながら、そう引き取った。
「だって、七歳前くらいの頃だし……」
「でもまあ、ここで再会できて嬉しいよ、アーディ。僕らはこういうフェスティヴァルは、本来あまり好きじゃないんだが、君たちが出るというから、引き受けたんだ。僕はあの頃からかなり外見が変わったから……名前も変わったし、君が気づいてくれるか、百パーセントの自信はなかったがね。それに今の君はガードが固いだろうし、そもそも君に接触できるかどうかさえ、怪しかったんだが。外に出てきてくれて、ちょうど僕らのホームの前で立ち話をしてくれて、ありがたかったよ。君の声はすぐにわかるからね」
「そうなんだ? ここが君たちの楽屋だって知らなかったけど……でも、ずっと気になってたから、僕もここで君に会えて、ホントに良かった。僕らも本当は、こういうフェスティヴァルって、ちょっと苦手な部分もあるんだ。でもマネージメントが、一回くらい出てみたらって言うから。それでまあ……でもみんな、誰もモーターホームから出ないし、僕は出たいって言ったら、ロブやモートンが『あまり動くな』って止めるし……でもジャスティンが出てったから、じゃあ僕も、って出たんだ」
「そうか……じゃ、僕が出なかったら、おまえも出ては来なかったのか?」僕は思わずそう問い返した。
「わかんないけどね。わがまま言って、出ちゃったかもしれない。せっかくのオープンエアだから、やっぱ外に出てみたいって気はあったし」
「時間の問題、か」僕は苦笑した。「おまえの性格だと、あるだろうな。でも、僕らは当然だが、おまえもフェスティヴァル参加がさほど乗り気じゃなかったのは、少し意外だったけどな」
「んー、雰囲気そのものとか、お祭りっぽい感じとかは、わりと好きなんだけど、ざわざわし過ぎって感じが、あまり好きじゃないんだ。それに、拘束時間とか長いから、暇だし。だって今、四時過ぎだけど、やっと最初のバンドが始まったくらいで、僕らが出るのって、十時だよ。それにこの会場、大きすぎ。後ろが遠すぎて、全体をつかみにくいな」
「それは言えるな」僕は肩をすくめた。それでも彼は全体を――二十万超の観衆を掌握してしまうんだろうな、と思いながら。そしてころあいと見て、僕は立ち上がった。
「僕はそろそろ戻るよ。おまえはどうする?」
「んー、もうちょっといたいな。ここにいてもいいなら」
「おいおい、十二年ぶりの再会なんだから、君までそう慌てて帰らないでくれよ、アーディ。まだ僕らの出演時間まで、二時間あるんだ」シルーヴァは苦笑して肩をすくめている。
「うん。じゃあ、ジャスティン。戻ったら、悪いけどみんなに言っといてくれる? 僕はまだ、しばらくここにいるって」
「いいよ」僕は頷いた。
「でも、あまり長居すると、みんなが心配するだろうから、早く帰ってこいよ」
 本当は、言う必要のない言葉だったかも知れない。でも、思わずそう口から出てきた。
「わかった。一緒に来てくれて、ありがと、ジャスティン」
 エアリィは特に気にした風でもなく、片手を上げていた。僕は頷くと、「邪魔したね」と、シルーヴァ・バーディットとリズム隊の二人に言い、彼らのホームを出た。シルーヴァも他の二人も、なにも言わなかった。腕を組み、ふっと笑みを浮かべただけだが、その笑みには友好性のかけらも感じられなかった。そういえば、彼はここに来てから、本当に一、二度チラッとしか、僕に目を向けていなかった。直接僕に向かって、言葉をかけてもいない。最初から、僕は招かれざる客だったわけか。

 SBQのモーターホームを出ると、数メートル離れたところに、セキュリティのジャクソンがまだ立っていた。隣には僕のセキュリティ、ホッブスもいて、二人で何か話している。ジャクソンが僕を見て、「どんな感じですか?」と聞いてきたので、「ああ、大丈夫だよ。本当に彼らは旧友みたいだ。まだエアリィはしばらく中にいるらしいけど、そんなに心配しなくてもいいんじゃないかな」と答えた。
「そうですか。ありがとうございます」
 ジャクソンは少し頭を下げてそう答えたが、その場を動こうとはしなかった。
 僕は自分たちのモーターホームへと、足早に向かった。ホッブスはそのままジャクソンと話していて、ついてはこない。振り返ると目が合うので、僕を見てはいるようだが。
 モーターホームに戻りながら、内心あまり愉快ではなかった。でも、なぜだ? エアリィとシルーヴァ・バーディットが、昔農場で一緒に過ごした幼なじみだったからと言って、僕には関係のないことだ。エアリィにとっては、長いこと音信不通になっていた幼友達と再会できたのだから、良かったのだろう。相手がもう少し僕に対しても友好的でいてくれたら、これほど気分が波立たないのだが。
 シルーヴァ・バーディットの境遇には同情できる。でも彼は僕の同情など、決して求めていやしないだろう。彼は、僕にあまり良い感情を持っていない。はっきりそう感じる。僕があまりに苦労知らずに育っているせいか? それとも、昔の約束をそれほど真剣に思っていたのか? 自分の立場を奪ってしまった僕に、ライバル的な意識を持っているのか? 子供の時の約束など当てにはならないと、本人も認めてはいたが。

 僕は頭を振り、楽屋に戻った。そしてみなにこの訪問の顛末をすっかり話した。みなもどことなく複雑な表情を浮かべていたが、ミックが肩をすくめて言った。
「仕方がないね。エアリィはプロヴィデンスにも友達がいるし、僕らの中では交友関係が広い方だから。彼らがこちらに妨害を仕掛けてくるとかでない限り、あまり気にしない方がいいよ」
「まあ、思ったより世間は狭いということだな」と、ジョージも肩をすくめている。
 それはそうだ。僕は納得し、それからずっと自分たちのモーターホームで過ごしたが、結局エアリィが帰ってきたのは、僕らの出演時間の四十分前だった。途中何度かセキュリティのジャクソンがロブに携帯電話で状況を報告してきたから、そしてその電話をロブが僕らにも聞こえるように設定したため、僕らも彼の動静を把握は出来たが。SBQの出演直前までは『まだモーターホームから出てきません』で、彼らの出演時には『今、ゲストボックスで見てます。俺も一緒にいます』その後は『またモーターホームへ行きました。外で見てます』そして九時過ぎになってようやく『これから戻ります』そしてその直後に、『あ、エリアの外から知り合いのジャーナリストに呼ばれてしまって、そっちへ行ってしまいました』
 僕らはその報告を聞いたとたん、いっせいに「おいー!」と声を上げ、ロブはたまりかねたように立ち上がって、「こっちは準備もあるんだ。プレスに捕まったら、いつ帰れるかわからないぞ。早く戻ってくるようにエアリィに言ってくれ! いや、僕が行く!」と、携帯電話を片手に、出て行ってしまった。専属スタッフのカークランドさんは苦笑いを浮かべ、「やれやれ、きっと、ろくに食べていないんだろうな」と言いながら、いつも持ち歩いているブレンダーに果物を放り込んでいる。十二年ぶりの再会で、積もる話もあるだろうが、相変わらずだ。『わかった』なんて言ったくせに、『早く帰って来いよ』という言葉は、全然気にとめていないのだろう。

 ロンドンでは日曜日だったこともあり、二時スタートで、僕らが出るのも八時だったが(その時間帯は、このあたりではまだ明るい)、ディナータイムに戻ってきたのと、出演一時間前に帰ってきただけまし、という程度で、それ以外はベルリンの時とそう変わりはない。セキュリティのジャクソンがずっと見守っているので、完全な一人ではないのが幸いだが、妙にアクティヴなのは困りものだ。
 コンサート自体はベルリンも、三日後のロンドンも、ともにいつも通りやれた。僕も包帯を取ってステージに立つと、手の痛いのは忘れた。火傷も忘れ、いつになく気合が入ったのは、ゲスト用ボックスに立って僕らのステージを眺めていたSBQの面々を意識したせいもあるだろうか。特に、シルーヴァ・バーディットには負けたくない。無様なプレイだなんて、せせら笑われたくない。ステージの陶酔の上に、その思いがスパイスのようにふりかかっていたためかも知れない。
 ベルリンとロンドン、二度のフェスティヴァルが大盛況のうちに終わり、同時に、僕らのワールドツアーも終わった。去年の秋からほとんど一年にわたる、長いロードが。帰りの飛行機の中で、思わず深い深いため息がもれた。これでやっと長い夢からしばらく解放される、と。

 休暇の最初の二ヶ月ほどは、夢のように楽しく過ぎていった。二週間ずつバハマとプリンスエドワード島に滞在し、家にいる時は、妻と小さな息子と一緒に緊密な時間を過ごした。どこにいても、楽園のようだった。穏やかな幸福感とともに、時間はのんびりと過ぎていく。僕の心は身体と一緒に大きくのびをし、家族という安住の地に身を横たえた。

 休暇があと一ヶ月足らずとなった十月後半、僕は少しだけミュージシャンに戻り、四、五日ほどの予定で、ロンドンに飛んだ。ディーン・セント・プレストンという有名なロック歌手のために一曲ギターを弾いてくれというオファーを、引き受けていたからだ。基本的に僕は出来るだけ休暇を優先したいし、他のバンドでギターを弾くことも、やったことがない。僕は基本的に人見知りだし、今の仲間たちとの関係があまりにも心地よすぎ、それに慣れきってしまったので、他の人たちと演奏することは、かなり違和感があるだろうと思ってしまうためだ。だから、課外活動はしたくないし、興味もない。でも、今回参加したアーティストだけは別だった。彼が以前在籍していたバンドは、僕が最初に好きになったバンド。ローレンスさんたちのバンド、スィフターに出会うまでは、一番のお気に入りだったからだ。僕がファンになった時には、すでに彼らは解散した後だったので、リアルタイムに新譜を追いかけたことも、コンサートに行ったこともなかったが(スィフターも、最後のアルバムが、ぎりぎりリアルタイムだった)、もう少し早く生まれたかったと、痛切に思ったものだ。
 どうしても同業に目がいくので、一番好きだったのはギタリストなのだが、シンガーも嫌いではない。DVDで見ただけだが、以前の彼は素晴らしいエンターティナーだったと思う。今はソロ名義で数年に一度アルバムを出し、短いツアーを散発的に行うだけで、以前の輝きはほとんどない。それでも僕にとって、あこがれの人の一人だった。
 ロンドン行きに同行したのは、専属クルーのジミー・ウェルトフォード一人。ロブは少し心配だったらしく、自分も一緒に行こうかと言っていたのだが、別に彼の手を煩わせなくとも大丈夫だろうと思った。四日ほどロンドンに行ってちょっと仕事をするのに、物々しく行く必要はない。相手によけいな負担をかけてしまうかもしれないし、もったいぶってと思われるかもしれない。僕自身も身軽に行きたい。本当はギターのメンテナンスくらい自分で出来るので、ジミーの同行も、あまり必要を感じてはいない。でも一人だけで行くのは、ロブが許可しなかった。チームJ、僕の専属セキュリティとクルーを、両方が嫌なら、せめてどちらか一人を同行させろと。マイクとジミー、二人のうちのどちらかと言うなら、断然ジミーだ。ギターテクがそばにいた方が何かと便利だし、ジミーは以前ロンドンにいたこともあるので現地に詳しい。それで、僕は彼と一緒に行くことにしたのだった。

 トロントをたったのは朝でも、六時間のフライトでロンドンに着いた時には、すっかり夕方だった。ヒースロー空港に降り立った僕を迎えたのは、プレストン氏のマネージャー補佐と名乗る、三十代半ばくらいの穏やかな印象の男性だ。そして大きな黒塗りのリムジンで、市内の高級ホテルの一つに案内された。広いスイートルームに、大きなダブルベッド、それに控えのシングルルームがついている、立派な部屋だ。部屋のドアは一つで、スイートルームから連結ドアで、シングルに行くようになっていて、僕は大きいベッド、ジミーは控えのシングルルームを使うことになる。食事については『ルームサービスかホテルのレストランで、お好きなものをご注文して下さい。お部屋番号をおっしゃっていただければ、すべてチェックアウト時に精算になりますから、その時に私どもでお支払いいたします。あなたは一切手続きをしていただかなくとも、大丈夫です』とのことだった。  その夜は時差ボケで、なかなか寝つかれなかった。友人がライヴハウスに出るので一緒に見に行ってくれないかとジミーに誘われたが、あまり気乗りがせず断った。ライヴハウスなんかに行って、正体がばれたら騒がれるに決まっているし、煩わしい。ジミーだって自分ひとりのほうが、僕と一緒よりも気楽だろうと思えた。
 ルームサービスでともに食事をとった後、彼は出かけ、僕はホテルに一人残った。眠れない長い夜に、退屈を紛らわせる相手もいない。仕方がないからルームサービスでスコッチの水割りを頼み、映画のDVDで時間を潰した。やっと眠れたのは四時近かった。
 寝るのが遅かったせいで、翌日起きたのは十二時ごろだった。でも約束は三時からだから、あわてる必要はない。ルームサービスで遅い朝食をとり、シャワーを浴びて着替える。時間は充分あった。

 再びリムジンで連れていかれたスタジオで、僕は初めてプレストンさんに会った。彼は僕と同じくらいの背の高さだったが、結構厚底のブーツを履いている。それを差し引けば、エアリィやロビンより数センチ高いだけかもしれない。そして昔のスリムな体型はどこへやら、今は相当以上に押し出しが良くなっていた。縮れた黒い髪には金色のメッシュを入れているが、どうやら白髪隠しの意味もあるようだ。派手な模様のついた絹のシャツに黒いレザーパンツ、黒いサテンのベスト、その上から銀色ジャガードのジャケットを羽織っている。スタジオワークなのに、この人は普段からこんな格好をしているのだろうか。ぷっくりとした手には指輪が三つはまり、蛇をかたどったブレスレットを付けていた。たぶん銀ではなく、プラチナだろう。蛇の目には、ダイアモンドがはまっている。時計もどうやらカルチェの純金らしい。首には、太い鎖に編んだ金のネックレスを二重に巻いていた。だが、その顔ははっきりと年令を感じさせ、少したるんでもいて、おまけに二重顎だ。
 なんとなく幻滅を感じた。二十代の頃はあれほどかっこよかった人なのに、年には勝てないのだろうか。僕ももし何事もなく二十年が過ぎたら、その時にはこんな風になるのだろうか。あまり想像したくなかった。いや、若さをとどめながらも、熟成されたように年齢を重ねることだって、できるはずだ。ローレンスさんのように。
「これはこれは、ジャスティン・ローリングス君だったね。エアレースのギタリストの。いや、あまりに普通の格好だから、新しいローディーかと思ったよ」
 いきなりこの挨拶だ。たしかに僕はフードのついた黄色いプルオーバーにブルージーンズと濃いオリーブ色のブルゾンというまったくの普段着だったが、ステージやフォトセッションならともかく、スタジオではこの方がリラックスできて好きだ。時計も銀のダイバーウォッチだし、アクセサリーもほとんど付けていない。靴もナイキのスニーカーだ。バンド全員がそんな感じなので、他のアーティストがどうかなどとは、まったく考えていなかった。少しはドレスアップした方が良かったのか。あまりにもラフな格好だから敬意が足りないと、イギリス人らしく感情を害したのだろうか。でも、今さら仕方がない。 「初めまして。お目にかかれて光栄です。どうかよろしくお願いします」せめて言葉は丁寧にと気をつけながら、頭を下げると、「ああ、よろしく頼むよ」と、相手も笑って手を差し出してくれた。

 握手を交わしたあと、彼は自分のスタジオでの苦労話やら全盛時代の話を、たっぷり一時間はしゃべっていた。僕にとっても、かつての憧れのバンドの現役時代のエピソードなどは、それなりに興味深く聞けたのだが、あまりにも見方が彼中心で、自分のことしか語らず、おまけにかなり自画自賛風味が混じっているように感じられた分、少しうんざりした気分も感じた。
 そのあと、やっと曲を聴くことができた。リズムトラックからヴォーカルまで全部録音が済んでいて、リードギターパートだけが仮音になっている。あとは僕がギターをかぶせるだけというところまで完成された音源を聞いた正直な第一印象は、なんだかつまらない曲だな、というものだった。しかし、そう言ってしまっては、身も蓋もなさ過ぎる。だが考えてみたら、バンド時代の彼らに惹かれたのは、曲もさることながら、ギタリストの力量と、ヴォーカルとギター、タイプは全く違いながら、一緒になると生まれる調和と緊張感、それが魅力的だったからだ。それゆえ僕はプレストンさん単独の作品は、ほとんど聞いていないほどだった。僕がそのギターの代わりを、と思ったが、僕はそのギタリスト、カール・シュミットさんとは少しタイプが違うと自分でも思うし、今のプレストンさんに全盛期のパフォーマンスも期待できないだろう。
 微かなため息を押し殺し、もう一度曲を聞いてみた。やっぱりつまらない。最近の彼のレパートリーにしては、比較的ロック味がある部類だし、リズムセクションも、そこそこグルーヴしているが、でも、本当にそれだけだ。
「譜面は出来ているんだよ。その通り弾いてくれればいい。ただイントロとギターソロは、君にお任せするよ」
「わかりました」僕は頷き、譜面どおり弾いてみた。三回ほど通して練習し、本番は一発OKとなった。僕の自由裁量になったイントロとギターソロは、なかなかインスピレーションが湧かず、何回か試行錯誤を重ねたのち、ようやく『これが一番まともかな』と思うものを本番で弾いた。すぐにOKが出たものの、満足が行く出来とは、とても言えない。僕はひそかにため息をつき、頭を振った。バンドでソロやイントロを考えている時、レコーディングをする時、そこには多くの刺激や喜びがあり、高揚感があり、達成感があった。でも今は無味乾燥だ。リズムセクションは上手なだけで平凡だし、リズムギタリストもしかり。ディーン・セント・プレストンさんもたしかに上手いシンガーには違いないが、上手いだけで感動がない。それに年齢のせいか、その声は全盛期より明らかに劣化している。
 ああ……僕は気づいた。AirLaceというバンドは、特別なのだ。僕は未踏の領域へたどりついたバンドに、今はいるのだ。アーディス・レインという人間を超えたシンガーが作り出す、特異な音楽空間にずっとこの身を晒されている今の僕が、たとえどれほど卓越したシンガーであろうと、所詮ただの人間である他の人たちと組んで、刺激を得ろという方が無理なのだ。ディーン・セント・プレストンさんが悪いわけではない。

 ギターパートの録音が終わったのは、その夜の九時ごろだった。
「いや、さすがだ。若々しいね、君は。いや、実際若いからなあ。二二だっけ。さすがだ。曲がぱっと若返ったようだよ」プレストン氏はそんなコメントをした。その表情は満足そうではあったが、かすかな苦みも感じて、僕は少しためらいがちに尋ねた。
「良いですか、これで……?」
「良いよ。素晴らしい。やっぱり君にやってもらって、よかった」
 プレストンさんは僕に向き直り、笑顔を見せた。
「ありがとうございます……」
「君がこれほど弾ける人だとは思わなかったな。カールの全盛時代よりも凄いよ」  カール・シュミットさんは、アーノルド・ローレンスさんがその座を取ってかわるまでは、僕が一番好きだったプレイヤーだ。決して派手なプレイを見せびらかすタイプではなかったため、ギターヒーローと呼ぶには少し地味だったけれど、誰もが認める超一級の実力を持った人だった。
「そんな。僕はあの人ほどは……」
「いや、本当だよ。テクニックに関しては、カールはかなりのものだったが、フィーリングやソロのセンスなんかは、君の方が断然良いね。これは決してお世辞じゃないよ。断言しよう。君は世界一のギターヒーローになれる素質があるよ」
「まさか……」あまりに大げさな賛辞に、思わず肩をすくめたくなる。
 プレストン氏は声を上げて笑い、運ばれてきたコニャックの水割りに口を付けながら続けた。「ただし、今のバンドにいては、だめだがね」と。
「えっ!?」僕は差し出された紅茶を飲みかけていたところだったが、その言葉に思わず手を止め、受け皿に少しこぼしてしまった。
「だめだよ、当世一のギターヒーローが引き立て役じゃ」彼は笑みを浮かべながら、まるでからかうように言った。「そんなのがあるかい? 世界一のギターヒーローともあろうものが、バンドでは永遠にナンバー2で、他人の引き立て役をやっているなんて。それじゃあ、ヒーローたる資格はないよ。まあバンド自体は今や当世一の売れっ子だけどね。だが、誤解してはいけないよ。それは君自身の栄光ではない。君も感じてはいるだろうがね」
 はっきりとそう言われて、思わず頬に血が上るのを感じた。
「まあ、たしかにそうかもしれませんけれど……」僕は頷いて一息吸い込み、相手を見据えた。「バンドの成功は、僕ら全員の栄光だと思っていますよ。少なくとも、僕ら自身はみんな、そう信じています。それに僕は、世界一のギターヒーローになんて、なりたくはないです。以前あなたたちのバンドにいたカール・シュミットさんと同じで、バンドの音楽を確実に支えていく、インストのリードパートとしての責務が果たせれば、それで満足なんです。ナンバーワンになりたいとは思わない。僕は今のバンドにいるのが楽しいんです」
「ほう、カールのように、か……」彼はグラスの中身を一気に飲み干すと、ため息と一緒にきいてきた。「君はカールが今どうしているか、知っているかい?」
「いえ。ベースの人と一緒に新しいバンドを結成してから、しばらく活動していたのは知っていますが。アルバムを二枚出して……僕はリアルタイムでは、あなた方の現役時代を体験していないので、後追いなんですが……だから、リリースされて何年かたってから、アルバムを手に入れて聞いたんです。中古ショップで。もう普通のレコード店にはなくて。作品自体は、かなり好きでした。でも、あまり商業的には成功しなかったと聞いて……そういえば、僕があなた方を追いかけだしてから、カールさんの動向は何も聞いていないですね。気にはなっていましたが。今はもう、現役を引退されているんですか?」
「引退というか……彼は廃人だよ、もう。元々バンドの後期から、かなり酒浸りだったが、新しいバンドがあまりうまく行かなくて、よけいひどくなってね。そう、君も知っての通り、彼はベースのマーティンを連れて脱退し、新しくドラマーとヴォーカルを入れてバンドを作った。そしてアルバムを出した。ところがそのセールスは、僕らのバンドの十分の一にも届かなかった。そのあとヴォーカルが引き抜かれて脱退し、オーディションでもいいのが来なかったために、二枚目は三人のインストバンドになったが、当然のことながらセールスはますます落ち、前作の半分にも届かなかった。そしてレーベルに見放されて、カールのバンドは解散した。僕はカールが脱退してから、彼と直接連絡は取っていないんだが、知り合いの人脈から聞いたんだ。彼は新しいバンドでは、ますます酒びたりで、さらにドラッグにも溺れて、彼のバンドが解散した四年後に、危うく死にかけて病院に担ぎ込まれたそうだ。その後遺症で頭がダメージを受けて、いかれてしまった。奴の女房はその二年前に娘を連れて離婚し、両親や兄にも縁を切られ、誰も引き取り手がいないものだから、今は田舎のリハビリ病院に、ずっと入院しているらしい。彼はもう自分が誰か、わかっていないという。元通りになる見込みも、ほとんどないらしい。本当に救いのないありさまさ」
「ええ……?」僕は思わず絶句した。あの人が? あれほど憧れたカール・シュミットさんが、今ではそんなことになっているなんて。
「なぜそんなことになってしまったか、君にはわかるかい?」
 プレストンさんはグラスを置き、僕の目をのぞき込むように見た。
「奴は自分の正直な気持ちを、誤魔化しすぎたんだ。バンドは四人の共同体だ。誰が欠けても成り立たない。みんなが自分にしかできない役割を果たして、僕らの音楽が出来ている。誰がナンバー1だろうが2だろうが関係ない。バンドの栄光は、みんなの栄光だ。そう、あいつはまさに、今の君と同じことを言っていたよ。インタビューで、しょっちゅうそう言っていた。君もたぶん、その発言を本気にしたんだろうな。だが、それは建前でしかないんだ。彼の本心は、たいへんな野心家だった。自分が中心になれないフラストレーションを、そんなきれいごとで誤魔化していたにすぎなかったのさ。そのフラストレーションを酒や薬で紛らわせることができた間は、まだ良かったんだろう。だが、とうとう我慢できなくなったらしい。あれは……そうだ、最後のアルバムのレコーディング中だ。我々はある曲で、意見が対立した。そういうことは、まあ、よくあることだ。僕もその時には、それほど重く受け止めてはいなかった。だが彼はいつになく激しく言いつのってきた。おまけに僕がどれほど彼のやりたいことを邪魔しているかと、あげつらい始めた。僕もかっとなって反論した。今まで思いもよらなかったことだったからね。そうしたら彼はギターを床に叩きつけて壊し、スタジオを飛び出していった。そしてもう戻らなかった。次の日、奴はバンドを脱退すると通告してきた。僕らメンバーやマネージャー、スタッフも含めて連絡を取ろうとしたが、無駄だった。ベースのマーティンは、前からカールに相談を受けていたらしい。申し訳ないけれど、カールと行動を共にする約束だからと、レコーディングが終わった後、一緒に脱退した。僕とドラマーのジョンは仕方なく、残ったギターパートをスタジオミュージシャンに依頼し、アルバムを仕上げた。僕はもう、誰かと共同作業なんてたくさんだと思い、ツアーが終わった後、バンドを解散させた。カールのその後は、さっき話した通りだ。あいつは限界まで我慢しすぎたせいで、僕らのバンドを破壊し、自分の人生も破壊したんだ」
「そんな……」
「限界まで我慢するなんて、結局ろくなことにはならないんだ。人間、もっと自分に素直になった方がいい。誰でもみんな、自分が王様になりたいのさ。その気持ちを認めて、もっと早く解放していたら、カールもあんなことにはならなかったはずなんだ。話し合いの余地はあっただろうし、バンドを抜けるにせよ、もっと円満に脱退できただろう。酒や薬浸りにもならなかったはずなんだ。君だって、その気持ちはあるのではないのかい?」
「そんなことはないです。僕は……」
「そうかい。それなら幸いだけれどね」彼は頷いたが、その顔は納得していないようだった。(相変わらずきれいごとを言って、認めないんだな)表情がありありとそう語っている。僕は再び頬に血が上るのを感じた。
「まあ、君たちが十年後に、僕らと同じような顛末をたどっていなければいいと思うがね」
 プレストン氏は、ふふっと笑ってそんなことを言う。
 十年後? 十年後の世界なんて、もうすでに断崖の先なのだから、そのころどうなっているかなんて考えるのは、無に等しい。そう思ったら、昂ぶりかけていた気持ちが、すとんと落ちたような気がした。残された時間は、あと六年しかない。その間に僕らが……僕がそこまで落ちることは、まずないだろう。ゴールからはずれるようなまねは、絶対出来ない。カール・シュミットさんは気の毒だと思うが、僕は彼とは違う道を歩むつもりだ。




BACK    NEXT    Index    Novel Top