The Sacred Mother - Part1 The New World

第四章   晩秋の世界へ(2)




 もうすっかり朝になっていた。時計を見たら、八時になるところだ。空は明るい水色に澄み渡り、秋の風が吹いていた。今頃、もう一人の僕が、ちょうど一ヵ月前の僕がトロントのアパートで、この空を眺めているのだろう。十月十五日――突然このツアーに出ることになった朝、そんなことは何も知らず、いつものように目覚めた後、窓を開けて外を見ながら、考えていたのだった。
 三日前にアルバムが出て、メジャーデビューすることができた。でも、まだエクスポージャーの機会がなくて、これからのことが少し心配だった。音楽業界は、相変わらず厳しい状態だ。実際その中に入ってみて、その現実を少しだけ知ることができた。今は強力なスポンサーがついて、バックアップ体制も万全で送り出されない限り、なかなかブレイクのチャンスはないという。僕らには、そのどちらもない。マネージメントはカナダでは大手だが、アメリカに行けば中堅だし、スィフターもいない今、それほどの力は持たないという。それでもデビューに前後して公式サイトを立ち上げてくれ、コネクションのある所に、プロモーション資料と音源を配ってくれていた。レーベルも僕らに対しわりと力を入れてくれているようで、デビューの翌日、動画サイトで公式チャンネルを立ち上げてくれた。ラジオプロモーション用としてのデビューシングルもかなりプレスされて、全米のラジオ局に配られたという。
『我々としては、できる限りの状況は整えた。あとは君たち次第だね』レーベルの広報担当さんが、そう言っていたものだ。一か月以上前――日付だけを見れば、まだほんの二、三日前なのだが。
『ラジオでは、曲に力がありそうだ、売れそうだと思ったら、かけてくれる局もあるかもしれない。最初はライト・ローテーションで。それに対していくらかでも反響が来れば、ローテーションは上がるだろう。我々には、君たちにもその作品にも、充分アピールがあると思うが、実際のところは、ふたを開けてみないとわからない部分もある。今の時代、正当な方法で成功するために必要なのは、まずは露出だ。そして口コミだ。もし君たちがクラブに出られたら、ライヴをして見てもらうことは可能なのだが――最初は複数出演者のいるギグでね。そうして評判と動員力を上げていくのが王道だが、君たちの場合それは無理だから、ある程度動員力のあるアーティストのツアーサポートについて、名前を売って、見てもらう。それが可能ならね。それがもし話題になれば、今の時代なら、ネットで評判が広がっていけるかもしれない』
 僕は――もう一人の僕はあの時、言われたことを考えながら、不安に思っていた。果たして、そんな機会は来るのだろうか、と。まさかその日の午後に、その大きなチャンスが降って湧いてくることなど夢にも知らずに、さらにその夢のツアーがこんな形で終わるとはかけらほども思わずに、あの時の僕は、ただ純粋な期待と不安に満ちて、この朝の空を(きっとトロントの空にも続いているだろう)見ていたのだった。
 偶然に思われた大チャンスを作ったのは、僕たち自身だった。未来の僕たちが、過去の僕たちに代役に立つきっかけを作ってしまった。あのツアーに出ることが決まった時点で、それからの一ヵ月が決定された。いや、これから先の一ヵ月の結果として、僕たちはあのツアーに出ることになった。どっちが原因で、どっちが結果なのだろう。これが一つの円の始まりで、終わりなのだろうか?
 僕たちは今、小さな時の円環の中にいる。でももっと大きな円は、少なくともあと七五年くらい先にならないと閉じない。十八年後に生まれる僕の娘が、その生涯の終わりに、あの手紙を書き残すまで。僕は生きてそれを見届けることはできないけれど、結果は見たことになる。そして、さらに大きな時の環が完全に閉じるのは、三三〇年先だ。僕たちにとっては過去の経験になるあの未来世界が、現実になった後。あの未来に僕たちが現われ、帰った直後。その時に初めて歴史が固定される。不思議だ。時間がねじれて環になっている。どこが始まりで、どこが終わりなのだろう――?

 考えはそこで中断された。目の前に白いカマロがキッと止まり、四十才前後の女性が運転席から顔を出している。薄いグレーのサングラスをかけ、シンプルなデザインの白いスーツを着こなし、肩まではかからない長さの亜麻色の真っすぐな髪を額の真ん中で分けて、両側に垂らしていた。着ている服はまるで違うが、全体の印象は、まるで未来世界のシンプソン女史をもう少し若くして、髪の色を濃くして少し伸ばし、化粧したような感じだ。まさか彼女が現代に来るはずはないのだが、一瞬、少々奇妙な感じを覚えた。
「どうしたの、こんなところで。車が故障したの? それとも、ヒッチハイク?」
 その声も、どことなく似ていた。僕は少し戸惑いながら、頷いた。
「ええ……ヒッチハイクです。乗せてもらえたら、ありがたいんですが」
「どこまで行くの?」
「ボルチモアのペン駅まで」
「そう。じゃあ、よかったらお乗りなさい。わたしもボルチモアまで行くのよ」
「すみません。どうもありがとうございます!」
 こんな通勤時間帯の真っ只中に拾ってもらえるのは、せいぜいトラックのお兄さんかなと思っていたから、ちょっと意外だ。それに女の人は普通、若い男なんて、警戒して乗せはしないと思っていたのに。エアリィと違って、僕は女の子には見えないだろうし。彼女には、よっぽど僕が人畜無害に見えるのだろうか。ありがたいことなのだが。
「すみません。お忙しいところを。助かりました。これからお仕事ですか?」
 そう問いかけると、彼女は微かに笑い、答えた。
「ええ。仕事よ。あなたはどうして、ヒッチハイクをしているの?」
「いや……友達と車で旅行していたんですが、ケンカをして、置いていかれたんです」
 それはファミレスで話していた時、理由を聞かれた時の言い訳として考えたことの一つだ。『なんかそれって、ずいぶんひどいって言われそうだね。友達止めちゃえってくるかもよ』と、エアリィが笑っていたが。
「あら。それは、ずいぶんひどいわね。そんな人とは、もうお友達づきあいはやめたほうが良いわよ」彼女は見事に同じ答えを返してきた。まあ、たしかにそうだろう。
「いや……僕も悪かったんです。とりあえずボルチモアに行ったら、連絡してみます」僕は肩をすくめた。
「ところで今日は金曜日でしょう。学校は?」
「ああ、この六月にハイスクールを卒業したんです」
「そうなの」彼女は頷いた後、ちょっと黙った。
「乗せてくださって、ありがとうございます。僕はジャ……いえ、ジョン・ローレンスと言います。十七才です。今ちょっと……決まった職業はありません」僕は礼儀を思い出し、改めて名乗った。でも、ヒッチハイクの理由も含めて、こんなにしゃあしゃあと嘘をついたのは、生まれて初めてのような気がする。
「そうなの。でも、あなたのような若い子が失業中っていうのは、あまり感心できないわね。大学へは行かなかったの? 就職する気はないの?」
「僕は……ミュージシャンになりたいと思って」
「ああ、そうなの。どのジャンルを目指しているの? ヒップポップ? ロック? それともポップス? カントリー?」
「ロックです」僕は即座に答えた。
「そう。じゃあ、一昔前にはやった、ギター片手に都会へ出てっていうパターンね。まあ、ギターは持っていないようだけど。わたしはエリザベス・ターナー。フリーのジャーナリストよ。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 シンプソン女史もファーストネームはエリザベスだ。ますます偶然だ。
「ロックミュージシャン志望なら、あなたはこっちのほうがいいかしら」
 彼女は手を伸ばして、カーステレオのスイッチを切り替えた。今までかかっていたカントリーウェスタンから、ポップス・ロック局に変わったようだ。聞いたことのある曲が流れてきた。あまり好きではないけれど。
「そんなに気を使わないでください。あなたの好きなものでいいですから……」
 そう言ったとたん音楽が終わり、DJの声が聞こえてきた。
「ハーイ! じゃあここで一曲、カナダ産ほやほや新人バンドの曲を、行ってみようじゃないか。バリバリのティーンエイジャーだよ。僕は、結構気に入っているんだ」
 その声にかぶさるようにして、聞き覚えのある音楽が流れてきた。七拍子アルペジオのイントロ――え! 僕は自分の耳を疑った。聞こえてきたのは、紛れもなく僕たちの音楽だ。コンテストの優勝曲、『Shades of Green』――僕らのデビューシングルだ。戦慄が走り抜けた。たぶんこれがラジオの電波にのって流れた、最初のオンエア。こんなところで聞くことになるなんて。
 でも記念すべき初オンエアを聞くことができたのは、最初の数小節だけだった。
「あらそう。ありがとう。実を言うとわたし、あまりロックは好きではないのよ」
 彼女はすっとチャンネルを戻してしまい、僕は下手な遠慮をしたことを密かに後悔した。
 やがて車はボルチモアに着いた。ターナーさんは「どうせ通り道だから」と、ペンステーションの近くで降ろしてくれた。
「どうもありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして。わたしも楽しかったわ」
 彼女はウインドウを細目に開け、にっこり笑うと、こう付け足した。
「あなたの夢が叶うことを祈っているわ。でも今度会う時には、本当の名前を教えてね、ジョン・ローレンス君」
 見破られていたか。でも僕が本当は誰なのかは知らないだろうし、これからも知ることはないと思う。彼女があまりロックを好きでないなら、なおさらだ。

 車が走り去ってしまうと、とりあえず駅を目指した。時間は九時四五分過ぎ――もう十時近い。市内の混雑に捕まったおかげで少々遅くなったけれど、僕は一番手だから待たせる相手はいない。
 これからどこへ行こうか? みんな、一時間おきに出発する。次の順番に当たっているロビンは、どのくらい待つかにもよるが、たぶんもうこっちへ向かってきているだろう。今頃はその次のエアリィが、そろそろ準備を始めている頃か。彼の場合は目立つから、何かの対策をしてくるのだろうか。それともそのまま、僕のように髪を束ねてバンダナでも巻くのか。ともかく彼が十時で、ミックが十一時、ロブが十二時。最後のジョージの出発は、スムーズに行っても午後一時になる。みんなすぐに車が拾えるとは限らないから、前の人がまだいる場合は一時間たっても出発は出来ないし、ヒッチに立っても、けっこう待つだろう。僕もあまり待たなかったと思ったのだが、ターナーさんの車に乗った時、時計はもう八時半だった。
 六人全員がそろうまで、相当の長丁場になるにちがいない。駅へ行く途中にスターバックスがあったが、マクドナルドやウェンディーズなどは、この近辺にはなさそうだ。まあ、スターバックスでも良いだろう。ここもファーストフードの一種には違いないし、わりと座席もたくさんある。ここなら、かなり長居できるだろう。
 暇つぶしに雑誌を駅のスタンドで買ってから、店へ入った。スコーンとコーヒーを買って、席を探す。奥の方で、隣との間隔が近くなく、最低でも四人座れる席――パーティションの近くに、おあつらえ向きの空席を見つけた。叱られそうではあるが、隣のテーブルをくっつけて四人席にし、使用中の札を置いてから座る。僕はゆっくりと二度目の朝食にかかった。食べ終わると、あとはなるべく他の客と目線を合わさないように、うつむいて雑誌を読んでいた。ときおり他のメンバーが来たかどうかを確認するために、ちらっと店内に目を走らせているが、次の番のロビンはなかなか来ない。彼は僕の一時間後に出発しているはずだから、その分は遅れるだろう。でも僕がここに来てから、一時間半たっている。もう十一時十五分だから。眠気を感じた。考えてみたら、昨夜は寝ていない――。
 
 僕はいつのまにか、眠りこんでいたらしい。いきなり帽子をぐいっとひっぱられて、目が覚めた。
「起きなよ、ジャスティン! こんなとこで爆睡しちゃって!」
 エアリィの声がする。でも目を上げると、そこにいたのはどう見ても女の子だった。髪の毛を両サイドにピンクのリボンで結び(いわゆるツインテールという奴だ)、白いカーディガンの下に、ミニーマウスが描かれた明るいピンクのトレーナー。黒いミニスカートにタイツをはいている。まつ毛は黒く、まるでつけまつげのようなボリュームだ。胸は目立たないので、グラマーではない、でも超が何個かつく美少女。誰だ? その子は左手に僕がさっきまでかぶっていた帽子を持って、くるくる動かしていた。隣には、恥ずかしそうに微笑んでいるロビンがいた。そう、こっちはロビンだ。僕は思わず、目をパチパチさせた。
「エアリィ、だよな? なんだ、その恰好」
「違う。あたしはアメリー・スチュアート」
 口調まで、すっかり女の子になっている。僕は思わずひっくり返りそうになり、声を上げかけ、慌ててトーンを下げた。「やめてくれ! 本当にやめてくれ!! それになんだ、そのメアリー・ステュアートみたいな名前は!」
「えー、偽名使えって言うから。それも女の子の。で、継父さんたちの苗字のステュアートに、ここはアメリカだから。まあ、適当だけどね、ホント」
 エアリィは普通の口調になって、僕の頭に再び帽子をかぶせ、椅子に座った。
「文句は僕にこんなかっこさせた、ロブたちに言って。おまえは目立ちすぎるから、女装しろって言うんだ。えっ、ジャスティンみたいに髪束ねて帽子かぶれば良くない?って言ったら、おまえはそれじゃダメだって。もともと女の子にも見えるんだから、いっそ徹底的に女になれ、ってさ。それで、今日はホテルに着くまで、そのままでいろって。せめてリボン取って、髪おろしたかったんだけど、それやると後でばれる確率上がるから、ダメだって言うんだ。あ、それ眠気覚ましのコーヒー。昨夜は結局僕ら、徹夜になっちゃったから、眠くなると思って」
 もう二人とも買い物はすませたらしく、コーヒーとサンドイッチ、それにフルーツやドーナッツなどが乗ったトレーが二つ、テーブルにおいてあった。僕のトレーは片付けられていて、かわりに新しいホットコーヒーのカップが置いてある。ロビンも腰を下ろし、「僕もびっくりしたよ」と、肩をすくめていた。
「まあ、わかるけどな。おまえは目立つし、人の印象にも残りやすいから。女の子だってことにすれば、ばれにくいと思ったんだろうけどなぁ、ロブたちも」
 僕も苦笑して、コーヒーを飲んだ。何らかの対策はしてくるだろうと思っていたが、まさか完全女装とは思わなかった。僕は髪を束ねて帽子をかぶる程度で済んでよかったと、ひそかに胸をなでおろした。まあ、僕の場合はいくらなんでも、女装はさせられないだろうが。変な趣味のお兄さんにしか見えないことは確実だ。僕は、店の時計を振り返った。十一時四五分だ。
「コーヒー、サンキュな。一人で待っていると退屈で、つい眠くなっちゃったよ。でも、おまえ見たら、目が覚めたぞ。その服はどうしたんだ?」
「ショッピングセンターで、ロブが買ってきたんだ。僕が出る前に、そこの中のスタバに場所移したから。で、トイレで着替えろって、しかも女用で。マジ? スカート! やめて! って、抵抗したんだけど、そのほうが完璧に女に見えるって。もしかしてみんな、楽しんでない? って、思った。着せ替えじゃないんだからさ。で、そのまつげの色は目立つからって、マスカラつけて……あ、ちょっと待って、もう限界。取るから」
 エアリィはウェットティッシュをバッグから取り出して、まつげを拭った。黒い色が取れて、青に戻っていく。まあ、たしかにその色は目立つし、あまりに特徴的で覚えやすいから、多少のアレルギーを覚悟してでも、黒くする必要があったのだろう。
「ああ、気持ち悪かった。で、ミックがこの髪型にしてくれたんだ。店の中でやると迷惑だから、外へ出て。それもまあ、人に見られたら、かなり怪しい光景だけど。それもツインテールって、ミックってこういう趣味だったんだ。ご丁寧にリボンまで結んで。それも買ったんだよ。本当に、なんで僕の番の時に、ショッピングセンター開いてるんだろ。もっと早かったら、こんな恥ずかしいかっこせずに済んだのに」
「そうだなあ。おまえは十時だからな、出発。その頃には店も開くから、ちょっと待ってろという感じで、ロブが買ってきたんだろうな。まあ、前から思っていたが。おまえは女の子の格好をしたら、本当になりきれるだろうなって。女用トイレに行っても、完全に違和感ないだろうしな」想像すると笑いがこみ上げるが、大笑いするわけにはいかない。余計な注目はされたくない。
「で、そのままヒッチに立ったのか? 変な男に拾われなかったか?」
「声はかけられたけどね。いきなり二人組みの男に、『一人なの? 乗せてあげるよ! 一緒にドライヴに行こう』って。いや、これってもしかしてヒッチハイクっていうよりナンパかなって思って、パスした。友達と待ち合わせしてるからって言って。『ナンパ野郎には気をつけろよ。えらいことになるから、男の車には乗るな!』って、ジョージにも釘刺されてたし。それで、その後に来た大学生の姉妹に乗っけてもらったんだ。彼女たち、家はボルチモアの郊外なんだけど、二人でペンシルバニアの大学に行ってるらしくって、でもちょっと家に用ができて、一日早く帰るところだって言ってた。年配の人の方が良いのかなって思ったけど、まあ良いかな、って思って、乗ったんだ。彼女たちホントに親切で、わざわざボルチモアのペン駅へ回ってくれて、助かったんだけど、しっかりお説教されちゃったよ。学校はどうしたの? サボったの? 女の子がヒッチハイクで一人旅なんて、危なすぎるわよって。絶対に男の人の車になんか、乗っちゃダメよって、彼女たちにも言われたし。いや、女の子の一人旅じゃないし、とは思ったけど、訂正はしなかったよ。『うん、学校はつまんなかったから、あんまり行ってなかったの。ありがとう、心配してくれて。これから気をつけて、少し真面目になるね!』って」
「やめろ! 本当におまえ、はまり過ぎだ! 頼むから口調も女の子になるのは、やめてくれ!」僕は思わず再び声を上げそうになり、慌ててまたトーンを下げた。ロビンも顔が引きつっている。
「僕も好き好んでやってるわけじゃないし。でもドライヴは、けっこう楽しかったよ。あからさまな嘘つくのって、ちょっと気がひけたけど、これはもうお芝居なんだって開き直って……お祖父さんみたいな演技力はないけどさ、十四才の女の子を演じることにしたんだ。まあ、あんまり事件性のありそうな言い訳って使えないから、単純に、ボルチモアの友達のところへ行きたいんだけれど、車もないし、あまりお金もないから、誰かが乗せて行ってくれないかなって思って、って言ったんだ。まあ、世間知らずな言い訳で、思いっきりお説教される羽目になったんだけどね。お金をケチらないで、メガバス使いなさい。最悪の場合は、ひどい目にあった挙句に、殺されて捨てられるわよ、って、すごい怖いこと言われた」
「まあ……でも、殺されないまでも、どう考えても危ないな。女の子の一人旅は」僕は肩をすくめた。
「言い訳には困るよね、本当に。僕は長距離バスに乗っていて、トイレ休憩中においていかれたって言ったんだよ」ロビンも少し笑いながら、言っている。
「それだとさ、どのバス?って突っ込まれると、やばいよね。運転手の怠慢だ、とか怒る人だったら」エアリィは少し心配そうにそんなコメントをし、
「うん。でも幸い、運転手さん、そこまで気にしなかったから」と、ロビンは微かに肩をすくめて、首を振っている。
「良かった。僕はそれ、突っ込まれそうだったから、使わなかったんだ」
「まあ、十七の男なら、置いていかれたって言っても、それほど気にしない人もいるだろうけれど。災難だったな、っていう程度で。でも、十四の女の子をハイウェイに置き去りにしたって言ったら、問題だからな」僕も指を振り、苦笑気味の笑いを浮かべた。
「だから、実際は違うんだけど。まあでも、それでなんとかペン駅まで来て、ファーストフード探して、最初は駅中のダンキンドーナッツへ行っちゃったんだ」
「え、そんなのあったか?」
「駅中にね。もうちょっと遠くにもあるけど。一番近いって言えば一番近いから、ちょっと中見てみたんだ」
「ああ、そうなのか。僕は駅の中までは行かなかったからなぁ。気がつかなかったよ」
「だいたいロブもさ、駅から一番近いってのは、ちょっとあいまいだよね。僕らボルチモアのペン駅周辺って、そんな詳しくないからさ」エアリィはちょっと肩をすくめ、首を振ってから、言葉を継いだ。「でもいなかったから、じゃ、外かなって思って、何も買わないのもなんだからベーグル一個買って、外に出たら、男の人に声かけられて。断ってもずっとついてきて、結構しつこくて、最後には腕握ってきたから、やばいな、どうしようかなって思ってたら、ちょうどロビンが店の外で、窓越しに様子を伺ってて」
「いるのかいないのかわからなかったし、一人でファーストフードって入ったことないから、ちょっと緊張しちゃって」ロビンは恥ずかしそうに、髪に手をやっていた。
「それにやっぱり僕、初めて知らない土地へ一人で来て、緊張してたんだ。それにね、なかなかボルチモアまで行く車が止まってくれなくて、一時間近く待ったんだよ。やっとトラックの人が、拾ってくれたんだ。君に会った時、僕は少し前に着いたばっかりだったんだ。でも本当にびっくりしたよ。急に知らない女の子が『あー、あたし、この人と待ち合わせしてるから。会えてよかったわ。行きましょう! あ、じゃあね、バイバイ!』とか言いながら、僕の腕を取ってずんずん歩き出したから。僕はもうパニック寸前だったよ。『えっ、えっ、えっ?? 何? 誰?』って感じで」
 想像するだけで笑えそうな図だ。僕は返事が出来ず、うつむいてこらえた。
「おかげでロビンにも叫ばれそうになって、焦ったよ。僕だって言ったら、また叫びそうになるしさ。まあでも、とりあえずそれで相手は諦めたみたいだし、助かったけど。で、なんとかここにたどり着いて、ジャスティン見つけてほっとしたんだ」エアリィも苦笑に近い笑いを浮かべていた。
「僕もびっくりしたけどな。どこの女の子に声をかけられたかと思ったから」
「だから、文句は三人に言って。ジャスティンは、いつからここに来てたの?」
「九時半くらいからかな。僕は四十才くらいの女の人に乗せてもらったんだ。ターナーさんっていうフリーのジャーナリストで、仕事でボルチモアに行くって言っていたよ。彼女、向こうで会ったシンプソンさんにちょっと雰囲気が似ていて、しかも同じファーストネームで、ちょっと不思議な気がしたけれどね」
「へえ、そう。あの人に似てたんだ。同じ名前で。偶然だなぁ」
「そうなんだ。あっ、それでさ、車に乗っている時、僕らの曲がかかったのを聞いたよ」
「えっ!」二人は驚きの表情を浮かべ、ついでロビンがきいてきた。
「どこの局? いつごろ?」と。
「局はわからないけど、八時五十分すぎかな。ただし、僕が聞けたのはイントロだけさ。彼女がチャンネルを変えちゃって。でも、あれがたぶん僕らの、アメリカでの初のオンエアだよ。良かったなあって思ってさ。こんな場面で聞くなんて、ちょっと不思議な気もしたけどね」
「でも早いよね。デビューして三日で、もうアメリカのFMでオンエアされているなら」ロビンが感激したように両手をあわせた。
「まあね。ほんとに初オンエアなのかどうかは、わかんないけど。それに、いつまでかけてくれるかな、って思うし。ヘヴィロテになるのって、売れ線ばっかだから」
 エアリィの感想は、たぶんに現実的だ。彼は少し首を傾げて、言葉を継ぐ。「けどさ、それはともかく……なんかデビューして三日って感覚、ピンと来ないなあ。僕らの感覚じゃ、十一月半ばだし。時間の後戻りって、すっごい変な感じ」
「それは言ってほしくないけれど、たしかにそうだな……」
 輪になった時間、その中にいる不思議さを改めて感じてしまう。この間の一ヵ月は、どこに属しているのだろう。小さな輪の出口に辿りつくまで、あと半月。どこにも存在しない幽霊のような一ヵ月の中に、僕たちは今いる。本当に存在しているのは、これから思いがけず初の全米ツアーに乗り出していくことになる、一ヵ月前の僕たちで、今の僕たちは存在しない影のようなものだ。これから半月、僕たちはカナダの新人バンドAirLaceではなく、正体不明のプータローだ。僕はジャスティン・ローリングスでなく、さっき名乗った出任せの名前、ジョン・ローレンスとして、この二週間だけ存在している。他のメンバーだって本名でなく、仮の名前で過ごすわけだ。僕たちは友達には違いないけれど、その関係はAirLaceというバンド仲間ではない。
 不思議な感じと同時に、空恐ろしさを感じた。まるで自分自身の存在を否定されたような気分だ。でも、それは本当かもしれない。僕たちはこれから二週間、自分自身を否認して、別の幻のような人間にならなくてはならない。今トロントに存在している本来の僕たちが、半月たって真夜中のハイウェイで消えるまで、決して自分自身にはなれない。恐い感覚だったし、憂欝でもあった。だからなのだろう、僕たち三人はあえてそのことには、何も触れなかった。
 
 僕たちの席は奥まっているし、パーティションの陰にもなっている。周りはかなりざわざわしているし、店のBGMもあいまって、小さな声で話している分には、人に聞かれる心配はないだろう。考えたくはないことだが、これだけは思わず口をついて出てきた。
「でも、サイレントハートの事故の真相が、こんなことだったなんて」と。
「うん。まさか、だったね。驚いたよ」エアリィも頷いていた。「先輩の事故で代役に決まったって聞いた時には、あー、彼らにはアンラッキーなことが、僕らにはラッキーって、喜んでいいのかな。でもまあ、ラッキーでいいかって、単純に思ってたんだ。けど、その事故の相手がもう一組の僕らだったなんて……なんていうか、もう、やばいね」
「うん、想像もしなかったね、そんなこと。それに……なんだか少し良心の呵責を感じてしまうね」ロビンはしゅんとした口調だった。
「けど、あれは完全に間の悪いハプニングとしか、言いようがないよね。事故ってまあ、どれも突然のハプニングだけど、あれはどっちの不注意でもない、起こるべくして起こったんだし」
 エアリィの口調は、何か自分に言い聞かせているように響いた。でも、僕も同感だ。
「ああ。僕もまさかこっちの出口近くにサイレントハートのツアーバスがいるなんて、思わなかったからなあ。あれは絶対、よけられないよ」
「うん。それはそうだね……」ロビンは頷き、しばらく黙った後、再び口を開いた。
「でも、あの奇跡の時間旅行で、僕らはずいぶん関係ない人たちも巻き添えにしたんだね。サイレントハートもそうだけれど、スィフターも……ロブとパストレル博士が言っていたよね。あの事故は、僕らのタイムホールのエコーにぶつかったせいかもしれないって」
「ああ……」
 そうだ。あれほど憧れたバンド、僕らに道を開いてくれた彼らのバンド生命を断ったのも、間接的には僕らなのだとしたら──。あの時あの場所に、彼らのバスが偶然来合せていたこと、それも不幸な偶然なのだろうか。スィフターもサイレントハートと同じように、翌日は移動日だった。でも次の公演地にドラマーであるハービィさんのお友達がいて、その人の家を訪ねるために、前日の夜出発となった。相手が兄弟か友達かが違うだけで、同じような状況だ。彼らの場合、終演が夜十一時くらいになるので、出発は深夜。そしてあの時間、あの場所を走っていた。もし出発が少しでも遅れるか早くなるか、もしくはどこかで休憩でもしていたら、あの光のエコーに遭遇することは、なかったかもしれないのに。サイレントハートの場合は、時の環を作るための不可欠な犠牲者だったのかもしれない。でもスィフターは、完全に不幸な巻き添えだ。その結果、取り返しのつかないことになってしまった――。
「あの事故じゃ、六人も死んじゃったんだっけ。ロブも含めて、二人しか生き残れなかったって……スィフターもあれで終わりになっちゃったし。ぶつかったタイミングが最悪すぎたのかな。ものすごく大きな事故になっちゃって……」エアリィも一瞬表情を曇らせたが、すぐ頭を振って続けている。「でもさ、これも……運が悪いんだなって思うしか、しかたないのかもしれない。起こってしまったことはもう取り返しがつかないし、死んだ人たちだって帰ってこない。僕らだって、ただあの光に巻きこまれただけだし。あまりに多くの人を巻き込みすぎてるって気は確かにするけど……でも僕らには、どうしようもないことなんじゃないのかな。悲しいことだけれど」
「そうだよなあ……」僕も同意するしかなかった。そう、僕らも彼らと同じ、ただ運命のいたずらに遭遇しただけなのだろうと。僕はため息をつき、頭を振った。
「でも結局、僕らのツアーも半端なまま終わっちゃったな。ニューヨークへは、結局行きそこなったし。機材がなくなっちゃったから、僕らだけ向こうに行っても、演奏はできないからね。MSGの舞台、ずっと憧れてたから、楽しみだったんだけどな。まあ、帰ってこられただけで、ありがたいんだけど、ちょっと惜しい気がするよ」
「ニューヨークかぁ……」エアリィはそう呟くと、微かに首を振った。「僕はいいや。行けなくたって、それほど惜しいとは思わない」
「なんでだよ?」
「子供のころに、いたことがあるんだ。まあ、別に街自体は嫌いじゃないけど」
 彼は一瞬遠くに視線を投げた後、肩をすくめて苦笑した。「それにさ、どうせならMSG、ヘッドライナーで目指さない? 夢を大きく持つなら」
「まあ、そうだな」僕も笑って肩をすくめる。>
「でも、ボストンは行きたかったな。まあ、そっちはまた機会があるけど」
 エアリィは少し残念そうな表情になった。そこには彼の継兄もいるし、前にいたプロヴィデンスにも近いからなのだろう。きっと旧友たちと会う予定だったに違いない。僕たちは一日余裕を持って、その次の日に帰ることになっていたのだ。帰りもあのワゴン車を交代で、トロントまで運転してくる予定ではあったけれど。

 時間はゆっくりと経っていった。そのうちにエアリィがしゃべらなくなったなと思ったら、いつのまにか寝てしまっている。しかも完全に熟睡体勢だ。テーブルに右腕を投げ出し、左腕を半ばで交差させて、そこに頭をのせている。曲げた左腕で顔はほぼ隠れ、両側にまとめた髪が、光がこぼれたようにテーブルの上に広がっている。
 おまえも、こんなところで爆睡してるじゃないか。しかも仮にも女の子? がそんな体勢で寝るな、と突っ込みたいところだが、彼の女の子姿があまりにもはまりすぎて、僕も見ているだけで奇妙な感じがしてしまうので、寝てくれた方が気分的には楽だ。真剣な話をしていても、どうも妙な変な違和感を覚えてしまって、会話が八十パーセントほどしか頭に入ってこなかったのだから。しかも奥まった席で、ある程度パーティションの影になっているにもかかわらず、『あの娘、すっごいかわいい』『とんでもない美少女だよな〜』というささやきとともに、通路を通る他の客の視線も、ちらちら感じていた有様だ。ここへ来る前にナンパ男に付きまとわれたと言うのも、無理はない。まるで輝く光のような存在感は、女の子の格好をしていても、まったく変わりはしない。いや、余計に目を引くだけだ。その姿勢で寝てくれたほうが、人目は引かないことは確実だ。ついでにきらきら光りすぎる髪を少し隠そうと、僕は結んだ髪をまとめてカーディガンの中に入れ、さらに自分がかぶっていた帽子を頭にかぶせた。そして、あえて起こさないでおいた。結局、全員合流するまで、エアリィはそのまま寝ていた。
 僕も再び眠さを感じ始めていたが、ロビンは眠くとも、こんなところで眠れる神経は持ち合わせていないだろう。彼一人だけ残して、僕まで眠るわけにはいかない。 僕たち二人はもう一杯眠気覚ましのコーヒーを買って、四人目のミックが来るまでの時間を待った。
 ミックは一時半過ぎに来たが、幸い迷わずに合流できたそうだ。その後、三時半前にロブが、最後に四時半を過ぎて、やっとジョージが来た。ジョージはやはり一度駅に行って、駅中の店を覗いてみたらしい。ともあれ、僕が最初にここに来てから八時間近くが過ぎたところで、再び全員がそろったわけだ。こんなに長い間、スターバックスで粘ったのは初めてだった。その間にコーヒー四杯と、スコーンとヨーグルト、ラップサンドを二つ買った。
 全員がそろったところで、僕らは外に出て、今度はダンキンドーナッツへ移動した。そこでロブが禁を犯してミックのパソコンでホテル情報を検索し、空き室のあるいくつかの小さなホテルに、現金払いで泊まれるか交渉に出かけた。そしてどうにか町外れの小さなホテルを見つけ、二部屋しか空きがなかったので三人ずつに分かれて、偽名で二泊した。僕たちは連泊時のルームメイク不要のオプションを選び、『Don’t Disturb』の札をドアに下げたまま、チェックアウトまで部屋にいた。
 もう一組の僕らがフィラデルフィアに着いた頃から、ロブは町へ出かけ、家具つきの短期滞在用アパートを見つけて、自分のクレジットカードを使って契約した。寝具をリースし、最小限必要な鍋や食器などを買い揃えたあと、十月いっぱい、そこでなりをひそめることになったのだった。




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