The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

一年目(1)





  夕暮れは、夜へのプレリュード
  秋の実りは、天の贈り物
  冬が来る前に

 あれは夢だったのだろうか。僕らは、長い奇妙な夢を見ただけなのだろうか。正常な時間、あるべき世界に戻った今は、そんな思いも感じる。でも僕らは結局、ニューヨークへもボストンへも行けなかった。僕が十四歳の時に小遣いをはたいて買った赤いギターも、なくなってしまった。今あるのは、ファーストアルバムの制作直前に買った白いギター、同じモデルの色違いだ。アンプやエフェクター類は、同じくファーストアルバム制作時に、以前のものの上位機種を買ったが、なくなってしまった。それで、同じものをもう一度買いなおすことになった。でも初めての全米ツアー最後の二公演に同行できなかったのも、愛用のギター、それにアンプやエフェクターがなくなってしまったのも、故障したと思って路肩に停めたワゴン車を、誰かに乗り逃げされたからじゃない。そんな記憶は、いくら頭の中を探っても見つからない。かわりに出てくるのは、あの未来世界。
 僕は現代に戻ってきた。この時代に帰還し、小さな円の完結を見届けた僕らは、ようやく本来の自分になることができた。それから二週間後、僕らはある上位シアタークラスのバンドのサポートとして、二度目の全米ツアーに行き、二六回の公演を終えたところで、クリスマス‐新年休暇でツアーは中休みを迎えた。僕らも休暇を過ごすために、それぞれの実家に戻っていったのだった。
 僕も五月の終わりに家を飛び出した後、置いてきた洋服や小物を妹ジョイスに頼んで時々持ってきてもらっていたけれど、ファーストアルバムのレコーディングが一段落した九月の初めに『もう大丈夫よ、絶対。みんなお兄ちゃんがいなくて寂しがっているから、早く戻ってきて』と、妹に背中を押され、三ヶ月ぶりに実家の玄関に足を踏み入れていた。そこで改めて、両親に詫びた。『本当に、父さん母さんの期待を裏切ってしまって、ごめんなさい。許してください』と。
 それに対し、母は少し寂しげな笑みを浮かべながら、『仕方がないわね……でも、身体には気をつけるのよ、ジャスティン』と答え、父の方は咳払いを一つして、『本当に、おまえにはがっかりした』と、吐き捨てるように言って横を向いた後、しばらくの間をおいて、ボソッと呟いた。『だが、ここがおまえの家であることには、変わりない』と。家政婦のホプキンスさんがその後ろで『本当に心配したんですよ、坊ちゃん』と、すすり泣いていたので、僕は彼女のところへも行き、手を取って同じ謝罪をした。それ以来、普通に家に帰れるようになった。
 
 大理石づくりのマントルピースに炎が燃え、レースで縁取りをした真っ白なテーブルクロスがかかった食卓には、温室咲きの赤いバラと常緑樹の葉で飾ったクリスマスのご馳走。暖炉の横には、大きなクリスマス・ツリー。いつもの聖夜だ。父と母、兄と姉、妹、僕、それにホプキンスさん。僕が子供の頃は、母方の祖父母も一緒だった。でも、まず祖父が、ついで祖母がいなくなった。少しずつ両親は年をとり、子供たちは大きくなっていくけれど、テーブルにつく顔ぶれはそれほど変わらない。何回か父方の祖父や親戚が招待されてきたほかは、家族だけの聖夜。まだサンタクロースを信じていた子供の頃には、クリスマスの朝に靴下の中のプレゼントという、おまけもあった。
 三年前、パーティに初めて新来者が加わった。当時、兄のガールフレンドだった女性だ。エセルさんという名前で、栗色の巻き毛を肩に垂らした、くるくると動く茶色い目が印象的な女性だった。はっきりとした顔立ちの美人で、よく気がつき、明るい女性。でも、少々愛想が良すぎる人だ。そんなことを思った記憶がある。初めて恋人を紹介した時の兄の顔を、僕は良く覚えている。少し照れたような表情で、でもとても誇らしげだったことを。僕はもともとの人見知りに加え、『あら〜、弟さんハンサムね〜』などと言われて、どう返答していいか戸惑ったものだった。
 次の年も、彼女はやってきた。でも、去年は来なかった。秋に二人は別れてしまったという。どんな理由だったのか、僕は知らない。兄は何も話さなかったし、僕もあえて聞かなかった。そのクリスマス、兄はいつになく饒舌でよく笑った。母や姉は、そんな兄を見て『かわいそうに』とひそかにささやきかわし、事情を良く知らない新来の牧師は、少し眉をひそめていた。黒い髪に眼鏡をかけた、その実直そうな若い牧師は姉の恋人だ。彼は礼儀正しく僕たちに挨拶をし、熱心に祈り、食事はせずに帰っていった。これから教会の礼拝があるのだと言って。
 今年は七人。父、母、兄のジョセフと、姉のジョアンナ。妹のジョイス、僕、それにホプキンスさん。姉の恋人は地方の巡回礼拝に出かけていて、今年は来なかった。二人は、秋に婚約していて、来年の春に結婚式を挙げるらしい。
 僕はこのパーティに、ガールフレンドのステラを呼びたかった。もし彼女が承諾してくれたら、僕の大切な人として家族に紹介したかった。でも、ステラに僕の家のパーティに来る意志はないようだ。彼女の家でも昔ながらのクリスマスを、家族水いらずで祝う習慣らしい。両親とステラの、三人だけの聖夜。新しいメンバーは彼女の婚約者と認められた人でなければならない、厳然とした宴だという。
 二日ほど前に会った時、ステラは甘えを含んだ声で言った。「本当はね、あなたと一緒にクリスマスを過ごしたかったの、ジャスティン。でも、そうしたらパパとママに、まだあなたとつき合っていることが、わかってしまうわ。だから、だめなの。ごめんなさいね」
 ステラの両親には、僕たちの交際は許されていない。医者になる道を捨てて、プロのロックミュージシャンの世界へ飛び込んだ時、僕は彼女の両親の信頼を勝ち得る機会を、永遠に失ったのかもしれない。
 宴が終わりに近付いたころ、隣に座ったジョイスが、何気ない調子できいてきた。
「ステラさん、来なかったのね。今年は呼びたいって、お兄ちゃん言っていたじゃない」
「うん。そのつもりだったんだけどね。自分の家でお祝いをするんだって」
 僕はそれだけ答えた。そんなに大したことはないようなふりをして。
「ふうん、そう。まあ、あたしには別に関係ないけれど。でも、あたしにもし本当に好きなボーイフレンドができたら、いくらお父さんやお母さんが反対したって、断固戦うわね」
 妹はそれほど深く考えずに言ったのだろうが、僕には痛い言葉だ。
「だが、おまえに戦うようなボーイフレンドがいるのかい、ジョイ。おまえも十六になったんだろう。いつまでもジャスティンにくっついていないで、早く彼氏を作れよ」
 ジョセフのからかっているような口調に、ジョイスはむっとしたように言い返す。
「失礼ねえ。友達ならいるわよ。あたしだって、もてないわけじゃないんだから。本当に好きな人が、まだ現れないだけ。だいたいジョセフ兄さんがそんなこと言えるの? 今年は新しいガールフレンドさんに会えると思っていたのに」
「こりゃ一本とられたな! 悪かったよ、赤ちゃん!」
「もう! 赤ちゃんなんて言うのはやめて! ひどいわ、ジョセフ兄さんったら。あたしだって、もう十六なんだから!」
「でも、わたしからみても、あなたはまだ赤ちゃんのようなものよ、ジョイス」
 母が穏やかに微笑みながら、口を挟んだ。「あなたは、末っ子だから。そうよね。あなたとジャスティンは、一家の赤ん坊のようなものだったのよ。あなたたちは年子だし、上の二人とも少し年齢があいているから、みんなでかわいがってきたの。でも、ジャスティンは思いがけず早く、わたしたちの手を離れてしまった。だから、いつまでもあなたには赤ちゃんでいてもらいたいわ、ジョイス。できるだけ長く、わたしたちの手元に置いておきたいの」
「おほん!」父が小さく咳払いした。
「そういえば、ジャスティン。おまえたちのバンドって、ずいぶん出足がいいらしいな。新人にしちゃ、好調だってきいたぞ」ジョセフが思い出したようにきく。
「ああ。国内チャートではベスト10に入ったし、ビルボードでもTOP20に入ったんだ。シングルも十六位まで上がってきたし、今度のツアーが終わったら、二月から別のバンドのサポートをやる予定なんだ」
「すごいのねえ」ジョイスが感嘆したような声を出した。
「おほん!」父がもう一度、大きく咳払いした。
 ミュージシャンとしての僕は、やはりまだ父には不愉快な話題なのだろう。僕はほんの少し肩をすくめ、兄弟たちと苦笑を交わした。兄が他の話を始め、みながそれに続いた。

 雪が降っている。家族でクリスマスを祝った翌日の朝、僕は実家の元の部屋――僕が家を出た後もきれいに整えられている自室の窓枠にもたれ、ぼんやりと外を見ていた。一年が、もうすぐ終わろうとしている。十一月から続いて、いったん休暇で中断されたツアーも、年が明ければすぐに再開する。それが一月末に終わると、十二日のインターバルをおいて、もう次のツアーが四月の下旬まで組まれていた。デビューアルバムの売り上げが好調なこともあり、幸いなことに今までのライヴの受けが良いこともあって、かなりサポートの打診が来ているらしい。マネージメントからも、『来年はかなり忙しくなるぞ』と言われていた。
 仕事があるのは、ありがたかった。キャリアが順調に進んでいる証しでもあるし、没頭するべきものがあれば、よけいなことも思い出さずにすむ。とは言っても、秋のタイムトリップ体験そのものには、貴重な思い出もたくさんある。問題は、未来で知った知識だ。だからあの時間旅行自体も思い出したくないこととして、意識の底にしまいこもうとしている。でも、記憶は裏切り者だ。思い出したくない時に限って、鮮明に甦ってくる。
 こうしてクリスマスを祝うのも、あと十回で終わりなのだろうか――そんな疑問が、ふいに飛び出してきた。もし記憶が幻でないならば、十一回目からは、きっと――。
 思わず頭を振った。小さな叫びが漏れそうになる。いやだ! そんなことは思いたくない。早く忘れたい! なのに、なぜ忘れ去ることができないのか。あれは奇妙な夢だったのだと、どうして完全に思い込むことができないのだろう。未来は希望と可能性のはずなのに。これから先に広がる人生に思いを馳せる時、十年先なら、まだ安全だ。そこまでは自由に夢を追える。でも、それからさらに一年が過ぎると――。不意に生々しい恐れを感じ、思わず目を閉じて頭を抱えた。
「負けるもんか」
 その声に自分ではっとした。そうだ。運命なんかに負けるものか。幸いまだ時間があるのだから。せっかく残された時間を恐怖に塗り潰されるだけで、終わってたまるか。
 僕は窓ぎわから離れ、ギターをケースから取り出した。アンプにコードを差し込んで、家族の迷惑にならないようにヘッドフォンをつけ、ベッドに腰をかけて弾きはじめる。十年以上も先のことなんて、考えるのはやめよう。あるのは今の僕、せめて、まだ明るい二、三年先まで――それくらい見えていればいい。指先から流れ出る音は僕を慰め、勇気づけてくれた。僕には音楽がある。すべてを知り、分かちあえる仲間たちがいる。家族も恋人もいる。それで十分だ。

 古い年が去り、新しい年が明けた。猶予期間最初の年は、慌ただしさの中に過ぎていき、目まぐるしい夢のように、ぼんやりとした記憶が残っているだけだ。
 前年から続いたツアーが一月いっぱいで終了した後、二月半ばから四月下旬まで、別のアーティストの全米ツアーをサポートで回り、さらに五月上旬から六月の半ばまで、初めてのヨーロッパへ。あの最初の運命の全米ツアー、マネージメント事務所の先輩バンド、サイレントハートの事故で、僕らがピンチヒッターを勤めたツアーの、ヘッドライナーのバンドが僕たちを気に入ってくれたらしく、彼らのヨーロッパツアーに同行させてくれたのだ。六月末から八月末までは、別の大物バンドのアメリカツアーに同行した。
 冬から春、夏へと移ろう季節を気に留める余裕さえなく、日々が飛んでいく。新しくロードに出るたび規模は大きくなり、待遇も良くなっていった。ヨーロッパもアリーナツアー、夏の全米ツアーは、すべて一万人超規模の野外会場だ。観客のリアクションも良く、アルバムも順調にチャートを上がっていく。初週が一番良くて、あとは落ちて行くという最近ではすっかりおなじみのパターンではなく、昔のように下からあげていって、ロングラン。僕らが最初、知名度がまったくなかった新人だったゆえの動きなのだが、これだけチャートを上がっていけたことは(それほど強いバックや売り出し戦略なしに)、かなり異例のことらしい。発売四十週を越えた夏にはついにトップ3入りして、全米で七十万枚、世界規模では百三十万枚を越える売り上げになった。ファーストシングルは十位まで上がり、セカンドシングルは五位までいった。僕たちは、成功したバンドになっていた。
 でも、成功は喜びのはずなのに――みなの間に奇妙な倦怠感が広がっていくのを、僕は感じていた。それは僕自身の思いでもあった。前の年まで、ただの学生だった僕たち。セミプロ経験もなく、クラブシーンすら知らない僕たちに、いきなり飛びこんだ音楽業界は、あまりに異質でありすぎたのだろう。
 ヘッドライナーのバンドにスケジュールをあわせているので、日程そのものは決してハードではない。最初二回の全米が一週間で四、五回公演というペースで、最近の二回は、完全に週四回ペースだ。僕らの持ち時間も一時間足らずなので、ステージでの消耗は、それほどなかったかもしれない。でも何ヶ月も続くツアーは、非日常がずっと続いているようなものだ。
 前年の十一月から一月までの全米は、フルリクライニングシートの中型バスが、僕らの移動手段だった。専属運転手がいたから、最初の――二週間あまりで終わってしまったアメリカツアーと違い、自分で運転する必要はなかった。ロブのほかに、奥さんのレオナがロードマネージャーとして加わり、他にも新しく五人のスタッフやクルーがきて、総勢十二人で移動し、新しく機材用の軽トラック(こちらも専属運転手付きだ)も加わった。公演地郊外のモーテルに他のメンバーと相部屋で泊まり、バスの中や楽屋で食べるものはサンドイッチかハンバーガー、たまにピザ。オフの日にはカフェテリアやファミレスで食事をした。この時は、間にクリスマス‐新年休暇が入ったこともあり、疲れつつも、楽しく過ごせたと思う。
 十二日のお休みの間にある程度疲れも回復し、次のシリーズに行った。この時には、バスは前と同じ中型のフルリクライニングシートだったけれど、モーテルの相部屋だけでなく、四回に一回ほどは、ビジネスホテルのシングルルームになった。食事も前回より少しだけ豪華になった。といっても、ハムサンドがパストラミやターキーに変わったくらいだけれど。でも二週間くらいたった頃には、まだ前のツアーが続いているような感覚に襲われはじめた。最初の頃は観光に行ったり、買い物や遊びに行ったりする余裕もあったが、後半は疲れが来て、あまり外出しなくなった。最後の一ヶ月は、倦怠感――それに近い精神状態になり、早く終わってくれないかという思いだけが強くなっていった。ツアーが終わった時には、心底ほっとしたものだ。
 十日あまりの短い休暇の間に姉の結婚式に出、それから初のヨーロッパツアーへ。ほぼ観光気分だったが、僕らは全米と同じようにフルリクライニングシートのバスを移動手段としていたので、場所移動はやはり長かった。目新しさの方が勝ってかなり観光もしてしまったために、終わってカナダに帰り着いた時には、相当疲れを感じた。慣れない環境での緊張もあり、ヘッドライナーのメンバーたちが食事や観光に誘ってくれたことも、好意はとてもありがたかったが、かえって気疲れを増してしまったのだとも思う。
 その十一日後、やっと疲労も時差ぼけも落ち着いた頃、次のツアーが始まった。バスが少し大きくなり、サロンとトイレがついたものになった。ホテルもほとんど一人部屋だ。でも、もう最初の週から、こんな生活がいつまで続くのだろうという思いが出始めていた。当初の目新しさは、すでにどこかへ吹き飛んでいる。場所移動も長く、窓から見える景色も、ほとんど変化はない。いや、実際にはあるのだろう。でも、もうどうでもよくなっていた。おまけに同じステージを百回以上も繰り返しているうちに、プレイに対して感じる喜びもだんだんと薄れていき、パターン化されたルーティンをこなしているような感じになってもいった。
 なにかが違う。こんなはずじゃなかった──その思いは、ツアーが進んでいくにつれ、増大していった。それは僕だけでなく、他の四人のメンバーも同じだったようだ。はっきりとはわからないが、明らかにフラストレーションが存在している。それはいったいなんだろう。思い描いていた世界と現実とは、ギャップがありすぎたのだろうか。ミュージシャンの生活、ロードとは、結局単調な非日常の繰り返しに過ぎないのだろうか。来週のチャートでは、何位になるのだろう。来てくれたお客さんたちは、本当にみんな満足してくれただろうか。たとえ最初から僕らを見に来てくれたわけでなくとも、『いいな』と思ってくれただろうか。インタビュアーは、さっきの受け答えで満足してくれただろうか。ああ、自分の部屋へ帰って、のんびりしたい。ホテルの部屋でなく、自分のベッドで寝たい。ホプキンスさんの料理が懐かしい。ハンバーガーやサンドイッチは、もう見るのもうんざりだ。

 七月の終わりから八月にかけて、バンドの疲労はピークに達していたように思えた。精神的な疲れに加えて、じっとしていても汗が出てくるような暑さが、体力も奪っていく。夏の野外、しかも僕らがステージに上がる時間には、まだあたりは明るく、空気も暑い。ステージにあがることがだんだん億劫になっていき、演奏することの喜びが少しずつ失われていくのが、はっきり感じられるようになった。ジョークを飛ばして笑ったり、軽口を叩き合ったりするようなことも減っていった。移動のバスの中でも、サロン部で話したりゲームをしたりしなくなり、みな自分の席で窓の外をぼーっと見ているか眠っているか、本を読んでいることが多くなった。
 そんな八月上旬のある晩、ステージが終わって楽屋へ引き上げた僕らは、そのままいっせいにソファに座り込んだ。アメリカの西南部、しかもその日はとりわけ暑い晩で、気温は三五度以上に達していた。僕らはみな、外からはっきりわかるほど汗だくになっていたが、シャワーを浴びて着替える気力もないようだ。ジョージはウィスキーのビンをつかんで、そのままがぶっと飲み、深くため息をついている。ミックは目を閉じ、眠っているように天井を仰いだままだ。ロビンはうつむいて頭に手をやり、そのままうずくまっている。エアリィはソファによりかかりながら汗を拭うと、半ば投げつけるような口調で言った。
「ああ、もう、あっつい! それにホント疲れた。いつまでこんなこと、続くんだろ。もうやめにして、帰りたいな」
 僕は頭を上げた。その言葉はたぶん、僕ら全員の思いだ。でも口に出されると、よけいにやりきれないような気がした。
「そう思ってるのは、おまえだけじゃないさ。今さら、そんなこと言うなよ」僕はいくぶん、ぶっきらぼうな口調になっていた。
「みんなそう思ってんなら、もうツアーやめれば良いのに」
「そうはいかないだろう。僕らはプロなんだから。おまえにはプロ意識がないのか?!」
 また怒ってるな──そう言いたげな表情を浮かべて僕を見たあと、エアリィは頭を振って言い返してきた。「プロ意識って? やりたくもないのにショーをやるのが、プロ? 僕らが楽しめなくて、お客さんが楽しいわけない。義務感だけでやってたら、かえって失礼なんじゃないか。疲れて、いらいらして、うんざりして、それでもやりつづけなきゃなんない理由って何だよ? プロモーション? こんな状態じゃ、逆効果だと思うけど」
 あまりにも図星で、反論の余地はなかった。たしかにそのとおりだ。でも、なぜか釈然としない。僕は言葉を捜した。
「そりゃそうだ。たしかにそうだよ。でも、何か大切なことを忘れていないか? プロっていうのは、たとえどんなコンディションでも、最良を提供することじゃないのか? たとえ自分たちはうんざりして疲れ果てていても、それを感じさせないでお客さんを楽しませるのが、本当のプロじゃないのか? おまえはやっぱり、アマチュアの視点からしか見てないんだ、エアリィ。恥ずかしいことだとは思わないのか?」
「そんなの、ただの理想論じゃないか、ジャスティン。理想を振り回したって、現実は変わんないから。おまえの言うことは正論だけど、たしかにそう出来りゃ最高だけど、現実には無理だよ、んなこと。音楽って、自分自身の感情の反映なんだから。それで、自分が最低な気分だったら、どうなるわけ? それでも観客をハッピーにさせられるなんてこと、できるのか? その音楽が正直だって言える? おまえだって気が乗らないから、落ち込んでんじゃないか。だからそんなにイライラしてんだろ? 自分でできないこと言ったって、説得力ゼロだって」
 自分でも、顔が赤くなるのがわかった。反論できないのが、よけいに悔しい。頭の中で、なにかがはじけたような気がした。次の瞬間、僕はつかみかかっていった。手を振り上げかけると同時に、ロビンが声を上げた。「やめてよ、やめて! 二人とも! お願いだから!」ジョージとミックも立ち上がり、駆け寄ってきた。「おい、落ち着け!」と。
 僕は我に返った。手を離し、二、三歩後ずさりした。危うく、生まれてはじめて人を殴るところだった。それにさっきつかんだ時、相手の身体が異様に熱かった――暑さだけではない感じだったのに、今さらながらに気づいた。
 エアリィはいきなりぱっと離された反動で一瞬よろけたあと、すぐに体勢を立て直し、少し驚いたように二、三度瞬きして僕を見ている。「ジャスティンが、キレた……」
「キレるつもりはなかったよ。ごめん、エアリィ」僕は言い訳をせず、謝った。
「いや……僕も言いすぎたと思う。ごめん」
「そうじゃない。おまえの言うことは正論だ。ちょっと正直すぎるけどな。だけどカチンと来てしまった。僕は本当にイライラして、どうかしていたんだな」 「それって、おまえだけじゃないよ、ジャスティン。みんなちょっと調子狂ってきてるんだ。それに、おまえの言うことも正論だと思う。ちょっと理想的過ぎるけど。僕だってさ、ホントは始めた以上、途中で投げ出すのは、やなんだ。けど今は、やめたい気持ちのほうが強くなってきた。おまえの言うとおり、僕は根性なしかも」
「そうじゃない。やめたいのは、僕も同じさ。たぶんおまえ以上に、そう思っているんだ。でも、やめられないから、イライラしていたんだ。それとおまえ、熱あるんじゃないか? さっき気づいたんだが、熱かったぞ」
「うん。たぶん、昨日あたりから出てると思う。計ってないから、何度かはわかんないけど。なんか身体がだるいしね」エアリィはふうっとため息をつき、椅子に座り込んだ。「なんだろう、この暑さの中でショウをするのに、身体が慣れてないのか……たった一時間なのにね。暑いのって苦手なんだ。だからここ一ヶ月くらい、疲れた感がやばかった。でも、それって僕だけじゃなくて、みんなもそうだろうしって思ってたんだけど……」
「体調崩しているのなら、言ってくれなきゃダメだよ」ミックが首を振って言い、
「おい、体調不良は早めに言ってくれ」と、ロブも声を上げる。
「でも言いにくい、この雰囲気の中じゃ」エアリィは肩をすくめ、
「まあな。本当に余裕がないからな、最近の僕らは。でも僕も、病人を殴らなくて、よかったと思うよ」僕も頭をかいて、苦笑した。
「まあ……なんとか無事に収まったね」ミックは僕らを見、少し苦笑を浮かべた。
「また繰り返されない、とは言えないがな。この状況じゃ。疲れてるから、みんな神経がイライラしがちなんだ。無理もないけどな」ジョージが頭をかいて、付け加えている。
「それは、たしかにありえるかもしれないな。出来るだけ避けたいけれど」
 僕は同意せざるを得なかった。冗談で済めば、それにこしたことはないけれど、これからも年内いっぱい、サポートツアーが続く予定なのだから。
「もうやめよう、本当に」ミックがきっぱりとした口調で、裁定をおろした。
「うん。なんとか、そうならないようにするよ」
 エアリィと僕は同時に言いかけたが、ミックは指を振って遮った。
「違うよ。君たちのケンカのことじゃない。これ以上のロードは、もうやめた方が良い、ということさ。もちろん、このツアーはちゃんと終わらせないといけないけれど、これが終わったら、もう終わりにした方が良いと思う。僕らみんな、もう余裕がなくなってきているんだ。イライラしたり、衝突しそうになったり、体調不良も言い出せないような雰囲気になってしまうというのは、良くないよ。しばらく休んで、それから出来れば、次のアルバムに取りかかったほうがいいんじゃないかな」
「ああ、そう出来れば本当に良いな!」これには、バンド全員が同意の声を漏らした。
 ジョージはさらに断固とした口調で、こう付け加えている。「そうだ、そうだよな。こんな状況は異常だ。俺たちみんな、おかしくなりかけているんだ。このまま年末までやったら、本当におかしくなっちまうだろうよ」
「気持ちはわかるが、現実問題、そう簡単にロードを打ち切るわけにはいかないぞ。実際、スケジュールは今年いっぱい入っている。アクシデントのキャンセルなら仕方がないが、売り出し中の新人が、『もう疲れた』なんて理由で降りるわけにはいかないんだ」
 ロブが頭を上げ、ちょっと顔をしかめながら、僕たちを見た。
「ああ……それは、わかっているんだけど……」
「おまえたちにはまだ言わなかったが、特に九月からのツアーは、超大物からのオファーなんだ。異例の大抜擢だ。これを断るわけにはいかないぞ」
「え?」
「九月から十二月までのオファーは、本当にたくさんあったんだが、あるスーパースターがおまえたちに関心を持って、九月半ばから十二月初旬まで続く全米ツアーの、サポートに加えてもいいと言ってきたんだ。アリーナじゃない。スタジアムツアーだ」
 ロブが挙げたアーティスト名を聞いて、僕はひっくり返りそうになった。他の四人も驚いた表情で、目を丸くしている。
「本当に?!」
「そうだ。先月の半ばから、その調整でマネージメントもかなり動いていたようだ。そしてつい三日ほど前に、ほぼ決まりそうだという話が相手から来た。だから、気持ちはわかるが、もう少しがんばってくれ。秋のツアーは、スケジュール的には相当緩いんだ。一日おきで、時には中二日になる。一月で十回くらい。それを三週間くらいでやって、一週間から十日くらい中休みが入る。それを三シリーズだ。相手の提示条件も破格だ。だからうまく気分転換をして、体調も整えて、乗り切って欲しい。この上もないビッグチャンスなんだ」
 たしかに僕らのような新人が、そのクラスの、超がつくほど大物のサポートなどという機会はめったにない。異例の幸運、大抜擢と言ってもいいだろう。断れる立場にないことは明白だ。僕らは顔を見合わせた。休みたい、たしかに。でも、なんとか乗り切っていくしかないのだろうと、諦めのうちに、みなの表情は語っていた。

 それから一週間後、事態は思わぬ展開を迎えた。宿泊先のホテルで、ロブが僕らを呼び集め、告げたのだ。「九月からのツアーは白紙になった」と。
「えっ?!」僕らはみな、驚きの声を上げた。
「なぜ急に?」ミックが僕らを代表して、そう問いかける。
「もう一つの候補に出し抜かれた」ロブは苦渋に満ちた顔で、首を振った。「そっちの方が、おまえたちより実績も知名度もある。それでも、おまえたちに決まりかけていたんだが、対抗陣営が面子をかけて、巻き返しにきたようだ。なりふり構わずに。豪華なパーティに招待したり、相手の喜びそうなものをプレゼントしたり、好みの子を送り込んだりと、まあ、ここ何週間か、あの手この手でどんどん攻勢をかけたそうだ。それで相手もそこまでするのなら、その熱意を買おうと言って……」
「要は買収されたわけだな」ジョージが苦笑して、微かに首を振った。「それで、俺たちはどうなるんだ?」
「もうほぼ話が決まっていたから、他のオファーはすべて断っていた。昨日、相手メンバーが社長に直々に電話をかけてきて、言っていたそうだ。君たちには悪い事をした。残念だ。でも君たちは有望だから、きっとまたチャンスはある。次のツアーでの同行が可能だったら、また機会をあげる、と。ただ、彼らの次のツアーは、たぶん三年は先だな」
「ずいぶん気の長い話だね」僕も思わず苦笑した。
「そうだ。だから今回はとりあえず、どうしようもない。今朝から社長やレーベルの担当者と何回も電話で話し合って、諦めざるをえない、という結論になった。一回断ってしまったオファーは取り戻せないし、すでに九月からのツアーはどれも、ラインナップが決まってしまっている。自分たちでホールツアーを打つのも、こんなにぎりぎりでは無理だ。残念だが、ファーストアルバムのプロモーションツアーは、今回で終わりになるだろう」
「うわぁ、よかったぁ!」と、エアリィがそこで声を上げた。僕も思わず同じことを言いそうになったが、これは喜んでいいのだろうか?
「こら、そう嬉しそうにするな。キャリア的には、大きな痛手なんだぞ」ロブが少し顔をしかめ、諌めている。
「えー、でも、僕らがスタジアムツアーのサポートって、絶対まだ早いし、なんか場違いな気がしてたんだ。向こうがそこまでして出たいんだったら、叶って良かったと思う。僕らよりはるかに先輩なんだし」
「でもな、これはおまえたちにとっても、大きなチャンスだったんだ。相手は、おまえたちにも立派にスタジアムのサポートが務まると、思ってくれていたわけだ。おまえたちはこの短期間に、着実に実績を積みあげることが出来た。注目の新人となり、相手にとっても観客をより呼び込める彩りになれると思ってくれたから、これだけサポートのオファーが来た。そのチャンスをおまえたちは、今まで確実にものにして成功させてきたんだ。今度もきっと成功できたと思う。そうなればアルバムの売り上げも、もっとブーストされる。今の倍くらいにはなるだろう。それだけのポテンシャルはある作品なんだ、あれは。おまえたちは今の段階では自力でツアーをするより、より動員力のあるアーティストのサポートで行ったほうが、広いマーケットでの露出が見込めるし、話題にもなる。それでアルバムも、あそこまで売れたんだ。それをさらに伸ばす大チャンスだったんだぞ」
「でもロブ、現実には僕ら土壇場で負けちゃったんでしょ、対立候補に。孵らないうちからひよこを数えるな、って言うし」
「本当にな。取らぬ狸だ。しかし、おまえもひとごと過ぎるぞ、エアリィ」
 ロブはしまいには苦笑して、首を振っていた。
「まあ、ロブやマネージメント側ががっかりしたのはわかるけれど、僕らにしてみれば、かえってよかったのかもしれないね」ミックがそこで言いだした。「前にも言ったように、僕らは慣れないツアーで、疲労もピークに来ていた。いや、たぶん今もそうだろう。その状態でスタジアムツアーなんかに同行したら、精神的にも体力的にも、相当に負担がかかると思うんだ。たとえスケジュール的には緩くても」
「ある意味、渡りに船だな」ジョージも、にやっと笑っている。
「おまえたちは、欲がなさ過ぎるな、本当に」
 ロブは頭をかき、僕らをじっと見たあと、ため息をついた。
「しかし……そうなのかもしれない。僕も社長から話を聞いた時には、とてもがっかりした。おまえたちにとって、大チャンスだったのに、と。……そうだな、先走りすぎたのかもしれないな、僕も。バンドの現状把握を、もっとしっかりしておくべきだった。おまえたちがそれを望んでいるなら、これでよかったのかもしれない」

 それから三日後、移動のバスの中で、ロブは再び僕らに告げた。
「社長やレーベルと協議して、今後のスケジュールが決まった。このツアーで、デビューアルバムのサポートは終了だ。まだまだ売れる作品なので惜しいが、仕方がない。それで、九月二十日まではオフだ。それからセカンドアルバムの製作に入る」
「ええ、もう来月から?」僕らはいっせいに問い返した。
「そうだ。それはレーベルからの、たっての要望だ。今の勢いを落とさないために、出来るだけ早く次を出した方が良いと。それもデビューアルバムの路線からあまり変えずに、ということだ。クリスマスシーズンが終わったら、リリースしたいと」
「なんか……ずいぶん、早くない?」エアリィは少し心配そうな口調だった。
「年内いっぱいツアーが出来たらこれほど急がないんだが、まだアルバムセールスに伸びしろのあるところでプロモーションを切るわけだから、それが被害を最小限にとどめる方法だと、レーベルの担当が言うんだ」ロブはそう説明している。
「でもファーストアルバムも、六月半ばから作り始めて、リリースまで四ヶ月だから、九月二十日からだと、一月下旬くらいが妥当な気がする」
「だから、デビュー盤の時のようなペースでは録らない。少し集中して、もう少し短時間でやるんだ。九月中にマテリアルを用意して、十月中に録音を上げる。十一月前半でミックスダウンをして、年末に発売。そんなスケジュールで行く」
「すっごい突貫工事だけど、それで出来るのかな」
「いや……大丈夫じゃないかな」僕は少し考えた後、頷いた。
「出来ると思うんだ。デビュー盤の録音は一ヵ月半くらいかかったけれど、それは僕らがレコーディングに慣れていなかったのと、一日五、六時間くらいのペースで、ゆっくりやっていたからだ。集中して、時間を長く取れば、一ヶ月で十分できるだろうと思う」
「レコーディングはそうかもしれないけど、マテリアルは? ファーストの時にはもう揃ってたけど、今って、あまりないから。ロード中に作った奴が、三つくらいだし」
「そうだな。じゃあ……スタジオ入りするまでに、めいめいで曲を作ってこよう。それで二十日にスタジオ入りしてから合わせて……」
「十日でできるかな。きつくない?」
「だから、それまでに少し書いてこようって言ってるんだよ。十日間で、一からそんなには書けない。それこそおまえが言うように、突貫工事になってしまうから。幸いお休みは三週間あるんだから、宿題にしないか?」
「えー、僕、何にもないとこから書くの、苦手だなぁ。みんなの音聞いてると、ある程度インスピレーションが落ちるけど、普段、どういうとこから落とせばいいんだろ」
「アンテナを張れ、って言うじゃないか。おまえなら出来るだろう。僕もなんとかしてみるから。そうだ、このツアーもまだあと二週間あるわけだから、時間があったらスタジオを借りて、少しセッションしてみてもいいかもしれない」
「ああ、まあ、それもいいかもね」
「がんばれよ、ソングライティングチーム!」ジョージが笑って、エアリィと僕の肩を叩いた。「俺らも手伝えたら良いんだが、せいぜい自分のパートしか考えられないからな。おまえらはリードパートを担うわけだから、がんばってくれ」
「大丈夫だよ、二人なら」ミックも微笑して僕らを見ている。
「ああ。たしかに早いかもしれない。でも、僕はなんだか嬉しいんだ。新しいマテリアルが書けると思うと。ファーストの曲も好きだけれど、ずっと演奏し続けて、少し新鮮味がなくなりつつある頃だったから。新しい曲には新鮮に向き合えるし、古い曲もまた別の視点で見ることが出来ると思う。最初に九月のロードが白紙になった時、僕も喜びたかったけれど、喜んでいいんだろうかって思っていた。でも今は、本当に嬉しいんだ」
 そう、それがその時の僕の、偽りのない気持ちだった。年内続くと思っていたロードから、思いがけなく解放された。それから三週間休める。そして、新しいアルバムが作れる。期限は少し気になるけれど、出来ないことはない、と。
 ロードからやっと解放される、その思いはバンドに最初の頃の活力をもたらした。再びステージが楽しいと思えるようになり、ジョークを飛ばして笑いあう余裕も出てきた。そして僕らが楽しめれば、その気持ちはダイレクトに観客に伝わることも知った。




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