Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

二年目(19)




 レコーディング開始当日、マネージメントのワゴン車がローレンスさんとロブ、僕らを順番に拾って空港まで送ってくれ、そこからモントリオールへと向かった。向こうの空港には、送迎用のマイクロバスが待っている。
「これから行くスタジオは、実は僕らのセカンドハウスなんだよ」
 ローレンスさんはバスの中でそう言った。
「もとは昔、僕たちがよくレコーディングで使っていたところなんだ。でも八年くらい前に、経営危機になったんだ。居住型のスタジオは、今世紀ではあまり需要がないからね。それで売りに出されたから、僕ら四人で買い取った。僕らには、思い出の場所だったからね。立地がいいから、プライベートスタジオを兼ねたセカンドハウスにしようとハービィが言い出して、それでね。僕らはそれぞれ、もうセカンドハウスは持っていたから、厳密にはサードハウスかな。でも、高原の中の家は持っていなかったしね」
「ああ、『ラセット・プレイス』ですか?!」ミックと僕は同時に声を上げた。
「そう、君たちは知っているのかい?」
「ええ。スィフターファンでしたから」
 僕らは同時に答える。ロビンも一緒に頷いていた。
「そうだったね。それはありがとう。光栄だね」
 ローレンスさんは笑い、言葉を継いだ。
「僕らはそこを改造して、別荘にした。みんなであれこれ意見を出し合ってね。楽しい思い出だよ。それで、二つだけスタジオ設備を残したんだ。僕らのホームスタジオとして。最後の二枚のアルバムは、そこで作った。あとの部分は、家族で過ごすために使った。それぞれのメンバーが使いたい時期を打診して、みんなで使っていたんだ。オフの時にはね。今も他の三人の残った家族が時々使うんだが、スタジオ部は使っていなかった。いずれ、他のメンバーの子供たちや親戚が使うかもしれないし、思い出深い場所だったから、そのまま残しておいたんだ。それで、僕は三人の未亡人たちに頼んだんだ。十月十一月は、僕にここを使わせてくれ。本来の目的に使いたいから。もちろん使用料は払う、と。彼女たちは快諾してくれ、こうも言ってくれた。スタジオ代はいらないわよ。だって、ここはあなたの財産でもあるんですもの、ローリー。本来の目的に使ってくれたら、きっと夫たちも喜ぶと思うわ、と。それで、今回はその言葉に甘えた。次からは払う、と言ってね。彼女たちは決して、お金に困っているわけじゃない。家族が一生暮らせるだけのお金は稼いできたからね、僕たちも。でも、あって困るものじゃない。だから次からは、きっちり渡して行こうと思う。今回は予算の関係があったから、彼女たちの好意に甘えたけれどね。ともかく……僕がここにくるのは、三年ぶりだな。最後のツアー前、五ヶ月ほど中休みがあったから、妻と三週間ほど、ここに来たんだ。でもスタジオ部を使うのは、四年ぶりだな。機材のメンテナンスは管理人がしっかりしてやってくれていたようだが、また使うことが出来て、僕も本当に嬉しいよ」

 そのスタジオ兼別荘は、モントリオールから二時間ほどバスで行った高原の中、湖の近くに、混合樹の林を背景に建っていた。僕も名前は知っていたところなので、実際にその内部に初めて入り、興奮を感じた。庭にはテニスコートがあり、湖側には広場がある。母屋に隣接する別棟にあるスタジオは、コントロールルームを挟んで、天井の高い、木張りの大スタジオと、三方を広い窓に囲まれた小スタジオがある。壁には昔ここで録音されたレコードのゴールドディスク、プラチナディスクが飾られていた。そしてスティール製の頑丈なドアの向こうに、母屋がある。一階はラウンジと食堂、ビリヤード台とテレビが置かれている娯楽室、本棚とパソコンが置いてある図書室、サラウンド型DVDプレイヤーとプロジェクター、たくさんのDVDが並んだビデオルーム、キッチンと小さな部屋が二つ、そして洗面所と浴室があった。二階はトロント郊外の貸しゲストハウスと同じように、洗面台とバスルームのほかは、個室が並んでいる。全部で五部屋。そのうちの一つはツインベッドで、一つはダブルベッド、二部屋はセミダブルサイズで、もう一室は仕事部屋か書斎なのだろう。ベッドは置いていない。母屋は三階建てで、最上階にも三部屋のベッドルームとサンルームがある。どの個室もプリプロダクションで使っていたところより広く、ベッドもどっしりしていて高級感があった。
「カーテンや絨毯や調度はそのままだけれど、君たち用にシーツとベッドカバーは新しくしたよ。それがルールなんだ、ここを使う時の。シーツとカバーだけは、自前で持ち込むというね」ローレンスさんは微かに笑って、そう説明してくれた。
 僕に割り当てられた部屋に入ると、プリプロダクションで使っていた部屋のものより大きい、黒い木製のクロゼットがあり、ライティングデスクと本棚もあって、そこには半分ほど本が入っている。哲学書と百科事典と、いくつかの文学作品。ダークグリーンの模様織りカーテンとグレー濃淡の絨毯。壁紙はシルバーがかった灰緑色の唐草模様だ。そして、座り心地のいい黒い革張り椅子が一つ。ベッドには緑の濃淡チェックのシーツとカバーがかかっていた。スプリングは適度に硬く、羽根布団はふかふかで、いかにも上質そうだった。持ってきた着替えをクロゼットに入れたら、引き出し二つでおさまってしまった。
 セカンドハウスに使用しているだけに、各部屋はそれぞれ調度が違うようで、クロゼットはどこも共通してあるが、色や大きさはまちまちだ。ロビンの部屋のものは茶色で少し小ぶり、取手にはクマの顔がついていて、本棚には絵本や漫画が入っていた。木製の大きなデスクと、背もたれと肘掛のついた木の椅子。カーテンは薄い緑の水玉模様、絨毯は茶色濃淡で、壁紙はベージュに細い緑のストライプ、ところどころパステルカラーの風船が飛ぶ。ベッドカバーはベージュと緑のチェック模様だった。きっとこの部屋は、子供用なのだろう。
 エアリィの部屋はクロゼットが白で本棚はなく、クロゼットの上にブックエンドでとめた数冊の本があり、その脇に白い大きなドレッサーが置いてある。白いマガジンラックと、丸くて白い小さなテーブル、背もたれのついた白いスツール。ローズピンクのカーテンと同色の絨毯。クリーム色にピンクの花模様の壁紙。この部屋は女性用らしい。部屋のムードにあわせてか、ベッドカバーも、クリーム色にピンクのチェックになっている。僕の部屋も含めたこの三部屋は、三階にあった。
 二階にあるジョージの部屋にも本棚はなく、黒いクロゼットの上に、やはり数冊の本。黒の丸テーブルと椅子、そして大きな鏡とストレッチマシン、ダンベルがある。壁紙はメタリックブルーでカーテンは濃いグレー、絨毯はなくフローリングのままだ。ミックの部屋は安楽椅子と濃い茶色のクロゼット、小さなドレッサー、壁紙とカーテンはラベンダー色に統一され、ドレッサーの上には眼鏡スタンドが置いてある。この部屋はシルバー向けらしい。
 この部屋の割り当ては、絶対に狙っているだろう、ローレンスさん――僕は思わずそう感じ、苦笑したが、それは他のみなも同じだったようだ。ロビンは困ったような顔で苦笑いを浮かべ、エアリィは「この部屋にいると、アイデンティティ危機になりそう!」と首を振り、ジョージは「どれ、いっちょトレーニングするかな」と笑い、ミックは「落ち着いて良いんだけれどね」と、肩をすくめている。 
 ここには常駐の管理人夫妻(スィフターのドラマーだったハービィさんの遠縁らしい、六十代の陽気な人たちだ)が小さな別棟に住んでいて、他にはローレンスさんの現役時代のエンジニアが、僕らのレコーディング期間中、入ってくれるらしい。料理などに関しては、『本当は、僕らがここでレコーディングしていた時に入っていてくれた人に頼みたいんだけれど、今回は集中練習で予算を使ってしまった関係上、できるだけコスト削減しないとね』とのローレンスさんの言葉により、プリプロダクションから引きつづきビッグママが、管理人夫婦の奥さんとともに、家政を見てくれることになった。途中二週間ほど、ローレンスさんの奥さんも手伝いに来てくれるらしい。
「やれやれ、やっと仕事中親がいる状態から離れられると思っていたのに、また母さんと一緒か。しかも今回は、部屋も一緒だとはね。ダブルベッドでないだけ幸いだが……そっちはローレンスさんご夫妻が使うからね。だが落ち着かないこと、この上ないな」と、ロブはぼやいていたが。

 スタジオに到着し、部屋に荷物を置くと、管理人夫妻と顔合わせしてから、彼らが用意してくれた夕食をとった。エンジニアさんは翌日から合流予定で、ビッグママはレオナと一緒に、三日後に合流するという。レオナは義母をここに送り届けた後、またすぐにトロントに帰るらしい。
 食事が終わると、管理人夫妻は片付けのために台所へ行き、僕たちは食後のコーヒーを飲んだ。しばらく雑談したあと、ローレンスさんが、つとテーブルから立ちあがった。
「さて……最終デモは、出来たんだったね。僕はプリプロダクションにはまったく立ちあわなかったから、まさに白紙の状態なんだ。まずは聴かせてくれないか? 完成したデモを」
「あ、はい。ロブに預けています」と、ミックが言い、
「わかりました……これです」
 ロブがバッグを探って、CDを取り出した。プリプロダクション最終日に、録音していたPCのハードディスクから焼いたものだ。
「全部で十二曲入っています。タイトルは仮に付けたものを、その紙に……」
「OK、わかった」
 ローレンスさんはCDを受け取ると、その上に添付したメモにさっと目を走らせていた。
「じゃあ、スタジオの方で聴かせてもらうよ。君たちは、しばらく遊んでいてくれ。ここには、ビデオルームも図書室も娯楽室もある。インターネットも通じているからね。ロブ、君は僕と一緒に来てくれないか」
「わかりました」
 ロブは頷き、二人は部屋を出て行った。

 それから数時間を、娯楽室でテレビを見たり、ビリヤードやトランプゲームをしたりして過ごした。お茶でも飲もうと(管理人さんたちはもう別棟に引き上げてしまったけれど、簡単な飲み物の用意はしておいてくれたので)食堂に戻った時には、すでにかなり夜も更けていたが、まだローレンスさんとロブは戻ってこない。
 紅茶を飲みながら雑談をして三十分ほど過ぎた頃、やっと二人は戻ってきた。
 ローレンスさんは奇妙な顔をしていた。顔は紅潮し、目は輝き、歓喜と興奮と畏怖とが入り混じったような、そんな表情だ。彼は食堂に入ってきて、僕らのテーブルのそばで立ち止まり、立ったまま、じっと僕らを見た。
「……まいった。完全に脱帽だ。フレイザーさんの言ったことは正しかった。本当にそれを痛感したよ」
 彼は僕らを見据えたまま、ため息を吐くように言った。
「あの……」僕らは顔を見合わせ、相手を見返した。
「これが完成したら、世界中が震える。ひっくりかえる。断言してもいい。ほんの少しの露出さえ与えられたら、たちまち爆発するだろうよ。今に……今にね」
 ローレンスさんの口調は、熱に浮かされたようですらあった。
「あっ……」僕らは再び顔を見合わせた。
「って、つまりローレンスさん。それは、曲とかアレンジとか演奏とか、基本的にはあのデモの方針で、OKってことですか?」
 エアリィが少し不思議そうな口調で、そう問いかけると、ローレンスさんは再び奇妙な表情で視線を向け、そのままじっと凝視するように見た。
「あれでOKかだって? そんなことを聞くのかい?」
 ローレンスさんは熱した口調で言う。
「君は自分がいったい何をしたか知っているかい、アーディス・レイン君?」
「え……?」
 エアリィはきょとんとしたような表情だった。ローレンスさんの言葉が肯定なのか否定なのか、それすらあまりわかっていないようだ。もっともたしかに言葉のニュアンスだけを聞いたら、半ば怒っているようにさえ聞こえただろう。僕は(それにきっと他の三人やロブも)すでにこの衝撃は体験済みだから、ローレンスさんの言わんとしていることは、よくわかっていると思うが、当の本人は相変わらず無自覚のようだ。
「わからないのかい? 君らのデモは、もはやそういうレベルじゃない。僕がすべきことなんて、もう何もないと言っても良いくらいだ。曲も演奏も、何もかもね。ただバッキングの細かいところまでは、聞く余裕がなかった。でも僕の印象では、アレンジも文句のつけようがないよ。このままデモをマスターに落として終わりでも良いくらいだ」
 激したように一気にそう言うと、ローレンスさんは深くため息をついて、肩をすくめた。
「いや……それでは仕方がない。僕の立つ瀬もないというものだ。僕も出来るだけのことをしなければ。デモはほぼ完璧な出来だが、まだ輝ける余地はあるかもしれない。それと、エンジニアリングの問題だな。デモは八チャンネルだが、ここの機材では四八チャンネルまで録れるから、チャンネルわりあてと定位を決めて、まずは、曲のクリックトラックを作る。それからガイドヴォーカルとリズムギターを入れて……あとの楽器録りのためにも、ガイドといえど本気でやって欲しい。それから本番を録る。曲によってセパレーションがはっきりしていた方がいいものと、それよりも全体の調和を重視したいものがあるから、それを見極めて使い分け、インストを個別に録るか、ある程度同時に録るかを決める。そして、実際にどのテイクがベストか決める。でも、そうだな……君たちだと、それほど多くのテイクを録らなくてもいいだろう。それから、曲順設定だね。それと、ボーナストラックにしたインスト曲も録らなくては。でもこれだけ完成していれば、せいぜい一ヶ月もあれば、レコーディングは終わるよ」

 たしかにレコーディングに入ってからの作業は、比べものにならないほど軽かった。作業時間と遊び時間が半々くらいという、ゆったりしたスケジュールで録音を進める。技術的なことはローレンスさんとエンジニアに全面的に任せ、僕たちは自分の力をすべて出し切って演奏することだけに専念した。短い秋が過ぎ、スタジオのまわりの紅葉がすべて落ちきった頃、レコーディングは終わった。本当に一ヶ月足らずで。曲順設定も、それほど悩まずに決めることができた。

 秋が一気に冬へと移り変わるころ、アルバム制作も最終段階に入った。トロント市内のスタジオでの、ミックスダウン作業だ。この段階ではローレンスさんとエンジニアが中心となって進めていき、バンドの五人は一日数時間ほど立ち会って、途中経過や出来上がりを聞き、感想を言うだけだ。地元での作業だからこの期間は自宅から通えるし、空き時間もたくさんあった。この時ばかりは、僕も仕事とガールフレンドを両立させることが出来たほどだ。
 ミックスダウンと並行して二曲プロモーションビデオを撮影し、さらに美術監督さんと打ち合わせて、アルバムカバーのデザインを決めた。美術監督のハーバード・シモンズさんは、ローレンスさんたちのバンドのアートワークも手がけた有名な人だが、恐れ多いことに僕らもファーストの時からお世話になっている。抽象的で夢があり、美しい絵を。デビューしてからの一貫した路線は僕らの希望でもあり、彼の方針でもある。
 今回も、ほぼ希望どおりのジャケットが完成した。緑の森を背景に、小さな女の子の手から飛び立つ白い鳥。その表ジャケットができあがった後、彼は聞いてきた。
「裏ジャケットはどうする? バンド写真を使うかい? それとも連作として、もう一枚描く? シンプルに曲名だけ入れてもいいが……そうだなあ、バンドのロゴマークなんていうのを作る気があったら、それを入れてもいいね」
 ロゴ? その言葉に、僕らは顔を見合わせた。そうだ、新世界で見たあのロゴを、そろそろ使い始めなくては。デザイン自体は覚えている。青い髪の子供、金色の星、その中に描かれた記号のようなもの。その下にバンド名が飾り文字で入るのがオリジナルだと言われたことも。でも、飾り文字そのものは見たことはない。デザイン自体も、ディテールを再現しろといわれると、記憶が今一つはっきりしない所もある。子供の細かい髪型や表情、星の中の記号など。それに僕には、あれをはっきり再現できる絵心もない。
(誰かはっきり再現できるか? 描けるか?)
 僕たちは無言で、そんな視線を交わした。
 エアリィが「あ、じゃ……描くよ」と、つと手を伸ばして鉛筆を取った。そしてハーバードさんにスケッチブックの紙を一枚もらうと、その上にさらさらと描いていく。出来たものは、たしかにあのデザインの再現だった。もっとも鉛筆で描いているから、白黒だが。子供のポーズ、髪型、衣装、表情、星の大きさ、その中に描かれた記号まで。そうだ、まさにこの通りだ。さすが写実的記憶の持ち主だけあるが、それを再現できる技術もあるわけか。
「ああ、そうだ」僕らは声に出して呟き、
「ほう」と、監督さんは声を上げている。
「面白いね、かわいくて神秘的だ。アルバムジャケットにもマッチしてる。色は?」
「あの……じゃ、ちょっと色鉛筆かパステルクレヨンか、色付けるやつを貸してくれますか? できるだけ色がある方がいいんですが」
 監督さんが、たぶん自分が使っているものだろう、八八色のウォーターカラーペンシルを持ってきた。エアリィはそれを借りて、最初に描いた線画に色をつけていった。髪の毛の青、星の黄色、記号の赤と青、子供の肌色、衣装のオフホワイト――。
「色はこんな感じです。うん、ちょうどこの色具合、ぴったり。バックの色は決まってないんですけど、今度のアルバムの場合は表ジャケに合わせて、淡いグリーンとか。で、この下にバンド名を飾り文字で入れる、なんて感じで。僕たち、前から決めてたんです、このデザイン。機会があったら使いたいって」
「いいんじゃないか、とても」美術監督さんは満足げに頷いた。
「じゃあ、この絵を持っていって、仕上げてみよう。それで、あとは飾り文字だね。デザインの希望はあるかい? それとも、僕にまかせてくれるかな?」
 僕たちは一瞬顔を見合わせて、目で相談しあった。飾り文字の部分は見たことがないのだから、指定しようがない。監督さんに任せるしかないだろう。
「ええ。お願いします」
「わかった」ハーバートさんは頷き、もう一度デッサンをじっと見た。
「それにしても……うん。これは、『導く星』だね。光へと導く星。そんなイメージだ。このスターの中の記号は、ルーン文字かい?」
「はっきりわからないけれど、たぶん違うかもしれません」
 ミックが僕らを代表するように、首を振った。
 僕も改めて、デザインに描かれたシンボル記号を見た。この記号、どこかで見た覚えがある。どこでだっただろうか──?
「あっ!」僕は思わず小さく声を上げた。思い出した。ランカスター草原で会った紫装束の幻影。その服についていたシンボルと同じものだ。まったく同じ──。
 みんながちょっと怪訝そうに僕を見た。僕は苦笑し、首を振った。
「いや、なんでもない」
 ロビン、ミック、ジョージは一瞬いぶかしげに見たが、それ以上深く気に留めてはいないようだった。ただエアリィが僕を見た目には、他の三人とは違う表情が込められていたように思えた。
(見たことあるんだ、ジャスティンも)
 彼は無言のうちに、そう言っているように感じた。
(おまえは知っているのか、エアリィ?)
 僕も無言でそう問いかけた。でも彼はその質問には答えず、ただちょっと微笑しただけだった。そして声に出して、監督さんに答えていた。
「これって、ルーンじゃないです。似てるけど違う、別のシンボルです」
「じゃあ、アルケミーかい?」
「うーん、錬金でもないです。似たようなものは、あるかもしれないけれど」
「そうか。じゃあ、君たちの創作なのかい?」
「まあ……そんなところかも」
「何か意味があるのかい?」ハーバードさんは、重ねてそう聞いてきた。
「意味は……無限の発展への願いです」はっきりそう答えたのは、ミックだ。
 僕は少なからず驚き、彼を見た。ミックは小声でささやく。
「そういう意味だって書いてあったんだ。文献に」
「ああ……」そうか。きっと彼は新世界の図書館で偶然その国旗に触れ、記号の意味がそう解説してあったのを読んだのだろう。でも、それは新世界での意味付けだろう。この記号本来の意味は、別にあるのでは――再びあの紫装束の幻影の姿を思い出しながら、ふっとそんな思いが掠めた。そっと回りを見まわすと、エアリィもちらっと僕を見て、かすかに苦笑するような表情を浮かべ、ほんの少しだけ首を振った。
(それって違う、本来の意味は)――まるで、そう言っているように感じられる。でも彼も口に出しては、何も言わなかった。美術監督さんも特に疑問は感じなかったらしく、
「そうか、なかなか壮大でいい。気に入ったよ」と、笑みを浮かべながら絵を取り上げ、アトリエへと戻っていった。

 三日後、フルカラーで絵が仕上がってきた。それはまさしく、新世界で見た国旗デザインそのものだった。その下に、僕らのバンド名が飾り文字で入っている以外は。これが今後、僕らのバンドロゴとなる。
 星の中に描かれた不思議な記号に、僕は再び眼をやった。そしてその夜作業が終わって帰る時、ちょうど同じ時間に帰ろうとしていたエアリィに問いかけてみた。
「エアリィ、おまえ、あの記号の本当の意味を知っているか?」と。
 彼は僕を見、ちょっと肩をすくめて答えた。
「無限の発展を願う、じゃない? 新世界の定義では」
「それは、あそこでの話だろ。でも、なんだか僕には他の、本来の意味があるような気がするんだ」
「うん……でも、どうして僕にそれを聞くのさ?」
「いや……おまえなら、知っているような気がしただけさ」
 彼はしばらく無言で僕を見、ポケットから鍵を取り出すと、車のキーロックを解除しながら、半ば背を向けた。
「ホントの意味はね……英語で言うと、『The Sacred Mother’s Ring』だよ。あれは、選ばれたものが、引き継いでいくシンボルなんだ」
「えっ?」
「じゃ、また明日。あっ、でも、もうその話はこれきりにして、ジャスティン。僕もそれ以上は言えないから」
 彼は運転席に乗りこむとドアを閉め、僕に向かって小さく手を振ると、発進していった。この秋プリプロダクションが終わった後の、短い休暇中を利用して免許をとってから(テスト一発合格だったらしいが、まあ、今さら驚きはしない)、車で移動することの多くなったエアリィが初めて買ったのは、白いスポーツ車。たしかホンダで出している新しいやつだ。バイクもホンダだし、彼の最初の継父、カーディナル・リードさんが、以前ホンダのドライバーだったこともあっての好みだろうか。
 それにしても──The Sacred Mother’s Ring ? どういう意味だろう? 神聖なお母さんの指輪? いや、そんなはずはない。聖母の輪? 違う。それなら、“聖なる母”の環。ああ──それがきっと正解だ。何の根拠もなかったが、ふとそんな思いが掠めた。どういう意味なのかは、それでもわからない。ただ、“聖なる母”という言葉は聞いたような気がする。そうだ。『聖なる母よ。お恵みを』――インドの寺院でエアリィが最初にトランス状態に落ちた時に、発した言葉だ。そしてそれが、選ばれたものが引き継いでいくシンボル? 誰に選ばれた? 何に? 
 でも、『もうこの話はこれきり』と宣言された以上、詳しく聞いてみるわけにはいかないし、聞いても話してはくれないだろう。僕もまた理由は良くわからないが、今はあまり深く追求しないほうがいい話題だという気が、強くしていた。
 僕は頭を振り、軽くため息をつくと、自分の車のキーを解除した。去年の秋に手に入れた初めてのマイカー、赤いフォードのスポーツ車。でもステラは、もう少しゆったりした車が欲しいと言っていた。そのうちに買い替えよう。

 作業は順調に進み、十二月の半ばにマスターが完成した。現地まで取りに来るレーベルの人にマスターを渡せば、あとは彼らに任せることになる。来年の一月第四週に、新作はリリース予定だった。年内にもう二曲のビデオ撮影をすませたあと、一月半ばにリハーサルに入るまではオフだ。

 マスターが完成した夜、僕は不思議な夢を見た。
 真っ白いもやに包まれた世界。その中心は夜の空。一面の星がきらめいていた。流れ星が糸を引いて落ちていき、見る間に銀色の雨のように、無数に降ってくる。やがて足元は星くずで一杯になり、僕はそれをゆっくり拾い集めた。きらきら光る砂のように、星くずが手からこぼれ落ちて行く。
 相変わらず、純白のもやがあたりに立ち込めている。一面に広がる金や銀の無数の星くず。その中で、二人の小さな子供が遊んでいた。金や銀に光るかけらで、お砂場遊びのようなことをしている。
 二人とも、まだ六つか七つくらいの幼い子供だ。一人は女の子、まっすぐな淡い光色の髪を長くのばして背中に垂らしているが、両側のひと房は、海の色のように青い色合いだ。そして丈の長い、白いワンピースのような服を着ている。その服の袖と裾は、ピンクと薄紫と薄青の交じり合ったグラデーションになっていて、金色に光る小さな星がたくさんちりばめられている。もう一人は男の子だろう。濃い琥珀色のまっすぐな髪を肩に触れるくらいまでのばし、少し紫がかった薄墨色の、ゆったりしたパジャマのような服を着ているが、ボタンはついていない、その服の袖と裾は、女の子の服のようにグラデーションになっていた。色はオレンジと黄色、そして薄緑……その中に、銀色に光る星がちりばめられている。その子も頭頂部の両翼だけ違う色が混ざっていた。森の緑色だ。
 羽根こそないが、まるで小さな天使たちのように見える二人は、ときおり無邪気な笑い声をあげながら、一心に遊んでいた。小さな手できらきら光る星の砂をすくい上げ、何かを作ろうとしている。
『何を作っているの?』
 僕は子供たちに声をかけた。二人はその声で振り向いた。女の子の方が明るい青い目を見開いて僕を見たあと、にっこり笑って答える。
『わたしたち、路を造ってるの。光の路を』
 男の子も澄んだ緑色の瞳を向け、同じくにっこり笑いながら、付け加えている。
『うん。光へ向かう子供たちのためにね』
 二人の声は不思議な響きを持っていた。女の子は金の水晶、男の子は銀の水晶の、無数の鈴が鳴っているような声だ。
 金銀の星屑の砂の中に、丸くぽっかりとした穴が開いていた。かなり大きく、そしてその表面は、鏡のように滑らかだ。二人の子供は小さな笑い声を上げて、そのそばへ行く。
『見て』女の子がにっこり笑って、手をひらひらっと動かした。
 その鏡を通して、風景が見えた。さまざまな、賑やかな都市や町、そして楽しそうな人々。僕はその中に吸い込まれるように落ちていった。

 僕は地上に落ちたようだ。広々とした草原、頭の上にそびえる大木。ここは……ランカスター草原? いや、数ヶ月前に見た風景とは、少し印象が違う。マインズデールの町もなく、二つの小山もない。草原のはずれに広がるものは、青い海原だ。それにこの樹は、たしかに光の木だろうが、あの時見たものの五、六倍くらいの高さになり、幹も太くなっていた。その緑の葉は生い茂って、かなり大きな日陰を作っている。
 その木の陰から、誰かが現れた。初めて見る人だ。金色の巻き毛を長く伸ばし、気分によって光によって、色が少し変わる瞳の女性。ラベンダー色のワンピースを身につけ、年のころは三十代前半くらいだが、見開いた瞳の表情と全体の雰囲気が、なんとなく少女めいたものをも感じさせる人だ。彼女は僕と向き合い、口を開いた。
『これが……最後の答えなのね……』
『ああ……』
 僕は頷いていた。彼女の言っていることはわからないながら、その夢の中の僕は、その意味を知っている。不思議な感情が、胸の中を去来していた。愛しさと畏怖と、あこがれと悲しみが入り交じったような思いが渦を巻いている。

 はっと目が覚めた。窓のカーテンの隙間から、朝日が差しこんでいる。僕は頭を振った。神父さんもシルヴィアさんも出てこなかったが、また変な夢を見てしまった。いや、以前の変な夢は、過去に属するものという感じだったけれど、この夢は違う。あの『天の声』も聞こえなかった。現実感のまったくない浮遊した感覚と、たちこめる白いもや。まるでファンタシーの一場面のようだ。
 そういえば、新作アルバムのタイトルを、『Children for the Light』と付けたのだった。みんなでタイトルを考えていた時、ふっと僕の脳裏に浮かんだ言葉が『Children of the Light』だった。そしてエアリィがOFよりFORの方がいいと言って、このタイトルが決定した。この言葉を聞いたのは、どこだったろうか。マインズデールで見た紫の幻影? そうだ。(新たな世界は、光の子供たちのためにあるのです)それも正確にはOFではなくて、FORだった。観念的には。夢の中で、あの男の子が言った言葉も。
 不思議なざわめきを再び感じた。この言葉の中に、深い意味があるのでは。なにか究極のキーワードかもしれない。夢の中で会った金髪の女性が言った『最後の答え』も、それに関係するものだろうか。でも、彼女はいったい誰なのだろう。それに、あの子供たちは。女性も子供たちも、初めて見る。なのに、懐かしさに似た思いも感じる。彼らとは以前、どこかで会っているのではないか? 本当は、僕の知っている人たちじゃないだろうか。それにあの女の子の動作――何かを指すときの、親指と小指を立て、中の三本を折りたたんで、ひらひらと回すようなやり方を、どこかで見たことがある。思い出せないが――。
 形にならないいくつかの連想が、心の奥の方でひしめき合っていた。でも、それ以上、考えたくはない。僕は激しく頭を振り、髪を両手でかきむしった。そして想念の枝を断ち切るように窓を開け、ゆっくりと深呼吸をした。ともかく今日でアルバム制作は終わりだ。マスターを取りに来るレーベルのディレクターとA&R(広報担当)に渡してしまえば。

 その日の午後、担当の人が二人やってきた。出来上がったマスターを受け取り、再生してみている。彼らは驚愕しているように見え、やがて放心状態となっているようだった。最後にはっと飛びあがるようにして、彼らは現実に立ちかえったように、僕らに近づいてきた。そしてぎゅっと痛いくらい手を握り、肩を激しく叩いて、叫ぶように言った。
「素晴らしい! なんて、すごい! それしか言葉がない!」
「ああ、まだ震えが止まらないよ!」
 A&Rのスタインウェイさんは、帰り際にこう宣言もした。
「これで万一売れないなんてことがあったら、帽子を食べてやるよ!」
「帽子を食べるって……まさか、そのままの意味じゃないよね」
 二人が帰った後、エアリィが少しきょとんとしたような口調で言った。
「麦わら帽子でも布のやつでも消化悪そうだし、ホントにやらないよね」
「本当にはやらないだろうよ。あれはそういう言い回しなんだ。おまえ、知らないのか?それにな、おい。あの人が食べるのを前提みたいにいうなよ。コケ確定みたいじゃないか、縁起でもない。ノルマはプラチナディスクなんだぞ」
 僕は笑って指を振った。
「うん。今まで読んだ本の中には出てこなかったから。そう言った人もいなかったし。それに……ああ、まあ、たしかにコケ前提か。言われてみれば。でも……コケるコケないって、売り上げ数字の問題だけだから。そりゃ、作ったからにはたくさんの人に聞いてもらいたなって思うけど、今度のは今までで一番満足できたから、仮にノルマに届かなくとも、僕は全然OKだと思うよ。次のレーベル探しは、めんどくさいかもしれないけど」
 エアリィらしい意見だが、僕も賛成だ。
「そうだな。僕もそう思う。結果には、こだわらないよ。おまえの言うとおり、僕らのベストを尽くしたんだから、それで僕は満足だ」
 他の三人も顔を見合わせた後、笑っていた。ジョージは親指を立て、「大丈夫さ」と言い、ロビンも「うん」と深く頷き、ミックは「まったく同感だよ」と言う。ロブはその後ろで、「おまえたちらしいな。でも自信を持っていいと思うぞ、本当に」と、笑っていた。
 
 そう。プロとしては、僕らのスタンスは甘いのかもしれない。ビジネス的に成功しなければ、好きな音楽を追求していくことはできないのが、この業界だから。それは僕にもわかっている現実だ。でもこの作品には、今まで以上に絶対的な自信があった。きっと大丈夫。これはきっと、聴いた人たちの心を揺さぶるはずだと。それがCDの実売に直結するかというと、このご時世はわからない。それでも心から満足して作品を送り出せるなら、それを聞いて感動してくれる人がいるなら、それ以上のものは望まない。それが僕らの音楽の原点なのだから。
 来年リリース予定の三作目は、事実上僕らにとって、再出発後のファーストアルバムだった。この年、僕らは新しいスタートを切った。僕たちは成長し、一つの信念が確立した。音楽の情熱を礎に進んでいくことを。成功しなければならないという呪縛を断ち切り、忌まわしい恐怖も振り払って。
 そう、まだ二年だ。まだまだ未来は遠くまで広がっているような、そんな気がしていた。




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