The Sacred Mother - Part1 The New World

第四章   晩秋の世界へ(1)




 白い照明に照らされて、中央庁舎前の広場に三台の車が止まっていた。二台はゴールドで、真中の一台は赤い。その周りを取り囲むように、タッカー大統領、アンダーソン市長、シンプソン女史、ゴールドマン博士、パストレル博士、ライト博士とスタンディッシュ博士、そしてアイザックとヘンリーがコートを手にして立っている。みな僕らの帰還を見届けるために、目的地点まで一緒に行くつもりなのだと、アイザックがあとで教えてくれた。さらに庁舎前の環状道路や、その後ろの公園まで広がって、大勢の人たちが僕らを取り巻いている。演奏会に来てくれた人たちが、僕らを見送るために、またここに来てくれたらしい。口々に何か言っているのが、さざ波のように聞こえてくる。
「元気でいてください……」
「がんばってくださいね……」
「すてきな音楽をありがとう……」
「あなたたちのことは忘れません……」
 胸にこみ上げるものを感じながら、僕は手を振った。他のみなも同じように手を振り、口々に叫ぶ。
「ありがとう! ありがとう、本当に! さようなら! みなさんもお元気で!」と。
 それは、コンサートで気持ちの通じあった観客たちと別れるのに似ている。でもこの人たちには、もう二度と会うことはないのだろう。ここにもう一度来ることは、決してありえないだろうから。
 夜の街に、すべての建物の明かりが輝いていた。町の人たちがライトアップしてくれたらしい。僕たちは促されて、赤い車に乗り込んだ。とりあえず町の出口までは、アイザックが運転してくれることになっているので、ロブはいったん別の車に乗った。この車はエアリィが最初に見たとおり、三人がけシート二列の六人乗りだったので(そしてたしかに運転席は前席の真ん中だ)、アイザックに運転してもらうと、僕ら全員は乗れないからだ。
 エアロカーは夜の町を走りぬけ、あっという間にドームの出口についた。ちょうど十六日前に歩いてたどりついた、あの場所だ。

 街の外へ出たところで僕たちは車をおり、一緒に来てくれた主立った人たちも、着なれないだろうコートを羽織って、一緒に降りてきた。
「外は寒いな……」アンダーソン市長は微かに身を震わせて呟くと、腕にはめた時計を見やった。この時代でも、腕時計はあるようだ。機能は時計だけではないようだけれど。
「今、二〇時四〇分だ。あと少しで、お別れだね。これから君たちの車は、自動運転に切りかわる。君たちがここへ初めて来た地点から、三度北北東へ三・七キロ。あの手紙に書いてあった場所に誘導マーカーを置いておいたから、車はそこへ間違いなく進むはずだ。今、私たちの車の運転手が、運転設定をしている。ちょうど二二時に着くようにね」
 市長は僕を振り返った。「君が運転手役か。まあ、エアロカーの操作は初めてだろうが、非常に簡単だよ。設定さえきちんとできていれば、あとは子供でもできる。君がしなければならないことは、運転パネルの右側についている、その赤いスタートボタンを押すだけだ。あとはただ乗っかっていれば、車がそこまで連れていってくれるよ。ただし、目的地点は若干ぶれる可能性もあるということなので、念のために一分前のアラームが鳴ったらオートを解除して、マニュアル運転に切り替えてくれ。スタートボタンの横にあるこの青いボタンを押せば、切り替えられるからね。スピードはそのまま維持されるから、加速する場合はこのレバーを上に、減速する時は下にスライドさせるんだ。方向はこのハンドルで変えられる。これには君たちの時代のような車輪はないが、空気を噴射して方向を変えるんだ。でも、ハンドル操作そのものは同じだ。曲げた方向に、車も曲がる。大丈夫だね?」
「はい。なんとかやってみます」この期に及んで運転手の大役なんてやりたくなかったけれど、前に僕が運転しているのを見ているのだから、やるしかない。>
「設定が完了しました。これから七五分で目的地に着く予定です」運転席に屈み込んでいた若者が、頭を上げて告げた。
「よし、あと三分で出発だ。少々名残惜しいが、あまり長話をしている時間はない。元気でな!」市長は勢い良く手を差し出した。僕たちは彼と握手し、見送りに来てくれた他の人々とも、別れの挨拶をかわした。
「君たちの幸運を祈るよ」タッカー大統領は痛いくらい手を握ってきた。
「しっかりやりたまえ。君たちのことは忘れないよ」ゴールドマン博士は微笑を浮かべながら、真剣な口調で言った。
「気楽にいきなさい」パストレル博士は、にやっと笑って僕らの肩をポンと叩き、
「あなたたちと会えて、楽しかったわ」と、シンプソン女史は微笑んでいる。
「本当に、すてきな音楽をありがとうございました!」アイザックとヘンリーは熱のこもった口調で、声を揃えていた。「あなたたちの演奏会、放送局で録画して、プログラムに流す予定だそうです。見に来られなかった人たちや、他の都市の人にも、みんなに知ってもらいたいと思っていたから、本当にうれしいです。僕たちはこれから、あなたたちに教えていただいたことを、みんなに伝えて、新しい音楽をここに広めていきたいと思っています。本当に、貴重な体験でした。みなさん、気をつけて帰ってくださいね。みなさんの世界での成功を、祈っています」
「ありがとう。あなたたちもがんばってね」
「僕たちも応援してるよ。過去から」
「そうだな。結果が見られないのが残念だが、応援してるぜ」
「平坦な道ではないと思うけれど、熱意を失わないで、がんばってくれることを祈るよ」
 僕たちは交代で彼らと握手を交わし、口々に言葉をかけた。ロビンだけは無言だが、少し恥ずかしそうな笑顔を浮かべ、握手をしていた。そう、僕らみんなの思いは同じだろう。新世界にロックが、少なくとも人間の手と感情からなる音楽が、これから新たに生命を持ちえ、永らえていくのかもしれないと思うと、震えが来るほどうれしくなる。僕たちの音楽を受け継いでくれる教え子たちが、僕たちの世界のスピリットを、この新たな世界に継承していってくれる。ジョージが言うように、その結果をこの目で見られないのは残念だけれど、新世界のロックパイロットたち、僕らはずっと応援している。

 スタートボタンを押すと、車は音もなく空中に浮きあがり、夜の空間を切るように走り出した。振り返ると、後ろに見えていた町の灯りが、あっと言う間に小さくなって消えていく。見えるのは、頭の上に広がる星空。真ん中を天の川が横切っている。中天にかかった金色の月が、僕らの動きに合わせてゆっくりとついてくる。振り返れば、少し距離を置いて後ろから来ている、二台の車のライトが見える。そのほかは見渡すかぎり、漆黒の空間が広がっていた。聞こえてくるのは車の外側を拭き抜けていく風の、ひゅっひゅっというかすかなうなりだけ。運転盤のデジタル時計の表示が、少しずつ変わっていく。二〇時五二分、五三分、五四分、五五分――。
 不意に強い心細さに襲われた。僕たちは、どこに向かって飛んでいるのだろう。本当に帰れるのだろうか。本当に帰れたとしても、僕たちはどこへ――いや、いつへ帰れるのだろうか? 帰った後、待っているものはなんなのだろう。
 誰も口をきかず、ただ外の暗いからっぽな空間を見つめている。時計だけが、ゆっくりと時を刻んでいく。二一時になり、二一時一〇分、二〇分、三〇分――。
 ここへ来た時、あの古いワゴン車で草原を五時間走った、直線距離の分短くなったその道のりを、一時間あまりで帰っていくことになる。相当スピードは出ているのだろう。外は闇。そして星空。時計は時を刻み続ける。二一時五〇分、五五分、五六分、五七分、五八分――。
 やがて前方に、ぽつんと小さな赤い点が見えてきた。あれがこっち側のタイムトンネルの入り口、科学者たちが草原についたタイヤ跡と手紙の記述を元に割り出した目標に置いてきたという、誘導マーカーの光なのだろう。この赤い光が目に入った時、みなの口から、いっせいに小さなため息が漏れるのが聞こえた。僕も大きく息をついた。
 時計の表示が変わり、二一時五九分になった。同時に、小さなアラームが鳴る。一分前だ。僕は再び大きく息をつき、手を伸ばした。かすかに手が震えるのを感じながら、教えられたとおり、右から二番目の青いボタンを押した。表示が【AUTO】から【MANUAL】に変わる。
 僕はハンドルを右手で押さえたまま、スピードレバーに左手をかけた。高鳴っている心臓の鼓動が耳に聞こえてくる。大きく息を吸い込んだ。手がじっとりと汗ばんでいる。失敗するか成功するか――どっちにしても、もうここへ来ることは二度とないのだろう。僕らが帰れなければ、この世界は消えてしまうのだから。頭の中を、ここでの二週間がよぎっていく。あの運命の衝撃がなかったら、決して見ることもなかった、彼方の未来世界。決して知ることのなかった、僕らの世界の運命。でも、それを回避するすべはない。
「グッバイ、新世界」僕は小さく呟いた。この世界は続いていくのだろう。何千年と続いて、繁栄していくのだろう。僕たちの世界はまもなく終末を迎えようとしているけれど、人間はここで生きていく。これからもずっと――。
 行く手に、すうっと青白い光が降りてきた。二週間前に見た光景、あの時と同じ光のカーテンが目の前にある。僕は軽くハンドルを右に切って、スピードレバーを上にスライドさせた。光が目の前に、大きく迫ってくる。すうっと引き込まれる力を感じる。不思議な光は、僕たちを迎えるように両手を広げて、包み込んでくるようだ。大きな衝撃。

 再び虚空の中を、僕たちは走っていた。まるで木の葉のように舞っている、見慣れたおんぼろワゴン車が目に入ってくる。もう一人の僕が、驚いたような表情で、目を見開くのを見た。それは、とても奇妙な瞬間だ。過去の自分自身と、まともに向きあってしまったのだから。でも、その感情を分析している暇はなかった。
 新たにやってきた衝撃。一瞬意識が途切れ、やがて再びつながった。実態のある闇──同時に、軽くぶつかったような衝撃を感じた。灰色の何かに。

 規則正しいロードランプの光が、目に飛び込んできた。その光の間を、車は飛んでいく。振り向くと、さっきぶつかった物体が道路に点のように見え、流れ去るようにすぐに視界から消えていった。はっと気が付き、スピードレバーを思いきり下げて、車をロードサイドに止めた。ドアを開けると、全員がはじかれたように、次々と道路に降りていく。足元にはコンクリート。見慣れたロードランプの光が、僕たちを導く燈のように前後にのびている。ふっと光が行きすぎていった。対向車線を猛スピードで走っていったトラックだ。ロードサイドのポストに、【インターステート95】の文字が見える。
 帰ってきたんだ! 思わず全員で声をあげ、その場で飛び上がった。次の瞬間、僕は(たぶん他のみなも)現実問題に立ちかえった。この車を早く始末しなくては。幸い夜で視界はきかないので、対向車線からはちょっと大きめのスポーツカーに見えるとは思うが、もしこっちの車線に車が来たら、この車の形がひどく変わっていることに気がつくかもしれない。
 他に車が来ないのを確かめてから、エアロカーのシートに分解装置を仕かけ、付属の黒いカヴァーで車をすっぽり覆うと、反対側のロードサイドに避難した。この分解装置は、物質を原子に戻してしまうらしい。未来世界で大型部品のリサイクル工場で使われている装置の、車用のものだという。
 ロブがリモコンのスイッチを押すと、すぐに軽くポンと音がして、白煙が上がった。その、靄のような煙は瞬く間に広がり、黒いカヴァーを通しても、車を包み込んでいくのがわかる。やがてその中心から、目も眩むような光が飛び出してきた。道路の逆サイドにいる僕たちのところまで、熱気が伝わってくる。数秒後に煙と光が消えた時、赤い車はカヴァーもろとも、跡形もなく消えていた。その場所には、さらさらした金属や炭素の粉が積もっている。その半分くらいは、吹いてきた風に飛ばされ、きらきらと光りながら消えていった。車が止まっていた場所の道路には、浅い陥没と凸凹ができていて、その上に分解された原子の粉が溜まっている。少し不思議な光景だった。

 感慨に耽っているまもなく、僕たちはロードサイドを歩き始めた。
「でも、夜に帰ってこられて、よかったな」思わず、そう言葉が出た。
「言える。真っ昼間だったら、やばかった。あの車、絶対誰かに見られてただろうし、こっそり処分も大変だったろうからね」エアリィが同意した後、首を傾げながら続けた。
「けど、時間はよかったけど、帰り方としちゃ、ちょっと間が悪かったなぁ。出たとこに車がいるなんて思わなかった。あのバス、大丈夫だったかな?」
「えっ? やっぱり、あれって、事故だったのか?」僕は問い返した。
「じゃないの? あれ、バスだったよ。銀色の……そんなに大きくはないけど……中型くらいかな。ちょっとかすった程度だと思うけど、向こうはひっくり返ってた。ほら、あのエアロカーって、原理的にはジェット噴射みたいなもんだから、真後ろに来ると、結構風圧来るんじゃないのかな。普通の車だったら、すっ飛んでたかも」
「本当におまえ、動体視力もものすごいな、エアリィ。僕はそこまでわからなかったぞ。なんだか灰色の何かと接触したような気がする、っていうくらいだ」
「本当か? おまえたち」ロブが気遣わしげに聞いてきた。「僕は、よくわからなかったんだ。あの中で僕らの車とすれ違ったのは、なんとか確認できたが、そこから先は衝撃ががーんと来て、一瞬意識が切れたんだ」
「僕も、よく覚えていないんだ。たしかに言われてみれば、時間を飛ぶ衝撃以外に、小さな振動が来たような気がするけれど、僕は衝撃のエコーかもしれないと思って、気にしなかったんだ。でもエアリィとジャスティンが見たと言うなら、本当に僕たち、当て逃げをしてしまったのかもしれないね」ミックが困惑したように頭をかき、僕らを見た。
「どうする? 名乗り出るのは問題外だけれど……」
「様子だけ見に行こうよ」エアリィは髪を振りやり、両手を広げた。「ここからだったら、そんな遠くないだろうから。あまり近づかなきゃ、暗いから向こうもわかんないだろうし。たぶん、そんな大事故にはなってないと思うけど……ああ、でも、もしすっごくひどいケガ人とかいても、僕らはレスキューに出られないよね……」
「うん、それはちょっともどかしいけどな。でも、どういう状況なのかは知りたいと思うよ、僕も。知らん顔をするのは、なんだか気がひけるんだ」僕も小さく頷いた。
「そうだな。本当に事故になったのかどうかだけでも、知っておいたほうがいいだろう」ロブとジョージは思案顔だったが、反対はしなかった。

 僕たちは、もと来た方へ歩き出した。二十分ほど歩くと、非常を知らせる発煙筒の煙が見えてきた。対向車線、一番右側のレーンに横倒しになったバスがあり、何人かの人影が遠巻きに佇んでいる。
 急いで暗がりに身を隠し、ちょうどロードライトの下に立っている九人ほどの人を、目をこらして見た。あの人たちが、バスに乗っていたのだろうか。他に車はないところを見ると、そうらしい。何人かは座り込んでいて、立っている人の一人は手で腕を押さえている。でも見たところ、道路に横たわっている人はいないし、ひどく血を流している人もいなさそうだ。安堵のため息が漏れかけた瞬間、ロブがはっと息を飲むのが聞こえた。
「あれは……あれは、トニー・ヒルズとマイケル・バーナードだ。ああ、他の連中もいる。なんてことだ! あれは……サイレントハートのツアーバスじゃないか!」
「ええ!」思わず声を上げ、慌てて口を押えた。聞こえたらまずい。サイレントハートは、僕たちが代役に立ったメジャーバンドの全米ツアーで、本来のオープニングアクトだった、同じマネージメント事務所の先輩だ。彼らのツアーバスが夜ハイウェイを移動中に事故に遭い、メンバーの何人かが軽傷を負ったから、僕らが代役に立って、ツアーをしていたのだから。
「そうか……そういうことだったのか」ロブがうめくように言った。「思い出したよ。あのサイレントハートの事故は、多少ミステリーじみていたと、社長が後で言っていた。十日ほどたったころに、電話で聞いたんだ。運転手はインターステートを逆走してきた赤い車に接触した、と言った。でも現場に相手の車のタイヤ跡は、まったくなかったらしい。突然何もないところから出現したように、異常なスピードで、ライトが異様に眩しく、まるで突風にあったような、ものすごい風圧にあおられたとも言っていたそうだ。突風は、本当に吹いたのかもしれない。運転手が寝不足で疲れ、操作を誤ってその風にタイヤを取られ、自損事故を起こしたのかも――警察は、そう言っていたらしい。だが、運転手は赤い車だとあくまで主張し、実際バスのボディから相手の車の塗料も、ごく少量だが検出されたそうだ。しかし、現存するどんな車も、そんな塗料は使っていない。未知の成分を含む、非常に特殊な塗料だったと。そうだ、社長がそう言っていた。スィフターほど大変な事故にならなかっただけ良かったが、うちは呪われているな。不可解な事故が多すぎると」
「ああ、そういうことだったのか……」
 一般的に見ればミステリーでも、僕らにとって、状況ははっきりしている。僕らがこっちの世界に帰ってインターステート線に入ったと同時に、彼らのバスに接触してしまったのだと、事実は語っていた。サイレントハートはメンバー五人とスタッフ四人が中型バスで移動し、クルー四人が機材を積んだ大型バンで移動していた。その日、前公演地ローリーでの出番が終わった後、食事をとって十時ごろ出発した。翌日は移動日だったから、一晩モーテルに泊まって翌日ゆっくり移動すればよかったのだろうけれど、メンバーの兄弟がフィラデルフィアに住んでいて、その人を訪ねる約束をしていたから、翌日の朝には現地に着いていたかったのだという。そのため、ローリーからすぐに移動となったらしい。そのまままっすぐに来ていれば、四時ごろフィラデルフィアに着けたはずだが、途中のパーキングエリアで二時間ほど停まった。運転手が昼間よく眠れなかったらしく、少し仮眠するためらしい。メンバーも明け方前に到着よりはよく眠れるからと、それに賛成したという。それであの時間に、あの道を走っていたのだ。順調にいけば、あと一時間ほどで――六時ごろには、フィラデルフィアに着いていただろう。僕らが代役に決まってから、フィラデルフィアに行くまでの道中で、ロブがそう説明していた。僕らは無事だった彼らのバンとクルーを借りて、次のフィラデルフィアから、彼らの後任としてツアーをしていたわけだが――。
「ともかく見つからないうちに、ここから逃げるんだ」ロブが低い声で急き立てた。「もうすぐ事故処理車が来るぞ。僕は彼らと顔見知りだ。こんなところで姿を見られるわけにはいかない。早く行こう!」
 僕たちはこっそりと素早くその場を立ち去り、もと来たほうへ歩き出した。途中でサイレンを鳴らして走りすぎていった事故処理車とすれ違ったけれど、幸い向こうの車線だったし、暗いので気付かれなかったようだ。
 僕たちは何かに追われるように、ロードサイドを早足で歩いた。通りがかりの車に怪しまれはしないかと、それだけが心配だったけれど、車が故障したりガス欠だったりで、ドライバーが歩いている場合もあるし、交通量もかなり少なかったので、途中誰からも声をかけられず、不審にも思われずに歩き通すことができたようだ。
 幸い一時間も歩かないうちに、インターチェンジの出口があった。僕たちはそこからハイウェイを降り、近くにあった二四時間営業のファミリーレストランに入った。ロブがウェイターに少し多めのチップをつかませて案内してもらった、隅っこの目立たない席に座ると、飲み物とポテトフライ、ピザを頼んだ。レストランのトイレのゴミ箱に、ロブは分解装置のリモコンを捨てた。リモコンだけでは何の変哲もない、ただの小さな銀の箱に赤いボタンがついたもので、もう本体がないので、押しても何も起こりはしない。店の人も、壊れたブザーか何かを捨てたとしか思わないだろう。窓の外が、うっすらと明るくなり始めていた。店の時計を見たら、六時少し前だった。

「さてと……」ロブが運ばれてきたコーヒーを一口飲んで下に置き、ため息をついた。
「あの現場に出っくわしたからには、今日の日付は想像がつくな。たぶん十月十五日だ」
「あの事故の日だね。そうだ、その日の午後に、僕たちはサイレントハートの代役としてアメリカに向かったんだ」ミックが頷いた。
「ってことは、おい、これから二週間以上も俺たち息をひそめてなきゃならないのか?」ジョージは両手を上げた。
「半年前、なんてことになんなかっただけ、ましだよ。でもさ、考えてみたら、両方十六日間だね。向こうとこっちで」エアリィは小さく肩をすくめている。
「そうだな。確かに帳尻は合ってる……」僕は言いかけたが、彼は首を振った。
「いや、合ってないよ。時のトンネルの長さが同じだったら、向こうで十六日ずれた分だけ、こっちも同じ方向でずれてなきゃならないから、出た時点も未来になるはずなんだ。でもこれだと、向こうからこっちへの時間の距離は三二日分長い。中で交差してねじれたのかな」
「まあ、その辺の理屈は良くわからないが……」ロブは首をひねっていた。「だが、未来よりは過去のほうが問題は少ない分、良かったとは思う」
「未来へ飛んでいたら、失踪事件だからね。新人バンドがいきなり行方不明になって、ステージに穴をあけたなんてことになったら、社長さんも怒っただろうね」ミックが苦笑をうかべながら、肩をすくめる。
「でも、考えてみれば、ずいぶん奇妙な話だね。この時、もう一人の僕たちがトロントにいるって思ったら……まだ何も知らないで。ロブが電話をかけてきたのは、午後のことだったから」僕はコーラを下において、首を振った。
「あの時は本当に、バタバタだったんだ、うちの事務所は」ロブは思い出しているように、苦笑いを浮かべていた。「五時半前にサイレントハートのマネージャーから社長の携帯に電話が入って、社長とスタッフ数人が、早朝からオフィスに行っていた。六時半過ぎに向こうのプロモーターから連絡が入り、ヘッドライナーのメンバーはまだ寝ているから、起きたら改めて連絡を入れるが、一応それまでに、必要になるかもしれないから、代役を選定しておいてくれと。それで社長が僕にも連絡し、僕もオフィスに行った」
「ああ、じゃあ、今の時間って、マネージメントに連絡が入ってバタバタしてた頃なんだ」エアリィは小さく笑った。「あの時はホント、三時十二分前にいきなり電話かかってきて、夜にはアメリカ行くっていうから、『ええっ!』って感じだったなぁ。四時からエステルが遊びに来たけど、まあ六時半には帰るからいいか、僕は機材ってないし、普通に荷造りすれば良いだけだからって、そのままにしたんだ。これから三週間帰ってこないよって言ったら、じゃ、帰ってきたら遊園地につれてって約束させられたけど」
「僕は三日後に、ステラと会う約束だったんだ。でも僕からは連絡しようがなくて、一瞬焦ったな。彼女が前の日に連絡するって言っていたから、それを待つしかなかったんだけれど。実際ハーシーで連絡がついたから、良かったけれどね」
「僕は夕方から、彼女と美術展を見に行く約束だったんだ」ミックも苦笑していた。
「本当にな、俺たちもバタバタだったよな。でも、その当日に戻ってきたのかよ。とんでもなく妙な気分だな」ジョージが首を振り、言葉を継いだ。「不思議なもんだな。今トロントには、もう一人の俺がいるんだ。今トロントへ帰って、昔の俺に会って言ったら、どうなるんだろうな。『おい、これからアメリカツアーが始まるぞ。で、とんでもないことに巻き込まれるんだ』ってさ」
「だめだよ、兄さん。そんなことをしたら、シークエンスが破綻するよ! 二人の自分が現実の同じ時間に対面するのは、重大なタブーなんだよ」ロビンが慌てたように、声を上げている。
「冗談だよ。まったく。相変わらず、冗談の通じない奴だなあ、ロビン。そんなことは、できっこないだろ」ジョージは苦笑いを浮かべていた。
 それから僕らはポテトフライとピザをつまみながら、できるだけたわいのない話を続けた。七時になって、ロブがいったん店を出て、新聞スタンドで朝刊を買って戻ってきた。ちゃんと二〇一〇年の十月十五日になっている。事実に間違いはない。

「さて、これからどこへ行く?」
 ロブがそう口火を切り、僕たちは当惑気味の表情で、お互いに顔を見合わせた。うっかり知り合いに見られたりすると変に思われるし、もう一人の僕らがアメリカにいる状態で、国境を超えるわけにはいかない。トロントへ帰るのは、まったく問題外だ。僕たちが公演をする予定地へも、へたには行けない。万が一、鉢合わせでもしたら困る。
「ここの近辺にもモーテルはあるけれど、二週間滞在するとなると、ちょっと目立つかもしれないね」ミックは頭を振って、考えこんでいるようだった。
「そうだな。こういうところのモーテルは、休憩や短期滞在ばかりだから、そんなに長く滞在して、万が一従業員に変に思われたら、まずいだろう」ロブも思案するように、首をひねっている。
「まあ、中には長いことモーテルに泊まってる人もいるらしいけどね。でも普通モーテルにしてもホテルにしても、カードがいるんじゃない? 現金で前払いOKなとこもあるだろうけど、それで二週間は難しいかも」エアリィも考えるように、首を傾げていた。
「そうだな。それに、手持ちの現金が……僕は、支払いは会社のカードを使っているから、現金は……」ロブは財布を取り出し、中身を確かめた。「六百ドルくらいしかないな」
「わ、けっこう持ってるんだね。僕は一七二ドル。セントは省略」
 エアリィは、財布を見ることはしなかった。彼はお金の出入りと計算を、頭の中でほぼ自動的にやって記憶しているから、確認の必要はないのだろう。
「僕は……二百五十ドル弱だな。今回のギャラも、口座振り込みだし」
 僕は財布を取り出し、中を改めてみた。だいたいどのくらいという見当はついていても、さすがに確認しないとわからない。
「僕は、五百ドルくらい……ちょっと足りないかな」ロビンも同じようにしながら言う。さすがにリッチだ、というほどのものでもないが。
 ミックとジョージも含めて、今僕ら六人が持っている現金は、合わせて二千百ドルくらいだった。いくらなんでも一つの部屋に六人で雑魚寝はしたくないし、最低二部屋、出来たら三部屋確保したい。食費なども考えると、その金額内で二週間ホテル暮らしをするのは、少しきつい。
「仕方がない」ロブがしばらく考えているように黙った後、決然とした調子で言った。「僕のクレジットカードを使おう。このツアーで使っているマネージメントのカードではなく、僕個人の名義のものを。幸い、今それを持っている」
「ええ? 大丈夫かい?」僕は思わず声を上げた。
「クレジットカードは持ち主が訴えない限り、不正使用かどうかは調べられない。それにこれは不正使用じゃない」
「まあ……本人のだしな」ジョージが苦笑する。
「でも痕跡を残してしまうと、タイムコンフリクトは、しないだろうか……」ミックは考え込んでいるようだ。
「うーん。調べられるような羽目にならなければ、大丈夫だと思うけど。あと、ロブの奥さんに明細見られて、これ何に使ったの? とかきかれなければ」エアリィはちょっと笑いながら言い、
「そうかもね……」ロビンも考えるように黙った後、頷く。
「そうだね……たしかに。それに不在証明という言葉があるように、もう一組の僕らがこれからツアーに出る以上、僕らにはアリバイがあるということになるね。今の僕たちがおおっぴらに表に出たら、それはコンフリクトになるだろうけれど」ミックは考え込んでいるような口調ながら、同意していた。
「そうだ。だから、おまえたちは表に出てはいけない。偽名を使い、IDを求められるような場面にあってはならない。でも僕なら、何とかなるかもしれない。ただ、来月のカード明細をその辺に放りっぱなしにして、レオナに見られないように気をつける必要はありそうだが、基本僕たちは自分のカードの明細管理は自分でやっているから、大丈夫だろう」
「でもロブでも、今日ID提示求められたら、明日が入国日付のパスポート、やばくない? 国境通った時、ギリ十二時越えてたから。免許証だけで済むならいいけど」エアリィがそう指摘し、
「ああ、そうだな……たしかに」ロブは改めて自分のパスポートを開いて、苦笑していた。「今日はどこか飛び込みで、クレジットカードでなく、現金で泊まるしかないな。全員偽名で。一泊くらいなら大丈夫だろう。ただ、こういうところのモーテルはそれほど数がないから、選択肢がたくさんある大都会の方が、都合がいいな」
「ここから近い大きな都会っていうと、どこだろう。僕たちはあの十五、六分くらい前に、フィラデルフィアまであと六十マイル、という看板を見ていたから……光を見たのは、ほぼ中間点、少しフィラデルフィア寄り、くらいの場所だと思う」
 僕はさっき降りたインターチェンジ名を、もう一度思い起こした。
「そこのインターは……通った覚えがある。あと六十マイルサインを見て、すぐに」
「そうだね……」ロビンも少し考えるように間をおいた後、頷く。
「話している間に、通り過ぎて行ったのを覚えているよ。エアリィが叫んで、みんなが起きる直前くらいに……」
「あのへんなんだ。じゃ、僕は覚えてないや」エアリィは笑って肩をすくめている。
「あれから十分くらいで、僕らは光に巻き込まれたわけだから……その分、僕らは戻っているのか」僕は首をかしげ、考えようとした。
「地図を確かめてみよう」ミックが携帯電話を取り出した。彼はGPS機能つきの、最新型スマートフォンを持っている。携帯電話は未来世界では役立たずで、充電も切れていたが、ここに帰る前にコンバータを使って再充電していたのだ。
 ミックは画面を見、頷いた。「そうだね、今僕たちはボルチモア、フィラデルフィアの中間点あたりにいるようだ。九五号線沿いの……今いるのは、デラウェア州ニューアークあたりだね」
「じゃ、ちょっと戻った感じなんだね。そうなると、ここからボルチモアへ戻るのかな」
 エアリィがミックのスマホ画面を覗き込みながら言い、ミックは再び頷いていた。
「そうだね。ボルチモアへ行くのがいいだろうね。フィラデルフィアは僕らが――もう一人の僕らがだけれど、明日のお昼ごろには行ってしまうから論外だ。でもボルチモアには行っていない。僕らがツアーに同行したのは、フィラデルフィア、ハーシー、ピッツバーグ、コロンバス、シンシナティ、レキシントン、ノックスビル、ナッシュビル、アトランタ。だから、大丈夫。二週間以上先に、この九五号線を通過するだけだ。ボルチモアには僕らの知り合いもいない……だろう?」
 僕らはみな首を振った。
「それなら、大丈夫だ。まだ僕らも今の時点ではデビューしたばかりだから、ほとんど露出されていないし、万一僕らのことを知っている人がいたとしても、まさか本人だとは思わないはずだ」
「ボルチモアに潜伏するのは俺も賛成だが、問題はどうやってそこに行くかだな。レンタカーを借りるっていう手もあるが……」ジョージは腕組みをしながら、宙をにらみ、
「そうだな。でもレンタカーを借りるとなると、偽名は通じない。免許証がいるからな。僕はまだ、今日は本名を出せない。そうなると、どうやって行くかだが……」
 ロブは首を振って、考え込むように黙った。
「じゃ、ヒッチで行くとか?」と、エアリィがそんな提案をし、
「それは目立つぞ」ジョージと僕は同時に危ぶんだ。
「いや……案外、良い手かもしれないな」ロブが少し間をおいて、考えているように目線を動かした後、頷いた。「ただし、行くとしたら一人ずつだ。おまえたちはまだデビュー三日目で、アメリカでの露出はほとんどないはずだから、一人ずつなら、相手に気づかれずに行けるだろう。あとでおまえたちが世に知られることになっても、忘れている公算も高い。まあ、エアリィと……それからジャスティンあたりは、相手の記憶に残っている可能性もあるが……まあ、できるだけ年配の人の車に乗ったほうが良いな」
「わかった。それじゃ、そうしようか」と、ミックが頷き
「ここから順番に出てくわけ?」エアリィはそう聞いている。
「いや……どうだろうな。ここは、長居はきくと言っても、今から順番に出て行くのを待っていたら、五、六時間かかる。店員の目もあるから、一度は場所を変わろう。まだ二時間くらいは大丈夫だろうが」ロブは首を振った。
 僕たちは出ていく順番を決めるために、くじ引きをした。ロブが日付確認のために買ってきた新聞紙の余白を細く引き裂いて、先端に番号をふる。僕が番号をふったので、みんながとったあとの最後をとることになる。手に残った一本を見て、少しぎょっとした。よりにもよって一番だ。
「じゃあ、一番手のジャスティンがボルチモアに着いたら、どこか落ち合い場所を決めて、みんなの携帯電話にメールを送ってくれ」と、ロブが言いかけると、
「携帯はまずいんじゃない? もう一組の僕らが持ってる携帯にも、同じメッセージが飛んじゃうから」エアリィが首を振って、さえぎった。
「ああ、そうだ。たしかに。携帯は使えないな。もう一組の自分たちがいる間は、電源を切っておかないと」ロブは苦笑し、ポケットから携帯電話を取り出して、電源を切った。僕らもみな、同じことをした。これから十六日間、また携帯電話は役立たずか。
「でもそうなると、どうやって連絡を取るんだ?」ジョージが問いかける。
「仕方がない。ボルチモアの鉄道駅……メトロの駅でなく、ペンステーションを目的地にして、そこから一番近いファーストフード店を、合流場所に決めよう。ああいうところは、常に多くの人の出入りがあって、長居もできる。店員もファミレスほど店内を巡回しない。かえってそういう場所のほうが、人の印象には残らないはずだ。席は多少離れてもいい」
 ロブが自分の紙片を見つつ、そう言った。彼の番は五番だから、かなり来るのは後だ。
 二番はロビンが当たっていた。でもかなり不安そうな顔をしていたし、彼の性格を考えると、一人でヒッチハイクというのは難しいかもしれない。僕は一緒に来るかと提案した。ロビンは一瞬安堵したような表情になった。が、ジョージが首を振って遮った。
「ダメだダメだ、ジャスティン。これ以上ロビンを甘やかすな。第一、おまえら二人がくっついていたら、ばれる危険が高くなるだろう。何のために、一人ずつ行くと思っているんだ」
「そうだったね」僕は頭をかいた。
 ロビンもがっかりしたような顔になったが、ため息をついて頷いている。「そうだね。うん……やってみる。もしこれが一人でできたら、少し自分に自信がつくかもしれないし」
「そうだ、トライすることが大事だぞ、何事もな! がんばれ」
 ジョージが弟の背中を叩いて笑い、ロビンは少し不安そうな笑みを浮かべていた。
「ヒッチ場所はインターのとこ? 南行きの」エアリィがそう聞き、
「まあ、そうだな。ボルチモアへ向かう車を拾うなら、そこが最適だ」ロブが頷く。
「無事車が拾えたら携帯で連絡できれば良いんだが、それが出来ないとなると、もし前の奴がまだ待っていたら、引き返さないといけなくなるな」ジョージが苦笑する。
「それは仕方がないね。近くで時間を潰して、待つしかないよ」ミックが肩をすくめた。
「よし、じゃあ間隔はとりあえず、一時間ずつあけていこう。全員がそろうまでに五、六時間はかかるだろうが、まあ仕方がないな。時間はたっぷりあるんだ。焦ることはない。今、八時前か。じゃあ、ジャスティン……おまえも……そうだな、髪を束ねて、帽子をかぶれ。準備は出来たか? それじゃ、先陣を切って行ってこい! 」
 ロブの声に送られて、僕は荷物の入ったバッグを取り上げ、出発した。できるだけきつく後ろで髪を一つに束ね、ジョージに借りたF1チームの帽子を目深にぐっとかぶりながら。そして十分ほど歩いて、インターチェンジの入り口から歩いて入り、南行きのロードサイドに立った。




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