The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

五年目(2)





 八月半ばに、二度目の北米ツアーも終わった。その五日後にベルリン、二日おいてロンドンで開かれるロックフェスティヴァルに出演すれば、一年近くに渡る長いロードも、ついに終わりだ。最後の一仕事に出る前、つかの間の休日を、僕らは自宅で過ごしていた。
 休日二日目の朝、一晩ぐっすり眠って気分良く目覚めた僕は、シャワーを浴びて着替え、朝食のテーブルについた。クリスを幼児用の椅子に座らせ、専用のエプロンをつけてから、クリームをかけたミルク粥を食べさせてやるのも、僕が家にいる時の、いつもの習慣だ。でも僕が夏のロードに行っている間に、息子は一人で食べることを覚えたらしい。小さな手にスプーンを握り、一生懸命お粥をすくって口に運ぶ。まだトレーの上にかなりこぼすが。いつも帰ってくるたびに、息子の成長に驚かされる。
「へえ、えらいね、クリス。一人で食べられるんだね」
 笑いながら声をかけると、クリスも得意げににっこり笑い、再びお粥に挑む。ストローカップの中のオレンジジュースも一人で飲み(コップを持ち上げないでテーブルに置いたままだから、少し屈みこむ感じになるが)、器に盛られたカットフルーツを、手を伸ばしてつかみ、頬張ってもいる。息子の食事にあまり手がかからなくなったので(後始末は、少し手がかかりそうだが)、僕も自分の食事に専念していた。
 そこへ出勤してきたトレリック夫人が、コーヒーのポットと、カップを二つ載せたワゴンを押してきた。ステラはそれをポットからカップについで、僕に手渡そうとした。ちょうどその時、ふっとクリスが手を伸ばした。果物を取ろうとしていたのかも知れない。その小さな手が、運悪くコーヒーカップとぶつかってしまった。
「あっ、危ない、クリス!」僕はとっさに手を伸ばし、息子を後ろに引き戻した。同時に、空いた方の手でカップをつかむ。そのとたん、焼けるような痛みを感じた。
「あっ!」僕は思わず短い叫びを上げて、手を引っ込めた。
「ジャスティン、大丈夫!?」ステラが叫ぶ。「ごめんなさい。火傷したの? 急いで冷やさないと……」
「ああ。大丈夫だよ。気にしないで。僕のことはいいから、クリスを頼む」
 べそをかいている息子に「大丈夫だよ」と笑ってみせた後、僕は急いで洗面所に飛んでいき、水道の水を流して冷やした。冷たい水が心地良いが、熱いコーヒーをかぶってしまった手全体が、赤く腫れてひりひりする。
「困ったな……」ひと通り手当が済んだあと、思わずそう呟やかずにはいられなかった。まだロードは終わりではない。ヨーロッパで開かれる大きなフェスティヴァルに、二回出なければ。しかも、僕らはメインアクトだ。それなのに、ギタリストの命とも言える手をケガするなんて。
 次の日には、かなり腫れと痛みはひいたが、まだ手を動かすと痛い。水泡にもなりかけているようだった。その翌日の午後、空港でバンドのみんなと落ち合った時も、やっぱり左手の包帯が驚かせたようだ。
「ちょっとドジを踏んだよ。コーヒーをかぶっちゃって」つとめて軽い口調で僕は、火傷の経緯を語った。みんなは、「それじゃ仕方ないけど、プレイは大丈夫?」と、聞いてくる。
「大丈夫さ。大したことはないんだ。演奏はちゃんとやれるよ」僕は頷いた。

 それから二日後、いよいよ本番の日を迎えた。フェスティヴァルの一回目は、ベルリン。手は本調子とは言えないが、リハーサルでは、なんとか演奏はこなせた。
 野外フェスティヴァルに出るのは初めてだが、独特の雰囲気だ。広いバックステージエリアに出演者用のモーターホームやテントがたくさん並び、出演者やその関係者、それぞれのスタッフとクルー、さらに主催者側のスタッフたちなど、かなり大勢の人たちがいる。観客席側とはステージをはさんで高いバリケードで仕切られ、警備の人もいて、隔離されている。その様子をモニターしたものが出演者スペースにいくつかあるため、こちらからでも見られるが、まるで広大な人の海のようだった。後ろのほうの観客たちのために、ところどころにスクリーンが立てられ、スピーカーを吊り下げた柱が、いくつも立てられている。両側はフードコートとトイレが並び、どこも長蛇の列だ。観客たちはビーチボールを飛ばしたり、座ったり立ったり、食べ物や飲み物を求めて移動したり、今のところはまだかなり動きがある。
 この日は木曜日だが、まだ八月のバケーションシーズンでもあり、学校も夏休みであることもあって、三時ごろには相当な密度になってきていた。座っている人もかなりいるが、隣の人と身体が密着している。主催者いわく、ここはキャパ上限の二十万人、ロンドンではやはり上限いっぱいの二四万人が来るという。一度にそれだけの数の観客を相手にするのは、僕らにも初めてだった。
 この日は僕たちを含めて六組が出演する予定で、最初の出演バンドは、四時から演奏がスタートする。僕らが出るのは夜の十時くらいなので、それまでの時間、かなり暇だ。それに他の五組の出演者たちとは、ほとんど面識がない。五組のうち四つは、音楽的にもたいして興味をそそられなかった。僕らの三つ前に出演するアーティスト以外は。去年話題になった天才ギタリスト、シルーヴァ・バーディット率いる三人組のインストバンド、彼の名を冠してシルーヴァ・バーディッツ・クエイサー、略してSBQ。一昨年のクリスマスに出た彼らのデビューアルバムは、全米やヨーロッパで、インストアルバムとしては異例の枚数を売っている。デビュー一年半の新人というのは、今回の出演者の中で一番キャリアが浅い。それにも拘わらず出演順が三番目なのは、彼らのアピールや人気度が強い証拠だろう。
 でも、彼らに謙虚さや礼儀はまったくないな。それが、僕の第一印象だった。三時半ごろ、バンド用のモーターホームを出て、全体に用意されている大きなケータリングテーブルに飲み物を取りに行った時、僕はシルーヴァ・バーディットとすれ違った。腰まで届くような長い黒髪、フレンチスリーブの真っ赤なシャツからのぞく浅黒い腕には、派手なタトゥーが刻まれている。左腕にドラゴン、右はバラの花と蝶の意匠だ。右の手首にぴったり密着した、黄金の蛇をかたどったブレスレット。胸にかけた首飾りは、合わせて三つ。膝が抜けたジーンズ、素足にサンダル。これでも普段着なのだろうが、その存在感は圧倒的だ。
 彼はドリンクテーブルから戻ってくるところで、同じような格好をして同じように背の高い、二人の男を従えていた。バンドのリズム隊だ。彼らはラテン系の双子らしく、顔は似ているが、ベーシストは派手にパーマをかけ、ドラマーの方は見事なモヒカンだった。
 シルーヴァは左手に持ったカップを飲みながら歩いていたが、すれ違いざま、僕の方をちらっと見た。向こうの方が背は高いので、なんとなく見下ろされるような感じだ。おまけに一緒にいる二人も同じような背格好なので、まるでセキュリティに囲まれているような錯覚さえ覚える。
 僕も目を上げ、挨拶程度は言おうとした。「初めまして」とか、「よろしく」そんなようなことを。だが彼は、こちらが何かいう前に左手の包帯に視線を投げて、口を開いた。 「ふん。ギタリストのくせに手にケガするなんて、不注意だな」
 思わずむっとした。たしかに僕もそう思うが、いきなり挨拶も抜きで初対面の同業者、しかも後輩に言われる筋合いはない。彼は僕よりたしか二才ほど年上だし、デビューが早いだけで先輩面をするつもりはないが、それにしても礼儀知らずだ。
 僕は頭を上げ、言おうとした。『たしかに不注意なのは認めるけれど、絶対プレイに響かせたりはしない。第一、君にそんなことを言われる筋合いはない』と。
 しかし、彼は立ち止まらなかった。すたすたと自分たちのホームに向かって歩いていく。リズム隊の一人が何か言い、彼らは一斉に笑った。何を言ったか知らないが、自分のことを言われたようで感じが悪い。でも追いかけていって反論するほど、事を荒立てるのもいやだった。僕ら二人が接触したと、回りにいた取材陣が一斉にこっちを見ている。これ以上関わったら、彼らに絶好のネタを提供するだけだ。

 僕は肩をすくめ、テーブルに行った。回りにいた人たちがさっと道をあけ、僕はセットされた紙コップを取ると、ビールのタンクから注ごうと手を伸ばした。その時、一人だけどかないでそばにいた人が同時に手を伸ばしたので、僕は思わず手を引っ込め、相手の顔を見た。もうベテランの域に達している、僕らのすぐ前に出るバンドのギタリストだ。このバンドは知っているが、僕の趣味には合わなかったので、音楽はほとんど聴いたことはない。でも彼らは僕らより、十年以上先輩のはずだ。
「あっ、どうぞお先に」僕は反射的にひいた。
「いや、これは悪いね」
 相手は満足そうにビールをカップに半分ほどつぐと、ゆっくりと中身をすすっている。
「君は礼儀を知っているね。トリだからと言って威張らないし。さっきの奴とは、えらい違いだ。まだ新人のくせに、ちょっと人気が出たからっていい気になって、俺を押しのけたんだ。でかい図体で、弾き飛ばされるかと思ったよ。あの男、半分ニ○ロのくせに。ジミ・ヘンドリックス気取りなのかね。まったく気分が悪かったよ。そこへ行くと君は良くできているね。さすがに育ちが良いと、違うものだね」
「あっ……ああ、そうですか? それはどうも、ありがとうございます」
 僕は曖昧に笑い、自分の分をついだ。その人とは話をする気が起こらず、そのままテーブルを離れた。その後ろから、微かな声が聞こえた。「ち、あいつもお高くとまってるな」と。僕がさっさと場を離れたので、気を悪くしたのだろうか。
 あの人はずっとあそこでビールを飲み続け、誰か来るたびに鉢合わせをして、相手がどう出るか試しているのでは――なんとなく、そんな気がした。それで、自分のステータスを確認しているのだろう。まったく、このフェスティヴァルの同業者には、ろくなのがいない。出演者エリアを出ようものなら、すぐに取材陣が追いかけてくるし、カメラマンはフラッシュを浴びせてくる。僕は他の出演バンドの面々より、かなり格好はシンプルだから(オリーブグリーンの絵つきTシャツにフェードブルーのジーンズ姿だ)、普通の写真しか撮れないだろうが。他の出演者には話をしたい相手もいない。早く帰ろう。

 モーターホームに戻る途中で、ちょうど出てきたエアリィに会った。彼も僕らの例に漏れず、服装はシンプルだ。フードとワンポイントのついた水色のTシャツにインディゴブルーのストレートジーンズ、白いスニーカーというスタイルだ。彼は元々細い上に、いつもトップスは一、二サイズ大きいものを着るので、かなりゆったりしていて、丈も長い。胴が短く、その分足が長いこともあってか、いつも太ももの上部まで来る。それも彼の女性説を裏付ける疑惑の一つらしいが――いつも前を隠しているという。だが、体型と好みゆえの、偶然に過ぎないのだろう。今やこのバランスのスタイルはアーディス・レインのトレードマーク的な感があるが、仮にどんな地味な格好をしていたとしても、他の派手な格好の連中より目立って見えるだろう。彼は何度か「外へ行きたい」と言っていたが、ロブやカークランドさんが止めていた。それでもやっぱり、出てきたのだろう。ただ一人ではなく、二、三歩ほど離れたところで、セキュリティのジャクソンが見守っている。そういえば、僕のセキュリティ、ホッブスはどこにいるんだ?
「あれ、ジャスティン。なんだ、もう帰るの? さっき出てったばっかじゃないか」
 エアリィは僕を見ると、ちょっと怪訝そうに聞いてきた。
「ああ。ビールも取ってきたし、もう用はないから。おまえは今、出てきたのか?」
「うん、僕も飲み物取りに行こうかなって思って。せっかくいい天気なんだし、オープンエアなんだから、出ないのも、もったいないし」
「いい天気っていうより、暑いだろう。おまえ、暑いのは苦手なんじゃないか?」
 僕はちょっと肩をすくめた。
「うん。でも、こういうからっとした暑さは、そう嫌いじゃないよ。夏なんだな! って気がするし。この中でプレイするわけじゃないし」
「まあな。僕らが出るころには、いくぶんは涼しくなっていそうだな」僕は苦笑して、再び肩をすくめる。「でも、おまえが出てきたら、プレスの餌食になりそうだな。ここはまだ出演者エリアだからいいけれど、あのラインを超えると、きっと来るぞ」
「どのライン?」
「ドリンクテーブルの前の、銀色のテープラインさ」
「ああ、あれがそうなんだ。じゃ、ドリンクテーブルは取材フリーか」
「ああ。だからドリンクはジャクソンにでも、持ってきてもらったほうがいいと思うぞ。僕もついヒマだから取りに行ったけれど、そうすればよかったと思ったな。他の出演者とも、全然顔見知りじゃないし、話も出来ないから」
「そうなんだ。でもどんな人たちか、僕は興味あるな。話す機会があるかどうかわからないけど。最初は誰でも初対面なんだし、いろんな人と知り合いたいなって思うよ」
 こんなリアクションをするのは、うちのバンドではエアリィとジョージだけだ。二人とも、僕らにもそうすべきだとは言わないが。いや、ジョージは最初のころはそう言ったが、今は諦めたのだろう。エアリィは元々、人に意見は押し付けないが、彼のこの『人の輪を広げたい』傾向は、最近では周りに押さえられることが多いのが、本人曰く『ちょっと憂鬱』らしい。しかし、業界を揺るがすモンスターになってしまった以上、周りに妨害者や悪意を持つ人がいる可能性が排除できないため、無防備に飛び込んで行くのは危険なのだ。
 彼は何気ない調子で、こうきいていた。「じゃ、ジャスティンは他の人とは会わなかった?」と。
「いや、会ったよ。そうだ、もしケータリングテーブルに行くなら、一人粘っているのがいるんだ。きっと同時に手を伸ばして来るぞ。まあ、おまえは、ビールは飲まないだろうけど、他のでも、手を出してくるかもな」
「へえ。なんで? よっぽど、のど渇いてるのかな?」
「違うと思うな。内心面白くないんじゃないか? 僕らのような若造がトリで、しかもシルーヴァ・バーディットにまで見下されたんだから。あっ、おまえは知ってるか?」
「SBQのリーダー? うん、名前だけは聞いたことはあるよ。そういえば、今回一緒だったっけ? 会ったの、ジャスティン?」
「ああ、ついさっきね。いきなり挨拶も抜きで、『手にケガするなんて、ギタリストとして不注意だ』なんて言うんだ。ずいぶん失礼な奴だよ」
「へえ。ま、それは、たしかかもしれないけどさ。初対面でそれはきついなあ。ジャスティンの場合、ケガしたのは不可抗力みたいなもんだから、しょうがないと思うんだけど」
「どんな不可抗力だい?」
 いきなり僕らの後ろで声がした。驚いて振り向くと、当のシルーヴァ・バーディットだ。そういえばこの場所は、SBQのモーターホームの入り口がすぐそばだった。彼はいつの間にか、僕たちの話を聞いていたのだろう。だが僕たちはモーターホームに背を向けて話していたので、相手が出てきたことに気がつかなかった。
 僕は不意を討たれ、思わず驚いて返事を忘れた。こういう場はエアリィの方が強い。彼も驚いただろうが、相手を見上げ、ちょっと笑って「こんにちは」と言った後、言葉を継いでいる。「ジャスティンには、もうじき二歳になる子供がいるんだけど、その子が三日前の朝食の時、コーヒーで火傷しそうになったのを、かばったんだよ」
「ほう。でもまあ、それでも不注意だな」
「小さい子ってさ、時々危なっかしいことやっちゃうんだ。僕も一歳半の子がいるから、よくわかるけど、ホント、予測不能なことやっちゃうから、油断ならないよ」
「ほう。君も人の親なんだ。子供が子供を作ってしまったんだね」
「ええ、そう言われちゃうと、きついなぁ。否定は出来ないけど」
 エアリィは苦笑しながら流したが、僕の方は思わずかっとなった。この男、どこまで無礼なんだ、と。何かお返しに言ってやろうと言葉を捜している間に、相手は手を伸ばし、エアリィの頭の上に置くと、くしゃっと髪をつかんだ。それほど強い勢いではないのだが、セキュリティのジャクソンが少し気色ばんで、こっちへやってこようとする。が、シルーヴァはニヤっと笑い、一転して穏やかな口調になって、言葉を継いだ。
「君は変わってないな、小さな天使ちゃんだった頃と。時代のスーパースターになった今は、多少人が変わったかもしれないと思ったんだが、やっぱり君は君のままだった。覚えてないかい? いや、君は忘れないんだろう。君に初めましてと言われたら少し寂しかったところだが、そうは言わなかったな、さっきは」
「えっ?」エアリィは少し驚いたように、相手を見た。Little Angelie――小さな天使ちゃんという言い方に、明らかに覚えがあったのだろう。しばらく相手をじっと見つめていたが、やがて半信半疑のような口調で、問いかけた。
「もしかしたら……バーンズさん? サニーサイド農場の……?」
「やっと思い出してくれたかい、アーディ?」シルーヴァの表情に、笑みが上って来た。
「えっ? シルヴィー? 君はシルヴェスター・バーンズ!? ホントに!? うわぁ、久しぶり!」
 感極まったような絶叫に近い叫びは、周りの注意を今以上にひきつけるのに、十分過ぎるくらいだった。僕は慌てて周りを見回したくらいだ。
「その呼び方をしないでくれって、前にも言ったよな、アーディ。それをいうなら、僕も君をアンジェリィと呼んでしまうぞ。それに君が叫ぶと、会場中に響く」
 シルーヴァは苦笑し、自分たちのモーターホームを指した。
「続きは中でやろう。まあ、バンドの他の連中もいるが、やつらも君のことは知っているから、気にしなくていい。一対三になるのを君のマネージメント側が気にするなら、公平を期して、君のとこのギタリストくんも一緒に来て良いよ。ボディガードは遠慮したいが」
「ああ、ごめん。びっくりして、つい叫んじゃったよ」エアリィは肩をすくめて苦笑し、次いでセキュリティを振りかえった。
「ネイト、ちょっと僕は、SBQのモーターホームへ行ってくるから」
「大丈夫なのか?」ジャクソンは、ちょっと心配げに問いかけている。
「大丈夫だよ。彼は旧友なんだ」
「わかった。だが君は、ドリンクを取りに行くんじゃなかったのか? 俺が取ってくるから、それまで待っていてくれ」
「うん。ありがと。軟水のミネラルウォーターがあったら、お願い」
 ミネラルウォーターのボトルは、ビールとは別のテーブルだな。じゃあ、ジャクソンにしろ、エアリィにしろ、あの人と鉢合わせすることはないわけか。まさかそっちのテーブルにも出張してこないだろうし――まあ、エアリィの場合は、『はい、どうぞ』と、にっこり笑って相手にボトルを渡しそうだが。
 やがてジャクソンがヴォルヴィックのボトルを手に戻ってきて、渡していた。
「俺はここで待っている。用があったら、声をかけてくれ」
「ありがと。でも、待ってなくても大丈夫だよ。退屈じゃない? それと……ジャスティンはどうする?」
「ああ……」僕は考えた。どうやらエアリィとシルーヴァは昔の知り合いなのだな、ということはわかった。アンジェリィ――天使ちゃんはわからないが、アーディというのは、プロヴィデンス時代の呼び名だ。アーディと、ミドルネームからとったレーニィというのが、このころの愛称らしい。プロヴィデンスでの公演時、パーティに来た人たちが、そう呼んでいるのを聞いた。その時にはいなかったが、その頃の友達の一人なのかもしれない。だったら、僕が行っても話には入れないだろう。シルーヴァ・バーディットは、僕に対して、さして友好的な奴とも言えなさそうだ。用がないなら、僕はここで自分たちのモーターホームに帰っても何ら問題はないのだろうし、エアリィも気にはしないだろうが……。
「一緒に行くよ、かまわないなら」
 いくら旧友らしいとはいえ、相手のモーターホームに一人残しておくのも心配だ、というのもあるだろう。SBQが妨害者である確率は低いとは思うが、万が一ということもあるので、相手の正体を見極めるまでは、僕も傍にいたほうがいい。それに、このいささかぶっきらぼうな、しかしギターの腕前は天才級といわれるシルーヴァ・バーディットという人物に対する好奇心も、少しあったかもしれない。
「まあ、べつにいいさ」シルーヴァはチラッと僕を振りかえると、僕らの先に立って、自分たちのホームに入って行った。

 SBQのバンド専用のホームは、僕らのものより、かなり小さかった。三人しかいないので、スペースは充分にあるが。他のバンドと同じように、スタッフ用には別にテントが用意されていたから、中にいたのはリズム隊の二人だけだった。テーブルには飲みかけのドリンクや食べ物が散らかっていて、煙草の匂いがする。リズム隊の二人が、予備の椅子を持ってきてくれた。
「ね、ところでシルヴィー、じゃなく……君はシルヴェスター・バーンズなんだよね。サニーサイド農場の」エアリィは椅子に座るや、すぐに話の続きにかかっていた。
「そうだよ」相手は頷く。
「雰囲気、全然変わったね。それに顔も。最初、わかんなかったよ」
「顔はいじったからね。デビュー前に整形したんだ」
「そうなんだ……でも、なんで顔変えたの?」
「僕は、君のような天然の美貌には恵まれていないからね、アーディ」
「それ、関係ないと思うけど。いろんなバリエーションがあるからいいんだと思うし」
 エアリィはちょっと肩をすくめる。出た、バリエーション論。おまえは本当にそうだよな、と僕はちょっと苦笑いした。優劣ではなく、バリエーションに過ぎない、と。ただ、そういうことは持てる側から言うと、一つ間違えば嫌味にとられるぞ、とも思える。まあ、持たない側が言ったら、単なる負け惜しみにしか聞こえないだろうし、難しいところだが。
 シルーヴァも苦笑に近い笑いを浮かべていた。「いや、本当のところは、レーベルの担当者とマネージャーが言うんだ。もう少し精悍な顔になったら、その方が売れると。僕も、その路線なら悪くないかなと思った。だからさ」
「そうなんだ、でも、顔だけじゃない。ほんと、雰囲気変わったよ。シルヴィー、昔はおおらかでフレンドリーな感じがしたんだけど」
「今は違うと。君には、どんな風に見える?」
「うーん。なんか、尖った感じ。あと、すごく影が出来た……ように見える」
「鋭いね。まあ、あれからいろいろありすぎたからな」
「あれから、どうしてた、シルヴィー? ごめん、どうしてもそう呼んじゃうけど、君に会ったら、聞きたかったんだ。あれからどうなったかなって……」
 そこまで話して、エアリィも僕の存在を思い出したのだろう。ふと気づいたように僕を振りかえり、肩をすくめた。
「ああ、ごめん、ジャスティン。おまえには、わけわかんない話、先走っちゃって」
「まあ、なんとなく察しはついたけれどな。知り合いなのか、彼と」僕はそこで、やっとそう聞くことができた。
「うん。しばらく彼の家でお世話になってたことがあるんだ」
「いつごろ? プロヴィデンスでか?」
「いや、プロヴィデンスに行く前だよ。ニューヨークでなんだかんだあったあとで、しばらく静養しなさいって病院の先生に勧められて。それで退院してから、母さんの知り会いの、そのまた知り合いの人の農場にお世話になったんだ。教会より、そっちの方が効果的だろうって言われて、それでね。自然セラピーとか、牧場セラピーとか、そういう奴。僕が行ったのはサウスカロライナにある、サニーサイド農場っていう所だったんだけれど、そこの家の子が彼だったんだ」
 ニューヨークにいたころ――エアリィにとっては母親の愛人にひどい虐待を受けた、地獄の時代だった。それが幼かった彼に及ぼした心身への影響を考えれば、そのリハビリ的な意味でしばらく農場に預け、のびのびさせてトラウマを和らげるというのは、たしかに頷ける療法ではある。そこで彼らは、出会っているわけなのか。今から十二年前。エアリィは当時六、七歳で、シルーヴァは十一、二歳くらいだった計算か。
 そういえば、エアリィの部屋に行った時、壁のコルクボードにとめてあった何枚かの写真の中に、農場をバックにしたものが一枚あったことを、僕は思い出した。がっしりした中年の、髪が半分白くなった黒人男性と、ふくよかな体型の、同じような年頃の黒人女性、その間に立った十二歳前後の少年。それが今のシルーヴァの子供のころだとしたら、たしかにあまり面影はない。浅黒い皮膚にウェーブがかった黒髪を後ろで結び、クリっとした目とふっくらした頬の、どちらかといえば可愛い感じの少年だった印象がある。そして三人とも、にこやかに笑っていた。
「そう。ただし、僕は父さん母さんの実の子ではなくて、養子だったんだが」シルーヴァはそう言い足していた。
「えっ、そうだったんだ?」
「ああ。僕も知らなかったよ。父さん母さんがあんなことになって、親戚の連中が事実を暴露するまではね。僕は生まれて間もない赤ん坊のころ、父さん母さんに引き取られたらしい。僕は半分白人だということも、その時知らされたんだ。どおりで父母より色が薄かったし、髪もさほど縮れてなかったわけだな。だが血縁なんて、どうでもいいことだ。僕にとっては、父さん母さんが実の親だ。見も知らない生みの親なんぞ、知りたくもないさ」
「そうなんだ。うん、ホントにいい人だったね、バーンズの小父さん小母さん。小父さんはジミ・ヘンドリックスのフリークで、君にも良く教えていたっけ。シルヴィーはそのころから、もう結構ギター上手だったし。小父さん、君のために左利き用のギター、用意したって言ってた。こいつは才能がある! なんて喜んでたっけ。小母さんは朝から晩まで、歌いながら働いてたね」
「そう。父さんは昔、ギター少年だったらしいんだよ。ファンクとかソウルとか、そっちには行かないで、ロックをよく聞いていたらしい。ジミ・ヘンドリックスが彼のアイドルだった」シルーヴァは懐かしげな表情になっていた。
「君が来ると聞かされたのは、一月の終わり頃だった。夕食の時、母さんが『知り合いの知り合いの子を、夏まで預かることにしたのよ』と言って。家では今までにも三人、何ヶ月かの間、農場体験で子供を預かっていたが――母さんが世話好きなのと、お金が入るのと、そしてその子のためにも良い、一石三鳥だ。そう言っていた。僕は一人っ子で、まあ、養子だから当然だったんだが、兄弟が出来るみたいで、最初は期待したんだが、今まで来た奴は、なかなか一筋縄では行かないやつらばかりで、ろくなことをしなかった。だから僕もうんざりしていて、もうこれ以上よその子を預かるのは止めてくれよ、と母さんに言ったんだ。そうしたら母さんは、今までの子たちも、それまでに大人たちに歪められてしまったから、ああなったので、その子が悪いわけじゃない。それに今度の子は、その子たちより小さいのよ。白人の子だけれど、まるで天使みたいにかわいくて、でもとてもかわいそうな目に合ってきたの。だから、面倒を見てあげてね、と言った。僕は『白人かよ。また二番目の奴みたいに、黒んぼって見下すんじゃないのか』と内心思ったが……」
「ええ? そうなんだ。僕が最初じゃなかったんだ。今までの三人って、どんな子だった?」
「最初の奴はハリーって言って、プエルトリコ系の奴で、十歳だった。僕は当時八歳だったから、こいつの方が大きかったんだな。こいつは盗癖があって、なんでもかんでもかっぱらって、ベッドの下に溜め込んでた。言われても、しらを切りとおして。僕も金はもちろんだが、本やら鉛筆やら玩具やら、散々盗まれた。こいつは春に来て、二ヶ月半で母親のところに返されたが、その後のことは知らない。盗癖が直ってなけりゃ、今頃刑務所じゃないかと疑っているが。二人目はその二年後の三月に来た奴で、ジョナサンという、十一歳の白人だった。こいつはさっきも言ったように僕たちを黒んぼと見下し、触られるのも嫌がった。そして殺生が好きだった。ひよこを踏み潰したり、ウサギを蹴ったり。牧場の動物を苛めるんで、二ヶ月もたたないうちに、たまりかねて親元に返した。僕たちが期待をかけていた、生まれたての子牛を殺されたことが、とどめだったな。『どうせ必要なのは、牛乳だけだろ。厄介払いしてやったんだ。今日はステーキ食わしてくれよ』と平然と言っていた。こいつは二年くらい前に、女の人を殺して捕まった。いつかはやるんじゃないかと思っていたんだが、新聞記事を見て、やっぱりなと思ったよ。三人目はコールというアフリカ系の奴で、九才だった。極端におとなしい奴で、何もしゃべらないんだが、何かちょっとしたことがきっかけで、突然暴れだすんだ。手のつけられないほどに。おかげでいろいろと物を壊された。約束の三ヶ月で親元に帰った後、一年もたたないうちに、殺されたらしい。暴れたところを親も含めた数人で地面に抑えられて、窒息したそうだ」
「うわぁ、本当に……かなり歪んじゃってたんだ。最後の子は、生まれつきの障害みたいだし……なんか救いようがなくて……悲しいな。大変だったんだなぁ」
「そうさ、だからもうよその子供を預かるなんて、こりごりだと思っていたんだ。でも君を預かったことは大正解だったと、僕らはみんな思ったんだよ」
 シルーヴァはにやっと笑い、指を振って話を続けた。「君は農場に来た時には六歳八ヶ月で、でも四、五歳に見えるほど小さくて、折れそうに細い身体で、本当に絵に描いた天使が抜け出てきたような、芸術的な子供だったな。それに男の子と最初からわかっていなかったら、女の子だと思っただろうな、僕らも。でも、最初はわりとおとなしかったな。僕らが君の部屋に入っていくと、怯えたような反応を見せた。『遊ぼう』という言葉も怖がった。『やだ!!』って、首を振って。そのわけを、僕らは知っていたが。その前の年の九月半ばから十二月半ばまで、その間に君が受けてきた仕打ちを、君の仲介者が全部話してくれた。僕らは……父さんも母さんも僕も、言葉を失った。『あんな可愛い天使ちゃんを、そんなむごい目に合わせることが出来る人間がいるなんて信じられない。そいつはきっと悪魔だね!』と、母さんは涙を浮かべて言っていた。『でももう、そんな悪夢は終わったんだっていう事を、あの子にわかってもらわなきゃ。ここにはあなたを傷つける人は、誰もいないって』母さんはそうも言っていた。だからあえて僕らは君が怖がることをわかっていて、そうしたんだが。出来るだけ、なんでもないようにね。虐待された子供の心のケアというのは難しいと、僕らも覚悟したんだが、君は幸いなことに、相当に立ち直りが早かった。部屋へ入っていっても平気になり、『遊ぼう』って言っても『うん』と返せるようになるまで、二週間くらいしかかからなかったな。その頃、母さんが作ったとうもろこしのケーキを君が食べて、『おいしい!』とにっこりした時には、僕らは本当に嬉かった」
「あー、あのケーキ。ホントおいしかったな、ふわふわで。搾りたての牛乳と、とうもろこしのケーキ……懐かしいな、すごく」
「あれは母さん特製レシピなんだよ。家のかまどで焼くんだ。材料はコーンミールと卵と水と、黒砂糖だけだがね。素朴だけど、あれを超える味を僕は知らない。僕も時々、懐かしくなるんだ」シルーヴァは再び懐かしげな表情を浮かべ、話を続けた。
「それから君は、笑うようになったんだな。君は本来明るくて人懐っこい子だったんだなと知って、そして君が本来の君に戻れて、僕らは嬉しかった。母さんは文字通り、君に夢中だったな。小さな天使ちゃん――Little Angelie――母さんは君をそう呼んでいた。でも僕がそう呼ぶと、君は嫌がったな」
「うん。ちょっと違和感だった。天使、じゃないし、僕は。本当に女の子っぽくなるし、その呼び方だと。まあ、シルヴィーもそうだね。僕が早くに立ち直れたのは、サニーサイド農場のみんなのおかげだよ。あそこに来て十日目くらいに、夜中にうなされて、叫び声をあげて飛び起きた時、バーンズの小母さんが部屋へ入ってきて。僕はまだ少し、部屋に誰かが入ってこられることへの怖さが抜けなかったけど……ぎゅって抱いて言ってくれたんだ。『かわいそうに。でも大丈夫よ、大丈夫。もう終わったの。安心して良いのよ』って。おばさんも泣きながら。僕も(ああ、終わったんだ、本当に……もうあいつの元に戻されることはないし、母さんもいてくれるんだ。この人たちは本当に、僕のことを心配してくれるんだ。良い人たちなんだ……おばさんの胸は、すごくあったかいな)って、本当にほっとして、納得できた。そうしたら、涙が止まらなくなった。『泣けば良いのよ。泣いて良いのよ』って、小母さんが髪を撫でてくれて……小母さんは本当に優しかったし、小父さんもそうだった。でも、あんなことになっちゃったなんて……」
 インドの高原で僕に話してくれた時には、淡々とした口調で事実の積み重ねのように言っていたが、でも具体的な内容については何も語らなかった。そこから、どうやって立ち直ったかについても。虐待者のところから逃げ出して、ストリートで生活しているうちに克服したのか、と僕は漠然と思っていたが、おそらくその期間は生存のために気が張っていて、心理的なダメージに蓋をした状態だったのだろう。当然のことながら、いくら精神力は強いとは言え、六歳の子供の心身に及ぼしたダメージは相当に大きかったのだな、と改めて思った。でも、最後の言葉が気になる。
「あんなことって……?」僕はためらいがちに、そうきいた。
「ああ、また先走っちゃった。ごめん、ジャスティン!」エアリィはちょっと肩をすくめ、答えた。「二人とも、亡くなってしまったんだよ、その一年後に」
「サニーサイド農場に、僕は四ヵ月半くらいいたんだ。そこで七歳の誕生日を迎えて、みんなでお祝いしてくれて。それから十日後に、母さんが迎えに来たんだ。今の継父さんと結婚して、プロヴィデンスへ行くことになったって。継父さん、そのころはブラウン大学で教授やってたから。それで、シルヴィーたちと別れたんだ。でも、来年の夏にまた、きっと遊びにおいでって三人とも言ってくれて、僕もきっと行くって約束したんだけど……車のリアウィンドウから、小父さん小母さんとシルヴィーが、農場の門で手を振ってくれてたのが見えた。それが、僕が見た最後の小父さん小母さんの姿だったんだ」
「僕らが君の母親に会ったのは、あの時が最初で最後だが、母さんも父さんも『へえ〜、まるでお姫様みたいな、べっぴんさんだねぇ。あの人の子供なら、天使ちゃんがあんなに可愛いのも、とてもわかるわ』と言っていたものだ。そしてね、君が行ってしまったあとの二週間ほどは、僕たち三人は本当に落ち込んだんだよ。『ああ、あの子がいなくなって、あかりが消えたみたいだわ』と、母さんがよく言っていた。僕もそんな気がしたもんだ。君のために精一杯のことをしようと、僕たちはそう思っていた。だけど僕たちが与えた以上に、君が僕らにもたらしてくれたものは、大きかったんだよ。でも、君はまた来年の夏に来てくれる、君が大きくなって大人になるまで、毎年来てくれれば良いと、そう思っていた。そうして一年がたとうとしていた頃、あの事件が起きたんだ」
 シルーヴァが話を引き取った。「発見したのは、僕なんだ。六月最後の日、暑い日だった。僕は父さんに頼まれて、村の店に買い物に行っていたんだ。そして、帰ってきたら……あの時の光景は、今でもはっきり覚えているよ。居間が一面血の海になっていて、斧で頭を割られた父さん母さんの死体が、床に転がっていた。強盗に襲われたんだ。しばらくして犯人は捕まったがね。近くの農場の雇い人で、金欲しさのつまらない動機だった。僕は養子だったんで、両親の親戚に引き取る筋合いはない。だが僕はその時十三にもなっていなくて、まだ独り立ちは出来なかった。いろいろもめた末、そのくらいの年になってりゃ、良い働き手にはなるだろうってことで、父さんの遠縁の男が――従兄の嫁の従兄の子とかいう、本当に親戚でもなんでもないが。そしてこいつは四分の一くらいアフリカ系の血が混じった白人だった。まあ、ともかくその男が、僕の面倒を見てくれることになったんだ。ジョージアの南部で農場をやっていた男で、もうすぐ四十になる独り者だった」
「僕はそのこと、七月になってから知ったんだ。七月の三週から一ヶ月、僕はそっちに行くことになってたんだけど、八歳の誕生日のお祝いカードをもらって以来、手紙が来なくなってた。連絡もつかない状態で、どうなったんだろうって、母さんがその知り合いに問い合わせてくれて……母さんは妹たちがまだ赤ん坊だったから、その知り合いの人が、僕をそこまで連れて行ってくれたけど、農場はもう閉鎖されてた。僕は小父さん小母さんのお墓参りをして、近所の人に彼のことを尋ねたんだ。そうしたら、遠縁の人を頼って、南部に行った。たしかジョージアあたりだと思うが、詳しい場所は知らないって。それで僕からは、もう連絡しようがなくて。『きっと落ち着いたら、また手紙をくれるわよ』って、母さんは言ってくれたけど、それっきり彼から手紙は来なかった。どうしてるかなって気にはなったけど、元気で幸せに暮らしていたら良いな、って願うしかなくて……」
「ああ、あの事件は全国紙には載らなかったからな。ローカル新聞だけだ。マスコミ連中にとっては良くある、つまらない事件だったんだろう。でも君は、うちまで来てくれたんだな……」シルーヴァは煙草に火を付けようとして、途中で止めた。
「あっ、君は煙草を嫌いかい、アーディ? 僕らは普段、シンガー族とは一緒にいないから、その辺は気にしていなかったんだが」
「煙草はねぇ、あんまり好きじゃないな。でも体調の良くない時以外は、我慢できるよ」
「君が好きじゃないなら、やめとこう」シルーヴァは煙草をケースに戻した。




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