The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(16)





 ホールのセットは、初日からずっと組んだままにしてある。最初に足を踏み入れた時、エアリィは一瞬、「あれ?」というような顔をして、僕らを振りかえった。連絡を受けてからでなく、初日からずっとセットの真ん中にマイクスタンドが立てられていたことに気づいたのだろう。あとで考えると、どうして彼にわかったのかは知らないが、僕もそれを特に不思議に思うことなく受け止めていた。だから言葉が、普通に出てきた。
「他に組みようがあるか? 僕らは五人バンドなんだから」
「そう……そうだった……ありがと」エアリィは呟くように言い、かすかに微笑むと、マイクスタンドにちょっと手を触れた。そして再び僕らを振り返った。
「ロブから連絡が来た時、みんなは十日前から、ここでやってたって言ってたけど、どのくらいできた?」
「二曲だよ。ちゃんとできたのは」僕は答えた。
「へえ……正味八日で二曲か。思ったよりペース遅くない?」
「いったい誰のせいだと思っているんだ、エアリィ?」
「ごめんなさい! そう言われると、反論できない。ひたすら謝るよ!」
 そう屈託なく笑う彼に、僕は思わず言ってしまった。
「よかったよ、本当に。おまえが元通りになって」
「それはもう言わないでくれって、言ってるじゃないか! 忘れて、ホントに。って、自分から言う権利は、僕にはないと思うけど」 エアリィはちょっと笑って肩をすくめ、抗議してきた。「ま、でも二曲できたんだよね。それって、インスト?」
「一応歌入りのつもりだよ。だからこれにヴォーカルパートを付け足すことが、君の遅刻の罰、というか宿題だよ」ミックが微笑して答える。
「ああ……そう。インストナンバーで書いたわけじゃないんだ……わかった」
 エアリィはちょっと黙ったあと、言葉を継いだ。
「うん……じゃ、インストの出来あがりって、どんななった? 聞かせて」
「よおし、ハードディスクの録音プレイバックじゃない、生で聞かせてやろう。おまえ、俺たちの練習成果も、まだ聞いていないだろう。よく聴いておけよ」
 ジョージが笑ってウインクをし、カウントを始める。
 僕たち四人は演奏を始めた。今まで待ってきた間に、作り上げた二曲を。出来としてはまずまずだが、『ものすごく満足』というレベルではない。この曲想がエアリィに感銘を与えられるかというと、あまり手放しで自信はない。でも、僕ら四人のサウンドの進化、それだけは彼にも、確実に伝わるはずだ。
 エアリィは聞いている間に身体でリズムを取り始め、にこっと笑い、両手をぽんと打ち合わせ、天を仰いだ。「アハ! 最高! すっごいサウンド! 音楽が……生きてるよ! みんな、すごいなあ! なんだか、踊りたくなってきた」
「感心ばっかりしているなよ。おまえだって進歩しているだろう? 僕らにもその成果を聞かせてくれよ」僕はほっとしたと同時に嬉しくなり、笑って声をかけた。
「うーん、どうなんだろ? 進化してるって言えたらいいけど。じゃないと、負けるからね、このサウンドに。ああ、でもホントすごいな、みんな!」
「で、ヴォーカルメロディや歌詞は出てきそうか?」僕は実際問題を追及した。
「まだ、っていうか、みんなが作った曲に関してはね。でも、なんか別のものが沸騰してきてるみたいだ。うん……なんかがはじけてくる感じがする!」
 エアリィはぱちんと指を鳴らし、ホールの中を歩き始めた。そのインスピレーションは、まとまり始めると早い。ものの十分ほどで「あ、書くもの持ってこなきゃ!」と、ホールを飛び出し、部屋からいつも使っているバインダー式のノートとペンを取ってくると、床に座り込んで書き始める。五線譜ではない、ただの紙だから、書いていくのは歌詞だけだ。元は楽譜を知らなかったからだが、今度の集中練習で一応は覚えたらしい。習得能力も図抜けて高いエアリィだから、その気になればマスターするのは、わけなかっただろう。でも譜面を起こすのは面倒なのか、あいかわらず書くのは歌詞だけのようだ。メロディはいつも頭の中のみ。でも彼はすべてにおいて、忘れるということがない。一度作ったメロディも然りだ。だから、こんな方法も可能なのだろう。歌詞の方も、本当は書く必要はないのだろうが――実際、バンドで曲作りを始めた頃の最初の数曲は、本当にすべて頭の中だけだったが、『詞を視覚的に見たほうが、イメージが湧きやすい』と、途中で気づいたらしく、それからはずっとこのスタイルだ。
 紙にさらさらと歌詞を書いていくと、エアリィはペンを床に置き、しばらく紙面をじっと見ている。この時、彼の頭の中には、その言葉がメロディをつけて再生されているのだと、本人が言っていた。セカンドアルバムの曲を作っていたころ(プロデューサーに破壊される前の原型を)、ミックに『君はどういう風なやり方で曲を作っているんだい?』と聞かれた時に。やがてペンを再び取り上げ、考え込んでいるような表情で、左手に持ったペンをくるくる回したり、小さく振ったりした後、いくつかの言葉を修正し、またそれをじっと見ている。その繰り返しだ。その間、僕たちはジャムをしていることもあり、彼の集中に干渉を入れないよう、演奏をやめて椅子や床に座り、黙って見ていることもある。
 この時は、僕らは待っていた。エアリィは十分ちょっとかけて、いつもの作業を繰り返した後、紙をピンと指ではじいて、「よし、OK!」と小さくつぶやいた。でもいつものように僕らに『出来た』と宣言せず、そのままノートのページをめくり、しばらく考えているように中空に視線を向けた後、再びペンを走らせている。二曲目? 連発なんて、初めてだ。驚いたが、それで終わりでもなかった。その曲が終わるとまたページをめくり、次へ。まるで心の奥でずっと激しく動いていた何かが、急にはけ口を見つけて、吹き出してきたかのようだった。あっという間に四曲。それも一時間とたたない間に。
「あー、とりあえず全部出来た! 我ながら新記録だぁ!」
 エアリィは深く息をついて、ノートを床に置き、立ち上がった。同時に僕らもいっせいに、同じように深く息をついてしまった。
「おまえ、それほど次から次へで、大丈夫か? 楽譜を書けるようになったんだから、メロディもちゃんと書いておけよ」僕は思わずそう声をかけた。
「ええ? いいよ。めんどくさいし」エアリィはペンをくるくるっと回し、床に置いたノートを再び取り上げてペンをはさむと、今度は隅のコーナーテーブルの上に置いた。
「僕にはやっぱ、この方が合ってるんだ。それに、メロディ忘れたりしないよ」
「まあ、おまえは忘れるっていうことは、ない奴だからな。でもまあ、早く形にしてしまおう。頭の中だけっていうのは、どうも頼りないからな。音楽として、ディスクに落としてしまわないと」僕はギターを肩にかけなおした。
「じゃあ、ちょっと待って。録音をオンにしよう」ミックがパソコンに向かう。
「うん。けど、ごめん。最初に断っとくけど、これって、さっきのインスト曲のヴォーカルパートじゃないから」
「四曲ともか?」僕は問い返した。
「うん。みんなのは、あとでやるから。だめ?」
「まあ、いいよ。新規の曲なら、インストパートを僕らで考えて、つければいいだけさ。最初の曲のキーは何だ?」
「なんだろ? Bかな? でもB7(9)から入った方がいいかな?」
「おい、いきなりテンションコードか?」
「妙かな? まあ、そのへんは適当でいいよ」
「わかったよ。テンポは?」
「んー、二二三」
「けっこう早いな。OK!」
 僕は頷き、ジョージがメトロノームをそのテンポにセットする。
「録音開始。さあ、やろう」
 ミックがキーボードに戻りながら告げ、ジョージがカウントを鳴らした。
 キーとテンポさえ指定してもらえれば、歌を聴きながら即興で演奏をつけることは(伴奏という言葉は、好きじゃない。まるでバックバンドのような印象になってしまうから)、シンプルなものなら、僕ら四人ともできる。もっともエアリィの書く歌メロは、時おりコードトーンや進行のセオリーを無視するから、途中でぴったりはまるコードがない! と一瞬迷うことが多々あるけれど、そういう時には適当に当てはめておいて、アレンジ段階でじっくり検討すればいい。「ここインストブリッジ。二十秒くらい」「ここでギターソロね。長さ任せる。戻るとき合図して」「こっから二四小節、ハーフテンポになるから」「次、転調するよ。F#、インスト十六小節、五拍子で」などと曲中で振られても、とりあえず何とかつなぎ、同様に後でじっくり練ることになる。
『Restless Runners』『Photograph』『Beyond the Night(Beyond the Light)』――のちに初中期の代表曲になる作品が、次々とハードディスクに収められていった。最初の曲のテーマは『突き動かすエモーション』、二番目のは『幸福な時代への記憶と追想』、三番目の曲のモチーフは、『光の領域はスピードの限界だ。いつかそれを超えてみたい』というカーディナル・リードさんの言葉だ。それぞれの主題が歌詞とメロディに見事に昇華している。演奏をしながら、驚きを押さえきれなかった。これだけレベルの高い曲は、普通なら十年に一曲できるかできないかというような代物だ。
「四つ目は、みんな知ってる奴だよ」僕の(おそらくミックやジョージ、ロビンもだが)驚きを後目に、エアリィは悪戯っぽく笑って言った。
「キーはAm、最初は7th入れたアルペジオから入って。テンポは一七二、バラードリズムで……みんな覚えてる、これ?」
 歌い出した曲を聴いたとたん、僕は思わず「ああっ!」と、小さな叫びを上げた。ロビンもミックもジョージも、同じように小さな叫びを漏らしていた。みな気づいたのだろう――。そうだ、歌詞とメロディは少し違うけれど、これはあの曲だ。未来世界でお別れにやったコンサート、その最後の曲。あの場で作られ、今まで眠っていた曲。光景が鮮やかに脳裏によみがえってきた。垣間見た未来世界。そこで知った、僕たちの世界の運命。でも、不思議に絶望は感じない。胸は痛い。締め付けられるように切ない。でも、それだけではない何かがある。希望、慰め、静かな勇気。曲は不思議な魔力に満ちて、聞き手の心にその力を届かせる。『Evening Prayer』――そうタイトルを付けたこの曲は、のちにマインズデール教会をバックに撮った非常に印象的なプロモーションビデオとともに、新作からの第一弾シングルとなったのだった。
 四曲をパソコンのハードディスクに収め終えた時、僕は悟らざるをえなかった。難しい宿題を抱え込んだのは、僕らインスト陣のほうだと。ヴォーカルメロディに、これ以上改良の余地はない。そのくらい完璧だ。曲の構成もイントロとコーダ以外、だいたいの形は出来ている。その枠の中で、それを曲として最大に生かしきり、最高の曲にすること、それが僕らに課せられた使命だ。つまらないアレンジをかけたら恥ずかしいし、バンドメンバーとして、インストルメンティストとしてのプライドにもかかわる。他の三人も同じように感じたらしい。僕らは顔を見合わせ、頷きあった。

 その日の夕食の席で、僕らはアーディスの十六回目の誕生会を、二ヶ月以上遅れて開いた。本来の誕生日は合宿中で見送ったため、彼が戻ってきたらしようと、待っている間に決めていたのだ。夕方マネージメントのオフィスから戻ってきたレオナとロブは、市内で買ってきたというバースディケーキを携えてきて、ビッグママはたくさんの温野菜を添えた、ローストビーフを作ってくれた。プレゼントもここへ来る時に、みな用意していた。
 遅れ(Belated)もいいところの誕生会は、エアリィには完全にサプライズだったらしい。「ってかもう、二ヶ月以上たってるし!」と、目を丸くしていた。
「いや、でも、お祝いできなかったからな、あの時。それに今おまえが戻ってきて、またバンドが五人になれたんだ。そのお祝いだよ」僕は笑った。
「元の君に戻ってくれて、本当に嬉しいよ、エアリィ」ロビンはにこにこしながら言い、
「だから今お祝いするのも、間違ってないと思うぜ」と、ジョージが頷く。
「……ありがとう……」エアリィは呟くように言うと、バースディケーキをじっと見ていた。『Happy Birthday Aerial』と描かれたプレートと、十六本のろうそく。そこに視線を注いでいる彼の目から、涙が一筋流れ落ちていった。それを慌てたように手でぬぐったあと、テーブルに両手をついて、下を向いた。その肩は微かに震え、テーブルの上にもまた新しい涙が落ちていく。『悲しいとか悔しいとかで泣きたくないって思ってるけど、嬉しくて泣くのは、たぶん防げない』と、インドで子供時代を語ってくれた時に言っていたが、本当なのだな……予想外の反応に、サプライズを仕かけた僕らも、驚きを浮かべて、お互いに顔を見合わせた。
「おいおい、泣くほど感激するなよ」と、ジョージが苦笑気味に声をかけている。
「うん……でも、本当、なんか、すごく嬉しい。ありがとう……それに、ごめん」
 エアリィはテーブルに突っ伏してしまった。彼がこの三週間半の間、何をしていたのかはわからずじまいだが、その間にようやく乗り越えようとしていた激情を、かえって戻してしまったのではないか……あまりに激しいリアクションに、一瞬、そんな危惧を感じたほどだった。普段より、まだかなり感情的になっているんだな、と。インドで『覚醒』なのか『錯乱』なのか、いまだによくわからない状態に陥ってしまう数日前から、いつになく感情的になっているとエアリィ自身も言っていたが、今もまだ完全に精神が安定したとは、言えないのかもしれない。
 僕はジョージ、ミック、ロビンの顔を見た。彼らも同じ思いを感じているような表情だった。ロブとレオナも。ビッグママは驚いているのと、(まあまあ、この子はまだ子供の部分もあるのね)と、肯定的というか、子供に対するいとしさに似た感情を持っているように、僕は感じた。彼女はふっと微笑み、手を伸ばしてその背中をなでていた。
「アーディス君。泣くことは恥ずかしいことじゃないわ。でもお誕生日に涙は、あまり縁起が良くないわよ」
「誕生日……じゃないから、ビッグママ。もう二か月前だし」エアリィは少し気を取り直したのか、頭を上げ、ちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべて、首を振った。
「ちょっと不意打ちすぎて、驚いちゃったんだ。まさか八月に誕生パーティしてもらえるとは、思わなかったから。それも、みんなに散々迷惑かけちゃったあとなのに……本当に、ありがとう。すごくうれしい。僕に戻るところがあって、待っててくれる仲間がいて、本当に良かったと思う。それでちょっと、感激しちゃって……ホント、恥ずかしいね」
 僕らは小さく笑って顔を見合わせた後、ミックが代表して言った。
「ああ。君が喜んでくれて、良かったよ。僕らもうれしかったんだ。君が帰ってきてくれて。元通り五人になれて。でもエアリィ、僕らは本当に心配したんだよ。もう二度と黙ってどこかへ行かないでほしいな。僕らをもっと信用してほしい。僕らは仲間なんだからね」
「うん……ありがとう。たぶん、もうしないよ」
「おい。たぶん、か?」僕とジョージが同時につっこんだ。
「だって絶対ってさ、ないかもしれないから。でも、うん……僕からは絶対しない。もう、逃げない……」エアリィは小さく頭を振り、再びろうそくの炎を見つめていた。
「今日は僕の生まれた日じゃないけど、でも、本当にそうかもしれない。新しい誕生日……僕は……行くしかないんだ。ここから再スタートなんだ。僕は……出来ないなんて言えない。負っていかなければいけないんだ。全部」
 その口調には、いろいろな想いが入り混じっているようだった。悲しみ、諦め、当惑、それにもまして、強い決意。一見、彼は以前のエアリィに近い状態になっているようだったけれど、完全に同じでは、もうないのだろう――その口調の中に、言葉の中に、僕は語られなかった言葉を聞いた気がした。(今までの僕は、もういない。僕は新しい自分になった)と。彼は言葉に出しては、こう言った。“I have to bear it――Bear them all”――負っていかなければならないんだ、全部――I can’t bear itと言ったそれを、彼は負う決意をした。だからこそ、戻ってきたのだろう。だが、そのitは『知識』なのか『彼女』なのか、それとも他のものなのか――いや、二回目はthemになっているのだから、一つではないのだろう。彼が負うものはなんなのか。それは以前悟ったとおり、今の僕には踏み込めないものなのだろう。でも、ここから再スタート――彼が言ったその言葉はまた、僕の思いでもある。そしておそらく、バンドのほかの三人も。バンドが再び五人になり、お互いに成長もした。その思いを、新しいアルバムに注ぎ込もう。

 その翌日からの日々は、一転して忙しくなった。僕らインストの四人はそれから十日近く、朝から晩まで、アレンジ作業にかかりきりとなっていた。エアリィは僕らが書いたインスト枠だけの二曲に歌詞とメロディを付けるという作業のため、小さいほうの部屋に行っていたが、彼の場合それだけに専念はしていない。というか、いつもせいぜい三十分くらいしか、そこにはいないようだ。ビッグママを手伝って台所にいたり洗濯物を干していたり、自室に帰っていたかと思うと森へ散歩に行っていたりと、けっこう神出鬼没だ。トロントへも一度、マネージメントに改めてお詫びするために、ロブと一緒に帰ったし、『走りに行ってくる』と、ここへ来る時にも乗ってきた原付バイクで、どこかへ行っていることもある。ここを離れる時には、いつでも連絡が取れるように携帯電話を常に持って行け、決して電源は切るな、充電切れにもなるなと、ロブが何度も繰り返し言うので、エアリィもそれに従っているらしいが。
 彼は時々、僕らが作業中のホールに来て、アレンジ作業にも参加している。ただ、自分のパートは自分で責任を持って作るというのがバンドの大前提なので、エアリィもインストに関しては、直接的には何も指示しない。僕らもいくつかの案がある時に聞かせて『どっちがいい?』と意見を求めることはあるが、主な彼の役割は、僕ら四人が行き詰まって悩んでいる時に、軽い冗談を言って和ませてくれたり、「コーヒーいれたよ。ついでにクッキー焼いたから、ちょっと休憩したら?」などと差し入れてくれたりという、側面援護が多い。でも、ついでに具体的な意見も、言っていくことがある。「ギターでカウンターメロディかけても面白いかもよ」とか、「ブリッジはみんな得意の変拍子でリフ造るとか?」、「キーを転換して、一部分数コードにするってどう?」「ドラムとベースとギターが、ポリリズムでおっかけっこするとかね。スィフターの曲にもそんなのあったし」と。それはあくまで彼の意見を言っているだけであって、それ以上のものではないのだが、僕も「ああ、それはいいかもしれない」と思うことが多く、それがヒントとなって、その後のアレンジが開けていくことが、かなりあった。

 苦闘して二曲アレンジが終わったころ、エアリィの方も宿題を終えてきた。ただし、一曲だけだ。もう一つは、こんな言葉とともに返された。
「ごめん! 結局あとの方の奴って、歌になんなかったんだ。ちょっとイメージがまとまんなくて。だから、インスト曲としてやって」
「ええ? どうしてだよ」僕は問い返した。
「んー、なんていうのかな。いろいろ詰め込みすぎて、でもまとまってない感じなんだ。だから焦点が結ばれなくて、歌詞のイメージが浮かんでこない」
「出来が悪いっていうことか、つまり」
 僕はがっくりしながら、返された譜面を受け取った。ミックもジョージもロビンも、苦笑している。はっきり指摘されなくとも、先の四曲を聞いた後では、僕にもわかる。たしかにこれは、クオリティの上では他の楽曲より落ちるだろう。
「じゃあ、これは暇があったらアレンジを練って、インストナンバーとして仕上げようよ。シングルのボーナス用にでもすればいいさ」僕はミックたちを振りかえって言い、
「じゃ、そうするか」と、彼らもため息と苦笑混じりに頷いている。
「別に、いきなりシングルのボーナスって決めなくてもいいと思うけど。ファーストにだってインスト曲入ってたんだし。セカンドと違って、インスト曲入れるなとは言われないだろうしさ。いいんじゃない?」エアリィは肩をすくめ、もう一つの楽譜を僕らに返した。こちらのほうには、一番上に歌詞を記した紙がついている。
「こっちは一応出来たけど……時間があったら、合わせてみて。みんなの書いてきたインストパートの上には、きちんと乗らないと思うから」
「じゃあ、今とりあえず歌ってみてくれよ」
 僕は他の三人と頷きあってから、楽器を構えた。そして、実際にヴォーカルとインストを合わせてみた結果は、『きちんと乗らない』どころの話ではないことを、思い知らされた。そもそも最初のコードから違う。両者がフィットするところは全体の三分の一もないし、構成も変わっていて、新しいヴァースまでついている。だが、何という印象的でメロディックなラインだ。ただの美旋律ではなく、浮遊感と複雑さを併せ持った、驚くべき高レベルの曲になっている。インストがそのレベルに合わせる他はない。またもや宿題が増えたことを、僕は(おそらくミックやロビン、ジョージも)悟らざるを得なかった。

 本格的な作業が始まって十二日目に、ようやく五曲すべてのアレンジが決まった。そのあと、その五曲をバンド全体で、改めて録音しなおした。デモに使うためだ。昔なら、この段階でもかなりのスタジオ設備とプロのエンジニアやオペレータが必要だったらしいが、今やある程度スペックの高いパソコンと性能の良いマイクがあれば、専門技師はほとんどいらない。僕はあまりコンピュータに詳しくはないが、エアリィやミックはかなりのエキスパートだ。ミックは趣味だし、エアリィの場合はPCを買って一週間で複雑なアプリを作れるようにまでなるという――『こういう機能、ついてないの? じゃ、作っちゃお』と、文献を集め、一時間ほどで読んだ後、ぱぱっとプログラミングしてしまう、いつもどおりのぶっ飛びぶりだ。『あ、それ便利そうだから、僕のPCにもインストールさせてくれないかな』と、ミックのパソコンにもいくつかエアリィの自作ソフトが入っているらしい。
 夕飯をとって食休みをした後、午後九時ごろから録音は開始された。環境は今までと変わらないが、これから録音するものは、今作のプロデューサーを引き受けてくれたアーノルド・ローレンスさんに聞かせるためのものだ。だから僕らも気合が入る。
 とはいえ、僕もミックもロビンもジョージもすでに何度も全力演奏を経験し、お互いの進歩も知っている。でもエアリィは? ソングライターとしては本当に度肝を抜かれる大成長、いや、人間業とは思えないような才能を披露してくれたけれど、彼は決して本気で歌ってはいなかった。ソングライティングは、あくまで曲を紹介するのが目的だから、全力で歌う必要はない。七、八分くらいの力で流している、僕にはそう感じられた。それでも声の伸びと声量、安定感が抜群に増したのだけは、はっきりわかったが。でも、僕は彼の全力を知りたい。本気を出せばどこまで到達できるのか。それは果たして本当に、フレイザーさんが言ったような、未踏の領域まで行けるようなものなのか。それとも、それはやはり見果てぬ夢なのか。それを知りたい。だから、僕は言った。「エアリィ、デモを作る時には本気で歌ってくれ。コンサートや本番のレコーディングのつもりで。僕らも全力で演るから」と。
「ん、わかった」彼はコンピュータの画面を覗き込みながら、短く頷いた。
「録音開始していい? んじゃ、いくよ」
 そして画面をぽんとタッチした後、マイクのところに戻ってくる。僕ら五人は頷きあい、演奏を始めた。まずは一曲目、僕らが枠組みを作り、エアリィがそれを壊して広げ、結局インストパートはほとんど書き直しになった曲『Neverlands』。イントロ十八小節、いったんスローダウン、ヴォーカルの入りは静かにバラード的な導入五フレーズ、そして転調、アップテンポなハードロックリズムの本編へと入っていく。全身全霊でイントロを弾き終わると、ふっと一瞬出来た静寂に滑り込むように歌が入ってきた。
「えっ……」
 その瞬間、背中を電流が走り抜けた。静かなトーンなのに、なんというインパクト。すっと心の中へ入ってきて、さあっと巻き込んでいくような強い力。そのたった五フレーズで、バンド全員と聴衆を(この場ではロブしかいないが)、あっという間に引きずり込んでしまった。増幅される感情に駆り立てられ、僕自身の力もさらに解き放たれたような気分の中、僕はギターを弾く。ミックはキーボードを、ロビンはベースを、ジョージはドラムを──同じようにパワーを増幅させて演奏する。感覚は異常に研ぎ澄まされ、みんなの音も鮮やかに入ってくる。
 演奏という行為は、いつもベストのものが出来るとは限らない。たまにみんなの息がぴったり合い、自分の持てるパワーを最大限に出せた、ベストプレイ。そう言える瞬間はあるが。でも、そう、エアリィが歌を通して作り出すこの空間では、僕らの力も最大限に発揮されるようだ。今まで以上のベストプレイができる。彼が放散する力と感情と、それによって僕らの内に駆り立てられた思いの中で。まるで、激流に飲まれたような気分だった。エアリィに何が起きた──本当のところは、いったい何が起きたのだ。原因はともかく、彼が何と言おうと、その結果だけは忘れるべきではなかった。
『すべての人の心に届いて揺さぶる、感情放射とコミュニケーション、それが未踏の領域へ行くということだ。あの子の眠っている力が解放されれば、それが実現できる』  フレイザー氏がそう言っていた。まさにその通りだ。未踏の領域に入るとは、こういうことなのか。真剣に音楽を目指すものが夢見、そして決して届かない領域。それがついに実現したのだ。僕は思わずその認識に震え、痺れた。
 無我夢中で、五曲の演奏が終わった。最後のコードを弾き終わると、僕は思わず全身の力が抜けるのを感じ、深いため息をついて、その場に座り込んだ。ミックもロビンもジョージも同じだ。まあ、ジョージは元々座っているが、タムの上に上半身を寄りかからせて、へたっている。
 ただ当のエアリィ自身には、その自覚が希薄なのかもしれない。たたっと走ってPCの録音を止めに行き、「あー、一曲ずつ録音したほうが良かったなあ。まあ良いか、あとで分割すれば」などと言いながら僕らを見、怪訝そうに首をかしげている。
「なんで、みんな座ってんの……? どうしたの?」
 ものの見事に無邪気な調子でそう問いかけられると、僕らはもう笑うしかない。
「ハハハ……」僕は笑いながら立ちあがり、彼の背中をパンと叩いた。
「フレイザーさんの言ったとおりだ。モンスターが目覚めたんだ。まいったな、まったく。おまえ本当に……とんでもないことになるぞ、エアリィ!」
 それだけしか言葉がない。僕は興奮していた。でも同時に、かすかな恐ろしさをも感じていた。エアリィが未踏の領域に到達するということは、バンド自体もまた彼に引っ張られて、連れていかれる。かつて誰も踏み入れたことのない、禁断の領域。そこに待ちうけるものは、いったい何なのだろうと。

 アルバム一枚分となると、五曲ではとても足りない。最低あと五つか六つ。選択幅を広くするなら、さらに一、二曲余分に作る必要があった。今回は純粋な準備期間――新規に曲を作り、アレンジをまとめて通しのデモを作るためのプリプロダクション期間を前回の倍以上、設定していた。本来の予定では八月二十日あたりから、だいたい三週間――九月半ばくらいで終わると、最初は思っていた。集中練習が十日ほど早く終わったため、実際の作業が始まったのは、それより早かったが、エアリィが遅れて来た事もあって、本格的に動き出したのは、ちょうど二十日からだった。でも実際の作業が、予定以上にかかった。最初の五曲のアレンジ決めで二週間近く費やし、そのあと七曲の新規作曲とアレンジ作業に三週間。全十二曲の最終的なデモが録り上がったのは、九月も終わるころだった。マネージメントが余裕を持って場所を借りてくれて、本当によかった。
 その間、僕らは最初から最後まで、徹底的にエアリィに振り回された。最初の五曲同様、ソングライティングにおける彼の突っ走り方は、尋常ではなかった。僕らのジャムを聞いていて、突然「あっ、出てきた!」と歌を書き始める。それは前二作と同じだ。でも今回はそれで出してくる曲が恐ろしいほど素晴らしく、なおかつそれまで僕らがジャムってきたインストの枠組みとは、ほとんど合わない代物だったのだ。枠をぶち切って拡散する。そもそも最初から枠を無視する。エアリィにとって、僕らの音はインスピレーションのもとにはなっているのかもしれないが、もはや枠組みではまったくないのだろう。だが彼が書くパートを、『合わないから、直してくれ』とは、どうしても言えなかった。僕にもアーティストとしての良心がある。どちらを修正したほうがより良くなるか、明らかすぎるほど見えているのだから、それに従うしかない。
 その結果、僕らのそれまでの作業はほとんどチャラになり、ベストアレンジを求めての長い苦闘が始まる。曲構成も歌メロと同時に決まり、キーやテンポ、それの曲中でのチェンジも含めて、付随して入るので、その部分では考える必要はないが、そのディテールを最高のものにするために。イントロ、間奏、リフ、ソロ、コーダ、歌が入る部分での各楽器の絡み。頭を絞り、時には感覚に任せて、試行錯誤を繰り返しながら、曲が要求する最高のアレンジを探し求めた。そのための苦闘は今までより数倍ハードだったけれど、やり遂げたあとの満足感も、比べものにならないくらい大きかった。
 最終デモを録り終えた時の深い感激は、とても言葉に言い表せない。僕らはやり遂げた! その思いがこれほど甘美で、有頂天な気持ちにさせるとは。前回の惨めさに比べたら、今回はなんと天国なのだろう。

 本格的なレコーディングに入るまでの一週間、僕は毎日のようにステラに会った。プリプロダクションがこんな調子だったので、たまにしか連絡できなかった、その埋め合わせでもある。以前のステラなら、約束違反だと口をとがらせて非難しただろうが、今はめったに不満を漏らさない。それがかえってすまなく思えた。彼女を忘れたわけではない。でも作業に夢中になっている間は、困ったことに他のことはどんなに重要でも、頭の中から消え去ってしまう。
 彼女の携帯に電話をするのが夜中になっても、ステラはすぐに出る。きっと待っていたんだろう。それを思うと後悔にかられるけれど、思い出すのは決まって作業が一段落したあと。夜中の一時二時ならまだましで、三時四時はざらなので、なかなか連絡ができない。八月中はそれでも、作業に取りかかる前に時々電話していたが、九月になってステラの学校が始まってしまってからは、それも無理だった。
 久しぶりにステラに会えた時、僕は真っ先にそのことをわびた。
「そんなことだろうと思っていたわ」ステラは首をかしげて笑っていた。
「あなたって本当に、バンドと音楽が好きなのね。本当に、熱中してしまうのね」
「よかったよ、許してくれて。また君よりバンドの方が大事だなんて言われるんじゃないかと、びくびくしていたんだ」
「そんな意地悪を言わないで、ジャスティン。もうそんなことは言わないわ、絶対」
「ごめんごめん。本当に、わかってくれてうれしいよ」
 僕は手を伸ばし、彼女の髪を軽くかき乱した。
「君も何か夢中になれる趣味を見つけたら、きっとわかるだろうと思うんだ」
「そうね。夢中になれる趣味を、わたしも何か見つけられたらいいけれど。そうしたらあなたにも、わたしの気持ちがもっとわかってもらえるかもしれないわね。でも、今は何もないのよ」
「編み物は? クラシックを聞きながら編み物をするのが、君の趣味じゃないのかい?」
「ええ。でも、たしかに編み物もクラシック音楽も好きだけれど、夢中になっているとは言えないわ」ステラは笑い、言葉を継いだ。「それにわたし、最近はクラシック音楽だけでなく、エアレースだって聴いているのよ」
「ええ! 本当かい?」
「ええ。今までに出ていた二枚を。デビュー前に二回見に行ったことはあるけれど、あなたたちがプロになってから出した作品は、きちんと聴いた事がなかったの。今まで、少し意地になっていたのだと思うわ。それにロック音楽は、わたしの趣味ではないから。でもね、あなたがあれほど夢中になっていることを、それにあなた自身でもあることを、わたしがほとんど知らないというのは、やっぱりいけないと思ったの。そんなことでは、あなたを愛している、なんてとても言う資格はないと思って。それで、夏ごろCDショップに行って買ったのよ。あなたのバンドと思うと、なんだか意識して赤くなってしまったから、店員さんに少し変に思われたかもしれないわ。本当に恥ずかしかったけれど、でも買ってよかったと思っているの」
「そうなんだ。うれしいな。でも言ってくれたら、わざわざ買わなくても、僕からプレゼントしたのに。それで、感想はどうだい?」
「すてきだったわ。わたしはロック音楽というと、とても騒々しいのではないかしらと思っていたのだけれど、まったくそんなことはなかったわ。昔、あなたたちの演奏を聴きに行った時には、音が大きくて驚いたのだけれど、家だとそれは自分で調整できるし。わたしはあなたのギターの音が好きよ、とっても。とても素敵な音だし、メロディだわ。それにどの曲も、とても良いと思ったの」
「ありがとう」率直な誉め言葉は、今までに言われたどんな賛辞よりうれしく、僕は思わず照れて頭をかいた。
「でも、あなたは新しい方の作品のことを、不本意だって言っていたけれど、わたしは好きだわ。どちからといえば、デビュー作より気に入っているの。でもそう言ったら、あなたは怒る?」
「いや、怒りはしないよ。音楽の好みは人それぞれだしね。君はきっと複雑なものより、わかりやすい音楽が好きなんだろう」
「ええ。たぶん、そうかもしれないわ。ごめんなさいね」
「なぜ謝るのかい、ステラ? 君の好みが僕と同じでないからって、謝る必要は全然ないよ。君には君の趣味があって、僕には僕の好みがある。同じじゃなくたって、お互いに尊重し合えば、それでいいはずさ。君が僕らの音楽を理解しようとしてくれた、それだけで僕は本当にうれしいよ」
「そう言ってくれると、うれしいけれど、ジャスティン」ステラは安心したように顔をほころばせた。「今作っている作品は、どちらに近いの? 二作目が不本意だったのなら、やっぱり最初の感じに戻るの?」
「いや、戻っていたら進歩がないよ。現役バンドである限り、進歩していきたい。それが僕らみんなの願いだからね。今度のアルバムは……」言いかけて、僕は我知らず震えた。
「どうしたの、ジャスティン?」ステラが怪訝そうにたずねる。
「いや……」僕は微笑もうとした。「ひょっとしたら、ものすごいのが出来るかもしれない。今は、それだけ言っておくよ」
「まあ、そうなの? すごいわ。よかったわね。良いものができそうなら」
 ステラは無邪気に微笑み、感歎したような声を上げた。僕も九割がたは同じ気持ちだ。一大傑作が生まれそうな予感、それはしんから震えるような高揚感と歓びを与えてくれる。でも一割だけ、消せない不安が残る。恐れに似た畏怖かもしれない。それは単なる一大傑作では、終わらないかもしれないのだと。




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