The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

四年目(5)





 七月下旬に新しいアルバム、四作目『Eureka』が完成し、九月第三週にリリースされた。新作は驚異的な初週セールスをたたき出して一位になり、五、六週キープした後、年明けまでずっとベスト5に留まり続けた。結果的に年内のうちに、前作を上回るセールスを記録した。シングルも出したものは、すべて一位に送り込んだ。
 九月下旬から始まった全米ツアーでは、音響、照明などの部門スタッフが一人ずつ増え、レーザーが追加され、プロダクションが前回より大きくなった。セキュリティも一人ひとりに――以前はファーギー・パターソンだけでカバーしていたロビン、ミック、ジョージの警備を二人増員して、それぞれの専属がつく形になった。ツアー日程は、四連続公演のあと一日休み、たまに三連だったり五連だったりするが、それが基本ペースだ。前回より緩いが、それでもかなりのハードスケジュールだろう。移動距離も長い部分がある。会場はすべて大規模アリーナ、チケットは全公演即日完売らしい。どこへ行っても、客席には、まったく空席が見えない。観客は一人残らずといっても過言ではないくらい、熱狂しているようだ。コンサートを制御しているはずのセキュリティ関係者まで、後ろを振り向いてはならないという規則を無視して、完全に見入ってしまっているらしい。
 今の僕らは、巨大な津波に乗って進んでいる船のようなものだった。目もくらむような高さと速さの中で、墜落の恐怖と戦っている。この波がいつ終わるのか、無事穏やかな流れの中に再びランディングできるのか、決してわからない。だからこそ、僕たちはバンドという共同体の中で、結束しなければならなかった。エアレースという船の、安全な運行のために、お互いの友情と信頼を失ってはならない。幸い今のところは、まったく順調だった。みんながお互いを理解し合い、腐らず嫉まず驕りもせずに、友情が保たれている。少なくとも僕にはそう思えるし、きっとみんなもそうだろう。そのおかげで僕たちは船酔いもせず、海に落ちることも難破することもなく、渡っていくことが出来ていた。
 僕たちの関係は、去年の大ブレイク前から今も、変わってはいない。少なくとも、僕にはそう思える。僕にとってバンドの他の四人ほどくつろげる親友はいないし、一緒にいて楽しい友もいない。それはきっと、みんなも同じだろうと思う。ともにステージに立つことが無上の喜びであるだけでなく、バスで移動する時も楽屋で出番を待っている時も、話は尽きることなく、会話が途切れてみんなバラバラのことをしている時でさえ、決して気まずい沈黙にはならない。心が通いあう楽しさは、なお共有できている。移動中にはみんなでゲームを楽しんだり、空き時間にショッピングに行ったり、地元のおいしいレストランに食事に行ったり、時にはボーリングやテニスもする。一緒に参加するメンバーはもちろん、参加しなかったメンバーとも、同じつながりと時間を共有していることが感じられる。僕らはそういう関係だ。エアリィもロビンもジョージもミックも、僕にとってはそういう仲間なのである。特にエアリィに関しては、ローレンスさんに多少の懸念をされたけれど、二年前と関係はまったく変わっていない。そう、僕にとってエアリィとロビンは親友であり、同胞だ。前者は僕を引っ張り、後者は僕が引っ張るという力関係はあるが。そしてジョージとミックは仲間であると同時に兄代わりであり、保護者でもある。
 この幸福な関係が壊れることなど、あり得るのだろうか――。時おり、ふとそんな懸念を感じるのは、ローレンスさんの話が、どこかに引っかかっているせいだろうか。でもそれは僕だけではなく、一緒に話を聞いていたロビンも、さらにジョージやミックをも悩ませている懸念だということを、ふとしたことで知った。

 全米ツアーが半分ほど進んだころだった。その日はリハーサル後に一本、取材が入っていた。それが終わると、付き添っていたロブはスタッフルームへ行き、僕は一人で楽屋に戻った。ドアは完全には閉まっておらず、中の話声が聞こえる。
「えらいところまで来ちまったな、俺らも。五年半前にバンドをスタートさせた時には、まさかこんなに短期間で、天まで届く派手な成功を収めるなんて、まったく夢にも思わなかったがなあ」ジョージがまるで嘆息するような口調で言っていた。
「うん、本当だね。恐いくらいだよ」ロビンがそう同意している。
 エアリィも今取材中で、連続して二本入っているので、たぶん僕より三十分くらいは遅れて来るだろう。だから今楽屋の中にいるのは、ロビンとジョージ、それにミックの三人だけだ。その三人が話している。
「僕には最初から、成功の予感はあったけれどね。だけど、まさかこれほどまでとは、さすがに予想できなかったよ」ミックが言い、しばらく間を置いて続けた。
「でも僕たちは、どこまで行くんだろうね。これから……どうなるんだろう」
 その言葉に、ロビンもジョージも長いこと黙り込んでいた。明らかに二人も同じ疑問を感じているように。やがてロビンが小さな声で、真剣な口調で言う。
「僕は……人気が落ちる心配より、バンドが壊れる方が怖いよ。今僕たちは、みな仲が良くて、楽しいのに」
「同感だな。売れなくなるかも、失敗するかもなんぞという恐れは、正直言って俺はほとんどないんだ。極端な話、これだけ売れればもう生活の心配は完全にないんだから、趣味に走ったって暮らせるわけだしな。バンドのステータスは、あまり俺たちには関係ない。ただ待遇が良くなって、金が儲かるだけの話だ。だが金を儲けたいだけなら、じいちゃんの会社に入ればすむことだ。俺がこのバンドにいるのは、そんな理由じゃない」
「僕もまったく同感だよ、ジョージ兄さん。でも……でもこんな幸福な状態が、いつまで続くだろう。なんだか怖いんだ。これだけバンドのステータスが大きくなると、僕らでさえ激動の波が押し寄せてくる。ジャスティンには、もっと大きな波がかぶる。だから心配なんだ。彼が今の状態に満足できなくなったらって……」
 つい話を聞いていて、部屋に入るのが遅れた僕は、その時まさに話に入るべく、ドアに手をかけていたところだったが、このロビンの言葉に思わずびくっとして手を離した。
 三人は僕が聞いていることなど知らずに、話を続けている。ロビンはあの夜ローレンスさんが言っていたことを、二人に話していた。
「うーん。さすがにローレンスさんだ。鋭いね」ミックがうなるように言い、
「ああ。見事に図星かもな」ジョージも苦笑しているようなトーンだった。
「だが、かといって俺たちに何が出来る? 今のところ、あいつらの関係は申し分ない。それを今から心配の先取りをしてあれこれ騒いだら、かえって余計なひびを入れかねない。とりあえず様子を見守るしかないんじゃないか?」
「そうだね」ロビンとミックも頷いているようだ。
「でも、ジャスティン自身がその話を聞いてしまったのは、ちょっとまずかったかもしれないね」ミックがそう言い足している。
「そうだな。考えもしなかったことを、いきなり指摘されたようなものだからな。ショックはあるだろうし、今後の引っかかりにならなきゃいいが……」
「ジャスティンは気にしないって、言っていたけれどね。でも、本当にまったく気にならないかって言ったら、それは嘘だろうって思う。だってあの時は、やっぱりいつもと様子が少し違ったもの。あの晩だけで次の日には普通だったから、ほっとしたんだけれど」 「完全にプライドのない人間がいるとしたら、そいつは単なる腑抜けだぜ。俺たちはみんな、それぞれプライドを持っているさ。たとえばファンやレビュアーたちに、俺たちがバンドのおまけだとか、俺たちでなくてもエアレースとしては何ら差し支えないとか言われると、カチンとくるだろう。そいつが俺たちのプライドってものさ。エアリィは……どうだろうな。でもきっと、あいつにもあるような気はするぜ。俺たちのとは、完全に種類が違いそうな気がするが。ジャスティンのプライドは……俺はあると思うぜ、絶対に。でもそれは、俺たちに近いんだろうか? たとえばこの間のギター専門誌のファン投票でシルーヴァ・バーディットに負けたのを、悔しいと思っただろうか?」
 シルーヴァ・バーディットというのは、レコーディングの時ローレンスさんが言っていた、去年の暮れにデビューし、即ブレイクしたインストバンドのリーダーだ。僕自身はあまり同業者に対しての思い入れはなく、せいぜいこの人は上手いとか凡庸だとか、そういう評価を冷静に下すだけで、それ以上の印象は持たないのが常だ。でも初めて彼の動画を見た時、ある種のインパクトを感じた。それはたしかだ。長身に波打つ長い黒髪、黒人の血が半分入ったゆえの浅黒い肌、精悍で整った顔立ち、そういう外見上のアピールもさることながら、卓越したテクニック以上に際だった存在感や音の衝撃度は、たしかに彼は本当の天才だとローレンスさんが言っていただけのことは、あるかもしれない、そんな思いを強く感じたものだ。左利きで、黒人ハーフであることから、ギター業界では、ジミ・ヘンドリックスの再来と言われていることも知っていた。
 だが彼に対しライバル意識など、僕は持っていないし、ある大手ギター雑誌の人気投票で、初登場の彼に僅差ながらトップを持っていかれたことに関しても、さほどショックは受けていないつもりだ。ページを開いて結果を見た時、『あっ!』という軽い衝撃は感じた、それだけだ。バンドの人気やCDの売り上げ枚数から見れば、圧倒的に僕らは勝っている。はっきり言って、その点では現在の音楽界に太刀打ちできる敵は、いまいとさえ思う。でもバンドの人気と自分個人のギタリストとしての評価は別物だとはっきりわかっているし、総合誌ではなく、多くのギターフリークたちが読む専門誌で僕がシルーヴァ・バーディットに負けたのなら、ギター少年たちの間では、彼の方がアピールはあったのだろうし、僕のプレイにはまだまだ改良の余地があるということなんだろう。それだけのことだ。第一、人気投票なんて、チャートと同じく当てにならないものだ。そういうものの動静に一喜一憂しても始まらないと、とっくに悟ったことじゃないか。
「実力は、同じようだと思うけれどね」ミックはそんな感想を言っていた。「そのギタリストも、たしかに天才だと思うよ。ただ、同じ天才でも、ジャスティンとはタイプが違う。バーディットのスタイルは、いかにもギターフリークが喜びそうだしね」
「でも、自分が一番になりたいためにバンドを飛び出して、インストバンドを組むなんて、ジャスティンは絶対しないと思うよ。彼はそんな人じゃない」ロビンはそう熱弁する。
「そう。それに、そんなレベルでもめている場合じゃないかもしれないね、僕らの場合」ミックは重々しい口調になり、続けた。「ジーノ・フレイザーさんが言っていたという未踏の領域を、僕らは今突き進んでいるんだ。そのことで僕らが感じている不安は、バンドの内部分裂の危険性以上に大きい。内側からぐらついている場合じゃないんだよ」
「そうだね……ああ、本当にそうだよ。バンドが壊れる危険性以上に、今の状態って、とても怖いって思っていた。それなんだね」ロビンが同意していた。
「そう。単なる芸術や娯楽以上のものになりつつある音楽、その影響力の大きさに、俗な言葉で言えば、僕らはびびりはじめていると言えるんだろう。未踏の領域に入るというのは、つまりそういうことなんだ。それだけの力を持つということは、すごく怖いことさ。人にどんな影響を及ぼすか、その作用と反作用を考えるとね。その力は諸刃の剣なんだ。ローレンスさんがおっしゃっていたように、おそらく僕ら側以外の業界にとっては、脅威以外の何物でもないし、その力自体、非常に使い手の資質を問うんだ」
「ああ。ローレンスさんの話を今聞いて、俺も思ったぜ。そうだ、考えてみたら怖いんだよな、と。もし仮にエアリィがロビンに輪をかけて悲観的な奴だったら、聞いてる奴もすべて鬱になっちまうぜ」ジョージの口調は、半ば冗談のようにも聞こえた。
「止めてよ」ロビンは苦笑しているようなトーンだ。「でもだから、ローレンスさんもおっしゃっていたように、エアリィがああいう人だからこそ、その力が目覚めたんだって思うんだ」
「僕も同感だよ」ミックが静かな口調で同意している。「今のところ、その力はポジティヴな、善なる力になっている。その力はファンたちにも、そう作用している。だからその辺は問題ないんだ。でもその強すぎる力ゆえに、僕たちはこちら側の利権者以外をすべて、敵に回したのかもしれない。そう思えるんだ。だから、去年は最後に大きな妨害が起きた。これからもきっと……来るかもしれない」
「そうだよな。本当に中からぐらついている場合じゃないんだよな、俺らは」ジョージは再び嘆息するような口調になっていた。
 まったく同感だ。ふっとため息をつきながらも、僕ははっきりそう思えた。それにみんなの懸念も、ありもしない心配だ。僕はバンドの現在に不満などない。これだけ天文学的な大成功を治めて、なにもかもが順風満帆で幸せだし、バンドの中の恵まれた自分の役割に満足している。自分の能力にうぬぼれてはいないし、このバンドを愛する気持ちも、みんなに負けないほど強いつもりだ。
 僕は決然と頭を振り、大きく息をつくと、ドアを開けて中に入っていった。今戻ってきたようなふりをしながら。

 九月下旬からクリスマスの直前まで続いた北米ツアーは、各地でソールドアウトと熱狂の嵐の中、続いていった。新しいサイクルになっても勢いは衰えず、増大し続けていくように思われた。上昇気流がどんどん強烈になり、巨大な竜巻となって、僕らを舞い上げる。その中で正気を保ち、理性を保ち、なおかつ自分の信じた道徳と誠意を守って生きることは、大変なことだ。でも、その思いが僕らを現実に結びつける錨になって、みんななんとか足を地に着けていられる――僕はそう感じる。でも、一番輝かしい夢が現実となった時、僕らを戸惑わせるものはなんなのだろう? もう夢ではなくなった、現実の重みと束縛なのだろうか?

 成功の規模が大きくなるにつれ変化の激流は強くなり、危険も大きくなるのかもしれない。今回の全米ツアーも、行程の三分の二ほどは無事に過ぎたが、その後、立て続けに事件に見舞われた。
 最初は、三日連続で行われたロサンゼルス公演の最終日に起きた、センター照明装置の落下事故だ。イントロの途中だった事もあり、エアリィの並外れた反射神経が幸いして、すぐに避けられたため(結果的に、前代未聞のステージダイヴをやる羽目になってしまったが)、難を逃れた。
 照明が落ちてその下敷きになり、結果的に二度と舞台に立てなくなってしまった彼の母親、アグレイアさんのことが頭をよぎったのだろう。一度飛び降りたステージ下から戻り(三メートル近い高さをジャンプ一発で、ステージの縁を中継点にして、アクロバティックに戻って来た。未来世界で四メートルの段差を飛んで上がれたのだから、不思議ではないが)、現場の惨状を見たエアリィの第一声は、「あー、母さんの二の舞にならなくて良かった」だった。落ちた照明はセンターマイクのほぼ真上に位置していて、その一トン近い重さの装置がマイクスタンドを倒すように落下し、壊れた破片があたりに飛び散っていた。僕もその光景を見、本当にその可能性は十分にあったことを悟って、背筋に寒気に似たものを感じた。同時に、僕もギターソロの時にはこの位置までくるので、その時に落ちたら、確実に避けられなかっただろうと思い至り、さらに冷たい震えを感じた。幸いにも僕は自分の定位置にいたので、壊れた照明装置の破片が服の上に飛んできた程度で済んだが。
 コンサートはまだ半分ほど進行したところだったが、片付けのために一時間ほど中断せざるを得なかった。幸いマイク自体はエアリィが持っていて、一緒にステージ下に避難していたので壊れずにすんだが、マイクスタンドは途中でぽっきり折れていた。そのため、中断後はセンター照明なしで、マイクスタンドは僕の前に立っている、コーラス用のものを使って再開した。ロビンはたまにコーラスに使うが、僕のは完全にお飾りだから、持っていっても支障はない。『このマイクスタンド、重い』と、エアリィは文句を言っていたが。彼のものはスタンドアクション用に、中空構造で軽くなっているからだ。『仕方ないだろ、今日は』と、僕も苦笑して言い返した。一時間の中断にもかかわらず、観客たちはずっと手拍子をしながら待っていてくれ、コンサートはその分遅れて幕を閉じた。その後、新しいセンター照明が届くまで、一週間ほどは照明プログラムを少し変えなければならず、監督さんは大変だったらしい。
 事故から三日後、ミーティングの席で、ロブから調査結果を聞かされた。照明装置を接続する部分のボルトが緩んでいたのが、原因らしいと。ステージの天井に設置されているトラスロッドには五機の照明装置が吊るされていて、ライティング卓から、上下に稼動できるようになっている。それがメインライトだ。その五機の照明は、右、中央、左のものはステージ前よりに、その間の二機は後ろよりに取り付けられている。その他に三機のフロートと呼ばれる、前後左右に動くものがある。五機のメインライトには短いアームがついていて、トラスロッドに接続されている。その接続には、十二か所のボルトを使っていたが、落下現場には、そのボルトが抜けて散らばっていたらしい。セットを組み上げた時には、何も異常はなかったそうなのだが――照明スタッフ数人と監督さんで確認しているので、間違いはないと思う。
 だが同一会場での複数回公演の時には、セットは最終日まで組んだままだ。その間に誰かが、ということは考えられなくもないが、会場は終演後、誰もいなくなった時点で厳重に施錠されるし、それにはスタッフの誰かが必ず立ち会っている。会場には夜間警備員たちもいるし、防犯カメラもある。その中でアリーナ内に入り、ステージのかなり高い場所に設置されている照明装置の接続部のボルトを全部緩めるというのは、かなり時間もかかるし、面倒なはずだ。実際には、その不可能が起こってしまったのだが――。僕たちはぞっとしながらも、なすすべはなかった。会場設営の外部の人たちも含め、みなを信頼するしか。

 それから十日後、第二の妨害が起きた。サウンドチェックとリハーサルが終わり、みなで夕食をとっていた時、エアリィが「気持ち悪い。めまいがする」と、立ち上がろうとして、突然倒れたのだ。呼吸不全の症状もあり、真っ青な顔になり、手が冷たくなり――症状は典型的なアナフィキラシー・ショックなのだが、彼の場合、なぜか皮膚症状はほとんど出ない。アレルギーのメカニズムも、少し違うのだろうか。
 すぐにエアリィの医療トレーナーも勤めるカークランドさんが状態を確かめ、「アナフィキラシー? まさか……」と青ざめて呟きながら、アドレナリン注射を打った。それで最悪の事態は逃れたが、ショック症状が治まると同時に発熱し、あっという間に四十度に達した。その時にはもう開演一時間前だったが、とてもそんな状態ではショウはできない。キャンセルも考えたが、もうオープニングアクトが演奏を終えようとしている段階でのキャンセルは、きっと騒ぎになる。振替公演もスケジュールが押し詰まっているこの時では、かなり難しい状態だった。エアリィ自身も『大丈夫……やるよ』と、明らかに大丈夫でない状態ながら、そう主張したので、点滴をしながら彼の回復を待ち、開演時間を一時間遅らせ、さらに二十分ほど、僕ら四人でインスト曲をジャムしながら場をつないだ。それでも熱は三九度半ばまでしか下がらなかったが、これ以上遅らせると、終わるのが遅くなりすぎてしまうため、見切り発車でステージに出、ショウ自体は最後までやりきった。その精神力には感嘆したが、終わったとたんに、また倒れた。最後の一時間は、ほとんど意識が朦朧状態で、本能でやったようなものかも、と、あとで本人も言っていたほどだ。  その後、公演日程はなんとかキャンセルせずにこられたが、一週間ほどはひどい体調不良が続いた。もともとエアリィは体質的に弱く、多少は体力増強訓練でましになったものの、疲れがピークに来ると熱を出しやすい。専属スタッフのカークランドさんが健康管理についていても、元々かなりハードスケジュールのため限界があるようで、ツアー中も時々それでダウンするのだが、公演キャンセルはしない。出来れば見に来てくれた人たちに対して責任を果たしたい。それがポリシーだからだ。エアリィ本人は辛いだろうが、でもその当の本人が、一番キャンセルを嫌がる。>
 ただ、『なぜ急にアナフィキラシーを起こしたのか』ということは、カークランドさんやロブ、レオナにとって、大きな疑問だったのだろう。それは、僕らみな同じだったに違いない。食べていた夕食は、いつもと変わりない。ツアーに同行している料理人さんが作ってくれる、日替わりのグリルと温野菜、スープ、パンとコーヒー、オレンジジュース。それだけだ。ロブとレオナはそのすべてを少しずつとって、検査を依頼していた。
 三日後、その検査結果が送られてきて、ロブがミーティングの席で僕らにも教えてくれた。コーヒーからアスピリンの成分が検出されたという。だが、誰が――誰がそんなことをした? 去年のツアーのような劇薬ではなかったが、誰かが入れたことになる、故意に。楽屋のコーヒーは料理が来た時に、料理人さんがメーカーをセットする。出来上がると近くにいる誰かが(僕らは食事中なのでロブかレオナかセキュリティたちだが)、ポットに入れて食卓に置く。そして、カップについで配る。
 あの時、誰がコーヒーを用意しただろう。毎日のことではっきりとは思い出せないが、たぶんセキュリティが二人くらいいて――メーカーからポットに注いだ。誰だったか、いまいち記憶がはっきりしないが、僕の専属マイケルともう一人、たぶんロビンかミックについた、新しい人だ。ロブがそれを受け取り、テーブルに置いた。実際カップには、エアリィがついで回してくれたわけだが――彼はよく、そういう雑用をやってくれるのだ。それでは薬はカップではなく、ポットに入っていたのだろうか。僕らはアスピリンを飲んでも、なんともないだろうから――。
 ああ、やめよう。疑心暗鬼になるのは。ニューヨークでの劇薬混入事件と同じように、疑いは信頼を曇らせる。僕らは犯人探しをしてはならない。それはマネージメントに任せよう。しかしそれでも、暗い海のような悪意を感じずにいられない。僕らの周りにたしかな悪意が存在し、じわじわとまわりに打ち寄せ、足元をすくおうとするのかもしれない。ぞくっと寒気を感じた。それでも、僕らは進まなければならない。妨害には屈しない。屈したくはない。

 クリスマスの四日前にツアーが一段落し、我が家で妻と小さな息子の笑顔に迎えられた時、僕は心の底から安堵のため息をついた。ここに僕の家庭がありやすらぎがあり、生きがいがある。ステラとクリスがここで待っていてくれるかぎり、僕は安全だ。僕は長い間力のかぎり飛び続け、やっと巣に帰ることの出来た鳥のような気分を感じていた。




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